2015/8/26

短期的ビジョンと長期的ビジョンの間にて  
驚くべきニュースが舞い込んできた。拙ブログの更新時間は午前中である。もう何年もそうしてきた。ゆえにまったく気が付かなかったのだが、週明けのトップニュースは世界同時株安だった。それを月曜日の夜のニュースで知った。

この日の更新では七月二十八日の総幹部会における会長講演を取り上げた。特に経済事案を中心に取り上げたわけだが、わたくしはその深刻さに気付いていなかった。ゆえにこのニュースを目の当たりにして驚愕した。

世界同時株安・・・

しかもそれが中国発というのだから驚きである。現時点でどれだけ定着しているかは微妙だが、これを中国ショックだとかチャイナショックと呼んでいる専門家もいるごとくである。

大袈裟に言えば浅井先生の予言は当たったことになる。

それはさておき、種々のコメントにも驚かされた。中でも、はんね氏とからす氏のそれが興味深かった。たとえば次の一節がそうだ。

新聞1352号は、次男が第一面に!

もちろん、わたくしもその新聞を持っているので、そのことはすでに知っている。後々、取り上げるつもりではいた。けれども悠長に構えていた。あまり深い感慨はなかったのである。しかし、こうして上掲を眺めていると、なるほどけっこうな重大ニュースに思えてきた。なぜならば、一面を飾るのは浅井先生のみ、というのが今までの暗黙のしきたりだったからである。ということは、いよいよ城衛が新・浅井先生を襲名するのだろう。そのための布石と考えられるわけだ。

広報紙の分析だけでは限界があります。
会合か日曜勤行に変装してでも出てみてください。
新聞と現実の違いがわかります。


せっかくのご提案ではあるが、特にそのつもりはない。はんね氏がそれをおやりになればよろしいかと思う。あるいは次のからす氏のコメントを読むと、まさに彼こそが潜入取材を実践していることになりそうである。

972ページの基礎教学書が十月に発刊されると、 
本日の総幹部会で発表されました。


昨日は総幹部会の本番だったはずである。すると、からす氏は現役の幹部会員なのかもしれない。

それにしても基礎教学書とは驚きである。なぜならば折伏理論書があるからだ。これこそが顕正会における基礎教学書ではなかったのかと思う。しかもページ数がまた驚きである。九百七十二ページとはずいぶん大部の書籍ではないか? こんなものを今頃出版してどうするのかと思う。けれども、ここまで詳細なページ数を言っているくらいだから、おそらく草稿はすでに出来上がっているのだろう。よって御書発刊計画みたいに有言不実行ということはなさそうだ。さて、どんなものが出てくるか、楽しみにしておこう。

他国侵逼の影いよいよ迫る

前回は七月度総幹部会の会長講演の前半を取り上げた。具体的には経済事案についての一段までである。この次の一段の見出しが上掲だ。

 私は、中国の南シナ海・東シナ海への進出には、三つの目的があると見ております。
 一つには、海南島の地下にある原子力潜水艦の秘密基地を守るため。
(中略)
 二つには、日本へのシーレーンを抑えるため。(中略)
 三つには、台湾侵攻の際の、米軍介入を防ぐため。

一番目はよくわからない。何しろ秘密基地の話であるから、これがもし事実だとしてもなかなか顕在化し難い問題だ。しかし、二番目三番目はわりとわかりやすい話だと思う。

もしこのシーレーンが中国の勢力圏に入ったら、日本へ向うタンカーや貨物船の航行が妨害され、日本は兵糧攻めになる。オーストラリアを回わり込む大迂回航路では、日本経済は成り立たなくなる。

大迂回航路・・・

確かにそんなことになれば大問題である。ごく単純に三角形の一辺で済むところを、二辺を通らなければならないとすれば、時間も燃料も二倍掛かることになる。

しかし、尖閣問題でも同様の指摘をしたが、沖縄の米軍基地が全面撤退にでもならない限り、中国といえども傍若無人なことは出来ないはずである。

中国は台湾統一を悲願としている。そしてその実現を、中国共産党創立一〇〇周年の二〇二一年を、目処としている。
 あと六年ですね。


これも前述の理屈が通ると思う。ようするに米軍のニラミがある以上、武力侵攻は出来ない。

あるいはクリミアのように、形式的ながらも民主的な手続きを経て統一が実現するという可能性はあるかもしれない。これはまた琉球独立も同様の理屈だろう。

ただし、この場合は顕正会のシナリオとは違うことになるはずである。

つまり、平和裏に統一がなされる。あるいは独立がなされる。とすれば、やはり傍若無人は出来ない。まさか海賊でもあるまいし、公海上の民間商船を力で抑えつけることなど、どうして出来ようか?

 あと六年ですね。

再掲であるが、これがまた悩ましい。

ご存知のごとく、今の顕正会は、あと四年、が合言葉になっている。しかし、四年などはあっという間である。ゆえに浅井先生は例のごとく、先延ばし戦術に出たのではないかという気がしないでもないのである。もちろん、これはわたくしの勝手な見方に過ぎないが、しかし、例のごとくと書いたのはこれまたご存知のとおりであって、これまで何度も先延ばしが行なわれてきたという事実があるからである。ゆえに悩ましいのだ。

軍備増強も虚し

ご覧の小見出しがあって、いよいよ日蓮大聖人の御威徳を拝せよという一段に入る。この辺は浅井先生の年来の主張であってブレはない。一貫不変である。

しかし、一般人にはほとんど理解不能である。

こういう風に書くと、巌虎は信心がない、だから大聖人の絶大威徳が信じられないのだ、というような反論があるかもしれない。

けれども、これが一般的な常識人のごく普通の感覚のはずである。

憲法九条も虚し、軍拡も虚し、というのが顕正会の主張であり、そのいわば対案として第三の選択肢を提示しているわけなのだろう。それが当該講演では最後の一段に付された、日蓮大聖人に帰依し奉れ、ということなのである。

確かにそれが宗教的信念であれば頭ごなしに否定することは出来ない。しかし、どうだろう。そこには欺瞞が見え隠れしているように思えてならないのだ。

 亡国を前にした濁悪のこの日本国に、まもなく二百万の仏弟子の大集団が出現する。・・・

 その中に顕正会の死身弘法はしんしんと進み、五百万、一千万、三千万、六千万となり・・・

 さあ、四年後の二百万をめざし・・・


最後の一段から適宜引用した。先ほど、あと六年について云々したが、ご覧のように四年後のことを明確に言っているので、前述のことはわたくしの邪推ということになる。しかし、それでもなお悩ましいのだ。

五百万? 一千万? 三千万? 六千万?

こういった数字はその時々で違っている。そのこと自体がすでに欺瞞とも言えるわけだが、いちいちあげつらっても仕方がないだろう。ここで言いたいのは別のことである。

あと四年で二百万というのはほぼ確実なのだろう。では次の五百万はどうか、その次の一千万はどうか、その次はどうか・・・と考えていくと、暗澹たる気持ちにならざるを得ないのである。たぶんこれはわたくしだけの感想ではないはずだ。おそらくは現役の活動会員たちの中にも同様の感慨を懐く人がたくさんいるはずなのである。これはもうどうしようもないほどの現実である。

以上、いちおう四年後までの見通しは立っている。けれども、それ以降のビジョンがまったく見えない。これが顕正会の現状である。

2015/8/24

真夏の皆勤賞  
表題は沖浦氏のことを指している。拙ブログも十年が過ぎ、そろそろ潮時のような感じになってきた。読者も飽き飽きしていることだろうし、当のわたくし自身もダラダラと惰性で続けているだけである。そうした中で沖浦氏だけは意気軒高である。いつも元気溌剌と功徳を書いている。しかもそれがほぼ毎日のことなのだから恐れ入る。正直なところ、氏の功徳話には飽き飽きしている。これもまた事実ではあるのだが、しかし、本人が倦まず弛まず投稿し続けているという事実も大きい。当たり前のことだが、しょせん人生は一日一日の積み重ねである。ゆえに何も考えずにダラダラと生きている人と、何かしらの目的意識を持って生きている人とでは、自ずと差が生まれてくる。さしずめ前者がわたくしで後者が沖浦氏となるだろう。彼我の差は歴然であり、もはや差は縮まるどころか拡大する一方である。いや、もちろん、何でもかんでも他人と比較する必要はないのだが・・・

ともかく真夏シリーズもそろそろ終わりにしないといけない。

「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
諸天に申し付け給う大聖人の絶大威徳
 世界大恐慌は「前代未聞の大闘諍」の引金
 中国の海洋進出を見よ、他国侵逼刻々と


といったところで、七月度総幹部会の会長講演に入ろう。上掲は顕正新聞第1351号の二面大見出しである。今回の会長講演は二面から五面まで続いている。なんと三ページ半の分量である。実に欲張りである。実際の講演時間も約五十分とのことなので、総幹部会の講演としては長いほうに入るだろう。

良く言えば力作、悪く言えば冗長、というのがわたくしの評価である。

まず悪いほうから書くと、内容的にはさして目新しいところがない。今まで言ってきたことの集大成みたいな感じで、ベテラン会員になればなるほど内容に新鮮味を感じない分、やたらと長く感じるのではないかと思う。これが冗長という意味だ。

そして良いほうだが、たぶんこれは諫暁書のダイジェスト版のような意味があるのだろう。総幹部会の講演一回分で、いわば一国諫暁のエッセンスをすべて取り入れている。実に欲張りなことだが、いちおうそれは成功しているだろう。

さらに個別に論ずるならば、まずは最初の一段が注目である。

歓喜の語り合いの中に大法弘通

この見出しの一段が興味深かった。先生はこの語り合いについて、なんと御書にその根拠を求めているのである。近年、顕正会では語り合いの大事ということを繰り返し強調してきた。その文証が法華行者値難事の中にあるという。

 「一切の諸人之を見聞し、志有らん人々は互いに之を語れ」

なるほど、うまいものである。

ただし、厳密な意味で言えば、浅井先生の引用は必ずしも適切ではない。さりとて不適切とも言えない。微妙なところではあるが、まあ、そんなに極端には間違っていないのだろう。うまくアレンジしているのだと思う。

 佐渡国は紙候はぬ上、面々に申せば煩ひあり、一人ももるれば恨みありぬべし。此の文を心ざしあらん人々は寄り合ふて御覧じ、料簡候ひて心なぐさませ給へ。

ほぼ類文と言えるだろう。これは佐渡前期のいわゆる佐渡御書である。先ほど厳密には適切ではないと書いたのは、上掲の冒頭の一文に示されるごとく、佐渡では紙が不足していた。もし仮に紙が豊富にあって自由に手紙を認めることが可能だったとしたら、佐渡期の御書は今の何倍にもなっていただろう。ゆえに佐渡御書と法華行者値難事とに共通することは、複数の対告衆に宛てて書かれているということなのである。それは紙に余裕がなかったからだ。

つまり、ここでの語り合いの大事は、紙がないので御書を思う存分に認められない、よって一つの御書をみんなで回し読みしなさい、そして読んだ人は口コミで伝えて行きなさい、という必要に迫られての手段を御教示あそばしているのである。ゆえに、今日の顕正会が言うところの語り合いの大事とは、やや趣きが異なる。さりとて完全に間違いかと言えば、そうではない。まあ、許容範囲というか、浅井流の解釈としてそれなりに有効ないし有用ということになるだろう。

いずれにしても浅井先生は常に御書を念頭に入れて発言している。これはひじょうに大事なことである。

 歓喜の語り合いで、みなが柔和質直になれば、どれほどコチコチに固まっていた組織も、天然酵母が入ったパンみたいにふっくらしてくる。

以前はイースト菌がどうのこうのと言っていた。それの焼き直しだろう。それはともかく、説明はどうでもいいのだ。本当に歓喜に満ち満ちていれば、組織は自然と活性化される。説明は不要なのである。さて、現実はどうか、ということだ。

次の正本堂崩壊の大現証は確かに重要であるが、しかし同時に、いつまでもそこにこだわり続けていることの意味というか意義が、今となってはよくわからなくなっているように思う。

 この顕正会の長き歴史において、大聖人様から見せて頂いた最大の現証は何かというと、正本堂の崩壊であります。

小見出しにも本文中にも、わずか二十六年で崩壊したことが書かれているが、この二十六年という歳月が悩ましい。たとえば、あと二十五年で広宣流布しなければ人類は滅亡する、というような発言があったけれども、その二十五年はあっという間に過ぎ去って行った。また、正本堂の崩壊からすでに十六・七年の歳月が流れている。あと十年経てば二十六年だ。

こうして見ると、浅井先生はわずか二十六年で崩壊したという大現証をもってして、広宣流布も絶対であるかのごとく言うわけだが、ちょっと信用できないというのが普通の感覚だろう。

 この「時」も甚だ近いと、私は感じております。
 それは「一時に」来る。海の潮が満ちるごとく一時に来るのであります。


御書の引用は省くが、カギカッコの時とか一時にというフレーズはいずれも御書に基づくものである。先生は常に御書を念頭に発言している。これは先ほども書いたように大事なことである。しかし、その妥当性には常に疑問がつきまとう。

 さて、なぜ広宣流布は近いのか――。

いよいよ世界大恐慌こそ世界大闘諍の引金と題する一段に入る。広宣流布の根拠としてこの一段が設けられたわけだが、確かにここはそれ相応の説得力を持っていると思う。やや語弊があるものの、正本堂の問題は一宗派の内部におけるゴタゴタに過ぎない。一方の経済問題とりわけ世界経済の問題は、誰もが他人事では済まない深刻な問題である。ゆえに説得力がある。

中国株の大暴落

うっかりしたことに、わたくしはこれをまったく知らなかった。たぶん日本のマスコミにも原因があるのだろう。遅ればせながら顕正新聞の当該記事を読んでから、この手のニュースにも気をつけているわけだが、なぜかあまり報道されていないような印象があるのだ。もちろん、ぜんぜん報じていないわけではない。しかし、情報量はきわめて少ない。

この意味で当該講演は貴重である。浅井先生の時事問題に対するアンテナの張り方はやや偏りがあるようにも感じられるが、しかし、一般紙レベルでは報道されないようなレアな情報も含まれていたりするので、貴重である。

 終戦後のインフレがどれほど凄かったかというと、わずか六年間で物価が一〇〇倍になったのです。具体的にいえば、千円の商品が六年後には一〇万円になったのです。

恐ろしい話だ。給料も同じだけ上がれば文句はないのだが、たぶんそうは問屋が卸さないのだろう。経済問題は難しいし、実際にそうなってみないとわからない。そこが余計に怖いところである。

次はアゲアシ取りである。

この昭和六年は私の生まれた年だから憶えております。

満州事変のことを言っているわけだが、生まれたばかりの赤ん坊がなんで憶えているのか、というのがツッコミである。いや、もちろん、後から学んで知ったことなのだろう。それが特に自分の生まれた年の出来事なので印象が強いという意味なのだろう。

兌換紙幣・不換紙幣

この辺もひじょうにタメになる話である。ということで、当該講演では約一ページ弱を経済問題に費やしているわけだが、総じて説得力のある文章に仕上がっていると思う。

今日はこんなところで終わりにしよう。

2015/8/20

真夏の新聞批評  
沖浦氏との議論はいつもワンパターンであるが、それでも少しずつは進展しているように思う。

B 南部の郷内の念仏福士の塔の供養。

 釈迦像造立が良いのですから、別に問題はありません。

C 九品念仏の道場建立。

 この点は私に知識がありません。

 ですが、騒ぎ立てるほどの事ではないでしょう。


@とAを省略させていただいた。いつもの堂々巡りの議論になるからだ。

それはさておき、上掲は甚だ疑問である。別に問題はない、騒ぎ立てるほどのことではない、と。はたしてそうだろうか?

されば今の日本国の一切衆生は設ひ釈迦仏にねんごろに仕ふる事、当時の阿弥陀仏の如くすとも、又他仏を並べて同じ様にもてなし進らせば大なる失なり。

弥三郎殿御返事にはこのようにあるのだ。大なる失ということは、大問題ということだろう。沖浦氏ほどの人物が、このような初歩的なところで間違えるとは、驚きである。確かに、ここで@ないしAに立ち返って考えると話が複雑になるわけだが、単独でBないしCを見るならば、話は単純明快である。謗法厳禁ということだ。謗法への供養が認められるわけがない。この道理を知るべきである。

さて、要望もあったことだし、顕正新聞の話題を書きたいと思う。

第1351号は七月度総幹部会の特集号であるが、真っ先に目に飛び込んでくるのは折伏成果である。六・七月度としては空前の成果だったという。その数字を一面の見出しを使って紹介しよう。

歓喜の語り合いの中、空前の大法弘通

六・七月度弘通 空前二万一千一三六名
「日蓮大聖人の絶大威徳を見よ」に大感動


わたくしは数字が苦手である。ゆえに過去の成果などにも無頓着で、今回の成果がどのくらいの規模であるか、客観的には判断できない。そこで浅井先生に語ってもらおうかと思う。会長講演には次のごとく書かれている。

昨年の六・七月法戦も過去最高といわれましたが、このときは一万八千余でした。本年はそれを大きく上回わる大規模な弘通です。まことに凄いですね。

なるほど、である。

 これ、広宣流布の時が近づくにつれ、大聖人様の御威徳により、弘通のテンポが変わってくるのであります。

しかし、かく言う浅井先生も実はけっこう弱気だった。もしくは活動会員たちの苦労を慮ってのことだろうか、ずいぶんと控えめな誓願を立てていた。

一万六千

これが五月末の総幹部会で発表された折伏誓願である。

いかがだろうか、もし大聖人の御威徳を云々するのであれば、そこに確信があるのならば、前年の成果よりも低い目標値を掲げるはずがないのである。少なくとも一万八千が最低ラインだろう。しかるに一万六千が目標だった。これはもう、弱気と言われても仕方がない。

そもそも顕正会における折伏誓願がどのようなプロセスを経て決められるのか、わたくしはまったく知らない。ゆえに想像に過ぎないが、おそらくは三者の部長クラスとの協議を経て、もちろん最終的には浅井先生が決定するのだろう。つまり、組織の現状というか、現時点での活動会員たちの実力を把握した上で、無理のない目標値を設定するのだと考えられる。無理を押し付ければ、最悪の場合、退転者が続出することにもなりかねない。すると、ますます疲弊する。悪循環だ。しかし、また同時に、あまりにも目標が低いとダレてしまう。口ではあと○○年などと言っておきながら、弘通のテンポが緩慢であれば、言っていることとやっていることのチグハグさに気づいて、これもまた退転の原因となる。痛し痒しである。

こうした中で、目標を決めるのだから、これは物凄く難しい決断である。かくして今回は一万六千の目標が掲げられた。もはや組織がガタガタで、これが精一杯の目標値だった。あるいは、たまには休息も必要ということで、少し緩めの目標を掲げた。どちらが正解かはわからない。

中国の上海で大感動の座談会!
「上海に会館を頂きたい」満場大拍手


いつもは会長講演から入るのだが、今回は少し趣向を凝らして、第二女子部長の活動報告から始めよう。いや、趣向というほどのことではない。当該記事は折伏成果の問題とリンクするので、話の流れとしては自然のはずだ。

 今回の渡航では、十二名の紹介者で六八名の入信が叶いました・・・

話は見えただろう。もう何年も前から指摘している問題である。

第二女子部全体の折伏成果は四百五十三名なので、それを基準に見れば六十八名はそれほど大きな数字ではないかもしれない。しかし、区の単位で見ると話が違ってくる。第二女子部内での最高は九十名、最低は十七名。これが区の単位における実情である。現在、男子部における隊にしても、婦人部の支区にしても、平均すれば百名を切るのだ。つまり、そうした中で六十八名の成果は相当である。これがおそらくはどこかの区の、もしかしたら一つの総班の成果なのである。しかも国内の成果と一緒くたになっている。ズルイじゃないかと思う人がいてもおかしくないだろう。

一人がズルをすると、マネをする人が出てきて、そのうち全員がズルをするようになる。悪貨は良貨を駆逐するのだ。

実は前号にも同様の記事がある。

エベレストの麓で感動の入信勤行
 大地震のネパールで96名の弘通


婦人部千葉支区総班長の活動報告である。三日間で九十六名の入信者を出したというから凄いことである。高効率だ。しかも今回が五度目の渡航という。

こうして見ると、二万有余の空前の折伏成果の中に、いったいどれだけの外国人が含まれているのか、その実態は詳らかではないものの、相当数が含まれていると考えられる。もしこれらを選別して純粋に国内だけの成果を発表したら、あるいは空前の冠を外さなければいけないことになるかもしれない。

それにしてもご苦労なことである。イヤミを言っているのではない。次の一段を読めば、誰もが同様の感慨を懐くに違いないのだ。

 ドラカはカトマンズより東に位置し、ヒマラヤの麓にあり、車で五時間半と聞いていたので、六時間ほど走って夕方に着いたときにはホッとしたのですが、「ここから二時間、あの山の上まで歩く」と、山を指してあっさり言われたときには、言葉を失いました。

成果のためとは言え、この大情熱には脱帽である。しかし、また同時に、はたしてこれで日本の広宣流布は可能なのだろうか、という疑問が拭えないのも事実である。

2015/8/18

真夏の法門談義  
沖浦氏の日寛上人批判は今に始まったことではないが、あろうことか最近は日興上人に遡って批判している。あと一歩で大聖人に届くところまで来た。つまり、このままエスカレートすれば、大聖人すら批判の対象になりかねないということだ。

 日蓮正宗などは興師から既にダメ!!

凄いことを言うものである。あと一歩進めば、日蓮正宗などは大聖人からして既にダメであると、こういうことになりそうである。あら恐ろしや、である。

 興師は以下の文を残しました。

 一、若輩為りと雖も高位の檀那自り末座に居る可からざる事。
 (日興遺誡置文)

 上座部そのものですね、これは。
 こんなこと書く人が民衆仏法ではあり得ません。


そもそも上座部とか大衆部という表現は御書に見られない。これを創価学会ではいつ頃から盛んに言い出したのかが気になるところで、もしここ二十年ほどのことであれば、なるほど宗門批判を目的に言っているのだろうと考えられる。

それはさておき、上掲の一条はそれほど違和感のあるものではない。例えば同じ御遺誡の中に、わりと雰囲気の似た御文がいくつか存在する。

一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し閣き、御抄以下の諸聖教を教学すべき事。

今ならエリート教育みたいなものだろうか? 雑用は免除され、勉学に専念できる。スポーツ選手などでも超大型新人みたいな人は一年生の時から優遇される。雰囲気的にはそんな感じだろう。

一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師たりと雖も、当如敬仏の道理に任せて信敬を致すべき事。

この一条は沖浦氏引用の条目と近似の関係にある。前掲の一条は師匠と弟子の関係だった。しかし、ここでは出家在家の関係を仰せになられていると考えられるのだ。

信敬を致すべき・・・

これが根拠である。誰が誰を信敬するのかと言えば、在家が出家を信敬すべきであると、こういう文脈になっていることは誰も否定できないだろう。たとえ下劣の法師であっても信敬すべきということは、もちろん身軽法重の行者であるからだが、それがくだんの条目とひじょうに近い関係にあることに気づくべきである。

すなわち若輩云々が下劣の法師に相当することは論を俟たない。すると高位の檀那はその若輩に対して信敬を致すべき道理となる。ならば若輩であっても高位の檀那よりも上座に居なければツジツマが合わないだろう。

ついでにもう一条、紹介しておこう。

一、下劣の者たりと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事。

これは器用の弟子云々の一条と関係がありそうだ。

わたくしの勝手な想像であるが、日興上人にも先輩がいた。入門の先後もさることながら、年齢的なものもあっただろうし、当時の時代状況からして身分的なものもあったかもしれない。ぶっちゃけ言えば、日興上人に対して先輩ヅラをする人がいたのだろう。日興上人はデキの悪い先輩たちにずいぶんと悩まされたのかもしれない。

これはまた、檀那についても言えることなのだろう。デキの悪い檀那がいわば出資者みたいな感覚で、金を出しているのは誰だと思っているんだ・・・みたいなことを言えば、ひじょうに困ったことになる。

こうして見れば、それぞれの条目の必然性がよくわかるのではないかと思う。沖浦氏の指摘がいかに的外れであるかということだ。

なお、高位の檀那とは具体的に誰のことなのか、あるいは波木井実長のことなのかもしれないが、当然ながら日興上人の御遺誡は将来を見据えて定め置かれたものである。すると今日的には池田大作氏がそれに相当するとも考えられる。

けれども、彼はいちおう高位ではある(あった)が、最高位ではない。たぶん最高位は天皇なのだろう。

されば日蓮は当帝の父母・・・

大聖人は主師親の三徳を備えたいわゆる御本仏であられる。当然、天皇よりも上位である。

そして日興上人の御遺誡のごとくならば、たとえ若輩であっても、あるいは下劣の法師であっても、遠慮して末座に下がる必要はない。というよりも、末座に据えてはいけないのだ。

沖浦氏はこれを日興上人の己義だと言いたいらしい。

だが、しかし、はたしてそうだろうか?

我が弟子等、出家は主上・上皇の師と為り・・・

弘安元年の諸人御返事である。もはやこれ以上の説明は蛇足だろう。

2015/8/13

真夏の無理難題  
鳩山由紀夫元首相は宇宙人と皮肉られたりすることがある。今回の一件もそうした揶揄の対象になりそうだ。わたくしは氏の行動を是とも非とも判断できないが、少なくとも現首相が相当に右傾化していると見られている中でのパフォーマンスとしては、それなりに意味のあることなのだろう。

ところで次の表記は何を意味するのだろうか?

<1.前 P0766 2.次>

沖浦氏が御書をどこかのサイトから丸写ししていることがバレバレのような事例である。別にコピペが悪いとは言わないが、もう少し慎重に行ないたいものである。

原発再稼働には自ずと賛否両論があって、現状では反対意見のほうが大きいのではないかと思う。それを承知で強行する意味がわからない。福島の事故がどれほど悲惨であり深刻なものか、このことを考えれば再稼働などできっこないはずなのである。

負の遺産という言葉がある。いろいろなものが想起されるが、わたくしはフクイチこそが負の遺産そのものだと思う。何しろ事故は終わっていないからだ。

また、もし仮に事故が起こらず安全に運転が続けられたとしても、使用済み核燃料の問題が残る。いわゆる死の灰と呼ばれるヤツだ。これもまた負の遺産であって、何のメリットもない。ようするに再稼働は負の遺産を増やし続けることを意味するのだ。

ということで、わたくしは原発に反対であり、当然ながら再稼働にも反対である。まあ、しかし、愚かな人たちというのは、一度くらいでは目を覚まさないのかもしれない。喉元過ぎれば熱さを忘れるとも言う。ゆえにもう一回くらい大事故を経験しないと、原発への未練を断ち切ることは出来ないのかもしれない。痛し痒しである。

さて、話題を変えよう。

顕正新聞第1350号には驚いた。たぶん顕正新聞始まって以来の斬新さであろう。その理由は第一面にある。

中国の東シナ海・南シナ海進出急ピッチ
 「他国侵逼」の影 刻々と迫る‼

世界的規模で「天変地夭」激化‼
 日天子(太陽)の働き、世界大闘諍の前兆

安倍政権支持率急落、30パーセント台に!
 不支持50%超、危険水域も目前


顕正新聞は顕正会の動向を伝える新聞である。別して言えば浅井先生の動向である。ゆえに総幹部会が行なわれればそれがメイン記事となり、とりわけ会長講演が紙面の中心的な存在となる。

ところがである。

今回の新聞は一面に顕正会のことが書かれていないのだ。いや、もちろん、顕正会らしさは残っていて、具体的には他国侵逼だとか日天子だとかがまさにそれなのだが、しかし、記事そのものは世間に通用するというか、一般人が読んでも興味深い内容である。これはもう顕正会始まって以来の快挙であり、称賛に値することである。

いや、違う。

イジワルを言うようだが、しっかりと問題点を指摘しておこう。よく言えば、顕正会初の快挙であるものの、実際は顕正会の限界を垣間見る事例とも言えるのだ。

当該号の一面は上掲の三本の記事で埋められている。では二面以降はどうかであるが、いつものパターンよろしく登壇記事の羅列である。その数、なんと二十五本。

登壇記事が悪いとは言わない。しかし、当該号の場合、一面がくだんのごとく一般の記事であり、二面以降がすべて登壇記事である。ということは、浅井先生の動向がまったく伝えられていないのだ。これはもう異例中の異例であって、もしかしたら初めてのことかもしれない。確認していないので初めてとは断言できないが、ひじょうにめずらしいケースであることは間違いないだろう。

ああ、そうだ。班長会特集号の場合、浅井先生が出てこない。ゆえに初めて云々は間違いである。

それにしてもである。もし一面の三本の記事がなければ、当該号は実にツマラナイ新聞である。逆に言うと、一面は編集部の努力を評価すべきなのだろうけれども、ようはここに顕正会の限界が垣間見えるのだ。

顕正新聞の編集部は頑張っている。それはそのとおりだとしても、顕正会の行事が圧倒的に少ないので、もはや新聞そのものが成り立たなくなりつつあるのだ。これが問題点である。

「本部行事」は第八面

一面の左下にご覧のごとく書かれている。当該号は七月二十五日号なので、八月の本部行事が掲載される。そこで八面を見ると、以下のごとく記されている。

8月25日(火)午後7時 総幹部会 大宮ソニックシティ大ホール
8月27日(木)午後7時 男子部班長会 本部会館
8月28日(金)午後7時 女子部班長会 青年会館
8月29日(土)午後7時 婦人部班長会 青年会館


以前は月の前半に御書講義があった。この御書講義と総幹部会の二つを顕正会の二大路線と言っていた時期がある。それがいつの間にか一つになってしまった。いわば廃線だ。それから壮年部班長会もあった。これもなくなった。

さらに厳しいことを言えば、上掲の四つの本部行事は実質的には二つに絞られる。ようするに班長会は三者に分別されているものの、まとめてしまえば一つに過ぎないのである。

もっと厳しいことを言えば、今の班長会は浅井先生が出席しない。つまり、その意味ではランクが落ちるのだ。最近の顕正会流の表現を使えば、準本部行事となるのかもしれない。

ここで少しひねったことを言うと、別に浅井先生がいなくってもいいじゃないか、という考え方はあるだろう。

むしろ脱浅井先生を目指すべきなのかもしれないとも思うくらいだ。

しかし、現実的には難しい。

浅井先生あっての顕正会である。先生がいなきゃ何もできない。それが顕正会である。いわゆる求心力として必要不可欠の存在であるし、実際、顕正新聞の特集号ないし準特集号は浅井先生の講演を中心に組まれている。残念ながら、それ以外の顕正新聞は面白くないのだ。

たぶん無理だとは思うが、編集部の努力によって顕正新聞を面白くすること、浅井先生抜きの紙面でベラボウに面白いものを作ること、これが出来れば大したものである。

それが無理ならば、行事を増やして浅井先生にもっと出てきてもらわないといけない。しかし、先生も年だし、もうこれ以上は無理なのだろう。

つまりは、これが顕正会の限界点なのである。

2015/8/11

真夏の地域貢献  
地域貢献にもいろいろある。例えば掃除をするにしても、自分の家の前ばかりでなく少し範囲を広げて向こう三軒両隣くらいまで掃除をすれば、これはもう立派な地域貢献である。しかし、これが借家住まいだと事情が変わってくる。どうせ引っ越すのだから、そんなことをやっても意味がない。あるいはマンション住まいだと、管理費を払っているんだから業者が清掃すればいい。自ずとそんな考え方になってしまうものである。また、こういう人が増えると、それが悪循環を生んでますます悪い方向へと行ってしまう。これらは都市部全般に言えることだ。

実は顕正会員にとって、もっとも苦手なことの一つが地域貢献である。というよりも、顕正会の活動そのものが地域のコミュニティをぶち壊すような意味がある。

何しろ日本を救うという大義名分がある。こういう人が隣近所の掃除をやる姿など、まず想像できないだろう。当然、自治会ないし町内会の活動など、やりっこない。それでいて折伏だけはやる。顰蹙を買うのは目に見えている。

いや、もちろん、日本を本当に救うのであれば、最終的には誤解も解けるだろうし、感謝もされるだろう。しかし、どうもそうはならないような気がする。

ちなみに創価学会は地域貢献に力を入れている。たぶんこれは選挙の票目当てなのだろう。こう書くと批判のように受け取られるかもしれないが、そのつもりはない。むしろ逆である。顕正会よりも遥かにマシということだ。選挙の票がほしいから地域貢献をしているのだとしても、地域貢献の事実には変わりがないのだ。顕正会の場合、最終的に日本を救うという大義名分があるにせよ、現時点では何の貢献もしていない。それどころかコミュニティを破壊しているのだ。ゆえに、もしこのまま日本を救うことも出来ずに終われば、マイナスイメージだけが残ることになる。一方の創価学会は多少なりとも好印象を残すことが出来る。

さりとて顕正会が方針転換して地域貢献に力を入れるというのもおかしな話である。

おそらくは今のままでいいのだろう。ただし、折伏の仕方に気をつけるべきで、ようは節度ある折伏を心掛けないといけない。節度というのは常識的とか紳士的みたいなニュアンスである。それが徹底されれば、文句はない。

さて、今日は顕正新聞第1349号から少しばかり話題を拾いたい。

 神奈川の第二十一女子部、新潟の第十九・第二十八女子部、さらに静岡の第三十三女子部におきましても・・・

前にも紹介したが、この人は四つの女子部長を兼任するツワモノである。しかも状況的には女子部最大の実力者と言えるかもしれない。

全国女子部の一〇人に一人の大陣容の新潟女子部こそ先陣切ってお応えせん・・・

先日来、顕正会は地域差が激しい旨、何度となく書いたけれども、まさに上掲がそれを物語っているわけだ。その新潟を含む四つの女子部を取り仕切る人物は、まさしく最大・最強の実力者である。もちろん、その上には総合女子部長がいるわけだが・・・

彼女は女子部総務という肩書きを持っているわけだが、総務は他にもいる。次の人物も同じ肩書きである。

 先日、官庁街において、第一・第三十一女子部の有志約五〇名が戦争反対集会・デモに赴き、二日間で約一千部以上の準特集号配布を行いましたが・・・

これも顰蹙を買う行為だろう。

今のデモはかつてのようなイデオロギー色があまりないと言われている。特定の団体が組織力を駆使して動員を図るのではなく、インターネットを通じて広く呼び掛けることによって集まってくる。こういう人たちはヘンに凝り固まることはない。あくまで是々非々というか、今回の一件で言えば、あくまで安保法案に反対を唱えることだけが目的であって、他に目的があるわけではない。はたして、そこを目掛けて襲い掛かってくる(?)顕正会とはいったい何者なのか、彼らにはどのように映るのか、わたくしには想像を絶するところだが、たぶんあまりよいイメージは湧かないだろう。この点、顕正会首脳部はよく考えるべきだと思う。

未活動20年の婦人が勤行に感涙
 功徳の感激だけで4名の弘通!


婦人部千葉支区総班長の活動報告の見出しである。この未活動の定義であるが、従来ならば退転者などと呼んでいたものを言い換えたものである。ゆえに、この見出しだけで判断するならば、二十年前までは熱心に活動していたとも受け取れるところである。

しかし、この場合は違っていた。

・・・○○さんは、なんと二〇年も前に入信していた未活動者でした。

 一緒に自我偈の勤行を申し上げましたが、○○さんにとって入信勤行以来の勤行であり・・・


ともかくこういう人がベラボウに多い。入信勤行をして、それっきり・・・という人が多いのだ。

ゆえに女子部第百八区長の登壇においても、次のようなくだりがある。

未活動者リストを片手に呼び掛けるなか・・・

早い話が入信者リストだろう。入信者の大半が即日退転なのだ。おそらくは数十万人ないし百万人超がそうなのである。これが顕正会の実態である。それを今から掘り起こそうとしているのだから、ご苦労な話である。真面目に活動している人には気の毒だが、徒労感いっぱいの行為である。

さて、次は登壇者の肩書きをあえて後から紹介したい。

沖縄の観光客は全て中国人だった
 「沖縄独立運動に中国の影」実感


確かに中国人が多いのだろうけれども、すべてが中国人というのは言い過ぎだろう。それはともかく冒頭の一文を紹介したい。

 私は先月、高校の修学旅行で沖縄に行った・・・

ああ、なるほど、修学旅行で沖縄に行って、中国人の多さに驚いたわけなのだろう。これは誰もが了解できるはずだ。では、この人の肩書きはどうか?

婦人部寿能支区班長

オイオイ、高校生を婦人部に入れるなよ、と言いたい。

最後は婦人部足利支区班長の体験発表を紹介しよう。

 そして医師が往診の際、「まだ実験段階ではありますが、ビタミンB12が効果があるかもしれません」と二回ほど注射を行うと、みるみる回復したのです。

九十六歳の姑さんのことをお嫁さんが発表しているわけだ。相変わらずのアゲアシ取りとは思うものの、上掲はいかがなものかと言わざるを得ない。

まだ実験段階なの? それをやっちゃっていいの? 一介の医師が人体実験みたいなことをしちゃっていいの?

そもそもビタミンB12は医薬品というよりも食品に近い。何しろそこら中に出回っているからだ。医師の処方も必要なく、服用ができる。もっともそれを注射するとなると、かなり事情の異なる話なので、素人のわたくしにはよくわからないことだが・・・

2015/8/10

真夏の危険水域  
沖浦氏は相変わらずである。例えば昨日のコメントがそうだ。

 自身創価の戦士で、池田先生を師匠と仰ぎ、大聖人をご本仏と定める身ですので。

これが五時二十一分の投稿である。そして八時五十一分には次にようなコメントを残している。

 御本仏として定めるとは、神格化して崇めることではありません。
 人類救済の先師として生きざまに学ぶ。

 ですので、大聖人は大菩薩です。
 それを捻じ曲げて、ご本仏として神格化してしまったのが日蓮正宗です。


ようするに大聖人を御本仏とは定めるものの神格化はしないと言っているわけなのだろう。だったら御本仏とは呼ばないことである。紛らわしいにも程がある。ましてや大菩薩だって不自然だろう。御本仏も相当だが大菩薩も相当である。つまり、大菩薩と言っている時点で相当の神格化なのである。

本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕・・・

沖浦氏は御相伝書を認めない立場なので議論にはならないが、ようするに大聖人を大菩薩と拝すること自体は間違いではないのだ。いわゆる日蓮宗では釈迦本仏を主張する手前、大聖人を菩薩位に下げる必要がある。これをケシカランことだと言うのが日蓮正宗の立場である。しかしながら本地と垂迹の関係性を踏まえていれば、大聖人を菩薩であると拝しても一向に差し支えないのである。

いずれにしても沖浦氏のそれは創価学会の公式見解とも異なる独自の法門であり、いちいち取り上げる必要もないだろう。ただ義理堅くも頻繁にコメントを下さるので、わたくしとしても挨拶しないわけにはいかないという事情があるのだ。

 大聖人を神格化してしまった日蓮正宗。
 人の側面から捉え続けた身延。

 当然後者が桁違いに優れます。


そもそも人の側面から捉え続けた身延という認識が正しいのかどうかが問題であるが、それはさておき、わたくしは前者が断然優れていると思う。神格化の何が悪いと言いたい。

問題は、日蓮大聖人の仏法を信仰すると言っている人たちが、池田先生だの浅井先生だのと言って大聖人よりも先生たちのほうが偉くなっちゃっていることであろう。いわゆる会長本仏論だ。この点は今後も注目していきたいと思う。

それはさておき、大沢氏の沖浦氏へ宛てたコメントが光った。沖浦氏が圧死するのも困るが、もっと言えば、ジムに通っている人たちが巻き添えを食ったら大変である。ゆえに日曜大工のノリで工事をやろうものならば大問題である。まあ、しかし、どうやら専門家による施工のようなので問題はないだろう。いずれにしても繁盛しているということは、何よりの功徳である。

そしてもっとも注目すべきは、からす氏のコメントである。さっそく大沢氏が反応を示しているけれども、確かに顕正会経験者にとっては興味深い話である。

三階建ての会館・・・

顕正会は活発な地域とそうではない地域との差が激しい。会館によっても事情が異なるだろう。ゆえに、からす氏の言っている会館がどこなのかが気になるところである。

それがどうやら三階建ての会館だということまではわかった。

今日の日曜勤行

三〜一階まてびっしりつめるかつての勢いはない

8時スカスカ

9時半は半分もいない


これが事実ならば相当に深刻である。わたくしの通っていた会館では、日曜日の朝、三回から四回にわけて勤行が行なわれていた。ようするに活発な地域だった。そして第一回目の勤行は超満員である。顕正新聞には日曜勤行の参加指定時刻が記載されているけれども、それはいちおうのことであって実質的には守られていない。熱心な活動会員はほぼ間違いなく第一回目の勤行に参加する。なぜならば浅井先生の導師で行なわれる勤行だからである。いわゆる日曜勤行指導もこの第一回目の時に行なわれる。活動会員たちはこの指導の後、各所属ごとの打ち合わせを済まし、戦いに散っていく。まさに一日の戦いの出発点なのだ。

それがからす氏の言うごとく、八時ですらスカスカで、九時半は半分もいないとすれば、これはもう完全に衰退である。わたくしにはちょっと信じられない状況である。

では、このような状況を招いた理由は何なのだろうか?

わたくしの想像では、ごく単純に、いよいよ衰退期に入った、ということなのだろう。顕正会の手法には自ずと限界があった。あと○○年という年限を切る方法がマズかった。ゆえに限界を迎え、いよいよ後退が始まった。

あるいは丸っきり角度を変えて、別の理由を探ってみようかと思う。

ズバリ、浅井先生が日曜勤行に出なくなった、日曜勤行へ出る頻度が下がっていき、おそらく今ではほとんど出てこないのだろう。これが直接的な原因である。

率先垂範という言葉がある。先生自らが日曜勤行に率先して出てくれば、弟子の自覚がある者は万難を排して参加するだろう。ようは師匠が怠けちゃっている。だから弟子も右に倣えなのだ。

それから最近の内部事情に疎いわたくしとしては、誰が浅井先生の代わりを務めているのかが気になるところである。

これもスバリ言ってしまおう。そいつの話が面白くないのだ。

特集号ないし準特集号は、いわゆる総幹部会の会長講演がベースになっている。これは特集号と呼ぶくらいであるから、それ相応に完成度が高い。そもそも上述のごとく浅井先生の露出度というか登場頻度が少なくなって、今では月末の総幹部会くらいしか定例で出席する行事がない。ゆえに、その月一の講演は万全の準備でクオリティの高いものに仕上げてくる。しかし、逆に言うと、今の顕正会はそれしかない、それ以外には何もないのである。日曜勤行は形骸化している。何しろ浅井先生の代役はツマラナイ話しかしない。これでは参詣者が減るのも当然だろう。いわゆる悪循環だ。

まあ、しかし、これらはあくまでからす氏の証言を基に推測したものに過ぎない。氏の目撃情報がごく一部の会館のみを意味するのか、あるいは顕正会全体の傾向をあらわしているのかは、わからない。ゆえに、引き続き各方面からの情報を待ちたいところである。

2015/8/6

真夏の真実  
沖浦氏よりさっそく回答が寄せられた。減劫御書の「行ず」の読み方についてである。氏の記憶によれば、昭和五十二年か三年に「行なわず」と読むべき旨の発表があったそうである。

これについて思うことは、あるいは僧侶批判の意味が込められているのだろうか、ということである。時期的には宗門と創価学会の関係が悪化していた。ゆえに、世間から遊離している僧侶たちを暗に批判する意味で、解釈の変更が行なわれたのではないかという気がするのだ。

ちなみに、当該御文の読み方そのものはそれほど難しいものではないので、おそらくはもっと早い時期からわかっていたのではないかと思われる。しかし、阿部教学部長が書いたとされる国立戒壇論の誤りについてでは「行ず」と読み、それを創価学会では妙信講をやっつけるための武器としていたので、あえて訂正を行なわずにいたのだろう。そして昭和五十二年前後における創価学会の最大の敵は宗門そのものだった。そこで当該御文を僧侶批判に利用することを企てたのだろう。

以上は単なる想像に過ぎない。当時の聖教新聞ないし大白蓮華にどのように書かれているか、その具体的文言を検証しないことには、何とも言えないところである。

それにしても浅井先生が平成二年までこれに言及しなかった理由がわからない。いわゆる後出しジャンケンなのだろうけれども、そのネライにしても、その効果のほどにしても、よくわからないところである。

この件はこのくらいにしておこう。

沖浦氏は政権与党を痛烈に批判している。これは創価学会員の立場としてはひじょうに筋が通っていることであり、もっと声を大きくしていかなければいけないことだ。昨日の拙稿で、創価学会から百万人が顕正会に移籍しているという話を紹介したけれども、それはもちろん事実誤認であるが、おそらく百万人の創価学会員が声を上げれば安保法案のゆくえも変わるのではないかと思う。わたくしはそれを期待したい。

さて、顕正新聞第1349号の話題である。

先生はすでに一国諫暁を開始

当該号は六月度班長会の記事を中心に組まれている。そして上掲は総男子部長の記事の小見出しの一つであるが、ようするに総幹部会の記事が載る五日号を毎回のように全国三万箇所に送付していることを言っているのだ。総男子部長の言っていることを簡単に意訳してしまえば、こうして浅井先生も頑張っているんだから我々も頑張ろう、ということになるだろう。

イジワルを言うようであるが、ここに限界が見えている。その理由を説明するために、まずは二つほど別の記事を紹介しておきたい。

 されば、過去五十八年、理不尽なる解散処分、公権力の不当な弾圧の中にも、一筋の忠誠を貫かれた先生が見つめてこられた広布の決戦場まであとわずか。

副総男子部長の登壇だ。広布の決戦場まであとわずか・・・とは、具体的にはどのくらいの時間を言うのだろうか?

広布の決戦場まであと四年。

ご覧のように総合婦人部長が答えてくれている。

これで先ほど限界が見えていると書いた意味がわかるだろう。総男子部長は、先生の諫暁はすでに始まっている、という意味を言っていた。しかるに後の二人は四年後を想定している。では、その四年後に何をするのかであるが、結局のところは文書配布であろう。だったら今やっていることと変わりがないではないか、ということになる。

今だって浅井先生のみならず末端の活動会員が地道に特集号の配布をやっているのである。その特集号にどれだけの国民が啓発されているかが問題であるが、おそらく日本全体で見れば微々たるものだろう。この構図は四年後もさして変わらない。まさか四年後に特集号の決定版みたいなものが出来して、それで日本国民が一気に目覚めるなどということは、ひじょうに考え難いことである。

以上が限界の理由である。

ただし、顕正会的に言えば、一つだけウルトラCのような切り札(?)が存在する。これについては次の副総合婦人部長の発言がわかりやすい。

・・・国家の興亡盛衰の根本原因を、全日本人に対して強烈に教えていく先生の大諫暁に伴って、諸天の治罰は今後いよいよ激しくなり、その現証を眼前にしたとき・・・

実にわかりやすい。ようするに諸天善神の働きに期待しているのだ。

これについては四年後を待てばいい。そこで答えは出る。四年は長いようで短い。あっと言う間である。

確かに世の中は次々にいろいろなことが起きる。ゆえにそれを諸天の働きに関連付けて説明することは可能だろう。しかし、それが万人に対して説得力を持つかと言えば、おそらくは難しいだろう。つまり、四年後に何かが劇的に変化して、それで顕正会への入信者が爆発的に増加するというシナリオは、たぶん不発に終わるのだ。

幸い、わたくしは四年後も生きていることだろう。いよいよ浅井先生が長年にわたって言ってきたことの真実が、ようはウソかマコトかが、わかる時が到来するのである。

2015/8/5

真夏の無用心  
沖浦氏からは多種多様のコメントがコンスタントに寄せられる。功徳の話はさておき、わたくし的には次の話が興味深い。

 創価学会でも以前御書の読み方を訂正したことがございました。

 『智者とは世間の法より外に仏法を行ず、』
 (減劫御書)

 智者とは世間の法より外に仏法を行(ぎょう)ず。

 とよんでいたものを、

 仏法を行(おこなわ)ず。

 に訂正致しました。
 これは聖教新聞や大白蓮華で発表したと思います。


聖教新聞や大白蓮華で発表したとのことだが、具体的にそれはいつ頃のことだろうか?

というのは、浅井先生の平成二年の諫暁書にこの御書の読み方のことが書かれているのだ。ゆえに、それ以前なのか以後なのか、そこが気になるところである。ご存知の人がいれば、ぜひともコメントをいただきたいものである。

2015/8/5 2:12
投稿者:からす
顕正会日曜勤行、スカスカです。

班長会も名前だけかいて帰る人多数。

急速に衰えている。


これはまた凄い情報である。問題はその信憑性だろう。

わたくしの思うに、会館ごとに事情が異なる。もともと活発でなかったところに、ムリして会館を建ててしまった。こういう場合は参詣者が少ない。たぶん地方会館の中にはそういうところもあるのだろう。しかし、ぜんぶがぜんぶではあるまい。逆に参詣者であふれ返っている会館もあるはずだ。

しかし、からす氏の観察では急速に衰えているという。これは、今までそこそこの参詣者がいたけれども急速に減少している、というようなニュアンスにも聞こえる。しかも班長会ですら名前だけ書いて帰る人がたくさんいるらしい。これが本当ならば相当に深刻だろう。全国的な傾向は不明にしても、どこか一部の組織で大量脱会のようなことが起きた可能性も考えられる。

さて、その真相はいかに・・・

顕正会入会続出で組織防衛に狂奔
 学会歴50年の大幹部が内情告白


引き続き六月度総幹部会の記事を見ることにしよう。上掲は男子部第百八隊班長の活動報告の見出しであるが、これによれば顕正会よりも遥かに深刻なのが創価学会ということになりそうである。記事のなかでは創価学会歴五十年以上の人が次のように言っている。

 「最近、学会から顕正会に入会する人が増えていて、学会内部では百万人を超えたと噂になっている」

オイオイ、本当かよ、と言いたいところだ。

 「そこでいま、学会では組織防衛のために、教宣部が『K対策』の新しいビデオを作成しているようだ。そのビデオが六月末ぐらいに手に入るから、今度、渡しますよ」

これに続いて登壇者自身の感慨が述べられている。

・・・学会が音を立てて崩壊し始めていること、そして、池田大作一党が真っ青になって組織防衛に狂奔していることを、改めて実感したものであります。

百万人が事実ならば、文字どおりの崩壊だろうし、真っ青にもなるだろう。しかし、真相はわからない。

いずれにしても八十八歳になるという、この創価学会の古参会員は、すでに顕正会側に相当心が傾いているらしい。

「私は準顕正会員ですから」(大笑)

準特集号だとか準顕正会員だとか、ケッタイな言い方が目立つ。ここでの(大笑)は総幹部会の会場に沸き上がった笑い声なのだろうが、セリフを発している本人の笑いであってもおかしくなさそうだ。

ひるがえって先ほどの「百万人を超えた」における会場の反応が気になるところで、もしここに(爆笑)とでも書かれていればまだ余裕があるのかなとも思えるところだが、実際はどうだったのだろうか?

(百万人を超えた?)、(オイオイ、悪い冗談はよせよ)、(そんなに入会者がいたら我々は苦労しない)、(まったく、シャレにもならん)

これはわたくしが勝手に活動会員たちの心理を忖度したものである。さて、事実はいかに・・・

安倍政権に骨抜きにされたマスコミ
 唯一正しい言論機関は顕正新聞のみ


男子部第十五隊支隊長は某大手新聞社に在籍している。彼は現在の腐ったマスコミの姿には暗澹たる思いになると嘆き、上掲のごとく、顕正新聞だけが唯一の正しい言論機関だと言うのである。だったら某大手新聞社を辞めて顕正新聞社に入ればいいのに・・・と言うのはナシであろうか?

顕正会も徐々にではあるが各界各層に浸透し始めているのだろう。これはその一例である。

 長男は、池田大作の命令で創価大学に入学してより、二〇年間、音信不通で、ずっと安否が心配でした。

相変わらず創価学会ネタが豊富だ。これは婦人部の紹介で本年三月に入会した高齢の男性の記事だが、さすがに上掲は意味不明である。そもそも池田氏の命令で入学というのがわからない。まさか試験免除で入学したわけではあるまい。その上、なぜに音信不通なのか、それがまったくわからない。親ならば学費だとか生活費の心配をしなければいけないし、本人だってある程度は親の援助を期待するものだろう。それが音信不通ということは、何か特別な事情があったに違いないのだ。それがこの文章では、あたかも池田氏に原因があるかのごとく読めてしまう。ここがイヤらしいところである。

さて、今度もまた創価学会ネタの一種であるが、創価学会の幹部が言ったとされる次のセリフが面白過ぎる。

 「顕正会の会館は黒い建物で、無理やり入信させられた若者が、地下で強制労働をさせられ(大爆笑)、親が『子供を返せ』と外で泣き叫び(大爆笑)、サリンを撒かないオウムのような団体だ」

こちらは前掲とは逆で、男子部の紹介で年配の女性が入会したケースだ。それにしても、まさかこんな話が本当に出回っているとは思えないのだが、いかがだろうか?

最後に女子部四十五区組長の記事を紹介しよう。不幸自慢のような文章である。

 さらに不幸は続き、経営する蕎麦屋に客が車ごと突っ込んで店を壊わされたり、五回も泥棒に入られたり、終いには平成二三年、当時、水戸市内で発生していた連続放火事件に二度も巻き込まれ、一度は小火で済んだものの、二度目の放火でついに店は全焼してしまったのです。

これはツラ過ぎる。いろいろ書かれているが、わたくしは泥棒に五回入られたというくだりに注目した。これはもう自己責任というか、自分の側に何か問題があると考えなければいけないだろう。普通は一回入られれば用心する。二度あることは三度あるとも言うから、二度目の時にはセキュリティについて真剣に考えるだろう。つまり、謗法だとか罰だとか、そういう問題ではないということである。

2015/8/3

真夏の夢想  
沖浦氏の言っていることは的を外している。

 御真筆にこだわりすぎると仏法の本意を見失う危険がございます。

そういう話ではないのだ。撰時抄に「の実否」が入るか入らないか、このことは「の実否」が大聖人の御筆かどうかによるわけで、もし大聖人の御筆ならば御書全集もそのように改訂すべき、という話なのである。

これについては引き続き大沢氏より的確なるコメントを頂戴した。

どうやら「の実否」は後人の添加であって、大聖人御自らが加筆されたものではない、ということのようである。

だが、しかし、いちおう浅井先生の側に立って弁護めいたことを書いておこう。

浅井先生だって、そうした情報を知らないわけではないだろう。まず、これが大前提である。つまりは、そうした情報を踏まえた上で、これは後人の加筆ではなく大聖人御自らの加筆であると、このように判断したのだと思われる。
先生は松本日仁尊能化から秘蔵の資料を託された。その中に御真蹟の写真集があった。以前、そのようなことを言っていたことがある。あるいはそれに依らずとも、別ルートで御真蹟の写真を入手して、独自の研究をしていた。
これは冨士を購読していた人ならば容易に想像できることだろう。毎号、見返しの部分に御真蹟写真が掲載され、下段にはその解読文が付されていた。
そしてご存知のごとく、今は幻と化した顕正会版御書全集の出版計画。

以上のようなことから、一時期はそれなりに御書の研究をしていたことが窺えるわけで、その成果の一つが「の実否」なのだろうと考えられる。いや、もちろん、浅井説が正しいのかどうかはわからない。やはり従来の説が正しいのかもしれない。今ここでその結論を出すことは出来ないが、ともかく浅井先生だってそれほど馬鹿ではないだろうから、何かしらの根拠があってそのように言っているのだろう。現時点で言えるのは、ここまでである。

さて、六月度総幹部会の各種登壇を見ていくことにしよう。まずは第十婦人部長の記事だ。

顕正会の二百万を早める御奉公は、特別なことなど何も必要ない、あってはいけない、誰もができる、先生仰せのままの信心を、どこまでも励まし合い実践するのみ・・・

やや長めのセンテンスでわかり難いものの、わたくしは感銘を受けた。

今は広宣流布の最終段階である。さしあたっての目標は二百万。これを早めるために何か特別なことをしなければいけないとすれば、大変である。なぜならば、顕正会の活動はただでさえ大変だからである。もはやこれ以上の無理は利かない。ゆえに彼女は言うのだ。特別なことは何も必要ない、あってはいけない、と。

しかし、これは完全な理想論である。たぶん活動会員ならば、誰もがわかっていることだろう。理想はそうだが、現実は違うと。

次は第二十四女子部長である。

 すべては御本仏・日蓮大聖人様が立たしめ給う浅井先生の・・・

実に大仰だ。

 そして御遺命成就のそのとき、浅井先生の激闘に心を打たれた全日本人が、どれほどの思いで先生の偉大さを後世に残し、語り継いでいくことかを思えば・・・

結果は後から付いてくる。しかし、この場合、結果が先行しているというか、いたずらに夢想にふけっているばかりのように思えて仕方がない。スポーツの世界では一種のイメージトレーニングなのだろう、自分が勝った時の姿を想像することが好結果に結びつくと言われている。たぶん上掲には同様の意味があるのだろう。これが彼女のモチベーションにつながっているのだろう。とは言うものの、客観的にはかなりの無理があるわけで、結局は夢想と言わざるを得ないのではないかと思うのだ。

故郷・沖縄で準特集号を配布!
「沖縄独立こそ最大の自界叛逆」実感


婦人部越谷支区部長は新基地建設予定地の辺野古へ行って、反対運動をしている人たちに顕正新聞を配ったという。

 私が準特集号を広げて語ると、「俺たちは今日で三四〇日座り込みをしている。今日一日しか来ていない人に何がわかる!」とか、「独立するもしないも、沖縄は元々、日本ではない」との怒号が飛び交いました。

顕正会員の悪いクセ(?)である。以前は原発反対運動のデモを目標に顕正新聞を配っていた。今回もやっていることはまったく同じである。反感を買うのは当然であろう。

 私が「三四〇日座り込みしても、何の解決にもなりません。お力ある日蓮大聖人様におすがりする以外にないのです」と伝え、「真の解決方法が書かれています」と準特集号を渡すと、中には「解決方法があるなら知りたい」と素直に受け取る人もいましたが、多くの人は、怒りが頂点に達している様子でした。

悩ましい限りだ。

真の解決方法とは何かであるが、最終的には広宣流布・国立戒壇建立なのだろう。それが顕正会の主義主張である。だが、しかし、現地で反対運動をしている人たちが求めているのは、そうした最終結論ではない。当面の問題を解決したいのである。具体的には基地問題だ。ところが顕正会ではその答えを用意していない。基地をどうするのか、存続か撤退か、あるいは辺野古移設に賛成か反対か、という問題に対して、顕正会は何も答えていない。

怒りが頂点に達するのも無理からぬ話である。

そりゃそうだろう。三百四十日も座り込みをしているというのは、もはや尋常のことではない。失礼ながら異常である。彼らの心理状態は常軌を逸しているのである。ある意味、顕正会の活動会員と似ているかもしれない。ただ向いている方向が違うというだけだ。

ともかく基地反対のために体を張っている彼らにとっては、顕正会員のやっていることは水を差す行為であり、何のプラスにもならない。ようは邪魔でしかないのだ。

ならば方針転換すべきである。

沖浦氏みたいに功徳を語る。純粋に御本尊の功徳を伝える。ただそれだけに徹すればいいのだ。

つい先日も顕正会が政治に過干渉であることを指摘したが、くだんの登壇記事こそがまさに教訓である。政治的なことには言及せず、御本尊の功徳を伝えればいい。

浅井先生のご見識なるものも、ほどほどにしないといけないということだ。


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