2015/9/29

書くも物憂き独白の火曜日  
幻の総支隊長のブログはすでに存じ上げている。また、本名についても記憶が残っており、顕正新聞を調べていけば、ご芳名を確認することが出来るだろう。彼は今、猛烈な勢いで顕正会員たちを折伏しており、すでに数十人単位の脱会者を出したものと思われる。当然、脱会者はイコールで正宗への帰伏者となる。顕正会全体の規模からすればいまだ微々たるものかもしれないが、しかし、アリの一穴は侮れない。おそらくは本部首脳も相当に頭を悩ましていることだろう。大袈裟に言えば激震が走っているのだ。

こうした事象から見れば、拙ブログの独白などは屁のようなものであり、このところの批判的なコメントも頷けることではある。オマエはいつまで独白をやっているんだ? そんなことで何が変わるのか? 何も変わらないだろう? そろそろ終わりにしたほうがいいんじゃないのか? というような声が聞こえてきそうである。

戦争法案めぐり学会に自界叛逆!
 各地の学会員が公明党に怒りの声

安倍首相 またもヤジ!
 「そんなこと、どうでもいいじゃん」


顕正新聞第1353号の四面下段には、二つの記事がある。まず、安倍首相のほうから取り上げると、まあ、記事そのものは悪くないのだが、写真がやや問題である。たぶん同じ写真なのだろう。前にも似たような記事があったのだ。その時は民主党の辻元清美議員に対して安倍首相がヤジを飛ばした。そして今度は民主党の蓮舫議員にヤジを飛ばした。そして写真はそのヤジを飛ばしている時の様子をあらわしているのだろう。首相が口を尖がらかして何かを言っている。それがいかにも人相の悪いものなのだ。まあ、もちろん、それが合成写真でもない限りは別に大した問題ではないのだが、しかし、写真が前のものと同じだとすると問題だろう。いわゆる写真の使い回しである。

やや似た意味で隣の記事の写真にも問題があるかもしれない。

公明党を批判するプラカードを手に、デモに参加する学会員

そこにはバイバイ公明党とか仏罰などと書かれた写真が掲載されているわけだが、これはどこから手に入れた写真なのだろうか? 顕正新聞社の写真班が現場に行って撮影したものなのだろうか?

わたくしも確認作業をしていないので偉そうなことは言えないが、大体いつものパターンではどこかに掲載されていた写真を勝手に借用して記事を書いている、それが顕正新聞の時事ネタなのである。ゆえに写真はもちろんのこと、本文そのものもかなりの部分がパクリであるという事実がある。そりゃそうだ、顕正会独自でスクープを出せるほど、スタッフに恵まれているとは思えないし、そうしたノウハウもないだろうから、まあ、仕方がないことではある。

早く「極限の大謗法」に気づけ

もちろん、時事ネタの中にも顕正会の独自色は織り込まれている。上掲の小見出し以下の文章がそれだ。

 いまのところ、学会員の批判は公明党に向けられている。しかし、そもそも公明党は池田大作の私党であり、学会と一体である。ゆえに学会員が公明党だけを批判しているのは矛盾であり姑息である。

矛盾であり姑息である?

記事の執筆者にイチャモンをつけておこう。矛盾かどうかは難しいところだが、姑息は違うだろう。先の小見出しにも答えは出ているし、本文中にも答えはある。続きの文章をご覧に入れたい。

 何よりも成仏を願うならば、早く学会の「極限の大謗法」に気づき、その悪を責めなければいけない。

執筆者は自己中心的な思考に陥っていることに気がつかねばならない。ようするに創価学会員たちは「極限の大謗法」なるものに気がついていない。気がついていないのだから仕方がない。つまり、姑息ではないのだ。

むしろ顕正会流の表現を使えば、末端の創価学会員たちはケナゲなのである。姑息なのは創価学会首脳部だろう。

そして同様の意味が顕正会にも当てはまる。

末端の顕正会員たちはケナゲである。ケナゲに御奉公に励んでいる。そして姑息なのは顕正会の首脳部である。そこに今回の幻の総支隊長の一件が持ち上がってきた。これは本部首脳に対する諸天の鉄槌(?)なのかもしれない。

2015/9/26

書くも物憂き独白の土曜日  
顕正会に対し、かなり辛辣なコメントが寄せられている。ほんの一部分だけ紹介しよう。

ブラック企業顔負けの厚顔さで、当たらぬ予言を繰り返し、自語相違をなかったかのように誤魔化すのも日常茶飯事

さしあたっては近く発刊される基礎教学書が注目される。従来の折伏理論書とどのように違っているかである。おそらくは一千万の誓いがなくなっているのだろうと推測するが、それは出来してからのお楽しみである。

しかし、一方では次のようなコメントも寄せられている。

私にとって戒壇の大御本尊様の御存在を初めて教えてくれたのは顕正会(浅井会長)ですし、顕正会員の中にもそういう人は多いのではないかと思います。

これは凄いことである。この事実はとてつもなくデカイ。だが、しかし、着地点が問題なのだ。昨日も書いたように、このまま独立教団路線を続けて大石寺と無関係の存在になってしまえば、もはや上掲のような功績は帳消しである。この意味で、浅井先生に残された時間は少ない。何とか間に合ってほしいものである。

それはさておき、沖浦氏である。

 世界広布へ向けて、偶像崇拝はマイナスでしかございません。

何を言っておるものかと思う。これはあたかも爾前経の随他意的な考え方であって、大聖人の仏法とはまったく異なるものである。いわゆる大曼荼羅信仰が偶像崇拝なのかどうかという議論ではなく、それがプラスになるかマイナスになるかという考え方がおかしいのだ。確かに仏法を弘めるにあたっては、教・機・時・国・教法流布の先後を考える必要があるわけだが、それとこれとはまったく別の話である。沖浦氏の言い様だと、教えそのものを捻じ曲げてもいいように聞こえてしまう。そんな馬鹿な話はあるまい。これを本末転倒と言うのだ。

今、創価学会が次々に教義を変えようとしているのは、いわばそれが手段に過ぎないからなのだろう。創価学会にとって大聖人の仏法は手段に過ぎない。具体的には組織力を維持し、公明党への集票力を保持することによって、政界に隠然たる影響力を持つ。これが目的と化しているのだ。

すると手段は何でもよいわけであって、極論すれば大聖人の仏法でなくても構わないことになる。このように考えれば、教義の改変などは屁のカッパである。

しかし、どうだろう。こんな調子でいつまでも会員がおとなしく付いてきてくれるだろうか? 先の安保法案における公明党への不満は、いずれ創価学会本体に向けられてもおかしくはない。その辺のことを創価学会の首脳部はわかっているのだろうか?

話は変わる。

 倉の財より身の財が大事、身の財より心の財はもっと大事。
 心の財が積める方が、身の財、倉の財を積めない道理がない。


同じく沖浦氏のコメントであるが、三種財宝御書というのは創価学会での呼び方であろうか? 確かに四条金吾殿あての御書はたくさんあるので、こうして便宜的に名称を付するのはいいことだ。それはともかく、上掲の是非について申し上げよう。

まあ、意訳としてはそれでもいいだろう。しかし、直訳的には不可だと思う。

蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財よりも心の財第一なり。

これが原文である。そして続きがある。

此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし。

つまり、沖浦氏の言っているようなことは、どこにも認められていないのである。

殿は一定腹あしき相かをに顕はれたり。

殿は腹悪しき人にて・・・


当該御書にはこうした伏線がある。そして前掲の直前には次の一文があるのだ。

中務三郎左衛門尉は主の御ためにも、仏法の御ためにも、世間の心ねもよかりけりよかりけりと、鎌倉の人々の口にうたはれ給へ。穴賢穴賢。

そもそも心の財とは何かが問題であるが、そこは難しくなるのでやめておきたいと思う。しかしながら文脈上の意味はわりと明瞭であり、直前の「世間の心根も吉かりけり吉かりけり」がその答えと言っても差し支えないだろう。四条金吾という人は性格的にかなり問題があった。ゆえに大聖人もそこを御心配あそばされているのだ。

以上の理由から、沖浦氏の語訳はいわゆる意訳であって、直訳的には不可である。

しかしながら、

 何故このように拝するか?

 脆弱な自分の、命の逃げ道を閉ざしたいからです。


このような姿勢はひじょうに立派であり、わたくし自身も見習わないといけないと思っている。

2015/9/25

書くも物憂き独白の一週間  
前回分のコメント欄が異様に盛り上がっていたが、ようやく沈静化したようである。特にわたくしから申し上げることはない。

ブルートレインには乗ったことがないけれども、おそらくはそれに準ずる列車には乗ったと思う。いわゆる牽引車と客車が分離しているタイプのことだ。というのは、発車する時の引っ張られ感のようなものと、停車する時の逆の感覚が印象的だったので、たぶんそれが蒸気機関車に始まる鉄道における歴史の、一つの懐かしい記憶なのだろうと思う。今の列車は電子制御が完璧なので、すべての車両が同時に動くし同時に止まるのだと思う。あるいは貨物列車ならば昔の感覚を味わうことが出来るのかもしれないが、まあ、一般人がそれに乗る機会はほとんどあり得ないことなので、若い人にはわたくしの言っていることがピンと来ないかもしれない。

こうした話は鉄道に限ったことではなく、例えば妙信講時代からの顕正会員と最近の顕正会員だとか、あるいは浅井先生と城衛だとか、経験してきたものが異なるので自ずと感覚的にもいろいろと異なるものがあるのではないかと思う。ようするに、正宗寺院に当たり前のように参詣していた妙信講員と今の顕正会員とでは感覚が違っていて当然であるし、かつては何度も大石寺に参詣し戒壇の大御本尊を拝してきた浅井先生と今の城衛とでは、やはり違うはずなのだ。

時代の変化によって失われていくものは多いし、仕方のないことである。けれども顕正会の場合は違うだろう。このまま時代を経て、大石寺とは無縁の独立教団になるとしたら、それは浅井先生の責任である。戒壇の大御本尊への恋慕渇仰がただの謳い文句ではなく本物なのであれば、ぜひとも宗門との関係修復に尽力願いたい。これがわたくしの一貫した主張である。

顕正新聞第1352号の続きである。

有難すぎてとろけてしまいそうな感激・・・

副総合婦人部長の文章から拾ったわけだが、特に申し上げることはない。変わった表現だと思って、紹介したまでである。

一言一言がビリビリと命に響き・・・

同じく副総合の文章だ。それほど変わった表現ではないかもしれないが、実は一面の報道部分に気になる表現があるのだ。

・・・との意気込みが、ビシビシと伝わった。

これは婦人部班長会を報じる文章の一部である。ビシビシとビリビリ。個人の登壇記事であれば、こうした擬音語は文字通り表現の自由に属することだろう。しかし、客観性が求められる報道部分において、ビシビシはどうかと思う。以前、ビシビシ派とヒシヒシ派の話題を書いたことがあった。わたくしの感覚だと、ビシビシは最近の若者言葉であり、ヒシヒシこそが昔からの日本語表現だと思う。ちなみに浅井先生はヒシヒシであり、城衛はビシビシだったが、いつの間にか城衛もヒシヒシを使うようになった。

しかし、拙ブログもくだらないことを話題にするものである。

結果、女子部としては過去二番目の大結集が叶いました。

今度は総合女子部長である。過去二番目の大結集で喜んでいるのはどうかと思う。常に過去最高を更新し続けなければダメだろう。上掲は総幹部会のビデオ放映の結集を言っているわけだが、すると毎月の結集は一進一退であり、悪ければ過去五番目だとか十番目、あるいはそれ以下の時もあると言っているに等しいだろう。女子部がこのテイタラクである。おそらくは男子部も婦人部もドッコイドッコイだろう。

 佐渡において大難を忍ばれる大聖人様が、暖衣飽食の弟子一同に大教令を下さる・・・

これはやや事実誤認があるように思う。暖衣飽食の弟子がそれだ。今は明確な文証を提示できないけれども、おそらくは浅井先生がそのような意味のことを言っていたのだと思う。しかし、当時の弟子檀那たちはそんな生易しい状況ではなかった。何しろ千人中九百九十九人が退転したという過酷な状況なのである。牢に入れられた弟子もいたくらいだ。つまり、退転せずに大聖人の弟子檀那を貫いただけでも立派なことであり、暖衣飽食などというソシリは当たらないのだ。もちろん暖衣飽食の弟子檀那もいたかもしれない。いつの時代も要領のいいヤツはいるからである。しかし、それはごく少数の人であろう。大半は大変な思いをしていたはずである。

顕正会には派閥がない。

婦人部春日部支区部長の記事に出てくる一入信者の発言である。確かにそのとおりだろう。なぜならば顕正会は浅井先生のワンマン体制が確立しているからである。

物事には善悪の両面がある。例えばワンマンという響きにはやや批判的な意味が感じられるところで、どこかの会社が倒産したりすると、あそこは○○のワンマン経営で誰も意見をする人がいなかった、だからおかしくなったのだ、というようなことが言われたりもする。また逆に、船頭多くして船山に上る、という言葉が示すとおり、むしろワンマンのほうがいい場合もある。ゆえに一概には言えない問題だ。

わたくしの思うに、浅井ワンマン体制はそのままイコールで顕正会の限界を示すものである。

今の創価学会は集団指導体制のような感じになっている。池田大作氏が表舞台から降りて、いわばカリスマ的な存在がいない。それでも組織が機能しているとすれば、集団指導体制がうまく行っているからなのだろう。

ちなみに、かつての創価学会は池田ワンマン体制とも思える時代が長く続いたけれども、委細に見れば違うのだと思う。これはつい先日、沖浦氏が世襲制の問題に言及していたこととも関連する話で、そもそも池田氏は世襲ではない。また、戸田城聖氏から禅譲を受けたわけでもない。いわば実力で会長の座を勝ち取ったのだ。当然、ライバルがいたはずで、表立って張り合わなかった人たちの中にも、池田氏の会長就任を快く思わなかった人がいても不思議はない。いわゆる不満分子である。これらがクスぶり続けて、もちろんその他にもさまざまの要因があって、後に池田氏は会長辞任に追い込まれていくことになるのだ。これは良くも悪くも創価学会が巨大な組織であって、層が厚いからである。

これで先ほど、顕正会の限界を云々したのも頷けるはずである。顕正会は層が薄い。実に薄っぺらな組織なのだ。ゆえに浅井ワンマン体制を脅かす存在は出てこない。だからこそ、いつまでもこじんまりとした組織にとどまっているわけである。

最後にもう一つ。

私個人のおカネを五〇万貸します。

婦人部群馬支区組長の体験発表に出てくる話である。これは銀行の融資課の課長の発言ということなのだが、わたくしにはさっぱり理解不能である。むしろ銀行とはまったく無縁の人であれば、マレにはそういう善意の人もいるのだろうとは思うのだが、しかし、銀行員が自分のポケットマネーを貸すとは、ちょっと考え難いことである。

しかも余計な心配を書いておくと、こういう公のところで発表するのは問題で、この銀行員のところに、○○には五十万も貸してオレには貸せないのか・・・みたいな、一種のユスリがあらわれないとも限らない。顕正新聞はその辺の配慮が足りないのではないかと思う。


九月二十六日追記:一部修正した。

2015/9/16

書くも物憂き独白の水曜日  
顕正新聞第1352号は夏の合併号である。しかし、この合併号は特集号ではない。準特集号でもない。ようするに顕正新聞としてはツマラナイほうに分類されるのだ。事実、十ページ立てであるにもかかわらず、七月度の班長会における登壇記事ばかりが並んでいて、他には地方集会の報道があるものの、時事ネタのコラムだとか食べ物のコラムとか、そういうものは一切ないのだ。これはもうガッカリだろう。特集号ないし準特集号とのギャップが激し過ぎるのだ。

例えば週刊誌などでも合併号はある。彼らも休みが欲しいわけで、年に何回かは二週分を一まとめにした合併号が出される。当然、この時には通常の一週分よりもボリュームがあったり、内容的にもよりいっそうの充実が図られる。でなければ読者は満足しない。満足しなければ読者は離れていく。義理で買う必要はないからだ。

顕正新聞の場合はどうだろう。活動会員ともなれば、半ば強制的に買わなければいけない。ツマラナイから購読しないなどということは許されない。本音がどうであれ、購読するのが当たり前なのだ。ましてや購読拡大の推進も活動の一環なのだから、逃げ道は存在しないのである。

歓喜の語り合いこそ天然酵母!
 大聖人の絶大威徳 全日本人に伝えん


そして今回の新聞は第一面に総男子部長の記事が掲載されている。ちなみに当該号には浅井先生は登場しない。

これで名実ともに城衛が次期会長に確定したと言えるだろう。第一面を飾るのは浅井先生である。これまで例外はなかったはずだ。当該号の意味を最近の顕正会用語で表現すれば、城衛の第一面登場は城衛こそが現時点における準浅井先生という意味に他ならないだろう。準が取り払われるのは時間の問題だ。

さて、記事の内容であるが、これはいつもと変わらない。そういうわけで、わたくしのほうとしても、いつもと同レベルの取り上げ方しか出来ない。

まずは見出しにイチャモンをつけると、歓喜の語り合いこそ天然酵母というのが意味不明である。いや、もちろん、顕正会員たちはわかっている。一連の浅井先生の指導を聞いていれば、誰もが理解できる話である。しかし、一般人にはわけがわからない。これが特集号ないし準特集号とのギャップであろう。また、全日本人に伝えん、というのも微妙なところで、ややもすれば「伝えない」という意味にも受け取られかねない。いやいや、それは考え過ぎだろうか? 日本人の国語力を低く見過ぎかもしれない。ともかく天然酵母は意味不明だろう。それだけは間違いない。

本年の最終法戦こそ大爆発し・・・

本文中ではこれに注目した。前法戦は空前の大折伏だったはずである。しかし、それでもなお、城衛の本音としては不充分なのだろう。こんなんじゃダメだ。もっともっと大爆発しないといけない。さもなければ・・・

善意に解釈すれば、亡国に間に合わない、ということだろう。

けれども意地悪く見れば、顕正会の崩壊に歯止めが掛からない、という不安を払拭できないのかもしれない。

このことは二面に載る男子部総務の発言からも窺うことが出来そうだ。

最終法戦こそ様変わりの大折伏の証拠に顕わしてまいります・・・

ちなみに当該記事の見出しも気になる。

目の覚める大感動、全組織を弾ません

弾ません? 弾ますのか、弾まさないのか、紛らわしい。

四面の女子部総務、この総務は中国・四国方面を担当する人であるが、上述の話題と関連する意味で次のくだりが注目されると思う。

 四国の第九女子部におきましては、法戦中、幾度も体制を整えて頂き・・・

これは普通じゃない。法戦途中でそのようなことが行なわれるのはめずらしい。想像されるのは深刻なる内部崩壊である。四国のほうで大量の脱会者が出た。女子部の幹部クラスが脱会してしまった。放っておけば芋づる式に脱会者が増えていく。ゆえに早急に手を打って事態の収拾に努めた。

あくまで想像に過ぎないとは言え、前掲の男子部幹部らの発言と併せて読むならば、それ相応の蓋然性が感じられる話だと思う。過去最高だとか空前だとか言っている割には、むしろ逆の意味での切迫感が読み取れてしまうのだ。イヤミながらも過去最高ならぬ最速、空前のスピードで崩壊に向かっている、それが顕正会の実態なのかもしれない。

さて、第二面に戻って、第十八男子部長の記事を紹介したいと思う。

 慢心の安倍首相は、この亡国の悪法を、一切の反対や抗議声明を無視して、この七月に強行採決をやってのけましたが、衆議院本会議で可決した日は、七月一六日・立正安国論御奏進の日、そして同日に最大級の台風が日本列島を縦断した不思議に、諸天の怒りを感じ・・・

これはひじょうに興味深い記述である。例えば、いよいよ参院での採決が迫っている。さて、諸天善神は我々に何を見せてくれるだろうか?

しかし、最大の注目点は別にある。再掲しよう。

亡国の悪法・・・

これである。大聖人の仰せによれば、亡国の悪法とは真言のことである。もちろん、これは別してのことであって、総じては大聖人の仏法に背く一切の邪法を意味するのだ。

しかし、第十八男子部長の言うところの亡国の悪法とは、いわゆる安保法案のことなのである。彼にしてはめずらしい。こんなチグハグなことを言う人ではなかったはずなのだが・・・

たぶん、意味のわからない読者もおられると思うので、本文中から別の一節を拾っておきたいと思う。これを読めば話が見えてくるはずだ。

 今になってあわてて、集団的自衛権を憲法を捻じ曲げて強引に押し通し、アメリカに媚び諂う安倍政権の浅はかさを見ては
 「もう日本の指導者は浅井先生しかおられない」
 との思いが強く込み上げるものであります。


ようするに、宗教次元の話ではなく政治次元の話に堕している、ということなのだ。浅井先生は宗教的指導者のはずである。ところが引用部分を読むと、まるで政治的指導者ではないかと思えてしまう。だったら衆院にでも立候補して政治家になればいい。そして総理大臣にでもなれば思う存分に政治課題に取り組むことが出来る。腕の見せ所だ。

思考の錯乱ということを思わざるを得ないところだ。

顕正会は国立戒壇を主張している。しかし、これは相当に困難なことである。理論的にも現実的にも壁にぶつかっている。単純に言うと、なぜに国立戒壇建立が日本ないし全世界を救うことになるのか、その合理的説明が出来ていない。いや、もちろん、いちおうは説明している。しかし、一般人にはまったく理解不能である。これが第一の困難である。そして第二の困難は現実的な問題だ。仮に理論的に万人を納得させるだけの説明が可能だとしても、顕正会の現状を見れば落胆を禁じ得ない。こんなテイタラクで広宣流布が可能だとは誰も思わない。つまりは机上の空論である。

そこで意識的になのか無意識なのか定かではないが、スリカエが行なわれるのだ。ようは仏法次元から政治次元へのスライドである。本来、亡国の悪法を云々する場合、それは宗教次元の話でなければならない。ところが今回の記事は明らかに政治次元の話なのだ。これではダメだろう。

ようするに世法上の見識で人々を魅了したところで、何にもならない。それは単なる各論の話であり、是々非々の話なのだ。そこから仏法上の話に持っていくことは困難を極める。結局は元のモクアミ、すなわち理解困難ということで人々は離れていくのである。

一種の堂々巡りなのだろう。

ストレートに仏法の話をする。理解困難である。すると政治経済などの話にスライドして、浅井先生のご見識なるものを振りかざして説得を試みる。確かに政治経済の次元では相当の納得を得られる。そこで再び仏法の話に引き戻す。すると途端に理解不能に陥る。この繰り返しなのだ。

まあ、今回は第十八男子部長の発言の、いわば言葉尻を捉えてグダグダと書いたわけだが、それでもそれなりに本質を突いているのではないかと思う。

2015/9/13

書くも物憂き独白の日曜日  
先週の豪雨は関東ないし東北の各地に甚大な被害をもたらした。また、昨日は首都圏でわりと強めの地震があった。

顕正会的に言えば、いよいよ三災七難が本格化してきた・・・といったところなのだろうが、自然災害は過去から現在にかけて一定の頻度で起こっている。ただし、自然はいつも気まぐれであって、いつどこで何が起こるかはわからない。わたくし自身、今年は九州方面でけっこう雨が降っているなあという漠然とした印象を持っていたが、同じことが関東東北でも起こっただけの話である。あるいは火山の噴火も同様であって、もはや日本列島のどこで噴火が起ころうとも驚くことではない。地震もしかりである。

さて、各方面からコメントが寄せられているけれども、んっ?氏の今朝のコメントが唐突過ぎてよくわからなかった。また、ポバイ氏のそれはわたくしへの批判なのだろうけれども、特に反論めいたことを申し上げるつもりはない。ああ、そうですか、である。

そこで今日は顕正新聞第1351号から話題を拾うことにしよう。まずは第十五婦人部長の活動報告だ。

 部内には、上は八〇代・九〇代の後期高齢の組長から、下は高校一年生の組長まで、層の厚い人材が集い・・・

そりゃあ、層が厚いだろうよ。もう何年も前から指摘しているように、今や顕正会の組織は混成部隊であって、わけがわからない状態になっている。上掲の場合、高校一年生と百歳に近いような人が同じ組織にいるわけだから、これを層が厚いと言えばそれはそのとおりだろう。しかし、顕正会には女子部がある。ならば高校生は女子部に所属するべきだろう。その上で顕正会全体として層が厚いと言えば文句はないのである。

ちなみに男子の場合は、壮年部が廃止になってしまい、現在は男子部に一本化されている。だったら同じように、女子部婦人部も一本化すればいいはずなのだが、たぶん、それはないだろう。

ともかく、こうした組織の問題は部長クラスであっても手が出せない。ようは与えられた環境の中でどうやって結果を出すか、ただそれだけが求められているのである。ゆえに本来ならば女子部員となるべき若い人たちを婦人部で抱え込んだり、逆に婦人部に移籍すべきそれ相応の年齢の人たちをいつまでも女子部で抱え込んだりして、折伏だとか結集に結び付けようとするわけである。さらに女子部ないし婦人部には、男性部員が混在している。これもまた成果至上主義なるがゆえであろう。本来ならば男子部に移籍するのが筋なのだが、いつまでも抱え込んで離さないのである。これは言うまでもなく、成果の足しになるからだ。

いつまでもこんな状態を続けていて、はたして大丈夫なのだろうか?

「法主上人は御金言より権威がある」
 大謗言を吐いた日顕の一番弟子


これは男子部第七十四隊支隊長の記事に付された見出しである。まず感心したのは宗門僧侶と五時間にわたり法論したことだ。どうも最近の顕正会員は宗門に対して及び腰であり、法華講員が接触を試みても会おうとしないという話が、ネット上にはよく出回っている。たぶんこれは樋田氏のグループだとか、あるいは妙観講、それからトチロ〜氏などの活躍によるのだろう。現状では顕正会員に勝ち目はない。ましてや成果に追われる顕正会員にとっては、会うだけ時間のムダということなのだろう。それがくだんの登壇者は宗門僧侶と五時間にわたって法論したというのだから大したものである。

もっともこの場合、法華講から入会してきた老夫婦を、いわば宗門側が奪還を図ってきた。それで双方がぶつかり合う展開になったわけである。ゆえに支隊長も好き好んで法論に出向いたわけではないのだろう。

それはともかく、内容が問題である。この記事を信用するならば、宗門側の言っていることも相当におかしい。まずは見出しにあるごとくだ。

 「法主上人は、大聖人様の御金言より権威がある」

本文中にはご覧のごとく書かれている。これはどういうことなのだろうか? もしかしたら次のような図式になるのかもしれない。

大聖人>猊下>御書

まさか猊下は大聖人よりも権威があるとは言うまい。それを言ってしまったら正真正銘の猊下本仏論になってしまう。まさかそこまでは言うまい。すると上掲の図式が一つの考え方としてあり得るかもしれない。

拙ブログでも時には大聖人の仰せに疑問を呈することがある。ようは現代感覚に合わないような部分が御書の各所に存在するわけで、これについてどのように拝するべきなのか悩むことが時々あるのだ。

もしかしたら、くだんの宗門僧侶の言っていることはこのことなのかもしれない。ようはそういう部分については、猊下の判断で現代流にアレンジする。猊下にはそうした権能がある。それを端折って言えば、御金言よりも権威があると、おおむねそんなところなのかもしれない。

もちろん、これが正解かどうかはわからない。

だが、いちおうはこれでよいことにしよう。宗門僧侶の言っていることは、これでいちおう納得できる。

ところがである。もはや次のセリフを読むと、わけがわからなくなるのだ。

 「時の法主は絶対に間違いを犯さない」

ここで創価学会系の謀略情報紙にお出まし願うとすれば、さまざまのことをあげつらうに違いない。教義上のことだけではなく、スキャンダラスなことまで、あれもこれもと書き連ねることだろう。

しかし、わたくしはそれをしない。そもそもそうした情報を知らないし、知りたくもない。だから、そうした類のことは書かない。

いや、書く必要がないのだ。

ごく単純に、常識的な思考力を持つならば、くだんの宗門僧侶の言っていることのおかしさが、よくわかるはずなのだ。

大聖人にも間違いが存する。これは事実であろう。そして先ほども書いたように、現代感覚に合わない部分がある。この部分を時の猊下がうまくアレンジすることによって整合性を持たせる。もし猊下にそうした権能が存するとすれば、猊下は御金言より権威があると言えなくもない。いちおうはそういうことでよいと思う。

だが、しかし、時の猊下は絶対に間違いを犯さない? オイオイ、それはないだろう。それはおかしいだろう。

大聖人すら間違いを犯すのだ。いわんや猊下をやである。

もし、それでもなお猊下は無謬であると強弁するならば、おそらくは次の図式が成り立つことになるだろう。

猊下>大聖人>御書

もはや、頭がおかしい。まさかこれを正当化し得るロジックが存在するとは思えないのだが、いかがだろうか?

以上は、顕正会側の言い分を全面的に信用した結果であり、事実かどうかは別である。当然ながら、くだんの宗門僧侶にも言い分があるだろう。まあ、五時間も議論すれば話があちこちに飛ぶだろうから、そうした膨大な発言を都合よく切り貼りした結果が、今回の記事なのかもしれない。

2015/9/9

書くも物憂き独白の人生  
宮田幸一教授はいわゆる御用学者なのだろう。創価学会御用達ということだ。それが彼の仕事であり、メシのタネということである。しかし、多くの人が指摘していることだろうし、わたくしも同様であるが、創価学会の過去の歴史を全否定するような愚かな行為だと言わざるを得ない。

たとえば、ビックカメラだとかヨドバシカメラ、他にも○○カメラというような名称の家電量販店が存在する。たぶん、その昔、これらはカメラ屋さんだったのだろう。そこから多角経営に乗り出し、今日のような姿に変わっていったのだと思われる。

しかし、こういうのを変節とは呼ばない。変貌とは言うだろうが、変節ではない。ようするに商売である。商売は金儲けが目的である。すると商品は手段ということになる。金儲けのためには手段を選ばない・・・などと書くとアコギな印象を受けるかもしれないが、ようはいつまでもカメラだけにこだわる必要はないわけで、その結果として取り扱い商品が拡大していき、今日の姿になったわけである。

では、創価学会の場合はどうか、である。

今や金儲けだけが目的なのかもしれない。彼らにとって大聖人の仏法とは、その目的を遂げるための手段に過ぎないのかもしれない。もしそうだとすれば、他にも手段はある。つまり、大聖人の仏法にこだわる必要はない、という理屈にもなるだろう。

すると昨秋の教義改変は同業他社との差別化を図ったことになる。

同業他社とは宗門であり顕正会のことだ。ご存知のごとく、創価学会員の一定数が宗門ないし顕正会へと流れていく。これはビックカメラで買い物していた人がヨドバシカメラに鞍替えするようなものである。家電の場合は自由である。自由競争の世界であり、あくまで購買側に選択権がある。

実は現憲法下では信教の自由もまったく同じ理屈なのだ。

すると、どうなるだろう。語弊を承知で書けば、本尊という商品を提供している本家本元が宗門なのである。創価学会はいわば海賊版を売っているようなものなのだ。ちなみに顕正会もまたそれに近いものがある。さて、購買者はいずれを選択するだろうか、という話なのだ。

これはもう、創価学会が圧倒的に不利である。同じ製品を取り扱っているとすれば、自ずと本家本元が有利である。しかも本家本元から海賊版のレッテルを貼られてしまっているのだから、これはもう堪らない。

つまり、同じ土俵で戦っていたら勝てない。いや、今も決して負けているわけではないのだが、いずれは負けるかもしれない。少なくとも定常的に宗門へ移籍していく人たちがいる事実がある以上、このまま手をこまねいていたら事態は悪化するかもしれない。

そこで大きな決断に打って出た。

これらはあくまでわたくしの勝手な所感に過ぎないが、それなりに蓋然性の高い話だと思う。いずれにしても宗教の教義には一貫性が求められる。ゆえに教義改変というのは大変なリスクを伴なうものであって、普通はやらないほうが得策なのである。しかし、上述のごとく、放っておけば宗門への回帰を願う人たちが後を絶たない。ゆえに、リスクを承知の上で教義改変に打って出た。もちろん、リスクは最小限に抑えたいわけで、そのための一つの手段として御用学者に登場願ったわけなのだろう。大学教授の肩書きを持つ人が云々かんぬんすれば、それなりに説得力を持つ。

大きな決断という意味では、公明党の問題も相当だろう。

今の安保法案をめぐっては、創価学会員の中から疑問の声が上がっている。公明党は与党内におけるブレーキ役だったのはなかったか? それが今はブレーキではなくアクセルを踏んでいるような状態である。また、創価学会本体も態度がアイマイである。過去の経緯からすれば、安保法案に断固反対を表明するべきだが、どうもその様子が見られない。これはもう、民衆の側ではなく、権力の側にすり寄る姿そのものではないかと言わざるを得ないだろう。

もしここで、創価学会が安保法案に断固反対を表明したら、これはもう拍手喝采である。

なぜこのようなことを書くかと言えば、できっこないからである。できっこない。誰もがそのように見ている。ゆえに、もし実現すれば、拍手喝采である。

以下もまた、憶測の羅列であることをお断りしつつ書くが、創価学会の本部首脳としては組織の維持を図りたい。自分たちのメシのタネだからである。そのための手段として教義改変を行なった。大きな決断である。公明党の問題も同じ理屈であろう。公明党が権力側にいることが、創価学会にとってメリットなのである。具体的なことはわからない。けれども、公明党が与党にいたほうが、いろいろと都合がいいのだろう。ゆえに、消費増税でどれほど不評を買おうと、あるいは今度の安保法案で組織内から疑問の声が上がろうと、黙殺するのである。

安保法案反対、公明党の政権離脱、これこそが本当の意味での大きな決断のはずであるが、やっていることは逆である。彼らとしては、それがベストではないにしても、ベターの選択肢であると判断したのだろう。けれども、わたくしとしては先般の教義改変にしても、今の安保法案の問題にしても、ことごとく判断を誤っているのではないかと思わざるを得ないのだ。


九月十三日追記:一字加筆した。

2015/9/7

書くも物憂き独白の日常  
沖浦氏のお求めの御文は四信五品抄にある。

濁水心無けれども月を得て自ら清めり。草木雨を得て豈覚り有って花さくならんや。

また、今の顕正会は半世紀前の中国に似ているとのご指摘であるが、これはちょっとピンと来ない話である。

 共産党一党独裁で社会主義の国で、私有財産を原則として認めなかったので、刈り取った稲が突然の雨で濡れても、誰も知らん顔です。

日本には滅私奉公という言葉がある。自分の財産ならば大事にする。それは当たり前の話である。中国は私有財産を認めなかった、だから労働意欲がそがれてしまった。これもよくわかる話だ。では、日本における滅私奉公とは何だったのだろうか? わたくしはここに日本の良き伝統文化を見るのである。いや、もちろん、自己犠牲一辺倒であったならば、堪らない。けれども昨日別件で書いた相互性ないし双方向性の理論がここでも生きてくるわけで、お互いが自己犠牲の精神を発揮すればチャラになる。おそらくはこのほうが自己中心的な考え方よりもいいはずである。

もっとも自己中心的な人間ばかりの中で、こうしたキレイごとを言っても無駄という感じは否めないのだが・・・

ただし、上述のことはあくまで理想論であって、顕正会の実態からすれば、沖浦氏の言っていることも相当である。というのは顕正会ではいわゆるボランティア活動をしない。世間でやっているボランティアは根本解決に至らない、諸問題の解決はあくまで仏法による以外にない、だから世間のボランティアはまやかしである、というのが彼らの言い分である。しかし、それはいちおうの説明であって、本当は別の理由があるのだ。ようするに折伏の成果に追われて他のことをする余裕がない。これが真の理由である。この辺は、刈り取った稲が突然の雨で濡れても誰も知らん顔、という話とかなり共通すると思う。極端な話、道で誰かが倒れていたとしよう。救急車を呼ぶのが先決である。しかし、今の世知辛い世の中では、そのまま素通りしていく人も少なくないという現実がある。もしかしたら顕正会員もその一人かもしれないのだ。救急車を呼んだって根本解決にはならないみたいな、まさかそんな馬鹿なことを言う人はいないとは思うが、折伏の予定が迫っていて待ち合わせの場所に急いでいるような場合であれば、もしかしたら素通りしてしまうかもしれないのだ。いや、もちろん、そんな顕正会員ばかりではないことも書き加えておかねばならないだろう。物凄く善意のお人好しの人たちもたくさんいるのだ。

さて、ここで大幅に後退して、顕正新聞第1350号から話題を拾おう。これは七月二十五日号だから、まさに後退である。

 それにしても、先生が安倍首相に対し「上から目線・慢心」と諫められてから、響きの声に応ずるごとく瞬く間に潮目が変わり・・・

女子部第十二区長も相変わらずだ。ここでは諸天の感応みたいな表現は見られないものの、言っていることはほとんど同じである。世の中は浅井先生を中心に動いているわけではない。先生の発言があろうとなかろうと、遅かれ早かれ支持率は下がる運命にあったと見るのが一般である。

次は女子部第百八十三区長の活動報告である。

また長く逆縁が続いていた組長や班長も、数年ぶり、あるいは一〇数年ぶりに証拠を頂きました。

これは組織の実態を示すものである。数年振りならばまだしもである、十数年振りは凄まじいだろう。その間、サボっていたわけではあるまい。それでいて、折伏の成果を上げることが出来ずにいたとすると、これほどツライ状況もないと思う。

そして成果至上主義であるならば、いわゆる降格もやむを得ないことだと思う。しかし、彼女らは班長ないし組長のまま、十数年を過ごしてきたのである。

つまり、成果が上げられないからといって、降格処分を下していたら、人材がいなくなってしまう。だから切るに切れない。これが顕正会の実態なのだ。

自虐史観の闇から救って頂いた!
 沖縄全県民に準特集号を読ません


これは女子部第三十四区総班副長の記事に付された見出しである。記事の中身はともかく、わたくしはこの見出しが気になって仕方がなかった。

読ません?

たぶん文語的な表現としては正しいのだろう。しかし、口語的にはあたかも正反対の意味に受け取られそうである。どうなんだろう、これは単なるイチャモンだろうか?

次は男子部第四十二隊支隊長の活動報告だが、これまたひじょうに悩ましい。

 また私ごとで大へん恐縮ですが、私は前職において、言われなき讒言により、長年勤務した会社を退職せざるを得ない状況となってしまいましたが、そのことをお耳にされた先生は、顕正会の顧問弁護士をつけて下さり、裁判の結果、全面勝利での解決をしたのでした。

具体的なことは何一つわからないので迂闊なことは言えないが、少し気掛かりな事例だと思う。ようするにこの人は裁判で勝ったわけだ。ということは相手は負けたのである。わたくしは負けた側の気持ちに立って考えてみた。すると、どうだろう。おそらく負けた側は雇用関係にあった当事者に対しての感情もさることながら、顕正会に対しても特殊な感情を懐くことになるのではないかと思う。もちろん、良からぬ感情である。となると、もう顕正会員を雇うのはコリゴリだ、面接の時に顕正会員だとわかったら不採用にしよう、ということにもなりかねないだろう。この点を顕正会の本部首脳は顧問弁護士とよく協議して、今後の裁判に生かすべきだと思う。でなければ顕正会のイメージは悪くなる一方だし、ややもすれば顧問弁護士も悪徳弁護士の烙印を捺されかねないということにもなるだろう。

婦人部富士宮支区総班長の記事も悩ましい。

 また、妹の○○組長は離婚を突き付けられるも
 「広宣流布まであとわずか、たとえいま、子ども達の傍にいることができなくても・・・


いつも言っているように、この「あとわずか」が問題なのだ。これもまた本部首脳の考えるべき課題である。極論すれば、家族崩壊を招く悪徳宗教というレッテルを貼られかねないのだから、何らかのガイドラインを示す必要があるはずである。

何だこりゃ!学会の「百万遍積立口座」帳
  数だけの空題目で会員をだます無道心


男子部第四十七隊班長の記事であるが、ご丁寧にも百万遍積立口座なるもののカラー写真が掲載されている。創価学会も面白いことを考えるものである。しかし、この通帳は預け入れは可能だが、引き出すことは出来ないのだろう。その辺が空題目と揶揄されるゆえんかもしれない。

学会で下附された守り本尊を本部会館に納めましたが・・・

これも繰り返し指摘してきたことだ。宗門の御本尊を、あるいは創価学会版の本尊を、どのように扱うかがアイマイなのだ。これも統一したほうがいいだろう。

次は婦人部川崎支区の平会員の体験発表である。

 そして何もわからぬまま、入信後初めて集会に参加したとき、皆さんの拍手がとても長く感じ、「どうしてこんなに長いのー」と思っていましたが・・・

これは物凄く貴重な証言である。顕正会にハマっていない時の感覚がどのようなものか、つまりは一般人の感覚がどのようなものかということを、教えてくれているのである。

 そして入信して三週間ほど経ったころ、千円で買った宝くじで九万円が当り、その直後にさらに七万円が当り、借りていたおカネを返すことができるという有難い功徳を頂きました。

羨ましい話ではある。しかし、こういうのを功徳と言ってしまってよいものかどうか、ひじょうに悩むところである。

婦人部京都支区の平会員はわりと古くからの顕正会員である。しかし、なぜか未活動になってしまった。

 それより二〇年あまり、私は勤行とビデオ放映に参加するだけの、ほぼ未活動状態でしたが・・・

この未活動の定義もずいぶんと広い。以前の言い方だと退転者だとか化石信心というのがあった。彼女は後者のほうだろう。それが今は前者も後者も一緒くたに未活動と言ってしまっている。もっと表現に工夫が必要だろう。

2015/9/6

書くも物憂き独白の毎日  
拙ブログのコメント欄を媒介に、新たな交流の輪が広がり始めた。独白ブログという特殊な場所にもかかわらず、不思議なものである。

さて、今日は八月度総幹部会の会長講演を取り上げよう。顕正新聞第1353号の二面から四面にかけて、なかなか充実した記事が掲載されている。

 今の日本を見るに、人生の目的を知っている人はいない。みなついでに生きているような人生ですね。

ついでに生きている・・・

まあ、それを言っちゃあ、オシマイだ。そこで、あえてアゲアシ取りをすれば、日本だけの話ではないだろう。なぜに日本に限定して言うのか、そこが不明である。まさか日本以外の人たちは人生の目的を知っているとか、そんなわけはあるまい。

 測量学の世界的権威である村井俊治・東大名誉教授。

「首都圏大地震」いよいよ切迫か、という小見出しに続いて、上掲の人物が紹介されている。この人は測量学の手法を用いて地震の予知を行なっているらしい。

 その的中率ですが、二〇一四年以降、震度5以上の地震を一〇〇%的中させている。この驚異の的中率によって、この人はいま日本で最も高い評価を受けております。

だそうである。この人が首都圏地震の切迫を言っているとなると、大変なことである。何しろ百パーセントの的中率だからだ。しかし、皮肉なことに、なぜか浅井先生が引用すると、その途端に当たらなくなる。

オリンピックで浮かれている場合か

これは確かに正論というか、的を射ているところであろう。何しろ国立競技場のことでスッタモンダをしていたと思ったら、このところはエンブレムの問題で大騒ぎしている有様である。何をやっておるものかと思う。

天変地夭と相呼応するように、人心の荒廃・凶悪犯罪・・・

御書に忠実たらんとすれば、順番が逆だろう。人心の荒廃に相呼応して、天変地夭が起こるのだ。まあ、しかし、これはややアゲアシ取りの気味がなくもない。というのは、依正不二は相互性・双方向性の関係にあるからだ。ゆえに天変地夭が先で人心荒廃が後という理屈も成り立つ。ごく単純に言えば、天気が悪いと気分も憂鬱になる。むしろ逆は考え難いわけで、気分が良ければ悪天候が解消されるというのは現代感覚から外れている。すると仏法で説くところの依正不二はどこまでが本当なのかが難しい。当然ながら、ここでわたくしが結論を出せるような問題ではないので、この件はまた別の機会に考えることにしよう。

どれほど濁った水でも、月が映れば自然と澄んでくる。

これは御書を平易な言葉に直したものであるが、今度は浅井先生にではなく大聖人にイチャモンをつけることにしよう。月が映ると水が澄む? これは本当なのだろうか?

わたくしは小学生レベルの理科の知識しか持ち合わせていないけれども、上掲はどうも事実誤認のような気がしてならない。泥水がある。これを静かに観察していると、徐々に泥が沈殿していって、上のほうから段々と澄んでくる。いわゆる上澄みという表現もそれを示唆するものだろう。昔の人は月明かりに照らされた泥水が徐々に澄んでいく様子を見て、それがあたかも月光の力によって清浄化されていくかのように思えたのではないか、というのがわたくしの想像である。

長劫 長劫修行

これは編集部へのイチャモンである。最初の長劫にはルビがない。そして次の長劫修行のところには、ルビがある。オイオイ、難読文字にルビを振るならば、初出のところで振るべきだろう。ちなみに、ルビは「ちょうこう」となっているが、平成新編では「じょうごう」と読ませている。

「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」

さて、いよいよ、当該講演の目玉である。

 この書は折伏理論書を土台にして、これに大幅に筆を加えたものであります。

いわば新版・折伏理論書であるが、ここにあるごとく従来の折伏理論書という名称を捨てて基礎教学書と改名したわけである。これはもう内容を読む以前から、ある種の想像が働くところである。おそらくは過去の都合の悪い文言をすべて削除し、整合性を取り繕ったのだろう。

ようするに一巻の書としては整合性がある。一話完結的にまとまりがある。矛盾がない。いちおうはそういうことなのだろうと思う。

しかし、批判者たちは過去との不整合をあげつらう。当然ながら従来の折伏理論書との比較の上から、さまざまの矛盾・不整合を指摘することになる。

ちなみに、以前のコメントで九百七十二ページという話があったけれども、どうやら四百七十二ページが正解のようである。いずれにしても従来の理論書より大幅にページ数が増えるわけだが、活字も大きくなるらしいので、実際の増量がどれほどなのかは不明である。

なお、次の文言にも注目したい。

 実は、これは昨年の秋に発刊したいと思って、暇を見つけては書き続けておりましたが、どうにも時間が取れずに秋に中断し、本年の春からまた書き続けました。

今はさがしあぐねているけれども、以前の会長講演で謎の発言があった。何か大事な書き物をしているみたいなことを言っていたのである。しかし、その時はそれが何なのかわからなかった。ようするに、これが答えだったのだろう。毎月の総幹部会、各部の大会、それから地方会館での講演、これらはどれも手を抜けない重要な仕事である。その間隙をぬって執筆を進めていたのだろう。まあ、激務と言えば大袈裟過ぎるけれども、確かに浅井先生も楽ではない。ましてや完全主義者だから、一字一句に至るまで細心の注意を払って書いている。それが今般の基礎教学書ということだ。

さて、どんなものが出来するのだろうか?

 ところで、先月の総幹部会で私は「大聖人御予言の『前代未聞の大闘諍』の引き金は世界大恐慌である」と申しましたが、その大恐慌がいよいよ始まって来ましたね。

例の世界同時株安の話だ。

 そのテンポの早さ、私は驚いております。

わたくしも驚いた。めずらしく浅井先生の予言が当たったと。

ただし、これくらいはまだ大したことではない。株価は上がったり下がったりを繰り返すものだ。経済オンチのわたくしが言うのもナンであるが、極端ながら、一万円を割ったら絶望的というのが一つの目安だと思う。失われた十年という言葉があって、それがいつの間にか失われた二十年になってしまった。今、ようやくそこから脱出し掛けていたものが、またしても振り出しに戻ろうとしている。

しかし、この議論はある意味、経済至上主義に毒されたものであって、株価のような不確かなものに一喜一憂するような発想自体が間違いなのかもしれないと思う。さりとて、この国で生きていくためには一定の経済力を有し、経済活動の枠の中に組み込まれて生きていくしかないのだが・・・

難しい問題である。

レゾンデートル

これまた難しい用語が出てきたものだ。これは浅井先生らしからぬ言語表現だと思う。不勉強のわたくしはこの言葉を知らなかった。たぶん現役活動会員の大多数も同様だろう。先生は難しい話を平易に語るのが得意のはずだった。その意味で、ここはやや違和感のあるところである。

新尼抄を拝せよ

四十九院申状を拝せ

何があっても大丈夫


この小見出し群が面白かった。拝せよ、拝せ、大丈夫。確かにこれが信仰者の結論なのかもしれない。何があっても大丈夫というのは、安心立命をさらに平易な言葉に変換すればこうなるという見本みたいなものだ。浅井先生の真骨頂である。

そうした一群の中に、何気に凄いことを織り込んでいる。次の一節がそうだ。

 時いたれば、国主も信ずるようになるのです。やがて顕正会は五百万、一千万、三千万、六千万となり、国家意志も決せられる。そして国主も大聖人様に心から帰依し奉り戒壇の大御本尊にひれ伏す。

国主とは誰のことか書かれていないが、おそらくは民衆と一線を画す存在なのだろう。文脈上からはそのように読み取れるはずである。さらに続きの文章が注目である。

 そのとき、凡慮を絶する大現証が起き、日本は救われるのです。

結局のところ、顕正会は経済問題の有効な施策を提示できないし、また戦争法案の対案も示せない。なぜならば、凡慮を絶する大現証によって救われる、というのが結論だからである。

まあ、しかし、さしあたっては顕正会が爆発的に伸びることこそが、凡慮を絶する大現証と言えるだろう。現状では伸び悩んでいる。この殻を打ち破って爆発的に伸びることがあれば、まさに凡慮を絶する大現証である。

ところで、いわゆる秋の三連戦、具体的な誓願が示されていないようなのだが、それはなぜだろうか?

2015/9/2

書くも物憂き独白の日々  
トチロ〜氏のリンクを開いて驚いた。氏は何気にサイトの宣伝をしていたのだった。

日蓮正宗総本山大石寺 塔中 報恩坊公式サイト

どうやら事実上は、トチロ〜氏がサイトを取り仕切っているごとくである。というのは、その内容が顕正会問題を専門とするサイトだからである。これは日蓮正宗の中でもめずらしい存在だろう。主には創価学会ばかりを取り扱う末寺が多い中で、顕正会専門は貴重だかもしれない。

沖浦氏のコメントは論外だ。

宗門は300年ほど遅れています。

この三百年は当てずっぽうの数字なのだろう。特に根拠があるわけではないと思われる。創価学会に比して顕正会は半世紀遅れている。宗門はもっと遅れている。それが言いたいだけなのだ。

それにしても、どうかしている。浅井先生に戒壇本尊本懐論を捨てさせようと、ああだこうだと書いていること自体が、実におかしなことである。

あり得ない。これが結論である。

たとえば先日の話題である、天生原までの四キロの道のり、が好例である。大石寺が起点で天生原が終点。これについて、現宗門では天生原戒壇説を否定するものの、場所の問題を度外視すれば宗門と顕正会に齟齬はない。ようは御宝蔵から奉安殿に、奉安殿から正本堂に、そして奉安堂へと御遷座が繰り返されてきたわけだが、その最終地点が国立戒壇か否か、あるいは天生原か否かという問題があるにせよ、そこに安置すべき本尊については異論がないのである。

あるいは日寛上人絶対説だ。

これは面白いことに、宗門ですら言っていないことなのである。より正確に言えば、たぶん正本堂問題の渦中において、成り行きでそのような話が出てきたのだと思われるが、ようは日寛上人にも間違いが存するのだという意味を、日達上人がおっしゃったのである。
この是非についてはさておくとしよう。ともかくも浅井先生は日寛上人の御指南を絶対であると言っているのである。そしてご存知のごとく、日寛上人は戒壇本尊本懐論者である。
であるならば、たとえ宗門が戒壇本尊本懐論を捨てたとしても、顕正会は捨てない。まさかそんなネジレ現象が起きるとは思えないが、万万が一、そんな事態が到来したとしても顕正会は一貫不変である。

これが道理というものだろう。

逆に言うと、それほどまでに熱烈な信仰を続けているにもかかわらず、いつまでも宗門と反目していることが不思議なのである。わたくしが再三にわたって言い続けているのは、まさにこの一点である。宗門との関係を修復できずに、どうして広宣流布が出来ようか、ということなのだ。

そもそも、あと○○年で百万だとか一千万だとか、そういうことを言いながらすべて反故にしてきたことで、各方面からツッコミが入るのである。けれども、これはある意味、まだマシなのである。目標を立てたけれども達成できなかった。こんなことは誰もが経験することだ。しかし、教義上の問題はぜんぜん別の話である。今まで言っていたことと違うことを言う。いわゆる自語相違であるが、これはもう致命的である。顕正会の主義主張を簡略的に言ってしまえば、本門戒壇の大御本尊を国立戒壇に安置する、となるだろう。これを何十年も言い続けてきたのである。それを今さら変えられるわけがない。これもまた道理というものだ。

以上の理由から、沖浦氏の言っていることは論外である。

ラストランの時だけ乗車率100%のブルートレインの様に為らない事をお祈り致します。

じゃっかん意味がわかりかねるが、ブルートレインは幸せである。有終の美を飾ることが出来たからだ。その多くはひっそりと幕を閉じるものだと思う。たとえば店舗であれば、閉店セールだとか店じまいセールで賑わうのは幸せなほうで、多くの場合、そのようなセールを打ち出したところで客が集まらず、静かに店を閉じることになる。これは宗教団体の場合もそれほど違いはないと思う。顕正会は目的を達成した暁に解散すると謳っているけれども、もしそれが実現すればまさに有終の美である。しかし、目的を達成できなければ、どうなるか、それが問題だ。おそらくは凋落を免れない。そうして自然消滅の道を辿ることになるのだろう。

仏の祟りを期待している・・・

これはもちろん誤解であるが、しかし、そのように思われても仕方がないかもしれない。この辺は誤解を招かないように、もう少し工夫すべきだろう。

マインドコントロールされていて懸命に歓喜を奮いこして、先生のお心がといつも涙している幹部も多数いる。先生のお心がと語る時人生最大の至福の時という精神状態である。

これはわたくしに対する反論の意味が込められているのだと思われる。ようするに冷めた幹部ばかりではないと言っているのだろう。

五分五分ということではないかと思う。

顕正会の組織が爆発的に伸びず一進一退を繰り返しているのは、マインドコントロール下の幹部が半分、残りの半分が冷めているからなのだろう。これでツジツマが合うはずだ。

ただし、矛盾するような話だが、わりと冷めている人のほうが折伏の成果を出しやすいというケースもあると思う。あまりにもハマリ込んでいると、相手が引いてしまう。この辺の詳細な分析は難しくてわたくしの手には負えないが、たぶん大幹部になればなるほど冷めていくという逆転現象みたいなこともあるのだと思う。

2015/9/1

書くも物憂き独白ブログ  
顕正会問題はほぼ書き尽くした。少なくともわたくしなりの視点からはほぼ書き尽くしており、これ以上は蛇足というか重複である。そんなことからも執筆意欲は減退する一方なのだが、重複を承知しつつも再確認の意味を兼ねて書いてみようかと思う。

四年後に国立戒壇が立ち4キロの道のりを先生と共に

と目を赤くしながら発破をかけていた


さすがに大多数の顕正会員がそんなことはあり得ないと思っているだろう。口には出さずとも内心ではそのように思っているはずだ。ようするに四年後に国立戒壇が建立されるなどとは誰も思っていないということである。

数年前、事実上の国立戒壇という表現が使われたことがある。建物は建っていないがそれでも事実上、建ったに等しいというようなニュアンスである。

これは実にケッタイな国立戒壇論であり、わたくしはずいぶんと批判したものだった。それですぐに言わなくなってしまったわけだが、もし仮に事実上の国立戒壇という概念が有効だとしても、四年後にそれが実現することはないだろう。これまた大多数の顕正会員がわかっているはずである。

天生原までの四キロの道のり

顕正会員の常套句というか合言葉のようなものである。これまでどれだけの登壇記事に登場したか、たぶん数え切れないだろう。

ここで再確認の意味で、当然過ぎるツッコミを入れたいと思う。

○○から△△まで・・・

これがツッコミだ。ようするに起点があって終点がある。当たり前の話である。もちろん顕正会員だってわかっているだろう。ようするに天生原までの四キロというのは、いったいどこを起点にしているのか、という問題である。

つまり、大石寺から天生原までの道のりが四キロなのである。

しかし、うっかりすると、このもっとも重要な大前提が疎かにされてしまいそうなのだ。そうした危険性を孕んでいることに気がつかないといけない。

・解散処分からの年月が久しい。
・もはや大石寺に詣でたことのない会員ばかりになってしまった。
・浅井先生にしても参詣遥かに中絶せりなのだ。

確かに顕正会は今も冨士大石寺を名乗っている。そしていわゆる遥拝勤行においては、大石寺にまします戒壇の大御本尊を遥拝申し上げている。教義上も戒壇本尊本懐を貫いている。

しかし、現実的には有名無実化が進んでいるようにも思える。堂々巡りながらも上記の三項目がその理由だ。

少し回り道をしよう。ここでルート検索の結果を報告したい。

首都圏中央連絡自動車道(茅ヶ崎~桶川北本) と 中央自動車道 経由 164 km

中央自動車道 経由 172 km

東名高速道路 経由 182 km


顕正会本部から大石寺までのルートである。ベラボウな距離だ。

国道246号線 経由 154 km

国道20号線 経由 151 km

国道20号線 と 県道71号線 経由 152 km


こちらは徒歩の場合である。高速道路よりは短くなっている。徒歩のほうが最短のコースを選択できるということなのだろう。ちなみに直線距離は測り方がわからないので不明だが、まあ、大雑把に言えば約百五十キロということになると思う。

話を戻そう。

大石寺から天生原までの四キロの道のりを云々する以前に、顕正会本部から大石寺までの百五十キロの道のりをクリアしなければならない。このベラボウな距離をどうやって縮めるかである。

顕正会では信心に距離は関係ないと教えている。俗に惚れて通えば千里も一里とも言う。だから物理的な距離が問題なのではない。百五十キロというのは物理的な距離であって、この場合は一つの指標に過ぎない。つまり、もしかしたらその何倍、何十倍、いや何百倍もの距離があるかもしれないのだ。このとてつもない距離をどのようにして縮めるかが問題なのである。

起点があって終点がある。先ほども書いたことだ。

けれども顕正会にとっての起点は大石寺ではない。なぜならば、まだ大石寺に到着していないからである。ゆえに四キロを云々するのはおこがましい。その前に百五十キロをどうにかしないといけない。

しかし、現実問題としてはどうだろうか?

ようするに顕正会本部を起点として大石寺へと向かう旅であるが、実はまだ出発すらしていないのかもしれないのだ。いわゆる独立教団路線を志向しているとすれば、もはや大石寺に向かうことはないのだろう。すべてポーズだけである。

悲しいかな、これが現実のようである。それでいて四キロを云々するのは、パスポートも取らず、チケットも取らず、ただパンフレットを眺めて夢想しているだけ・・・と一緒だろう。

そして幹部会員諸氏も、この道理はよくわかっている。少なくとも拙ブログを読めば、なるほどその通りだと、首肯せざるを得ないだろう。

これもまた悲しき現実である。


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