2015/12/5

シワスノブロガア  
取り急ぎ南東北大会の会長講演について書こう。

南東北大会 歓喜の結集一万二千人

これが顕正新聞第1360号、「南東北大会」特集号の大見出しである。コメント欄には会場のスカスカ感を云々するものがあるけれども、顕正新聞に掲載されている写真を見る限りでは、ほぼ満席である。さすがにスカスカ感は言い過ぎだろう。また、浅井先生のヨレヨレ感もどうかと思う。

少しばかり詳細に論じよう。

一面に掲載されている全体写真を見る限り、ほぼ満席であることは間違いない。しかし、厳密には少し空席が見られる。向かって右側のスタンド席だ。
さらに言うと、他のページにも会場内の様子を写したものが何枚か掲載されているけれども、会場全体を広く俯瞰するようなショットは一つもないのだ。一面掲載の全体写真も、厳密には全体を写していない。左側のスタンド席が写っていないのだ。
つまり、死角が多い。左側のスタンド席を写した写真もないわけではないが、ぜんぶが写っているわけではない。はっきり言えることは、向こう正面からの広角写真がないことだ。すなわち壇上から見てスタンド席の左右手前が確認できない。

もう一つ言えることがある。次は一面の最初のほうに出てくる文章である。

・・・隣接の第二会場に至るまで立錐の余地もない。

この写真がないのだ。あるいはここに、ウソ・ゴマカシが存するのかもしれない。

コメントによれば、野良着のままの農業従事者さんたちが集められたとも言われているので、もしそれが事実ならば、第二会場にはそういう人たちが多くいたのかもしれない。それなら写真を載せられないのも頷けるところである。

ヨレヨレ感は主観に左右されると思う。ゆえにわたくし自身はそのようには感じなかった。ただし、写真を見る限りである。

これも少しばかり話を膨らませると、わたくしは長らく浅井先生を見ていない。直に見ていないということだ。さらに言えば、動く浅井先生を見ていない。ようはビデオ放映にも行かないし、ネット上の動画なども見ないので、先生の振る舞いというか、身のこなしとでも表現するのだろうか、そういうのを知らないのだ。よって、もし仮に動く浅井先生を見たら、感想が変わるかもしれない。

いつ頃からだろうか、すでにご存知でない人も多いかもしれないが、以前の浅井先生は壇上に立って講演をしていたのだ。当然ながら先生にも若い時があった。その頃は一時間前後の講演であっても、立ったまま講演をしていたのだ。しかし、今はあらかじめ椅子が用意してあって、座って講演をしている。

当てずっぽうに書くが、それが切り替わったのは平成十一年前後ではないかと思う。わたくしはその時点で、先生も年を取ったものだと思った。

さて、話は変わる。

大感動の演奏

この小見出しに続いて、次のような記述が見られる。正直、ガッカリである。

まず雷門会と冨士軍楽隊の演奏がビデオにより上映された。

これはもう、おかしいだろう。ライブ会場でライブではなくビデオが流されるという、このおかしさに本部首脳が気がついていないとすれば、もはや悩乱の極みである。

ついで芙蓉楽団講師の独唱と芙蓉コーラスの合唱があった。これは写真がある。ゆえにライブだったのだろう。それが普通である。

わたくしの思うに、雷門会と冨士軍楽隊は機材を運び入れるだけでも大変な労力であり、音響など専門的な意味でも面倒臭い。それに比べれば合唱は遥かに簡易である。そのように考えると、今回の大会はずいぶんと手を抜いたものである。折しも逮捕事件が発生し、顕正新聞の発行もままならずに合併号を出さざるを得なかった事情を勘案すれば、すべてがツジツマの合う話ではあるのだが・・・

それでは会長講演に入ろう。

今回の講演は約五十分、紙面では丸々三ページを割いている。すなわちボリューム感たっぷりの講演ということだ。

しかし、内容的には今までの焼き直しであり、目新しい内容はない。古い会員たちにとっては新鮮味のない講演である。ただし、こうした大会には新しい人たちがたくさん集まってくるので、彼らにとっては有益というか、実に感動的な講演なのかもしれない。

 もう広宣流布は近い。

最近の浅井先生はこんなことばかり言っている。上掲は講演の最初のほうに出てくるセリフであるが、最後のほうにも同様のセリフが出てくる。

ゆえに広宣流布はまことに近い。

冒頭において、ヤブカラボウに広宣流布は近いなどと言われても、新しい人たちには何が何だかわからないだろう。けれども五十分間の講演を聴いて、段々とその理由がわかってくる。そして最後にご覧のように言われれば、なるほど、そうなのか、だったら自分も広宣流布のために頑張ろう、ということになる。講演の目的はまさにそこにあるわけだが、はたしてどこまで効果的だったかはわからない。

私は「宗教団体」という言葉が大嫌いです。

まさにツッコミどころである。事実、すでに幻の総支隊長氏などがこれに触れている。

 「顕正会も宗教団体の一つだ」というかも知れないが、顕正会は宗教団体ではない。

わたくしのほうからは特に細かいことは言わないことにしたい。本人が大好きだろうが大嫌いだろうが関係ない。ようは世間一般の尺度として顕正会は宗教団体の一つに過ぎない。それだけの話である。

おおむね大事なところはこれで終わりかと思う。以下は各論的に取り上げたい。

原発事故に詳しい学者・広瀬隆氏

氏は学者ではない。作家である。しかも学者だとか先生だとか言われるのが大嫌いらしいのだ。氏の講演が動画サイトにたくさん出ている。それらを視聴していると、最初に司会の人が広瀬氏のことを紹介する時に広瀬隆先生などと言おうものならば、私は先生ではありませんと講演の冒頭で断わりを入れるくらいである。世の中には、先生と呼ばれるのが大好きな人と、そうでない人とがいるのだ。

川内原発・伊方原発・・・

地名は難しい。川内はセンダイ、伊方はイカタ。顕正新聞でも読者の便宜を図ってご丁寧にルビを振っているが、なぜかイカタがイガタになっている。たぶん誤植だろう。

・・・すべての原発が停止しても、ことに今年の夏は暑かったですね。しかし停電など起こらなかったのです。

アゲアシ取りのレベルかもしれないが、言っておきたい。まず、構文がダメである。あえてこの文章のままで行くならば、「ですね。」ではなく、「ですね、」にすべきところである。しかし、現代国語では「ですね」の後に丸を打つのが普通ではある。点を打つ人はまずいない。けれども、原発停止と暑いこととは関係がないわけで、原発停止に係るのは停電のほうである。その停電の原因となるのが猛暑による電力需要の増加である。その辺の話を欲張って短い文章の中に入れてしまっているから、構文がデタラメになるのである。

しかもである。今年の夏は暑かった?

この辺が耄碌したと言われてしまう原因なのかもしれない。夏は暑い。当たり前である。しかし、今年の夏は前半こそ暑かったものの、後半は冷夏だったのだ。それとも会場となった東北地方は違うのだろうか?

入るを量り出ずるを制する

不勉強のわたくしはこの言葉を知らなかった。もっともあまり汎用的ではなく、ここで覚えたとしてもなかなか使う機会はないだろうが・・・

 曽てフランスのド・ゴール大統領は「食糧を自給できない国は独立国でない」と言ったが、日本は国家の防衛だけでなく、食糧もアメリカ頼みになる。こうなったら独立国ではない、完全従属です。

これは重要な視点である。浅井先生はもう一つの心配として遺伝子組み換え作物のことに言及しているけれども、それも当然ながら自給率の問題が関係しているのだ。極端な話、食うもんがなくなったら、嫌いなものでも食うだろう。死んでも食わない? 口で言うのは簡単だが、本当に飢え死にしそうになったら、何だって食うだろう。食糧自給率の問題が重要なゆえんである。

そろそろ終わりにしよう。

 さあ、この大会に馳せ参じた人は、一人残らず絶対信に立ってほしい。

浅井先生に折伏していただく、というような表現がある。大会の目的もそれなのだ。そして一人残らず広宣流布に戦う人材にしていく。そのための大会なのである。

フラフラしていたのでは功徳はない。

 フラフラしていたのでは功徳はないのです。


くだんのコメント投稿者はこれを揶揄するつもりだったのだろうか? いわく、ヨレヨレ感・スカスカ感、と。

それにしても「功徳は出ない」もしくは「功徳が出ない」と書かなかったところが興味深い。顕正会員たちの間では功徳が出るとか出ないとか、そういう言い方がわりと頻繁に使われているからである。

以上、昨日の今日、すなわち昨夜読んで今朝書いているので、かなり粗雑な感じになっているかもしれないが、南東北大会における会長講演について思うところを書いた次第である。


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