2016/1/31

シブシブケイゾク  
十二月度総幹部会の会長講演から、もう一つだけ取り上げておこう。

 そして今の安倍政権を見れば、政権のバックに付いている日本最大の右翼団体「日本会議」に操られて、日本を「神の国」にしようとしている。

世間知らずのわたくしはこの手の話に疎い。ゆえに初耳の話だった。

それにしても不審なのは、なぜに今ごろになって言うのか、である。浅井先生はずっと安倍批判をしてきた。第一次の時から数えれば、それこそ十年近い歳月である。しかし、わたくしの記憶が正しければ、上掲のような話は今回が初めてではないかと思うのだ。そこが不審なのである。

何か計画的に、満を持して、というふうにも勘繰ったりするわけだが、まあ、しかし、浅井先生もけっこう行き当たりばったりのところがあるので、大した意味はないのかもしれない。

さて、次は同じく十二月度総幹部会の登壇であるが、婦人部新横浜支区部長の記事である。

 「基礎教学書」の有難さは、拝読を重ねるたび、日を追うごとに強まり、紬織りの頑丈な装丁には
 「常に肌身離さず持ち歩き拝読し、命に染めよ」との浅井先生のお心を感じ、さらなる眼光紙背に徹せんとの決意が、湧き上がってまいります。


まだ入手していないので当てずっぽうを言わせてもらうことになるが、はっきり言えば重い、携帯には不便である、ということになるだろう。

これは先般の是正協議会の提案に便乗して言うわけだが、ウェブ版の基礎教学書を出すべきである。そうすればスマホなどで自由に閲覧することが出来て、ひじょうに便利のはずである。一昔前の感覚だと著作権の問題で、まさか出版したばかりのものをウェブ上に流通させることは考えられなかったが、しかし、今さらそんなことを言っていること自体がおかしな話であって、ましてや広宣流布をやろうとしている団体が著作権を云々してどうするのか、ということになるはずである。

本当ならば、冨士のバックナンバーや顕正新聞の全記事をすべてデータ化して広く公開してしまえばいいのだが、まあ、それは都合が悪いのでやらないだろう。しかし、基礎教学書はぜひともそうするべきである。

 「御書の肝心・極理が分からなければ、かえって迷う」

これは日目上人会での会長講演なのだそうである。しかし、探し方が悪いのか、顕正新聞掲載の該当記事にそうした記述は見当たらなかった。ちなみに次の記述は存在する。

 「日興上人は日目上人に御書の極理を師伝された」

言いたいことは単純明快だ。ようは創価学会にアテツケて言っているのだ。

・・・学会が「御書、御書」と叫びながらも、日寛上人のご指南を否定して「極限の大謗法」を犯した姿に、今、日興上人が日目上人に師伝された「御書の肝心、極理」を正しく拝されるお方は先生だたお一人であられ・・・

わたくしはこういう記述を見ると、創価学会員からの反発よりもむしろ法華講員からの反発のほうが怖い。ここでの登場人物は、日興上人・日目上人・日寛上人である。その延長線上にいるのが浅井先生であると、こう言っているようなものなのである。これでは日蓮正宗関係者が怒るだろう。御法主上人を無視していることになるからだ。

いつまでこんな状態が続くのだろうか?

「顔が穏やかになり、遺体も白く・・・」
  著名な医師も認めたお題目の力!


婦人部神奈川支区支区長補の活動報告の中に出てくる話である。医師の名前が書かれていないけれども、この著名な医師というのは在宅看取りを日本で最初に立ち上げた人物なのだそうである。彼いわく・・・

ある方が亡くなった時、お仲間が来て『南無妙法蓮華経』と唱えた。すると、顔が穏やかになり、遺体が白くなったんです。

こんなことを講演会で言ったらしい。

それを支区長補ではなく、盛岡在住の班長でもなく、その班員が、ようは平会員なのだろう、名前に役職が冠されていないからだが、つまりは又聞きの又聞きのような話を活動報告で発表しているのだ。

 「凄い、間違いない、顕正会だ」

これも平会員の発言である。

ようするに、それが本当に顕正会の人たちだったのかどうかは、不明なのである。ただし、顕正会員的な思考からすれば、他宗他門の題目では成仏できないわけで、さらに言うならば宗門であろうと創価学会であろうと御遺命に背いているので成仏は覚束ない、というように教わっているわけだから、平会員とは言え彼女が素直に信心しているとすれば、上掲のように思ったとしても不思議はないだろう。

そして登壇者の偉いところは、その報告を聞いて、くだんの医師にわざわざ会いに行ったというのだ。もっとも医師は都内にクリニックを開業しているので、神奈川で戦っているであろう支区長補にとっては物理的にそれほど困難ではないわけなのだが・・・

 医師は、顕正会の存在を認識してはいないようでしたが・・・

さて、わたくしの頭の中はグチャグチャで整理が出来ていないのだが、十一月度総幹部会の体験発表では次のような話があった。あの話はどこに載っていただろうか? すでに拙ブログで取り上げただろうか? それとも取り上げず仕舞いだったか? とブツブツつぶやきながら顕正新聞を探し回ってようやく見つけた。

葬儀担当者が
 「感動した」と入信


葬儀のプロである。宗派によってやり方が違うことも心得ている。遺体も見慣れている。ゆえに、少々のことでは驚かないだろうし、一つの宗派に傾くこともないはずなのだ。

それにもかかわらず、感動して入信したとなると、いよいよ広宣流布の大きな気運が起こり始めたとも考えられるかもしれない。

医師も同様のはずである。

前掲の話題において、くだんの医師は顕正会を認識していなかった。それがである。患者でもないのに、わざわざクリニックに訪ねてくる婦人がいたということで、顕正会の存在を認識することとなった。すると今後は、顕正会が言うところの臨終の相について、少なくとも意識の片隅にそのことを置きつつ、患者さんたちの臨終に立ち会うことになるだろう。

そしてもし彼が入信することにでもなれば、これは葬儀担当者の話と同様であって、いよいよ広宣流布の大波動が起こり始めたということになるだろう。

なお、これらはあくまで顕正会員的思考に基づけば、という前提に立っての話である。客観的にはかなり難しいと思う。

2016/1/27

シブシブカイテル  
今日これから書くことはすでにセロリ氏が先行してお書きになっていることなので、まずはリンクを紹介しておこう。先方のブログを読めば、もはや拙ブログを読む必要はないと言ってもいいくらいである。

http://blogs.yahoo.co.jp/no_sleep502goal/14204019.html
http://blogs.yahoo.co.jp/no_sleep502goal/14231831.html

十二月度総幹部会の会長講演は、創価学会破折に相当の紙数を費やしている。全体の半分以上がそれなのだ。

 何という無道心、恥知らずなバカどもかと、私は思う。

これは創価学会の首脳部に対して言っているわけだ。具体的には原田稔現会長と秋谷栄之助前会長、それと誰だか知らないが創価学会の教学部の面々、これらに向かって上掲のごとく言っているわけである。

 まさしく「池田大作の本地は第六天の魔王、その使命は三大秘法の破壊にある」
 こう私は思っておりますが、みなさん、どうです。(大拍手)


当該講演でもそうだが、ここ一年ばかりは池田大作一党という表現が目立つ。しかし、わたくしにはやや違和感がある。このところの創価学会の教義改変にしても、池田氏は関与していないかもしれないのだ。氏はすでに表舞台から降りてしまったわけで、それは当然ながら健康問題を抱えているからだろう。極端な話、もはや自分の意思表示すらままならないかもしれないのだ。すると近年の創価学会の教義改変にはまったく関知していない可能性も考えられる。

それにも関わらず、池田大作一党と呼ぶ。

もちろん今もなお創価学会における精神的支柱は池田氏なのだろう。しかし、それとこれとは別の話である。わたくしは、もしかしたら創価学会の急激な教義改変に対して、マレには内部の創価学会員の中にこそ疑問に思っている人がいるかもしれないと思う。そういう人たちならば、池田先生がそんなことをおっしゃるわけがない、これは現執行部が暴走しているだけなのだ、と考えるのではないかと思う。

もしそれが事実ならば、精神的支柱はそのとおりだとしても、むしろ執行部がそれを逆用ないし悪用して事を進めていることになるだろう。

まあ、いずれにしてもである。池田大作一党云々は構造的な意味で、何かに似ていることに気がつかないといけない。すなわち阿部日顕云々である。先日も指摘したごとく、浅井先生は前法主を悪し様に言うわりには現法主のことはほとんど言わない。これは浅井先生の頭脳が化石化していることを意味するのだ。あるいは過去の武勇伝にいつまでもしがみ付いている。別の言い方をすれば、過去の栄光にしがみ付いている、ということなのだ。

さて、創価学会破折のくだりはこれくらいにして、講演の後半に移りたい。

顕正会は御在世の信心に立ち還る

このような見出しから話が始まるわけだが、確かに流れはスムーズである。ようするにこの直前までは創価学会のことをボロクソに書いているのだ。今生には功徳を失い、臨終には悪相を現じ、後生には永遠に悪道に堕する、云々と。ようは創価学会の信心がどれほど狂っているか、もはや創価学会では成仏などできっこない、ということを説明した上で、一方の顕正会がどれほど清らかで正しい信心を貫いているかを述べるわけである。

お経机のこと

過去帳のこと

自宅拠点について


そして具体的な方針としてご覧の三項目のことが述べられている。

 経机は急いで調える必要はありません。状況に応じて、徐々に形を整えていったらいいと思います。

これは当たり前の話である。昨日も書いたが顕正会の入信勤行はハードルが低い。これがウリと言ってもいいだろう。ゆえに入信早々に経机を用意しないといけないとなれば、誰もが入信を躊躇するだろう。過去帳についても同様であり、ゆえに先生も「これも急ぐ必要はありません」と言っている。問題は自宅拠点である。

 次に自宅拠点について申します。
 自宅拠点はこれまで、どの組織の人でも利用できるようにと、公開を申し出てくれる人が多くありました。これはたいへん有難いことでした。
 しかし有難いと同時に、なかなか大へんなことでもある。
 そこで、今後の自宅拠点においては、すべてを非公開といたします。そして願主がもし班長ならば、その班の弘通活動においてのみ、その拠点を活用することを原則といたします。
 したがって、御本尊の下附は事実上、願主個人への下附ということになります。


冒頭にも記したごとく、この話題はすでにセロリ氏が取り上げており、しかもその鋭い観察眼はほぼすべてが正鵠を射ているので、わたくしの書くことは重複に過ぎない。

すべて非公開・・・

願主が班長ならば・・・

願主個人への下附・・・


非公開については顕正会側の言い分もそれなりに説得力があると思う。もはや顕正会は二百万になんなんとする仏弟子の大集団なのである。毎年、数万単位の入信者がいる。自宅拠点は基本的には個人宅なのだから、そこに入信勤行のために大勢の人が殺到したら堪ったものではない。ゆえに非公開として限定的に活用したほうが拠点提供者の負担が少なくて済む。

しかし、その場合は必然的に拠点の数を増やさないといけない。ゆえに今回、拠点の有資格者を班長まで下げたのだろう。昨日も触れたように、今までは副長以上だったのだ。

ところがである。

セロリ氏の情報によれば、組長にもかかわらず自宅拠点の申請を勧められた人がいるらしいのだ。これはこれは・・・

そして願主がもし班長ならば・・・

シツコイようだが、再掲した。なるほど、よく読めば会長講演では必ずしも班長以上にその資格があるとかないとか、そういう意味のことはまるで言っていないのである。そして願主個人への下附ということをわざわざ謳っている。

すなわち役職は関係ないということだ。その本人に御本尊を頂戴したいという明確な意思があれば、それでいいのだろう。

事実上、全幹部への御本尊下附かも!

やがては全顕正会員に御本尊下附か?


セロリ氏のブログから拾ってきたわけだが、実に鋭い観察眼である。というか、もしかしたら誰が読んでもそのように読める。ようは顕正会側の意図はバレバレということかもしれない。

御本尊下附の大精神

この段では日興上人の御指南を引いて御本尊下附の厳格さを説いている。しかし、どうだろう。それはいちおうのポーズであって、いわば建て前であって、本音は違うのではないかと思う。いや、本音がどうであれ、もはやキレイごとを言っていたら弘通は進まないので、否が応でも御本尊下附の資格を緩めざるを得ない状況なのかもしれない。

それにしてもである。いわゆるニセ本尊の害毒という点は法華講の諸氏にお任せするにしても、わたくしに言わせれば遥拝勤行の大精神と御本尊下附の大精神が相矛盾するように思えて仕方がないのである。シツコイようだが、再掲しよう。

顕正会は御在世の信心に立ち還る

この大段には次の小見出しが並んでいる。

恋慕渇仰
 いよいよ強まる

遥拝勤行の大精神

お経机のこと

過去帳のこと

自宅拠点について

御本尊下附の大精神


途中に自宅拠点が挟まれているので、誤魔化されてしまうのだ。すでに説明したごとく、実質的には個人授与なのである。しかも全幹部ないし全会員への下附という方向性が見え隠れしている。となれば、もはや遥拝勤行の大精神など、不必要になってしまう。

ところでセロリ氏のブログを拝見すると、過去にも経机の推進が行なわれていたことがわかる。平成八年だ。確かこの時には過去帳のことも話に出ていたが、これは多くの人が必要になった時に詳しく説明しよう、というような意味のことを言って説明を省いたのだと思う。また、いわゆる自宅拠点の拡大ということも、この頃だろうか、あるいは平成十一年の本部指導会の時だろうか、言及していたはずである。

平成八年は宗教法人を取得した年である。独立教団路線を歩み始めた年なのだ。

しかし、わたくしの記憶では経机はあまり定着しなかった。本部側で推進に力を入れていたという印象もない。これはもしかしたら当時の活動会員たちの意識として、急激な変化に対する違和感のようなものが発せられたのかもしれない、それを本部首脳が察知して取り下げたのかもしれない。

気がつけば、あれから二十年である。

結局、いつどのタイミングでやろうが、批判が出るのは同じことである。法華講の諸氏も目を光らせているし、わたくしも同様である。そして内部においても口には出さないまでも、違うんではないか、というような思いを懐く人が出てくることは避けられない。

とりあえず、遥拝勤行の大精神を言いたいのであれば、全幹部ないし全会員への本尊下附という方向性は取り下げるべきだろう。

2016/1/26

シブシブヤツテル  
顕正新聞新春号掲載の十二月度総幹部会における会長講演が大いに注目されるところである。一つには自宅拠点について、新たな方針が打ち出されたことだ。実はその伏線というわけではないのだろうけれども、年末合併号にもその方針に沿う記事がいくつか掲載されている。まずはそれをご覧に入れたい。

 そして御報恩の思いを胸に、畑を売却した資金で家をリフォームした際、「いつか時が来たら・・・」との思いで一六畳の仏間を設え、さらなる戦いを進めました。

女子部第百四十区総班副長の記事である。以前、自宅拠点を構える資格があるのは総班長以上の幹部である、という意味のことを書いた記憶がある。いや、あるいは入信勤行を執り行なう資格を有するのは総班長以上というふうに書いたのかもしれないが、いずれにしても間違いだった。かなり以前から副長以上にその資格が与えられていたというのが正しいようである。

そういうわけなので、彼女が拠点創設の志を持って事前に仏間を用意したことは、それほど不自然ではない。

 三月八日には、総班長宅が自宅拠点となり・・・

婦人部下総支区組長の記事である。当然ながら組長には自宅拠点の資格はない。しかし、この人の隣に住んでいる人が総班長で、ご覧のごとく自宅拠点が開設されたという話である。

これもまあ、それほど問題はない。

 そのような中、先生のご配慮により、本年五月、千葉県市川市の我が家を自宅拠点とさせて頂いたことは大へん有難く・・・

婦人部船橋支区総班長の記事だが、これには少し驚いた。

たぶん、思うだろう。前掲の二本の記事といったいどこが違うのかと。そのとおりである。文章を読む限りでは何の問題もない。しかし、そうではなく、この人物が問題なのだ。

わたくしは彼女を知っている。こう書くと、面識があるのかと思われるかもしれないが、そういう意味ではない。ようするに彼女はわりと古参の幹部であって、これまでにも何度も記事が掲載されているのである。今は総班長の肩書きだが、かつてはもう少し上の幹部だったかもしれない。

ゆえに思ったわけである、あれ? 今までは御本尊を貰っていなかったのか? もうとっくの昔に御本尊を受けていてもおかしくないだろうに、と。

つまりはこれが新方針に沿う記事という意味で、大いに注目されるわけである。すなわち自宅拠点の拡大ということだ。

ちなみに引用文の直前には次のような一節もあって、これがまた印象深い。

今の戦いのペースでは広宣流布を急がれる先生のお心にお応えできないとの、焦るような思いでいっぱいでした。

ぶっちゃけ言えば、今のペースでは広宣流布などできっこない、ということだろう。なかなか客観的な意見である。

さて、そこで顕正新聞の新春号すなわち第1363号を見ていくわけだが、年頭の辞には「国難三年」との題名が打たれている。ちなみに一面の大見出しは「聖滅七三五年の新春を迎えて」とある。もしかしたら広宣流布の後には西暦ではなくこの年号が使われるのかもしれない。おそらく浅井先生はそのつもりなのだろう。そして広宣流布までの年号は「国難○○年」ということになるわけだが、はたしていつまで続くことになるのだろうか?

それはさておき、年頭の辞の中身が凄まじい。

初めから終わりまで創価学会批判のオンパレードなのだ。すると本年も創価学会員の取り込みを中心に据えるつもりなのだろうか?

本文中からあえて一節だけ紹介するとすれば、わたくしは次のくだりに注目したいと思う。

 ここに「三代会長」と記しているが、初代・二代の牧口・戸田両会長は、戒壇の大御本尊を絶対と信じ奉っていた。だが第三代の池田大作は、あろうことか、この大御本尊を全学会員に捨てさせた。この肝心・要かつ重大なる矛盾を、隠しているのはどういうわけか。

沖浦氏と勝氏の議論においても、このあたりが論点になっていた。確かに古参の創価学会員にとっては厳しい追及である。しかし、はたして若い世代の人たちにどこまで通用するか、そこは未知数である。

というのは、実際問題として顕正新聞掲載の記事を眺める限りでは、若い世代の創価学会員が顕正会に入会するケースがほとんど見られないからである。失礼ながら、入会者はジイサン・バアサンの割合が圧倒的に多い。

この理由については、二つの側面から説明できると思う。

若い創価学会員たちは日蓮正宗を知らない。大石寺への登山の経験がない。いわば脱日蓮正宗化が進んでいる世代であり、もはや過去との矛盾・自語相違を指摘されてもあまり響かない。
そもそもが顕正会以前に、直接的には宗門からの批判をかわさないといけないわけで、そのための理論構築はすでに二十数年の間に出来上がっている。すると宗門の亜流に過ぎない顕正会が今さら何を言おうが響かない。

しかし、若い世代の創価学会員が顕正会に入会してこない最大の理由は、別にあると思う。

実は創価学会員だけの話ではない。法華講員も同様である。いや、それだけではない。ほぼすべての人々に当てはまるだろう。ようするに今の若い世代の人たちは顕正会に入ってこないのである。

これはもう、ごく単純にインターネットを利用することで、自らが容易に情報収集することが出来る。それでヤバイと思えば、深入りはしない。ご存知のごとく、顕正会の入信勤行は実に簡易である。ゆえにウッカリ入信ないし入会してしまった人は年間数万人にも及ぶ。しかし、そのまま定着する人はほとんどいない。何だか言い包められて拠点に連れていかれて勤行なるものをしてしまった。家に帰ってからネットで調べてみてヤバそうだということがわかった。それでオシマイである。

話が広がり過ぎてしまったようだ。

創価学会員の子女が顕正会に入ってこない理由に話を戻せば、彼らの多くはいわゆる二世三世と呼ばれる人たちである。ようするに自ら求めて信仰の道に入ったわけではない。ゆえに確信はない。よって何となく惰性で信心をしているだけの人も少なくないかもしれない。本当は面倒臭いのでやりたくないのだが、自分を取り巻く家庭環境から抜け出すことは難しい。だからシブシブながらもやっている。

ずいぶん失礼なことを書いているが、まあ、これが事実だとしよう。その上で、これがネットの情報とコラボすると、一つの結論が導き出される。

顕正会はもっと面倒臭そうだ。

これまた失礼なことを書くようだが、創価学会員の子女であってもネットにアクセスできる人たちであれば、創価学会の問題点だっていくらでも知ることが出来るのだ。そうすると内心では、ダメだこりゃ、と思っているかもしれない。しかし、上述のごとく、さまざまの事情から抜け出すことが難しいとなれば、本音を明かさずシブシブながらもやり続けるという選択肢を選ぶことにもなるだろう。

つまり、そういう人たちにとっては、顕正会は最悪なのだ。顕正会は面倒臭過ぎる。やってらんない。だったら創価学会のほうがまだマシ、ということなのである。

以上、新年早々から顕正会員たちのモチベーションを削ぐようなことを書いたが、わりと的を射ているのではないかと思う。

2016/1/24

キウレイニヨツテ  
種々のコメントを拝見すると、お返事を申し上げなければいけない事案もいくつかあるようだが、旧例に従い(?)、独白に徹することにしたい。

先生の御憤りは即諸天の怒りと同じ・・・

引き続き年末合併号から取り上げるわけだが、この第一婦人部長の発言も穿った見方をすれば会長本仏論に通ずるものがあるだろう。わたくしが注目したのは、御憤りと怒り、である。先生には御をつけて、諸天にはつけない。先生のほうが上位概念なのだ。しかし、残念ながら先生には諸天善神を自由自在に使いこなすだけの力はないのだろう。もしそれが可能ならば予言も百発百中で当たるはずである。

先生が佐渡にお来しになられるのも、この御入仏式が最後であったことに目頭が熱くなり・・・

男子部第七十三隊支隊長の記事である。まず、どうでもいいことから書くと、「お来し」が変換できないことに驚いた。どうやら「お越し」が正解のようであるが、この手の敬語表現に疎いわたくしにとっては何とも言えないところである。ともかく日本語は難しいということだ。

さて、上掲の意味であるが、彼がどう思っているかは別にして一般的なことを言えば、先生も高齢なのでもう佐渡への渡航はこれが最後だろう、ということになると思う。

事実、再び第一婦人部長にご登場いただくと、次のような発言が注目されるところである。

浅井先生の最後の戦い・・・

これも彼女がどう思っているかは別にして、一般的な観点からすれば先生の年齢を鑑みての話になるはずだ。ちなみに彼女は次のように思っているらしい。

御遺命成就が甚だ近きことを肌身に感じ・・・

ようするにゴールが近いと思っているわけだ。

だったら浅井先生は御遺命成就記念の全国行脚にでも出ればいいだろう。御遺命成就のために共に戦ってくれた全国の顕正会員を労うために、すべての会館を回ればいい。佐渡にも行けばいいのだ。

しかし、それは無理だろう。

このことは活動会員たちも承知しているはずで、まあ、ゴールが近いことは疑わないにしても、先生の年齢も相当であることは十分に承知しているはずなのだ。つまり、先生のゴールも近いのだ。

それはともかく再び支隊長の記事に戻って、一つ注目しておきたいことがある。

 人口六万弱の佐渡に顕正会の会館を建立した意義・・・

この横浜市だけで三七○万人もいる神奈川こそ・・・


ようするに彼は横浜で活動しているのだろう。六万足らずの過疎地に会館が建ったのだ、ならば三百七十万の大都市で戦う我らはもっと頑張らなければ申し訳ない、という前向きの決意を語っているわけである。

それは大いに結構なことであるが、図らずもこの記事によって佐渡会館の裏事情が見えて来たのではないかと思う。

以前も書いたことだが、ずいぶん無理して建てたのではないか、まだそれほど人材もいないのに、ようは参詣者も満足にいないところに、無理して建てたのではないか、というのがわたくしの観察だった。
そして拙ブログのコメント欄には、どこの会館のことかは不明であるものの、年々参詣者が減少していて、日曜勤行だとかビデオ放映の時でも閑古鳥が鳴いている、というような証言も寄せられているのだ。
その上で、人口六万と三百七十万の対比を考えれば、凄いことがわかってくる。ようは単純に人口六万あたり一会館を建てるとすれば、横浜市だけで顕正会の会館をいったいどれだけ建てなければいけないか、という話になるのである。

逆に言えば、佐渡会館は時期尚早、無理して建てちゃった、ということになるわけだ。

ところで自分のことながら思うことがある。饒舌だなあと。勝氏には遠く及ばないものの、わたくしも相当に饒舌である。いくらでも書けちゃう。

そこで今日は女子部第二百三区班長の記事を紹介して終わりにしたいと思う。

 この強烈なるご諫暁により、わずか九ヶ月足らずで阿部日顕は退座。

あれれ? この話題は少し前にも取り上げたと思うが、その時は百日がどうのこうと言っていたはずである。おかしいではないか?

まあ、善意に解釈すれば、どこを起点にするかなのだろう。ただし、百日が事実ならばそちらで統一すればいいはずである。わずか九ヶ月足らずよりは、わずか百日のほうがインパクトがある。この辺の不統一がよくわからないところだ。

 そして、その六年後の平成二十三年三月十一日・・・

なんだこれは? いや、もちろん、あの巨大地震のことを言っているわけだが、それにしても六年という数字に何か意味があるのだろうか?

わたくしの聞いた話では、百日・一年・三年・五年・七年という単位は仏法上、重要な意味がある、ということだった。たぶん、浅井先生が何かの折に言っていたはずである。その意味からして六年後はおかしい。

・・・先生の起こされる戦いには必ず諸天が動くこと、大確信したものであります。

いつものパターンではある。

そして話は前後するが、彼女の記事には次のようなくだりがある。

御遺命守護の戦いは、この地球上で先生ただお一人にしか成し得なかった・・・

地球上で云々と。確かにそうかもしれないとは思う。しかし、この独白ブログだって、この地球上でわたくしただ一人がやっていることである。巌虎独白は他には存在しないはずだ。

こういうことを書くと、オマエは頭がおかしいんじゃないの、浅井先生の御遺命守護の戦いとオマエの独白を比べてどうするのか、この大馬鹿野郎めが、ということになるだろう。

まあ、それはそのとおりである。

けれども地球規模で考えた時に、実際の評価という意味においては、五十歩百歩かもしれないと思うのだ。まず、さしあたっては日本語圏だけでしか注目されていない。しかも仏教の一宗派の内部抗争の話に過ぎない。そしてかつての主流派だった創価学会と比較すれば、お話にならない小規模の団体である。しかも本家本元の日蓮正宗から破門されたままの状態が何十年も続いている。これが客観的な事実なのだ。

もはやこうなると、地球規模で考えた時には独白ブロガーのわたくしと浅井先生との差はそれほど違わないのかもしれない。

浅井先生が正当に評価される日は到来するのだろうか?

2016/1/22

ルイハトモヲヨブ   
勝氏の立場がようやく見えて来た。現役の顕正会員ではないが、顕正会シンパということらしい。なるほど、(勝手に)という名乗りは、その意味だったわけだ。確かに現役の活動会員にはマネの出来ないことだ。その自由闊達な筆致も、おそらくは現役でないことの気楽さがあらわれているのだろう。かく言うわたくしも、その点ではかなり似通っていると思う。

いずれにしても、ここ一連の議論は舞台を移して行なわれることになった。わたくし自身は投稿しないけれども、ひそかに拝見させていただくつもりだ。舞台はご存知のごとく、沖浦氏の掲示板だ。

そこで顕正新聞の話題である。

第1362号は年末合併号で、一面には日目上人会における浅井先生の講演が掲載されている。二面以降は毎度のことながら、各種集会の登壇が記事になっている。

そしてこの時期、わたくしが必ず注目しているのは、浅井先生を日目上人の再誕であるかのように思わせる記事がないかどうかという点である。今シーズン(?)はわりと少なかった。ウヌボレを言えば、わたくしが目を光らせているので、幹部諸氏も表現に気を使ったのかもしれない。

 まさに広宣流布の時には日目上人が必ず御出現になる。

会長講演である。さすがの浅井先生も自分が目師の再誕であるとは言わない。言うとしたら幹部たちである。

しかも、そこには自ずと必然性がある。

宗門や創価学会はどうだか知らないが、顕正会では今を広宣流布の前夜だと言っている。広宣流布の最終段階だとか、あるいはゴールがどうのこうのと言っているわけである。すると上掲の意味は、すでに目師の再誕がこの地球上のどこかにいらっしゃるのだと、間接的に述べていることになる。そこで犯人さがしではないが、誰々がアヤシイみたいな話が内部ではささやかれているのだ。コメントにもあるごとく、日興上人の再誕についても、今の皇太子殿下がそうなのではないかと、かつてはわたくしも耳にしたことがあった。逆に言うと、日目上人の再誕が誰であるかはあまり聞いたことがなかったように思う。

これが疑心暗鬼を呼ぶのだ。浅井先生がそうなのではないかと。

いや、わたくしはそんなことを思ったことがないし、たぶん、大半の幹部たちも同様ではないかと思う。逆に、悪宣伝に使われているフシがあって、かつて妙観講の機関紙に「一閻浮提の座主気取りはやめよ」みたいな文言が躍っていたことがあり、それを先生自らが取り上げたことがあるくらいなのである。この意味では、先生が目師の再誕である道理など、あろうはずがないのだ。

ところがである。こうして顕正会を離れて、わりと客観的な立場から顕正新聞を読んでいると、あれれ? と思うような記事がたくさんあることに気づくのだ。その一つのパターンが、日目上人の御姿と浅井先生のお姿が重なって見える、というような表現である。

ここ数年、わたくしはこのことをシツコク指摘してきた。そのためか、今シーズンは上述のような表現を発見できなかった。しかし、それに準ずる表現はあった。

先生だけが拝される甚深の御聖意
 「跡条々事」の法体付嘱に魂震える


第二十四女子部長の記事に付された見出しである。まあ、これ自体はそれほど問題を感じない。あえて言えば、先生だけが拝される云々が問題なのだが、それは別の記事を紹介する時に一緒に論じようかと思う。問題は次のくだりである。

・・・顕正会を日本を独走する仏弟子の大集団たらしめられた先生のお姿に、「敢えて違失の儀なし」の仰せを伏して拝するものであります。

カギカッコの意味はおわかりだろう。日興上人が日目上人に対して仰せられた言葉なのだ。つまり、ひじょうに婉曲ながらも浅井先生と日目上人を同一視していることが読み取れるのだ。

まあ、しかし、穿ち過ぎというか、さすがに言い掛かりが過ぎるかもしれないと、いちおうは反省しておこう。彼女にそこまでの意図はないと思う。

 そこに間もなく出現する「一期弘法付嘱書」の御真蹟と・・・

いよいよ「天皇持経」が事実となる時が来た・・・

世界国家が実現することに思いを馳せては・・・


それにしても凄い記述の連続である。新聞掲載分でもこの有様なのだから、口コミ指導のレベルではもっと凄いことが語られているのかもしれない。
いや、違う。口コミはどうでもいいのだ。すでにして顕正新聞掲載レベルにおいても、相当のことが語られているからである。
同じく第二十四女子部長の記事中から紹介しよう。次のくだりはけっこう仰天である。

・・・またこの御奉公の中に、日目上人の御出現、さらに真の国主がこの「日蓮大聖人の仏法」を手にする日も甚だ近いことを思えば、大歓喜おさえられません。

日蓮大聖人の仏法ではなく、「日蓮大聖人の仏法」なのだ。

ようするに「基礎教学書」のことを言っているのである。先ほどの「天皇持経」と重ね合わせるとひじょうに悩ましいことになる。

説明が面倒臭くなってきたので思いっきり端折るが、顕正会で言うところの天皇持経は天皇が「基礎教学書」を手にすることであり、延いては天皇が顕正会に入信することを意味するのだ。何を考えておるものかと言いたい。

総合女子部長も凄いことを言っている。

・・・全国民が「基礎教学書」を握りしめ、日蓮大聖人様に南無し奉り紅涙を流し、そしてただお一人、御遺命を死守せられた浅井先生に深く頭を垂れる日ももう間もなくと、大確信して止みません。

大聖人に南無し奉ることと、浅井先生に深く頭を垂れることとが、等値のようにも読めてしまう。もはやここまで来ると、目師再誕論どころの話ではない。まさに会長本仏論だ。

総合婦人部長と婦人部総務の記事を紹介しよう。

御在世から一直線の延長線上に立たれる先生のご存在・・・

今その一直線上におられる先生・・・


上のほうで紹介した「先生だけが拝される甚深の御聖意」とこれらの二文を併せて読むと、もはや独立教団路線からの軌道修正はなさそうである。ようするに日蓮正宗の完全否定に等しいわけで、唯授一人の血脈相承などクソ食らえと言っているようなものなのだ。

もう少し平たく言えば、創価学会も間違っちゃった、宗門も間違っちゃった、だからもう顕正会しかない、ということなのだけれども、総合部長クラスから見ても浅井先生は特別な存在であって文字通りの無二の師匠なのである。二も無く三も無しということだ。すると、もはやこの地球上には浅井先生に肩を並べる人物は一人もいないわけで、これはもう事実上の本仏と言っても過言ではないだろう。
あるいは、オマエは大袈裟過ぎるのだ、先生を貶めようといろいろなことを書いているが、誇張にもほどがある、気をつけたまえ、などと言う人がいるかもしれない。
しかし、違うのだ。君たちこそが大袈裟なのである。君たち顕正会員の、とりわけ大幹部たちが大袈裟過ぎるのである。先生を尊敬するのはけっこうだが、誇張し過ぎるのも問題である。だから、目師再誕論だとか会長本仏論が取り沙汰されるのだ。

そうそう、誤解のないように書いておくと、目師の再誕を云々しているのは顕正会だけではない。日蓮正宗でも言っていることである。上述の話題は、浅井先生こそ日目上人の再誕であると、このように思わせようとしているところが問題なのである。そしてそれが誤解だとしても、誤解を招くような誇張表現がたくさんあることが問題なのである。

最後にもう一つだけ書いておこう。目師再誕の認定問題である。

簡単な話である。顕正会にとって都合のよい人物かどうか、それが顕正会側の認定条件なのである。もう広宣流布は眼前なのだろう。あと何年を想定しているか知らないが、仮に数年で達成されるとしたら今の猊下がイコールで目師ということになる。まさか別のところから連れてくるわけにも行かないだろう、実はこの人が目師の再誕であると。そんな話が通用するわけがない。ようは、広宣流布が達成された時の猊下がすなわち目師再誕なのである。別に難しい話ではない。

このように考えると、浅井先生の発言傾向も何となく理解できるはずだ。日顕上人をボロクソに言うわりには、御当代猊下への言及はきわめて少ない。それはそうだ。あと何年かで広宣流布が達成されるとしたら、御当代が目師の再誕となるからである。そう考えると、さすがに悪口は言えないだろう。

しかし、いずれにしても現状では顕正会の宗門復帰はあり得ないことであって、かつまた広宣流布の達成も客観的には遠い先のことである。この意味では目師再誕もまた未来の話となる。

以上、悲しいことだが、顕正会は何一つ実現性のない話にしがみ付いて、それをあたかも今すぐにでも実現するかのように会員たちに思い込ませているのだ。当然、そのカラクリに気がついた人は組織を離れていく。ようはこの繰り返しなのである。

2016/1/20

ジヤウゼツスギル  
勝氏へ苦言を呈しておこう。拙ブログの常連たちが投稿を自粛してしまったのは、勝氏の責任(?)である。勝氏の圧倒的な筆力に、敵わないと思ったのだろうか、とりわけ法華講の諸氏が鳴りを潜めてしまった格好である。沖浦氏はマイペースというか、いわば自分のスタイルを確立しているので、ちょっとのことでは動揺しない。けれども、その他の人たちはほぼ全員が、撤収してしまった。

今流の表現を使えば、ドン引き、ということかもしれない。

なぜならば、勝氏は普通じゃない、異常だからである。その異常さに気づいて、周囲の人が引いてしまった。そして失礼ながら、異常という点では沖浦氏も似たり寄ったりなので、氏だけは例外的に残留しているわけである。

では、何が異常かを、具体的に指摘しよう。

文章の内容以前の問題として、そのボリュームが膨大過ぎるのである。オイオイ、仕事はどうなっているのか、それから活動のほうはどうなのか、というのが誰もが思うであろう素朴な疑問である。

拙ブログには現役の顕正会員がほとんど訪れない。

その理由の一つは、顕正会側の旗色がひじょうに悪いからである。わたくし自身が顕正会を痛烈に批判している。そこに法華講員たちが賛同のコメントを寄せてくる。これでは現役会員も怖くて近寄れない。

ただし、これは幾分かはウヌボレだと思う。顕正会だって論客がいないわけではないだろう。では、なぜに論客があらわれないのかと言うと、時間のムダだからである。巌虎のようなバカたれを相手にしても仕方がないし、法華講の連中を相手にしても仕方がない。なぜならば、ネットの中で論陣を張ったところで、成果には結びつかないからだ。つまりは時間のムダである。

顕正会員もそれぞれ仕事を持っている。何かしらの職業に就いている。ごく一部の職業幹部は仕事イコール信心であるが、しかし、それ以外の大多数の幹部たちは仕事をしつつ信心をしているわけである。これは法華講員も同じだし、創価学会員も同様である。

そこで拙ブログのコメント欄の話に戻ると、見えてくることがある。

顕正会の活動会員たちはベラボウに忙しいのだ。仕事と活動を両立させるとなると、もはやこんなチンケな独白ブログなど閲覧している余裕すらないのかもしれない。いわんや投稿することなど、あり得るはずもないのである。

その意味では、法華講員たちのほうが幾分かは余裕があるのだろう。また、沖浦氏などは半ば悠々自適の意味もあって、それでわりと高頻度の投稿が可能なのだと思われる。

では、勝氏はどうか、である。

本年に入ってまだひと月にも満たないのに、その投稿数たるや膨大を極める。まさかこれと同時進行で、仕事も活動もやっているとしたら、驚異的である。つまりはあり得ない。常識的にはあり得ないことをやっているのだ。

以上、他の投稿者が鳴りを潜めている理由について、わたくしなりの推測を書いた。

ポリ銀殿のブログ・・・

これはまったく知らなかったことだが、勝氏はすでに昨年の十一月の段階で、法華講員相手に相当の議論をやっているのだ。舞台はポリ銀氏のブログである。昨夕、大急ぎであらまし拝見した。ああ、なるほど、と思った。

すでに述べたごとく、勝氏の膨大な投稿数に圧倒される格好で、法華講員たちがドン引きしているのは事実であろう。さらに言えば、その投稿内容にも圧倒されているであろうことが先方のコメント欄を読むとわかってくる。その後、メールでのやり取りが行なわれた模様だが、もちろん私信なので具体的なことは不明である。しかし、いずれにしてもそうした背景を背負って、本年、満を持して拙ブログに登場したのが勝氏なのだ。

これらの経緯を踏まえれば、なるほど、法華講の諸氏が沈黙せざるを得ない事情もわからなくはない。

しかし、このまま終わるわけがないのだ。

おそらく法華講の諸氏は反撃の機会を窺っているのだろう。まさかこのまま勝氏を放置しておくわけがない。謗法呵責の精神からしても必ず反撃してくるに違いない。

それはそれ、これはこれ、である。法華講の諸氏がどうであれ、わたくしはわたくしの立場で勝氏と対決しなければならないと思っている。ただし、急ぐ必要はない。この先も拙ブログは続けていくので、長期戦のつもりでじっくりと取り組むつもりである。

 只只題目を捨てないことが大事であって、私が他宗を激しく責めた佐渡以前の教えは、釈迦の爾前経だったと思って下さい。

沖浦氏とも長い付き合いになってしまったが、慌てる必要はないだろう。性急に結論を出すのではなく、じっくりと取り組めばいいのだ。それにしても相変わらずのデタラメぶりである。いったいどうしたらこういう解釈になるのか、もう少し丁寧に説明してほしいものである。たぶん無理だろうが・・・

さて、今日は八つ当たり気味(?)に、浅井先生にもイチャモンをつけておこう。

昨夏の世界同時株安はその後やや持ち直して小康を保っているものの、いつまた暴落が始まるかわからない。

誤解のないように書いておく。上掲はわたくしの文章である。しかもたった今、拵えた文章なのだ。

いわゆる平成十六年の諫暁書には巨大地震のことが書かれている。平成九年の時も同様である。ところがなかなか地震が起こらなかった。ちょうど折しもインターネットが普及し始め、浅井昭衛の当たらぬ予言、などという揶揄がネット上を飛び交った。それを気にしたものか、浅井先生は地震に関する発言を控えるようになった。

なんとタイミングの悪いことか、先生が地震について言及しなくなった途端に、あの巨大地震が発生したのである。

今回の一件はそのミニチュア版である。

昨夏、中国発の世界同時株安が発生した。浅井先生はこれを世界大恐慌の始まりだと断じた。ところがその後は株価が安定し、恐慌と言えるレベルには程遠い状況が続いていた。そこで先生は都合が悪いと思ったものか、経済問題についての言及を避けるようになった。直近の元旦勤行での挨拶も同じである。経済事案への言及はなかった。

タイミングが悪いったら、ありゃしない。ご存知のごとく、株価の現況はひじょうに芳しくないのだ。しかし、しょせんは凡夫であるから、未来を予見することは出来ない。昨年末の段階では、年明け早々、まさか株価がここまで下落するとは誰も予想できなかった。浅井先生もその一人である。

もちろん、わたくしも同じであって、上掲は結果を見て書いているに過ぎない。いわゆる後出しジャンケンである。

ただし、結果論ながらも上掲のような書き方は出来たはずで、もし先生がそのように書いていれば、今頃幹部たちは大喜びしていたはずである。先生の卓抜なるご見識がどうのこうのだとか、あるいはもっと大袈裟に言えば、先生のご発言に諸天が感応しただとか、そんなことを幹部たちが言っていたはずである。

さらにオマケを書いておこう。

今現在、経済事案としては株安とともに原油安が問題となっている。経済オンチのわたくしにはよくわからない話で、ガソリンが安くて助かるなあと思っているだけなのだが、この件に関しても浅井先生にはウシロメタイことがある。

http://white.ap.teacup.com/ganko/985.html

リンク先は八年前の拙稿である。先生いわく、米国の石油はあと十一年で枯渇する、と。これはもう完全な間違いである。もし本当ならば、あと三年で枯渇することになる。しかし、そんな話は聞かない。それどころか、米国はシェールオイルが採掘されるようになって、石油の輸入国から輸出国へと転換しつつあると言われているくらいなのだ。

ごく単純に、需要と供給の関係から考えれば、石油がダブついているから値段が下がるのだろう。いや、もちろん、実際にはもっと複雑なのだろうけれども、基本的な理屈は変わらないはずだ。

以上、石油枯渇の話は大ハズレだったことになる。つくづく先生の予言は当らないなあと思う。

2016/1/14

ドロヌマセンジツ  
ひじょうに面倒臭いことになってきた。常連の人たちはよくご存知かと思うが、わたくしはこういう時、独白に徹することにしている。一般的には自分のカラに閉じこもると表現すべきところで、まさに拙ブログの出発点はそこだったのだ。しかし、じゃっかんは自己矛盾がある。本当の意味でカラに閉じこもるのであれば、こんなブログなどやめてしまえばいいのである。ネットから撤退すればいいのである。しかるに、こうしてダラダラと十年以上も継続している。まさに自己矛盾である。

それはともかく、勝氏の旺盛な執筆活動には恐れ入った。

わたくしは思うのだ。だったら自分でブログなり何なりを立ち上げて、そこで自説を展開されたほうがいいのではないかと。

もっとも、今のタイミングでこういうことを書くと、いろいろな憶測を呼ぶことになる。主には、婉曲ながらも勝氏を追い出しに掛かっているのではないかと、本人も思うかもしれないし、読者諸氏の中にもそのように読み取る人がいるかもしれない。

しかし、わたくしはまったく別の意味で言っているのである。他人のブログのコメント欄などという限定的な場ではなく、しっかりとした場所を設けて主義主張を展開したほうが読者のためにも好都合であると。今の状態では話が錯綜していてわけがわからない。読者も面倒なので、簡単に読み流してしまう。すると、せっかくの主張が埋もれて行ってしまうのだ。

それではいかにもモッタイナイ。だったら自分でサイトを立ち上げたほうがいいだろう。

あるいは本人も当初からそのつもりなのかもしれない。生意気を言うようであるが、拙ブログはわりと注目度が高い。ゆえにここで名前を売っておけば、後に自分のサイトを立ち上げた時に宣伝しやすい。今はその足掛かりを作っている段階なのかもしれない。

憶測を呼ぶようなことを書き、かつまた、こうして自らも憶測を書いてしまっている。

しかし、モッタイナイというのは事実だ。その代表例が次である。

戒壇の分け方には以下の三つが存在する。

(1)
●天台、比叡山の戒壇=理の戒壇
●大聖人、本門の戒壇=事の戒壇
(2)
●寺々各家庭の書写、乃至形木御本尊の座=義の戒壇
●大御本尊の座=事の戒壇
(3)
●広布前の戒壇=義の戒壇
●広布後、公的に命じられ建立された戒壇=事の戒壇


これには感銘した。単純明快であり、かつまた隙がない。これに続く説明も切れ味が鋭く、おそらく並の法華講員では太刀打ちできないに違いない。

まあ、しかし、話がややこしくなることを承知で言わせてもらうと、上掲は必ずしも正確ではない。いちおう隙のない形にはなっているけれども、完全無欠というわけではない。
そしてさらにややこしくなることを承知で書けば、並の法華講員どころか法華講の論客たちでさえ、上掲の弱点を指摘することは出来ない。あるいは御僧侶方も同様かもしれない。
それをわたくしが指摘できると言えば、これほどの増上慢もあるまいが、しかし、事実だから仕方がない。

勿体ぶるようだが、これは宿題としよう。

いみじくも勝氏が指摘するように、拙ブログのコメント欄は三つ巴の様相を呈している。しかもかなり複雑な三つ巴である。

かつての宗門は国立戒壇の一件で妙信講を破門にした。この時の宗門は創価学会と協調していた。妙信講一人が除け者にされたのである。
ところが今現在、戒壇の大御本尊に対する信仰という意味においては、宗門と顕正会の協調性が高い。創価学会は敵対関係にある。
しかし、もう一つの側面があって、塔婆不要論だとかその他もろもろのいわゆる化儀の改変のおいては、創価学会と顕正会が協調関係にある。

三者三様で、お互いにイガミ合っているけれども、ある部分では協調関係、ある部分では敵対関係という具合に、実に複雑だ。

いずれにしても、戒壇論においては顕正会一人が除け者であって、宗門と創価学会はわりと協調的な関係にあるわけだろう。今はかなり違ってきているものの、かつては間違いなくそうだった。

ならば提案である。

今の状況は議論が錯綜していてわけがわからない。それは三者三様の意見がぶつかり合っているからであるが、それ以前に複数のテーマが同時進行していることが問題なのだと思う。

だったら勝氏の作成した三分類を中心に論じたらどうか?

これがわたくしの提案であるが、そのネライは単純明快である。たぶん法華講員ないし創価学会員に勝ち目はないだろう。逆に言うと、勝ち目のないことがわかっているから、議論を拡散して話を泥沼化させているのだ。ゆえに、この一点集中で議論したらどうなるか、ぜひとも見てみたいものである。

勝氏の三分類は不正確である。しかし、法華講員にはそれを咎めることが出来ない。たぶん創価学会員も同様だろう。

こんな偉そうなことを書いていると、だったら早くオマエの意見を書けよ、ということになるだろう。これは実に簡単な話なので、すぐにでも書ける。しかし、物には順序がある。まずは法華講員ないし創価学会員が破折を試みるべきだろう。話はそれからである。

2016/1/11

シンヤノコメント  
勝氏におかれては、拙ブログを過去に遡って精力的にお読みになられているようで、まことに恐縮至極である。

 金口の相承とは、いわゆる口伝えのごときものではない。濫りの言挙げは畏れ多いのでこれ以上の言葉は慎むが――

浅井先生の発言である。平成三年に刊行された書物の中にご覧のような記述があって、ここでは血脈相承についてかなり詳細に言及している。この時は日達上人から日顕上人への御相承を否定しておらず、多くの人たちから疑われる事態となったことをもって、御遺命違背の罰なのだと言っていた。これが後の御相承断絶発言と矛盾するということで、法華講員たちから痛烈なツッコミを入れられる結果となった。

しかし、今回は別の議論である。

純粋に上掲のくだりだけを読んだ時にどのように感ずるかが問題なのだ。

さしずめ法華講員ならば、浅井ごときに何がわかる、知ったかぶりをするな、と言うかもしれない。また、熱烈な顕正会員ならば、浅井先生は本当に凄いお方である、御相承のことまでご存知であられるのだから、おそらくは仏法上、特別のお立場なのだろう・・・みたいなことになるかもしれない。

わたくしの思うに、先生の知ったかぶりは事実であろう。しかし同時に、いわゆる口伝えのごときものではない、というのは案外に正鵠を射ているのではないかという気がする。

先生は御相承を受けたわけではないので、その中身を知っているわけがない。だから知ったかぶりなのである。では、御相承とはそうした口伝えのようなものであって、今もなお非公開の口伝相承のようなものが残っているのかと言えば、そんなものはないというのが一つの有力な意見だと思う。ゆえに創価学会あたりでは、すでに御相伝書として公開されてしまっているので今さら非公開の秘密相伝などありはしない、宗門側の言っていることはハッタリだと、おおむねこんなような意味のことを言っているわけだが、確かにそれなりの説得力があると思う。逆に法華講員たちが秘密相伝を信じるのは文字通り信仰としてはピュアで結構なことではあるものの、残念ながら説得力はあまりない。ことに勝氏が指摘するように、他宗他門あるいは外国の宗教に対してそんなことを言い張ったところで、はあ? 何それ? と言われてオシマイである。

このように考えると、浅井先生の言う「口伝えのごときものではない」はひじょうに深謀遠慮な表現であって、ある意味では血脈相承の尊厳を誰よりも重んじていることになるだろう。むしろ法華講員たちはここに思いを馳せるべきである。

さしあたって結論めいたことを書くと、血脈相承には法門上のこととは別に制度上の意味合いが存する、ということだ。

本門寺建立の時、新田卿阿闍梨日目を座主と為し・・・

あえて後半を省略したが、実はそちらのほうに注目すべき文言がある。

半分は日目嫡子分として管領せしむべし。残る所の半分は・・・

日興跡条々事はベラボウに重要な文証である。もちろん法門上においてである。しかし、どうだろう、上掲の意味は寺院の権利関係を云々しているわけであって、それがはたして法門の上でどれだけの意味を持つのか、まったく不明である。半分じゃないとダメなのか? 三分の一じゃダメ? 四分の一は? 別に大石寺の直系の人が本門寺の座主をやればいいだけの話であって、他の寺院の権利などはどうでもいいのでは?

ゆえに日興上人が何を根拠に半分とされたのか不明であるが、たぶん法門の上からはさして重要な意味を持たないと考えるのが妥当であろう。

以上、論証と言えるほどの内容ではないが、血脈相承には制度上の側面が存することがわかったのではないかと思う。この意味で日顕上人の相承に疑義を挟んだ人たちが宗門追放の憂き目に遭わざるを得なかったことも当然の結果として受け止められる。少なくとも当時は他に名乗り出る人がいなかった。自分が相承を受けたと名乗る人はいなかった。となれば無投票当選ではないが、日顕上人が登座されたことにイチャモンをつけることは出来ない道理である。

しかし、上述の論理では心許なかったのだろうか?

それで正宗側は日顕上人の権威づけのために血脈相承の神秘性のようなものを強調し始めた。それが秘密の口伝の存在を云々することにつながるわけである。繰り返しになるが信徒はそれでいいだろう。しかし、外部の人間は容易には納得しない。これが現状ではないかと思う。

さて、少し角度を変えよう。

御書オタクと呼ばれる人がいるとしよう。なぜか御書についてベラボウに詳しいのだ。もしも、この人が時の猊下と法論をしたらどうなるだろうか?

御書オタクの完勝かもしれない。

猊下と言えども御書の拝読をサボっていれば、御金言の数々がとっさには出てこない。一方のオタクは御書に精通していて、次から次へと御金言を的確に引用し、猊下を閉口せしめてしまう。こうなれば、猊下の完敗である。

ゆえに、こうした法論は実現しない。これはかつての対決申し入れが示す通りであり、かつまた、樋田氏と浅井先生の関係においても同様である。時の猊下が在家信徒と法論して負けたとなれば大事件である。ゆえに法論を回避する。また、宗教法人顕正会のいわば教祖的存在である浅井先生が樋田という日蓮正宗の一信徒に負けたとなれば、これまた大事件である。ゆえに回避するのだ。かつての池田大作氏が法論を受けなかったことも同じだろう。

いずれにしても猊下がどこの馬の骨とも知れない御書オタクに負けるわけには行かないので法論は実現しないわけだが、それにしても血脈相承を受けし時の猊下が御書オタクよりも御書に暗いという事態はいったい何を意味するのだろうか?

その猊下が秘密の口伝を保持している? なんじゃそりゃ?

今日はずいぶん正宗側に不利なことを書いたように思われるかもしれないが、わたくしにそのつもりはない。すでに結論は述べた。すなわち血脈相承には法門上とは別に制度上の意味がある。

日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は・・・

これも法門上の意味はさておき制度上の意味は明瞭である。まず、弘安二年の大御本尊を日目上人に託し、将来、本門寺建立の時にはその戒壇堂に懸け奉るべし、ということである。これは誰もが容易に読み取ることが出来るだろう。そして次の条目と併せ読むならば、それまでは大石寺の住職がしっかりと管理しなさい、ということになるわけだ。もちろん管理は言葉が軽すぎる。いわゆる秘蔵厳護が適切な表現なのだろう。この使命を帯びた人が別しては時の猊下なのである。

これはもう、これだけで大変な存在である。

以上、秘密の口伝が存するか否かに関わらず、すでに制度上の観点からして血脈相承の重要性は揺るぎないものなのだ。

2016/1/9

ギマンノカズカズ  
新年早々、新手の論客が登場した。これまでの発言を見るに、なかなかの使い手である。

その前に、成田氏や瑠璃堂みう氏らのコメントが前回の拙稿に即するものなので、補足的な意味で追記したい。

顕正会の誓願とは名ばかりで、実質的にはノルマ化している。ゆえに、この誓願が撤廃された上で自主的な折伏による成果が今回のように三万近くの大折伏となったのだとすれば、これほど幸甚なことはあるまいと思う。ところが公式な発表がなかっただけの話であって、実際にはノルマが存在したであろうことは動かない。となれば、喜んではいられない。

さらに厳しいことを言えば、総合女子部長は一万五千の誓願を立てたのだ。自主誓願である。発表されなかったものの、おそらくは一万前後のノルマが課せられていた。これに五千を上乗せする自主誓願を立てたわけである。結果は一万を突破したものの、一万五千には遠く及ばなかった。総合女子部長はこれに対する反省をまったく述べていない。

自主誓願とは、それほど軽いものなのだろうか?

わたくしはこれがおかしいと言いたいのだ。おそらくは浅井先生が決めたであろう一万の誓願(=ノルマ)は絶対であって、自らが大聖人にお誓いした一万五千の誓願はどうでもいい、いや、どうでもいいは言い過ぎかもしれないが、しかし、現実的にはそういうことになるだろう。極端に言えば、大聖人よりも浅井先生のほうが上なのだ。何しろ大聖人との約束よりも浅井先生との約束が優先されるのだから・・・

ややイジワルな書き方になっていることは承知しているつもりである。しかし、これはまさに顕正会の積年の問題であって、誓願がノルマ化し、活動会員たちがその重圧に苦しめられているという現実がある以上、今後も指摘し続けなければいけないことである。

たぶん、無理だとは思うが、もしノルマが完全撤廃されたならば、その時は大いに称賛したい。

そこで話は変わるわけだが・・・

(勝手に)顕正会代表

すでにして、この名乗りがスゴイ。勝手にとは断っているものの、顕正会を代表することを謳っているわけだから、よほどの自信家なのだろう。実際、これまでの発言を見るに、よく勉強されているし、自分なりの考え方というものを確立していることがわかる。なるほど、自信に満ち満ちていて、おかしくはない。

わたくしに言わせれば、創価学会もダメ、顕正会もダメ、なのである。

二日の拙稿である。これに対して、勝氏(以降はこのように呼ばせていただく)から質問が発せられた。

組織として色々と綻びや杜撰な点が見られるのは確かな事ですし、会長が予言をしては外してしまうというのも大いに問題であるかと思うのですが、「教義としてダメ」な部分がもしおありでしたら、お教えください。

勝氏はひじょうにリベラルな人である。ガチガチの顕正会員的な思考から脱却していることが、上掲の文章から読み取れるのだ。わたくしなりに圧縮すると、組織上の問題点はいろいろあるし浅井先生の大言壮語も問題だ、と言っているわけだ。浅井先生絶対論者には絶対に言えないセリフである。

それはともかく、教義上どこが問題なのか? とわたくしに聞いているわけである。

これについては図らずも沖浦氏と勝氏との議論の過程において、いくつかの問題点が浮かび上がってきたようである。それは前回分のコメント欄にたくさん散りばめられていて、ここで俄かに抽出するのは難しい。あえて典型的なというか、わたくしの興味の上から言えば、次のくだりが象徴的かと思う。

文字曼荼羅にも開眼供養が必要であると樋田氏から弊会への楽しい手紙にあったので・・・

この楽しい手紙という表現が楽しい。いや、頼もしい。

樋田氏の存在はベラボウに大きい。顕正会から宗門へ移籍する人の一定数が樋田氏の影響によるものと考えられるわけで、おそらくは顕正会の大幹部たちも戦々恐々のはずである。もし万一にも対面法論ともなれば、さらにはそれを動画サイトに出されてしまった暁には、もはや大幹部としての地位も名誉も失うことになるだろう。それにもかかわらず、勝氏はご覧のごとく言っているのだ。冒頭に自信家だと書いたことも、これでよくわかるだろう。

たぶん、勝氏は承知していると思うが、わたくしは宗門側に相当の肩入れをしているけれども、必ずしも宗門ベッタリではない。ゆえに、顕正会の教義上の間違いということに関しても、必ずしも宗門側の論理をそのまま鵜呑みにしているわけではない。

そこで回答を申し上げなければいけないが、その前にもう一つの質問について触れたいと思う。

供養の件はオアイコでいいとしても、この件は顕正会の負けである。そこに気がつかないとすれば、顕正会も終わりだろう。

二日の拙稿である。供養の件はどっちもどっち、ゆえにオアイコということにしてもいいが、本尊の件は顕正会の負けだと書いた。具体的には次の記述が問題である。

細井日達書写の御本尊を返納して遥拝勤行に励んでいくと・・・

顕正新聞にこのような記述があったのを見て、わたくしは顕正会の負けであり、顕正会も終わりだろうと書いたのだった。

これに対する勝氏の質問が以下である。

顕正会も終わりとありますが、其れはどうしてでしょうか?遥拝勤行ではダメだ、という事でしょうか?


顕正会の教義上の誤りは、まさにここにあるのだ。

まず、遥拝勤行について言えば、わたくしはダメだとは思っていない。おそらくはこの十年間、いろいろなことを書いてきたが、遥拝勤行を否定するようなことは一度も書いていないはずである。
では、何がダメなのかであるが、それは消去法で明らかだろう。日達上人書写の御本尊を返納することがダメなのである。
わたくしの言う顕正会の間違いとは、このことに他ならない。

勝氏のことだから、ご存知のはずである。折伏理論書の初版と改訂版には大きな相違があるのだ。細かい相違はさておき、わたくしの思う最大の相違は次のくだりである。

 やがて御遺命守護完結のその日には、顕正会員こそこの捨身の御奉公によって、時の御法主上人より、晴れて御本尊の授与を賜わる資格を得るのである。

 やがて宗門が御在世の信心に立ち還るとき、顕正会員こそこの捨身の御奉公によって、晴れて御本尊の授与を賜わる資格を得るのである。


生意気を言うようであるが、わたくしが最初に発見したであろう顕正会の誤りというものがいくつかあると思う。今は具体的に出せないものの、拙ブログの中で指摘したことがいちばん最初だったということが、いくつかあるはずである。

ところがである。

上掲の自語相違というか文章の差し替えについては、ウカツにも気がつかなかった。改訂版が出た時、いちおう最初から読み直したつもりだったのだが、気がつかなかった。あるいは当時の自分は物凄く面倒臭がりだったので、新設された九章と十章だけに目を通して、それでぜんぶ読んだつもりになっていただけなのかもしれない。そのため、ずいぶん時間が経ってから気がついた。その時にはすでに先人がいて、当該文章の差し替えについて批判を加えていた。

いずれにしても、上掲こそが顕正会の教義上の誤りを象徴する典型的な事例であり、そこにはさまざまの欺瞞が集約されているのである。

ここまで書けば十分だろう。

なお、勝氏は御書にずいぶんと詳しそうであるが、確かに御書を基準に論じていくとわからないことがたくさんあって、けっこう苦労することになる。例えば昨年のいつだったか、少しばかり話題になった色花の問題にしても、なぜにそれがダメなのかは御書を拝した限りではよくわからない。同様の意味において、日蓮正宗が伝統的にやっていることの中においても、根拠のよくわからないことがたくさんあるのだと思う。沖浦氏あたりはその辺のことをよく承知していて、いわばそうした弱点を突くのが得意である。そして法華講の諸氏がそれに答え切れていないのも事実であろう。わたくしはわからないことはわからないと正直に答える。もちろんその大半は勉強不足でわからないわけだが、上述のごとく実際に御書だけではわからない問題もたくさんある。そうした問題についてどのように考えていくべきか、本年は勝氏の見解も聞けるのでひじょうに有意義な議論になるかもしれない。

期待半分、面倒臭さ半分、それがわたくしの本音である。

2016/1/5

カズカズノギマン  
塚原三昧堂の件はなるほどと思った。当然というべきなのか、浅井先生は宗門に依存しているのである。宗門が場所を特定した。ならば安心である。間違いはない。もし万万が一、間違っていたとしても、問題はない。
これが他門であれば、たとえ正しかろうがイチャモンがつく。国立戒壇がそうだ。田中智学のマネをしているだの何だのと、未だに言われ続けている。これが浅井先生としてはツライのである。
ゆえに大抵のことは宗門の主張に逆らわないほうが得策なのである。今回の塚原の件も同じだろう。
だったら全面的に依存すればいいものを、御遺命守護だけは譲れない。それはそうかもしれないが、しかし、今はその他の面でもおかしなことになってきている。
わたくしは戒壇論に限っては顕正会に相当肩入れしているけれども、その他のことは認められない。例えば本尊を勝手に複製しているとすれば、もはや許されないことだと思う。

さて、今日は折伏成果の欺瞞について書く。

二万九千八百七十二名

これが秋の三ヶ月法戦の成果である。あと百二十八名で三万だった。確かにすごい数字である。

しかし、わたくしには信じられない。本当だろうか? ここには何かウソがあるのではないか? すでに末端においては入信偽装が多く行なわれている。いわゆる水増し報告、ようは虚偽の報告である。それが今回の場合、もしかしたら本部そのものが虚偽の発表をしているのではないかと、そう思えて仕方がないのである。

根拠もなく書くのはダメである。そのくらいのことはわかっている。では、根拠は何か?

まずは過去の会長講演を二つ引用する。

 そして迎えた本年の、いよいよ初陣であります。初陣二・三・四月法戦の弘通誓願は、二万といたします。

 さあ、いよいよ国難二年の中盤、六・七月法戦の開始であります。
 弘通の誓願は一万六千といたします。


一月度総幹部会と五月度総幹部会である。今の顕正会は折伏法戦を前半・中盤・後半と大きく三つに分けている。ご覧のごとく、前半戦が二万、中盤戦が一万六千と、目標を掲げている。

ところがである。

八月度総幹部会で発表されるはずの後半戦、すなわち本年の最終法戦の目標がどこにも記されていないのである。これはおかしいだろう。

二万五千三百五十六名

二万一千百三十六名

二万九千八百七十二名


これは三つの法戦の結果を並べたものである。これを見ると、それほどおかしくはない。前半戦は二万が目標だったところをご覧のごとく大きく突破している。中盤戦も一万六千の目標からすると相当である。この勢いからすれば最終法戦の二万九千余は、それほど違和感がない。

だからこそ、不自然なのだ。なぜに八月総幹部会で誓願が発表されなかったのか、それが甚だ疑問なのである。

しかもである。総合女子部長が謎の発言をしているのだ。

 されば、全組織の十月誓願達成、そして十一月、「一万五千」を見つめて大突破を成し・・・

 されば本日より総決起し、この最終法戦、一万五千大折伏を以て・・・


上段が九月度班長会、下段が十月度のそれである。

今になって気がついたことがある。おそらく一万五千は自主誓願と呼ばれるものなのだろう。わたくしは当初、女子部で一万五千は凄いと思った。逆にもしこれが顕正会全体の誓願だとすれば、ずいぶん控えめというかショボイではないかと、以前にも書いたことだった。

自主誓願であることは十一月度班長会での彼女の発言を見れば明らかだ。

 結果、全三十五女子部が誓願突破しての、一万六一九名を以てお応えできましたこと、報恩感謝の念に尽きません。

なるほど、ここまで辿ってみると、今回の二万九千余の折伏成果は強ちウソではないのかもしれないと思えてきた。ウソを暴くつもりで書き始めたものの、結果は思わぬ方向に行ってしまったようだ。

ただし、減らぬ口のようではあるが、言わせてもらおうと思う。それでもおかしいと。

もはや今後は誓願を発表しないのだろうか?

つまり、今回の誓願は不明なのである。女子部も自主誓願が一万五千であることはわかったものの、元々の誓願が不明のままである。上掲から判断すれば、おそらくは一万なのだろうと推測されるわけだが、いずれにしても公には発表されていない。

これでは勝ったのか負けたのかわからない。

いや、もちろん、我々は過去の数字を知っているので、誓願が発表されようがされまいが関係ない。前年比で見ればいいだけの話である。今回、三万になんなんとする結果を出してしまった。となれば、もはや今後は二万を超えたくらいでは誰も驚かなくなる。それどころか、二万を切るような事態になれば、もはやオシマイと言われても仕方がないだろう。誓願の有無は関係ないのだ。

また、あえて言わせてもらえば、自主誓願なるものが大いなる欺瞞なのである。

自主誓願の対義語は何だろうか?

これで話はオシマイである。ぶっちゃけ言えば、ノルマだろう。ようは顕正会はノルマで動いているのだ。崇高なる仏弟子の大集団などと宣伝しても、実態はノルマで動く、ノルマで動かされている、もっと言えば、ノルマで働かされている・・・いわゆるブラック企業のようなものなのだ。ブラック企業ならぬブラック宗教ということである。よく使われている白蓮華云々はブラックぶりを糊塗するための修飾語に他ならない。

以上、今回の折伏成果は予想を上回る大記録である。この記録について、当初は何か裏があるのではないかと勘繰っていたけれども、本部主導で数字の操作が行なわれたということは今のところなさそうである。しかし、末端における水増し報告はもはや常態化しているのではないかと思われるし、本部のほうでもそれを半ばは承知していて黙認してしまっているということも、もはや疑いようのない事実なのだと思う。

こんなテイタラクでは二百万を達成したところで何も変わらないだろう。


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