2016/3/30

憂鬱な年度末  
沖浦氏との議論はキリがない。なぜならば氏の性格が負け嫌いだから、こちらが何かを言えば言い返さずにはいられない、ようはその繰り返しなのである。ゆえに終わりが来ない。
ただし、わたくしは無駄な重複議論はしたくないので、同じ文章を繰り返し貼り付けるようなことはしない。
そういうわけで、今日は少し趣向を変えようかと思う。

http://d.hatena.ne.jp/kasiini/20081028/p1

一大秘法を検索していて見つけたブログである。執筆者のことは存じ上げないが、ひじょうよくまとまった文章だと思う。たぶん現宗門の立場からすれば、部分的には反論の余地があるものの、全体的な印象としてはわりと正宗教学に近いというか、むしろ正宗教学そのものと言えるのではないかと思われる。

今回は、沖浦氏の見解が学会教学と乖離している件について考察したいと思います。

これが書き出しの部分だ。

沖浦克治氏の独自教学
1:一大秘法は本門の題目であります。


数字が振ってあることからもわかるように、ぜんぶで七項目ある。しかし、煩瑣になるので、ここでは省略しよう。

学会教学
1:一大秘法は本門の本尊です。
理由は、本門の題目は、修行・実践の側面ですので、一大秘法とすると、誤解や混乱になってしまうからであります。


理由の部分が素晴らしい。修行・実践云々は拙ブログではまったく触れなかった側面だ。これをいわゆる四力に配当すると、本門の本尊には仏力・法力がましまし、対する本門の題目には信力・行力が求められる。まさに報恩抄や三大秘法抄の御指南に一致符合するものである。つまり、本門の題目は信じて唱えるという行為、すなわち信と行に主眼があるのだ。

さらに執筆者は創価学会の公式見解を引用している。

三大秘法の根本は、「一大秘法」です。
一大秘法とは本門の本尊、すなわち日蓮大聖人が胸中に所持されている久遠元初の南無妙法蓮華経であり、また、それを図顕された曼荼羅本尊です。
【『教学の基礎 仏法理解のために(聖教新聞社)P54-P55】


いかがだろうか?

沖浦氏が創価学会の公式見解に背いているのは明らかである。なぜにそこまでして自説に固執するのだろうか?

以下、執筆者はこの後も長々と文章を続けるわけだが、わたくしは最後の結論部分に注目した。まとめとして五項目ほど書いているうちの最後の最後、五番目の文章が重要である。

5:更に一番大きな原因は、自分の誤りを素直に謙虚に、認められないということです。

んっ?氏のコメントでもほぼ同時期の話題が紹介されているが、これがもうかれこれ八年前のことなのだ。結局、沖浦氏は自説に固執したまま、人生を終わることになりそうである。よく言えば信念を貫いていることになるものの、悪く言えばイコジ・ガンコ、あるいはヘソマガリといったところだろうか?

さて、引き続き顕正新聞第1368号を見て行こう。

 一月度総幹部会において先生より
 「一八〇万まで、あと二万九千有余」
 とお伺いし、しかしながら先生は、折伏誓願を「二万二千」と敢えて低く抑えられ・・・


第十八男子部長の発言である。わたくしは「敢えて低く抑えられ」という部分に注目した。もちろん、これは浅井先生の配慮、すなわち活動会員たちの苦労を慮られてのことなのだろうけれども、これはまた同時に顕正会の今の実力をあらわしているとも言えるだろう。皮算用だけならば、三万突破の大折伏が出来ればそれに越したことはない。しかし、今の実力では相当に厳しい。ゆえに低めの目標を設定しておいて、もし結果として三万突破が実現すれば御の字ということなのだろう。もし仮に三万突破が出来ず、百八十万に届かなかったとしても、とりあえず二万五千だとか二万八千だとか、そういう数字が叩き出せればいわゆる誓願大突破というフレーズは使えるわけだ。それが低めの目標設定の意味である。

ただし、急がば回れとは言うものの、今のペースではまったくお話にならないわけで、これで二千二十年代を迎えたところでどうなるものでもないことは、わたくしのような愚鈍の凡夫にも手に取るようにわかる。たぶん、その時にも拙ブログは存続しているだろうから、何かしら書くことになるだろう。そら言わんこっちゃない・・・みたいな感じだろうか?

顕正会こそ、唯一の富士大石寺門流・・・

これは第二十四女子部長だ。しかし、いかがなものかと思う。いつも言っているように、宗門をどうするのか、である。宗門を無視して、本当に広宣流布が実現すると思っているのだろうか?

次は婦人部大阪支区班長の活動報告であるが、なるほど、教学試験の合格率が低いのもこれでよくわかるだろう。

 入会二日後の日曜勤行にも参加し、当日の登用試験を感激のまま勧めると、「受ける」と言い、そこから一緒に基礎教学書を拝読して、ぶっつけ本番で試験に臨みましたが・・・

いちおう創価学会からの入会者なので、教学的な素養はあるという理屈は成り立つかもしれない。しかし、おそらくは入会者ではなく入信者であっても受験を勧めるだろうことは、容易に想像がつく。何しろ合格率がベラボウに低いという厳然たる事実があるわけで、まさにぶっつけ本番の受験者が多数に上るだろうことは想像に難くないのだ。

以前は出席票に名前を書くだけというビデオ放映の参加でしたが・・・

婦人部静岡支区組長の発言である。これも間接的ながら教学試験の合格率の低さを証明しているように思える。物凄く消極的な活動会員? いわゆる未活動ではないものの、熱心に活動しているわけではないという人。当然、こういう人は教学試験があろうとも、それこそ試験用紙に名前は記入するものの、大した解答は書けないだろう。顕正会の実態の一面をよくあらわしている記事だ。

次は女子部第百十三区支区長補の記事であるが、これは役職から判断して上掲のような消極的会員でないことは確実である。しかしながら顕正会の体質的問題をよくあらわす意味で興味深い。

 先日、近畿大会を見つめ、未活動者と逆縁者を書き出すと、○○総班だけで約千五百名を超えており・・・

未活動者と逆縁者を一緒くたにしているところがイヤラシイ。それはともかく、総班は活動会員を十名から二十名擁する組織、まあ、一概には言えないが、大体そのくらいの組織だと思う。その人たちが近畿大会の結集のために千五百名からの未活動者と逆縁者に声を掛けていくというのだ。大変な作業である。

他にも取り上げたい記事がたくさんあってキリがないのだが、最後に女子部第百八十七区組長の体験発表を紹介しておこう。末期肺ガンの父が入信、そして臨終を迎えるわけだが、ともかく最近はこの手の記事が多い。

次のくだりは病床での入信勤行を終えた後の会話である。

 私が「いよいよこれからだね」と言うと、父は「やっとスタートに立てた」とたいへん喜んでおりました。

間もなく亡くなるであろう父親に対して、いよいよこれからだと言い、その娘に対して父親は、やっとスタートに立てたと答える。なかなか感動的な場面である。

もっとも「いよいよこれから」というのはけっこうイミシンであって、どのようにも受け取れるところだが、わたくしには生きる希望のように聞こえるのだった。

2016/3/29

憂鬱な春  
沖浦氏のデタラメさ加減は今に始まったことではないが、なるほど、誰もがウンザリしてサジを投げたくなるのも頷けるところである。前回のコメント欄は沖浦氏の独壇場と化してしまい、他の投稿者たちはいわばドン引きしてしまった格好である。

 法本尊とは衆生己心の妙法である、南無妙法蓮華経。
 決して、文字曼荼羅の事ではございません。


ほほう、ずいぶんと思い切ったことを言うものである。これはもう何度も議論していることであるが、反証を示しておこう。

一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり。

沖浦氏の習い損ないが確定した。実はもう何年も前から確定しているのだが・・・

そもそもわたくしが法本尊という概念を持ち出したのは、いわゆる妙法蓮華経の五字が本門の題目ではなく本門の本尊にカテゴライズされるべきものだと言わんがためだった。してみれば、沖浦氏の返答がいかにトンチンカンであるか、こちらが文字曼荼羅のことなどまったく言っていないにもかかわらず、前掲のごとく言っているのだから、これはもう頭が悪くて論点整理が出来ないのか、もしくはその逆でわかっていて論点をずらしているのか、いずれかであろう。

しかし、さすがの沖浦氏も大聖人の仰せに違うことの後ろめたさを感じてか、後には次のように言っている。

一大秘法が本門の本尊だと言う事は、それ自体は間違いではございません。

ようするに一大秘法とは本門の本尊なのである。そんなことはいわば常識である。それを本門の題目だなどと言うからおかしくなるわけで、わたくしが指摘しているのはそれ以外の何物でもないのだ。

 三大秘法を大聖人仏法から見ると、

 本門の本尊〜衆生己心の妙法である南無妙法蓮華経。
 本門の題目〜衆生己心の妙法である南無妙法蓮華経。
 本門の戒壇〜妙法の器である私共の身体。

 こういう展開になります。


法華講員チック(?)に言わせてもらうと、オイオイ、それでは三大秘法ではなく二大秘法になってしまうではないか、ということになるだろう。本尊の説明と題目の説明がまったく同じということは、わざわざ本尊と題目を分離する必要はないことになる。

そもそも上掲は大聖人の仰せに違うものである。いわゆる三大秘法についての御指南は希少であり、整足したものは数抄しか存在しない。前々回の拙稿では四つの御書の名前を挙げさせていただいた。そのいずれの御書も上掲のようには拝せない。沖浦氏は別の御書から持ってきて、それらを貼り合わせているだけなのだ。

しかも戒壇が問題だ。これも積年の課題であって、残念ながら沖浦氏は一度たりとも論証に成功していない。妙法の器である私共の身体? それが戒壇? なんじゃそりゃ?

話を戻そう。

 三大秘法が本門の本尊から始まっている。
 当時の仏教の常識が先ず本尊だったからです。
 機根を無視して仏法はあり得ません。


本門の本尊が三大秘法の中心、すなわち一大秘法である。この至極単純な道理をわたくしは説順に求めた。それに対する沖浦氏の反証がご覧のごとくである。

当時の仏教の常識が先ず本尊だったというのは、何を根拠に言っているのだろうか?

根拠も示さずに考えを述べたところで、それは反証とはなり得ないだろう。ようは私見に過ぎないのだ。

予が己心の大事之に如かず。汝が志無二なれば少し之を言はん。寿量品に建立する所の本尊は・・・

これほどの明確な文証があるにもかかわらず、異論を唱えるのはなぜか?

予年来己心に秘すと雖も此の法門書き付けて留め置かずんば、門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加ふべし。其の後は何と悔ゆとも叶ふまじきと存する間・・・

この仰せも明瞭である。説明の要もないが、あえて言っておこう。大聖人最晩年の御指南なのである。しかもこの続きの中で、一見の後は秘して他見有るべからず、と仰せられているのだ。そこにおいて、なぜに当時の常識だとか機根を考慮する必要があるのだろうか?

つまり、沖浦氏の考え方だと、大聖人は最後の最後まで真実をあらわさなかった、方便を帯びていた、いわゆる帯権の法ということになるのだ。

以上、些末な議論はさておき、大略はかくのごとしである。

さて、引き続き顕正新聞第1368号を見て行こう。日興上人会の会長講演はすでに取り上げた。あとはいつものごとく、各種集会における登壇記事の拾い読みである。

さらに昨年は観念文を改悪し、「法華経の肝心」とて本門の題目を唱えなくなった・・・

創価学会員にとってはなかなか厳しい内容である。これは顕正会の副総男子部長の発言であるが、ようは創価学会で唱える題目は本門の題目ではないということだろう。

誤解のないように書いておくと、これは何も沖浦氏の所論に対するアテツケの意味で取り上げたわけではない。実に不思議な話であるが、たまたま順番的にこの記事に行き当たっただけのことである。当該号のトップ記事はくだんの会長講演、そして次が当該記事だった。

 さらには、日目上人以下歴代上人を削除したことは、日興上人から日目上人への御相承を否定することに当り、これ
 「本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主と為し」
 との永遠の血脈まで否定することにつながると思えば・・・


同じく副総男子部長の発言であるが、これは創価学会に対する破折とは別の意味で重要である。

永遠の血脈・・・

わたくしはこの表現が物凄く気になった。今まであまり聞いたことがないのだ。もしかしたら初めて聞いた言葉かもしれない。

日興上人から日目上人への御相承すなわち日興跡条々事は、冨士大石寺の正統性を証する意味で重要な文献である。浅井先生が多用する正系門家ということも、この文証が大きなカギを握っているわけだ。いわゆる唯授一人の血脈相承は、もちろん大聖人から日興上人への御付嘱を原初とするわけだが、文献上の問題が存する。しかし、ナイモノネダリをしても仕方がない。ゆえに、その時代に近接する文献という意味で、日興跡条々事がひじょうに重要になってくるわけだ。

ところがである。上掲の文章は必ずしも宗門の賛同を得られるものではないような、何とも微妙なニュアンスが感じられるのである。

現在の御当職は第六十八世日如上人である。ゆえに本来ならば、代を重ねること六十八、血脈の法水はいささかも断絶することなく今日に至っている、と言えばいいのだが、はたして今の顕正会がこれを言えるのかどうか、そこが甚だアヤシイのである。ようするに六十六と六十七の間で断絶してしまっていると言っているのだ。

すると、上掲の意味はかなり違ったものになってくる。

日蓮正宗など、どうなってもいい。ボロボロになろうが、グチャグチャになろうが、関係ない。日目上人の再誕がお出ましになれば、血脈は蘇る。だから正宗はもう関係ないのだ。

わたくしにはそのように読めてしまうのである。しかし、血脈が蘇る云々はいかにも荒唐無稽である。

これを意地悪く言えば、しょせん顕正会は創価学会と同根ということだろう。永遠の血脈などと気取ったことを言いながらも、日蓮正宗の存在を否定しているからである。つまり、今は断絶状態なのである。その唯一の解決方法が日目上人の出現に懸かっている。この点は創価学会と異なるものの、現宗門を否定する意味では同根だろう。
また、断絶状態とは血脈のことを指して言ったわけだが、ようは宗門と顕正会の関係こそが断絶状態であり、その解決方法が目師の出現という話でもあるわけだ。これは荒唐無稽というか、目師に期待するのは少し筋違いのようにも思えるところで、ようは目師の出現を待つのではなく、その前に自らが関係修復の努力をするべきだろう。
それをしないのはなぜか? 独立教団路線のほうがオイシイからか? もしそうだとすると、結局は創価学会と同根だろう。

話題の連続性に鑑み、第二十四女子部長の発言を取り上げたい。

近くご出現される日目上人・・・

本当にそう思っているとしたら、それは純粋で結構なことだが、しかし、現実問題としては難しいものがあるだろう。誰が認定するのかである。我は日目の再誕である。こう自己申告すればいいのだろうか? そんな馬鹿な話はあるまい。

だから前にも書いたのだ。

いつのことかはわからないが、将来、大本門寺が建つ。この時の座主がすなわち日目上人の再誕なのである。これなら文句はあるまい。

結局、今の顕正会はかなりの部分が他力本願になってしまっている。宗門との関係回復が絶望的であるのは自業自得に他ならない。また、それを解決する術として目師の出現を云々することがいかに他力本願的であるか、それをよく考える必要があるだろう。

しかし、なかなか先に進まないなあ。何がと言えば、拙ブログのことである。

2016/3/27

春の憂鬱  
んっ?氏から早々にコメントを頂戴した。言わんとしていることは、沖浦氏の己義と創価学会の公式見解を混同するな、ということだろう。それはもちろんそのとおりなのだが、今や創価学会の教義は沖浦氏の己義に限りなく近づきつつあるように思われるので、それを牽制する意味で書かせていただいたわけだ。ゆえに前回の拙稿では特に個人宛にはせず、創価学会員全般に宛てて書いた。

甚だ生意気ではあるが、今のわたくしはインターネットの片隅で独り言を呟いている過ぎないものの、それなりの影響力を発揮しているのではないかと思っている。そもそも言論というものは身分の高下に関係なく、さしあたっては言っていることが正しいか間違っているかが問われるわけである。ゆえに相手が天下の創価学会だろうが構わないのだ。当然ながら宗門に対しても同様である。そしてわたくしにとってのいちばんのターゲット(?)は顕正会である。拙ブログの愛読者ならばよくご存知だろうけれども、わたくしは宗門や創価学会に対してもけっこう辛辣であるが、顕正会に対してはその比ではない。顕正会にはベラボウに厳しい。

話を戻そう。

ある人の観察によれば、巌虎は沖浦氏に甘い、沖浦氏を甘やかしている、ということだが、これはまったくの誤解である。沖浦氏の邪義に対していちばん厳しく応じてきたのが拙ブログである。なぜそのように言えるのか、理由は簡単だ。他のサイトでは沖浦氏の存在を持て余して、たいていがアク禁にしてしまう。しかし、それはある意味では議論の放棄につながるわけで、一種の敗北でもあるわけだ。これは妙信講の解散処分に似ているところがある。早い話が口封じである。これでは根本的な解決には至らない。先ほども書いたように、言論は言っていることが正しいか間違っているか、ただそれだけのことなのである。言論を封殺することは、その正しいか間違っているかの判断すらも放棄することになるわけで、それで勝った勝ったと叫んだところで何の意味もない。ゆえにわたくしはこれまで一度もアク禁をしたことがない。これは相手にとっても自分にとってもいちばん厳しい選択のはずである。これで甘いと言われても、わたくしにはどうしようもないことだ。

重複議論を避けてきた。これがある意味では甘く見えるのかもしれない。ようするに徹底的にやっつけることをしないので、それが相手に逃げ道を与えているように見えるわけだ。しかし、今回の一件にしても、昨日の拙稿とそれに対する相手の反論を読み比べていただければ、それでよいのである。わたくし的には結論が出ていることであって、平均的な読者が虚心坦懐に読めばどちらの言い分が正しいかは自ずとわかるはずなのである。それでいいのだ。

しかし、この際だからもう少し追い打ち(?)を掛けてみよう。

昨日の拙稿は特に沖浦氏個人に宛てたわけではないが、沖浦氏が盛んに反論めいたことを書いている。しかし、わたくしに言わせれば反論になっていない。なぜならば、わたくしの問いに答えていないからだ。都合が悪いから、その部分をうまく避けて、それでもっともらしいことを書いて煙に巻こうとしているのだろうか?

観心本尊抄は法本尊開顕の書なのか否か?

まずはこれに答えなければいけない。

三大秘法の名目は本尊と戒壇と題目である。大聖人はいずれの御書においても本尊を筆頭に掲げておられるわけだが、この理由は何か?

わたくしは本門の本尊こそが三大秘法の中心、すなわち一大秘法なのだと理解しているわけだが、沖浦氏はこの点にもまったく答えていない。

さて、どんな答えが寄せられるだろうか? 楽しみにしたい。

顕正新聞第1368号のトップ記事は日興上人会の会長講演である。これはなかなか充実した内容であって、さすがは浅井先生だと思った。しかし、後半部分に問題がある。

 池田大作は「法主上人は時の大聖人である」などと謀って・・・

ネジレ現象の一例だと思う。今の創価学会員は上掲を見て、あれ? そうだったっけ? と思うはずである。猊下は時の大聖人であるということが、かつての創価学会でどれほど言われていたことなのか、まずはそこが問題である。実はあんまり言われていなかったのではないかと想像する。ようするに妙信講対策として使われていたのだ。妙信講との議論は面倒臭い。ゆえに猊下を盾に利用していたわけだ。

何? 妙信講? ああ、破門されちゃったんでしょ、猊下に背いて・・・、アンタらが何を言おうが猊下に背いちゃダメでしょう、猊下は時の大聖人なんだから・・・

いわゆる五十二年路線と呼ばれるものが象徴的である。つまり、妙信講に対する時は上述のようなことを言うわけだが、実際には宗門と相当に険悪な関係になっていたのが当時の状況なのである。ゆえに猊下は時の大聖人ということが、創価学会の中でどれだけ徹底されていたかは少し疑問が残るところである。

いずれにしても今日においては、そんなことを言っている創価学会員は皆無のはずで、おそらく言っているとしたら法華講員たちなのだろうけれども、実にややこしい話である。

ご存知のごとく、今や創価学会では戒壇の大御本尊を受持の対象にしないと公言しているわけで、この点では顕正会と創価学会は相容れない。しかし、猊下は時の大聖人という点については、両者ともに否定的なのである。オイオイ、そんなわけがないだろうが、と。まさに甚だしいネジレ現象である。

そして血脈の問題もまた複雑だ。

 学会は阿部日顕との抗争を始めるや、「血脈断絶」などと騒いでおりますが、私は「血脈断絶などはあり得ない」と常に言っている。

この件は宗門と創価学会と顕正会が、それぞれ三者三様の主張をしている。結論を言えば、今のわたくしには判断が難しい。ただし、一つだけ言えることがある。顕正会の主張はいかにも荒唐無稽だということだ。

まず、上掲であるが、浅井先生は平成十一年に御相承の断絶ということを言っている。普通に読むと、自語相違のように思える。たぶん、御相承の断絶と血脈の断絶は違うということなのだろう。しかし、次のくだりはどうだろう?

 「末法万年の総貫首」はましまし、広宣流布の時には日目上人が御出現になる。忽ちに血脈は蘇るのです。

蘇る? ってことは今は断絶していることになるのではあるまいか? これは単なるアゲアシ取りなのだろうか?

浅井先生は創価学会などの謀略情報を参考にしつつ、自分なりにアレンジして講演の内容に取り入れているのだろうけれども、これは時事問題と同様で必ずしも世の中は自分のシナリオ通りには動かないので言ったことが空振りに終わることも少なくない。しかし、単なる空振りならばまだマシなのだ。宗教的な発言は恒久的な意味を帯びてくる。ゆえに自語相違には気をつけなければいけない。平成十一年に突如として御相承の断絶を云々したことは、いわば自語相違であり致命的なミスだった。なぜならば、これが宗門復帰への可能性を限りなくゼロにしてしまったからである。まさかそれすらも浅井先生にとってはシナリオ通りなのだろうか? そんなことはあるまい。あれから十七年も経つのだ。もしあの時、あのようなことを言わなければ、また違った展開もあり得ただろう。今さらどうにもならないことが悔やまれるところである。

2016/3/26

年度末の憂鬱  
一大秘法とは何か? 一大秘法とは本門の本尊である。しかるに一大秘法を本門の題目であると主張する人々がいる。どうやら近年の創価学会はそのような方向性で教義の改変を行なっているらしい。

元々、創価学会には独自の教義は存在しなかった。日蓮正宗の信徒団体なのだから、日蓮正宗の教学をベースに信仰するのが当然のことだ。それ以外の余事を交えることは出来なかった。
過去に一度、逸脱があった。いわゆる五十二年路線だ。この時は反省して宗門の意向に従った。
しかし、平成に入り、再び宗門との関係が悪化した。そして今や修復不能の状態に陥り、近年に至っては正宗教学そのものを全否定するかのような方向性を打ち出している。

たぶん一大秘法の問題はこうした経緯を踏まえる必要があるのだろう。

つまり、一大秘法が本門の本尊だと都合が悪い。どうしても宗門に太刀打ち出来ない。それで一大秘法を本門の題目に変更して、宗門に対抗しようと企てているのだ。

ちなみに六大秘法も用いないという。

これは委細に見れば顕正会を意識しているのかもしれない。事の戒壇・義の戒壇の論争は、いわば戒壇の大御本尊を前提に論じられてきた。すると、顕正会は今も戒壇の大御本尊への信仰を堅持しているので、戒壇論では宗門と相容れないとは言え、本尊論においては宗門と顕正会で強力なタッグを組むことが出来る。もちろん、現実的にはそのようなタッグは成立しないのだけれども、是々非々論としては十分に成立する話なのである。

いずれにしても創価学会はこれまで正宗教学をベースにしてきた。ゆえに過去との整合性はまったく取れない。自語相違のオンパレードだ。

普通はそれでオシマイなのである。

しかし、ゼロベースというのだろうか、過去の一切をご破算にしてしまい、新たに教義を構築するという考え方もあり得るし、実際、その方向性で歩み出しているのが今の創価学会である。

この場合、もはや過去の自語相違をあげつらっても意味はない。

我々は今まで日蓮正宗の信徒団体として誠を尽くしてきた。ゆえに教義的にも正宗の教学を遵守してきた。しかし、正宗とは決別した。そこで改めて大聖人の仏法を見つめ直すと、正宗教学の間違いがわかってきた。その一つが三大秘法の捉え方である。日寛上人の一大秘法・六大秘法は間違っている。よって今後は用いない。我々は御書根本に新たに教義を構築していく所存である。

今は当てずっぽうに書いたわけだが、創価学会ではおおむね上述のようなことを言っているわけである。こうなると、もはや過去の自語相違は関係ないことになる。

前置きが長くなった。いよいよ本題である。

ようするに創価学会の過去の書籍からさまざまの文言をあげつらって、その矛盾を指摘しても意味がないとすると、いよいよ御書を基準にゼロベースで論じて行かないといけない。ようは正真正銘のガチンコ勝負となるのだ。

まず、創価学会の諸氏に問いたい。

人本尊開顕の書、法本尊開顕の書

正宗教学では開目抄と本尊抄をそれぞれ上掲のように言っている。さて、今後の創価学会はこれを用いるのか否か、である。

一大秘法は本門の本尊である。しかるにこれを本門の題目だと主張する人がいる。これは明らかな間違いである。

しかし、与えて論ずるならば、極めて限定的な意味においてそう言えなくもない、というのがギリギリのところだろうか?

つまりは、能説の教主と所説の法門の関係においてはそうも言える、ということなのだ。すなわち、能説の教主=日蓮大聖人、所説の法門=妙法蓮華経の五字、である。

しかしながら、ここでの妙法蓮華経の五字は本門の題目ではなく本門の本尊であると解するのが正しい。ゆえに問うたのだ。観心本尊抄を法本尊開顕の書とするのか否かと。

さらには本尊問答抄を拝するべきである。

法華経の題目を以て本尊とすべし。

大聖人が御題目のことを云々される場合、この見極めが大事である。もちろん法華経の題目は文字通りであるからして、これを本門の題目と考えることはそれほど不自然ではない。しかし、上掲の本尊問答抄の御指南を踏まえ、かつまた前掲のごとく本尊抄を法本尊開顕の書であるとするならば、自ずと妙法蓮華経の五字が本門の本尊という結論にならざるを得ないのだ。

ややこしくなることを承知で、もう一つの視点を紹介しておこう。

仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る。

四信五品抄の当該御指南は、これまた限定的な意味において、本門の題目を一大秘法とする根拠となるものである。この場合の限定の意味は、初心の行者、ということだ。初心者は戒定の二法ではなく慧の一法に専心せよ、さらに初心者にとっては慧すらも難しいことかもしれない、ならば信のみでよろしい、という意味の御指南である。

これまた余談めいた話になるが、大聖人の御化導は当初、題目中心だった。それはそうだ。何しろ御本尊をあらわされるようになるのは、相当に後のことである。立宗よりおよそ二十年間は題目中心だったのだ。これは発迹顕本だとか、そういう難しい話に関係することではあるのだが、もっと単純に言えば立宗初期はいわば全員が初心者だった、大聖人の仏法への入門という意味においては入信者全員が初心者だった、ゆえに題目中心だった。これはまさに四信五品抄の御指南そのままなのである。

ここまではよろしいだろうか?

あくまで限定的な意味において、本門の題目を一大秘法とする捌きもいちおうは存在する。しかし、クドイようだが、あくまで限定的な意味である。基本は本門の本尊をもって一大秘法とするのが正しい。

念のために、別の角度から論じてみよう。物凄くシンプルな話である。

法華行者値難事、法華取要抄、報恩抄、三大秘法抄

御書に詳しい人ならばすぐに気がつくだろう。これらの御書には共通項がある。ようは三大秘法のことが説かれているのだ。

本尊、戒壇、題目

しかも説順がご覧のごとくになっている。
なぜか三大秘法抄だけは途中で順番が入れ替わるわけだが、それはまた別の議論である。いずれにしても本尊が筆頭に掲げられていることに変わりはない。
つまりは、本門の本尊こそが三大秘法における中心、すなわち一大秘法なのではないか、ということなのだ。

この際、過去の自語相違はどうでもいい。ようはこんな単純明快な道理がわからないようではオシマイだということだ。

2016/3/17

コマツタヒトタチ  
最近のコメント欄は沖浦氏対その他の投稿者という構図になっている。その意味で沖浦氏は一人立つ精神の体現者だ。

しかし、わたくしのスタンスはあくまで是々非々であるから、沖浦氏の立派な点は認めるにしても間違っている点はしっかりと指摘したいと思う。また、同様の意味で、その他の投稿者に対しても言うべきことは言わせてもらうつもりだ。

メダルの譬えはいただけない。

これではあたかも聞法下種が銅メダルの価値しかないように読めてしまう。もちろん、そのようなつもりで書いたのではないのだろうけれども、しかし、そのような読み方も出来てしまう意味において、あまりうまい譬喩ではなかったと思う。蛇足ながら説明させていただくと、この娑婆世界は耳根得道の国であり、また、たぶん妙楽の言葉だと思うが、聞法を種として発心を芽とする、とあるのだ。これは下種仏法の立場からすれば、まさしく聞法下種の大事を裏付ける文証となるだろう。

とは言え、沖浦氏のデタラメさ加減も相当である。前回のコメント欄の前半を見ると、氏は御本尊の相貌について無知であることをさらけ出してしまっている。提婆達多の件がそれだ。

実はわたくしも御本尊のことについては疎いので、第六天の魔王と提婆達多の関係がよくわからなかった。ゆえに、んっ?氏のコメントを読んでも、あれ? そうだったっけ? という感じだった。具体的には次である。

提婆達多は地獄界の代表だ。

初歩的な勘違いだね?


この具体的な文証がとっさには思い浮かばないのだ。

それでたまたまだが、今朝、御義口伝の提婆品を拝読していて発見した。第六 年始八歳の事の一節である。

提婆は地獄界なり、竜女は仏界なり。

これが文証なのかもしれない。

しかし、竜女が仏界というのがやや解せないところで、彼女は畜生界の代表だったのではないかとも思えるのだが、いかがだろうか? この辺の事情に詳しい人がいれば、ぜひともご教示をお願いしたいものである。

いずれにしても沖浦氏のデタラメさ加減は前回のコメント欄でのやり取りを見れば一目瞭然である。

ただし、御本尊の相貌という意味から離れれば、沖浦氏の言っていることもそれなりの根拠があるのだと思う。わたくしがすぐに思い浮かんだ御書は、建治三年の上野殿御返事である。

欲界第六天の魔王、無量の眷属を具足してうち下り、摩竭提国の提婆・阿闍世・六大臣等の身に入り・・・

以上のような理由から、沖浦氏を破折するにはそれなりの覚悟と同時に相当の教学力を身につけていないと、返り討ちに遭うことになる。それで泥仕合めいたことをして楽しむのも一興だが、時間のムダでもあるだろう。人生は長いようで短い。その点を承知の上で投稿していただきたいものである。

さて、今日は一大秘法論を書こうかと思っていたが、面倒臭くなってきたのでやめておこう。

結論だけ先に書いておくと、沖浦氏あたりが言っている一大秘法はまったくのデタラメである。創価学会の首脳部はその点をよく考えて教義の再構築をしないと、おそらくは今後ますます混迷を極めることになるだろう。いつも言っているように、今までずっと正宗教学をベースにやってきたわけだから、それを改変することは生易しい作業ではないのだ。そちこちに自己矛盾・自家撞着が生じてしまう。それを正宗ないし顕正会から突っ込まれる。当分はこの繰り返しである。あるいは永遠にそれを繰り返すことになるのかもしれない。お互いの組織が存続し続ける限り、この争いはずっと続くのかもしれない。

ああ、面倒臭い。

そして顕正新聞だが、これもボヤボヤしている間に溜まってきてしまった。二月度総幹部会の話題も書かないといけないし、その前にも一号半(?)くらい残っている。

ああ、実に面倒臭い。

これも結論だけ書いておくと、二月度総幹部会を報ずる顕正新聞第1369号は「学会員を救う特集号4」と銘打ってあって、なるほど、本年は創価学会員を集中的に狙い撃ちにする方針なのかと思いきや、そうではなかった。わたくしの印象では創価学会批判もさることながら宗門批判も相当である。むしろインパクトとしては宗門批判のほうが強いように感じるのだ。あの十年前の宗門批判キャンペーンの再来を思わせるような、そういう雰囲気を漂わせている紙面なのである。

ああ、実に困ったものだ。

2016/3/11

オタクノソウクツ  
んっ?氏のコメントは知的好奇心をくすぐるものだった。とは言え、わたくし自身はそれほど知的ではないので、どれほど理解できたかはアヤシイところだ。たぶん、次のようなことだろう。

先日、めずらしく計算めいたことを行なった。それも自信がないので自力ではなく他力である。つまりは電卓を使って計算したのだった。
しかし、電卓は電源を入れただけでは何もしてくれない。そこに数字を打ち込み、足したり引いたり掛けたり割ったりしないといけない。その部分は自分で考えないといけないのだ。
ところがわたくしと来たら、百分率の出し方がわからない。あれ? どうやるんだっけ? こんなテイタラクである。
つまり、いくら高性能の電卓を持っていても、まず、数字を打ち込む作業でミスをしたら正解を出せないし、さらに、その数字を足すのか引くのか、あるいは掛けるのか割るのか、それを指示しないと電卓は答えを出してくれないのだ。

ところがいわゆる人工知能と呼ばれるものは、そうした人間がやらなくてはいけなかった作業を自ら行なうものらしいのだ。

仮に数学の試験で、電卓を使ってもよいという条件でわたくしが受験したとしよう。上述のごとく、百分率すらよくわかっていないのである。いわんやそれ以上の高度な数学などできっこないのだ。つまり、電卓があっても何をどのように足したり引いたりしてよいのか、それがわからないのだから、まったく話にならないのである。

それがなんと最新の人工知能は東大の入試問題を解くという。当然、これは人間の補助を必要とせずに、人工知能自らが問題を読み、答えを導き出すわけなのだろう。

ようするにコンピュータが人間の言語を理解して、その上で正解を導き出すわけだが、これがどれほど困難なことかは容易に想像がつく。いわゆる言葉のアヤということがある。微妙な言い回しだとか、あるいはその場の雰囲気で意味が違ってくることもあるわけだ。もちろん試験問題にはそういう紛らわしい文章は出てこないのだろうけれども、しかし、いわゆる誤変換ということはパソコンを使って文章を書いている人ならば誰もが経験していることだろう。これを逆に言えば、誤読ということになる。微妙なアヤを理解できずに誤変換ならぬ誤読をしてしまう。当然、あり得ることだろう。

人間の言語にはいわゆる文法がある。つまりは一定の法則性があるわけだが、実は例外がたくさんある。我々はそこを経験で理解する。しかし、どうやらコンピュータはその点がまだ弱いらしい。

こうした話を踏まえて、んっ?氏は御書の解釈について何かをおっしゃりたいようだが、具体的には何も示していない。たぶん沖浦氏あたりのトンチンカンな解釈をなじる意味があるのだろう。実に高度な間接話法である。

さて、早朝には勝氏からキョウガクシケンについての反論めいたコメントが寄せられた。

計算は正しいが、解釈が間違っているように思われる。

以下、長々と説明を書いておられるが、長いわりには中身がない、あるいは長い説明のわりには要領を得ない、もしくは何を言いたいのかよくわからない、といったところである。

上級試験が簡単だと言うならば、下級試験の合格者は全員が上級試験に合格する道理だ。

たぶん一言で片付けるとこうなるはずである。それを長々と説明して、いったい何の意味があるのだろうか? 確かに理論的というか論理的というか、この場合はどちらの表現が適切なのかわからないが、ともかく理屈はそのとおりだろう。しかし、現実を踏まえていない。つまりは顕正会の問題を見ていない。わたくしの瑕瑾(?)をあげつらうことによって、その結果として顕正会の問題を覆い隠してしまうことになれば、それこそ本末転倒だろう。

そこで一つの事例を紹介しておこう。現実を踏まえるとはこういうことだ。

https://www.eiken.or.jp/eiken/merit/situation/pdf/grade_2015_01.pdf

わたくしは当てずっぽうに、初級は八十パーセント・中級は五十パーセント・上級は二十パーセント、これが世間一般の常識だろうと思っていた。もちろん合格率の話である。ゆえに顕正会の教学試験はおかしいと言いたかったわけである。けれども具体例がないと説得力を持たない。そう思って取り急ぎ調べてみたら、ご覧のような資料が出てきた。これはわかりやすい。

そして顕正会の現実は、すでに述べたとおりである。

前々回との重複を恐れずに書けば、登用試験受験者は昨年入信した人が大半だという。これは顕正新聞が言っているのだから間違いあるまい。すでにこの時点で、前年までの大量の不合格者たちはどうしたのかという問題があって、これも顕正会の悪しき体質をよく示すものである。不合格者たちが再受験すれば、登用試験の受験者は年々万単位で増えていくはずなのである。しかし、現実はそうなっていない。話を戻そう。昨年入信した人たちは、入信の時点では教学試験のことなどまったく知らされていない、そういう人がほとんどである。それが十一月末の総幹部会において、ようやく教学試験のことを聞かされるのだ。準備期間は実質一ヶ月。受けたくないけど義理で受験するという人もいる。そういう人は準備期間があろうとなかろうと熱心には勉強しないだろう。その結果が合格率に如実にあらわれているのだ。

一方、五級ないし四級の合格率が比較的に高い・・・そう、あくまで比較的に、登用試験に比べれば高いというだけであって、はたして問題の中身からして妥当な合格率かどうかは議論の余地があるが、それはともかく五級四級の合格率が高いのは当然のことである。彼らは毎年、教学試験が行なわれていることを知っている。しかも顕正会員としての自覚があるからこそ組織に連なっているわけだ。自ずと教学試験に対する取り組み方も違ってくる。

さて、四年前の拙稿をご覧に入れよう。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1680.html

当時はサンビャクマンという人が盛んに顕正会批判を展開していた。そうした中でわたくしが注目したのは登用試験の合格率の推移である。これは貴重なデータである。詳細はリンク先を参照されたい。

以上、現実を踏まえるとは、こういうことである。何もわたくしは顕正会の悪い部分ばかりをあげつらっているわけではない。恣意的にそうしたデータばかりを集めているわけではない。これが現実なのである。現実なのだから仕方がない。

なお、今日の拙稿は一見すると勝氏に宛てて書いているように思えるかもしれないが、実はそうではない。本部首脳に対して書いているのだ。

もはや完全に迷走状態である。

いわば本年は教学試験を刷新したわけだが、結果は失敗だった。なぜ失敗したかを考える必要がある。答えはいろいろあるだろうが、わたくしの答えは簡単である。ようするに教学試験そのものがナンセンスなのである。どれほど試験の内容を変えようが、やり方を変えようが、試験そのものが無意味なのだから、それをいくら工夫したところで無駄な努力である。それがわかっていないとしたら、どうしようもないだろう。また、わかっていてどうすることも出来ないとしたら、これはこれで悲惨である。今から来年のことを言うのも気の毒だが、結果は見えている。悲しい現実だ。

2016/3/9

サンタンタルモノ  
一を以て万を知れではないが、教学試験の一事を見れば顕正会のおおよその全体像が浮かんでくる。まさに昨日の拙稿はそうしたコンセプトで書いたものである。三万人が受験した。これだけを聞けば凄いの一語に尽きる。教学日本一を誇るのもいちおうは頷ける。しかし、合格者の人数を知れば、ガッカリすることになる。狭き登竜門という表現で体裁を繕おうにも無理がある。試験問題はすべて穴埋めであるからして、真面目に教科書を読んでいればそこそこの解答は書けるはずなのだ。それにもかかわらず、合格率の低さが目立つのは、真面目に勉強していない証拠であるし、また、そうでないとしたら、甚だ失礼ながらも顕正会員の知能レベルの低さを意味することになるだろう。

今日は少し補足を書く。教学試験の合格者はまず五級試験が発表された。わたくしはこれを見て、少ないなあ、と思った。

しかもである。

第二十七女子部、第十二婦人部、第十九婦人部

これらの組織は合格者がわずか一名だった。全体の合格者もさることながら、組織別の合格者の実態がこれである。

実はもっと驚愕する事実があるのだ。

第十三女子部

サラシモノにして恐縮だが、事実だから仕方がない。五級試験合格者一覧をつぶさに見ると、第十三女子部が欠落していることに気づく。つまり、この組織は合格者がゼロだったと思われるのだ。

前掲の三つの組織もヒドイが、こちらはもっとヒドイ。

わたくしは少し前に、今の部はかつての隊や区のレベルであり、隊や区は支隊や総班のレベルに低下しているのではないか、という意味のことを書いた。今回の試験結果はまさにそのことを証明するものである。第十三女子部には区が複数あるわけだろう。そのすべての区が合格者ゼロだったことになるわけで、言葉を換えれば、すべての区が全滅したわけである。区には総班が複数ある。そのすべての総班が合格者ゼロだった。これまた、すべての総班が全滅したことになるのだ。

顕正会経験者ならばよくご存知だろう、長一人の戦いということをである。もう昔から班長レベルでは当たり前だった。結局、折伏して入信させることは出来ても、育てることは出来ない。班長レベルではよくある話だった。それが今は総班長レベルにまで浸潤してきた。ようは顕正会の悪しき体質、いわば病的な部分が広がってきているのだ。

五級試験の受験資格は登用試験を合格することである。しかし、今回の登用試験の結果を見れば惨憺たる状況であり、これが来年の五級試験の受験者数に影響することは確実であるし、当然ながら合格者数にも波及する。つまりは悪循環、いわゆる負のスパイラルに突入しているわけである。ここから抜け出すことは容易ではない。

もう少し掘り下げてみよう。

第十三女子部における登用試験の結果は合格者一名だった。すでに書いたごとく、五級はゼロだった。登用は辛うじて一名を死守したわけだが、しかし、上述のごとくの悪循環は免れない。来年の五級受験者は一名、いや、それを言ったらウソになるが、新規の受験者は一名である。再受験者が何名いるか知らないが、厳しい状況であることは動かない。

しかし、これまた顕正会経験者ならばよくご存知かと思うが、このまま一年が過ぎることはないだろう。ようは組織の改編が行なわれるのだ。毎月のように人事交代が行なわれ、かつまた組織の編成も変化するので、単に十三女子部だけを定点観測しても意味がない。

ともかく本年度の試験の結果は惨憺たる状況であり、どれほど組織の改編を繰り返そうが顕正会全体の傾向性は変わらない。これがわりと客観的な見方ではないかと思う。

もう一つだけ書くと、合格者が再び同じ試験を受けるという珍事(?)もある。

これは未確認であることをお断りしておくが、たぶん今の状況では一級試験が行なわれることはないだろうし、二級試験も考え難い。三級もあるかないか微妙なところだ。すると四級のところでダブついてくることになる。今回の四級試験の合格者ないし合格率が他に比して高かったことは、まさにそれが一因でもあるわけだ。しかしながら、その上の試験が行なわれる機会は滅多に訪れない。そこで四級合格者が再び同じ試験を受けるという珍事が起こる。

面倒臭いので調べてはいない。だが、かつては登用試験でそのようなことが行なわれていたという事実があるので、ほぼ確実だろう。おそらく丹念に調べれば、同じ名前が何度も登場するはずである。ようするに過去の四級合格者一覧と本年のそれとを見比べれば、同姓同名の、ようは同一人物の存在を確認することが出来ると思う。

最初に話を戻して、まず五級試験の合格者の少なさを見て驚いたわけだが、もっと驚いたのが登用試験の合格者だった。これには本当に驚いたし、ダメだこりゃとサジを投げたくなる気分だった。

たぶん本部首脳も同じような気分だろう。

しかし、それこそ自業自得である。長いこと一念信解路線を歩み、今さら教学再興を図ろうにも、どうにも取り返しのつかない低レベルに堕してしまった。誰が悪いわけでもない。すべて自分たちの責任である。

以上、今回は特定の組織をあげつらって、サラシモノのようにしてしまったが、これには他意はない。むしろ部長以下、現場の幹部たちは被害者であって、そのすべての責任は浅井先生ないし本部首脳にあるのだ。

2016/3/8

キヨウガクシケン  
今さらながら教学試験の話題を書こう。一種の時間差攻撃だ。

顕正会問題を扱ったサイトがどれほど存在するのか知らないが、そうした中で瑠璃堂氏のブログは常に注目に値するクオリティを維持していると思う。今日、これから書く内容も、すでに氏が一ヶ月以上も前に書いていることの復習みたいなものであり、いわば二番煎じである。

http://nanairoto.exblog.jp/24885493/

http://nanairoto.exblog.jp/24909733/

この二本の記事を読めば、今日の拙ブログを読む必要はないだろう。

本年は登用試験、五級試験、四級試験の三種目が行なわれた。出題範囲は昨秋発刊されたばかりの基礎教学書である。それにしても三種目がいずれも基礎教学書から出題されるというのはおかしな話である。ただし、この点についてはあらかじめ、レベルに応じて難易度が変わる旨の発表があった。

あらためて、試験問題を振り返りましょう。
そんだけ言わはるなら、たいそう趣向をこらした内容かと
胸躍らせたのに。蓋開けりゃあ、そのレベルは目くそ鼻くそ…
ちゃうちゃう、どんぐりの背ぇくらべやんかー!


まったくである。わたくしも同様の感想を持った。あえて顕正会側に立って弁護めいたことを言うにしても、さすがに限度があるだろう。どう見ても三段階のレベルには振り分けられていないのだ。登用試験を1.0だとすると、五級が1.3、四級が1.5くらいの差しかない。これはもちろん最大限善意に解釈しての話であって、実際はほとんど差がないと見るのが妥当なところである。

まさか。今年は登用のが難しいのとちゃう?
あくまで主観やし、微々たる差やねんけどな。例えば「五箇の五百歳」
これ、初出題やろ。それ以前に、内容をきちんと理解して
正しい漢字書ける初信者がどんだけおんの?っちゅう話よ。


瑠璃堂氏に言わせれば、むしろ今年は登用のほうが難しいのではないか、ということであるが、これはまさしく慧眼だった。

試験種目 受験者数 合格数 合格率

登用試験 16122   941   5.8%
五級試験  5117   702  13.7%
四級試験  8361   1935  23.1%


いつも言っているように、わたくしは大の計算オンチなので、数字が間違っている可能性がある。この点はくれぐれもご容赦願いたい。

いずれにしても瑠璃堂氏の観察眼は正しかった。

このことを顕正会側に厳しく言えば、もはや本部首脳は悩乱している、正常な思考力を持っていない、やることなすことが裏目に出てしまっている、となるだろう。浅井先生は言っていた、弘通も日本一、教学も日本一だと。しかし、中身が伴なっていない。折伏弘通にしても、中身はデタラメである。そして教学もご覧のごとくだ。

何しろ三万人近くが受験して、合格者が四千人足らず、逆に言うと約二万六千人の不合格者を輩出するというテイタラクなのだ。

物は言い様で、これを狭き登竜門と表現すれば、いちおうは格好がつく。しかし、事実はまったく違う。

その客観的な理由は上級試験ほど合格率が高くなるという現象である。これは世間一般の試験とはまるで正反対の現象であり、このことが顕正会の実態を示して余りあるものなのだ。一言で言えば義理受験である。お付き合い受験、ノルマ受験、受験強要受験(?)。今は当てずっぽうに思いつくままに表現させてもらったが、これでおおむね察しがつくのではないかと思う。

前にも書いたかもしれないが、例えば運転免許を取得するために試験を受ける人は合格するつもりで受ける。当たり前の話である。
ところが顕正会の教学試験はそうではないのだ。昨年、入信してきた人は、何も教学試験に合格することを目的に、顕正会に入ってきたわけではない。それどころか、おそらくはその大半が教学試験のことなど知らずに入ってきたはずで、その理由は熱心に勧められたから、それで何となく入ってしまった、という人たちなのである。
それが年末になってヤブカラボウに、年明け早々に教学試験が行なわれることを告げられ、受験を勧められるのである。入信の時だって熱心に勧められるので何となく、あるいは仕方がなく、お付き合いで入信したというケースが少なくないのだ。いわんや教学試験をやであろう。

以上のような理由から、登用試験の受験者はその大半が目的意識が希薄のまま試験当日を迎えることになる。熱心に勉強する道理がないのだ。それが、過去最高の一万六千有余が受験したものの合格者は千人未満という、実に惨憺たる結果を招いたのだ。

一方、上級試験ほど合格率が高い理由は、この逆である。

悪く言えば、マインドコントロールだとか洗脳ということで、無難に言えば、顕正会に長くいると自覚が芽生えてくる、目的意識がハッキリしてくる、というようなことだろう。それにしても四級で四人に一人しか合格しないという現実は悩ましい限りである。もし三級試験だとか、さらに二級や一級が行なわれたらどうなるのか、それを想像してもあまり意味はないが、興味深いところではある。

というのは、平成元年だったろうか、一級試験が行なわれたのである。この時の一級試験は文字通りの狭き門であり、合格者たちはまさにスーパースターのような存在だった。今は受験者数を失念してしまったが、合格者はぜんぶで十数人、あるいは十人未満だったかもしれない。

当然ながら、いわゆる穴埋め問題ではない。全問が記述式の解答を要求するものだったと思う。

最後に、本年試験のなかでも超難問をご覧に入れましょう。

2016年 登用試験・問7 (出題:基礎教学書)

広宣流布はもう□い。これが教学試験たあねぇ…。(ため息)

あまりの珍問にTwitterでは大喜利化し、
次々にナイスボケな回答が寄せられています。
広宣流布はやばい、古い、無理っぽい…。
皆さんなら、□に何を入れるでしょうか?


瑠璃堂氏のブログは軽妙洒脱さがウリでもある。上掲はその典型的な例だろう。しかし、ここはその軽いノリゆえに、ウッカリと読み飛ばしてしまいそうなところが逆に難点だかもしれないと思う。

これが教学試験たあねぇ…。(ため息)

おっしゃる通りである。こんなのは試験でも何でもない。

ある意味、お年玉的な問題なのかもしれない。浅井先生の講演を何度か視聴していれば、誰もが容易に答えられる問題だからである。しかし、お年玉の効果はなかった。すでに示したごとく、合格率の低さがそれを物語っている。

広宣流布はもう近い。

これが正解であるが、むしろこれこそ記述問題にすべきだろう。なぜに広宣流布が近いと言えるのか、その理由を受験者に書かせるべきなのである。穴埋めの意味などまったくない。むしろ拙ブログでは広宣流布が近いことを否定しているわけで、それをさまざまの角度から書いてきたつもりである。その最大の理由は顕正会の実態・テイタラクである。今回の教学試験の結果もそうだし、その他さまざまの問題がある。こんな調子では広宣流布などできっこあるまい、というのがわたくしの結論である。ゆえに、広宣流布はもう近い、などといくら強弁しようが、試験問題を使って会員たちに刷り込もうが、まったくの無意味である。

むしろ、そこに意味を持たせたいのであれば、なぜに広宣流布が近いと言えるのか、そのことで堂々たる論陣を張れるような人材をたくさん輩出しなければいけないだろう。

まあ、しかし、繰り返し書いて恐縮であるが、試験結果がすべてを物語っている。今のテイタラクではまったくお話にならない。これが顕正会の現状である。

2016/3/3

アリガタメイワク  
人にイチャモンをつけるのは簡単だ。同じく結果をあげつらうのも容易いことである。例えば野球ファンが選手に対して文句を言う。アイツはいいところで打てない、チャンスに弱い、と。とは言うものの、だったらオマエが代わりに打ってくれ、と逆ギレされたらそれまでである。しょせんファンは素人に過ぎない。ゆえに無責任な戯言を言っているに過ぎないのだ。いや、もちろん、ファンはそれでいいのだが・・・

わたくしの顕正新聞批判も似たようなところがあって、編集部も拙ブログの言いたい放題には腹を立てているのではないかと思う。だったらオマエが代わりに書いてくれ、と。

まあ、しかし、一つだけモットモラシイことを言っておくと、編集部には人間が何人もいるのだろう。ようは複数による共同作業なのだ。ゆえにお互いにミスをチェックして、より良い紙面作りを心掛けるべきである。巌虎ごときにイチャモンをつけられないように、頑張るべきなのだ。
一方のわたくしは完全なる単独犯(?)である。拙ブログには共同執筆者は存在しない。もちろんチェックする人などは一人もいない。わたくしが単独で一から十まで書いているのである。
ゆえに、他人の言動にイチャモンをつけるのは簡単だし、結果だけを云々するのは容易いことではあるけれども、わたくし対顕正新聞編集部という構図においては、一人対複数という意味で決してわたくしに利があるわけではない。大袈裟に言えば、百八十万の仏弟子の大集団を相手に、単独で戦っていることになるのだ。

さて、今日も顕正新聞第1367号の続きを取り上げるつもりだが、その前に少し触れておきたいことがある。

2016/3/2 5:50
投稿者:(勝手に)地涌の流類
マイケル殿

>顕正会では、一大秘法=本門の題目ではないですよ・・ね?

本門の題目かどうかという以前に、そもそも顕正会には、「一大秘法」という言葉はありません。
若しかしたら私の知らない何かの書籍にあるかも知れませんが、少なくとも、私は聞いた事がありません。


これは不審である。おそらくは顕正会の事情にはそれほど精通していないであろう、んっ?氏にしても、これには疑問を感じたのだろう。次のコメントがそれを物語っている。

2016/3/2 6:42
投稿者:んっ?
勝手にさん,お早う御座います!

>本門の題目かどうかという以前に、そもそも顕正会には、
>「一大秘法」という言葉はありません。

えっ? さすがに此れは間違いでは?
であれば,何故「遥拝勤行」をするのですか?

「大覚世尊仏眼を以つて末法を鑒知し
 此の逆謗の二罪を対治せしめんが為に
 一大秘法を留め置きたもう」(曾谷入道殿許御書)

此の一大秘法の「体」が「戒壇様」であるというのが
石山の教義でしょう?
そこから外れるのしょうか?


実に鋭い。というか、そもそも創価学会でも長年にわたってそのように教えてきたわけであり、まさにんっ?氏あたりは正宗教学を本格的に学んだクチであって、上掲はその当然の帰結を書いているわけなのだ。

よって、へな氏からも次のコメントが寄せられている。

2016/3/3 0:16
投稿者:へな
横から失礼します。

勝さん

顕正会にも一大秘法の言葉はありますよ。
【折伏理論解説書 日蓮大聖人の仏法 改訂版 124頁 三大秘法開合の相】

ただ、顕正会ではほとんど聞く事が無いので知名度は低いと思います。

ですが過去には登用試験にも出てました。(7〜8年程前と思います)

その時は私も分からなかったので「どこに一大秘法って出てんだよ」と理論書の中を一生懸命探した事を記憶しています。


もはやこれ以上の説明は不要であるが、さらにダメ押しをしておこう。

三大秘法は合すれば
 本門戒壇の大御本尊に


一月度総幹部会の会長講演の話題はすでに書いたけれども、いつものことながら部分的に過ぎない。ゆえに上掲の小見出しのあたりにはまったく触れなかった。本文は次のごとくである。

 いいですか。
 三大秘法とは、三つに分かれていても、合すれば一大秘法の本門の本尊すなわち本門戒壇の大御本尊に成るのです。


どうやら勝氏は顕正新聞を読んでいないようである。さらには集会ないしビデオ放映にも参加していない。

以前にも指摘したように、勝氏は模範的な顕正会員ではない。本人もそのことは自覚しているわけで、まさに今回の名称変更も軌を一にするものである。極論すれば、顕正会員の資格を奪われてもおかしくないほど、顕正会から離れてしまっている部分もあるのだ。ゆえに、わたくしはしばらく様子を見ていたわけだが、どうやら一つの結論が出たようである。勝氏は顕正会代表を名乗るべきではないということだ。

もっとも、氏はこの直前に顕正会代表の名乗りを取り下げているので、ツジツマは合っていることになりそうだ。

さて、顕正新聞の話題に移ろう。第1367号の五面である。

男子部第三十三隊班長は昨年の五月に創価学会から入会してきた。三十二年間、創価学会に在籍していたとのことだ。

「弘安2年の御本尊は受持の対象にはしない」

まず、どうでもいいことから書くと、上掲がひじょうに気になった。弘安二年を弘安2年と表記している。これは顕正新聞始まって以来のことではあるまいか?

 学会時代は、広宣流布は「舎衛の三億」として「お題目を唱える者が国民の三分の一となった時」と聞かされ、あの正本堂落成を以て、広宣流布・御遺命成就と信じていただけに・・・

いよいよ本題である。これが実に不審である。彼は顕正会に入会する以前の三十二年間を創価学会で過ごした。おそらくは三十三年前に創価学会に入ったことになる計算である。

2016-33=1983

いつも言っているように、わたくしは小学生レベルの計算能力しか持っていない。ゆえに自信がない。けれども上掲で合っているのではないかと思う。三十三年前は西暦で1983年、すなわち昭和五十八年である。

ならば前掲は不審である。文章の意味合いからすると、少なくとも昭和四十七年の正本堂落成以前に入信していないとおかしい。しかも三分の一云々を勘案すれば支離滅裂もいいところである。何しろ実際には三分の一を達成していないのだから、ましてやその後、昭和五十八年の段階に至っても三分の一には到達していないのだから、まったくツジツマの合わない話である。

ようは作文ということだ。

あの正本堂落成時に飛び交った「御遺命達成」との言葉こそ、第六天の魔王の謀りであったのだと・・・

これもまったく同じ理屈である。本人が正本堂落成時に在籍していない以上、作り話と言われても文句は言えないはずである。

 学会時代の教学は、学会機関紙に掲載された御金言の現代訳を淡々と読んでいくだけで、意味さえもわからず、信心が深まることもなく、「有難い」との言葉が交わされたことも全くありませんでした。

意味さえもわからず・・・

現代語訳なのに意味がわからない? もしこれが本当ならば凄いことだ。

この辺は具体例がないので何とも言えないが、「有難い」云々はむしろ顕正会側にこそ問題があるのではないかと思う。これまたいつも言っているように、顕正会は定着率が悪い。ベラボウに悪い。本当に有難いと思っているのならば、もっと定着率が上がるはずである。ようは誰も有難いとは思っていないのではないか、無理矢理に有難いと思い込まされているだけなのではないか、ということなのだ。

次の婦人部前橋支区班長の記事は、おかしな文章を書く人だなあ、というのがわたくしの偽らざる感想である。その代表例を挙げておく。

いつしか「人を害さなければ人を傷つけることはなく、自分も傷つかなくて済む。個人が幸せなら、個人の集まりの国家も平和になるのでは」と勝手に思いこんでおりました。

う〜ん、わかったようなわからないような文章だ。面倒臭いのでこれはこれでオシマイにしよう。

次は女子部第百五区組長の記事である。

臨時時局懇談会における先生の鋭い破折・孤高のご雄姿は、恐れ多くも大聖人様の塚原問答における「猿・狐の群がる中の師子王のごとく」の御姿が胸に浮かび・・・

ほぼ会長本仏論と言ってよいだろう。

それにしても臨時時局懇談会は謎だらけである。わたくしはこれまで、この一件については浅井先生の論述しか知らない。宗門側の、あるいは創価学会側の、当時、その場所に居合わせたであろう人たちの証言というものを、まったく聞いたことがないのだ。もはや時間と共に当時の生き証人たちが居なくなる。今ならまだ間に合うので、どなたか証言を残していただきたいと念願するものである。

先生が作って下さった問題であれば、真剣に向き合わねば申しわけないとの思いで、当日の四級試験に臨ませて頂きました。

同じ人物の今度は教学試験についてのくだりである。

強く命に刻んでほしいと、「本門戒壇の大御本尊」「国立戒壇」と何度も書かせて下さる先生のご慈愛・・・

これが顕正会における教学試験の実態である。ようするに、いわゆる穴埋め問題である。しかも同じ語句が何度も登場するという、不思議な穴埋め問題なのである。たぶん世間一般ではあまり例がないだろう。



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