2016/7/27

論理的思考力の限界  
沖浦氏がわけのわからないことを言っている。いつものことではあるが、いちおう御書を引いて云々しているので、その点はしっかりと破折しておこう。

まず諸法実相抄のほうは、チキンジョージ氏が間髪を入れず的確な反論を行なっているので、省略しよう。

 時代相を弁えないなら、仏法は行じられませんよ。

問題はこちらである。沖浦氏は上掲の後に、佐渡御書を長々と引用している。

仏法は摂受・折伏時によるべし。

この冒頭の一節だけで十分だろう。沖浦氏は明言こそしないものの、あたかも今は摂受の時代だと言っているごとくである。さて、その根拠はどこにあるのだろうか?

正法は一字一句なれども時機に叶ひぬれば必ず得道なるべし。千経万論を習学すれども時機に相違すれば叶ふべからず。

話を進めよう。沖浦氏の引用範囲をもう少し延長すると、上掲の御文が出てくる。正法は一字一句でも得道する。逆に邪法はどれだけ習学しても無得道である。意訳ではあるが、おおむねそのような意味になるだろう。沖浦氏は愚かにも自分が引用した御文の結論部分が上掲であることに気がつかず、まるで正反対の解釈をしてしまっているのである。

あるいは佐渡御書の最後のほうに出てくる有名な御文をまさか知らないわけではあるまい。

日蓮御房は師匠にてはおはせども余りにこはし。我等はやはらかに法華経を弘むべし・・・

どうやら沖浦氏は大聖人の仰せよりも自分の考えを優先する、もしくは自分の考えのほうが正しいと思っているフシがある。これはもはや沖浦教である。沖浦教の経典は大聖人の御書であるが、あくまでも自分の都合で解釈する、都合の悪い部分は文意を捻じ曲げて解釈する、そういう教義のようである。

このように書くと、ずいぶん挑発的に感じられるかもしれないが、そうではない。ようは他宗にも功徳があるなどという、大聖人が仰せになっていないことを平然と言ってのける沖浦氏の信心の姿勢を問うているのである。

さて、今日は顕正新聞第1381号の記事を一つ紹介しておきたい。

婦人部川崎支区の平会員の正義にめざめてである。彼女は平成十七年に娘さんの縁で創価学会から入会したという。本人もそうだが、娘さんも平会員なのだろうか? ようは役職が書かれていないのである。

平会員が登壇してはいけないと言いたいのではない。すでに顕正会員歴が十年を超えるのになぜに平会員なのかが気になるのだ。

顕正会も人材難でこういう人を引っ張り出してきて登壇させないと集会が成り立たないという解釈もあるし、その逆もある。つまり、人材難ではなく人材が豊富であって、こういう平会員たちにも功徳がバンバン出ていることの一例なのだという解釈である。わたくしの感触では前者の可能性が高いのだが、もちろん断定は出来ない。

本文に入ろう。

学会をやめる決心をし、御本尊様をお巻きして引っ越しもしました。

細かい点は省略しよう。ようは創価学会に対して不信感を募らせていった結果が上掲である。

 それでも御本尊様をお巻きしていることだけがずっと気掛かりで、あるとき娘に「御本尊様をどうしようか?横浜にお寺があったからそこにもっていこうか?」と相談・・・

御本尊を安置せず、どこかにしまっていたのだろう。そのことが常に心の片隅にあって悩んでいた。この時、すでに娘さんは顕正会員になっていた。そこでこれを機に婦人部の支区長補を紹介され、いろいろと話を聞くことが出来た。

今までの不幸は、知らずとはいえ学会に籍を置いてきた罰、御本尊様をお巻きしていることが不幸の原因とわかり・・・

そうして晴れて顕正会員となるわけだが、わたくしはあれれ?と思った。この後の話が不可解なのである。

 顕正会員となり、本部会館に御本尊様を返納申し上げ・・・御本尊様のお力は絶対ということを初めて体験させて頂きました。

おかしくないだろうか?

前半では御本尊をお巻きしていることが不幸の原因だと言っていた。ならば御本尊をしっかりと御安置申し上げて信心に励むべきだろう。その上で御本尊の力は絶対であると言うのならば話はわかるのだ。ところが上掲のごとく、御本尊を返納してしまい、それで御本尊の力は絶対だと言っているのである。わたくしには支離滅裂のように思えて仕方がないのだが、いかがだろうか?

話は以上であるが、少し補足をしておこう。

顕正会は独立教団路線を突き進んでいる。会館の新規建設もコンスタントに進めているが、それと同時並行して自宅拠点の拡大も図っている。いつだったか、自宅拠点の開設基準も緩和された。これは御形木御本尊の大量配布を目論んでのことだという見方もある。つまり、ゆくゆくは希望者全員に御本尊を配布するつもりなのだ。

もしこれが本当ならば、なおさらおかしいだろう。なぜに御本尊を返納させたのか、である。前半では御本尊を安置せずお巻きしたままであることがいわば不敬に当たるのだろう、それが不幸の原因だと言っていたわけだ。そして後半では返納して、ようは遥拝勤行に切り替えたわけである。記事ではその御本尊がどなたの書写によるものか不明であるが、時期的には日達上人の御本尊なのだろう。なるほど、これが答えなのかもしれない。

わたくしの思うに、顕正会では日達上人・日顕上人の御本尊を用いない、用いないけれども完全否定しているわけではない、ということなのだろう。だからお巻きしたままは不敬に当たるわけだが、さりとて今の顕正会ではその御本尊を安置して朝晩の勤行を申し上げることはしない。ゆえにもし必要とするならば顕正会版の御本尊を与えることになるのだろう。当該記事ではそこまでの記述はないけれども、ゆくゆくは登壇者も顕正会版の御本尊を安置することになるのかもしれない。まさに独立教団路線そのものである。ややこしいが、これでいちおうツジツマは合うはずだ。

ともかく当該記事をごく普通の読解力で読めば、「お巻き」と「返納」の意味がまるで整合性が取れず、わけがわからないことになるはずである。編集部はこうした点にも留意すべきだろう。

2016/7/26

マケイクサを覚悟の上で  
前回のラーメン店の話題に対して、沖浦氏から好意的なコメントを頂戴した。しかし、恩を仇で返すようで恐縮だが、たぶん登壇者はあまり嬉しくないだろう。なぜならば沖浦氏は他宗にも功徳があるという文脈の上から、四十八年間の長きにわたって営業を続けてきた登壇者を称賛しているのだ。そんなのは顕正会的にはまったく認められない話である。ましてや沖浦氏は戒壇の大御本尊を否定する発言を繰り返している。そんな人には褒められたくない。これが顕正会員の一般的な心理である。

また、わたくしの立場から言えば、沖浦氏は何一つ文証を示せないので、こうした現証を拾い集めて功徳・功徳と言い張るしかないのだろう。思えば勝氏からの反証に対しても、ロクな回答もせずにお茶を濁している。この議論の原点は御書を用いての論証である。この点はシツコイくらいに何度でも言おう。沖浦氏に課せられているのは文証の提示である。

・・・国主之に驚き、内外典に仰せ付けて種々の御祈禱有り。爾りと雖も一分の験も無く、還りて飢疫等を増長す。

今回もまた先手を打っておこう。安国論御勘由来の一節にはご覧のごとく認められている。一分の験も無いと。大聖人がここまで仰せになっているにもかかわらず、沖浦氏はなおも自説に固執するのだろうか?

さて、顕正新聞の続きを見ていこう。

不思議なことに私が所属した組織は選挙活動を一度もしたことがなく、

婦人部十和田支区組長の正義にめざめてである。彼女は本年三月二十七日に創価学会から入会してきた。創価学会へは昭和五十七年に入信したそうで、その当時のことを上掲のごとく語っているのである。

選挙活動を一度もしたことがない? 確かに不思議な話だ。沖浦氏のように個人的にボイコットする人は全国津々浦々にいるだろうけれども、組織レベルではなかなか考えられないことである。

ただし、わたくしの勝手な想像を言わせてもらうと、公明党の方針は常に全員当選を目指す、すると国政レベルでは選挙区を厳選して地方によっては候補者を立てないところも出てくる、そういう地域は比較的に選挙活動に力を入れていないというか、力を入れる必要がないのかもしれない。たまたま彼女の居住地域がそういう場所だったのかもしれない。

座談会では御書を真剣に拝読し、日蓮大聖人様の有難さを語り合い、

この部分はそれほど不思議ではないだろう。どこを切り取るかなのだ。たぶん創価学会の座談会ではそうした御書拝読の時間もあれば体験発表もあるし、あるいは合唱みたいなこともするのかもしれない。ようは盛りだくさんの企画が用意されているのだ。それを創価学会から顕正会に移籍してきた人たちは、それぞれの感性で切り取るわけである。たいていが悪い方向性で語られるものだが、今回はなぜかご覧のような形で紹介されている。続きも興味深い。

「広宣流布の暁に、不開門が開けられ、天皇が戒壇の大御本尊様に参詣申し上げる」と固く信じて、折伏の御奉公もしておりました。

しかし、ここまで読むと、じゃっかんは創作のような意味合いも感じられるところである。その決定的な証拠は次の一文にある。

 それから二十年が経ったころ・・・

彼女は創価学会でずっと真面目に活動していたわけではなく、いわゆる未活動になっていた。そうして二十年が経過したのだ。

二十年は長いだろう。過去の記憶がぜんぶウソだとは言わないが、しかし、記憶がアヤフヤになっている部分も少なくないはずである。それが二十年のブランクというものだ。つまり、当該記事はあとから顕正会的視点で書かれた・書き直された、あるいはその一つ手前の作業として顕正会的視点から記憶が再構成された、というような感じが否めないのである。

すると先日紹介した、みんな顕正会に行っちゃう、という登壇の次の部分もアヤシイ感じがするところだ。

 実は本年一月、娘が大病を患って八時間にも及ぶ大手術を受け、その姿が本当に不憫で、「何か間違ってしまったのだろうか」との思いが湧き、自宅の仏壇の扉を閉め、大石寺にまします戒壇の大御本尊様に向かい奉り、勤行を申し上げておりました。

いわゆる遥拝勤行のスタイルである。この人が顕正会へ入会するのは四月末、それ以前に顕正新聞を目にする機会はあったにせよ、なかなか思いつかないだろう。もちろん作り話とは断定できないが、ひじょうにアヤシイところである。

さて、先ほどの婦人部組長の話に戻る。

私が顕正会に入会したことを聞きつけた学会幹部が、一晩のうちに時間差で二人ずつ、三回も私を説得に来ましたが・・・

むしろこれは創価学会のよさを物語るものだと思う。例えば今ならば顕正会から法華講へ移籍する人が相当数いると考えられるが、ネット上に出ているその手の話を総合すると、顕正会側の対応たるや冷酷非情である。ようは芋づる式に法華講へ移籍されると困るので、その人とは完全に関係を断ち切ってしまうのだ。本当ならば、今まで一緒に活動していた仲間たちが、おい、どうしたんだよ、腐敗堕落の宗門なんかのどこがいいんだよ、今から会ってしっかりと話し合おうじゃないか、みたいな感じでコンタクトを取るべきはずである。ところがそうではなく、むしろ法華講員側が積極的にアプローチしているにもかかわらず、顕正会員側は何だかんだと理由をつけて会うことを拒むのである。

もちろん、これはネット上の情報なので、それがすべてではないのだろう。ただし、インターネットは顕正会員にも等しく与えられた発言の場である。ゆえに法華講員たちが流すそうした情報に不満があれば、それなりの対抗措置は取れるはずなのだ。しかし、そうした動きはほとんど見られない。

活動に忙しくて構っていられないということなのか、それともハナッから勝ち目がないと思ってダンマリを決め込んでいるのか、どちらが本当だろうか?

2016/7/24

敗戦処理投手  
顕正新聞の発行人が変わっても紙面はさして変わり映えしない。しかし、委細に見れば多少の変化はあるのかもしれない。

妙信講(顕正会の前身)

わざわざこんな表記をする必要はなさそうなものだが、第1381号は特集号でもあるし、一般人にもわかるようにとの配慮かもしれない。

地獄のような・・・

これもそうだ。以前ならば、地獄界の、と書いたかもしれない。しかし、それは明らかに一般的には使わない表現であって、まさに顕正会用語の典型だった。それを今回は一般的な表現に改めたわけだ。

 札幌に戻ってよりは、妻とともに御奉公を貫くなか、経営するラーメン店は御守護を頂いて評判も上がり、四十八年間、営業を続けることが叶いました。

さて、前回の続きである。上掲は男子部第九十隊支隊副長の体験発表であるが、この登壇者の名前にはご記憶の人が多いかもしれない。かく言うわたくしも知っている。古参会員であり、かつてはビデオ放映の会場一覧にも出ていたはずである。しかし、わたくしが知っているのはそれだけだった。ゆえに詳しいことは今回の記事で初めて知った。

ラーメン店は一時期、東京進出を果たした。それがかつての浅井宅に近かったらしく、初代講頭先生と浅井先生から直接折伏を受けて入信したとのことだ。こういう話はひじょうに興味深い。

ともかく四十八年間は凄いことだ。もちろん上には上がいるだろうけれども、それでも凄いことだ。もし彼が現在七十歳だとすれば、二十二歳の時から店を出していることになる。これはもう立派な功徳であり、上掲に倣うならば御守護である。ちなみに、この御守護も顕正会用語に近いだろう。なぜならば沖浦氏あたりは功徳・功徳とウルサイくらいに連発しているが、御守護とは言わないからだ。

そして記事のほうは奥さんの臨終について語っているわけだが、詳細は割愛しよう。見出しの一行を見ておきたい。

 みごとな成仏の相に有難さ込み上げる

かつての顕正新聞には美事がよく使われていた。これも顕正会用語だ。それを今回はひらがな表記にしたわけだが、これもあるいは新発行人の工夫なのかもしれない。

 昨日、六月二十八日の「長野日報」に、全国の先陣を切って基礎教学書の広告が掲載されました。

男子部第十六隊長の班長会での登壇だ。

これはもはや広告ではない!全日本人に対する先生の折伏・諫暁ではないか!

顕正会員的にはそのとおりなのだろう。営利目的の広告ではなく一国諫暁の一環であると。実際、どれほど広告を打ったところで、この本が爆発的に売れるとは思えない。何しろ、かく言うわたくし自身がまだ入手していないくらいなのだ。いわんや一般人をや、であろう。

しかし、甚だイヤミな話であるが、営利目的でないにしても売り上げそのものが全日本人への浸透度を知るためのバロメーターとなるわけで、結局のところ、売れなければ失敗である。先生の折伏・諫暁は不発・空振りだったことになるのだ。

さて、反響はいかに・・・

残りわずかとなった限りある御奉公・・・

第二十六女子部長の発言である。純粋ではあるのだろうが、しかし、あまりにも現実が見えていないのではないかと思う。

次の第二十四婦人部長の発言も興味深い。

・・・ならば二百万達成の時にはいかなるご指導を頂けるのか。

「ならば」の前の文章がわからないとピンと来ないかもしれない。ようするに広宣流布特集号を歴史的重大指導だと言っているのだ。それが百八十万達成を契機になされた。ならば二百万の時にはもっと凄い指導があるに違いないと、彼女は期待しているわけである。先生もツライよ。もう今が一杯一杯の状態なのに、さらにグレードアップを求められているのだ。そろそろ楽をさせてあげたいものである。

こう書くと、熱心な活動会員のうちでもわりとキャリアの短い幹部は何を言うかと反発心を起こすかもしれないが、逆にキャリアの長い幹部たちはわたくしの言っていることに内心では賛同するに違いない。

面倒臭いので調べていない。そう言っておかなければならない。

その上で、例えばセロリ氏だとか瑠璃堂氏あたりが過去の浅井発言を細かく調べているので、それを参考にされるよいだろう。

つまり、最近の顕正会の中で大ブームになっている御生骨の指導にしても、何も今回初めて明かされた話ではないのだ。ようは秘蔵の法門(?)ではないのだ。実は過去にも同じ話をしているけれども、わりと新しい人たちはそれを知らないだけの話なのである。ゆえに初めて聞いて衝撃を受けた。それはそれで結構だが、すでに前にも聞いたことのある人にとっては、衝撃度が低いのも事実である。

以上のような理由から、二百万達成時に何か衝撃的な新指導が行なわれるということは期待薄と考えたほうが自然であるし、むしろその頃には顕正会の存続そのものが危ぶまれるような事態になっている可能性すら否定できないと思う。幹部会員たちはそれを覚悟の上で戦い続けなければいけないのだ。

2016/7/22

微妙なニュアンス  
広宣流布特集号第二弾の続きである。

国家意志表明の時「御生骨」は大光明

六千万成るの時、光を放ち給う「御生骨」


婦人部上尾支区部長と女子部第二十六部長の記事に付けられた見出しを並べてみた。たぶん同じことを言っているのだろうけれども、ここで問いたいのはどちらに重きを置いているのかである。つまり、六千万という数字が大事なのか、国家意志の表明そのものが大事なのか、である。

すでに昨日の拙稿でも少し触れたように、顕正会の公称会員数と実働会員数には大きな乖離がある。ならば六千万という数字にはあまり意味がないことになりそうだ。すると数字いかんに拘わらず、国家意志の表明そのものに重要性が隠されているのではないかとも考えられそうだ。

いずれにしても民主政体の上からすれば、国民の過半数の賛成を必要とするわけだから、六千万はどうしても通らなければいけない関所なのだろう。顕正会としては実働会員数をどんどん増やさないといけない。

しかしながら、わたくし個人は少し違った考えを持っていて、極論すれば天皇一人が勅宣を出せば戒壇建立は可能となるのだと思う。

その意味からすると、もしかしたら天皇一人が帰依するだけで御生骨は光を放つのかもしれない、と思う。

たぶん一般人からすれば大いに違和感のある話だろう。そして顕正会員たちからも、オマエは何を言っているのか、と白い目で見られるかもしれない。

まず、一般人を説得することは放棄しよう。

その上で顕正会員たちの説得を試みるわけだが、今の浅井先生の見解によれば六千万達成の時に御生骨は光を放つという。そしてそれを目の当たりにした残りの六千万人が一気に入信して、日本の広宣流布が完結するわけだ。だったら今すぐにでも光を放てばいい。こんな不思議な現象はないのだから、それで一気に日本ないし全世界の広宣流布が達成されることだろう。このように考えると、なぜに六千万が関所なのかがよくわからなくなるのだ。つまり、根拠がないのである。

だったらそのターニングポイントを天皇帰依の時と考えることだって可能のはずなのだ。もちろん、これにも明確な根拠があるわけではないが、そこはお互いさまである。ただ、わたくしの感触としては天皇帰依はベラボウにハードルの高いことであって、もしかしたら六千万よりも価値が高いかもしれないのだ。少なくとも顕正会の公称六千万よりは遥かに高いはずである。

さて、活動会員の諸君、これにどう反論するだろうか?

宗門僧侶「広宣流布」「御生骨」を否定!
 「そんなことを本当に信じているのか」と。


女子部第百八十七区長の活動報告の見出しである。彼女の報告をそのまま信用してよいのか、少し疑問がある。記事には長岡市の法秀寺とあるので、あるいは宗門側のほうでも反論を用意しているかもしれない。たとえば広宣流布否定については、ようは顕正会にはムリ、出来っこない、という意味を言ったのかもしれない。御生骨についてはどうだろう。わたくしの個人的感覚では、そのような言い伝えがあるけれども本当に光るかどうかはわからない、というのが正直なところである。あるいはくだんの宗門僧侶も同じような意見なのかもしれない。

彼女の報告を信用してよいのか疑問があると書いた。それは次の部分がひじょうに訝しいからである。

 「成仏とは御書にはない、善人とある」

これは誤解を招く文章である。まさか日蓮正宗の僧侶が御書を読んでいないはずはない。御書を読んでいれば、そこら中に成仏の語があることに気づくはずである。

たぶん千日尼御前御返事の例の御文について言っているのだろう。二人の間でどのようなやり取りがあったのか知らないが、臨終の相について御指南あそばす例の一節には善人という語句が出てくるのである。ゆえにくだんの宗門僧侶はその旨を述べたのだと考えられる。あるいはアゲアシ取りのような意味で言ったのかもしれない。何しろ顕正会員の多くは浅井先生が引用する御書の一節だけしか知らないので、それを逆手に取って上掲のようなことを言ったとも想像されるのだ。悲しいかな、彼女のほうはそれすらも理解できなかったのだろう。それで宗門僧侶がわけのわからないことを言っていると思い込んでしまったのだ。

そして会長講演ではこの報告を受けて、いわば講演のネタにしているわけである。

 先ほどの活動報告で、女子部区長が新潟県長岡市の宗門末寺住職の発言を報告してくれましたが、まことに驚きですね。

この後、昨日紹介した話に続くのである。宗門僧侶は大聖人から見れば赤の他人、顕正会員は大聖人の血の通った仏弟子である、と。

しかし、すでに述べたごとく、くだんの女子部区長は知ってか知らずか住職の言葉を勘違いして受け取っているのである。となれば彼女の報告を全面的には信用できないことになるだろう。そもそも浅井先生だって御書には相当に詳しいわけで、わたくしが上で指摘したようなことはすぐにでも気がつくはずなのだ。しかし、そこには目をつぶって都合のよいところだけを取り上げて、宗門を批判しているのである。そう考えると、劣勢なんだなあ、と思う。何が何でも宗門のイメージダウンを図って、それで会員の流出を食い止めようとしているのだ。

法華講員の弟「みんな顕正会に行っちゃう」

正義にめざめての記事に付された見出しである。発表者は創価学会から法華講を経て本年四月二十七日に顕正会に入会してきた。そして五月十日には日顕上人の御本尊を返納してしまっている。そして今はまだ平会員だが、熱心に折伏しているようである。

 都内の末寺に所属している弟には電話での折伏になりましたが、弟の周わりで顕正会に入会する人が何人もいるとのことで、弟は
 「信心が強盛の人はみんな顕正会に行っちゃうんだよな」(大笑)と言っておりました。


いちおうバランスを取って、顕正会側に有利な記事もこのように紹介しているわけだが、じゃっかん虚勢を張っているようにも感じられるところである。ここでの最大のポイントは(大笑)だろう。これが実際どうだったかがひじょうに気になる。総幹部会に参加している人たちは顕正会の中核幹部ばかりである。現場のことは彼らがいちばんよくわかっている。宗門から続々と人材が流れてきているのであれば、(大笑)は心底からの大笑いだろうし、もし逆に熱心な顕正会員の多くが宗門に流れてしまっているとすれば、その笑いは力のない自嘲のようなものになるだろう。さすがに紙面からはそこまで読み取れないが・・・

2016/7/21

広宣流布特集号第二弾を読んで  
顕正新聞第1381号には広宣流布特集号2との銘が打たれている。これは六月度総幹部会の会長講演をメインとする紙面である。まずは会長講演の大見出しを紹介しよう。

「前代未聞の大闘諍」とは第三次世界大戦
日蓮大聖人に帰依しなければ日本は亡ぶ
 六千万こそ御遺命成就の関所!!


これはいわゆる一国諫暁のエッセンスが詰まった見出しである。少し前までは創価学会員を救う特集号を連発していた。それはいわば創価学会員限定の特集号だった。今度のシリーズは日本国民全員を対象にする意味があるのだろう。ようは二千二十年代に開始されるという一国諫暁の前哨戦がすでに始まったと考えられるのだ。

安倍ペテン政治は国を亡ぼす

本文中に差し挟まれた見出しの一つだが、実は当該講演の主目的は安倍批判と考えてもいいくらいなのだ。なぜならば講演全体の分量からすると、それだけで七八割を占めているからである。まさに安倍批判に終始している。ちなみに途中には創価学会・公明党批判もある。

六月二十七日、これが総幹部会の行なわれた日である。実に悩ましい。なぜならば参議院選挙の投票日が七月十日だからだ。

 さて、参議院選挙が近づいてまいりましたね。

本文からの引用である。これ以降、安倍批判が延々と続くわけだが、結果論で言えば、自民党の圧勝である。公明党も盤石だった。

会長講演の内容は鋭い。実に鋭い安倍批判であり、わたくし自身も同意見の部分が少なくない。もしこれで自民公明が大敗を喫していれば、顕正会員的には痛快だったろう。活動会員たちは特集号の威力を云々したに違いない。しかし、結果はその逆である。まるで特集号の威力は発揮されなかったことになる。しょせん顕正会の影響力はそんなものなのだろうけれども、それにしても落胆を禁じ得ない。ガッカリである。

顕正会員は
 血の通った仏弟子


講演の主要部分はすでに述べたので、あとは個々の部分をいくつか取り上げておこう。上掲の小見出しが悩ましい。例の血脈問題を想起させるからである。本文は次のごとくだ。

 いま顕正会員は、大聖人様の血の通った仏弟子なるがゆえに・・・

まあ、しかし、この部分はいわゆる信心の血脈に属するのだろう。そのように理解すれば、それほど目くじらを立てる必要はないのかもしれない。

 どうです。いま激しい異常気象は誰の目にも明らかでしょう。九州・四国・中国地方の豪雨・大洪水は眼前です。また巨大地震は「3.11」から熊本大地震、さらに首都圏直下、南海トラフ巨大地震も近づいている。

豪雨・大洪水は毎年どこかで起こっている。近年、それが激しくなったと感じるのは一種の錯覚だろう。

問題は大地震である。規模の問題もさることながら、発生頻度をどう考えるかが難しい。首都圏直下も南海トラフもいずれは起きるだろう。しかし、それがいつであるかは誰にもわからない。何しろ先生が予言めいたことを言うと、必ず外れるのが今までのパターンなのだ。さて、どうなることやら、である。

 まさしく六千万こそ、御遺命成就の関所であります。

実は五年前にも同じような発言をしているのだ。次がそれである。

 まさにこの国民投票こそ国立戒壇建立の関所であります。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1655.html

わたくしの意見はリンク先を参照されたい。ようするに今回もまったく同じ意見であり、わざわざ改めて書く気にもならないのだ。

考えていただきたい。今回の特集号を大量配布して、もし仮に一般人が読んだとしよう。安倍批判など共感を得る部分はあるのかもしれないが、最後の結論部分を読んで疑問に思うはずなのだ。六千万? そりゃ六千万人が入信すれば凄いことだよね。しかし、本当に出来るのかなあ? ちょっとムリっぽいけど・・・ 

控えめに言ってもこのとおりである。顕正会の事情に詳しい批判者たちなら、ボロクソだろう。だったら今の公称会員数が何人で実働会員数が何人なのか言ってみろよ。オイオイ、そんなテイタラクでは六千万など出来るわけがないだろう、と。

2016/7/19

ガンメイさの極致  
沖浦氏の頑迷さは今に始まったことではないので、こちらがムキになることもないだろう。現時点では相手がどのような文証を出してくるか、それを待つのみである。これからも適宜、必要に応じて破折を加えていくつもりではあるが、おそらくはこの先、それほど有効な文証を出してくるとは思えないので、今回の議論はこれで終了となるに違いない。

さて、今日は顕正新聞第1380号から話題を拾うつもりであるが、その前に気がついたことを書いておこう。

発行人 小沼貴寛

いつの間にか顕正新聞の発行人が変わった。どうやら第1378号からのようである。ちなみにそれまでの発行人について書いておくと、次のような表記になっている。

編集兼発行人 小峰勝彦

すると小峰氏は今もなお編集の責任者なのかもしれない。しかし、発行人だけを交代することに、というか名義を変更することに、どれだけの意味があるのだろうか?

よくわからんことだ。

ともかく総幹部会では毎回のように人事発表がある。けれども、それは顕正会の人事だけであり、顕正新聞社の人事については発表されないごとくである。そうそう、もっと重要なことを指摘しておくと、人事発表は冨士大石寺顕正会の人事であって、宗教法人顕正会のそれではない、ということだ。このことは数年前にも指摘したわけだが、結局、冨士大石寺顕正会の中でどれほどの大幹部になろうとも、宗教法人顕正会の中ではタダの人である場合も少なくないわけだ。このように考えると、思いっきりモチベーションが下がるかもしれない。

話を戻そう。

その辺の裏事情はよくわからないけれども、いずれしても小沼氏は顕正会の中で重用されている。近年の幹部連中の中では出世頭かもしれない。

そのためであろうか、外部からの風当たりも相当である。彼はここ数ヶ月にわたって法華講員からの攻勢を受けている。もちろん、わたくしはそれを知悉しているわけではなく、むしろほとんど何も知らない状態である。わずかに法華講員たちのブログなどから、その様子を垣間見ているに過ぎないが、ともかく彼も大変な立場に置かれたものだと、気の毒に思わずにいられないところだ。

「広宣流布特集号」の感動 全顕正会に満つ

発行人が変わったことで、紙面が一新されれば、それは意味のあることだろう。しかし、それほど変化したようには思えない。変化しようがないのだ。その意味でも編集部は苦労が絶えない。

これも数年前から繰り返し指摘していることだが、本部行事が少ないので記事が書けない、そういう慢性的な問題をずっと抱えたままなのである。以前ならば月例行事として御書講義があった。そして総幹部会がある。これを二大路線と言っていたこともあるのだ。これならば月三回発行のうち、二回分の紙面は苦労せずに埋まるのだ。しかし、今は総幹部会の一回分しか紙面を埋めることが出来ない。この状態で月三回発行を続けていくのは至難の業だろう。

そんなわけで、当該号は二号前のいわゆる広宣流布特集号について、いわば感想文のようなものを幹部たちに書かせているのである。

これはもう終わっているだろう。

なぜならば一号前が班長会特集号なのだ。この班長会特集号というのは総幹部会の後に出される号のことで、ようは総幹部会の会長講演について幹部たちが云々かんぬんする号なのである。悪く言えば二番煎じである。すると今回は三番煎じということになる。もちろん個人の嗜好として、そのようなものを好む人がいてもおかしくはない。しかし、平均するとどうだろう。たぶん普通の人の感覚ではウンザリするのではないかと思う。二番煎じは許せても三番煎じは許せない。これはもう手抜きであり、読者をバカにしていることだと、そう感じてもおかしくないはずなのだ。もしこれが一般書店に並ぶ自由購入の紙誌であれば、もう誰も買わないだろう。

そんなわけで、当該号は全文チェックしているものの、あまり取り上げる気にならない。そこでもし一つだけ取り上げるとすれば、わたくしは次の一文である。

 思えば、細井管長は・・・

女子部第二百八区支区長補の記事である。これはもう素晴らしいの一語に尽きる。

今や顕正会の中では細井日達と呼び捨てにするのが当たり前になっている。その中でこのように書くのは相当に勇気のいることである。同調圧力に屈しない彼女の振る舞いに敬意を表したい。

2016/7/18

ドダイムリな話  
沖浦氏との議論はすでに決着を見ているが、なおも自説への執着が強いようなので、しっかりと指摘しておこう。

 御書に、外道の功徳がキチンと書かれてあります。

 『其の上仏教已前は漢土の道士月支の外道儒教四韋陀等を以て縁と為して正見に入る者之れ有り、』
 (如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

 正見とは南無妙法蓮華経を悟ること。
 ですので、外道であっても最高の功徳を現じる人がいたのです。


正見とは南無妙法蓮華経を悟ること?

この点は微妙なところだろう。意味を広く取ればそのようにも解釈できるのかもしれないが、普通は邪見の対義語と考えるべきだと思う。

しかし、それ以前の問題として、上掲のどこが外道の功徳を認めることになるのか、よく考えるべきだろう。

仏教已前は・・・

沖浦氏はこの意味がわからないのだろうか? 先日引用した如説修行抄を再掲しよう。

小乗の法流布して得益あるべき時もあり、権大乗の流布して得益あるべき時もあり・・・

まったく同じ意味である。ようするに、昔は小乗・権大乗にも功徳があったが今はない、と大聖人はおっしゃっているわけであり、同じく本尊抄においても、仏教以前には外道にも功徳があったが今はない、とおっしゃっているのである。

ということで、これまで沖浦氏が提示してきた文証はすべて無効である。よって、今のところ氏は自説を証明することが出来ていないことになる。まあ、土台無理な話なのだが・・・

さて、久しぶりに顕正新聞から話題を拾おう。第1379号の続きである。

 学会時代の折伏は、無理やり会館に連れてきて大勢で囲み、入会するまで帰さない雰囲気を作るだけであり・・・

男子部第五十四隊班長の正義にめざめてである。そうそう、誤解しないでほしいのだが、これは何も沖浦氏へのアテツケで取り上げているのではない。拙ブログの愛読者ならばおわかりだろう、わたくしは顕正会に対しても厳しいのだ。つまり、創価学会の折伏のやり方をとやかく言う前に、顕正会のほうこそ是正が必要なのではないか、ということである。

次は女子部第二十四区組長の記事である。

 「池田先生は御本尊を五千円で貸し出している。学会をやめるなら御本尊を返せ」

五千円で貸している? 妙な話であるが、逆に言えば、創価学会もそれなりに御本尊を大切に思っているのだろう。なぜならば五千円で貸与することと譲渡することとにそれほどの違いはないはずだからである。ある意味ではベラボウに高い料金である。たぶん印刷ないし表装の原価を考えても五千円は十分におつりがくる金額のはずである。つまりは売ってしまっても構わないのだ。それを貸与の形にするのは、御本尊を粗末に扱ってはいけないという意味が込められているからなのだろう。他人様から借りた物はいずれ返さないといけない。当然、借りている間は大事に扱わないといけない。その上、五千円のレンタル料金を払わないといけないのだ。

ともかく一般人の経済感覚として高いと思ったら買わない。何でもそうだろう。借りるのも同じことだ。すると創価学会版の御本尊には、五千円を払っても借りるだけの価値があることになるだろう。逆に、五千円の価値しかないの? というツッコミもありそうだが、まあ、この辺はひじょうに難しいところである。

致命的な「クモ膜下出血」で大手術
 不思議な御守護に医師も「有り得ぬ」と

後遺症もなく驚異的な回復


女子部第三十二区総班長の体験発表だ。ご記憶の人もいるかもしれないが、以前、この人の父親の登壇記事を紹介した。娘がクモ膜下出血で云々かんぬんと。その時、どうして本人が発表しないのかとわたくしは疑問に思った。しかし、こうして本人が女子部の班長会の場で発表しているのだから、いわばわたくしはゲスのカングリをしていたことになる。この辺が批判者たちの悪いクセでもあるのだろう。何でもかんでも疑って掛かる。気をつけたいものである。

御金言どうりの成仏の相に大感動

これは男子部第六隊組長の体験発表に付された見出しである。「どうり」が気になった。普通は「どおり」のはずである。何か意味があるのだろうか?

・・・まさに御金言どおりの成仏の姿に大感動が込み上げました。

本文はご覧のようになっている。すると編集部がミスをしたことになりそうだ。

白髪は黒くなり・・・

これが最近の注目点である。以前にも同様の記事を紹介したことがあるし、当該号ではもう一人同じような発表をしているのである。

白髪だった髪の毛は黒くなり・・・

女子部第二百四区の平会員が夫の臨終の様子を書いたものである。

さて、次の婦人部十和田支区組長は高校入学と同時に母親の縁で入信したという。それが平成十九年のことなので、今現在はまだ二十代前半のうら若き女性である。それが婦人部所属のままというのもどうかと思うのだが、それはともかく本文に入ろう。

「『学会に入れば生活保護がもらえる』と市役所で声を掛けられ、学会に入った。顕正会がいくら正しくても、学会をやめるわけにはいかない」

前後の文脈を無視した形での引用なので恐縮だが、これはまた悩ましい話である。続きの文章にも注目だ。

政権深入の汚い手で票集めをする、学会の濁り切った姿を目の当りにして・・・

まず、市役所で声を掛けられたというのが悩ましいところで、もしこれが市役所の職員だったら大問題だろう。公務員が生活保護の認定をエサに特定の宗教団体への入信を促がす。そんなことをしたら職権乱用であり、たぶんタダでは済まないだろう。クビになってもおかしくない。

ゆえに声を掛けてきたのは職員ではないのだろう。すると職員とは別の人が、生活保護を求めて市役所にやってくる人たちを待ち伏せしていることになる。そしてそのようなことが可能なのは公明党の後ろ盾があるからだ。なるほど、汚い手というのはそのとおりかもしれない。何しろ顕正会には使えない手だからだ。

もうかなり前から言われ続けていることがある。創価学会員は生活保護の申請が通りやすいと。これはいわゆる政治家による口利きが効を奏してのことなのだろう。創価学会員が公明党を必死に応援するのは、まさに自分たちにとってそれがプラスになるからなのだ。これが創価学会の現世利益なのだと、そういうイヤミな論評も存在するくらいである。

それに引き換え、顕正会には何もない。いや、御本尊の功徳がある。当然、熱心な活動会員たちはそう言うだろう。しかし、それも諸般の事情を勘案すると、ひじょうに心許ないところである。

最後に男子部第四十一隊総支隊長の記事を紹介して終わろう。

 さらにこのたび給料が数万円アップするという大功徳も頂き・・・

数万円はおかしい。自分の給料ならばそんなアイマイな書き方をする必要はないだろう。三万円だとか五万円だとか、そのように書くべきである。

2016/7/17

至極単純明快な論理  
勝氏から拙稿への所感が寄せられた。ようは戒壇建立の手続き上の問題についてである。氏の意見はおおむね顕正会側の主張に添うものであり、わたくし自身もそれほど異論があるわけではない。あえて言うならば、いわゆる勅宣が政治上の手続きにカテゴライズされるものなのか、あるいは純粋に仏法上のカテゴリなのか、この二通りの解釈によって大幅に変わってくるものなのだろうと思う。もし前者であれば時代によって変化し得るだろうし、もし後者であれば変化しないだろう。しかし、現実問題としては皇室も少しずつ変化している。ゆえに、仏法上はこうであるべきとか、こうでなければいけない、というような固定化した考え方は、現実との齟齬・乖離を生ずることになって結局は万人に受け入れられない。それこそ御書原理主義という沖浦氏の言葉が思い起こされるところである。もちろん、だからと言って世間に迎合するような教義解釈の変更を是とするつもりはさらさらないのだけれども、ともかく現実とのギャップをどうするかは戒壇建立の問題だけでなくあらゆる問題において考慮すべきことだと思うのである。結局はいくら考えたって結論が出るわけではないのだが、まあ、ようはそういうことを考えるのがわたくしの趣味(?)みたいなものだと思っていただければいいだろう。よって、読者がつまらんと思えばそれまでだし、一考の余地ありと思えばお付き合いいただきたい、ということなのである。

さて、本題である。

 『李広将軍と申せしつはものは虎に母を食れて虎に似たる石を射しかば其の矢羽ぶくらまでせめぬ、後に石と見ては立つ事なし、後には石虎将軍と申しき、』
 (四条金吾殿御返事)

 祈りを込めて放った矢が、石に突き刺さったとあります。

 祈りの効果です。
 更に、

 『外典に云く「漢王臣の説を信ぜしかば河上の波忽ちに冰り李広父の讎を思いしかば草中の石羽を飲む」と云えり、所詮天台妙楽の釈分明に信を以て本とせり、彼の漢王も疑はずして大臣のことばを信ぜしかば立波こほり行くぞかし、石に矢のたつ是れ又父のかたきと思いし至信の故なり、何に況や仏法においてをや、法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱うる即五種の修行を具足するなり、』
 (日女御前御返事)

 キチンと法華経以外の外道の祈りの功徳を認めておられます。


これはわたくしの質問に対する沖浦氏の回答である。他宗にも功徳があるということの文証だそうである。

しかし、結論は一目瞭然だ。つまり、ダメである。ぜんぜんダメ、文証になっていない。

まず、石虎将軍の話であるが、いったい何宗の祈りだったのかが明確ではない。ということは、大聖人は他宗の功徳を認めているわけではなく、単に祈りの大切さを教えているだけの話なのだ。まさか大聖人が四条金吾殿に対して、他宗にも功徳があるなどと教えるわけがないだろう。そもそもここでの祈りは、いわば沖浦氏の意訳であって、大聖人が仰せになっているわけではない。いや、もちろん、祈りを不適切とは思わないが、しかし、それを他宗の祈りだとするのは沖浦氏の勝手な解釈に過ぎない。

さて、問題は二番目である。

外典に云く・・・

沖浦氏はこの部分を悪用していることになるだろう。これを外道の祈りと解釈することによって、自分の主張を正当化しようとしているのだ。

 此の御本尊も只信心の二字にをさまれり。以信得入とは是なり。

どうやら御書全集では改行の位置が違っているようだが、平成新編では上掲を最後の段落としている。つまり、沖浦氏の引用した一節はこの一段に含まれる御文なのである。

もはや説明するまでもないのだが、あえて書いておこう。

当該御書は大聖人御図顕の大曼荼羅御本尊について大聖人御自らが説明あそばすものである。そして最後の一段はまさしく御本尊に対する姿勢を御教示あそばしているのだ。

仏法の根本は信を以て源とす。

あるいは沖浦氏引用のくだりにも、

所詮天台・妙楽の釈分明に信を以て本とせり。

とある。当然、大聖人の引用意図は御本尊に対する姿勢を教えるためである。御本尊への信が大切なのだと。されば外典の引用意図も同様だろう。まさか外道にも功徳があるなどと、そんなトンチンカンな解釈をする人が七百年後に出現するとは誰も思わない。

繰り返し言っておこう。

信を祈りと言い換えること自体はそれほど問題ではない。しかし、その場合においてもここではあくまで御本尊への祈りのはずである。それを外道に対する祈りなどと解釈する人はいないはずなのだ。こんな単純明快な道理もあるまい。

以上、今回は沖浦氏のデタラメぶりがよりいっそう際立つものだった。

2016/7/14

単純明快さに徹する  
沖浦氏の返信を拝見して感じたことは、誤魔化しているような印象が拭えない、ということだ。もし本人にそういった意図がないのだとしたら、おそらくは理解力が乏しいのだろう、わたくしの言っていることが理解できていないのだ。

そうそう、一点目の問題に関しては違う。むしろ模範的な回答なのかもしれないと思う。

万民の万言、一王の一言

沖浦氏はこれについて、いわば事・理の観点から説明しているわけだ。つまり、理論上はすべての人が平等である。しかし、現実社会においては厳然とした差がある。まさにそのとおりだろう。

わたくしの考えていたことはそれとは別で、ようは主権在民の今の時代において、上掲のような御指南がどこまで通用するか、ということなのである。しかし、これはベラボウに難しい話である。ゆえに保留としたのだ。

奇しくも昨夜、天皇陛下から生前退位の意向が伝えられたというニュースが流れた。宮内庁ではこれを否定しているそうだ。一王の一言は重い。綸言汗の如しである。しかし、ご存知のように天皇陛下の権威は絶大であるものの、いわゆる権力はお持ちでない。政治的発言権を持たないのだ。すると、国立戒壇建立時における勅宣は、実質的に有名無実となる。それでもなお勅宣にこだわるべきなのだろうか?

まあ、こういった議論を想定していたわけだが、もちろんこれは顕正会的な発想であって、沖浦氏がこの議論に乗っかってくるはずがないのは当然である。

さて、問題は次である。

他宗の功徳を認めるか否か・・・

この件に関しては、どうやら都合が悪いと見えて、アイマイな発言に終始している、というのが沖浦氏の態度である。唯一、まともな回答と思しき部分を挙げれば、おそらくは次のくだりだろう。

 現時点で権力を持って大聖人仏法を弾圧する勢力はございません。
 当然それなりの読み方が必要なんです。


つまり、これは前段の議論と同様であって、現代社会において大聖人の仏法がどこまで通用するか、という問題なのだ。前後するが、沖浦氏は次のようにも言っている。

 御書原理主義に陥ってはなりません。

しかし、ずいぶんと都合のよい論法である。たとえば別の議論においては、法華講員などに対して御書の提示を求める。戒壇本尊本懐論を御書を使って証明せよ、ほら出来ないじゃないか、みたいな感じである。

ゆえにわたくしも同じ手を使ったわけである。他宗にも功徳がある? だったら御書を使って証明せよ、と。

結局、きわめて部分的・限定的な御文を除けば、そのような御指南は存在しないのである。それはそうだろう。大聖人は御書のそちこちで念仏無間地獄とおっしゃっているのだ。それが大聖人の御考えなのである。ならば、その逆はあり得ないだろう。

よって前回の引用御書の意味もその線で拝さないといけない。

小乗の法流布して得益あるべき時もあり、権大乗の流布して得益あるべき時もあり・・・

まさかこの御文を根拠にして、ほら大聖人は小乗の功徳を認めているじゃないか、権大乗の功徳も認めているじゃないか、などと言う人はおるまい。まさしく切り文の典型である。全体の文脈を拝せば、その逆の意味であることは一目瞭然である。ごく単純に言えば、かつては小乗・権大乗にも功徳があった、しかし、今はない、ということだろう。

沖浦氏もわかっているのだろう。だからこの部分には触れなかった。まさに都合が悪いからだ。

これで話は終了である。

まあ、しかし、あえて延長戦を選択することも可能である。まずは再掲しよう。

 現時点で権力を持って大聖人仏法を弾圧する勢力はございません。
 当然それなりの読み方が必要なんです。


それなりの読み方が必要?

まさにここが問題である。わたくしが引用した御文の意味はすでに説明したとおり、かつては功徳があったけれども今はない、ということである。これを沖浦氏はさらにひっくり返して、大聖人の時代には功徳がなかったけれども今はある、と言っていることになるだろう。

さて、御書のどこをどのように読むと、そのような結論が出てくるのだろうか?

2016/7/12

簡潔を心掛けること  
相変わらず賑やかであるが、ずいぶんと無駄な議論をしているような気がしてならない。もちろん個人の自由であり、それぞれ自己責任でやってもらえば一向に構わない。しかし、第三者的な感想としては、あの人はヒマなんだな、四六時中書きまくっている、それも同じことの繰り返しなのだから見ていてウンザリだ、ということになりそうだ。もっとも見ているほうも相当であるが・・・

さて、わたくしもタマには不毛の議論に参戦(?)したりもする。今回は沖浦氏の直近のコメントからいくつかを拾って、感想を書いてみようかと思う。

 『乃至梵音声と申すは仏の第一の相なり、小王大王転輪王等此の相を一分備へたるゆへに此の王の一言に国も破れ国も治まるなり、宣旨と申すは梵音声の一分なり、万民の万言一王の一言に及ばず、』
 (四条金吾殿御返事)


沖浦氏引用の御文は、先日来の平等観の話と矛盾するのではないかと思うのだが、いかがだろうか?

万民の万言、一王の一言に及ばず。

たぶん想定される反論は、時代が変わった、ということだろう。今は主権在民の時代であるからして、云々かんぬんと。

では、この議論はしばらく保留にして、少し話を進めよう。

いやいや、日蓮正宗は他宗の功徳など認めません。

これは大沢氏の発言であるが、沖浦氏は鬼の首を取ったかのように、この発言を繰り返しあげつらっている。

 これらの仏法者から逸脱した書き込みを、他の法華講員はどなたも諫める事すら出来ない。

直近のコメントでは他に二つほど引用しているが、話がややこしくなるので省略しよう。ともかく大沢氏の発言は仏法者から逸脱しているとのことである。はたしてそうだろうか?

 7.SGIは仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく。

SGI憲章だそうである。どうやら沖浦氏は日蓮正宗ないし大沢氏を批判するための文証として、これを持ち出してきたかのごとくである。

しかし、これは最低最悪の議論だ。SGI憲章? 何それ? そんなの関係ないだろう?

法華講員が猊下の御指南を引用しようものなら、それはアンタたちの内部規定に過ぎないからダメだみたいなことを言っている人が、どうして自分たちの内部規定を持ち出してくるのか、そこがよくわからないところである。ようは支離滅裂なのだ。

こう書くと、おそらくは急いで何らかの御書を引用してくるものと思われるが、その前にこちらから先手を打っておきたい。如説修行抄の一節だ。

小乗の法流布して得益あるべき時もあり、権大乗の流布して得益あるべき時もあり・・・

さて、この解釈をどうするか、である。

ズバリ、沖浦氏に聞きたい。上掲は他宗の功徳を認める御文なのか否か、二つに一つであれば返答は容易であろう。この回答いかんによって、沖浦氏がまったく御書が読めていないことが判明するかもしれない。実に楽しみである。


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