2016/11/27

顕正新聞第1391号拾い読み  
沖浦氏はもう少し謙虚になったほうがいい。それがわたくしの正直な感想である。氏は御書を引用したりして、何やら謙虚を否定するかのような言動をしているが、ずいぶんおかしなことを言う人である。少なくとも世間普通の義という意味から、謙虚であることが悪いわけがないのだ。ましてや仏法の立場からしても、それは言えることだろう。この点は別の機会に書いてみたいと思う。

元楽団員という人から貴重な証言をたまわったので、全文紹介しておこう。

2016/11/25 23:42
投稿者:元楽団員
交通費なんか出ませんでしたよ

自腹、じばら

高い楽器も自腹

功徳になると洗脳されてるから

嬉々と自腹をしてましたね


なるほど、近年の地方大会では生演奏を行なわず、ビデオの上映という形を取っているわけだが、それが消極的ながらも最善の選択肢なのだろう。勝手な想像をすれば、元楽団員氏は元顕正会員ということでもあるのかもしれない。上掲の筆致がそれを語っているのだ。つまり、楽団のメンバーにしても、最初は一般会員とは違う特別な使命感を懐いて頑張るのかもしれない。しかし、経済的にも時間的にも負担が大きい。何しろ普段は一般の活動会員と同じく折伏や結集の戦いが待っているからだ。すると、いずれはバカバカしくなってくる。そういう気持ちが少しでも芽生えれば、あとは時間の問題である。遅かれ早かれ組織を去っていく。それが平均的なパターンだろう。本部首脳もそれがわかっている。わかっているからこそ、無理はできない。よって地方大会での生演奏は、断念せざるを得なかったのだろう。

さて、今日は顕正新聞第1391号である。

これはツマラナイ新聞だった。一面に御大会式の報道があるものの、会長講演の全文は別の号に載せると謳っている。そして二面以降は各種の集会における登壇記事のいわば寄せ集めである。

「松戸市文化会館」

そうした中でこれが興味深かった。昨夜、行なわれただろう、十一月度総幹部会の会場案内である。

え? なんで? というのが誰もが懐く感想のはずだ。もちろん、活動会員たちもである。なぜならば、ここ数年、いや、もう数年どころか十年以上、あるいは二十年以上になるだろうか、総幹部会の会場は大宮か川口と決まっていたからである。それがなぜに松戸になったのかが問題である。新聞には会場の写真が掲載されていて、実に立派な大ホールではある。しかし、場所が不便だ。交通アクセスがいかにも面倒臭い。しかも駅から遠いのだ。川口も大宮もほとんど駅前みたいな場所に立地している。それに比べると、いかにも遠いのである。

何か特別な事情があったのだろうか?

どうやら十二月の総幹部会は大宮で行なわれるようなので、たまたま予約が取れなかっただけの話なのかもしれない。しかし、顕正会は会場側にとっては上得意のお客さんのはずである。毎月のように会場を借りてくれるのだから、こんなありがたいお客さんはいないはずだ。それにもかかわらず予約が取れなかったのはやや不審である。釈然としないということだ。

今日はもうあまり気が進まないのだが、いちおう記事をいくつか取り上げてみよう。

現在、国会論戦で野党がピント外れの質疑に終始し、逆に安倍首相に言い返され、攻めあぐねている状況を見るにつけ、仏法の眼から事の本質を見極め論じられる先生の卓抜のご見識に、低頭の他はありません。

第九男子部長に欠けているのは客観性だろう。野党が攻めあぐねているのは事実かもしれない。先生の卓抜のご見識、これもいちおう事実だとしよう。しかし、この二つは一度も同じ土俵で戦っていないのである。議員たちは国会という同じ土俵で戦っていて、その結果として野党が攻めあぐねているように見えるわけだ。しかし、浅井先生は顕正会員の前で吠えているだけであって、直接的には安倍首相と対峙していない。野党の人たちとも対峙していないのだ。

言葉は悪いが顕正会員たちは浅井武勇伝を信じている。この武勇伝はいわば伝説化していて、その実像は必ずしも定かではない。

ひるがえって今の国会論戦はすべて映像化されており、第九男子部長にしてもそれを見て云々しているわけである。あるいはテレビ討論もしかりである。
しかし、浅井武勇伝は映像として残っていない。すべてが文章のみの世界であり、浅井先生の自己申告的な部分も少なくないのだ。ゆえに客観的な評価は難しい。
だからわたくしは言うのだ。浅井先生は今も健在である。この世に存在しているのだ。ならば積極的にメディアにアプローチすべきだろう。テレビ討論に出て、海千山千の国会議員たちを論破すれば、顕正会員たちが喜ぶのはもちろんのこと、多くの国民からも支持を得られるだろう。それこそ広宣流布が早まるに違いない。

地方大会を一つひとつ経るごとに広宣流布が加速していくことを、眼前にさせて頂きました。

婦人部総務の登壇にはご覧のごとく加速云々とある。しかし、わたくしは今こそ新たな浅井武勇伝を作るべき時であり、今が最後のチャンスでもあると思う。先ほども書いたように、映像としての浅井武勇伝こそが広宣流布の加速度を増す最大のエネルギーなのだ。

ただし、もはや浅井先生にはそこまでのエネルギーは残っていないのかもしれない。ならば先生の名代として、先生の代理が務まる人材がいればいいのだが、それも難しそうだ。城衛が務まれがいいのだが・・・

この「憲法問題特集号」を手にした日本の各界のトップや有識者たちも続々と目を開き、先生のご存在に気づくに違いない・・・

これは婦人部第二十四部長の発言であるが、これもまた同じ話である。繰り返し言うが、実際に各界のトップや有識者たちと対峙して、ことごとく論破していく様子を映像化しなければ説得力を持たないのだ。

世界の中で浅井先生しかおられない・・・

前後の文章を端折って恐縮であるが、女子部第二百十九区長の発言もしかりである。今や先生は偉くなり過ぎて、自ら外で行動することはなくなった。顕正会の中でのみ行動している。しかもきわめて限定的にである。

その意味で上掲にあえて注釈を加えるとすると、この場合の世界とは「顕正会の世界」のことだろう。顕正会の世界とは、いわば内輪のことである。ようは内弁慶ということだ。

馬鹿にしているようだが、事実だから仕方がない。

悪口ばかりも気が引けるので、最後に二つの記事を簡単に紹介して終わろう。
一つは女子部第百五十六区長の体験発表だ。これはよかった。妹が第二十七女子部長であり、母は支区長補だというから、いわば幹部一家である。主には子供のことを語っているわけだが、詳しい内容については省略したい。
そしてもう一つの記事は婦人部筑波支区総班長の体験発表である。本文を紹介しよう。

 現在すでに癌は骨に三ヶ所、脳にも転移していることが分かっております。

「ステージ4」の進行型の肺癌とのことだ。これはもう絶望的のように思える。今後、これが奇跡的に完治したとすれば、その時はまた感動的な登壇となるのだろうけれども、常識的には難しそうである。むしろわたくしはこのような記事が掲載されたこと自体が凄いことだと思うのだ。不謹慎な物言いで恐縮だが、続報に注目したい。

2016/11/25

十一月の雪  
沖浦氏の今朝の投稿には、謙虚というキーワードが散りばめられている。正直なところ、よくわからなかった。あるいはどこか他のところで、この語に関する議論があったのかもしれない。それを読まないことにはわからない話なのかもしれない。

みゆ氏には、今入りの弟子についてのご説明をたまわった。まあ、おっしゃることはよくわかるのだが、ようはそれが何を根拠に言っていることなのかが知りたかったのだ。

一例を挙げよう。

「大聖人は衣を以て覆い給う」の有難さ

顕正会の中でも流行のようなものがある。上掲がまさにそれであり、ここ数年はこのフレーズがたくさん使われている。しかし、わたくしの知る限りでは、浅井先生がこの根拠を述べたことはない。ともかく浅井先生がこれを言い出し、幹部たちがマネして使っているわけである。

末法に生まれて法華経を弘めん者は、三類の敵人有って流罪死罪に及ばん。然れどもたへて弘めん者をば衣を以て釈迦仏おほひ給ふべきぞ・・・

諸法実相抄の一節である。これが衣を以て覆い給うの根拠であることは誰にも異論がないだろう。問題は誰がということだ。御文は釈迦仏となっている。しかし、顕正会員ならば理解できるはずだ。ここでの釈迦仏は本因妙の釈迦仏すなわち日蓮大聖人のことだと。これが文底の義をもって拝するということである。

同様の意味で、今回の「今入りの弟子」にも何かしらの根拠があるのではないかとわたくしは睨んでいるのだが、それがわからない。よって、引き続き何かご存知の人があれば、よろしくご教示願いたいと思う。

さて、今日は九州大会特集号の各種記事を取り上げよう。

アメリカでのマラソン大会をキャンセルして本日の大会参加を決め・・・

カナダ留学した大学生も一時帰国して参加を・・・


これは第二十三婦人部長の記事に出てくる話である。先日、応援部隊の問題を書いた。大会の成功を演出するのは結構だが、応援部隊の経済的負担も考えないといけない。上掲はいわゆる応援部隊ではないが、応援部隊の存在を容易に想像させる、いわば傍証のような役割を担っているのだ。留学生がこの大会のためだけにわざわざ一時帰国したとは驚きである。アメリカでのマラソン大会の話も含めて、もともとこういう人たちはお金持ちなのかもしれないので、経済的負担を心配する必要はないのかもしれない。彼らはそれでいいだろう。問題は国内の会員たちだ。

何? 行きたくない? そんなこと言わないで行こうよ。〇〇さんはカナダから一時帰国してまで参加するって言っているんだよ。それに比べたらぜんぜん楽じゃん。だから頑張って参加しようよ。

この手を使えば、東北や北海道からだって参加を募れることになる。しかし、先ほども言ったようにお金持ちの人はそれでいいが経済的に苦しい人は堪らない。当面は毎年のように地方大会が行なわれるのだから、なおさらのことである。

特集号と広告で学会員が続々入会
 公明党市議も毎回ビデオ放映に参加


男子部第四十九隊長の記事の見出しに思うことは、この議員はもう当選できないな、ということだ。本文を読んでなおさらそう思った。

 「そもそも私は、学会が選挙のために信心するのは、おかしいと思っている」

顕正会に入るつもりだったら構わないだろう。すでにその覚悟があれば、それほど不自然な発言ではない。

「いまは立場上、入会できないが…」

だったら口が裂けても言うべきことではない。創価学会が選挙のために信心するのはおかしいなどと、どうして公明党の議員が言えるのだろうか? 常識的には絶対に言えないはずである。そんなことは創価学会員の立場になればわかることで、もしわたくしがその立場だったら、もうオマエには絶対に入れない、ということになるだろう。
よってこの件は、顕正会側の破折があまりにも鋭いものだからウッカリ言ってはいけないことを言ってしまったのか、あるいは登壇者の創作ないし都合の良い解釈か、このいずれかなのだろう。
議員で食っていくつもりならば、創価学会員の心証を悪くするようなことは言わないほうがいい。ズルイようだが、それが生きていくための有力な選択肢だと思う。

本特集号の後半には九月度班長会の記事が載っている。

戒壇の大御本尊様への参詣を妨げられてより四十余年・・・

総男子部長の発言は解散処分を起算として四十余年としているごとくである。それにしてもこれはベラボウに長い年月である。しかも未だ途中経過に過ぎない。つまり、四十数年ぶりに参詣が叶ったという話ではなく、今後もまだまだ長く続く話なのである。たぶん今のままでは永遠に叶わないに違いない。総男子部長としてもオヤジのために何とかしてあげたいと思っているはずであるが、さて、具体的には何をどうすればいいのか、それが難問である。

男子部総務(九州担当)

男子部総務が何人いるのか知らないが、顕正新聞発行人の彼は九州担当ということだ。

いよいよ先生が、大聖人様がお待ちあそばす大法戦場に到達される日が迫っていることを確信・・・

これまた難問である。上掲は文章表現としては勇壮でありロマンを感じさせる。しかし、その具体的な映像はまったく見えてこない。まさか見えていないのはわたくしだけであり、熱心な活動会員たちには見えるのだろうか? しかし、もし見えているとしても、それは幻視ではないかと思うのだが、いかがだろうか?

むしろその意味では、一つ前の戒壇の大御本尊へのお目通りが叶うか否かのほうが、はっきりとした具体性があってわかりやすい話である。どうもダメっぽいというのが客観的な見方だが・・・

2016/11/23

九州講演を斬る  
沖浦氏の三つのコメントのうち、真ん中と最後のものは矛盾である。だが、しかし、多様性をあらわしているのだと解釈するのが妥当かもしれない。つまり、沖浦氏自身はいつまでも向上心を持ち続けているが、必ずしも誰もがそういうわけではない。ボンヤリと生きている人も少なくない。わたくしもその一人だが、それでもいいのだ、生きていることが尊いのだ、と言っているわけなのだろう。しかも沖浦氏は、しばらく時間を置いてから最後の投稿をしている。何か思うところがあったのだろう。

一昨日、地震のことを書いたら、いきなり昨日の早朝に地震があった。しかも福島を中心としたわりと大きめの地震だったこともあって、テレビ・ラジオで大きく報道していた。やや大袈裟な感じもしたが、備えあれば憂いなしということなのだろう。五年前のことがあるので当然だ。

さて、本題に入ろう。

金光明経は広布前夜の日本を映す

九州大会での会長講演は、金光明経を文底の義によって拝するとどうなるかについて、かなりの紙数を費やしている。

 ―この日本国に、日蓮大聖人が留め置かれた「本門戒壇の大御本尊」がましますとも、国主および国民がこれを信ぜず背き続けるならば、諸天善神は必ず日本を捨て去る。
 もし諸天が捨て去れば、日本にどういうことが起こるか。まず国位を喪失し、人々の心が荒廃し、次いで天変地夭が盛んになり、ついには他国から侵略を受ける――と。


これが金光明経の意味だと言う。さすがは文底読みの名手である。誰にもこうは読めまい。もちろん、これは完全なる意訳であるからして、経文の該当部分をベースにどれほど議論をしても納得できない人は出来ないだろう。まあ、しかし、日蓮正宗系の信者であれば、浅井流の表現方法に好悪の感情は懐くにせよ、いちおうは納得できる話だと思う。

以下、講演では順を追って、国位喪失・人心荒廃・天変地夭・他国侵逼と論を進めていくわけだが、わたくしは最初のところで躓いてしまった。

 この中の「国位を喪失する」とはどういうことかといえば
 国主がその地位を失うことです。日本は昭和二〇年に敗戦し、このとき昭和天皇は日本国の統治者としての地位を失って「象徴」になられた。これが国位喪失ということであります。


単純に言えば、象徴=国位喪失ということになるのだろうか?

すると浅井先生は今も国位喪失状態が続いていると考えていることになるが、わたくしはこれに反対である。もし象徴天皇制=国位喪失状態が事実ならば、日本は大昔から国位を喪失していることになるのだ。

 ちなみに、聖徳太子は事実上の天皇ですよ。

記憶に新しいはずだ。これは八月度総幹部会の会長講演である。天に二日なしの道理を知るならば、誰もがわかるだろう。聖徳太子が事実上の天皇ならば、当時の推古天皇は象徴天皇となる。

もちろん、浅井先生はそんなつもりで言ったわけではないのだろうが、しかし、道理の示すところは上述のごとくである。

平安時代は藤原氏による摂関政治が行なわれた。これも現代とは大幅に政治形態が異なるとは言え、象徴天皇制の一形態である。そして鎌倉以降はそれが顕著となる。何しろ天皇のまします京都とは遠く離れた鎌倉で行政が行なわれていたのである。江戸もまた同じである。ほぼ唯一の例外が建武の新政であるが、これはきわめて短期間で終わっている。

いわば、日本は古来より象徴天皇制を取っていたという解釈も十分に成り立つのである。

明治期にしても、同様だと思う。徳川幕府が倒れ、大政奉還がなされたとは言うものの、逆に議会制民主主義が始まったことにより、いわゆる純粋な意味での天皇親政とはならなかった。つまり、明治憲法下においても、象徴天皇制の雰囲気は十分にあったのだ。

生意気を言うようであるが、わたくしはこれを政治学だとか歴史学だとかの専門的知識から論じているわけではない。仏法の知見から言っているのだ。

至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時・・・

象徴という単語は昔からあった。しかし、これを天皇に当てはめた人はいなかった。おそらくは日本国憲法がその最初なのだろう。とは言え、そこで初めて生じた概念ではなかった。もともと存在した概念だった。それを今まで適切な表現でもって説明した人がいなかっただけの話なのだ。

以上、日本は古来より象徴天皇制だった。よって、現行憲法における象徴天皇の規定も日本古来からの踏襲であって、これがそのままイコールで国位喪失とはならない。

あとはいくつかピックアップして終わりにしたい。

 日恭上人はお人柄ではあられたが・・・

なかなか微妙な言い回しである。どうやらこの件は御大会式で詳述しているらしいので、ここでは省略したい。

 昭和天皇もお人柄はよかったが・・・

これまた微妙だ。

・・・神道を重んじ、自身は知らずとはいえ、軍部が大石寺に圧力を加えた。よって忽ちのうちに国位を喪失したのであります。

この因果関係については議論のあるところだと思うが、わたくしは特に何も言わないつもりだ。やはり国位喪失が疑問なのである。むしろ処刑されてしかるべきだった。しかし、そうはならなかった。その後も天皇の地位が守られ、長く生きられた。在位期間は長いほうだろう。

こうして見ると、浅井流の仏法史観はややコジツケの気味が感じられなくもない。誰もがその傾向にあるわけだが、やはりどうしても自説に都合よく解釈してしまうものなのだろう。

「今入りの弟子」

これがわからなかった。カギカッコをつけているのは何かの出典に基づくのかもしれないが、残念ながらわたくしにはまるで見当がつかない。ご存知の人がいれば、ぜひともご教示願いたいと思う。

2016/11/21

九州大会特集号に思うこと  
顕正新聞第1390号は「九州大会」特集号である。一面には舞台から会場全体を俯瞰した写真が載り、五面にはさまざまのショットが六枚ほど掲載されている。これらを見ればいかにも壮観であり、九州大会が大成功だったことを読者に印象付けることが出来る。これは確かに一面の真理なのだろう。

ただし、問題がないわけではない。

九州大会 赤誠の結集一万一千人

これが一面の大見出しだ。先ほども書いたように、写真を見る限りは満員であり、大結集だったことは事実なのだろう。これについて厳しい人は、会場の収容人数が八千人なので一万一千人はウソだ、と指摘する。まあ、しかし、わたくしはそこまで言うつもりはない。問題は応援部隊だろう。

地方大会はこの応援部隊によっていくらでも演出が可能なのである。

わたくし自身は直接的な証拠を握っているわけではないが、すでにネット上においてもさまざまの証言が出ているようである。当てずっぽうに言っても中国四国地方からの応援がたくさん行っているだろうし、関西方面からの応援も考えられる。すると、九州大会とは銘打っているものの、実質的な西日本大会となる。さらには関東方面からの応援もあったと囁かれている。

ここは難しいところで、まず本部が埼玉にある。ゆえに顕正会の主要幹部は必然的に関東圏に集中しているという事情がある。これを勘案すれば、彼らが九州入りするのは当たり前のことなのかもしれない。その場合、どの役職までが対象かが問われることになるだろう。例えば、まるで九州とは無縁の総班長・支隊長レベルの人が、いや、それよりももっと上の隊長・区長レベルの人が応援に行っているとしたら問題だと思う。大会の大成功を演出するのは結構だが、活動会員たちの経済的負担も相当にキツイだろう。

開会に先立って雷門会・冨士軍楽隊・芙蓉コーラスによる演奏がビデオで上映された。

一面の記事本文から引用したわけだが、これがまた悩ましい。うろ覚えであることをお断りしておくが、どなたかの証言によれば以前の大会においては彼らに交通費が支給されたという。当然、不公平感が拭えない。自腹を切って応援に行く人からすれば、大いに不満だろう。なるほど、そうした批判を避けるためにビデオ上映の形を取ったのかもしれない。

しかし、この件に関してはイジワルながらも二つほど指摘しておきたいことがある。

彼らの多くはしょせんアマチュアの演奏者である。一部、プロないしそれに準ずる人もいるが、大半が一般人である。普段は何かしらの職業に就いている。その合間に練習するのだ。しかもである。彼らは顕正会の活動会員なのである。つまり、仕事もしなければいけないし、折伏や結集などのいわゆる戦いも同時進行でやらないといけないのだ。その上で楽団の練習をするとなると、これはもう超ハードスケジュールである。

一点目の結論を書こう。

生演奏は怖い。失敗する可能性があるからだ。プロの演奏家だって常にそうした恐怖と戦っているわけであり、それゆえに一日にそれこそ十時間も練習するというような人がザラにいるのである。その意味でビデオは幸便である。撮り直しが出来るからだ。

二点目はもっとシンプルな話である。

九州大会に一万一千人が集まった。つまり、建前上にせよ、九州には顕正会の実働会員が一万人以上いるわけなのだろう。だったら九州の顕正会員だけで楽団を構成すればいいのだ。遠隔地からの出張だから旅費交通費の問題が起きるのである。地元の人たちでやれば何の問題もないだろう。

これまた結論はシンプルだ。顕正会の組織の脆弱さである。建前上の数字ほどには大きくない。人材もいない。悲しいけれども、これが顕正会の現実である。

しかし、我ながら思う。たった一行二行の記事からここまでボロクソなことを書く自分は、いったい何なのだと・・・

さて、次は会長講演である。

 いいですか。広宣流布はもう近いのです。

 さあ、広宣流布はもう近い。


御書の拝し方で、標・釈・結の三段というものがある。浅井先生の講演の全体的な構成も、大きく見ればこの三段で括ることが出来る。まさに上段が講演の最初のほうの発言であり、下段が最後の締め括りの一段の発言である。平たく言えば、最初に結論を述べてしまって、そのあとさまざまの説明を加えた上で、最後にもう一度結論を言うわけである。

しかし、いつも言っているように、広宣流布が本当に近いのかどうかはわからない。ましてや顕正会の実態を知れば知るほど、なおさら疑問なのである。

ただし、これまたいつものことながら、浅井先生の講演はそれなりに中身の濃いものであって、それ相応の説得力を持つのも事実である。また、毎回それなりに新情報が加味されるので、信じる信じないは別にしても情報源としては有益である。

自殺未遂が53万人

「引きこもり」は56万人


こういうのは憶えやすい。大雑把に五十万人ずつだと憶えておけば、話のタネには使えるだろう。

 七月に相模原の知的障害施設で、四五人を殺傷する事件がありましたね。元職員だった男がナイフを持って忍び込み、わずか五〇分の間に一九人を刺し殺し、二六人に重軽傷を負わせたという。戦後最大の殺人事件だったとのことです。

次から次へと事件が起きるので、われわれは感覚がマヒしているという面もあるし、記憶が薄れていくという必然的な面もある。それを思えば、浅井先生がこうして数か月遅れで事件の話を蒸し返すことは、ひじょうに意味のあることだ。これらの話の延長線上に、だから信心しなきゃダメなのだ、だから広宣流布しなきゃダメなのだ、という説得がある。もちろん、その説得に応じるかどうかは人それぞれだが、少なくとも情報源としては有益だろう。

 東日本大震災はマグニチュード9.0で観測史上の最大。また熊本大地震はマグニチュードは小さかったが震度は7と最大、しかも二度連発した。

さて、会長講演は、人心荒廃の次は天変地夭だとして、今度は地震の話題に転じている。日本は巨大地震連発の時代に突入したとして、上掲のごとく具体例を挙げている。その続きの文章が次である。

 この二つの大地震を皮切りとして、いよいよこれから首都圏大地震と南海トラフ巨大地震が遠からず起きる。

遠からず?

これが問題だ。首都圏直下と南海トラフは浅井先生が勝手に言っているわけではなく、多くの地震学者も言っていることなのだろう。しかし、わたくしがこれまで何度も言ってきたように、いつ起きるかはわからないのだ。その意味で遠からず云々は一種の予言である。

どうだろう、3.11が五年前のことだ。すると、向こう五年くらいの間に、大地震が襲ってくると考えるのが妥当だろうか?

地震についてはもう一つ、ややイチャモン的であるのを承知の上で、批判しておきたいと思う。

阪神淡路大震災の存在である。

浅井先生は3.11と熊本地震とを「この二つの大地震」と言っているが、何となく場当たり的な感じが否めないのだ。熊本のそれは地震の規模に比して人的被害が小さかった。まるで3.11の比ではない。その意味ではむしろ阪神大震災のほうが注目に値するだろう。

いずれにしても浅井先生の描くシナリオ的には、日本が壊滅的打撃を受けるような巨大地震が早く起きてくれないと困るのだろう。それを期待するのもおかしな話だが、ともかく顕正会的にはそういうシナリオなのである。しかし、もしそのような大地震が起こったとしても、それで顕正会の弘通が飛躍的に伸びることはない。酷なようだが、それが客観的な見方だと思う。

相変わらず話が長いなあ・・・

会長講演についてはもう少し書きたいことがあるので、次回はそれを書くつもりである。しかし、自分はいったい何をやっているのだろうかと、そんな思いに駆られる今日この頃である。

2016/11/19

広宣流布特集号4拾い読み  
沖浦氏からは毎日コンスタントにコメントが寄せられているが、前回の宣言通りに氏との議論はいったん休止にして、今日は顕正新聞第1389号を取り上げたい。広宣流布特集号4だ。

広宣流布は甚だ近い、他国来難刻々迫る
 「日蓮大聖人の金光明経」今の日本を映す
  異次元緩和が日銀破綻と国家破産を


本特集号は九月度総幹部会の記事を中心に組まれていて、上掲はその時の会長講演の見出しである。時間は約三十分とのことで、いつもよりは少しコンパクトな印象だ。結局はネタ切れなのだろう。特集号とは銘打つものの、内容的には同じことの繰り返しであり、やや惰性的な感じがしないでもない。はたしてこの手がいつまで通用するのか、ミモノではある。

まず、見出しの「日蓮大聖人の金光明経」についてコメントすれば、さすがは文底読みの名手である、ということだ。

 いいですか。金光明経は釈尊の説いた経文ではあるが、大聖人様が用い給うときには、日蓮大聖人の金光明経になるのです。

当然、他宗他門には通用しない話だろう。しかし、わたくし的には特に異論はない。

次に日銀破綻について書いておこう。浅井先生はその時期を次のごとく言う。

 多くのエコノミストは、「早ければ二〇一七年、遅くともオリンピックの年の前後」との見解を述べております。

先生お得意の予言であるが、しかし、ここではエコノミストとやらの見解を紹介する形を取っているところが、いかにもイヤらしく感じる。

それにしても大変なことだ。

われわれ凡人には未来のことはわからない。遠い未来はもちろんのこと、極論すれば明日のこともわからない、それが凡夫である。しかもである。どれほど人生経験豊富な人であっても、滅多に経験できない事象というものがある。大地震や大津波がそれだ。あるいは日本においては戦争も同様である。すでに七十年以上も戦争のない状態が続いている。国家破産もそれらと同類項だろう。ゆえに実感が持てないのだ。

このいわゆる平和ボケした日本人に対して、警鐘を鳴らしている意味において、浅井先生の存在はそれなりの意義を有する。しかし、今までが悪かった。予言めいたことをたくさん言ってきたものの、そのほぼすべてが外れてしまっているのだ。これでは信用されないだろう。

ちなみにエコノミストの見解については、正反対の主張をしている人も少なくない。これも重要なところで、ようは自分に都合のいい文証ばかりを集めているような、まるで誰かみたいなことをやっているフシがなきにしもあらずなのである。

もちろん、どちらに転ぶかはわからないわけで、日銀破綻が現実となることもわれわれは覚悟しておく必要があるだろう。もっとも何をどうすればいいのか、それが問題なのだが・・・

さて、細かく取り上げていくとキリがないので、会長講演についてはもう一点だけ取り上げて終わりたい。

 九月二六日現在、すでに誓願二万六千の五七%に達している・・・

わたくしはこれが物凄く気になった。会長自らがパーセンテージを云々するのはいかがなものかと思うのだ。まるで営業ノルマの到達率を彷彿させるからである。
実際、活動報告などで幹部たちが頻繁に使っている。彼らはいわば中間管理職みたいな立場であって、なるほど、自らも現場で戦っているし、かつまた後輩の尻を叩く意味で数字を云々するのは致し方のないところだろう。
しかし、会長自らがそうした細々とした数字を云々するのは、あまり印象がよろしくない。何しろ特集号として一般人にも広く配布するつもりなのだから、その点は気をつけたほうがいいはずだ。

ゆえに、もし上掲のようなことを言いたいのならば、すでに目標の半分を超えた・・・みたいな、ようは大雑把な表現にとどめるべきである。

「モンゴル全体集会」95名熱烈参加
 モンゴルの同志の健気に胸打たれる


女子部総務の活動報告は、モンゴルの地においても顕正会の悪しき体質が如実にあらわれていることを教えてくれている。まず上掲の九十五名を念頭に入れていただきたい。その上で次の一文をご覧になればよくわかるはずだ。

入信者はすでに一千五百名を超えており・・・

困ったものだ。仮に百五十名の結集がなされれば一割、三百名ならば二割となる。しかし、日本国内の顕正会の実態を見ればわかるごとく、一度取りこぼせば挽回は不可能だろう。あとはズルズルと悪い方向へと進む一方である。

馬を走らせ入信勤行に向う組長・・・

このあたりは楽しい記述である。文字通り牧歌的とでも表現すべきだろうか?

次も九月度総幹部会での活動報告であるが、登壇者は女子部第百五十九区の総班長、モンゴルで自宅拠点を構えている人だ。

 組長は、病気で苦しんでいる人に「いちばんの薬はお題目です」と勧めており、患者の中には「その薬、どこの薬屋にありますか?」と尋ねる人もあるそうです。

実に牧歌的だ。しかし、この話はそんなナマヤサシイ話ではない。上掲の一つ前の文章を紹介しよう。

・・・組長は、医師として勤務する病院で、入院してくる患者たちを次々と折伏し、毎法戦十名から二十名の弘通を成しております。

ナマヤサシイ話ではないと書いた。逆にひじょうにナヤマシイ話である。もしこれが日本だったらどうかということだ。おそらくは大問題になるだろう。勤務医と書かれているので、これが日本だったらクビになってもおかしくはない。

法律的な話はわからないけれども、医療行為と宗教行為を混同してはいけないだろう。病気で苦しんでいる人に対して、医師は医師として最善の治療を施すべきなのだ。

弁護士となって広宣流布のお役に…
 司法試験に合格!学費も全額免除

「王仏冥合」の憲法改正のお手伝いを


具体的な内容は紹介しないが、この男子部第七十八隊支隊副長の体験発表は素晴らしい。両親共に顕正会員だという。こういう好青年がたくさん出てくれば顕正会も捨てたもんじゃない。

わたくしが気になったのは、あれ? 顕正会弁護士第一号の某氏はどうなったのかな? 最近、まったく見ないけど、大丈夫かな? ということだ。

もっとも、このところ逮捕事件も起きていないし、出番がないだけなのかもしれないが・・・

それから芙蓉茶寮のスイーツがベラボウにうまそうだ。記事はわたくしにとって馴染みのないカタカナ語ばかりで難解だが、見るからにうまそうな写真が並んでいるし、担当者三人揃い踏みの写真も実に清々しく、好感が持てるものだった。

2016/11/13

シロアリ撃退  
ひじょうに面倒臭い議論であるが、もう少し続けてみようかと思う。

まず沖浦氏に言っておきたいのは、勝氏への返信があまりにもゾンザイ過ぎることだ。まるで壊れたテープレコーダーみたいに、同じことを繰り返し書いている。こんな失礼な話もないだろう。

勝氏の論述は理路整然としていて、わかりやすい。ことに昨夕のコメントは懇切丁寧であり、誰が読んでも理解できる内容だった。

いや、もちろん、反対意見があってもいい。

しかし、沖浦氏のそれは反対意見などというシロモノではなく、ただの手抜きのコピペに過ぎない。これでは勝氏もガッカリだろう。やる気が失せるというものだ。

では、本題に入ろう。

 少し冷静になって下さいませ。
 御書に整合性を求めても無理です。


これはまた思い切ったことを言うものである。すでにこの時点で沖浦氏の論理は破綻している。しかし、本人は気がついていないのだろう。

わたくしは沖浦氏の読み方では開目抄と本尊抄が整合しないと言っているのだ。逆に言うと両抄を整合させる読み方があると言っているのである。しかるに沖浦氏は上掲のごとく言う。つまりは大聖人を侮っているのだ。自説を正当化せんがために、大聖人の仰せを都合よく捻じ曲げているのである。本末転倒も甚だしいだろう。

 『月月日日につより給へすこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし。』
 (聖人御難事)

 『摩訶止観第五に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る」文、』
 (種種御振舞御書)

 最初は、毎日毎日信心を強くしなさい、出ないと魔が競いますよ。

 次は、信心が強くなてって来ると魔が競いますよ。

 整合性は何処にありますか?


こういう具体例を出されると納得してしまう人もいるかもしれないが、しかし、いかがなものかと思う。そもそも上掲の二文は矛盾しているのだろうか?

わたくしはそうでもないと思う。たぶん勝氏レベルであれば、いとも簡単に整合性の高い説明を考え出すに違いない。

しかし、問題はそこではない。

すでに前段で述べた通り、沖浦氏の主張はとっくの昔に破綻しているのである。大聖人の御書には矛盾・不整合がある。それは事実だろう。しかし、それをどのように整合させるかを考えるべきなのだ。そうでなければ大聖人の仏法は矛盾だらけの支離滅裂の教義となってしまう。そんなものは信ずるに値しないだろう。

ところが沖浦氏は自説に固執するあまり、大聖人の仏法を矛盾だらけの支離滅裂の教義だと言ってしまっているのである。繰り返し言うが、これほどの本末転倒もめずらしい。

 対機説法なんです。
 それがわからないと御書は読み取れません。


当たり前の話である。

つまり、相手の機根に合わせて法を説くと、対告衆ごとに言っている内容が違ってくる。それが一見すると矛盾ないし不整合のように思える。しかし、そうした事情を知った上ならば、善意に解釈することが出来る。言い方を変えれば、矛盾・不整合について説明がつくわけである。

よって沖浦氏は開目抄と本尊抄についての不整合を合理的に説明しなければいけない。それを御書に整合性を求めても無理などと言い放つのは、まるで信心のない人間のすることである。

 『今末法に入りぬりば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし、かう申し出だして候もわたくしの計にはあらず、釈迦多宝十方の諸仏地涌千界の御計なり、此の南無妙法蓮華経に余事をまじへばゆゆしきひが事なり、日出でぬればとほしびせんなし雨のふるに露なにのせんかあるべき、嬰児に乳より外のものをやしなうべきか、良薬に又薬を加えぬる事なし。』
 (上野殿御返事)

 貴方方は方便品、寿量品よむでしょう?

 何故南無妙法蓮華経に余経を交えますか?


これは先般の観心本尊得意抄の議論で結論が出ていることである。

但し権教に於ても成仏得道の外は説相空しかるべからず・・・

沖浦氏はこれを誤読して、爾前経にも功徳があると主張した。ゆえにわたくしは全体の文意の上から、さらには諸御書を引用して、氏の誤りを指摘した。

ここでは不勉強の人のために、新たに一文を引用しておこう。

教信の御房、観心本尊抄の「未得」等の文字に付いて迹門をよまじと疑心の候なる事、不相伝の僻見にて候か。

後年、富士の一門においても方便品の読不読の議論があったらしいが、まさに不相伝の僻見である。同様に、沖浦氏の主張は不相伝の僻見そのものであって、かつまた所属組織との不整合も甚だしいところである。現在の創価学会はいわゆる五座三座こそしないものの、未だに方便寿量を読んでいるのではなかったか?

だから沖浦氏は創価学会員からも攻撃されるのである。

以下は正宗教学の内部規定と言われればそれまでかもしれないが、ようするに余経も法華経も詮無しの法華経とは文上脱益のそれを意味するのであって文底下種のそれではない、こう解釈すれば何の矛盾もないことになるのだ。さすがに御相伝書を抜きにしてこれを論証することは相当の困難を極めるが、少なくとも上掲の得意抄の一文がそのヒントとなることは間違いないだろう。

まだ議論の余地はあるけれども、沖浦氏との議論はこれで一区切りとしたい。

2016/11/11

シロアリ駆除  
前回、御書を引きつつ沖浦氏の間違いを指摘した。しかし、いつものことながら沖浦氏は自身の間違いを容易には認めない。相変わらずの困った人である。

この際、過去の沖浦氏の発言を拾って、氏の間違いを明確にしておきたいと思う。

 成仏は法華に限りません。
 効率が異なりますが、他の宗教でも得道致します。
 これも御書にあります。

 『其の上仏教已前は漢土の道士月支の外道儒教四韋陀等を以て縁と為して正見に入る者之れ有り、』
 (如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

 外道でも成仏する人がいた。
 書いてあるでしょう。
 その代表が釈尊です。
 釈尊は仏教依然に修行をされました。
 釈迦が悟った時まだ仏教はなかったのです。
 この事実からスタートしないなら、仏法はわかりませんよ。


前回の拙稿を読めば、これがとんでもない間違いであることに気がつくはずである。なぜならば開目抄には次のごとく認められているからだ。

しかれども外道の法九十五種、善悪につけて一人も生死をはなれず。

ゆえにこの場合の正見は成仏の意味ではなく、せいぜいが仏法の初門レベルの悟りを意味するのだろう。もし違うと言うのであれば、開目抄との整合性を考えた上で自説の正当性を主張すべきである。沖浦氏はこの点を無視して、自分に都合のいいように御文を引用しているだけなのだ。これではまともな議論とは言えないだろう。

さて、次は行き掛かり上、取り上げておく必要がありそうだ。

2016/11/5 12:43
投稿者:へな
>九州地震で傾いてしまった家が、今度の大型台風で元通りに戻った体験談。

>功徳話というよりも、まるで冗談みたいな話!

※その体験談を知らないので的外れだったらすみません。ですが、見過ごす事が出来なかったのでコメントします。

地震で家が傾いてしまうという事自体、大変な事です。
それが大型台風とはいえ風の力で家の傾きが元に戻るなんて家の基礎や地盤がどうなってるのか・・・
非常に危険な状況ではないでしょうか。

冗談なら良いですが、本当の話だったら全然功徳では無く、その家に何もせず住み続けているとした場合、体験者は状況判断力が著しく低下した危険な状態に陥っていると思います。


これはまったくおっしゃる通りであり、むしろ顕正会員の馬鹿さ加減をよくあらわしている話だと思う。

次に地震が来たらどうなるか、次に台風が来たらどうなるか、である。あるいは自然倒壊の危険性もあるだろう。建物はいずれ老朽化する。つまり、いずれは朽ち果てるのだ。専門的には耐用年数のことだが、これは常識的に考えればわかるだろう。ようは何事も起こらず、通常範囲の風雨にさらされるくらいの想定で、何年保つかを言っているのだ。ゆえに大地震だとか大型台風が連発するような状況になれば、自ずと耐用年数も短くなるのが道理である。さて、そうすると、くだんの話はどのように解釈すべきだろうか?

極端な例を言うと、ボクシングで致命的なパンチを受けてダウン寸前のところに、さらにもう一発強力なパンチを受けた状態かもしれないのだ。倒れ掛かったところを、あえて逆側からもう一発打ち込む。すると一瞬は直立状態になる。しかし、すでにその人は事実上のダウン状態なのだ。

これがくだんの家屋の状態だとすると、次は小さな地震でも小さな台風でも倒壊するかもしれないし、自然倒壊の危険もある。

もっとも、へな氏も断っているように、詳しい事情はわからない。ゆえに、勝手な想像を交えて書いているわけだが、ここで希望的観測を込めて書くと、傾いた家が元に戻った段階で耐震補強工事を施せば大いに結構な話と言えるだろう。そこが問題で、もしそのまま何もせずに住み続けているとしたら、危険である。ぜひとも忠告してあげてほしいものだ。

ところで、拙ブログのコメント欄もだいぶ静かになってきた。

思えば、秋も深まり、そろそろ初冬の季節である。シロアリも寒くなると不活発になるのかもしれない。

かく言うわたくしも今月は低調である。

2016/11/5

シロアリ退治  
早朝、沖浦氏から二つほどのコメントが寄せられた。わたくしはシメシメと思った。ツッコミどころを見つけたからだ。すると先ほど、もう一つコメントが寄せられた。さすがに気がついたようである。

 地涌の菩薩が末法において「折伏」を行ずる時には、「賢王」すなわち在家の賢明なる指導者となって、荒れ狂う激動の社会に出現するのだ。

これが最初の投稿である。そして一時間半後には次のように書いている。

 摂受をするのは僧侶だと書かれてあるので、在家は折伏しか出来ない。

 原理主義者の方々は必ずこう云うでしょうね。
 これは間違いです。
 世が治まった時には、私どもは社会の規律をキチンと守り僧侶の様に自律する必要がある。
 この様に拝すれば良いのです。


何たるご都合主義かと思う。

まあ、しかし、沖浦氏がそうやって自説の整合性を気に掛けていることは、よいことだ。これならば議論の甲斐がある。いずれは間違いに気がつく時が来るかもしれないので、こちらもサジを投げずに書き続けようかと思える。

但し権教に於いても成仏得道の外は説相空しかるべからず・・・

沖浦氏の圧倒的な執筆量に負けて、議論が少しずつ流動化しているけれども、話を戻したい。つまり、他宗にも功徳があるのかどうか、である。上掲は沖浦氏が提示してきた文証なのだが、はたしてこれが正解なのだろうか?

答えは否である。

・・・法華の為の網目なるが故に。

沖浦氏の引用はいわゆる切り文である。そもそもが当該御書の大意がわかっていない。観心本尊得意抄は題名が示す通り、本尊抄の拝し方を御教示あそばすものである。ようは法華経の迹門を読むかどうかが第一の論題なのである。

そして次に上掲の論題が来るのだ。

大聖人は立正安国論において爾前経をたくさん引用あそばしている。これは自己矛盾ではないのか、爾前不得道を主張しながらそれを肯定引用するのはずいぶんムシのいい話ではないか、という批判が外部から寄せられたので、どのように応じたらよいのかを富木殿が質問したわけである。それに対する回答が当該御文である。

つまり、法華経と爾前経は大綱と網目の関係にあるわけで、ズルイようだが法華経のために爾前経を引用するのは許されるのである。さりとて爾前経に功徳があることにはならない。むしろ法華経に功徳があることを証明するため補助、いわゆる助証となるのだ。

沖浦氏ほどの人物がこれを知らないわけがない。いい加減、正直になるべきだろう。

類文はいくらでもある。さしあたって思いつくところでは、撰時抄の次のくだりがよいのではないかと思う。

彼の大集経は仏説の中の権大乗ぞかし。生死をはなるゝ道には、法華経の結縁なき者のためには未顕真実なれども、六道・四生・三世の事を記し給ひけるは寸分もたがわざりけるにや。

同じく撰時抄に、やや切り文ではあるものの、次のような御文があることも踏まえておきたい。

破すべきをばこれをはし、取るべきをば此を用ふ。

つまり、爾前経に功徳はない。しかし、使える部分は使うのだ。

文は他経に有りと雖も、下文顕はれ已はれば通じて引用することを得るなり。(当体義抄)

爾前の経々をひき、乃至外典を用ひて候も爾前・外典の心にはあらず。文をばかれども義をばけづりすてたるなり。(十章抄)


これにて一件落着だ。

其の上仏教已前は漢土の道士・月支の外道は、儒教・四葦陀等を以て縁と為して正見に入る者之有り。

これは難問である。まず正見をどのように解するかが問題で、もしこれを成仏と同義だとすると大変なことになる。もっとも今の段階ではどうでもいい話・・・と言ったら語弊があるが、少なくとも仏教已前の話なので今は通用しないと考えるのが妥当だろう。

但し此の大法弘まり給ふならば、爾前・迹門の経教は一分も益なかるべし。

先日も引用したが、まさか外道は例外などとは言うまい。ちなみに沖浦氏はこの御文を受けて、まだ大法が弘まっていないから爾前経にも功徳がある、などと言っていたけれども、それは見え透いたヘリクツである。いずれにしても爾前迹門すら功徳がないのだから、いわんや外道をやであろう。

さて、前掲の本尊抄を難問だと書いた。なぜならば他の御書との整合性が難しいからだ。

しかれども外道の法九十五種、善悪につけて一人も生死をはなれず。

なんと上掲は開目抄の一節である。佐渡期における二大法門書である本尊抄と開目抄が矛盾するとしたら大事件だ。ゆえに沖浦氏はこの矛盾を解消しなければならない。

現時点でのわたくしの結論は同じく開目抄に答えがある。

外典を仏法の初門となせしこれなり。

外道の所詮は内道に入る即ち最要なり。


これに即して本尊抄の御文を考えるべきだろう。仏教が弘まる前の漢土や月支の人たちは、儒教や外道の法で成仏したわけではない。この場合の正見はイコール成仏ではないのだ。おそらくはその遥か手前の段階なのだろう。つまり、仏法の初門レベルということだ。

これも一件落着だ。

 少し冷静に考えて下さい。
 
 我本行菩薩道。

 これは久遠実成以前に菩薩の道を行じ仏となった。
 
 こう云う意味です。
 釈迦がインドに生まれてその本の菩薩の道を行じたと書いてあるのではないのです。


これについては書きたいことが山ほどあって大変だ。しかし、面倒臭いので今日のところは簡単に片付けてしまおう。

妙法蓮華経皆是真実

いわゆる種脱相対の上から論ずる時、余経も法華経も詮無しとなるわけだが、基本的には法華最勝が大聖人の御主張である。その法華経の本門における肝要となるべき法門が、いわゆる久遠実成なのである。

それをである。沖浦氏は単なるオトギバナシであると言っていることになるのだ。

そろそろ自己矛盾に気がつかないといけないだろう。沖浦氏は自説を何が何でも正当化しようとして、結果的に大聖人の仏法そのものを否定するような愚を犯しているのだ。例えば三大秘法抄には二千余年の当初に釈尊より直々の相承を受けたと認められている。これも沖浦氏にとってはオトギバナシなのだろう。

善意に解釈すれば、沖浦氏は沖浦氏なりに大聖人の仏法を現代的に昇華しようと試みているのだと思われる。けれども大聖人の御考えを捻じ曲げてしまっては、本末転倒だろう。


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