2016/12/31

年末合併号の続き  
大沢氏からは資料のご紹介をたまわったわけだが、その意図については不明である。おそらくは弘経でも弘教でも大差なく問題ない、ということなのだろう。わたくしもそれについては特にコダワリがあるわけではなく、ようは浅井先生のコダワリを咎めている意味があるのだ。何しろ初めてと始めての問題がある。つまり、通常は初めてと書くべきはずのところを始めてと書く、それが浅井先生のコダワリである。だったら弘経も同じだろう。日興上人や日目上人が弘経と認められているのであれば、それに倣うのが浅井先生のコダワリのはずなのだ。その意味で、従来は弘教と書いていたものを弘経に改めたのは大いに結構であると、前回書いたわけである。

さて、今日は予定通り続きを書こう。

事実上の国主

真の国主


これはコダワリとかの問題ではなく、いわゆる国主論の重要なキーワードである。浅井先生は国主に二意があるとして、今回の目師会においても上掲のような分類を行なっているわけだ。これは国立戒壇の議論の時に、今は主権在民だから天皇は関係ない、というような意味の主張を創価学会側がしていたのに対して、先生は事実上の国主と真の国主という概念を持ち出して反論したわけである。つまり、民衆の一人ひとりが国主であるというのは間違いである、なぜならば今も現実に権力者が存在する、総理大臣がそれだろう、それこそが今日における事実上の国主と考えられる、しかし、さらにその上位概念が存在する、すなわちそれが天皇であり、天皇こそが真の国主であると。今は当てずっぽうに書いたのでかなり乱暴な説明になってしまったが、おおむね上述が顕正会側の主張である。

事実上の天皇

ご記憶の人も多いだろう。これは少し前に浅井先生が言っていたことである。すなわち聖徳太子は事実上の天皇であると。

ややこしい話で恐縮だが、聖徳太子が事実上の天皇だとすると、当時の天皇は何になるのかが問題である。わたくしは象徴天皇だろうと前に書いた。そこに浅井先生の国主二意論を加味させると、天皇=真の国主=象徴天皇となると思う。では、聖徳太子はどうなるかであるが、聖徳太子=事実上の国主=事実上の天皇となるだろう。

仏法と皇室の関係

本年の目師会では上掲の見出しを付けて、文字通り仏法と皇室の関係について、かなり突っ込んだ説明をしている。目師の御出現については前々から繰り返し言っているけれども、日興上人の御出現についてはこれまであまり語ったことがないように思う。すなわち日興上人は本化国主として皇室の中に御出現になるという。説明そのものは必ずしも十全とは言えないが、その前提となるべき話として、そもそも皇室が仏法とは浅からぬ因縁を持っていることはそれなりに説明が出来ているように思う。

次の釈迦御所領御書はわたくしのチョイスであるが、当然、御書に精通している浅井先生ならば知っているだろう。

又此の南閻浮提の内の大日本国をば、尸那国の南岳大師此の国の上宮太子と生まれて、この国の主となり給ひき。しかれば聖徳太子已後の諸王は皆南岳大師の末葉なり。桓武天王已下の諸王は又山王

残念ながら当該御書は断簡であり、この続きの御文が不明となっている。ゆえに安易な結論は控えねばならないものの、皇室と仏法との関係を濃厚に伝えている意味では反論の余地はあるまい。これを創価学会系の人たちがどのように考えるのか、興味深いところではある。

 本年八月八日、天皇の「お気持ち」として、直接、国民に語りかけられたお言葉がありました。

おっ、やっと言及する気になったか。

・・・その中に
 「この国の象徴として、国民のことを思い、常に祈りをしております」
 との「お言葉」がありましたが、私はこれを見たとき思った。
 「三大秘法を以て祈らなくては、国民の祈りにならない」と。そのような祈りは虚しい。正しい仏法を用いて祈らなければ、国のため、民のためにはならないのです。


おいおい、そっちかよ。

巷間、くだんのお言葉は生前退位の意向を示すものだと解釈されているし、事実、皇室関係者もそれを否定はしていないはずである。ゆえに国民的議論となったわけだ。しかるに浅井先生はこれにまったく言及していない。おかしな話である。

わたくしの勝手な想像を書こう。

浅井先生は天皇陛下と同年代である。ゆえに陛下の退位を云々しようものならば、オマエはどうするつもりなのか、このまま引退しないでずっと続けるつもりなのか、というような疑問が噴出してくることになる。ネット上のクチの悪い批判者たちはもちろん取り上げるだろうし、おそらくは口にしないものの、活動会員たちの中からも同様の疑問が湧いてくるはずなのである。ゆえに浅井先生としても、ひじょうに言及しづらい話題なのだと思われる。

 日目上人は奥州三の迫(現在の宮城県登米市)の領主・新田五郎重綱を父とし、上野殿の姉の蓮阿尼を母として、伊豆の国畠郷に御出生された。

最後にマメ知識を書いて終わろう。

登米市は(とめし)であり、登米町は(とよままち)と読む。トメとトヨマ、同じ地域なのに読み方が異なる。面白いというか不思議な話であるが、興味のある人は調べてみるといいだろう。そもそも地名は難読のものが多い。とは言え、同一地域で読み方が異なるのはかなりめずらしいケースだ。

2016/12/27

年末合併号を読んで  
ボヤボヤしていて年を越してしまうところだったが、どうにか間に合って今日は年末合併号の話題が書けそうである。顕正新聞第1395号のメイン記事は目師会における会長講演だ。

 本化国主御出現の前に、一閻浮提の座主御出現の前に、どうしてもその序分として、六千万の地涌出現がなければならない。

いきなり文末からの引用である。これはほとんどアゲアシ取りの範疇だとは思うものの、いちおう指摘しておきたい事案である。浅井先生はついこの前、今入りの弟子を云々していた。ようするに六千万以降の入信者は今入りの弟子だと。ならば上掲はおかしいだろう。本化国主や一閻浮提の座主が今入りの弟子になってしまうからである。

ゆえに善意に解釈すれば、本化国主も一閻浮提の座主もすでにいらっしゃる、何しろ広宣流布のゴールが近いわけだから、まだ御生まれにもなっていないとすると顕正会のタイムスケジュールに合致しないことになる、よって今現在すでにどこかにいらっしゃるわけだが、この二人の御立場が確定・明確化するのは六千万の暁である、ということになるだろう。

ただし、これも捕らぬ狸の皮算用である。

なぜならば六千万自体がいつ実現するかわからないからである。今のペースだと百年後かもしれないのだ。すると、今の段階で二人がこの世に存在すると困ることになる。六千万の時には百何十歳というギネス級の高齢者になってしまうからだ。

さて、次のアゲアシ取りは現代国語の問題である。

・・・日興上人に初めて値い奉ったのであります。

・・・始めて大聖人様の御目通りを頂いたのです。


初めてと始めて、この使い分けには法則性があるのだろうか?

ちなみに、拙ブログでは今まで顕正会用語と思しき語彙をたくさん紹介してきたが、たぶん一度も触れたことがない言葉がある。

値う、お値いする、値い奉る

これだ。これが不思議なほど顕正会の中では当たり前のように使われている。しかし、パソコンでは変換できないし、一般的な国語辞典にも出ていない。では、なぜに顕正会の中で使われているのか?

それは浅井先生が好んで使うからであり、おそらく浅井先生は大聖人の御表現を踏襲しているのだろう。具体的な御文については省略させていただき、話を進めよう。

三時弘教次第 三時弘経次第

浅井先生は長らく前者の表記を使っていたのだが、今回は全面的に後者の表記に改めたようである。実はこの表記の問題も拙ブログで指摘済みのことだった。してみると、あるいは顕正会首脳部の誰かが拙ブログを参考にして、浅井先生に進言したのかもしれない。ひじょうによいことだ。

 さて、大聖人様は御入滅前年の弘安四年、京都の天皇に始めて申状をお認めあそばされた。

まず、不勉強であることをお断りしておこう。その上で思うところを述べるわけだが、上掲は史実としてどれほどの確実性があるのだろうか?

 大聖人様は、この申状奏上の大事を日興上人に附し、日目上人を代官として弘安四年に朝廷に奏上せしめられた。

先ほど、史実としてどうなのかと疑問を呈した。なぜならば御書にその記述がないからである。ともかく話を進めよう。少し本文を飛ばし気味であるが、続きをご覧に入れたい。

 思うに、園城寺にもまじめな学者がいたのでしょう。彼らは大聖人様の「申状」と添附された「三時弘経次第」を拝見して「時宜に適せり」と賞賛したのです。
 ここに後宇多天皇は深く感ぜられ、「下し文」を賜った。その「下し文」には
 「朕、他日法華を持たば、必ず富士山麓に求めん」
 とあった。


ようするに天皇には判断力がない。専門的知識がない。ゆえに大聖人の申状を読んでもわからない。そこで園城寺の碩学に判断させたわけだ。その結果がご覧のくだりである。

わたくしは上掲のくだりを読んで、あれれ? と思った。さらに次の文章の直前に掲げられた小見出しを見て、ぶったまげた。

「三時弘経次第」
     を拝見か


日目上人の申状にはいわば添付資料として安国論と日興上人の申状、そして三時弘経次第が添えられている。従来、浅井先生はこの三時弘経次第を日興上人の作だと考えていたはずである。しかし、今回はそれを改めて、大聖人作と見なしているごとくなのだ。あるいは作られたのはあくまで日興上人だが、しかし、それは大聖人御在世中のことであり、ようは大聖人の了解を得て作られたと考えているのかもしれない。続きの文章をご覧に入れよう。

 いいですか。「富士山麓」とありますね。
 なぜ「下し文」の中に「富士山麓」の文言があるのか。
 推量するに、申状に添えられた「三時弘経次第」に、「像法の迹門の寺・比叡山」と対比して、「末法の本門の寺・富士山」とあるを拝したゆえと思われる。


こう言ったら不真面目に聞こえるかもしれないが、上掲は物凄く知的好奇心をくすぐる内容である。ただし、おそらく学問的にはかなり乱暴というか、荒い考察なのだろう。最初に疑問を呈したように、この話の一部始終がいわば伝説的であり、確実性の低い資料の寄せ集めのような印象が拭えない。その上での推論なのだから、ますます確実性が下がることになるだろう。

最後にオマケを紹介しておこう。

(「御下文」とは、弘安五年、大聖人が日興上人に命じ日目師を代官として、当時の御宇多天皇に天奏したおりに、天皇が伝奏に命じて、この申し状・立正安国論や三時弘教次第などを園城寺の碩学に見せ検討させたところ、今の時に適切な内容である。と賞賛された。この時、天皇大いに大聖人の立正安国の赤誠の御心を嘉され、
「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」と下賜された文書のことである。
しかし、これは程なくして紛失してしまう。)


http://toyoda.tv/kaidan6.htm

なんとこれはあの樋田昌志氏の文章である。彼は今、顕正会にとってはもっとも疎ましい存在であるが、ご覧のごとくこの件に関しては同一見解である。しかも三時弘教次第と表記している点が、かつての浅井先生と同じなのだから、実に面白い。

以上、今回の浅井先生の講演はわたくし的にはひじょうに面白かった。次回も少し補足的に書くかもしれない。

2016/12/23

記事拾い読み  
顕正新聞第1394号の続きを見ていこう。

 明年以降も、基礎教学書の広告が一般紙等に大々的に掲載されることになっており、その費用も膨大となります。

理事の発言である。ようは広布御供養の推進理由の一つとして膨大なる広告費を挙げているわけだ。会館の数もすでに五十を超えているとのことで、その維持費とともにさらに新規会館の建設費も必要である。だから頑張って供養せよと言っているわけだ。いや、もちろん、そのようなブシツケな表現はどこにもないが、それは前回示した会長発言とオアイコということである。

教学試験の大綱も発表になった。登用・四級・三級の三種目である。五級がないのが問題だ。ようするに前回の登用試験に合格した人たちが五級を受けるわけだが、その試験が行なわれないのである。するとその人たちは一年間お休みでよいのだろうか? まったくおかしな話である。

 星霜六〇年、先生の激闘のすべてが大聖人様の「常住此説法」であることを・・・

この男子部第十六隊長の発言も凄まじいが、次の婦人部総務の発言も相当だ。

 すべてを知り奉られる先生の仏法上のお立場に・・・

奉り過ぎだ。

日興上人への御付嘱の延長線上である末法濁悪の未来に、浅井先生が召し出されたことも仏力によるもの・・・

第二十四婦人部長の発言も凄まじい。これら三つは、もはや顕正会が日蓮正宗を無視し、自分たちこそが正統派であると言っているに等しいだろう。その根拠として、浅井先生がいかに特別の存在であるかを強調しているわけである。わたくしから見れば、いかにも教祖っぽい。

さらに第十八男子部長の記事から要約して引用すると、次のような発言もある。

浅井先生のお言葉は大聖人様の御憤りそのものである。

こうなると会長本仏論である。ちなみに同記事の次の一行がやや問題である。

 過日の総幹部会において・・・

当該号は十一月度総幹部会の記事を中心に組まれている。すると上掲はそれを言っているのだろうと錯覚する。しかし、彼が言っているのは十月度総幹部会のことなのだ。編集部はこういうところにも気を配れるようになるべきだろう。

識者たちも指摘「第三次大戦は近い」
 先生は34年前から「核使用大戦」ご断言


男子部第七十隊総支隊長補の記事に付された見出しである。この人は元幹部自衛官であり、かつては第二隊長として活躍していたのだと記憶するが、今回の記事はずいぶん危ない橋を渡っているような印象がある。

 浅井先生は、今から三四年前の昭和五七年に開催された第一回武道館大総会において
 「早く広宣流布しなければ、核戦争によって人類は絶滅する」とすでに叫んでおられた・・・


これはマズイだろう。都合の悪い部分をうまく切り取った上で、引用しているところがひじょうに問題だと思う。これを本人はどう思っているのだろうか?
つまり、あと二十五年で広宣流布しなければ、という部分を、早く広宣流布しなければ、と書き換えているのだ。大胆にも登壇者はいわばホオカムリをして何食わぬ顔で引用しているわけである。
年数は大した問題ではないという意見もあるだろう。わたくしもそれはそうかもしれないと思う。大きな流れとして、核戦争による人類滅亡の危機が迫っているのは事実だからである。
ただし、浅井先生の大言壮語の数々を知れば、結局はダメなのだと思う。大地震しかり、経済崩壊しかりである。

さて、次は原発関係の話題であるが、第三十七隊総支隊長補の言っている意味がわたくしにはよくわからない。

島根原発では原子炉内タービンを冷却した水を安全と謳って日本海に垂れ流している・・・

これが本当だったら大問題だろう。ようは汚染水を垂れ流していることになるからだ。ゆえにおそらくは二次冷却水のことを言っているのだと思うが、それならばすべての原発がやっていることであって、基本的には何の問題もないはずである。たまに問題となるのが一次冷却水の漏洩であり、これは放射能で汚れた水なので外に流してはいけないのだ。上掲の説明ではその辺のところがアイマイであって、よくわからない。よって登壇者の勉強不足ないし勘違いの可能性が高いと思う。

臨終に関する体験発表が二つあって、いずれも妙信講時代からの古参であることが注目される。一人は医師の夫の臨終を伝えるものだが、登壇している妻は入信五十八年というツワモノである。問題はもう一つの記事で、登壇者は娘さんであり、亡くなった父親は昭和三十五年の入信というからこれまたツワモノである。しかし、次の記述が不審である。

 なかでも、父は初代講頭先生の御導師で入信したそうで・・・

これは勘違いだとは思うものの、そのまま記事にする編集部もどうかしている。当時は妙縁寺でいわゆる御授戒を受けていたはずなのだ。独立教団路線の今となっては想像を絶する話なのだろうけれども、間違いは間違いである。これを逆に言うと、今の本部首脳ないし顕正新聞編集部には、もはや妙信講時代のことを知る人材が一人もいないことになりそうである。そして高齢の浅井先生も、まさかボケてはいないと思うが、おそらくは新聞記事を細かくチェックする元気がないのだろう。困ったものである。

 「自分は葬儀屋になって一〇年、五百体以上のご遺体を見てきたが・・・

同じ体験をした葬儀屋が他に二人おり・・・


臨終の相について、葬儀の専門家が驚いている部分である。

最後に不謹慎なことを書くわけだが、今の顕正会は高齢者の入信が多い。ようは臨終を迎える人が多いということだ。するとこの先、葬儀屋さんのほうでも顕正会の葬儀を扱う機会が増えてくるわけで、上掲のような目撃談が日本全国を飛び交うことになる。つまり、もしこれが本当の話ならば、活動会員たちの地道な折伏もさることながら、高齢会員たちの示す臨終の相が何よりの折伏となるに違いない。それで一気に弘通が伸びるかもしれないのだ。

若い人材が育たず、一見するとお先真っ暗の顕正会だが、実は高齢会員こそが広宣流布の大人材なのだという、皮肉な話である。

2016/12/21

十一月度総幹部会の会長講演を中心に  
さて、いよいよ十一月度総幹部会特集号である。顕正新聞第1394号だ。

わたくしの言う特集号はその内容に鑑みてわたくしが勝手に名付けたものに過ぎない。それとは別に、今の顕正会では大量配布のために特集号と称するものをかなりの頻度で出している。ところが今回は特集号の冠がない。まあ、当然だろう。すでにマンネリ化していて、あまり意味がないからである。

国難三年の最終法戦 弘通爆発!!

九・十・十一月弘通 空前三万三千余
「三年後の二百万は大地を的とする」


これが一面の大見出しだ。矛盾することを言うが、まず秋の三連戦で三万三千三百八十一名の大折伏がなされたことは凄いことだと思う。しかし同時に、三年後の二百万? それがどうしたのか? ぜんぜん大したことないじゃないか? という思いを懐くのも事実である。

次に人事について書こう。

第25男子部長(新潟)に佐藤孝夫氏

いわゆる最高幹部以外は個人名を控えるのが拙ブログのシキタリであるが、ヘンに伏字にするのもどうかと思って新聞表記のまま引用した。この人物は最近になって急激に頭角をあらわしてきた印象がある。当然、実力があってのことだろうから、それ自体は何の問題もない。ただし、当該号の六面を見ると、ちょっとした疑問が浮かんでくる。そこには彼の活動報告が掲載されているのだ。

 この最終法戦は新潟で戦う第二十六男子部の初陣でもあれば・・・

一面に戻って人事の記事を読むと、第二十六男子部長兼任と書かれている。ゆえに矛盾はない。しかしである。すると彼はここ数か月という短期間で新潟男子部の全権を掌握したことになるのだ。いつも言っているように、前任者がどうなったかが問題である。それが記事を読む限りでは不明なのである。

婦人部の人事も複雑だ。ここでは詳細を省くが、九州の第四・第二十三婦人部長が交代となった。さらに第四婦人部の中の三つの支区が第十女子部に編入されたという。わけがわからん。

穿った見方をすれば、新潟方面の男子部で何かしらのゴタゴタがあった、九州方面の婦人部でも何かがあった、ということなのかもしれない。もちろん、あくまで推測である。

一面からもう一つ紹介しよう。

・・・衣を以て覆い下されたのです。

これは会長講演の要旨として、編集部がまとめたものなのだろうが、文体の不整合が気になるところである。つまり、引用した部分だけがご覧のごとくの「ですます調」になっているのだ。これは誰が読んでもおかしいだろう。

さて、いよいよ会長講演である。

今回は時間的にも内容的にもコンパクトになっている。おおむね過去の発言の繰り返しなので、これを特集号としなかったのは正解なのだろう。一般の読者は辛辣であるから、なんだ同じ話の繰り返しじゃないか、もう読むに値しないな、と思われてしまう可能性がある。それでは自爆であるからして、特集号とはしなかった・できなかった、ということなのだと思われる。

では、本文に入ろう。

 そしていま顕正会は、国中のあらゆる邪宗はもちろんのこと、学会・宗門をも凌いで、ついに日本を独走する仏弟子の大集団となったのであります。

主観的にはその通りなのだろう。では、客観的にはどうか、そこが問題である。

まず、折伏成果の欺瞞について書く。今回の三万三千有余の大折伏にしても、本当にそんなに出来たのだろうか? どこかで水増しが行なわれているのではないのか? という疑いがある。もちろん、明確な証拠があるわけではないが、いつも言っているように、デタラメな折伏が横行している事実は否定できないだろう。今回はその傍証というかヒントと考えられるデータを次に示したい。

男子部 898 17
女子部 255 9
婦人部 200 13


これは四面に掲載されている折伏成果の中から最大値と最小値を拾い出したものである。大急ぎの作業なので、間違っていたらご容赦願いたい。ともかく数字の拾い間違いは大した問題ではないはずで、ようはわたくしの言わんとしていることは実に単純明快である。ムラがあり過ぎるということだ。

男子部は隊、女子部は区、婦人部は支区と、それぞれ名称が異なるものの、組織的には同規模である。そこでいちばん成果を上げた組織とその逆とを示せば、上掲のごとくなる。とりわけ男子部の場合が極端だ。最大値は一千になんなんとする大折伏をしているにもかかわらず、最小値を見ればご覧のテイタラクである。これは何もその隊ないし隊長を責めているのではない。むしろ本部首脳の責任である。毎月のように頻繁に人事をいじくっているにもかかわらず、なぜにこうも不均衡の組織を是正しないのかである。

ある意味では低空飛行を続けているような組織こそが、真面目な折伏をやっているのかもしれないと思う。相手を十分に納得させた上で入信に導く。だからは数は少ないが、中身は物凄く濃いのだ。逆に一千名近くも折伏している組織はデタラメきわまる折伏をしているのだろう。その辺は結集力との相関関係から検討すべき事案となるが、さすがに面倒臭いのでやる気も起きないし、第一、わたくしには検討すべきデータがない。

ともかく浅井先生はそうした細かいデータを知る立場にあるわけで、その上で日本を独走する仏弟子の大集団だと豪語しているわけである。はたして本気でそう思っているのかどうか、そこはひじょうに悩ましいところだ。

第六天の魔王の呪縛

第六天の魔王の執念


再び本文に戻って、上掲の二文が気になった。執念のほうは前にも聞いたことがあるけれども、呪縛は初めてかもしれない。なかなか豊かな表現力である。

 「この歳になって今さら試験なんて」という人があるかも知れないが、

十一月度総幹部会では教学試験と広布御供養、それから会館建設のことが発表されるのが恒例となっている。上掲のくだりは教学試験のことを言っているわけだが、なるほど、顕正会には高齢会員がたくさんいることをよくあらわしている文章である。事実、活動報告や体験発表を読むと、高齢者の入信だとか高齢者自身の登壇が目立つ。けっこう深刻な問題かもしれない。

宗門でも信心を失っているから、どの末寺も「供養を持ってこい」とばかり言っている。

今度は広布御供養の話題であるが、まずは邪宗ないし宗門の批判から入っている。しかし、上掲はいかがなものかと思う。カギカッコで書いちゃっているのが問題である。オイオイ、その文証はどこにあるのか、こう突っ込まれたらどうするのだろうか?

わたくしは日蓮正宗の御僧侶と直接的に相対したことがないのでわからないが、まあ、常識的に考えればそんなエゲツナイことは言わないだろう。内心はともかくもだ。

 顕正会は広宣流布のために必要な経費を、会長以下の有志が、大聖人様に御供養申し上げている。

会長以下が気になった。それこそ表向きはともかくとして、内心はどうなのかと勘繰りたくなってしまうところである。今や新興宗教の教祖と目されている、それが浅井先生なのだ。現実に、今現在は顕正会から収入を得ているわけだろう。もしそうではなく、完全無報酬で会長をやっているのならば話は別であるが、現実には顕正会でメシを食っている。その事実がある以上、上掲の発言はあまり説得力がないように思う。

さて、次は会館建設だ。

垂井会館 筑波会館 第二青年会館

多摩会館 新秋田会館 顕正新聞社第二別館


上段は本年建てられた会館である。下段は明年の建設計画である。そして明後年のことにも触れている。

郡山新本館 以下未定

現在の郡山会館に隣接して新館を建てる。そこを本館として従来の建物を別館にするとのことだ。

 その他の建設計画については、いま東京をはじめ首都圏が飽和状態になって来ているので、これをいま検討し、計画を進めております。決定され次第、発表いたします。

これは微妙なところだ。

ようするに、よい意味では微増ながらも顕正会は伸びていると言えるわけだが、一方で、純粋な意味での新規会館の建設は限界を迎えていることが窺えるのである。
コメント欄でも閑古鳥が鳴いている会館があるとの証言があった。たぶん事実なのだろう。その意味で、未だ会館のない県も存在するわけだが、これ以上無理して建てるのは得策ではない、閑古鳥会館を増やすだけだと、こう考えたわけだろう。
しかし、会館建設を完全にストップするのは顕正会の前進が止まったことを意味するも同然なので、それだけは避けなければいけない。ゆえに会館の偏在は否めないものの、今は従来の会館を増築補強するくらいが無難なところだと判断したものと思われる。

しかしいまや世界は戦国時代に突入せんとしているのです。

あらまあ、また言っている。

浅井先生は世界情勢を語ることに余念がない。今回はいわばここ数か月間のまとめのような感じであるが、わたくし個人としてはロシアについての記述が注目に値すると思う。

 さらにロシアは北方領土の国後・択捉の二島に、最新鋭のミサイルシステムを配備したことを、今月二二日に発表している。北方領土交渉が行われつつある中で、堂々と軍事基地化を進めているこの強かさ、日本はごまかされてはいけない。

これを浅井先生のご見識などと持ち上げる幹部が出てくるといけないのでクギを刺しておくが、同様の発言をしている識者はたくさんいる。ただし、一方で先般の日ロ首脳会談の直前までは北方領土が返ってくるのではないかという淡い期待を懐かせる報道があったのも事実で、それがとんだ期待外れだったことでガッカリした国民もたくさんいる。この意味で浅井先生の見通しは正しかったことになるだろう。さすがに予言とは言えないが・・・

今回の会長講演はざっとこんなところである。

2016/12/20

振り上げた拳の行方  
沖浦氏もバカなことを言うものである。以下がそれだ。

 元本部職員の立場で、ああ云う会見を開いたこと自体が負けですね。
 この件は今後創価学会攻撃に利用されるでしょう。

 バカな事やったものです。


何を言っているものかと思う。バカは沖浦氏だ。

 元本部職員の立場で、ああ云う会見を開いたこと自体が負け。
 この件は今後創価学会攻撃に利用されるでしょう。
 ハンネの自称創価学会員の愚痴と同じ扱いをされます。

 バカな事やったものです。


再掲致しますなどと言っておきながら、都合の悪い一行を消去している。こんな破廉恥な人間もおるまい。まるで発言の資格なしである。

ただし、次の投稿では彼ら三人にエールを送るような意味のことを書いているので、いちおう紹介しておこう。

 但し、この方々が信念を貫き、行動を続けるなら創価学会は変わらなくとも、ご本人たちは必ず変わります。

ようするに本部首脳と真正面から戦っても勝ち目がないことを沖浦氏は知っているのだろう。その意味ではバカなことをやったとも言えるかもしれない。もし沖浦氏の言っている意味がそれならば、おそらく沖浦氏は創価学会のダメさ加減を知悉しているのだろう。とりわけ本部首脳のダメさ加減をである。しかし、それをあからさまに言うとパージされてしまう。そのことも沖浦氏はよく知っているのだ。

 謙虚の話を何度か書きましたが、謙虚になる絶対条件は勝利をしていることです。
 負けて謙虚ってあり得ません。


ありゃりゃ、またしても言っている。懲りない人だ。

人間は常に謙虚であるべきだ。これは勝者も敗者も同じことである。とりわけ勝者にはよりいっそうの謙虚さが求められる。ただそれだけの話である。ゆえに、負けて謙虚はあり得ない、などと言うのは、大バカ者の言うことである。

同じことを繰り返し言っても仕方がないので、今日はまた新しい角度から説明しよう。

礼に始まり礼に終わる

有名な言葉である。何事においても礼儀は大切であるが、とりわけ武道の世界でよく使われる言葉だと思う。武道の試合は礼に始まって礼に終わる。別に当たり前のことなので深く考える必要はないのだが、あえてわかりやすく言うと、礼から礼までの中間は無礼でよい、ということになるだろう。つまり、試合中は無礼でよいのだ。

なるほど、それはそうだ。相手が目上の人だからと言って遠慮していたら勝負にならない。同じ土俵で戦うわけだから、その瞬間はまったく同じ立場なのだ。身分の上下は関係ない。先輩後輩だとか上司部下みたいなことは関係ないのだ。

これでおわかりだろう。沖浦氏の謙虚論は、この礼から礼までの中間に当てはまる話であって、きわめて限定的なものなのである。先ほども言ったように、勝者も敗者も関係なく謙虚であるべき、それが礼儀作法というものだろう。当然、わたくしの言っていることは日常における立ち居振る舞いである。唯一例外的に試合中はそれが免除されるのだと、このように理解するのが常識的である。

ああ、なるほど、沖浦氏が多くの人から反発を受けるのは、こうした常識を弁えていないからなのだろう。

確かに生活全般を勝負と考えて、一瞬一瞬に気迫を込めて臨むという生き方もある。わたくしはズボラな人間なのでそれは出来ないが、しかし、そうした生き方を否定するつもりはない。まさに人それぞれだと思う。
ただし、礼儀作法は必要である。まさか対人関係すらも勝負と考えて、常に臨戦態勢の人がいるとすれば、そんな人とは付き合いたくないだろう。一歩間違えればケンカ腰ということになる。
そうではなくて、常には穏やかな気持ちで人と接するのがごく普通の人間関係のはずで、その上で勝負すべき時は勝負すればいいのだ。

思えば、くだんの元本部職員たちも同様だろう。彼らは見るからに若い。本部職員の中でも下っ端のほうだと思われる。しかし、事の重要性に鑑みて、上司に対して勝負を挑んだわけだろう。いわば今は礼と礼の中間なので、相手が誰であろうと遠慮せずに言うべきことは言う、まさに筋の通った行動である。

ということで、バカなことをしたなどと言う沖浦氏のほうが、よほどバカであることが判明した。ぜひとも謙虚になられたい。

今年も残すところ十日となった。

いやはや、困ったものである。相変わらず仕事(?)が遅い。今日は十一月度総幹部会の話題を書くつもりだったが、上述の一件でだいぶ紙数を使ってしまったのでもう書かない。一度にたくさん書くと文章が雑になるからだ。
さらに今朝、年末合併号が届いた。ぜんぶ読むのに一週間ほど必要だろう。それからブログを書くわけだが、当然ながら今のテイタラクでは年を越してしまうことになる。その頃には新年号も届いているだろうし、次から次へと大変である。
そしてもう一つ、基礎教学書もやらないといけない。先日、序文を取り上げただけで、まだ本文にも入っていないのだ。

2016/12/18

元創価学会本部職員三名の記者会見について  
沖浦氏が興味深い話題を提供してくれたので、今日はそれを取り上げたいと思う。

過日、元創価学会本部職員三名が日本外国特派員協会で記者会見を行なった。彼らの主張は単純明快だ。今の創価学会本部首脳は師匠である池田大作氏に背いているとのことで、その是正を図るべく立ち上がった彼らは返って解雇・除名の憂き目に遭ってしまい、それがいかに理不尽・不当であるかを全世界に訴える機会として、記者会見の場に出てきたわけである。

池田先生は今現在、重要なご判断が出来ない状況にある。

彼らが再三にわたって言っていたことだ。ようは池田氏の健康問題を言っているわけなのだろう。もう何年にもわたって公の場には姿をあらわしていない。年齢的な意味も含めて、何かしらの病気を患っているものと考えられるが、彼らもその具体的な病名は知らないのだ。一つの推測として言うならば、いわゆる認知症だろう。昔は痴呆症と呼んでいた。もっと直截に言えば、ボケだろう。もちろん彼らにとっては偉大な師匠なのだから、彼らの口からはそんな失礼な言葉は出てこないけれども、ともかく状況から言えばおおむねそのような健康状態なのだろう。

そこで問題になるのが、今の公明党ないし創価学会の方向性である。公明党は安保法制で自民党の方針に唯々諾々と従ってしまった。創価学会もそれを黙認した格好である。

しかし、それは従来の創価学会の平和理念からすれば完全なる逸脱ではないか、もし師匠がご健康であれば必ず反対の声明を出すに違いない、本部首脳は師匠がご病気であることを奇貨として、師匠の意に反するような危険な方向に進んでいるのではないか、というのが彼らの主張なのだ。

なかなか鋭いと思う。

つまり、池田氏は対話による世界平和の実現を目指し、これまで何十年にもわたって奔走してきたわけである。ゆえに戦争法案とも言われている危険な安保法制に対しては反対の立場のはずなのだ。しかるに本部首脳は老齢ないし病気のために重要な判断が出来ずにいる池田氏を尻目に傍若無人な振る舞いをしている。こんなケシカラン話はない。まさに師敵対である。

元職員たちのロジックは完璧である。しかし、それは建前上の話だろう。

わたくしとしては彼らを応援するつもりで、少しイジワルな意見を書いておきたいと思う。彼らが今後も戦い続けるつもりならば、よりいっそうの理論武装が必要だろう。そのために気がついた点をいくつか指摘しておきたい。

まず、彼らは池田氏を美化し過ぎているのではないか、ということだ。

池田氏はそんなにキレイな人ではないだろう。裏の顔を知れば、上述のような建前の話だけでは済まないはずだ。
もしかしたら今も多少は意思表示が可能であって、くだんの戦争法案などにも賛成している可能性もなくはないのだ。
あるいは本部首脳は池田氏の裏の顔を知っている、ゆえに今は本人の意思を確認できないにしても、池田氏の考えを忖度して今の方向性を打ち出している、というふうにも想像できるのだ。

つまり、オマエたちは先生の本当の姿を知らないんだよ、先生ってのは物凄く権力志向の強い人だから、自民党に擦り寄ってたほうが得と思えば、そうするんだよ、ということなのだ。

さて、元本部職員たちはこれにどう反論するだろうか?

ちなみに、我々が仏法上の論争をする時には御書がその基本ベースとなる。それ以外にはないと言っても過言ではないだろう。では、今の議論はどうなるかであるが、元職員たちは池田氏の公式発言をベースに云々しているわけだ。
しかし、一方で裏の発言が存在する。有名なところでは山崎正友氏だとか原島崇氏らの証言がある。たぶん元職員たちはこの両名を大悪人のように教わってきただろうから、信用に値しないと言うのかもしれない。
けれども、それはきわめて偏向的な考え方だろう。公平な第三者であれば、それらの証言がホントかウソかわからないにしても、五分五分くらいには受け取るはずなのだ。つまり、全部が全部ウソとは考え難い、半分くらいはホントの話なのではないかと考えるのだ。

実は記者会見の中で老記者から鋭い質問が発せられた。以下はわたくしなりの要約である。

創価学会は七十年代にも傍若無人な振る舞いをして世間を賑わしていた。ゆえにアナタたち(元職員たち)の問題提起を聞いていると、昔の創価学会に戻ったようにも思えるのだが、どうか?

これに対する回答が元職員たちの未熟さをあらわしていたように思う。以下もわたくしの要約である。

当時は幼少だった。ゆえに細かい事情に精通していない。よって今現在の創価学会と客観的に比較する術がない。

老記者が何を想定して七十年代のことを云々したのか不明であるが、有名なところでは言論出版妨害事件だろう。当時、公明党は純粋な野党だった。ところが与党自民党の実力者・田中角栄と通じていて、創価学会を批判する本を出版させないように取り計らうべく依頼したのだった。

これは代表的な事例であって、他にもダーティーな話はいくつもあるのだ。池田氏が直接関与していただろう事例も少なくない。

つまり、こうした事情を踏まえると、元本部職員たちの言っていることはキレイごとに過ぎないことになる。本部首脳から見ても、オマエたち何キレイごと言ってんの? ということになるだろうし、創価学会問題に精通している人たちにしても同様の感想を懐かざるを得ないところなのだ。

さあ、どうする?

ここまでは一般的なジャーナリストが追及するであろう内容だった。そしてここからはさらに専門的な内容となる。すなわち宗門問題とのカラミである。わたくしは彼ら三人が日蓮正宗問題全般に対してどのような見解にあるかが気になる。

絶対平和主義がどうのこうの、これが記者会見での彼らの発言である。それを創価思想というようにも言い換えていたと思う。今の公明党ないし創価学会はその創価思想に反するという主張は実に単純明快である。
その時に彼らは初代牧口氏や二代戸田氏の事績にも触れていた。ご存知のごとく、この両名は日蓮正宗の信者であり続けた。
いかがだろう、すると創価思想の絶対平和主義の部分はさておくとして、日蓮正宗との関係性においては今の創価思想は変節したことになるのではあるまいか、ということになるのだ。

これにはどう答えるのだろうか?

先ほど、日蓮正宗問題全般と書いた。その意味は妙信講問題や正信会問題を含めてのことだった。元本部職員三名は解雇除名となってしまったわけだが、その立場で上述の二つの問題を見つめた時にどう思うかである。共感するところがあるのかないのか、そこが聞きたいところである。

境遇的には共感するが、主義主張には同調しない。わたくしの勝手な想像で話を進めるが、もし左のごとくならばさらに具体的に国立戒壇問題を問いたい。

今は主権在民の時代だから国立ではなく民衆立が正しい。

これが彼らの回答かもしれない。当然、妙信講ないし顕正会の立場からすれば、これは完全なる仏法違背となる。しかし、それを彼らは教条主義と批判するかもしれない。時代に即した柔軟な解釈が必要であると・・・

ここで話が戻るのだ。

ならば解釈改憲も可能であると? 公明党ないし創価学会の安保法制への取り組みも是認できると?

さて、彼らはこれにどのように答えるのだろうか?

そろそろ結論を書こう。

わたくしは拙ブログで一貫して宗門回帰を主張してきた。顕正会の独立教団路線を徹底的に批判して、どれほどの困難があろうとも宗門への復帰を模索すべきだと主張してきたわけである。このことは創価学会にも当てはまる話で、本来ならば宗門復帰を目指すべきだと思う。

妙なことを言うようだが、実はこれが最大のキレイごとなのだ。

つまり、キレイごとというのは、それが望ましいことなのは誰もがわかっている、わかっているけど現実的にはムリ、というのがキレイごとなのである。

そこで元本部職員三名に申し上げる。どうせキレイごとを言うのならば、そこまで戻るべきだと。

2016/12/12

序を斬る  
沖浦氏の迷走は誰の目にも明らかだろう。趣意から主意へと、さらには主意から取意へと、文字通りの二転三転だ。

確かに取意は大聖人も御使いになっている表記である。しかし、だからと言って沖浦氏の主張が正当化されるわけではない。いちばん単純に言えば、大聖人がなされる取意は信用に足るけれども、沖浦氏のそれはまるで信用できない。当たり前だろう。我々は大聖人の仏法を信仰しているのであるから、大聖人の仰せは無条件で信ずるのである。しかし、沖浦氏の発言は信用できない。いや、そこまで言うのは失礼であるが、少なくとも無条件で信用するわけには行かないのだ。もし無条件で信ずる人がいるとすれば、それは沖浦教の信者だろう。イヤミな言い方だが、それが道理なのである。

しかも委細に見れば、大聖人は出典を明示しているではないか。慈覚大師の入唐巡礼記からの引用であると・・・

いかがだろう。もし沖浦氏に誠意があるならば、今後は出典を明示すべきである。その上での取意であれば大いに結構だ。会長全集の何巻であるとか人間革命の何巻などと明記した上で、自分なりに要約して引用すれば、誰も文句は言うまい。

 法華の慢!

さらに新語(?)が登場した。不勉強のわたくしはこの出典を知らない。まあ、何となく言わんとしていることはわかるのだが、先日の謙虚の議論を踏まえると沖浦氏はただひたすら自説を正当化したいがために悪あがきをしているようにも感じられるので、いちおう参考までに出典をご教示願いたいと思う。

話ついでに関連する話題を書いておこう。

http://honshubou.main.jp/gosho/0243.htm

どなたが作成しているサイトか知らないが、平成新編を愛用しているわたくしにとっては有益なサイトである。

已上趣意。

ここは取意の打ち間違いだろう。ぜひとも修正されたい。

さて、本題だ。基礎教学書では冒頭に大聖人の御真蹟写真を掲げている。安国論、本尊抄、撰時抄、諫暁八幡抄の四抄だ。なるほど、前回は装丁にケチをつけたというか、今の時代は重厚な本が流行らないという意味のことを書いたわけだが、御真蹟写真を掲げている意味では装丁を特上としなければいけないかもしれない。安っぽい装丁ではいかにも申し訳ない感じがするからである。まあ、しかし、いずれにしても不便な本であることには変わりがないだろう。いわば飾っておくのが目的のような本だ。

では次に行こう。いよいよ「序」である。

 日蓮大聖人こそ、この予言証明に照らされて末法の日本国に出現された久遠元初の御本仏であられる。

本当は冒頭の一行から取り上げていくべきなのだろうが、それをやると本書だけで一年くらい掛かりそうなので、いつものごとく自分の独断でポイントと思われるところを拾っていくことにする。

久遠元初の御本仏がうまいと思った。

というのは、浅井先生は久遠元初の自受用身を多用する傾向があって、実はこれが一般人の感覚ではベラボウに難解な用語なのである。そもそも久遠元初も専門用語であって、一般的ではない。つまり、いきなり専門用語が二つも出てきてしまうと、そこで一般人はギブアップすることになるのだ。よほどの読書好きでない限り、読み続けることは出来ないだろう。

久遠元初の御本仏ならば、何となくでも意味がわかるので、この先も読んでみようと思うかもしれない。そこが上掲のポイントである。

まさに国家権力が、ただ一人の大聖人の御頸が切れず、その御威徳の前にひれ伏してしまったのである。

いきなりこの話を持ってくるところがいかにも浅井先生らしい。

この点について、櫻川氏はきわめて批判的である。今略してキーワードだけを拾えば、浅井会長の特異思想、超越的本仏観、独自の絶大威力論などである。きわめて辛辣であるが、確かに傾聴に値するところではある。

ただし、浅井先生の言っていることもあながち間違っているわけではなく、大聖人の御本仏たるゆえんを現証面から論ずる時、竜の口のことは避けては通れない道なのである。ゆえに浅井先生の手法はある意味では正攻法とも言えるだろう。

ところがである。

ひじょうに些細な話であるが、わたくしは上掲の文章にやや違和感を持った。具体的には「御頸が切れず」のところである。文法的にどうかは知らないが、「御頸を切れず」のほうがよさそうに感じるのだった。

実は浅井先生も後にはそのように思い直したらしい。次をご覧になられたい。

 まさに国家権力が、ただ一人の大聖人の御頸を切れず、かえってその絶大威徳の前にひれ伏してしまったのである。

これは例のカラーコピーである。

基礎教学書の序は平成二十七年九月十二日の日付が明記されている。そして基礎教学書の広告が打たれたのは本年に入ってからのことである。

まあ、大した問題ではないのかもしれない。また、言語感覚は人それぞれだから、別に「が」でも「を」でもどちらでもいいと思う人もいるかもしれないし、むしろ「が」のほうがシックリくる人もいるかもしれない。ただ言えることは、さすがは完全主義者の浅井先生だけあって、けっこう細部まで気にしているらしいことが、この一事で窺えるのである。

だったら次はどうか?

冨士大石寺の歴史

富士大石寺歴代上人の文証


ワ冠とウ冠の違いである。もっとも目次にツッコミを入れる人もなかなかいないだろうが・・・

序に戻って、二つの言葉を引用して終わろう。

広宣流布はもう眼前

広布最終段階の御奉公


折伏理論書改訂版のことがあるので、もはや信用には値しない。もし仮に猶予を与えるにしても十年が限界だろう。その時には厳しい批判が待ち受けているだろうことを、浅井先生は覚悟せねばなるまい。

2016/12/11

基礎教学書を斬る  
遅ればせながら基礎教学書を入手したので、わたくしなりの視点から少し論評させていただこうかと思う。

 全国の顕正会員によって配布されたカラーコピーは、すでに二百万枚を超えたと、昨日、理事長から聞きました。

八月度総幹部会での会長発言である。つまり、今顕正会では基礎教学書の新聞広告をコピーしたものを大量に配布しているらしく、それが八月末時点でご覧の数字となっているわけだ。

 広告のカラーコピーはすでに三〇〇万枚を超えましたが、いよいよこれからです。

これは九月度総幹部会での会長発言だ。その後の数字は詳らかではないが、順調に行けば今頃は五百万枚を超えているかもしれない。

しかし、それがどうした、と言いたい。

基礎教学書そのものが五百万部も売れれば大したものだと思う。いや、百万部だって十分だろう。今の時代、そうそうミリオンセラーは出ないものである。ゆえにそうした記録そのものが人々の関心を集めることになって、さらに相乗効果を生むことになる。いわゆる加速度を増すことになるのだ。顕正会としてもそれを狙ってはいるのだろうが、残念ながら現実は厳しい。なかなか皮算用どおりには行かないものである。

実はそのカラーコピーも入手することが出来た。

A3サイズと思しき紙面には文字がギッシリと詰まっている。さすがは浅井先生だと思うのは、その一枚の紙に言いたいことをうまく要約して言い尽くしていることだ。

ただし、それがどれだけの効果を発揮するかは不明である。

わたくし的には紙がデカくて保存に困っている。通常、A4サイズが一般的であり、その大きさであれば保存用のファイルもたくさん出回っていて苦労がない。それがA3だとファイルがないので、もし仮にA4用のファイルに入れるとすると、二つ折りにしないと保存できない。しかし、折り曲げたくない。

いかがだろうか? 現役の活動会員たちの気持ちも同じなのではないか?

こんな立派な広告を折り曲げてしまっては申し訳ないと。いや、もしかしたら大量配布をしている人はそこまで気にしないのかもしれない。平気で折り曲げてカバンに入れたりしているのかもしれない。ただし、やはり永久保存用としては折り曲げたくないだろう。

ところがである。ここまでは顕正会員側の気持ちを汲んでの話だった。では、一般人はどうか、それが問題なのだ。

はっきり言えば、ただの紙切れなのである。

新聞の折り込み広告だとかポスティング広告の扱いを想像すればいい。顕正会員だって同じだろう。自分にとって興味関心のない広告はゴミ箱行きである。資源ゴミとして出す場合、いわゆる古新聞と一緒に積み重ねて、適当な分量になったところでヒモで括って指定日に出すことになるだろう。わたくしの家ではA4相当のストッカーに溜めているので、くだんのカラーコピーを出すとすると、二つ折りにしてそこに入れることになるだろう。それが一般人の扱い方である。

だから先ほど書いたのだ。カラーコピーを三百万だの五百万だのと配ったところで大した意味はないと。まったく無意味だとは言わないが、大した効果は期待できないだろう。

広告で注目すべきは下のほうにさりげなく刷られた次の表記である。

amazon 第1位 2016.7.13 日蓮宗(一般) 関連書籍

繰り返しになるが、実際に何万部売れたかである。いわゆる仏教書の日蓮宗というカテゴリにおいて一位を取ったところで、書籍全体の順位は高が知れているだろう。

さて、いよいよ基礎教学書本体についてである。

基礎教学書 日蓮大聖人の仏法 冨士大石寺顕正会

書体が素晴らしい。格調高い筆跡であり、本の重厚さとよくマッチングしていると思う。

ちなみに、函の背表紙と本書の背表紙はまったく同じ表記であり、同じ書体が使われているが、物凄く印象が異なる。これは当たり前と言えば当たり前のことかもしれない。つまり、函のほうは黒字であり、本体は金文字なのだ。同一表記同一書体でも印象が異なる。これは何かの例に使えるかもしれない。

価格が二千円。これも妥当な額だろう。なかなか凝った装丁なので、それ相応の値段になるのだと思う。

問題は中身である。二千円の価値があるかどうかは読者が決めることで、ツマラナイと思えば損した気分になるし、面白ければ得した気分になる。まあ、これが一般人の一般的な尺度だと思う。中身については次回以降に書きたいと思う。

最後にもう一点、本書の欠点を書いておこう。

立派なご本である。しかし、立派過ぎていけない。携行に向かないのだ。携行ではなく、携帯と書くべきか?

遠距離通勤者の一つのテーマはその時間をどのように過ごすかである。一昔前までは本を読んでいる人が多かったように思う。本・雑誌・新聞などである。しかし、その多くはコンパクトであるとか、あるいは駅のゴミ箱に捨ててしまってもいいような軽い読み物だったはずである。ましてや今はスマホ全盛の時代であり、本を読んでいる人は少ない。それを一言で言ってしまえば便利だからだろう。スマホは便利、逆に本は不便なのだ。

いかがだろう、その意味で基礎教学書はベラボウに不便である。もはや重厚な書物はいらない。邪魔なだけだ。ならば、基礎教学書もスマホで閲覧できるようにすべきだろう。ケチなことは言わず、無料で出すべきだ。

もちろん、それは極論であるが、思えばかつての折伏理論書の装丁がわりと扱いやすくてよかったのではないかと思う。

2016/12/10

各種登壇記事を斬る  
沖浦氏のそれは詭弁である。趣意を主意に直したところで、中身は変わらないのだ。氏はそこがわかっていないらしい。いや、わかっていてワザとやっているのかもしれない。だとすれば、困った御仁である。

さて、顕正新聞の続きを見ていこう。

来たる新潟大会こそ、先生に我々の成長をごらん頂く最後の機会・・・

第二十六男子部長の言っていることは、あくまで浅井先生の発言に沿ってのことなのだろう。佐渡会館での発言がそれだ。すなわち三年後、今から数えると二年後になるのだろうか、二万人の新潟大会を開催する、先生が新潟に行くのはそれが最後であるという。

これも何度も言っていることだが、いちおう建前上は広宣流布のゴールが近いので、その前に行く機会としては最後ということなのだろう。しかし、現実問題としては年齢的な限界が迫っているのだ。

はたして部長はどちらの意味で言っているのだろうか?

 他にも配布の縁で知り合った九十歳になる壮年の入信が叶い・・・

今度は女子部第百二区総班長の記事であるが、これまた実に悩ましい。そもそも九十歳を壮年と呼ぶのかどうか、そこが疑問である。一方、登壇者の顔写真を見ると、三十前後のように思える。いわば祖父と孫の関係だ。不謹慎とは言え、九十歳の男性には年齢的な限界が待っている。三十前後の彼女がそういった人を最後ないし最期まで面倒見れるのか、そこがひじょうに悩ましのだ。

また、個々の問題もさることながら、顕正会全体としても老齢者ばかりが入信するようでは困るだろう。どうも最近は若い人材が育っていないような感じなのだ。これではお先真っ暗である。

 また〇〇さんは、受診している心療内科の担当医を折伏・・・

婦人部佐渡支区班長のこの記事も悩ましい。あるいは偏見なのかもしれないが、わたくしの感覚ではあり得ない話である。通常のケガや病気ならばわからなくもない。しかし、いわば精神的な病を患っているわけなのだろう、その患者が医師を折伏するという構図がまるで考えられないのだ。

実際、続きの文章を読むと、返り討ちに遭っている。ようは医師から顕正会を脱会するようにと言われて、その結果、未活動になってしまったらしいのだ。さもありなんである。

さて、女子部第百九区組長は今から十年前の大学時代に入信した。

 私はこれまで小・中・高の教師を経て、現在は専門学校の英語教師をしておりますが・・・

組長は顕正会の中ではいちばん低い役職である。わたくしの思うに、わりと堅実な職業に就いている人たちは顕正会での役職が低い。ようは活動に熱中し過ぎて仕事が疎かになるような愚は犯さないのだ。彼女もそんな感じなのだろう。しかし、上掲はやや不審である。十年足らずの間に、頻繁に移動している。教師の世界ではこれが普通なのだろうか? もしそうでないとすると、理由が気になるところである。パターンとしては顕正会の活動に熱心なあまり、教師としては評判がよろしくなく、それで職場を転々としているということがある。けれども、その場合には相対的に顕正会での役職が高くなるはずなのだ。

よく読むと、戦列を離れている期間が長かったようだ。すると今後はどんどん役職が上がっていくのかもしれない。事実、彼女は次のような決意を述べている。

今こそ限りある広布の御奉公に、本眷属としての使命を果さん・・・

限りある?

毎度のことながら、実に悩ましい。ようするに彼女たちはゴールが近いと思い込んでいるわけだ。だからこそ頑張れるわけなのだろう。しかし、現実的にはゴールは遠いのである。

なお、同じページの上段には臨終についての二つの記事が載っていて、いずれも素晴らしいものだった。ことに婦人部春日部支区部長の記事の次の一節は記憶に留めておきたい。

 私は平成十年に入信し、発心してよりは毎月、生まれ育った福島に通い、友人・両親・親戚などを次々と折伏してまいりました。

毎月は凄いことだ。春日部支区ということは、その近辺に居住しているのだろう。わたくしの感覚では、福島まではベラボウに遠いわけではないけれども、さりとて近い距離ではない。そこを毎月通うのは大変なことである。そこで叔父の入信が叶った。その叔父が今般臨終を迎えたわけである。

その詳細は省くが、先ほどの三十前後と思しき女子部総班長の話を思い出してほしい。九十歳の男性が入信したという。はたして最後まで面倒を見れるのかが心配である。

つまり、支区部長の場合は叔父なのである。しかし、総班長の話は赤の他人なのだ。なかなか難しいものがあるに違いない。

茶寮のパンは
 日本でいちばん美味しい!!


これはいい記事だ。特にわたくしが目を惹いたのは次の一節である。

 「手前味噌」という言葉がありますが、味噌は同じ材料を使っても、その家々に住みついている菌によって色、香り等の仕上がり具合が変わると言われます。

さらに続きが興味深い。

 茶寮の自家製天然酵母は、顕正会にみなぎる信心の歓喜とスタッフの熱い思いの中に、自然発酵するのですから、最高のパンができ上がるのも当然と思われます。

実に手前ミソである。

これは半分はイヤミだが、半分は称賛のつもりで書いた。ようするに誰にも恥じることなく自信をもって勧められるパンを作っているという茶寮スタッフたちの矜持が、この記事に反映されているのである。


十二月十一日追記:脱字があったので書き加えた。

2016/12/9

趣意と恣意の違い  
沖浦氏の馬鹿さ加減には呆れるばかりだ。創価学会が御書を現代語に訳して引用することと沖浦氏の趣意といったい何の関係があるのだろうか? また、法華経ですら原本がないなどと言っているが、それと沖浦氏の趣意といったい何の関係があるのだろうか? 自分の主張を正当化したい気持ちはよくわかる。しかし、正当化どころの話ではなく、支離滅裂さを露呈するばかりである。

御書の現代語訳は大いに結構なことである。ただし、その場合はあくまで語訳の当否が問われるわけで、それが誤訳であれば批判に晒されることになる。ところが沖浦氏のそれは原典不明のアヤシゲな引用なのだから、こちらとしても批判のしようがないわけである。
また法華経の原本については大聖人の御認識に基づけばいいわけだから、ここで梵本がどうなっているかだとか釈尊の直筆があるかないかなどはまったく論ずる必要のない話である。すなわち鳩摩羅什訳こそが我々の共通テキストであって、それを引用する分には何の問題も生じない。それが日蓮系の基本ルールなのである。
よって沖浦氏の引用方法はまるで裏付けのないデタラメな引用方法であることが明白である。つまり、沖浦氏の趣意は趣意ではなく、すなわち恣意なのだ。以後、自分勝手な恣意的引用は控えるようにと忠告しておきたい。

さて、顕正新聞の話題に入ろう。

御大会式講演掲載の顕正新聞は、それを除けば十月度班長会の記事を中心に組まれている。そして班長会特集号はいつものごとく、幹部たちが浅井先生の指導を繰り返すだけのツマラナイ記事の羅列なのである。なるほど、大量配布には向かないわけだ。

まず、御大会式講演から一つ引用しておこう。

 御生骨が光り輝いてから入信するのは今入りの弟子。

以前にも選民思想的であり特権階級的だと指摘した。逆に言うと差別的なのである。その悪しき影響を受けたと思われるのが、次の副総合婦人部長の発言である。

 そして不信・謗法・今入りの輩には・・・

これはもう完全にアウトだろう。

不信と謗法は同類項と考えても差し支えない。いや、同類項どころかイコールとしてもいいだろう。しかし、今入りは違うはずだ。少なくとも入信後は不信・謗法と完全に別のカテゴリとしなければいけない。それを一緒くたにするような上掲の発言は完全なる失言であり、許されざる暴言である。いや、暴言ではなく、謗言とすべきかもしれない。

まあ、まず無理だろうが、次号には謝罪・訂正の記事を載せるべきであると、提案しておきたい。

寺の収入のために形だけの真似事をしている浅ましき実態・・・

これは総男子部長の発言であるが、まあ、これは失言とかの問題ではなく、顕正会側としてはこのように言わざるを得ないところなのだろう。おそらくは今もコンスタントに宗門に流れていく人たちがいるので、顕正会側としては何とかしてそれを食い止めたいのだ。
また、わたくしの立場から言わせてもらえば、こういう発言は宗門僧侶に対するよき刺激剤なのである。他宗他門とは一線を画す、それが日蓮正宗の僧侶のはずであるが、中にはそうした気概を失って職業僧侶と化している人もいるかもしれない。そういう人にとっては、創価学会や顕正会からの批判はよきカンフル剤となるのだ。
ひるがえって顕正会の大幹部たちはどうなのか、それも併せて言っておきたいところである。城衛こそ、自らの発言を自戒の言葉としなければいけないだろう。何しろ宗教法人顕正会の代表役員なのだ。極論すれば会員からの供養がゴッソリと自分の懐に入る、そういう立場だからである。

私たちの一対一の折伏・配布が一国を揺り動かし・・・

第二十女子部長の発言は活動会員としてきわめて模範的である。しかし、いつも言っているごとく、問題は名目会員と実働会員の乖離だろう。ようは実働会員を増やさないといけない。

その一つのバロメーターが地方大会の結集人数である。

http://kensho-nostalgia.blog.jp/archives/9801696.html

ぜひともリンク先を確認されたい。この記事が秀逸だった。つい先日、近畿大会が行なわれた。実は十年前にも関西大会が行なわれている。なんと会場が同じ。つまり、基本的な結集人数も同じということである。十年経ってもまるで進歩していない。ダメだこりゃ。という話なのである。本当に困ったものである。これでは十年後も似たり寄ったりの状況だろう。いや、今より悪くなっている可能性もある。その理由はあえて書くまい。

世界中でただお一人・・・

第一婦人部長の発言だ。何の話であるかは省略する。問題は誰のことを言っているのかである。つまりは浅井先生のことなのである。今回の新聞でも総合女子部長あたりが類似のフレーズを連発しているわけだが、上掲がいちばん際立ったので紹介させていただいた次第である。

いちおう大幹部の記事はこんなところである。今日はこれで終わりにして次回は活動会員たちの各種登壇を見ていこうかと思う。


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ