2016/12/18

元創価学会本部職員三名の記者会見について  
沖浦氏が興味深い話題を提供してくれたので、今日はそれを取り上げたいと思う。

過日、元創価学会本部職員三名が日本外国特派員協会で記者会見を行なった。彼らの主張は単純明快だ。今の創価学会本部首脳は師匠である池田大作氏に背いているとのことで、その是正を図るべく立ち上がった彼らは返って解雇・除名の憂き目に遭ってしまい、それがいかに理不尽・不当であるかを全世界に訴える機会として、記者会見の場に出てきたわけである。

池田先生は今現在、重要なご判断が出来ない状況にある。

彼らが再三にわたって言っていたことだ。ようは池田氏の健康問題を言っているわけなのだろう。もう何年にもわたって公の場には姿をあらわしていない。年齢的な意味も含めて、何かしらの病気を患っているものと考えられるが、彼らもその具体的な病名は知らないのだ。一つの推測として言うならば、いわゆる認知症だろう。昔は痴呆症と呼んでいた。もっと直截に言えば、ボケだろう。もちろん彼らにとっては偉大な師匠なのだから、彼らの口からはそんな失礼な言葉は出てこないけれども、ともかく状況から言えばおおむねそのような健康状態なのだろう。

そこで問題になるのが、今の公明党ないし創価学会の方向性である。公明党は安保法制で自民党の方針に唯々諾々と従ってしまった。創価学会もそれを黙認した格好である。

しかし、それは従来の創価学会の平和理念からすれば完全なる逸脱ではないか、もし師匠がご健康であれば必ず反対の声明を出すに違いない、本部首脳は師匠がご病気であることを奇貨として、師匠の意に反するような危険な方向に進んでいるのではないか、というのが彼らの主張なのだ。

なかなか鋭いと思う。

つまり、池田氏は対話による世界平和の実現を目指し、これまで何十年にもわたって奔走してきたわけである。ゆえに戦争法案とも言われている危険な安保法制に対しては反対の立場のはずなのだ。しかるに本部首脳は老齢ないし病気のために重要な判断が出来ずにいる池田氏を尻目に傍若無人な振る舞いをしている。こんなケシカラン話はない。まさに師敵対である。

元職員たちのロジックは完璧である。しかし、それは建前上の話だろう。

わたくしとしては彼らを応援するつもりで、少しイジワルな意見を書いておきたいと思う。彼らが今後も戦い続けるつもりならば、よりいっそうの理論武装が必要だろう。そのために気がついた点をいくつか指摘しておきたい。

まず、彼らは池田氏を美化し過ぎているのではないか、ということだ。

池田氏はそんなにキレイな人ではないだろう。裏の顔を知れば、上述のような建前の話だけでは済まないはずだ。
もしかしたら今も多少は意思表示が可能であって、くだんの戦争法案などにも賛成している可能性もなくはないのだ。
あるいは本部首脳は池田氏の裏の顔を知っている、ゆえに今は本人の意思を確認できないにしても、池田氏の考えを忖度して今の方向性を打ち出している、というふうにも想像できるのだ。

つまり、オマエたちは先生の本当の姿を知らないんだよ、先生ってのは物凄く権力志向の強い人だから、自民党に擦り寄ってたほうが得と思えば、そうするんだよ、ということなのだ。

さて、元本部職員たちはこれにどう反論するだろうか?

ちなみに、我々が仏法上の論争をする時には御書がその基本ベースとなる。それ以外にはないと言っても過言ではないだろう。では、今の議論はどうなるかであるが、元職員たちは池田氏の公式発言をベースに云々しているわけだ。
しかし、一方で裏の発言が存在する。有名なところでは山崎正友氏だとか原島崇氏らの証言がある。たぶん元職員たちはこの両名を大悪人のように教わってきただろうから、信用に値しないと言うのかもしれない。
けれども、それはきわめて偏向的な考え方だろう。公平な第三者であれば、それらの証言がホントかウソかわからないにしても、五分五分くらいには受け取るはずなのだ。つまり、全部が全部ウソとは考え難い、半分くらいはホントの話なのではないかと考えるのだ。

実は記者会見の中で老記者から鋭い質問が発せられた。以下はわたくしなりの要約である。

創価学会は七十年代にも傍若無人な振る舞いをして世間を賑わしていた。ゆえにアナタたち(元職員たち)の問題提起を聞いていると、昔の創価学会に戻ったようにも思えるのだが、どうか?

これに対する回答が元職員たちの未熟さをあらわしていたように思う。以下もわたくしの要約である。

当時は幼少だった。ゆえに細かい事情に精通していない。よって今現在の創価学会と客観的に比較する術がない。

老記者が何を想定して七十年代のことを云々したのか不明であるが、有名なところでは言論出版妨害事件だろう。当時、公明党は純粋な野党だった。ところが与党自民党の実力者・田中角栄と通じていて、創価学会を批判する本を出版させないように取り計らうべく依頼したのだった。

これは代表的な事例であって、他にもダーティーな話はいくつもあるのだ。池田氏が直接関与していただろう事例も少なくない。

つまり、こうした事情を踏まえると、元本部職員たちの言っていることはキレイごとに過ぎないことになる。本部首脳から見ても、オマエたち何キレイごと言ってんの? ということになるだろうし、創価学会問題に精通している人たちにしても同様の感想を懐かざるを得ないところなのだ。

さあ、どうする?

ここまでは一般的なジャーナリストが追及するであろう内容だった。そしてここからはさらに専門的な内容となる。すなわち宗門問題とのカラミである。わたくしは彼ら三人が日蓮正宗問題全般に対してどのような見解にあるかが気になる。

絶対平和主義がどうのこうの、これが記者会見での彼らの発言である。それを創価思想というようにも言い換えていたと思う。今の公明党ないし創価学会はその創価思想に反するという主張は実に単純明快である。
その時に彼らは初代牧口氏や二代戸田氏の事績にも触れていた。ご存知のごとく、この両名は日蓮正宗の信者であり続けた。
いかがだろう、すると創価思想の絶対平和主義の部分はさておくとして、日蓮正宗との関係性においては今の創価思想は変節したことになるのではあるまいか、ということになるのだ。

これにはどう答えるのだろうか?

先ほど、日蓮正宗問題全般と書いた。その意味は妙信講問題や正信会問題を含めてのことだった。元本部職員三名は解雇除名となってしまったわけだが、その立場で上述の二つの問題を見つめた時にどう思うかである。共感するところがあるのかないのか、そこが聞きたいところである。

境遇的には共感するが、主義主張には同調しない。わたくしの勝手な想像で話を進めるが、もし左のごとくならばさらに具体的に国立戒壇問題を問いたい。

今は主権在民の時代だから国立ではなく民衆立が正しい。

これが彼らの回答かもしれない。当然、妙信講ないし顕正会の立場からすれば、これは完全なる仏法違背となる。しかし、それを彼らは教条主義と批判するかもしれない。時代に即した柔軟な解釈が必要であると・・・

ここで話が戻るのだ。

ならば解釈改憲も可能であると? 公明党ないし創価学会の安保法制への取り組みも是認できると?

さて、彼らはこれにどのように答えるのだろうか?

そろそろ結論を書こう。

わたくしは拙ブログで一貫して宗門回帰を主張してきた。顕正会の独立教団路線を徹底的に批判して、どれほどの困難があろうとも宗門への復帰を模索すべきだと主張してきたわけである。このことは創価学会にも当てはまる話で、本来ならば宗門復帰を目指すべきだと思う。

妙なことを言うようだが、実はこれが最大のキレイごとなのだ。

つまり、キレイごとというのは、それが望ましいことなのは誰もがわかっている、わかっているけど現実的にはムリ、というのがキレイごとなのである。

そこで元本部職員三名に申し上げる。どうせキレイごとを言うのならば、そこまで戻るべきだと。


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