2017/1/30

完全独白?  
今日はざっくばらんに書こうかと思う。

「学者応に知るべし、蓮祖若し久遠元初の自受用身に非ずんば焉んぞ教主釈尊に勝るることを得べけんや。」(当流行事抄、大石寺版180頁)

大沢氏から例の出典についてご教示をたまわった。まことに恐縮至極である。

大沢さん、おはようございます。

>「学者応に知るべし、蓮祖若し久遠元初の自受用身に非ずんば焉んぞ教主釈尊に勝るることを得べけんや。」
(当流行事抄、大石寺版180頁)

 これってね内部規定ですよ。
 寛師は貴方方の内部では評価されています。
 ですが、私どもは評価致しません。


そしてこれは沖浦氏のコメントであるが、相変わらずの大馬鹿野郎である。つい先日、もう教義のことは論じない旨、表明していたはずである。しかも大沢氏はわたくしの疑問に答えて下さったのであって、この件に関しては無関係のはずの沖浦氏が何を口出ししているのかと思う。無礼にも程があるだろう。

さて、そういった無礼千万の沖浦氏に対し、アク禁動議が持ち上がった。しかし、残念ながら沖浦氏をアク禁にすることはできない。理由は簡単である。拙ブログはアク禁禁止なのである。

古くからの愛読者はご存知のはずだ。拙ブログは誰に対してもアク禁をしない。よく言えば門戸開放、悪く言えば自由放任主義、もっと悪く言えば放置状態となるだろうか? コメント欄に関しては完全開放であり、削除もしない。

そして拙稿についても、一切の削除を行なっていない。足掛け十二年、二千有余の膨大なる投稿のすべてが原形のままである。後日、訂正を入れることがあるけれども、その場合も取り消し線を使って、原文は残すようにしているのだ。

これは胸を張って言えることである。

特に深い考えがあってそうしているわけではない。正直でありたいという素朴な理由が第一である。しかし、後から気がついたことだが、このわたくしの姿勢は顕正会を批判する上でひじょうに有効なのである。
その理由であるが、このところ基礎教学書の批判を書いている。そこでのツッコミとして、旧書・折伏理論解説書との比較の上から、あちこち書き換えられているのは都合の悪い部分を糊塗するためだろう、ということを書いたりしているわけである。
当然、同じ批判がわたくしにも向けられるはずである。巌虎よ、オマエだって都合の悪いことがあれば隠すだろう、と。つまり、他人の批判をしていれば、いずれは自分自身も同じ刀で斬られることになるのだ。

おわかりだろう。わたくしが胸を張っていられるのは、自分自身の投稿をすべて原文のまま残しているからである。

もし仮にである。そこに決定的なミスがあったとしても、物凄く恥ずかしいような文章だったとしても、それを糊塗することなく残しておくことが最大の強みなのである。

これも簡単な話だ。

間違っていました。未熟でした。今になって読み返すと恥ずかしい限りです。このように正直に言えばいいだけの話なのである。何しろ失うものは何もないからである。

たぶん浅井先生には失うものがたくさんあるのだろう。それが金銭的なものなのか、あるいはそれとは別のものなのか、わたくしにはわからないけれども、ともかく失うものがとてつもなく大きいのだ。ゆえに守りに入っている。それが今の浅井先生なのだろう。

以上、わたくしが顕正会に対してけっこう強気で言いたいことが言えるのは、上述のような理由からである。同様の意味で、宗門に対しても創価学会に対しても言いたいことが言えるわけで、自画自賛ながらもそれなりに存在感のあるブログなのかもしれないと思う。

そんなわけだから、わたくし的には沖浦氏が何を書こうが屁の河童という意味もある。

また、沖浦氏のほうにしても、わたくしに何を言われようが屁の河童なのだろう。

ところがである。

なぜだろう、わたくしにはまったく理解不能なのだが、もともとは拙ブログとは無縁と思われる人たちが、わざわざ沖浦氏を糾弾するためにコメントを寄こすのである。そもそも拙ブログを閲覧する動機がわからない。もし拙ブログには用がなく、沖浦氏を追い掛けることだけが目的だとすれば、その異常心理に気がつくべきである。俗に言うストーカーと大差がないことに気がつくべきなのである。

さて、いわゆる炎上と呼ばれる現象がある。

世界共通なのかどうか知らないが、わたくしの当てずっぽうの感想では、日本はネット炎上のメッカのようなところだと思う。その最大の理由は匿名投稿が主流だからだろう。これは沖浦氏がいつも言っていることでもあるが、ようは匿名なるがゆえに無責任なことを好きなだけ言えるわけである。もし実名投稿が主流であれば、おそらくはかなり事情が違ってくるはずだ。

巌虎よ、オマエだって同じじゃないか、という批判はもちろん先刻承知のつもりである。

ただし、巌虎独白はすでに十年以上にわたってコンスタントに書き続けてきた実績がある。つまり、いわゆる匿名とは性質が異なるのだ。気取って言えば、一種のペンネームであって、すでに匿名性は失われていると考えることもできるのだ。

ここまで書けば十分だろう。

今、拙ブログに投稿している人で、とりわけ沖浦批判に躍起になっている人たちは、大いに反省すべきだろう。恥ずかしいと思わなければいけない。

もう一点、書いておく必要がありそうだ。

今日の拙稿を読んで、穿った見方をする人は言うかもしれない、巌虎はずいぶん沖浦氏の肩を持つではないか、と。いや、普通に読めばそうは受け取れないはずなのだが、ようはうまく誤魔化して、沖浦氏を擁護していることを悟られないように書いているのだと見るわけである。いわゆる韜晦だ。

しかし、それはまったくの誤解である。

たとえば昨年の今頃は、勝氏が驚異的な投稿数を誇っていた。彼は勝手に云々とのハンドルネームを名乗っていたが、文字通り勝手気ままに投稿して、勝手気ままに去っていったわけである。その理由は不明だが、たぶん仕事が忙しいのだろう。転職した旨の投稿があって、その頃から投稿数が激減して、今ではすっかりご無沙汰となってしまった。
あるいは大沢氏も一つの例としてわかりやすいだろう。けっこう古くからの常連さんだが、一時期、完全撤退したことがあった。その期間はけっこう長かった。数年間、まったく音沙汰がなかったのだ。最近もわりと仕事が忙しそうで、あまり多くは投稿していない。
のび太氏もわたくし的には印象深い存在だった。彼は創価学会が大幅な教義改変を行なった頃に姿を見せなくなった。創価学会員の彼としてはそれが一大転機だったのかもしれないし、あるいはまったく別の事情かもしれない。

以上、三人の例を挙げたが、ようは門戸開放であり完全自由投稿が拙ブログの伝統ゆえに、彼らは好き勝手に投稿し、かつまた好き勝手に去っていったわけである。しょせんは沖浦氏もその一人に過ぎないのだ。

そう言えば、教子氏の存在も面白かった。彼女はわたくしのこういった物言いに腹を立て、抗議のコメントを書いたことがあった。ただし、これも古くからの愛読者はわかっていることであって、いわば暗黙の了解ができているわけである。ゆえにわたくしのこうした物言いに苦情を言う人はいないわけで、極論すればイヤなら来なければいいだけの話なのである。そういうわけで教子氏は程なくして来なくなったわけだが、その後も熱心に投稿する人たちはいた。もっとも、最近はずいぶんと少なくなって、もっぱら沖浦氏ばかりが目立っているわけだが・・・

まあ、これも当然の帰結なのかもしれない。何しろ独白ブログだからである。よって、いずれコメント投稿者がゼロになれば、その時こそ正真正銘の独白ブログが成立することになるだろう。

だったらコメント欄を閉じちゃえよ、というツッコミもあるわけだが・・・

2017/1/26

第六章を斬る  
沖浦氏から引き続き例の話題が寄せられている。

 地球に落ちて来る隕石の量が、一日に数十トンから数百トンと云われています。

これはどのような根拠で言われていることなのだろうか? そしてその信憑性はどうか?

 太陽の質量は地球の332 946.048 7 ± 0.000 7 倍です。

ずいぶん詳しいではないか?

当然、これらの話はどこかの専門的なサイトから拾ってきたものなのだろう。それ自体は大いに結構なことだが、すでにわたくしのほうからは前回表明したように、ずいぶんと些末な議論にこだわっているものだと思う。問題はそこではないはずだ。繰り返し言おう。核廃棄物を太陽に打ち込むような技術が実用化される頃には、たぶんその他の技術も相当に進歩しているだろうから、別に太陽に打ち込む必要はなくなるはずなのだ。太陽信仰的な意味からして、ようは倫理的な意味からして、その技術は否定されるべきというのがわたくしの意見である。

 それでも貴方がご心配なら、太陽を止めて銀河系の空間への永久廃棄を提案しても良いですよ。

これもすでに表明したごとく、わたくしは反対である。宇宙空間は地球人の独占物ではない。地球上においても不法投棄は許されない。宇宙においても同じ理屈である。

さて、今日も基礎教学書の続きである。

第六章 日蓮大聖人と釈迦仏の関係

本章もきわめて重要である。いわゆる本章は日蓮本仏論、浅井先生による日蓮本仏論が展開されているわけだが、上掲のごとく、タイトルには本仏論と謳っていない。おそらくはこれが浅井先生らしいところであって、ようは日蓮本仏論という言い方が嫌いか、もしくは好ましくないと考えているのだろう。もちろん上掲は大聖人と釈尊の関係性にスポットを当てる意味で、きわめて直截的でわかりやすいタイトルだと思う。逆に日蓮本仏論と書いてしまうと、おかしいのかもしれない。

 一般世間では、仏教の元祖は釈迦仏で、仏法はすべて釈迦仏に始まると思っている。

これが本章の冒頭の一節である。つまり、一般的に言うと、インドの釈尊が仏教の開祖であり、それが聖徳太子の時代くらいに日本に入ってきて、弘まっていった。いわゆる鎌倉時代の日蓮という人物は、そうした仏教の歴史の中においては派祖の一人に位置付けられる。これが一般的な認識なのだろう。

ところがである。日蓮正宗系においては、この日蓮こそが実は本仏なのだという、きわめて特殊な考え方をするわけなのだ。

もうこれだけで重要性がわかるだろう。大聖人こそが御本仏であられる。これを一般人にどのように説明するか、さらには他宗他門をも十分に納得させられる理論をどうやって構築するか、それが論者の手腕に委ねられているわけである。

ゆえに浅井先生も相当の意気込みで本章を書いているわけで、旧書をベースにはしているものの、やはりかなりの改稿を試みている。ここは前回の第五章とは違って都合の悪い部分を抹消するような意味ではなく、純粋な意味で、より一層の精密なる論理展開を図るべく改稿したものと思われる。

よって、わたくし的には特に問題を感じなかった。よく書けている。これが結論である。

もっとも、オマエに言われなくないよ、というのが浅井先生ないし本部首脳の気分だろう。その意味からすると、瑣末な部分ではあるけれども、いくつか気になったところを指摘しておいたほうがよいかもしれない。

 熟脱の仏は色相荘厳といって、鎌倉の大仏に見るごとく、眉間にイボのように白い毛が渦巻いている「眉間白毫相」とか・・・

あれまあ、鎌倉の大仏が出てきちゃった。参考までに旧書の同一箇所を示しておく。

 熟脱の仏は釈迦仏に見るごとく、色相荘厳といって、眉間にイボのように白い毛が渦巻いている「眉間白毫相」とか・・・

どうなんだろう、釈迦仏なんて見たことねえよ、というクレームがあって、それで具体性のある鎌倉の大仏に書き換えたのだろうか?

しかし、顕正会ではそれを謗法だとして、見ることさえ禁じているような雰囲気がある。だとすればおかしな話だろう。もっとも入信前の人たちはそういう謗法の概念を持たないので、普通に鎌倉の大仏だろうが奈良の大仏だろうが、見ているのだろうけれども・・・

・・・相好である。

これも気になった。同じく旧書を見てみよう。

・・・慈悲である。

わたくしにはこの変更がわからなかった。旧書のままでよさそうなものだが・・・

 「学者まさに知るべし。蓮祖もし久遠元初の自受用身に非ずんば、焉んぞ教主釈尊に勝るることを得べけんや」

この日寛上人の御指南を添加したのは素晴らしいことだ。不勉強のわたくしは当該御指南を知らなかった。ところで、これは日寛上人のどの御著作に出てくるものなのだろうか? 具体的な出典が示されていない点が不親切である。

文上体内の寿量品の利益である。

これがまた難しい。文上だとか文底、あるいは体外・体内、こういう専門用語があるのは知っているが、いきなり上掲のごとく説明されてもわけがわからない。たぶん、わたくしがわからないくらいだから、新入信者にはさっぱりわからないだろう。

 この地涌の菩薩の大集団に、ひときわ巍々堂々として尊高なる一人の大導師がましました。この御方を上行菩薩と申し上げる。

もしかしたらここが最重要ポイントかもしれない。本章の、あるいは日蓮本仏論の、である。

わたくしの認識では巍々堂々は地涌の菩薩全員に対する形容ではないかと思うのだが、浅井先生はその中でもひときわ巍々堂々として尊高なる一人の大導師がいると言っているわけだ。この明確な文証は存在するのだろうか?

拙ブログの愛読者ならば誤解はないだろう。わたくしは何も日蓮本仏論を否定したいわけではないのだ。むしろ肯定の立場なのだが、そのためにはより一層の精密なる理論が求められるわけで、その意味で上掲はやや疑問に感じられるところなのである。この点、法華講員や今も日蓮本仏論を支持する創価学会員の中で詳しい人がおられれば、ぜひともご教示を願いたいところである。

いや、本当は顕正会員からのコメントがほしいのだが、たぶん無理だろうなあ・・・

2017/1/25

第五章を斬る  
沖浦氏はずいぶんと些末な議論にこだわるものである。しかもわたくしの説明をまったく理解していない。

 私は地球をそのまま太陽に投げ込んでも太陽はびくともしない事実を書きました。

 でもね、地球を太陽に投げ込めとは書いておりません。


そんなことはわかり切ったことである。そうではなくて、太陽の微妙な揺らぎが地球にとっては大きな出来事かもしれない、ゆえに場合によっては地球が消滅しかねないほどの危機かもしれない、ということなのだ。

今年の冬は寒い。その原因はいろいろあるのかもしれないが、地球温暖化だとかその逆の寒冷化だとかの議論において、一つの説として、太陽活動の気まぐれ・揺らぎ、というような意味のことを言っている専門家もいるはずである。
たとえば何かの病気で四十度の高熱にうなされるとしよう。これはかなり危険な状態である。しかし、普段の体温からみれば、ほんの数度の差でしかない。あるいは風呂がわかりやすいかもしれない。普段の温度より十度高い風呂に入ってみれば、誰もが熱いと感じるはずだ。いや、それどころの話ではなく、ヤケドをするかもしれない。逆に十度低い風呂だとどうか、おそらくは冷たくて入れない。無理して入れば、風邪を引いてしまうかもしれない。
つまり、人間のスケールではわずか数度の差で熱いとか冷たいとか感じるのだ。そういうチッポケな存在なのである。
ところが太陽はすでに沖浦氏が示しているようにスケールが違うのである。ゆえに太陽活動の活発不活発によって、それこそ数百度だとか数千度、あるいはそれよりももっと上の単位の変動が起こるかもしれないのだ。

これでおわかりだろう。太陽に地球を丸ごと投げ込んでも云々は現実的な話ではないけれども、そこで起こるであろう何がしかの変化がどれほどの影響を地球に及ぼすかは未知数なのである。それが前回書いた、太陽にとっては屁の河童でも地球にとっては大問題、という意味である。

当たり前の話だ。そもそも誰が太陽に向かって地球を投げ込むのか、そんなことが可能ならば核廃棄物の問題などそれ以前に解決できてしまうだろう。

さて、今日は第五章だ。

第五章 仏法の実践

本章も完成度は高い。さすがは浅井先生だ。

ただし、旧書との比較をした場合、さまざまの問題が見えてくる。そこが残念でならない。もし過去の経緯を完全に消去できるものならば、その上で虚心坦懐に読むならば、本書は素晴らしいの一語に尽きるだろう。だが、しかし、それは無理な話である。とりわけ宗教の世界においては一貫性が求められる。ゆえに旧書・折伏理論書との比較において、変節と考えられる部分についてはしっかりと指摘しておかねばならないのだ。

まず冒頭、自行化他にわたる仏法の実践について、御書を三文引いている。ところが旧書を見ると、四文なのだ。三大秘法抄の引用が削除となっているのだ。この意味がわからなかった。それほど都合の悪いところではなさそうなのだが、どうしてなのだろうか?

そして次の勤行のくだりが大問題である。

対境の御本尊について

これは旧書に出てくる小見出しである。旧書ではこの説明だけで実に丸々三ページを使っているのだ。ところが新書ではこの部分を全面削除とし、まったく別の内容に書き換えられているのである。その内容が素晴らしい。素晴らしいだけにイヤラシイのだ。

つまり、先ほども書いたように完成度がひじょうに高い。ゆえに過去の経緯を踏まえず、新書のみを虚心坦懐に読めば、これはこれで素晴らしいの一語に尽きるのである。

その一例として次のくだりを紹介しておこう。

 何と重大なる御指南か。まさに御相承に基づく重大御法門と拝する。不相伝の身延派等の諸流は、たとえ題目を唱えるともその体を知らない。よって大聖人の御意に背き・・・

引用が中途半端で恐縮だが、ようはこの直前に日寛上人の御指南を引用して、その上でご覧のように言っているわけである。これは申すまでもなく、日蓮正宗の正義を高らかに宣揚するものだ。しかし、それでいて現実には宗門と対立しているのだから、困ったことである。ただし、何度も言うようだが、そうした背景をすべて取り去って純粋にこの部分だけを見れば、どれほど素晴らしいことを言っているのか、ということなのである。いや、もちろん、これは日蓮正宗を中心とした物の見方であって、当然、他宗他門には異論があるわけだが・・・

さて、本章の最大の問題点を指摘しよう。すなわち旧書・折伏理論書に書かれている次のくだりが重要である。

 やがて宗門が御在世の信心に立ち還るとき、顕正会員こそこの捨身の御奉公によって、晴れて御本尊の授与を賜わる資格を得るのである。

さらに旧書の旧版、すなわち折伏理論書の初版が重要である。

 やがて御遺命守護完結のその日には、顕正会員こそこの捨身の御奉公によって、時の御法主上人より、晴れて御本尊の授与を賜わる資格を得るのである。

拙ブログで繰り返し指摘してきたことである。つまり、顕正会側はこの明々白々たる自語相違についてどうにも弁解のしようがないので、なかったことにしたいわけなのだろう。しかし、これはまるで同じ構図なのである。顕正会がいつまでも国立戒壇問題で創価学会ないし宗門の自語相違を責めるのとまったく同じ構図なのである。

これで第五章はオシマイだ。あとは大した問題ではない。

強いてアゲアシ取りを承知で書けば、次のくだりが少し問題かもしれない。

さらに亡くなった親族などを回向する。このとき戒名あるいは俗名を称え・・・

戒名?

ご存知のごとく、顕正会では年ごとに独立教団路線を強めており、そうした中で戒名不要論まで言い出す始末である。これは元顕正会の法華講員たちが痛烈に批判している問題であるが、わたくし自身は法華講員ではないので、あまり実感のない問題だった。しかし、上掲を読んで思わずツッコミを入れたくなった次第だ。

三大秘法をたもち御本仏の使いとして・・・

これは完全なアゲアシ取りというか表記についての校正を促すものである。上掲は129ページの真ん中あたりの記述であるが、131ページの後ろから二行目には次の表記がある。

三大秘法を持ち・・・

どうなんだろう? わたくしのパソコンでは「たもち」を「持ち」とは変換できない。このことから推測すると、浅井先生も入力ミスをしたことになるのかもしれない。もしそれが事実だとすれば、先生もパソコンで文章を打ち込んでいることになりそうだ。

2017/1/23

第四章を斬る  
沖浦氏によれば、創価学会では十界論の見直しを行なうのだそうである。そもそも今現在の創価学会が十界論をどのように説明しているのか、承知していないので何とも言いようのないところである。

また、レールガンの議論では、太陽は地球を丸ごと呑み込んでも変化しないくらいの巨大さであるからして、地球上の核廃棄物など物の数ならずである、という意味の反論を書いている。沖浦氏にしては、めずらしく道理に立脚したコメントだ。しかし、それではわたくしの書いたことの半分というか、半面しか見ていないことになる。地球上の物質を地球外に移送すると、地球の質量が変化するのだ。すると、やがては地球そのものが消滅してしまうことにもなりかねない。もちろん、これにしても現実的には数千年だとか数万年だとか、あるいはもっと長いスパンの話なのかもしれないが、理屈はまさにこの通りだろう。ましてや沖浦氏は地球を太陽に丸ごと落とし込むと言っているくらいなのである。太陽の側から見れば屁の河童の話なのかもしれないが、地球の立場からすれば大問題だ。まさに地球消滅の危機である。

さらに言えば、わたくしはそうした技術論ではなく、仏法の視点から反対の意見を書いたわけで、それこそが最大の理由である旨、しっかりと明記したはずである。それを無視してどうするのかと思う。

さて、本題に入ろう。

第四章 三世常住の生命

最初に結論を書こう。圧巻だった。

基礎教学書を斬るというコンセプトで書き始めたつもりだったが、いつの間にか提灯持ちのような立場になってしまったようである。しかし、これはもともとがわたくしの流儀であって、ようは是々非々なのである。宗門に対しても、あるいは創価学会に対しても、わたくしは認めるべき点は認めるし、その逆もしかりなのである。ゆえに顕正会についても同様であって、何でもかんでもイチャモンを付けてやろうというような浅ましい根性は、持たないようにしているのだ。

本シリーズの連載は無計画で始めた。これもいつものことではある。拙ブログはぶっつけ本番で書いている。そしてもう一つ打ち明け話をすると、実はまだ基礎教学書を読了していないのだ。

今日は第四章を読んだので、第四章について書くわけだが、逆に言うと、それ以降の章はまだ読んでいないのである。

ズボラな性格そのものであるが、あえて正当化する意味で言えば、虚心坦懐になって読んでみたらどう感じるか、ということでもあるのだ。その結論が圧巻だったわけだ。

 そして大事なことは、我々の生命はこの生死をくり返しながら、過去世・現在世・未来世の三世にわたって連続し、これに伴い幸・不幸の因果も、鎖の輪のごとく三世につながっているということである。

ヤブカラボウに本文を引用した。いわゆる三世の生命観については、日本人の平均的な教養レベルの持ち主であれば、これを信じるかどうかは別にして、誰もが知っていることである。
そこで浅井先生はより一層の深みを持たせるためだろうか、この後に十二因縁の法門をかなりの紙数を割いて説明している。さすがにこの部分は一般人には難解である。
いや、一般人だけではない。わたくし的にも難解な部分である。なぜならば御書の中でもこれについての言及はきわめて少ないからである。
また、浅井先生自身も合宿研修会の時だったろうか、冗談交じりに言っていたことがある。いわく、教学試験の時には必死に暗記するがすぐに忘れてしまう、と。

三世両重の因果

この大聖人の御表現は絶妙である。

鎖の輪のごとく・・・

この浅井先生の表現も、当たり前と言えばそれまでだが、けっこう的確と思う。

先ほども書いたように、三世の生命観は信じる信じないは別にして、わりと広く知られていることであるし、いわゆる連鎖とか連鎖的という言葉もかなり汎用的に使われている。してみれば、過去・現在・未来が相互に密接に関係していることあらわす譬喩として、鎖の輪が用いられるのは当然過ぎることなのかもしれない。

ところで、第四章もかつての折伏理論書をベースにしていることには変わりがない。しかし、委細に見れば各所に相違がある。

 大聖人は開目抄に心地観経を引いて・・・

あの有名な過去の因を知らんと欲せば云々の一節である。これを旧来の書では心地観経とは書かなかった。ためにネット上ではこれを批判する向きもあった。本部首脳ないし浅井先生はそれを気にしたのかもしれない。まあ、わたくし的には大した問題ではないのだが、それでも正確を期すという意味では正しい改訂だったと言えるだろう。

虚心坦懐に読んだと書いた。たぶんこの段階で旧書との違いに気づいたのは上掲の一箇所だけだと思う。その後、いちおう旧書との違いをざっと確認してみた。

・質量不変、エネルギー不滅を削除

・当体義抄の煩悩・業・苦のところを加筆

・中有の説明では大幅削除

・信心が弱ければ一生成仏が叶わないくだりで御書の追加


単純に言うと、加筆ないし追加の部分はそれが望ましいと考えてのことだろうが、逆に削除の部分は都合が悪いから削除したことになるだろうか?

質量・エネルギーの不変不滅の話はよくわからないので言及を控えるが、中有のところには触れておきたい。ここでは道善房の記述が全面的に削除されている。その理由が気になるところだ。
一つの理由としては本章全体の文脈上やや煩瑣というか、横道に逸れているような意味があるのかもしれない。まったくの初心者にとっては道善房がどのような存在かよくわからない。それを中有という難解な概念を説明するくだりで持ち出されても困るだろう。
そして、かなり穿った見方かもしれないが、もう一つの理由のほうが重要かもしれない。次は旧書からの引用である。

 生命が中有にある期間については、あるいは七日、乃至四十九日・・・

顕正会が独立教団路線に転ずる以前においては、葬儀法要の大事を説いていた。いつだったろうか、浅井先生は何かの講義の折に、今は初七日を葬儀の日に一緒にやってしまっているが本当はダメである、仏法上の理由があって七日単位の法要が行なわれるのだから、それをちゃんと守るべきである、という意味のことを言っていたのである。もしこの事実を隠蔽したいがために当該箇所を削除したのだとしたら、これはもう大問題だろう。

ちなみに本章では道善房の記述に続いて十王讃歎抄も削除しているが、これは宗門版ないし創価学会版の御書においても不掲載なので、それでよいだろう。しかし、今度は毛血法師のくだりで八大地獄抄の引用をそのまま残していることがわからなくなる。あるいは顕正会独自の真偽判定があるのかもしれない。

2017/1/21

第三章を斬る  
まず、昨日の拙稿だが、冒頭の文章がおかしかった。たぶん言わんとしていることは、誰が読んでも理解できるだろう。ただし、接続がおかしいのだ。ウルサイ人が読めば、なんだ、このヘナチョコな文章は、ということになるはずだ。実に恥ずかしい限りである。

さて、今日は基礎教学書の第三章である。

第三章 十界論

第二章を読み、そして第三章を読んだ段階で、気がついた。第一章の全面改稿の理由である。昨日も触れたように、第二章は折伏理論書のほぼ丸写しだった。実は第三章も同様なのである。
すると古くからの会員たちは思うのだ。なんだ、同じじゃないか、だったら読む必要はないな、と。もちろんこの機会だからと、真剣に読み直す人もいるだろう。ただし、わたくしの経験からして、ざっと眺めるだけで読んだつもりになってしまう人も少なくないのだ。理論書の改訂版の時の経験である。
浅井先生としてはそれでは困るので、ちゃんと読んでもらうための工夫が必要になる。それが第一章の全面改稿に反映されているわけだ。いわば渾身の一筆が第一章なのである。

いや、もっと下世話なことを言えば、まったく同じだと読んでもらえないとかの問題ではなく、一種の詐欺みたいな話にもなりかねないので、そこを心配したのかもしれない。つまり、折伏理論解説書という副題を基礎教学書という副題に変更しただけで中身はまったく同じ、それでいて装丁が立派になったことで値段が高くなってしまっている、そんなものを買わされるほうは堪ったものじゃない、という話なのだ。

結局、第二章以降はほぼ同じ内容なので、それがわかった時点でガッカリという会員たちも少なくないだろう。さすがに口に出して言う人はいないだろうが・・・

ということで、第三章についても特に取り上げるべき点はないのだが、冒頭の大宇宙における十界のところは少し注目してよいと思う。

 まず大宇宙における十界を説明する。地獄界はこの閻浮提(全世界)の地下・一千由旬にある等活地獄から二万由旬にある無間地獄までの・・・

理論書にもほぼ同文が存在するけれども、決定的な違いが一箇所ある。(全世界)だ。これが理論書にはない。浅井先生としてはより丁寧な説明を心掛けたつもりなのかもしれない。しかし、わたくしは逆効果のように思えて仕方がない。ようは裏目に出ているということだ。

大宇宙? 閻浮提? 全世界?

その文脈で地下一千由旬だの二万由旬だのという聞き慣れない単位が出てくるのだ。これではわけがわからんだろう。

修羅は身長八万四千由旬、四大海の水も膝にすぎずといわれる。

これも新たに加筆されたものである。修羅は想像を絶する存在だ。

二乗(声聞・縁覚)は舎利佛・目連等。

大宇宙における十界の説明としてはどうか?

菩薩は本化・迹化のごとし。

なんだ、これは?

仏界は一往、釈迦・多宝のごとくである。

一往の対義語は再往であろうか? ようは大聖人こそが仏界中の仏界だから、ご覧のような表現に落ち着いたわけなのだろう。ひるがえって菩薩界のほうは、言い回しを含めて意味不明である。これで説明と言えるのだろうか?

正直な感想を書くと、わたくしは理論書の当該部分のほうが遥かに洗練されていると思う。具体的には次のくだりである。

経文にはくわしく十界のそれぞれが明かされているが、これら大宇宙における十界はここには省略する。

今は具体的に示せないが、浅井先生は教義上の難しい事案について、説明を省くことが時々ある。凡夫の浅知恵で軽々しく判断してはいけないとか、あるいは時が来たら話すとか、そういうような感じで逃げを打つことがある。逃げを打つというのは不穏当な表現ではあるものの、必ずしも悪いことではない。実際、人間の五感では感知できないものが存在するのと同様に、いわゆる概念的なものであっても人間の思慮の遠く及ばないレベルのものがいくつもあるのだろうと思う。おそらくは大宇宙における十界もそうした領域のものなのだろう。ゆえに省略しちゃってもいいというか、むしろそのほうが賢明なのである。

その意味で、今回の加筆部分は失敗だったのではないか、これがわたくしの結論である。

飢渇

オマケを書こう。上掲にはルビが振られていて、わたくしはそれが意外だった。「きかつ」と振ってあるのだ。理論書も確認してみた。やはり「きかつ」だった。
たぶん一般人のそこそこ教養のある人たちは思うだろう。オマエは何を言いたいのだ、飢渇はきかつに決っているじゃないか、と。
恥ずかしながら、わたくしはその読み方を失念していた。もう長いこと「けかち」と読んでいたのだ。その理由は御書である。つまり、大聖人がけかちとおっしゃられているものだから、それが身についてしまったのだ。

つまり、浅井先生が大聖人の読み方ではなく現代国語の読み方を採用していることが、わたくしには意外に感じられたわけである。

いずれにしても十界論は初心者にとって、ひじょうに有用な理論である。実は第二章においてすでに十界論の片鱗が示されているわけだが、当然ながら初心者には理解不能である。十界論を知らないのだから、仕方がないことだ。しかし、第三章に入って十界論を学ぶことによって、そこでようやく第二章の意味がわかってくる。一見すると順番を逆にしたほうがよさそうだが、たぶん今の順番でいいのだろう。基礎教学書は二読三読すべき本なので、一読目には理解不能でもいいのだ。繰り返し読み込むことによって、どんどん掴めてくるのだと思う。

何だか知らないが、基礎教学書の宣伝を書いているみたいだ。

2017/1/20

第二章を斬る  
本連載はいつものごとく何の計画もなく行き当たりばったりで書いているので、昨日の拙稿を読み返してみるとあまりデキのいいものではないことに気づいた。

第一章 日蓮大聖人とはいかなる御方か

このタイトルを欠いてはいけなかった。そして浅井先生は冒頭にズバリ結論を書いている。

 「日蓮大聖人こそ、末法万年尽未来際の全人類を、三大秘法という根源の仏法を以て、現当二世にお救い下さる、実に久遠元初の自受用身、末法下種の主・師・親、大慈大悲の御本仏であられる」

いわゆる基礎教学書は副題であって、本題は日蓮大聖人の仏法である。その意味からすると第一章のタイトルは必然と言えるだろう。大聖人の仏法を論ずる本なのであるから、大聖人がいかなる仏さまであるかを問うのは、必然的な流れと言えるのだ。そして浅井先生らしく、冒頭にいきなり結論を持ってくる。ちなみに第一章の最後にも上掲とほぼ同文が示されている。いわゆる標・釈・結の三段構成だ。

ただし、前回も書いたように、第一章はかなり難解である。それに比べると、第二章はかなり平易な感じがする。

第二章 人生の目的と幸福論

平易な感じがするのはタイトルそのものが一般的だからである。それはそうだろう。いきなり日蓮大聖人とはいかなる御方かと言われても、一般人にとっては取っ付き難い話であり、抵抗感を感じる人も少なくないはずだ。しかし、人生の目的だとか幸福については、多くの人の関心事と考えられるので、わりと入りやすいはずである。もしかしたら第一章をすっ飛ばしていきなり第二章から読み始める人もいるかもしれない。

さて、内容的にはかつての折伏理論書の焼き直しというか、ほぼ丸写しであるが、もちろん書き直されている部分も存在する。例えば田中角栄の記述が削除されている。

実は拙ブログにおいて、ずいぶん前に折伏理論書の全面的な改訂を提案したことがあった。その一つとして、いつまでも田中角栄は使えないだろう、今の若い人たちにはピンと来ない話のはずだ、という意味のことを書いた記憶がある。しかし、皮肉な話になるだろうか、実は昨年あたりは田中角栄の再ブームみたいな感じで、角栄本がけっこう売れたようなのである。

それはさておき、本書では次のくだりが問題である。

 あるいはヒットラー・スターリン・毛沢東のごとき独裁者が・・・

理論書にもヒットラーの記述はある。しかし、後の二名はなかった。今回、新たに加えられたわけだ。わたくしの思うに、これはいわゆる歴史認識の問題として、物議を醸すところだろう。
歴史的事実として正しいか間違っているかが問題なのではない。人生の目的と幸福論という普遍的なテーマの中で、具体例としては相応しくないと思うのである。
もちろん、具体例は必要である。難解な概念、あるいは抽象的な概念、こうしたものをストレートに理解できる人は少ない。ゆえに何かしらの譬喩だとか例示が必要になってくる。しかし、具体例と言えども個人名を出す時は細心の注意が必要だ。

話を進めよう。

人生の目的は幸福である。

まあ、これはいいだろう。では、幸福とは何か、それが問題となるわけだが、浅井先生は御書を引用しつつ、幸福の普遍的本質的なところに迫っていく。

 人間にとって命ほど大切なものはない・・・

浅井先生はこの前後に実に四つもの御書を引用して命の大切さを訴えている。命が大切なのは当たり前であるが、懇切丁寧に具体的な御文を引いて説明していくことで、より一層の説得力を持たせようとしているのだ。その上で幸福の定義を次のごとく述べている。

すなわち、生命の維持・発展が妨げられない状態を「幸福」といい、妨げられている状態を「不幸」という。

しょせん定義とは味気ないものである。ゆえにこれはこれでいいのだろう。しかし、物凄く無機質であり、有機的な存在であるはずの人間にとっての幸福論としてはやや抵抗がある、というのがわたくしの感想だ。

浅井先生は上掲の幸福の定義を示す前段階として、世間一般の最大公約数的な幸福論として次の文章を紹介している。

 「人間は生きていくなかでさまざまな欲求をもち、それが満たされることを願うが、幸福とはそうした欲求が満たされている状態、もしくはその際生ずる満足感である」

当然、浅井先生はこれを誤りだとした上で、前掲の定義を持ってくるわけだが、わたくし的には上掲で十分のように思うし、むしろ上掲のほうが人間らしい幸福論に感じられるのである。

ご存知のごとく、すでに俗語の範疇として四苦八苦という言葉が存在する。この最初の四つの苦しみの中に、浅井先生の言わんとする生命の維持発展云々が包含されているわけだ。そして残りの四つの中に求不得苦がある。まさに上掲の言わんとしていることがこれなのだ。今、四苦八苦を俗語の範疇と書いたが、言うまでもなく元々は仏教の基礎的な概念なのである。とすれば、くだんの最大公約数的な幸福論もあながち間違ってはいないことになるだろう。

以上、第二章の記述に対して、あえてイチャモンを付けてみた。

そう、イチャモンなのである。つまり、基本的には浅井先生の言っている通りであり、本章は先生らしく簡潔にして要を得た、なかなかの名文に仕上がっているというのがわたくしの評価である。ただし、幸福論は簡単ではない、一筋縄では行かない、というのも事実であって、その一例としてわたくしなりの視点からあえてツッコミを入れてみた、というのが本日の拙稿である。


二月六日追記:スターリンの記述は折伏理論書改訂版第九章に見られる。よって本文中のわたくしの発言は不正確だったことを正直に告白しなければいけない。わたくしもご多分に漏れず、読んだつもりになってしまっているクチということだ。

2017/1/19

第一章を斬る  
引き続き沖浦氏からコメントを頂戴しているが、特に目新しいことを言っている様子はないので、省略させていただくことにしよう。

そして今日はいよいよ基礎教学書の第一章である。

ぶったまげた。これが偽らざる感想である。読後感としては難解過ぎるというのが正直な印象であり、おそらく仏法についての予備知識がまるでない人が読めば、わけがわからなくて途中で投げ出してしまうのではないかと思った。
創価学会からの入会者、あるいは法華講からの移籍者にしても、相当の教学力がないと読めないだろう。ましてや他門の人にはまったく理解不能の内容かもしれない。
つまり、基礎教学書はその名前に反して、決して基礎的ではないのだ。むしろ上級向けの本だと思われる。かつての折伏理論書は平易であることに重点が置かれていた。しかし、本書はその真逆だろう。ようは浅井先生が長年培ってきた教学上のすべてを吐き出したような、いわば集大成の書と考えられるのだ。

いま講次に臨んで止むをえず、謹んでその要を撮ってこれを拝せば・・・

第一章の冒頭にいきなり出てくる文章である。講次が難解であるし、要を撮るも特殊な表現だ。これでイヤになっちゃう人がいるとしたら、すでにこの本は失敗作ということになるだろう。

 以下、この大旨を五項に分けて説明する。

ようするに日蓮大聖人とはいかなる仏さまであるかを説明するのが第一章の目的である。それを五項に分けて説明していくと言っているわけだが、実はこれがベラボウに難解なのだ。

大旨はタイシと読むのだろうが、訓ずればオオムネということになる。わたくしはぜんぶで数ページないし十数ページくらいの分量なのかとイメージしたわけだが、そうではなかった。なんと五十ページ近くもあるのだ。しかも第二項はさらに四項に細分化されている。つまり、入れ子構造になっているのだ。ゆえに漠然と読んでいると、いったい自分が今どこにいるのかわからなくなって、まるで迷路の中をさまよっているような不安感に襲われるのだ。

別の言い方をすると、欲張り過ぎなのだと思う。ようは言いたいことを詰め込み過ぎているのだ。これはかつての折伏理論書とまるで正反対である。

そうした中で、唯一、感銘したのは次のくだりである。

御文の「釈迦仏」とは、その元意は日蓮大聖人の御事である。

これは折伏理論書よりも洗練された一節だと思う。もしくは簡潔を旨とする浅井流の面目躍如と言えるだろう。逆に言うと他の部分は浅井先生らしくないのだ。いや、本当はそんなことはないのだけれども、まあ、従来の平易さだとか簡潔さを知るわたくしからすると、どうも難解過ぎるキライがあって、そこがキズのようにも思えるわけである。

乃至

そしてさらに苦言を呈すれば、御書本文中の乃至が問題だろう。顕正会で御書を発刊していれば問題はない。しかし、顕正会には御書がないのだ。ゆえに熱心な活動会員たちはこれを御書の本文そのままだと勘違いすることになる。法華講員や創価学会員は驚くかもしれないが、本当に熱心な活動会員たちは浅井先生の書籍を一字一句丸暗記するくらいの凄まじさなのである。もちろん引用されている御書も丸々暗記してしまう。そこにいわば落とし穴があるわけだ。

(中略)

第一章だけでもたくさんの御書が引用されている。と同時に日寛上人の御指南もたくさんの引用がある。その中で依義判文抄の三大秘法開合の相を御指南下さる部分が引用されているわけだが、途中にご覧の表記が挿入されているのだ。わたくしは御書の表記も同様にすべきだったと思う。瑣末なことを言っているようだが、これが浅井先生にとっての集大成となるべき書籍だとすれば、こうした細かい点にも気を配るべきだったろう。

これ凡夫だからだ。

不能犯だからだ。


これも細かい話で恐縮だが、全体を通して「である」で統一されているにもかかわらず、ところどころで上掲のような言い回しが出てくる。これが少し気になった。凡夫だからである。不能犯だからである。これで何の違和感もなかったはずである。

以上、第一章はおおむねこんなところである。教義上の誤謬は特に感じなかった。

2017/1/18

沖浦氏のご提案について  
原発から出る放射性廃棄物の処分方法について、レールガンがよいのではないかとの提案をたまわった。沖浦氏のこうした社会問題への取り組みというか、関心の高さには敬意を表するものであるが、しかし、今回の提案には反対である。

まずは、沖浦氏らしからぬ、ということだ。

氏はこれまでスキーワックスの開発やジム器材の改良などを手掛けてきた。自ら行なう場合もあれば、スタッフないし外注に任せる場合もあったと記憶するが、いずれも実用化に成功している。では、今度のレールガンはどうか、それが問題である。
自分で開発するだけの知識やノウハウがあるのか、あるいは自分には無理だがスタッフないし外注に出して実用化できるという目算があるのか、そこが問われるのだ。
つまり、スキーワックスなどの前例を踏まえるならば、沖浦氏自身がレールガンについて相当の知識を有していて、かつまた、それを実用化するだけの技術力を発揮する環境にいなければいけないし、もしくはその開発に掛かるであろう膨大な費用を拠出するだけの財力がなければいけないのだ。

小さな子供がとてつもない夢物語を思い描くのはカワイイものだ。しかし、いい年したオトナが実現性のないことを語っても仕方がないだろう。

次に、もし仮にレールガンなるものが実用化されたとしても、それを廃棄物処理の方法として使用してよいものかどうかが大きな議論となるだろう。わたくしは使用不可に一票である。どうやら沖浦氏もそのリスクについてはいちおう考慮しているようだ。

 最も多きな懸念は、射出する際大気圏内で事故が起きて爆発した時の汚染でしょう。

なんだ、わかっているじゃないか。

 それでも、大気圏内で壊れて飛散する可能性は否定できませんが、半世紀ほど前超大国が大気内で核実験を行った時の汚染とはけた違いに軽いものです。

いやいや、やっぱりわかっていないようだ。

大気圏核実験の時の汚染に比べれば遥かに軽いというのは、何か具体的なデータを踏まえて言っているのだろうか? それとも当てずっぽうだろうか?

 経費もほとんどかかりません。

これも何を根拠に言っているのだろうか?

まず、経費云々については大ウソである。簡単な理屈だ。現時点でまだ実用化されていないわけである。それなのにどうして経費が掛からないと言えるのだろうか?
実用化されていないのは技術的な問題と同時に費用の問題があるからだろう。世の中には理論上は可能でも現実的には不可能という技術がたくさんあるのだと思う。それと同時にやろうと思えばやれるのだが採算が合わないからやらないというケースもある。
つまり、沖浦氏の言う経費がほとんど掛からないは、口から出まかせを言っているだけのことであり、おそらくはまるで根拠のないことなのだと想像されるのだ。

そして話を一つ戻して、核実験の時の汚染に比べて軽微であるというのは、あまりに楽観的過ぎると言わざるを得ないだろう。

反原発の人たちの主張もさまざまで、一つには核廃棄物の処分方法が確立していないからダメだと言っている人たちもいる。逆に言うと、処分方法が確立すれば原発を容認するという考え方なのである。
すると、レールガンの実用化によって廃棄物処理の方法が確立したという口実ができれば、原発をどんどん稼働してもよいことになる。ただでさえ原発反対が喧しい中でも国策的に稼働してきたわけである。それをレールガンの実用化がさらに拍車を掛けることになるのだ。
つまり、今まで以上に恒常的に廃棄物を出し続けることになり、それを恒常的にレールガンを使って地球外に放出するという作業を続けることになる。事故の頻度がどうであれ、いずれは核実験で放出された量を超えることになるだろう。

 大きなレールガンを作って、地球の重力圏外に撃出し太陽に捨てる。

さらに話を戻して、この発想そのものが問題である。上掲には撃出という聞き慣れない言葉がある。他のところでは発射と書かれているし、その続きには撃ち出してやると書かれている。

わたくしはすぐに大聖人の慈覚大師批判を思い浮かべた。

慈覚は自分が書いた本が正しいか間違っているかの判断を夢に託した。ある時、日輪を射るを夢を見て、自分の書いた本は一字一句すべて正しいと確信したのだそうだ。ようは大当たりということなのだろう。大聖人はこれに対して真逆の評価を下している。日輪を射るような夢は吉夢ではなく、悪夢であると。

以上は取り急ぎ記憶のままに書いたので正確ではないかもしれないが、大聖人は撰時抄の中でおおむね上述のようなことを仰せになっているわけだ。

わたくしが今回の沖浦氏の提案に反対する最大の理由はまさにこれである。

読者の中にはこれを教条主義ないし原理主義と思う人がいるかもしれない。しかし、上述のことは一般論としても十分に通用すると思う。俗にお天道さまという言葉がある。太陽信仰の形態はさまざまあるのだろうが、ともかく今もなお多くの人がお天道さまに対する崇拝ないし畏敬の念を懐き続けているのは事実だろう。つまり、これは大聖人だけが勝手に言っていることではないのだ。

 太陽はそれ自体が巨大な核融合炉。
 少々の放射性廃棄物など何という事もありません。


これは確かにその通りなのだろうけれども、先ほども言ったように楽観的過ぎるというのがわたくしの感想である。今まで前例がないのだ。ゆえに実際に太陽に向けてレールガンを発射して、その後にどのような変化が生じるかは未知数なのである。ましてや恒常的に廃棄物を出し続けて、それを恒常的に太陽に送るとなると、塵も積もれば山となるの道理からして、何かしらの変化が生じる可能性は否定できない。
逆の方向からも同じことが言えるわけで、地球の総重量に変化が生じた場合、それがどのような結果を招くかを考えておく必要があるだろう。ようは不要な物を宇宙に捨てるという発想はこれまで技術的に困難だった。ところが今はやろうと思えばやれる時代に突入しつつあるわけである。しかし、今度は地球外から同量の物質を取り込まない限り、地球の質量がどんどん小さくなっていくことになる。すると、かなりSFチックな話にはなるけれども、あるいは地球が公転軌道から外れて、宇宙を流浪することにもなりかねないのだ。

もっとも上述のことは物理学のシロウトであるわたくしの拙い発想であり、詳しい人から見ればまるでお話にならないレベルの議論なのかもしれないが、まあ、それはそれとして、最後にもう一点だけ書いて終わりにしよう。

宇宙は誰のものか?

沖浦氏は太陽に捨てると書いているので、太陽は誰のものかと書くのが筋かもしれない。まずはそこから話を進めると、水星人や金星人、あるいは火星人や木星人などに断わりもしないで、勝手に太陽に捨ててよいものか、というのがわたくしの意見である。オマエは何を言っているのかと思う人がいるかもしれないが、けっこう本気で言っているつもりである。
そこで宇宙に話を転ずると、少しはご理解いただけるのではないかと思う。たぶん地球のご近所には他に生命は存在しないのだろうけれども、宇宙は広いのだからどこか他の遠いところには生命が存在するかもしれない。これはわたくしが勝手に言っているのではなく、わりと高名な学者も言っていることなのだと思う。
つまり、宇宙は我々の独占物ではないのだ。ゆえにゴミの処分に困ったからと言って、宇宙に捨てるのはルール違反である。つまりは不法投棄である。国際法のさらに上位概念として宇宙法が存在する。今は条文化されていないけれども、新興宗教チックに表現すれば天然法爾となるだろう。わたくし的にはこれを大聖人の仏法と言いたいところだが、いちおう一般人にも汎用的にと考えて上述のごとくとした。

以上、今回の沖浦氏の問題提起は技術的な側面はもちろんのこと、いわゆる倫理的な意味において大いに議論してしかるべきものだと思う。

2017/1/16

編集部ないし本部首脳の見識を疑う  
総合女子部長の発言をもう一つ拾っておこう。

 先生は、日目上人御遷化の地・垂井において、御生骨の重大指導を始めて明かされ・・・

これはウソだろう。初めてではないのだ。それとも初めてと始めては違うとか、垂井で話したのは初めてとか、そんな詭弁を弄するつもりなのだろうか?

さて、今日は十二月度総幹部会の各種登壇を見て行こう。

わずか十円の頒価で授けて下さったこと、感謝の念は言葉になりません。

国難三年を顧みてと題する第十八男子部長の登壇である。ほとんど言い掛かりに等しいとは思うものの、上掲には違和感を拭えなかった。ようするに新聞広告のコピーが十円なのだ。これを彼はわずか十円で授けて下さったと言って感謝しているわけだが、早い話が十円で買ったわけだろう。そんなことに一々感謝するのもどうかと思う。

世の識者のとうてい及ばぬ先生の大見識にひれ伏し・・・

これは憲法問題のくだりであるが、そもそも王仏冥合の憲法など世の識者が云々する話ではないのだから、それを比較しても仕方がないだろう。むしろこの場合、宗門や創価学会が王仏冥合についてどのような主張をしているのか、それと比較するのが筋のはずだ。

次は創価学会歴五十年の人の登壇である。

 私は顕正会に入会後、有難くも二十一名の入信・入会を叶えさせて頂いておりますが・・・

二十一名は大したものである。ところがこの人は今も平会員のままである。何か理由があるのだろうか?

次は第九男子部長が近畿大会のことを書いている。

 「近畿の皆さんは、これから阪神・淡路大震災よりもっと大きな南海トラフ巨大地震に遭う。しかし必ず乗り越えられる。そして御生骨が光を放つその日まで、戒壇の大御本尊様が天生原にお出ましになるその時まで、どうか、私と共に一筋に戦ってほしい」

これは大会終了後、地元の代表幹部だけを集めた場所での浅井先生の発言である。いつも言っているように、地震は必ず起こるがいつどこでどの程度の規模が起こるかはわからない。ところが浅井先生は上掲のごとく、阪神大震災よりも大きな地震だと断定してしまっている。南海トラフは阪神のそれとは地震の性質が異なるわけで、これを比較しても仕方がないというのがわたくしの意見である。

しかも後半が問題だ。

その日まで・・・、その時まで・・・、私と共に一筋に戦ってほしい・・・

いちばん無難な解釈は、実現するかしないかわからないが、ともかくそのような強い願望を持っている、ということだろう。広宣流布朝夕近しということだ。しかし、誤解をする人たちもいるわけだ。もう広宣流布は甚だ近いのだ。浅井先生の存命中にすべてのことが成就するのだ。だから頑張ろう・・・と。

ひじょうに困った問題である。

「折伏するな」理不尽な怨嫉でついに退学
 大学側に大罰、学長・講師ともに急死!


さて、今度は男子部第五十七隊支隊長の活動報告であるが、ご覧の見出しはひじょうに穏やかではない。

まず、学長と講師の急死が罰なのかどうかは難しいところで、大学の学長は大抵が高齢者であるからして、在職中に亡くなるケースもそうめずらしくないと思う。もう一人の講師は五十代だそうなので、こちらは確かに若死にである。

しかし、そもそも退学そのものが問題なのである。もし理不尽な怨嫉で退学を余儀なくされたということが事実ならば、戦うべきだろう。顕正会には顧問弁護士がいる。逮捕事件の時に活躍するのは当然であるが、それ以外のさまざまの事案についても弁護士が対処したほうがいい場合が少なくない。
事実、過去にも同様の話がいくつもあった。今は面倒なので調べていないが、学校の退学問題もあれば職場の解雇問題もあったと思う。記事には浅井先生が弁護士を派遣して下さったことを感謝する記述があるのが定番のパターンだ。
同様の意味で、今回の事案においても顕正会の顧問弁護士が動いてしかるべきだし、それで退学処分の撤回が実現すれば、そちらのほうがよほど理想的だろう。そうすれば学長も講師も死ななくて済んだかもしれないのだ。

学歴がすべてではないとは思うものの、彼の長い人生を俯瞰した時に、わたくしは複雑な心境にならざるを得ない。顕正会に縁していなければ、そして学校内で折伏をしていなければ、彼は大学を無事に卒業して、今とはまったく別の人生を歩んでいたかもしれないのだ。
おそらく今現在の彼はまったく思ってもいないことなのだろうけれども、十年後ないし二十年後には顕正会を離脱しているかもしれないのだ。その時には後悔するのかもしれない。学校内で折伏なんかしなければよかったと。
これは何も彼一人の問題ではなく、多くの活動会員たちに共通して言えることなのだ。その意味で顕正会はダメな組織である。その活動理念がどれほど崇高であろうと、現実問題としては最低と言わざるを得ないのだ。

ちなみに今回の登壇者を見渡すと、彼はダントツで若い。もしかすると平均年齢が六十を超えているかもしれない。そうした中で、彼は顕正会にとって若き貴重な人材ということだ。それを潰してどうするのかと思う。

さて、次は婦人部青森支区組長の正にめざめてである。この人は創価学会歴はなく、弟夫婦から折伏されて法華講に入信したという。その年数もよくわからないが、雰囲気的にはそう長くはないようである。

 しばらくすると住職は、毎月一日は塔婆供養として二千円、月命日のたびに先祖供養として、先祖一人につき二千円を要求してきました。

要求が気になる表現だ。まさか住職がそんな不躾な要求をするとは思えないのだが、これは本人の主観の問題なので、あるいは彼女にはそのように感じたのかもしれない。だとすれば、弘前市の法典院の住職は大いに反省すべきだろう。もっとも要求はアトヅケの表現であって、宗門のイメージダウンを画策する顕正会側の悪意のあらわれ、とも考えられるところである。

 大石寺に着くと、修学旅行なのかと思うほど大勢の人が来ていて、やっと戒壇の大御本尊様に御目通りが叶うと思ったのも束の間、「お題目を三唱したらすぐに席を立つように」と言われ、何が何だか分からないうちに参詣は終わってしまいました。

これはよくわからない話である。何かご存知の人がいれば、よろしくご教示願いたい。

最後は婦人部小石川支区組長の正に目覚めてであるが、当該登壇は思いっきり創作ないし添削された記事であると、わたくしには思えてならない。まず、彼女は平成十三年に創価学会に入信したそうで、顕正会への入会は昨年の七月ということだ。この創価学会歴がポイントである。

・・・「御本尊様は有難い」とは思っていましたが、学会版本尊の前ではどうしても勤行できず、悶々としていました。

いかにもウソ臭い。たとえばこの人が平成三年以前の入信ならば話はわかる。創価学会へ入るにしても、当時は日蓮正宗寺院で御授戒を受け、御本尊を頂戴していたからである。そういう人が途中から創価学会版の本尊に切り替われば、そこで違和感ないし抵抗感を持ったとしても不思議はない。ところが彼女は平成十三年からのキャリアなのである。上掲のような感覚を懐くことはほぼあり得ないと断言できるだろう。

やがて彼女は顕正会から折伏を受け本部会館へ赴くわけだが、次の記述がまたしてもウソ臭いのである。

 本部会館へ行くと「冨士大石寺 顕正会」の大標識が目に入り、「冨士大石寺」との文字を見ただけで、顕正会は戒壇の大御本尊様を恋慕渇仰していることが伝わり、学会から聞いていた話とは全然違うと感じ、やっと正しい信心ができると感激しました。

説明は不要だろう。何をトチ狂っているのかと思う。いや、彼女のことではない。これを添削した先輩幹部のことだ。そしてこれを顕正新聞に載せた編集部ないし本部首脳のことである。


翌日追記:正義と書くべきところ、ウッカリ誤変換してしまった。なりた氏より指摘を受けるまで気がつかなかった。まったく面目ないことだ。

2017/1/15

総合女子部長の発言を中心に  
アメリカの創価学会員からコメントを頂戴した。拙ブログも国際的になったものだと、喜んでよいものかどうか、微妙なところである。なぜならば内容的には沖浦氏に宛てたものだと考えられるからで、だったら拙ブログのコメント欄ではなく、どこか他のところでやり合ったらどうかと思うのだ。そもそも正統派の創価学会員は沖浦氏など相手にしない。これを言うとヒンシュクものかもしれないが、沖浦氏のことを論っている創価学会員はしょせんその程度の人間ということになるだろう。そこを自覚されたいと思う。

さて、かく言うわたくしは沖浦氏とおよそ十年にわたって議論を続けてきたわけだが、基本的には何の進歩もなかった。直近の沖浦氏のコメントも、ああ、また同じことを言っていやがる、というのが正直な感想である。今後もダラダラと続いていくのだろうか?

2017/1/13 5:58
投稿者:沖浦克治
 巌虎さん、おはようございます。

 本迹に関してキチン説明いたしました。

 次はそちら様が戒壇本尊本懐などをキチンと根拠を示してご説明される番ですね。
 
 どうぞお願致します。
 ですが、この件は富士門流の内部規定であるとお認めなら説明は結構です。

 それならばどうぞご自由に。

 これが私のスタンスでございます。
 その場合、私どもの主張も私どもの内部規定であると認め、干渉や非難はされない事でしょうね。


ただし、これを読むと、一種の決別宣言のようにも読める。すなわち、余計な干渉や非難はするなと。逆に言えば沖浦氏のほうも、わたくしには干渉しないという意味になるだろう。

さて、どうなることやら・・・

感謝の念でいっぱいでございます。

唐突に話題を変えたわけだが、上掲は新年特集号二面の各部代表による年頭決意の一つ、総合女子部長の発言である。おそらくは誰が読んでも「ございます」に違和感を持つはずだ。この部分だけが際立って馬鹿丁寧な言い回しになっている。文章全体の雰囲気からして、「あります」くらいが妥当なのではないかと思うのだが、いかがだろうか?

巌のごときご決意と最後の戦いに臨まれるお歓びが・・・

同じく総合女子部長の発言である。これはなかなか味わいのある表現だが、ともかく最後の戦いの意味がひじょうに悩ましい。わたくしは広布達成はまだ先のことだと思っている。ゆえに最後の戦いの意味は、浅井先生の人生の終わりを暗示しているとしか思えないのだ。このことはたぶん総合女子部長もわかっているはずである。引き続き総合女子部長の発言を見て行こう。

・・・最後の天奏に立たれた日目上人の尊き御姿に、先生のご勇姿を重ね、涙を抑え切れません。

 日目上人の決死行を今に移される偉大な師匠のもと・・・

毎年、この時期になると出てくる、目師再誕説と見紛う微妙な発言だ。そして同時に言えることは、浅井先生は最後の最後まで戦い続けるつもりであり、総合女子部長たちはそのお供をするつもりでいるのだ。

いったい何なのだろう?

介護問題と呼ばれるものがある。昔から死は一定であり、誰もが老い、やがては死を迎えることに決まっている。その意味では介護問題は昔から存在したはずであるが、おそらくは少子高齢化が問題を大きくかつ深刻にしているのだろう。いずれにしてもである。自分の親は自分が面倒を見る。これが古今を問わず基本となるべきことだと思う。

ひるがえって総合女子部長たちはどうかである。

たぶん彼女らにも親がいるだろう。当然、顕正会員たちは心根の優しい人たちばかりなので、親の心配もしているはずだ。それと同時に活動会員たちの場合は、浅井先生の面倒を見るつもりでいるのだ。これは何も介護という意味に限定されるものではない。ようは浅井先生の人生に最後の最後まで同調する・お付き合いする、ということなのだ。

いったい何の義理があって、そうするのだろうか?

そこまでするメリットは何か?

まさか今もなお、広宣流布が早々に達成され、自分たちがヒーロー・ヒロインになれると思っているのだろうか?

仏法上の大功徳を積むことができる? もしくは得られる?

顕正会を離脱した人たちは、無理・できっこない、ということに早々に気づいた。けれども未だに在籍している人たちは、いや、絶対にできる、と大確信している。

そこがわたくしにはわからないのだ。

かく言うわたくしも、浅井先生の名調子の虜となって、広宣流布が近いことを確信していた時期があった。けれども内部のテイタラクを知れば知るほど、やっぱりムリなんじゃないかと思ったし、長い間には先生の発言そのものが変遷していることにも気がつかざるを得ず、もはや絶望的という結論に至らざるを得なかったのだった。

つまり、大幹部たちになればなるほど、絶望的な実態に直面しているはずなのだ。それでも最後の最後までお供をするという、その覚悟というか心情が、わたくしにはなかなか理解できないのである。

思いっきり失礼なことを言えば、完全に洗脳され切っちゃっている、ということなのかもしれない。同じく総合女子部長の発言を紹介しよう。

 そしてアメリカの次期大統領に国益第一主義のトランプ氏が当選したことで、属国的平和を享受してきた日本はついに「自惟孤露・無復恃怙」となったこと。

浅井先生の発言をなぞっているだけなので、責任は先生にあるのかもしれない。ただ言えることは、まだそうと決まったわけではないだろう、ということだ。トランプ発言が過激なのは事実である。ただし、それが政策次元において、具体的にどのように反映されるかは未知数なのである。

 大聖人様は、日本が中国に侵略される時のために「本門戒壇の大御本尊」を日本国に留め置き下されたこと。

これも前掲と同じ理屈だ。今の段階で中国を名指しするのは大問題であり、戒壇の大御本尊を所有する大石寺の人たちにしてみれば、いい迷惑である。

ましてや特集号として一般人にも読ませるつもりでいるのならば、発言にはもう少し気をつけたほうがいいだろう。


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