2017/2/26

近畿大会の各種登壇を読んで  
先週はあまり更新できなかった。柄にもなく多忙だったからだ。しばらくはこんな感じかもしれない。

・・・先生のお心に、大聖人様の大慈悲を感ぜずにはいられません。

近畿大会特集号の各種登壇を見て行こう。上掲は第二十六女子部長の発言である。引用範囲が不適切であることは重々承知の上で、あえて紹介させていただいた。つまり、部分的ながらも浅井先生=大聖人みたいな印象を与えかねない、そういう危険性を孕んだ文章なのである。

 ことに福井の戦いはめざましく、旧福井支区の方々も区長と一体になって戦う中・・・

前後して恐縮だが、同じ記事の中に出てくる文章である。ようするに婦人部の人たちが女子部に編入されたわけだ。この辺の事情というか基準がどうなっているのかが気になるところである。というのは壮年部はすでに廃止されて男子部に一本化されている。ゆえに何も難しいことはない。ところが婦人部と女子部の場合、その境界線がまるで不明なのである。年齢だとか未婚既婚だとか、そういう明確な基準があればいいのだが、どうもそれがまったく見えてこない。それどころか近年は男性女子部員だとか男性婦人部員もかなりの人数がいると考えられるので、もはやわけがわからない状態になっているのだ。

善意に解釈すれば、明確な基準を設けないことは柔軟性を持たせているとも言えるわけで、臨機応変当意即妙の組織編成が可能なのだろうとは思う。しかし、それがまた逆に、一部の実力者による恣意的な組織編成を可能にすることにもつながるので、やはり原則的にはしっかりとした基準を設けるべきなのだろう。

さて、次は第二十九女子部長の登壇であるが、身延派日蓮宗の住職が顕正会の弘通に舌を巻いている様子を伝えているくだりが興味深かった。

「まじめに弘通する顕正会の姿勢は立派」「自分たちも頑張らなきゃ」

これは客観的にも事実なのだろうと考えられる。というのは顕正会が五十万の時に一国諫暁に立ち、さらに百万の時にも立った、すなわち平成九年ないし平成十六年のことだが、その頃より日蓮宗の現代宗教研究所あたりでも顕正会の動きに注目するようになって、顕正会関連の論文がいくつか発表されているのである。大きく見れば、いわゆる日蓮正宗系の教義を批判する点に力を入れているような印象がある。つまり、顕正会は一つのキッカケに過ぎなくて、彼らとしては日蓮正宗そのものを批判することが真の目的ような感じなのである。

その意味からしても、わたくしとしては早く宗門と顕正会が和解して、その上で他宗他門へアプローチするべきだと思うのだが、まあ、現実的にはなかなか難しいわけだ。

話を戻そう。

日蓮宗の坊さんたちはその大半が世襲なのだろうと考えられる。いわゆる信仰心だとか求道心の発露として出家したのではなく、家業を継いだだけなのである。その意味で直接的なライバルは日蓮正宗の僧侶たちなのだろうけれども、しかし、当面の問題というか直面している現実的な問題は顕正会の活動会員たちの熱心さということになる。何しろ顕正会員は自らの信仰心の発露として熱心に活動しているわけなのだ。坊さんたちは思うだろう、いったい何でそんなに一生懸命になれるのか、と。そこで実に不思議な話だが、坊さんたちが顕正会員の熱心さに啓発されて、上掲のような発言をするわけなのである。

あるいはそこに別の要素として、現代の葬式事情が隠れているのかもしれない。

ようするに葬儀に坊さんを呼ばないで簡単に済ましてしまう人たちが増えている。当然、そうなると法事もしない。つまり、坊さんの出番がまったくなくなってしまう。すなわち収入がなくなるのだ。

まさに死活問題である。

この意味を踏まえると、上掲のセリフがいかにも真に迫ってくる。自分たちも頑張らなきゃいけないというのは、まさに当然のことなのだ。

さて、ここまでの話を読者はどのように受け取っただろうか?

最近のわたくしはもっぱら顕正会批判ばかりを書いているけれども、この件に関しては逆である。死活問題だから頑張らないきゃというのはいかにも浅ましいわけで、これではまだ顕正会員のレベルに達していないことになる。何しろ顕正会員は収入を当てにして折伏をしているわけではないからだ。つまり、日蓮宗の坊さんよりも顕正会員のほうがレベルが高いのだ。

では、日蓮正宗の僧侶はどうか、ということになる。

わたくしはあえて明言しないけれども、熱心な活動会員たちが時に正宗の僧侶すら見下すような言動をするのも、確かにゆえあってのことなのだろうと思う。あれ? 明言しちゃってるかな?

話を変えよう。

「学会団地」と呼ばれるほど学会員が多く住む集合住宅・・・

読谷村は、村民のほとんどが学会員・・・

第十一婦人部幹事と男子部第四隊支隊副長の記事から抜き出したものである。わたくしが思ったのはいわゆる現証である。創価学会員で埋め尽くされている地域が他と比較してどのように違うのかを、さまざまの角度から調べてみれば面白い結果が出るかもしれない。例えば平均年収だとか病気の罹患率、事件事故の発生率、といった具合である。これらが他の地域と比較して、よい結果であればそれがいわゆる現証ということになるわけだ。もちろん逆の結果も考えられる。

なぜ、こういうことを書くか?

ようするに顕正会員もそうだが法華講員も同じで、いわば結論ありきで創価学会員は不幸に決まっているみたいな前提ないし先入観で見てしまっているからである。これでは説得力はないだろう。

さて、同じく支隊副長の記事から次をご覧になられたい。

入院中に看護師や同室の人たちを折伏していくと、すぐに退院できるというあり得ない功徳を頂きました。

あり得ない? いやいや、あり得るだろう。病院は共同生活の場なので、秩序を乱す患者は追い出されるのだ。たぶんどこの病院でもそうしたルールが決められているはずである。

女子部第百四十七区総班長は電話営業職の契約社員だそうである。

・・・月給が八十万になるという、契約社員では考えられない大功徳を頂きました。

これは確かに凄いことだ。ただし、当然ながら歩合制なので、毎月コンスタントにそれだけの収入が得られるわけではないのが怖いところである。最低保障がどのくらいなのか知らないが、たぶんかなり低いのだろうと思われる。歩合制とはそういうものだ。

上述のことは実は顕正会の活動にも当てはまることであって、一つの折伏法戦で驚異的な成果を上げられたとしても、その一度きりで終わってしまうような人も少なくないのだ。一度きりは極端にしてもコンスタントに成果を上げ続けることは難しい。ゆえに華々しい活躍をしている人であっても、数年で消えていく場合もけっこうあるわけなのだ。ゆえに年がら年中、人事を行なっている。これが顕正会の実態である。

創業50年の蒲焼き店の後継者になる

この人は男子部第四十六隊総支隊長補というから、けっこうな幹部である。それにしても母から百万を手渡されたりと、よくわからない話が次々に出てくる。その極めつけが上掲だ。もう面倒臭いのでオシマイにするが、ともかく数奇な運命である。何しろ彼は客だったのだ。それが店を引き継いだのだから、実に不思議な話である。

2017/2/21

近畿大会の会長講演を斬る  
沖浦氏は創価学会員歴五十四年だそうである。ゆえにかつてはネット上で沖浦先輩と呼ぶ人がいた。いわば慕われていたわけだ。ところがいつの間にかネット上では嫌われ者の第一人者になってしまった。わたくしの興味は沖浦氏とその反対勢力の関係が改善されるかどうかである。すべてのワダカマリを取り去って、最初の頃のように沖浦先輩と呼ばれる日が来るのかである。それが実現すれば大したものだと思う。逆に言うと、たぶん無理だろうな、ということだ。

結局、これは先日来の話題でもある、宗門・創価学会・顕正会の関係改善が可能かどうかの試金石でもあるわけだ。考えれば考えるほど絶望的に思えてしまう。悲しい現実である。

さて、近畿大会特集号であるが、会長講演について書こう。

当該講演はいわゆる浅井先生による折伏である。浅井先生が大会場に集結した聴衆を相手に折伏を行じているのだ。ベースは基礎教学書なのだろう。ゆえに活動会員たちにとってはさして新鮮味はない。しかし、一万人超の聴衆の中にはいわゆる未活動者であるとか未入信者が相当数含まれていると考えられるので、そうした人たちにとっては新鮮な話のはずなのである。

その視点から書いてみよう。

長い、難しい、付いて行けない、という感じだろうか? もちろん十人いれば十通りの感想があるはずで、必ずしも一概には言えないのだが、それでも客観的にはこうだろうということは言えるのではないかと思う。

そもそも大会そのものが長いのだ。

午前十一時三十分〜午後三時

正確には第一部と第二部に分かれていて、最初の一時間は例のビデオ視聴の時間であり、十二時半からが大会の本番ということになる。しかし、それから数えても二時間半である。これは長いだろう。そして会長講演も長い。五十分である。

そして難しい。

正確ではないことをお断りしておくが、当該講演では御書ないし歴代上人の御指南がたくさん引用してある。これをざっと数えると二十くらいあるのだ。これは多いだろう。未活動・未入信者にとってはわけがわからん話に聞こえるはずだ。だとすれば、失敗である。

講演全体の構成を大雑把に言うと、およそ四分の三が仏法そのものの話で、それに付随する形で国際情勢の話が四分の一というのが当該講演の構成である。

どうだろう、一般聴衆の興味関心という意味からして、この配分はあまり適切ではないような気がするのだ。わたくしの漠然とした印象からすると、かつての壮年部大会の内容が一般聴衆向けとしてはベストのように思えるのだが、いかがだろうか?

生意気を言うようだが、わたくしは普通の人よりは御書に詳しい。逆に言うと、そのわたくしが当該講演を読んでいて、御書がやたらと多いと感じるのである。いわんや一般人をやであろう。

ということで、今さらながらの提案をしたい。

これが近畿大会という名称ではなく、浅井先生による仏教講演会みたいな名目であれば、今回の内容はまさにそれに相応しいものだったろう。あるいはかつての御書講義、もしくは特別講義だとか特別講習会と呼ばれるものであれば、今回の講演はピッタシだったはずである。その意味するところは、看板に偽りなし、ということである。そうした名称・名目で未活動・未入信者を連れてくるのであれば、彼らもどのような方向性の話であるかをいわば覚悟した上で臨むわけだから、それなりに得るものがあるはずなのだ。

総論的には以上である。以下は各論である。

 申すまでもなく、近畿は本州の中央部です。

これはまた悩ましいことを言うものである。顕正新聞当該号には次の記載があるのだ。

中部大会の会場変更
 「静岡エコパアリーナ」に


本年四月九日に開催予定の中部大会の会場が変更になった。その理由はともかくとして、浅井先生は中部地方で行なわれる大会において、何を言うつもりなのだろうか?

ようするに中部地方こそが本州の中央部のはずなのだ。

ちなみに近畿は俗称として関西地方と呼ばれることがある。これは関東に対する関西の意味なのだが、もともとは奈良や京都が日本の中心地だった。ゆえに本来的には関西は関西ではない。文字通りの俗称であり、後天的に派生した名称なのである。おそらく中部もそうなのだろう。中京地区という表現もあるけれども、これまた後天的に派生したものだと考えられる。

つまり、この議論はけっこう難しい。浅井先生の言っている意味もあながち間違いとは言えないので、冒頭に悩ましいと書いたわけだ。

応仁の大乱を機に、血で血を洗う戦国時代が続き、幕末にいたった。

いわゆる浅井流の仏法史観である。しかし、このくだりは一般人が読んでも疑問に思うだろう。ずいぶん大雑把ではないかと。ようするに江戸時代をすっ飛ばしてしまっているのだ。

月の光に照らされて輝く大聖人様の御尊容に・・・

竜の口の光景を説明するくだりである。わたくしが素朴に感じたのは、この月の光は本物の月光を言っているのか、それとも「月のごとく光たる物」を言っているのか、それがアイマイになってしまっているということである。この話に限ったことではないが、浅井先生の日蓮大聖人観は、全般的に想像を交えて書いてしまっているような感じが否めないと思う。

 ここに世界はいま、戦国時代に入りつつあるのです。

平成二年から言い続けていることだ。入りつつあるの、〜つつあるは浅井先生の常套句であるが、もうかれこれ三十年になろうとしているのに、いつまで同じことを言い続けるつもりなのか、そこが大いに疑問である。

 広宣流布の時には、必ず無辺行菩薩の再誕・日興上人が皇室にお生まれになり、万世一系の皇統をお継ぎになる。このことは御相伝にある。これが「本化国主」であります。

御相伝の具体的な引用をお願いしたいものである。ともかく上掲の話は、内部では昔からよく語られてきたことである。必然的に今の皇太子殿下がその人であろうという話になるわけだが、本当かどうかはわからない。そもそも顕正会の主張する広宣流布前夜がどこまで本当なのかも定かではないのだから、わたくしにはまったく実感の持てない話である。

2017/2/19

「近畿大会」特集号を斬る  
こんにゃく太郎氏のコメントは何かを丸写ししたものなのだろう。ご自分の意見を書いていないので何を言いたいのかはわからないが、最初の資料は貴重である。ようは創価学会の変節を証明する意味で、重要な文証となるものである。

そしてもう一人の太郎氏のコメントは、拙ブログを踏まえた上でご自分の過去の経験などを赤裸々に語っており、ひじょうに好感の持てるものだった。

1年後2年後もこの方々がいらっしゃるのかも疑問です…

過日の成人式で立派な登壇をしていた四人が、まさか一二年で離脱してしまうとは考え難いことだが、若い人は熱しやすく冷めやすいという一面もあるので、あるいはそのようなこともあり得るかもしれない。

その当時決意していた者達、登壇した方々も大半消えて、あれはなんだったんだろうと改めて振り返る事があります。

まさしくここがご自分の経験談ないし目撃談ということになるだろう。

ふと思いついたことを書くと、顕正会員の平均在籍期間はどのくらいかという問題がある。これは当てずっぽうに言って、十年くらいではないかと前にも書いたことがあったはずだ。別の言い方をすると、活動会員たちが持ち堪えられる期間である。

ようは戦いが厳し過ぎるので、続かないのだ。

これはある種のスポーツの選手寿命に似ている。これまた当てずっぽうで恐縮だが、サッカーなどは第一線で戦い続けるのは至難の業ではないかと思う。あるいはボクシングもそうかもしれない。大相撲も幕の内で活躍し続けられるのは、平均すれば十年がいいところだろう。いや、これはすべてのスポーツに言えることであって、おそらくはトップアスリートとしてその世界に君臨し続けられるのは十年が相場と思われる。

顕正会の活動会員たちはそうしたトップアスリート並みの激しい活動を強いられている。先日紹介した高校一年生の話が好例であって、誓願を達成するまでは帰らないなどと言っているくらいだから、これはもう普通じゃない。

上述の話は活動会員限定の話だった。そこで今回は新たに別の問題提起をしたい。

すなわち顕正会員全体の平均在籍期間はどのくらいかである。

現時点で累計が二百万弱である。これをもって仏弟子の大集団を標榜している。しかし、累計はあくまで累計であって、今現在の実質的な会員数はその一割かもしくはそれ以下であろう。ようはほとんどが離脱してしまっているのである。顕正会も歴史が長いので、すでに亡くなってしまった人は卒業ということでいいだろう。しかし、そうではなくて途中でやめてしまった人たちがどのくらいの数になるか、そこが問題である。これらの不確定要素というか、調べようのない実態を、どのように数値化するかが問われるわけである。

わたくしには無理な相談であるが、ご存知のごとく、顕正会には即日離脱者が無数に存在する。つまり、入信勤行はやったものの、それっきりでオシマイという人たちである。本来ならばこうしたケースは入信にカウントするべきではないのだが、成果至上主義でノルマに追いまくられている活動会員たちにとっては、そんなキレイごとは言っていられない、というのが本音だろう。つまり、実態としては累計二百万弱の相当数が即日離脱者なのである。

そこで一つの結論が出るのだ。

これまた当てずっぽうで恐縮だが、太郎氏の言うとおり、もしかしたら一二年が妥当な数字かもしれないのだ。あるいは数ヶ月、さらには一二ヶ月程度、これが顕正会員全体の平均在籍期間ということになる。

熱心な活動会員たちが聞けばガッカリするか、あるいは腹を立てるかもしれないが、これが顕正会のオソマツな実態ということになる。

いつものごとく、上述は当てずっぽうの話だった。もし数学等に堪能な人ならば、推定値という形でより精密な数字を出せるのではないかと思う。顕正会ってのは会員の定着率がベラボウに悪くて、平均すると数ヶ月でやめてっちゃうらしいよ、そんな組織はダメだよね、何かブラックなところがあるんだろうね、ってな具合である。これを当てずっぽうな数字ではなく、ちゃんとした計算に基いて打ち出せば相当の説得力を有することになるだろう。

ともかく現時点でのわたくしの結論は、活動会員限定では十年未満、全会員の平均値は一年未満、これが顕正会員の平均在籍期間である。誰かがより精密な推定値を出してくれることを期待したい。

近畿大会 一万一千余歓喜の大結集

さて、いよいよ近畿大会特集号、通番では第1398号の話題である。大会のたびごとに言っているような気がするけれども、大会場が顕正会員で埋め尽くされている光景は圧巻である。しかし、これまた毎度のごとく言っているような気がするけれども、そこには欺瞞が隠されているのだ。

 この日、会長・浅井先生のもとに近畿圏(大阪、京都、滋賀、和歌山、奈良、兵庫、富山、石川、福井)から馳せ参じた顕正会員は実に一万一千余名。

まず、北陸三県がなぜに近畿圏なのかであるが、これはまあ、前にも指摘した問題なのでよしとしよう。問題は登壇者である。

体験発表 愛知県(女子部第百四十七区総班長)
     石川県(男子部第四十六隊総支隊長補)

正義にめざめて 愛知県(男子部第四隊支隊副長)

活動報告 愛知県(女子部第百十三区長)
     兵庫県(婦人部兵庫支区部長)
     京都府(男子部第三十九隊長)
     富山県(第二十九女子部長)


代表決意の登壇者三名は記事に県名が記されていないので割愛しよう。ともかく上掲の登壇者たちの居住地を意味するであろう県名には驚かされる。純粋な意味での近畿圏は二人だけになるだろうか? そして石川と富山は先ほど言ったように不問に付すにしても、愛知県はまったくお話にならない。しかも三人もである。

これはもう近畿大会の看板を下ろさなければいけない。

看板と言えば、興味深い記述がある。最初は何を言っているのかよくわからなかったのだが、まずは読者諸氏にもそのくだりをご覧に入れたいと思う。

・・・開会に先立って雷門会・冨士軍楽隊・芙蓉コーラスによる演奏がビデオで上映された。

この部分は近年の地方大会では通例となっている。大会当日にもかかわらず生演奏を聴けないのはおかしな話だろう。

 そして収録当日の会場に「冨士大石寺顕正会 近畿大会」の看板を掲げて下さった先生のお心に・・・

ここが問題の一行である。わたくしは一瞬、何を言っているのか理解できなかった。先ほども言ったように、大会なのだからそこで生演奏があってしかるべきだろう。そういう固定観念があるものだから、上掲の意味がすぐには理解できなかったのである。ようするに大会当日は演奏ないしコーラスが行なわれず、ビデオが放映された。つまりはその事前収録において、わざわざ近畿大会の看板を掲げたという話なのである。

どこで収録されたのかは不明であるが、楽団員はほぼ関東圏に集中していると考えられるので、関東地方のいずれかであろうと推測される。その収録会場に近畿大会の看板が掛けられたという話なのだ。

何でもかんでも浅井先生のおやりになることには感謝感激をする。こうした顕正会員の精神構造について、専門的にはさまざまの考察が可能なのだろうけれども、しかし、わたくしはそんな小難しい話をしているわけではない。至極単純な話をしているのだ。

繰り返し言おう。大会なのである。

大会を冠するほどの、しかも実際に一万人の大結集がなされる大会場において、なぜに生演奏ができないものかと思う。まったくおかしな話である。

以上、驚くなかれ、今日取り上げたのは一面の記載内容だけである。それでいてここまでツッコミどころがあるとは驚きである。自分で書いていて自分で驚いている次第である。

2017/2/17

異常なブログ  
引き続き沖浦氏からコメントを頂戴しているが、省略させていただくことにしよう。さて、今日は顕正新聞第1397号の残りをやっつけてしまおうと思う。

開発した烏骨鶏卵マヨネーズが高評価、茨城新聞にも
 顕正会員の両親のもと功徳あふれる日々

高校の成績も常にトップクラス


前回は成人式における四人の立派な登壇を紹介した。上掲の人物はそれを凌駕するかもしれないくらいのホープである。女子部第二十七区班長である彼女は、なんとまだ高校一年生なのだ。

彼女の開発したマヨネーズは芙蓉茶寮でも販売されることになったそうで、さらに続きの文章を読むとぶったまげるのだ。

 現在、約五百羽の烏骨鶏を飼育して商品を生産し、「茨城農女ファーム」を立ち上げ・・・

それで昨年十二月六日付の茨城新聞にも彼女の活躍が報じられているという。もはやタダの高校生ではない。立派な事業家である。

しかし、次のくだりはどうかと思った。

 そして御大会式を目前に控えた十月九日の日曜には、「誓願を達成するまで帰宅しない」との決意で戦うと・・・

高校一年生がそんなことしたらダメだろうがと言いたい。これは二十七区の先輩たちが厳しく注意すべきことだと思う。法律ないし条例の規定がどうなっているか詳しく調べていないが、未成年者が深夜にウロついていたら警察に叱られるはずである。ましてやそれで事件や事故に巻き込まれたらどうするのかと思う。有望な新人なのだから、大事に育てなければいけない。

しかし、それもこれも成果至上主義の弊害なのである。先輩たちだってわかってはいるものの、そんなことを言っていたら誓願を達成できなくなる。だから大事に育てるというような悠長なことは言っていられない。即戦力がほしいのだ。

右上の男子部第二十八隊組長の記事も成果主義のゆえだろうか、少し疑問に思える行動が記されている。

・・・その後に臨んだ娘の折伏は御守護の連続で、今でも熱きものが込み上げてまいります。

その前に登壇者の両親のことを書いておくと、なんと戸田会長時代からの創価学会員らしく、父親は地区部長として組織をまとめ、母親は会長の秘書のようなことをしていたという。当然、本人も創価学会員で、かつては大ブロック長として活躍していたようだ。昨年八月に顕正会に入会した。

話を戻そう。

 娘はまともに話せず、人手を借りなければ動くことすらままならないので、入会勤行の当日、支隊長と二人がかりで娘を仏間に連れて行き・・・

何となく事情が見えてきたはずだ。娘さんはレット症候群という病気に罹り、障害者福祉施設に入所しているそうである。記事によれば、重度の脳性麻痺と体幹機能障害による発達障害を起こしているという。文字通りの重症だ。

わたくしの疑問はなぜそこまで無理して入会させたのかである。こう書けば反論があるだろう。娘さんの幸せを願ってのことだと。もちろん言わんとしていることはわかる。しかし、顕正会の中でもこのようなケースの場合、入信・入会にこだわる必要はない、たとえ本人が入信できなくても家族が真面目に信心活動することによって、その功徳が回向されるから大丈夫なのだ、というような意味の指導がなされているはずである。それにもかかわらず入会勤行にこだわったのは一名の成果がほしかったからではないかと、そう思われても仕方がないだろう。

百歩譲って、なぜに施設で入会勤行をしなかったのか、というのがわたくしの第二の主張である。いわゆる御本尊を御奉持して、病室などで入信・入会を行なうケースは、おそらく今でもたくさんあるはずなのだ。すでに紹介したごとく、娘さんは相当の重症患者である。もし万一のことがあったらどうするのかと言いたい。当然、外出許可が出るくらいだから病状は安定しているのだろうけれども、それにしてもどうかと思うのだ。

婦人部下野支区の平会員の記事にも、成果主義的な色彩が感じられるくだりがある。

・・・「お父さん、大聖人様の所に行くよ」と、自宅拠点に向かいました。

彼女は昨年六月、創価学会から入会してきた。夫は創価学会二世とのことだが、四十歳の時に脳梗塞となって、それより十八年間介護状態が続いているそうだ。

わたくしの思うに、これは前述の話みたいに命の危険があるとかそういう意味ではなく、ようは上掲のセリフそのものが問題なのである。これで折伏と言えるのかである。ましてや相手は脳梗塞を患っている人なのだ。どれほどの判断力があるのか不明だが、上掲の言い方は何となく誤魔化して連れ出しているような感じが否めないので、そこがよろしくないのである。

同志の臨終を見送って

婦人部富士見支区総班長のこの記事はひじょうに悩ましい。亡くなった人は七十八歳の女性だが、なんと彼女は昭和五十六年の入会だそうである。しかも母親と兄弟九人が全員創価学会員の中で、一人だけ顕正会に入会してきたという、なかなかのツワモノである。

しかし、結局はその状況のまま、臨終を迎えることになってしまったようなのである。

細かいことは省こう。何が悩ましいのかと言えば、今の顕正会は後期高齢の入信者が多いのである。ゆえに家族が顕正会とは無縁の状態で臨終を迎えるようなケースが、今も相当数あるだろうし、これからも増えていくと考えられるのだ。つまり、上掲はその一例に過ぎないわけである。

これについて本部首脳はどのように考えているのか、聞いてみたいものである。

もし何も考えていないとすれば、まさに成果至上主義そのものであり、かつまた単なる上辺だけの数字を求めているという、もはや何の戦略もない行き当たりばったりの状態だということになりそうである。これまた破綻は必定だろう。

芙蓉茶寮特製
「小麦ブラン(ふすま)パン」
  低糖質、食物繊維・鉄分・カルシウム豊富
       糖尿体質・ダイエットに有効!


ウマイのかどうかわからないが、いかにも身体によさそうだ。

何だか知らないが、顕正新聞一号分だけで何日も掛かっている。我ながら異常だ。さらに本号には三級試験の問題と解答が載っているのだが、まあ、しかし、これは別の機会に譲るとしよう。

2017/2/16

成人式の記事を中心に  
沖浦氏は同じ話を何度も繰り返し書いている。たぶん次の話は過去のコメントを調べればいくらでも出てくるだろう。

 以前、あるお歳よりが池田先生を拝みました。
 先生は、

 『おばあさん私を拝んだらだめですよ。
 拝むのは御本尊だけです。』(主意)

 と優しく云われその後、場を変えて幹部に、

 『私を拝ましてはいけません!』(主意)

 と、厳しく指導なさいました。


イジワルな見方をすれば、かつて池田本仏論批判が盛んだった時期があるので、それを払拭したいがために作られたエピソード、ということになるかもしれない。さらに別の角度からイジワルを言えば、沖浦氏は衆生己心の妙法こそが本尊だと主張しているわけなのだから、その意味では曼荼羅御本尊ではなく池田氏を拝むのが正しいことになるだろう。もちろん双方向性の意味からすれば、池田氏も会員を拝むべきなのだ。よく知らないが、こうした儀礼は小乗仏教の盛んな東南アジアの国々で日常的に行なわれていることだと思う。その意味からすると、上掲は間違いということになるだろう。

ちなみにわたくし自身は、宗門で行なわれている伏せ拝だとか顕正会のそれに近い慣習が正しいのか間違っているのか、あるいは好ましいのか好ましくないのか、よくわからないというのが正直なところだが、おそらくは今の平均的日本人の感覚からすると疑問符が付くのではないかと思う。その意味からすると、くだんの池田氏の発言はわりと万民受けするものなのだろうと考えられる。

さて、顕正新聞の話題に戻ろう。先日来、第1397号を取り上げているが、まだ残りがあるのだ。

午後〇時四五分〜午後三時四◯分

いきなり何の話かわからなくて恐縮である。これは顕正会主催の成人式の開始から終了までの時間をあらわしている。何が言いたいか、ズバリ長いということだ。

実は後日、近畿大会の話題も取り上げるつもりでいるが、やはり長いというのがわたくしの感想である。

思えば顕正会の拍手はベラボウに長い。今はどうだか知らないが、かつては長くて長くて大変だった。同調圧力とでも言うべきだろうか、ともかく周りの人たちが熱心に拍手をし続けるので、本当はもうそろそろいいんじゃないかと思っている人も一緒になっていつまでも拍手し続けるのだ。

しかし、拍手だけが長いのではなく、集会そのものがやたらと長い。論より証拠である。上掲を見れば、誰だって長いと感じるはずなのだ。

ちなみに時間感覚は個人差があるし、その状況によって感じ方が違ってくる。簡単な話、楽しい時間はあっという間に過ぎるが、苦痛の時間は長く感じるのだ。しかし、そうした事情を踏まえても、顕正会の集会はさすがに長過ぎるだろう。常識的には二時間が限度だと考えるべきである。

さて、顕正会の成人式では、毎年、四人の代表者が登壇する。

今回も四人だが、いずれも立派な登壇だった。その内容の前に役職について書くと、隊長が一人、支隊長が一人、総班長が二人、である。二十歳の段階で隊長というのは出世頭だろう。将来の顕正会を背負って立つ人物だ。

高校校長が顕正会誹謗文書を配布→顕正会本部が学校側を糾弾→校長自らが顕正会本部へ行き謝罪

隊長の記事から要点だけを書き抜いたものである。左隣の総班長もまた、高校側が退学を仄めかす中、健気に活動を続けてきたツワモノである。特に次のくだりが素晴らしい。

 一方、私は成績が常に上位で、三年間、一度も休むことなく「皆勤賞」で表彰され・・・

成績上位はもちろんのこと皆勤賞が凄いと思う。今は不登校の問題が深刻だと言われている。その理由はさまざまだろうが、顕正会員の場合は同級生を折伏したことが原因で仲間外れにされてしまって学校に行きづらくなるということが考えられる。あるいは折伏や集会参加のために帰宅が遅くなり、朝寝坊するみたいなこともあるかもしれない。彼女の場合はそれとは正反対の、きわめて模範的な生徒であり、かつまた同時に顕正会の活動会員なのである。文句のつけようがない。

右下の支隊長もまた退学を迫られるほどの苦難の中、顕正会の活動だけでなく学業のほうでも好成績を収めることが叶っている。立派なものだ。しかも次のくだりが興味深い。

学園祭の実行委員を辞めさせられる・・・

これには驚いた。何が驚きかと言うと、彼は支隊長なのである。ようは顕正会の中で幹部としての重責を担っているのだ。その彼が学校内においても学業とは別の、いわば生徒会活動のようなことにまで関係しているのである。凄いの一語だ。

さて、この三人の共通項は母親の縁で顕正会員になったことである。では、もう一人の登壇者はどうなのか、次にご紹介しよう。

 私は、高校入学と同時に、姉の縁で入信させて頂きました。

左下の総班長の記事である。ご覧のようにお姉さんから折伏されて入信したという。他の三人に比べると少し異色の存在だ。しかもゆえあって祖父母と暮らしているそうだ。

・・・家族が寝静まったころを見計らい、押入れや、時にはタンスにこもり、勤行を欠かさず実践していきました。

近年の傾向として、両親ないし片親が信心をしていて、その背中を見て育ったという青年部員が多く存在する。成人式の記事は十中八九がそれである。それに比べれば彼女の置かれた境遇はかなりの悪条件である。にもかかわらず健気に頑張っている点が素晴らしい。

ちなみに次のくだりは彼女特有の問題ではなく、顕正会全体に通じる意味で貴重な証言である。

 戦いにおきましても、毎法戦、誓願には勝たせて頂くものの、昨年初頭よりは、総班でありながら私と総班副長の二人きりの戦いになってしまい、申しわけなさで押し潰されそうになりました。

前々回の拙稿では婦人部ないし女子部の人たちが年配の男性ばかりをターゲットにしていることを取り上げて、そんなことをやっていたら早晩破綻するだろうという意味のことを書いた。あるいは最近の顕正会は若い人が育っていないという意味のことも何度か書いたことがある。
けれども今回の拙稿を読めば、それとは逆の事情が見えてくるはずである。顕正会にもご覧のような立派な若者がたくさんいるのだ。
ただし、上掲が示すように、活動会員たちは常に人材の逼迫を感じざるを得ない状況に置かれているという事実も疑い得ないだろう。

やはりそうすると、全体的な傾向性としては破綻に向かいつつあるというのが、公平中立な正しい観察なのだろう。

2017/2/15

コメント敷衍  
沖浦氏が奉公の方向性(?)について云々している。相変わらずのアホウぶりに苦笑を禁じ得ないところだが、けっこう重要な意味を含んでいると思われるので、少し触れたい。

 大聖人仏法は人のためにある法です。
 奉公するのは幹部が会員に、会長が幹部にです。
 それが正しい方向性なんです。


これは一つの真理である。しかし、絶対的な真理ではない。

わたくしは別の議論で、双方向性ということを言ったことがある。これこそが柔軟性のある思考であり、いちばん正解に近いはずなのだ。

つまり、沖浦氏の言う方向性も一つの真理ではあるが、それのみが唯一の正しい方向性だと考えるのは間違いである。実はその正反対の方向性もまた真理なのである。それが双方向性ということだ。

今や奉公は死語に近い。しかし、おそらくは政治家などが今でも盛んに使っているはずで、より峻厳な意味を加えるとしたら、滅私奉公という言葉が相応しいだろう。
そうした精神で政治を行なうことが、沖浦氏の言うことに通じるわけで、すなわち幹部が会員に奉公する=政治家が国民に奉公する・国民のために尽くす、というようなニュアンスになるわけだ。
ここで少し古い人種であれば、天皇陛下にご奉公するのが大臣以下のいわゆる臣民のあるべき姿であると、おそらくは言うであろう。その場合、では陛下はどのような姿勢でいらっしゃるのかが問われるわけで、これはもう言うも愚かなことだが、まさに陛下は日本国民の安寧を願っているのである。つまりはこれも双方向性の原理に基づいているのだ。

ゆえに政治家がいわゆる収賄事件を起こせば、自ずと大問題になる道理である。その少し手前の問題で言えば、いわゆる公私混同ということがある。滅私奉公を謳っている人が、自分の損得勘定で動いているとすれば、もはやオシマイである。単なる言行不一致ではなく、もはや政治家として失格なのだ。

ここでも天皇陛下は別格である。公平無私という言葉があるけれども、陛下はまさに文字通りの公平無私の存在である。何しろ最近の話題を例に挙げれば、いわゆる生前退位の問題がある。普通の人間であれば、辞めたくなったら辞めればいい。もちろん、それなりの手続きを踏んでの話であるが、陛下の場合はそれすら許されない。まさにワタクシというものを有しない存在なのである。

以上の説明で、すでに沖浦説の欠陥は明白のはずだ。

しかし、まだ続きがあるのだ。上述は世間一般の考え方に基いて、即興的に書いたものである。今度は仏法の視点から沖浦説の不備を指摘したいと思う。

何となくともこれを法華経の御奉公とおぼしめして・・・

先ほど、奉公は死語に近いと書いた。つまり、現代ではあまり使われないという意味だ。しかし、逆に言えば、昔はよく使われた言葉なのだろう。事実、大聖人も使っていらっしゃるのだ。

滅私奉公

この言葉はすでに紹介した。もちろん、これは御書ではなく、一般の言葉である。

では、次の言葉はどうだろうか?

死身弘法

これは涅槃経の言葉であるが、前掲の滅私奉公と物凄く似ていることに気がつかねばならない。当然、死身弘法は身軽法重とセットになっている。これまた滅私奉公との相似形に注目すべきだろう。私よりも公が優先されるという考え方と、自分の命よりも法のほうが重いとする仏法の考え方は見事に一致しているのだ。

迹門には「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」ととき、本門には「自ら身命を惜しまず」ととき、涅槃経には「身は軽く法は重し、身を死して法を弘む」と見えたり、本迹両門・涅槃経共に身命を捨てゝ法を弘むべしと見えたり。

こうした御指南を拝すると、一方通行のようにも思える。そしてこの場合の方向性は、沖浦氏の主張とはまるで正反対である。つまり、沖浦氏の言っていることは間違っていることになるのだ。

では、わたくしの言う双方向性はどうなるのか?

これは俗語で言えば、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、ということであり、大聖人の仏法においてもそうした覚悟で臨んでこそ、仏天の加護ないし功徳が得られるわけなのだろう。何も無駄死にを推奨しているわけではないのだ。

以上、沖浦氏の主張は一面の真理ではあるものの、それだけがすべてではなく、むしろ逆の一面があることを言わなければ、説明としては不完全であり、間違いである。

さて、問題はまだある。顕正会における御奉公だ。

御書にも示されている通り、御奉公という考え方は間違いではない。顕正会が多用する御奉公は、御書に基づいて是認されてしかるべきなのだ。ただし、今度はそれを悪用している可能性を考える必要があるわけで、そうすると顕正会の御奉公にはさまざまの問題が隠されていることに気がつかざるを得なくなるのである。

・誓願という名のノルマの実態
・御奉公優先の弊害
・顕正会の方向性への疑問


思いつきで三つほど挙げたわけだが、一番目は簡単な話である。

顕正会では入信者獲得の目標を掲げている。これを誓願と呼ぶのだ。誓願はいわば仏弟子が仏に誓いを立てる崇高な行為である。しかし、実際にはノルマ化しており、ようは活動会員が半ば義務的に課せられている数値目標なのである。御奉公もまた同じ構造にあるわけだ。御奉公の美名のもと会員たちは使役させられている。これが顕正会の実態なのだ。

二番目は程度の問題である。

世の中にはボランティア活動がたくさんある。それらは個人の自由であり、喜々として活動しているのならば何の問題もないはずである。しかし、顕正会の場合はもはや喜々として活動しているのではなく、使命感だとか切迫感に駆られて、いわば悲壮感の中で活動している人も少なくないのだ。これはもう限度を超えているとしか言い様がないだろう。ましてや仕事や家庭を投げ出して活動しているとしたら、大問題である。

そして三番目が厄介だ。

ようするに顕正会は本当に正しいのか、大聖人の仰せのままの信心をしているのか、という問題である。つまり、顕正会が邪教であれば、そんなところでいくら頑張ったって無意味であるし、それどころか返って罪障を積むことになる。ゆえに大問題なのである。

つまり、御奉公の美名のもと使役させられている会員たちが、極論すれば悪道に堕するかもしれないという深刻な問題を秘めているわけである。

2017/2/14

第1397号の各種記事から見えてくるもの  
今日は顕正新聞第1397号の各種記事にイチャモンを付けていこう。

 自分たちの成長に合わせた前進ではなく、広宣流布を急がれる先生のご決意に同心して戦う信心こそが・・・

この総男子部長の発言を悪く解釈すれば、しっかりとノルマをこなせ、というような意味になるだろう。文章の表面にはそういうエゲツない言葉は見られないものの、活動会員たちにとっては無言のプレッシャーになっている。それが現実だろう。

 この先生の背水の陣のご決意に諸天が相呼応し・・・

女子部総務の発言はやや意味不明である。この前後を読むと何となくはわかる。しかし、ヘンな感じは否めない。失礼ながら、この人もかなり思考がおかしくなっているのかもしれない。次の一節も彼女の文章である。

 同時に、天台大師・妙楽大師が恋慕渇仰した、御本仏出現の時の到来を肌身に感じるものであります。

善意に読めばわからなくもないのだが、しかし、おかしいだろう。御本仏はすでに七百年前に出現しているからである。

さて、次は副総合婦人部長である。

独裁者のごとき安倍に物申す者がいない日本の中で・・・

ようするに浅井先生だけが物申していると言っているわけだが、それは手前ミソ過ぎるだろう。それはともかく、独裁者云々が気になるところだ。わたくしの思うに、安倍首相は独裁者ではない。ようは他に首相に相応しい人物がいないということなのだ。それで気がつけばいつの間にか長期政権となってしまった。ただそれだけの話なのだと思う。

第十二婦人部長の登壇もツッコミどころ満載である。

入信者を置き去りにしてきた現実を突き付けられ・・・

これは正直な告白である。ようするに結集誓願という名のノルマを課せられて、そこで今までどれだけの人材を置き去りにしてきたかを思い知らされたわけなのだ。

難病を抱えた組長が・・・
米袋を持ち上げてギックリ腰になった総班長は・・・
大病を患う一壮年は・・・


これもいちおうは美談なのだろう。みんなが頑張った結果として、猛吹雪の中、一千名を超す大結集が叶ったわけだ。しかし、どうだろう。そんなに無理して病気を悪化させてしまったら、それこそ本末転倒だ。とりわけ次の発言が問題である。

「猛吹雪で前が見えなくても、恐怖心もなく、ただ前に進むことしか頭になかった」

危ないだろうがと言いたい。雪国の人は慣れてはいるのだろうけれども、そうは言っても大雪が原因でさまざまの事故が起きていることは、日々のニュースを見ていれば誰もが容易にわかることである。万一のことがあったら誰が責任を取るのかと言いたい。それを考えれば中止にしてもいいくらいである。それこそが大英断というものだろう。

もう一つ、第十二婦人部長の記事から引用しよう。

・・・一人で二桁の結集を叶えた壮年もおりました。

壮年? 先ほども大病を患う壮年が登場したが、これはまた別人なのだと思われる。実際、顕正新聞には集会の写真がしばしば掲載されるが、婦人部ないし女子部の集会にもかかわらず、よく見ると男性が何人も写っていたりするのである。とりわけ年配の男性が目立つ。しかも上掲の意味するところは単なるお客さんではないことである。婦人部の活動会員の一人なのである。

同じ紙面の左隣には女子部第百九区班長の活動報告が載っているが、これも同様の問題を秘めている。まずは彼女の年齢を想像してもらうために、次の一節を紹介しよう。

 時には採用試験や面接日が御奉公の予定と重なることもありましたが、迷わず御奉公を最優先していくと・・・

すでにこれだけでもおかしいだろう。結果として愛媛の大手銀行に採用されたとのことなので、それは結果オーライではあるものの、上掲は考え方がおかしいと言わざるを得ないところだ。

そして問題は次のくだりである。

 先日、未活動の壮年の娘から突然、「もう父に仏法の話をしないで下さい。父はやりたくないと言っている」と電話が入り、「警察や弁護士に相談する」等と言って来たので、会って折伏いたしました。

このシュチュエーションを想像できるだろうか?

彼女は大学を卒業したばかりの社会人一年生である。先方の壮年はもしかしたら自分の父親よりも上の世代かもしれない。その娘さんからクレームが入ったという。

先ほども書いたように、婦人部ないし女子部の集会には男性の姿がたくさん確認できる。しかも年配者が多いのだ。じゃっかんの偏見があることは承知しつつも言わせてもらえば、婦人部や女子部でもそれ相応の熟年者(熟女?)が壮年を誘うのならば格好がつくと思う。しかしハタチかそこいらのうら若き女性が年配の男性を誘うのは物凄く不相応のように思えるのだ。

まさか男性のほうもヘンな期待を懐きはしないだろうが、そうは言っても悪い気はしないはずである。そうして唯々諾々と入信し、かつまた集会などにも参加しているわけだ。

繰り返し言っておこう。上述はもちろん偏見である。年齢は関係ない。むしろ女子部員の健気さには頭の下がる思いである。しかし、いかがなものかという思いも同時に湧いてくることは否めない。もはやノルマが厳しくて、そうした方法論に頼らざるを得なくなったというのが現実ではないかと思うし、これでは当面のノルマは達成できても大きな前進は不可能なのではないかというのがわたくしの見方である。つまり、今のまま進めば必ず破綻するのだ。それもそう遠くはないのだろう。

2017/2/13

顕正新聞第1397号の隠れた目玉  
太郎氏の言うように、大同団結しなければ広宣流布は実現しない。まったくその通りであるが、問題はそれをまとめ切れる人物が出現するかどうかに懸かっているのだろう。他力本願的ではあるものの、そうした傑物が登場することを願う以外にないと思う。あるいはその人こそが日興上人や日目上人の再誕なのかもしれない。そう考えると、浅井先生もそこまでの器ではないことになるし、池田大作氏もまた同様である。恐れながら申し上げれば、現在の猊下も違うのだろう。

さて、今日は顕正新聞第1397号の記事を見ていくわけだが、まずは元旦勤行における浅井先生の挨拶を取り上げたい。

 これで米・ロ関係はいま最悪であります。

ようするに昨年末時点での情勢を言っているわけなのだろう。続きの文章もしかりである。

 また中国は、トランプ次期大統領が台湾の蔡英文総統と電話会談をして、「二つの中国」を認めたということで激怒している。

さらに先生は、今後のトランプの対応によっては戦争になってもおかしくない、世界はこれから何が起こるかわからない、一触即発の時代に入った、といったことどもを述べている。

ところがである。

つい先日、米中首脳が電話会談を行なった。一般的に報じられている範囲で見る限り、両国首脳はかなり良好な関係のように思われた。
さらに直後には日米首脳会談が行なわれた。これまたかなり良好な関係を思わせるものだった。
トランプ大統領は過激な発言で有名であり、首脳会談で何かとんでもない発言が飛び出すのではないかと多くの人が心配していた。ところがどっこい、案外に常識人というか、会ってみたらイイ人だった、というのが現時点での一般的な評価ではないかと思われる。

してみると、またしても浅井先生の期待(?)は裏切られたことになるだろう。ようは悪い方向に進むことを期待しているのが浅井先生なのだ。しかし、現時点では上述のごとくである。

ネット上で喧嘩していた人たちが、オフ会をやると、物凄く仲良くなることがあるらしい。ようは文章だけでバトルをしていた時にはわからなかった相手の良さがわかるのだろう。どんなに憎たらしいヤツなのかと思っていたが、実際に会ってみるとまるで正反対だった、というような感じである。

そういうわけで、米露関係も案外にうまく行くのではないかと思ったりもするのだが、いかがだろうか?

さて、話は変わる。

顕正新聞当該号には十二月度班長会の記事が掲載されている。一通り読むと、各部の大幹部たちの発言にある種の共通項が認められるのだ。いや、それは今回に限った話ではなく、毎回のことではある。ようは直近の浅井先生の指導をそのまま復唱するような、つまらない内容という意味において共通するわけである。そうした中で今回の場合は、次のキーワードがとりわけ目立つことに気がついた。

大陣列

具体的に挙げてみよう。

明年一月の大陣列構築に向け・・・(副総男子部長)
大陣列を整えて国難四年の初陣に突入・・・(副総男子部長)
加速する大陣列を整え・・・(総合婦人部長)
国難四年を見つめて大陣列を整え・・・(副総合婦人部長)
広布の大陣列を整え・・・(第十七婦人部長)
国難四年を見据えて大陣列を整え・・・(第二十六女子部長)


さらに追加するならば、次の二つも同類項と言えよう。

広布の陣列を整え・・・(第十二婦人部長)
国難四年の一月には、大量の人材を育成・抜擢し・・・(総男子部長)


第十二婦人部長のそれは大が抜けているだけで意味的にはまったく同じである。そして総男子部長の場合、いわゆるキーワード検索的には当てはまらないものの、やはり意味内容的にはまったく同じと言ってもいいだろう。

さて、二号後の一月度総幹部会を報ずる記事を読むと、驚くべき大人事が発表されている。

その中、隊長・区長・支区部長以上八八人におよぶ大人事が発表され・・・

これをどう見るかである。

もちろん善意に解釈すれば、昨年中にはたくさんの人たちが入信したわけだから、組織の拡充発展を図って当然ではあるのだ。

しかし、わたくしは性格がイジワルなのか、どうしても逆の見方をしてしまうのだ。すなわち隊長・区長・支区部長たちの間からも相当の離脱者が出た。よってそのための補填人事ではないかと。

たぶん班長クラスの離脱は日常茶飯事なのだろう。班長会の結集が一万数千人であることからしても、仮に一パーセントの確率で離脱するにしても百人単位となるのだ。同様の考え方で、隊長や区長なども一定数が離脱するとしたら、十人までは行かないにしても数人単位で離脱していると考えられるだろう。そして数字の話はあくまで平均値を意味するのであって、現実的には何かをキッカケに大量に離脱することもあれば、逆に少ない時もある。たぶん昨年は大量離脱の年だったのだろう。

ということで、それをいちばん承知しているのは各部の大幹部たちである。昨年末の段階で、本年初頭には大量人事を行なう必要に迫られていることがわかっていた。それが大陣列を整えるの意味なのだ。

もちろん、わたくしの勝手な想像に過ぎないのは、いつものことである。

ただし、幻の総支隊長のわりと最近の記事を読むと、現役の区長が正宗に帰伏した旨のことが書かれていたので、わたくしの想像もあながち無根拠ということにはならないのかもしれない。さらに、ヘンな話をすれば、幹部たちが離脱する場合、法華講に移籍するパターンが多いのだろうけれども、そればかりではない。ようはもうイヤになっちゃって、逃げ出す人もいるはずなのだ。そういう意味で、ネット上で一人の区長が離脱したという情報が出れば、それは氷山の一角であって、それ以外にも離脱者がいるだろうことが想像されるわけである。

さて、わたくしの想像はどこまで核心を突いているのだろうか?

2017/2/12

各氏のコメントを踏まえて  
まず二重投稿のことは、おそらくサーバー側の問題なのだろう。同じくサーバー側の不調で一時的に投稿不能になる場合も考えられるので、いちいち気にすることもないと思う。

大沢氏のコメントはご自身の経験を踏まえたものであり、ああ、あの時の当事者だったのかと、読む人が読めばわかる内容となっている。とりわけ次の一節が印象的である。

私に膝蹴りを食らわした小峰氏も当時の衛護隊長もいなくなってしまい、変なことですが寂しさを感じ、無念にもおもっています。

衛護隊長がいなくなったというのは、単に交代となっただけの話なのか、それとも組織から離脱してしまったのか、そこが気になるところである。もっとも小峰氏レベルが離脱してしまうくらいだから、その意味ではほとんどの顕正会員に当てはまる話なのだろう。誰もが離脱する可能性を秘めている。それが地滑り的に起きれば顕正会は崩壊する。

相応の「退職金」が準備されたのでは?

これはもちろん当然のことで、もし退職金すら貰えないとすれば、ヒドイ話である。問題は退職金=口止め料という解釈が妥当かどうかであるが、これは具体的な金額によって意見が分かれるところだと思う。え? そんなに貰ったの? これは普通じゃないよね? というようなベラボウな額か、逆に、まあ、それくらいなら普通だよね、勤続年数からしても妥当だと思う、ということなのか、それで判断が違ってくるわけだ。いずれにしても、これ以上は推測に推測を重ねるだけの話になるので、あまり意味はないだろう。

ついでに口を滑らせてしまうと、小峰氏レベルの大幹部はそう多くはないけれども、それに準ずるくらいの人たちがけっこう離脱している。近年では前任の総合女子部長が代表格だろうか?
しかるに彼ら彼女らはほぼ全員が沈黙している。この意味は何だろうか? まさか口止め料をタンマリと貰っているとか、そういうことなのだろうか?
わたくしの想像では、顕正会にはもうコリゴリなので関わりたくない、顕正会の活動会員たちは退転者に厳しい、たぶん自分がネットで発信すれば猛烈なリアクションが起こるだろう、そうなったら堪ったものじゃない、だから黙っていよう、というような感じではないかと思うのだが、いかがだろうか?

事実、匿名でのコメントは拙ブログにも寄せられるし、その他のサイトでも散見されるところである。やはり現役会員の反発を考えれば、実名での告発は難しいのだろう。これが妥当な線ではないかと思う。

さて、久々に太郎氏からコメントが寄せられたわけだが、けっこう難しい問題を提起されてしまった。ようするに宗門、創価学会、顕正会の三者が歩み寄ることは可能なのか、という問題である。これはひじょうに難しい話で、おそらく現状では不可能と見るのが正解だろう。わたくしの見解というよりも、それが大方の見方だろうと思う。
まず、単純な話からすると、宗門は顕正会を切ったわけである。ゆえに宗門のほうから顕正会に戻ってきて下さいとお願いすることはない。そして顕正会のほうは、ある時期までは宗門側に解散処分の撤回を迫る意味のことを主張をしていた。これをシタテに言えば、宗門に戻らせて下さい、ということだったわけである。ところがいつも言っているように、ある時期から大きく舵を切って、今は独立教団路線を歩んでいる。
当然、創価学会も上述とほぼ同じ構図であり、宗門のほうから戻ってきて下さいとは言わないし、創価学会側も戻りたいとは思っていないわけだから、もはや歩み寄る余地はないと考えるのが普通だろう。

覆水盆に返らずという。

世間一般においても一度こじれた関係はなかなか修復できないものである。いちおう表面的な和解ということはあるのだが、おそらくはワダカマリを完全に払拭することはできないのだと思う。

そこでわたくしがいつも夢想していることは、日蓮正宗系の人たちには大石寺回帰願望がある、それが何かのキッカケを得て爆発的な潮流となる、そうすれば創価学会にしても顕正会にしても本部首脳の思惑がどうであれ、その潮流に抗うことはできなくなる、というようなシナリオである。ただし、今書いたように、これは夢想である。実現性は限りなくゼロに近いだろう。

実現性の上から言うと、わたくしにはもう一つのシナリオがある。

顕正会の崩壊は近い。このような観測を打ち立てている人がいる。顕正会の崩壊がいつ起こるかはわからないが、わたくしもこれはかなり現実的な話のような気がしている。
その時、本部首脳が取るべき唯一の手段が宗門への歩み寄りではないか、というのがわたくしの思い描くところなのである。こちらのほうが実現性は高いだろう。
当然、無条件降伏である。これ以外に宗門側が受け入れる条件はあり得ない。顕正会側としては不本意ではあるものの、これしか選択肢はないはずである。

今回、基礎教学書を通読させていただいて、よくわかったことがある。顕正会は今もなお本門戒壇の大御本尊への熱烈なる信仰を堅持しているのだ。

ゆえに組織崩壊によって真面目な顕正会員たちが路頭に迷うことがあってはいけない。それは本部首脳の責任において、回避しなければいけないことだろう。この場合、極論すれば顕正会を自主解散して、会員たちには宗門への移籍を促す。事前に受け入れ体制を整えてもらうよう、宗門側に働き掛ける。

顕正会の場合は上述のシナリオでほぼ一件落着であるが、創価学会の場合は難しい。何しろ崩壊しそうにないからである。ゆえに正直なところ、どうしていいかわからない。

ただし、沖浦氏との長年の議論で少し見えてきたことがある。創価学会は教義の改変を行なっている。今後もさらに改変が行なわれる見通しであるが、問題は大聖人の仏法からの脱却が可能かどうかだろう。たぶん、無理なのだ。すると、ベースはあくまで大聖人の仏法ということになるわけで、大聖人の仏法の正統門流は日蓮正宗だという不動の事実がある以上、教義の改変をすればするほど矛盾を来たすことになるのだ。そこで自ずと大石寺回帰願望が芽生えてくる可能性は否定できないわけで、日蓮正宗のことをまるで知らない新しい世代の創価学会員の中から、何だかんだ言ってもやっぱり大石寺が正しいのではないか、というような声が上がっても不思議はないと思う。

もちろん、これは前述の延長線上の話であって、しょせんは実現性の低い夢想に過ぎないわけだが・・・

2017/2/11

顕正新聞第1397号の目玉  
今朝の沖浦氏のコメントは、寒い冬にはピッタシの心温まるものだった。

 小学5年で前十字靭帯を切って医者に「モーグルは諦めて下さい・・・」 と言われ、希望を失った娘に夢を与えてくださったのは沖浦さんでした。

わたくしの思うに、沖浦氏の整体術が功を奏したのではなく、氏の常に前向きであろうとするその姿勢が少女に良き影響を与えたのだろう。実は数年前から、わたくしは整形外科領域の障害・疾患などに興味関心を持っていて、ネット上であれこれと調べ物をしたりもしているわけだが、医師や施術家の技術が大事なのはもちろんのこと、当然ながら患者側の治ろうとする意志・意欲がどれほど重要なのかを実感しているところである。その意味では施術そのものよりも、患者に夢や希望を与える巧みな話術が求められているのではないかと思うのだ。おそらく沖浦氏はそうした面に長けているのだろう。こればっかりは天性のものであり、そう簡単にマネのできることではないはずだ。

さて、話術と言えば、顕正会の浅井先生である。瑠璃堂氏が顕正会の成人式について書いているが、城衛に対してはベラボウに厳しい。ようは浅井先生とのギャップが激しいわけなのだろう。先生の達人的な話術と比較してしまうと、城衛のそれはあまりにも不甲斐ないわけだ。なるほど、親子と言えども別の生命なのである。天性の資質は遺伝しない。先生の話術はマネしようにもできない。もっとも城衛は城衛らしさをウリにすべきであり、単なるコピーであってはいけないわけだが、おそらくはそうした意味を含めて、不甲斐なさが際立つということなのだろう。

同様の意味において、池田大作氏の子息も相当に影が薄い。もっとも創価学会の場合は世襲的な人事を取らないためか、あるいは巨大組織ゆえにベラボウに層が厚いためでもあるのか、もともと子息にはそれほどスポットが当たっていないような印象があるので、一概には言えないだろう。ただし、若くして急逝した次男坊のほうは、大作氏の資質を受け継いでいるかのごとくで、将来を嘱望されていたような印象だった。逆に言うと、それゆえに夭折したことを罰だの何だのとあげつらうムキもあるわけだが、わたくしはそこまで言うつもりはない。

ひるがえって顕正会の場合は、次男坊の城衛よりも長男の克衛のほうが人望があったし嘱望されていたような印象がある。しかし、ご存知のごとく、失脚してしまった。

さて、今日は顕正新聞第1307号から話題を拾うわけだが、上述の話題と関連する意味では次が衝撃的であろうと思う。

副総合婦人部長 浅井昌子

個人のプライバシーの問題ではあるものの、立場上からすれば、俎上に載せられても文句は言えまい。彼女は婦人部の最高幹部の一人として長く君臨しているので、知らない人はいない。顕正新聞に登場する頻度もベラボウに高い。では、以前はどのように表記されていたのだろうか?

副総合婦人部長 小峰昌子

彼女は浅井先生の長女だった。それがもう三十年以上も前になるだろうか、小峰勝彦氏と結婚した。それ以降、長らく小峰姓を名乗っていたわけである。それがここに来て、旧姓に戻ってしまった。つまり、勝彦氏とは離婚したわけなのだろう。

俗に言う熟年離婚である。まあ、世間ではよくある話だ。

しかし、先ほども書いたように、これを単なる個人のプライバシーの問題で片付けるわけには行かない。彼女は婦人部の最高幹部であるのはもちろんのこと、浅井先生の長女であることからしても、もはや単なる一幹部という立場には留まらないのだ。いわゆる本部首脳である。

拙ブログにおいては本部首脳ないし顕正会首脳部という表記を繰り返し書いてきた。わたくしの念頭にあったのは、実は小峰勝彦氏である。彼こそが顕正会の影の実力者ではないかと思って、何かしらメッセージ的なことを書く時には、彼に向かって語り掛けているような意味合いがあったのだ。

ところがである。昨年のことだが、彼は顕正新聞の編集兼発行人を外されてしまった。また、時期を同じくして本部会館には姿を見せなくなったとの情報も寄せられた。離婚云々の真偽不明のコメントも寄せられた。

当時の拙ブログを確認すればわかることだが、わたくしはそれらの情報に懐疑的だった。ゆえに、小峰氏は何かしらの病気で入院を余儀なくされているのではないか、それで姿が見えないのだろうと、こんな想像を巡らせてもいたわけである。

しかし、結果的には匿名で寄せられた情報のほうが正しかったわけである。

先ほどの浅井姓の表記は十二月度班長会の登壇に付されたものだが、同じく十二月度班長会の活動報告で第十二婦人部長が次のごとく発言している。

十月の部集会では、大きく結集を崩してしまい、その際、浅井副総合婦人部長より頂いた指導を通し・・・

これが悩ましい。十月の段階ですでに浅井姓を名乗っていたとも受け取れるし、十二月度班長会の時にご覧のように発言しただけの話かもしれないし、あるいは顕正新聞掲載の段階で表記を浅井姓に直した可能性もある。

いずれにせよ小峰氏が顕正会を去ってしまったことは確実のようである。

単なる離婚であれば、妙な具合ではあるけれども、小峰氏が本部首脳としてそのまま残ることもあり得た話である。しかし、彼は顕正会を去ってしまった。これがまた悩ましい話なのだ。離婚が先か離脱が先か、という問題である。
繰り返しになるけれども、離婚が先であれば、妙な具合ではあるものの、そのまま顕正会の組織に残る選択肢もあっただろう。しかし、離脱が先であれば、事情が違ってくるはずだ。
つまり、今度は昌子のほうが究極の選択を迫られるのだ。夫に付き従って顕正会を離れるか、あるいはその逆か、である。もちろんそれ以外の選択肢も考えられなくはないのだが、やはり浅井先生の長女という立場からすると、夫が離脱者であることは許されないのだろう。

以上のような理由から、これは単なる離婚話ではない。つまり、これは小峰氏が顕正会を見限った。単に妻を捨てたということではなく、ようは浅井先生を捨てたのだ。

三十数年前に遡って考えてみるといい。

浅井先生の長女と結婚するのは相当の覚悟である。そもそも三十数年前の顕正会はその規模にしても微々たるものだった。広宣流布だの国立戒壇だのデカイことは言っても、それが本当に実現するかどうかわからなかったはずだ。確信が持てなくて普通のはずなのだ。そうした状況下で結婚を決意するのは単なる打算ではなく、まさに純粋無垢なる信心に裏付けられてのことだったと考えて間違いはないだろう。

小峰氏は長いこと裏方に徹してきたような感じで、表舞台での華々しい活躍はあまり知られていない。実はわたくしも知らないのだが、少し上の先輩たちは小峰氏が男子部の隊長として大活躍していた時代を目の当たりにしている。やはり凄かったようだ。でなければ、浅井先生だって結婚を許しはしなかっただろう。

しかし、それが三十数年後の今日、とうとう潰えてしまったわけである。

ヘンな話、打算だけならば、残りの人生を顕正会に捧げたほうがよほど得だろう。これは誰だってわかることだ。しかし、小峰氏はそれを選ばなかった。なぜならば、彼は心底から浅井先生に心酔し、広宣流布・国立戒壇の大確信に住していたからである。つまりは、それがすべて潰えてしまった、夢幻だったことに気がついてしまった、気がつくのが遅いのかもしれないが、しかし、気がついてしまった。そして純粋なるがゆえに、もはや顕正会に留まることはできなかったのだろう。

もう一つ、相変わらずのズボラで恐縮だが、実は数年前の人事で昌子が理事に就任しているのである。確かその時、勝彦氏は理事から外されたのではなかったかと思うのだが、もしそれが事実ならば、そこがターニングポイントなのだろう。

誤解のないように書くと、理事を外されて面白くなかったとかの話ではなく、ようはフェードアウトの準備に入ったと考えられるのだ。勝彦氏としても長年の義理があるので、組織にダメージを与えるようなことはしたくなかった。それで徐々に消えていくような方法を取ったのだろう。

それゆえだろうか、ネット上で所感を述べることだって可能のはずなのに、彼は沈黙を守り通している。悪く言えば、口止めされていることにもなりそうだが、彼自身が義理を感じてそうしているとも考えられる。あるいはもうコリゴリということで、顕正会のことには一切関わらないつもりなのかもしれない。

当然ながら、すべてわたくしの想像である。


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