2017/3/30

正義にめざめてのレアケース  
予定通り、第1402号掲載の各種登壇記事を見て行こう。

 今、習近平・プーチン・トランプ・さらにドゥテルテ・金正恩など修羅界の親分が打ち揃い・・・

第十八男子部長の登壇である。修羅界の親分が面白い表現だ。続きの文章を含めて要約すると、本化国主が出現になれば、こうした親分たちを武力ではなく威徳によって取りまとめることができるという、理想を言っているわけである。日達上人もかつて未来の大理想ということを御指南下さったことがあるので、顕正会のこうした理想的発言を頭ごなしに否定することはできない。とは言うものの、やはり現実的には相当に困難だ。

正本堂誑惑の「訂正文」で学会と決別
 信心なき宗門を経て晴れて顕正会に

日目上人と先生の大忠誠 胸に迫る!


これは婦人部新座支区組長の「正義にめざめて」に付された見出しである。まず、最初の一行が疑わしい。次の一行はさておき、最後の一行が問題だ。

日目上人と浅井先生を並列的に書いているところがケシカランと思う。当然、編集部の責任である。別にわざわざ日目上人を出す必要はあるまい。単純に浅井先生の大忠誠云々と書けばよかったものを、なぜにこうしたのかが疑問である。

さて、話を戻そう。

彼女は昭和三十五年の入信だそうである。ゆえに次の記述はいちおうツジツマが合っているわけだが、しかし、委細に見ればどうかと思うところである。

 その後、学会が政治進出のため、次第に国立戒壇を言わなくなると・・・

ようするに彼女は不信感を募らせていったわけだ。

しかし、ここはウソではないにしても、記憶違いというか、後から記憶が再構成されたような感じが否めないと思う。なぜならば、政治進出のため、というのが明らかな間違いだからである。
考えてみるがいい。当時、創価学会が政治進出のために国立戒壇を捨てたとしよう。それをまさか会員たちにそのまま言うわけがないのである。政治進出のために国立戒壇を捨てますなどと、一々言うわけがないのだ。
そもそも話は逆である。もともと創価学会では国立戒壇建立のためには政治進出が必要だと言っていたのである。しかし、それが選挙に不利になると考えたのか、徐々に国立戒壇を言わなくなったという順序なのである。

彼女は昭和五十二年に創価学会を完全離脱し、しばらく無所属だったが平成十四年に宗門へ行き、そして平成十六年に顕正会へ移籍したということである。つまり、顕正会に入ってすでに十年以上が経過しているわけだ。おそらくはこの間に教わったであろう御遺命守護の歴史が強烈に命に焼き付いて、それがかつての記憶を上書きするようなことになったのだと考えられる。

 そして決定的だったのは、昭和四十七年十月三日の聖教新聞紙上で、浅井先生が理事長・和泉覚の名を以て正本堂の誑惑を訂正させた、その訂正文を読んだときでした。

このくだりもまったく同じ理屈だろう。少なくとも彼女は当時、浅井先生の存在を知らなかったはずであるし、理事長談話が実は訂正文だったということも知らなかったはずなのだ。

 「現在は広宣流布の一歩にすぎない。したがって正本堂はなお未だ三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇の完結ではない。ゆえに正本堂建立をもって、なにもかも完成したように思い、ご遺命は達成してしまったとか、広宣流布は達成されたなどということは誤りである。またこの正本堂は信心強盛の人のみがここには集いきたり、御開扉を願う資格がある。したがって、正本堂は広宣流布のその日まで信徒に限って内拝を許されることはいうまでもない」

煩瑣ながらも肝要部分を引用した。わたくしは現物を持っているわけではないので、顕正会側の資料に依った。そこには聖教新聞の写真があって、引用部分と思しきところには傍線が引いてある。それは談話全体の五分の一程度の分量である。また聖教新聞紙面の扱いとしてはどうだろう、一面の左上に掲載されているのでそれなりに重要な位置付けとは言えるものの、一面全体のボリュームからすると決して大きくはないのだ。

たぶん当時の聖教新聞を毎日細かく検証すれば自語相違がたくさんあるのだろうと思う。しかし、それを一会員が見抜けるのかは疑問である。わたくしの感覚では上掲の記事を読んでも不審に思わない。なにもかも完成したとか広宣流布は達成したとか思うのは誤りである、と書いてあれば、そりゃそうだ、と思うのが普通だろう。それとも当時の創価学会員は本気で広宣流布の達成だと思っていたのだろうか? そんなバカな話はないと思う。

以上、彼女の言っていることは悪く言えばウソ、まあ、そこまで言わないにしても、かなり記憶がアイマイになっていて、後から上書きされたような部分も少なくないと考えられる。その何よりの証拠は五十二年に離脱したことだ。正本堂問題も含まれるとは言え、この段階ではさまざまの問題が頂点に達したような意味があって、多くの人が脱会したと考えられるのだ。彼女もそうした一人に過ぎないのだろう。

話は飛んで、次は宗門時代の出来事である。

 また御開扉のとき、阿部日顕の勤行の声を聞いて、そのあまりに賤しい声にゾーッと鳥肌が立ち、それ以降、勤行ができなくなってしまったのです。

これは彼女の主観の問題なので、ウソとは断定できない。しかし、いかにも悪意の印象操作である。こんなことを総幹部会で発表させているようでは、もはや宗門との和解は絶望的だろう。

なんか長くなってきたようなので、今日はもうそろそろ終わりにしようかと思う。

先祖代々身延派日蓮宗の老舗で生まれ育つ

婦人部千葉支区組長の、これも「正義にめざめて」である。それにしても上掲の見出しがおかしい。身延派日蓮宗の老舗? 何じゃそりゃ、と思うところだ。

私の実家は、身延の参道で寛永元年から十五代続く土産物店を営み・・・

なるほど、身延の土産物屋だったわけだ。普通、寺院であれば古刹とは表現しても老舗とは言わないはずだ。ようは編集部の見出しの付け方がおかしかったわけだ。

ともかく彼女は日蓮宗の信徒だった。どれほどの信仰心があったかはわからないものの、身延の参道で生まれ育ったわけだから、それは必然的な話である。

その彼女が顕正会に入ってどう変ったか、その一端を次の二文に垣間見ることができる。

荘厳な光が胸に差し込んだような有難さ・・・

真っ暗闇に、一筋の光が広がる思い・・・


細かい説明は抜きにして、ご覧のように彼女はなかなかの表現力を持っている。有望な新人と言えるだろう。

上掲は情緒的な部分であるが、次のくだりはいわば教義上の重要な論点である。

身延では、諸天と釈迦仏を最上に崇めていたので・・・

いわゆる雑乱勧請のことだろう。たぶん一般の信者は何もわからず、身延に参詣すればそれぞれの堂宇に祀られてる仏菩薩ないし諸天善神などに手を合わせるわけなのだろう。ところが日蓮正宗ではどこの寺院を尋ねても曼荼羅御本尊しか安置されていない。例外的に言えば、宗祖御影などがあるわけだが、顕正会ではそれすら存在しない。つまり、彼女はその決定的な違いに大衝撃を受けたわけである。

通常、「正義にめざめて」は宗門や創価学会ないし正信会からの入会者と相場が決まっているけれども、マレにはこうしたケースもあるわけだ。先ほども書いたように、こういう人のほうが有望かもしれない。

もっとも絶対数が少ないので、今の顕正会の実情を考えると、焼け石に水かもしれないが・・・

2017/3/29

「撰時抄」特集号を斬る  
昨夜から今日未明にかけて、投稿者◯◯より連続投稿があった。いろいろとご不満があるようだが、こればかりはどうにもならない。

http://white.ap.teacup.com/ganko/2341.html

リンク先は二月初旬のものである。やはりここでも◯◯は不満を述べていた。ようはその不満が一向に解消されず、どんどん鬱積しているのだろう。俗に不満屋という言葉がある。彼はそういうタイプなのかもしれない。だとすれば、なかなか解決しないだろう。仮に一つの問題が解決したとしても、次から次へと不満が募ってくる。そういうものなのだ。

さて、今日は顕正新聞第1402号である。

「撰時抄」特集号

久々の特集号という印象だ。当該号は二月度総幹部会の記事を中心に組まれている。もちろん会長講演がその目玉である。その中で撰時抄のことがかなりの紙数を使って語られている。ゆえに撰時抄特集号と銘打たれているわけだ。

思えば一月度の総幹部会が掲載された顕正新聞はなぜか特集号ではなかった。それこそ開目抄特集号としてもおかしくはなかったはずだが、そうはしなかった。

単純に言えば、面白いか面白くないかであろう。二月度のほうが断然面白い。

たぶんその理由は時事ネタにあるのだろう。一月度のそれはここ一年くらいの出来事を大観するような感じで、目新しい話はあまり見られなかったからだ。一方の二月度の場合、アメリカの債務問題だとか日米首脳会談の話題、さらには森友問題という大注目の話題が載せられている。もうそれだけで読み応え満点である。妙な話、浅井先生の講演はそうした世間の話題に依存している面が少なくないのである。

その意味で、逆にわたくしが注目したのは、撰時抄の御意を拝し奉る、の一段である。

今回の講演は三ページ弱の分量である。その内の約一ページが撰時抄関連の話題となっている。そして特集号のタイトルも「撰時抄」である。当然、一般人への大量配布を目論んで特集号を作っているわけなのだろう。

しかし、わたくしの印象では相当に難解である。一般人にとってはわけがわからん話だろう。

当然、撰時抄の本文も引用されているが、それ以上にたくさんの引用を見るのが日寛上人の御指南である。すでにこの時点でアウトという感じだ。一般人にとって大聖人はともかくも、日寛上人はまるで馴染みのない存在である。誰それ? という存在なのである。ゆえに一般人にしてみれば、日寛上人の御指南をたくさん引用されても面倒臭いだけなのである。

 しかし、ここで一つの質問が出てくるかもしれない。・・・第五の五百歳はもうとっくに過ぎているのに、どうしてまだ広宣流布してないのか、という疑問です。

とりわけ、これ以降が面倒臭い。

 この疑問について日寛上人は、問を設けて懇切に御指南下されている。

だから日寛上人って誰なのよ? もう面倒臭いったらありゃしない。

確かに重要な御指南なのだろう。ただし、ここは一般人ないし初心者の立ち入るべき問題ではないと思う。信心が増してきて、教学についての関心度が上がってきた段階で、取り組むべき問題だろう。ヘタすると、広宣流布が経文通りに実現しないことの、単なる言い訳にしか聞こえないかもしれないのだ。だとすれば、特集号としては大失敗だろう。

以上、撰時抄特集号という意味においては、ちょっと失敗だったかもしれない。これが総合的評価である。

当日よりも大熱気であった・・・

あとはいつものごとく、気になったところを取り上げていくが、まずは上掲である。これは近畿大会のビデオ放映のことを言っているわけである。しかし、当日よりも大熱気というのはヘンな話だ。

 私は、二百万達成までには、未活動の人々がみな目ざめ、勢ぞろいすることを念願しております。

これは当然そうあるべきだろう。今の名目会員と実働会員の乖離は深刻過ぎる問題である。ゆえにこの問題を解消していくことが顕正会の存続に必要不可欠な命題なのである。まあ、しかし、残念ながら無理だろう。

上掲については後日また取り上げるつもりなので、記憶に留めていただきたい。

またここニ・三ヶ月、日本列島各地で風速二五メートル・三〇メートルという台風なみの悪風が連日、吹きまくっております。

あれ? そうだっけ?

 今の悪風、日本の将来に禍根を残す昨年十二月の日ロ首脳会談と本年二月の日米首脳会談のゆえかと、私は感じております。

わたくしはこれを牽強付会のように感じている。まず、台風並みの悪風が連日のように吹いていたということの真偽が疑わしい。浅井先生の主観が強いのではないかと思うのだ。さらにその原因を二つの首脳会談に求めるのは、相当に違和感のあることである。

繰り返しになるが、少なくとも連日の悪風が日本人全員の共通認識でなければ成り立たない話である。先ほども書いたように、わたくしの記憶にはなかった。つまり、わたくしの居住地域ではそれほど強風が吹いていたという記憶がないのである。ゆえに浅井先生の主観であり、いくら御書に根拠を求めたところで、その前提の悪風が先生の主観に過ぎないのであれば、まったく成り立たない話なのである。

 いまアメリカでは「オルト・ライト」と呼ばれる白人至上主義が勢いづいて・・・

不勉強のわたくしはまったく知らなかった。

 さて、いまアメリカの最大の問題は、表面にこそ出ていないが債務問題です。これがいちばん深刻なのです。

そうした問題があるだろうことは薄々わかっていたが、今回の講演ではその具合的な数字を挙げている。

公表されているものだけで約二三兆ドル

その他もろもろを含めると二〇〇兆ドル


これは特集号にするだけの値打ちのある話題だ。日本円に直すと、前者が二千六〇〇兆円で、後者はなんと二京二六〇〇兆円、ということらしい。いやいや、恐れ入った。兆の上の単位を見るのは初めてのような気がする。

日米首脳会談の落し穴

この一段はかなり専門的であり、わたくしには何とも言えないところだが、単純に考えればそれほどおかしな話ではないだろう。浅井先生は安倍外交を辛辣に批判しているけれども、もともと日米は親密な関係にあるわけだから、首脳会談が行なわれて当然のことなのである。ゆえに一般人の感覚からすると、この人(浅井先生)は何でもかんでも批判するタイプの人なのだ、と感じるかもしれない。いわゆる不満屋である。

安倍政権の謗法

まあ、しかし、浅井先生的には一貫性があるわけだ。ご覧の表題に見るごとく、日本国の首相が謗法を犯している。それで国が安泰でいられるわけがない。そういう文脈なのである。

 いま、国有地の不正払い下げをめぐって、大阪の「森友学園」が大きな騒ぎとなっておりますが、この問題点は、払い下げの不正などは小さなことです。

当然、このくだりも浅井先生的には一貫性があるのだろう。しかし、いかがなものかと思う。おそらく一般人の感覚では大いに疑問に感じるところであり、残念ながら浅井先生の言っていることはほとんど理解できないはずである。

 もっと重要なことは、この森友学園が経営している幼稚園において、児童たちに毎朝「君が代」を斉唱させ、「教育勅語」を暗唱させ、さらに年に一回、児童を伊勢神宮に参拝させている。

この部分はテレビなどでも報道されており、おそらく一般人の感覚では物凄く奇異に感じるところなのだと思う。ただし、それは顕正会に対しても同じことなのだ。

特に幼稚園などはキリスト教系だとか仏教系など、いわゆる宗教色を帯びた施設が少なくない。その意味では神道系があってもおかしくはない。ただし、それを教育の場にどれだけ反映させるかは、それぞれの施設の判断なのだろう。森友学園の場合、それが物凄く顕著だということで、おそらくは今の平均的な日本人の感覚からすると奇異に感じるはずなのだ。

だったら顕正会も同じだろう。もちろん顕正会は教育機関ではないが、その主義主張は仏教系の中でもとりわけ過激な日蓮系、さらにはその中でも特に過激な日蓮正宗系の、しかも親分であるはずの日蓮正宗からも破門されてしまうほどの過激集団、それが顕正会なのである。

その意味で上掲のくだりを一般人が読んだ時にどう感じるかを考えると、わたくし的にはちょっと不安になってくるわけだ。

今日はこんなところで終わりにしよう。

もしかしたら三月度総幹部会でも森友問題に言及しているかもしれないので、引き続き注目したいと思う。次回は各種登壇を取り上げるつもりだ。

2017/3/28

年度末の大狂乱  
まず、マイケル氏に申し上げたい。わざとらしい質問はおやめなさいと。今朝のarc氏とのやりとりを読むと、ずいぶん乱暴な物言いにはなっているものの、気分的には先方の言っている通りだと思う。ワザとではない、本気で質問しているのだ、とおっしゃるのであれば、もう少し勉強してからいらっしゃい、と言わざるを得ないだろう。マイケル氏関連の話題は、また後で書くつもりだ。

さて、前回の拙稿は自己評価としてかなり舌足らずな印象が拭えないけれども、いちおうは意を尽くしたつもりである。対するarc氏のコメントは舌足らず以前の問題かと思う。すなわち議論の放棄だ。

2017/3/27 8:15
投稿者:arc
巌虎さん。
「唱法華題目抄」とお答えしました。
どこの書かれているかまで人に頼るのですか?
自分で全文、何度も読み返してみなさい。
はっきりと書かれていますよ。


あとは読者の判断に任せるということでよいかもしれない。前回、わたくしは唱法華題目抄についても部分的に引用しているし、その他、関連すると思われる御書をいくつも引用した。つまり、わたくし的には舌足らずは否めないものの、説明の努力は惜しまなかったつもりなのである。しかるに先方はご覧のごとく、いわば突き放すような書き方をしているのだ。これはもう論ずる資格なしだろう。

しかも話は単純である。具体的な御文を提示すればいいのである。それをせずして、自分で見つけろはないだろう。

してみると、今朝のマイケル氏宛てのコメントは、先方の人物像そのものなのかもしれない。

2017/3/28 8:36
投稿者:arc
>戸田先生も、そう仰ってるんですかね?

よく読めや。
戸田が間違いを流布させたと言ってるだろうが。
宗祖がそう言っているんだ。
御書読め。1万回読め。


サラシモノ的な引用で恐縮だが、よく考えてみると、わたくし宛てのコメントと上掲とは言葉遣いこそ異なるものの、内容的にはほぼ同じである。つまり、説明の努力を放棄しているのだ。いったい何の意味があってコメントしているのだろうかと思う。

もちろん、上掲の場合はマイケル氏にも原因がある。すなわち質問がトンチンカン過ぎるわけだ。

ひるがえって拙稿のそれは、トンチンカンかどうかは読者の判断に任せるしかないけれども、繰り返しで恐縮だが、舌足らずながらも自分なりには意を尽くしたつもりなのである。しかるに先方は説明する努力をせず、何度も読んでみろ、そうすればわかるはずだ、と言って片付けてしまっているのである。これではお話にならないだろう。

 有る人予に問うて云はく、世間の道俗させる法華経の文義を弁へずとも・・・

前回の拙稿で話はほぼ完結しているのだけれども、舌足らずな点があったので、今日はそこを少し補足したいと思う。

上掲は唱法華題目抄の冒頭の一節である。この論題の背景は何か? いわゆる対念仏、念仏宗への破折ということが大聖人の念頭にはあって、そのことが冒頭の一節に反映されていることは一目瞭然である。その具体的なキーワードを次に挙げておこう。

難行 易行

同時期の守護国家論などにおいても同様のテーマが取り上げられている。すなわち法華経は難行道であり、末法の衆生の機には適わない、だから捨閉閣抛せよと、念仏宗では言っていたわけである。これに対して大聖人は、念仏のほうこそ難行ではないか、法華経こそが易行の中の易行なのだと、こう反論したわけである。

大聖人は念仏宗の勃興期から最盛期に至る、そうした時代背景を背負って登場されたわけである。ゆえに立宗初期においては特に念仏宗破折に力を入れていた。唱法華題目抄もそうしたコンセプトで認められた御書なのだ。

これで前回の拙稿の補足はおおむね完了である。

台家の修行法と思しき一念三千の観念観法を退け、唱題行を強調あそばしたのはいわゆる台当違目の上から考えれば当然のことではあるが、しかし、御化導の初期においては必ずしもそこに力を注がれていたわけではない。つまり、これは対念仏が目的であって、法華経の易行たるゆえんを説くためにあそばしたことなのである。

愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず、其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。

切り文批判を免れるために、後半部分を含めて引用した。ご覧のごとく、この段階では観念観法を完全否定しているわけではないのだ。堪へたらん人は観念観法も可ということだ。

しかし、あくまで堪へたらん人であって、これが万人に通用することでないのは自明の理であろう。いかにいわんや曼荼羅図顕をや、である。これが結論だ。

諸経は悪人・愚者・鈍者・女人・根欠等の者を救ふ秘術をば未だ説き顕はさずとおぼしめせ。法華経の一切経に勝れ候故は但此の事に侍り。

同じく唱法華題目抄からの引用である。女人云々は現代的には女性差別などの批判を免れないところだが、これは致し方のないところだ。ともかく愚者・鈍者に注目していただきたい。さらに前回、本尊を書くことは智者のみに可能な行為という意味を繰り返し述べたことを、思い出していただきたい。つまり、愚者・鈍者には観念観法も本尊図顕もできないが、ひたすら唱題行に徹することで救われる、まさにそれが大聖人の仏法の易行たるゆえんなのである。

2017/3/27 7:39
投稿者:マイケル
>本尊を書く行為は智者のみが可能であることがわかるはずだ。

浅井先生も、智者に含まれているのでしょうか?


ワザと聞いているのであれば、およしなさいと申し上げる以外にない。本気で聞いているのであれば、もう少し勉強してからいらっしゃい、と申し上げたいところだ。

今はどうか知らないが、マイケル氏は日蓮正宗の信徒だったはずである。であるならば、本尊書写の権能は御法主上人のみが有するとわたくしが書いたことを、理解できないはずはない。つまり、浅井先生に本尊を書く資格はない。

智者について説明しよう。

智者は一般的にも使われる言葉だが、ここでの智者は仏法上の智者である。龍樹・天親・天台・伝教等はまさしく智者であり、大聖人も度々言及あそばされているが、しかし、御化導の進展に伴ない、その評価が少しずつ変ってくる。次に開目抄と撰時抄をご覧いただこう。

 されば日蓮が法華経の智解は天台伝教に千万が一分も及ぶ事なけれども・・・

 漢土・日本に智慧すぐれ才能いみじき聖人は度々ありしかども・・・

煩瑣になるので短く引用した。開目抄と撰時抄ではかなり趣きが違っていることがよくわかるのではないかと思う。誰かのマネではないが、前後の御文をよく読んでいただきたいものである。

最後に阿仏房尼御前御返事を引用して終わろう。

然れども大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし。

大聖人は日本第一の智者であられる。となると、原理的には大聖人の仏法を理解できる人はいないことになる。ようするに、大聖人と同じレベルの智慧がないと理解できないのだ。

以上、浅井先生が智者に含まれるかどうかは推して知るべしである。

2017/3/26

大狂乱の春  
arc氏から早速の返信をたまわった。わたくしの立場からすると、ひじょうに答え難い質問ばかりが並んでいる印象だ。

しかし、氏もけっこうオッチョコチョイな人らしく、わたくしにツッコミの余地を与えている。

そんな決め事、遺文のどこにありますか?
本尊は題目を書いて本尊としなさいとあるだけ。
誰々が書くべきだと遺文にありますかな?


本尊書写の権能は御法主上人のみが有する。日蓮正宗の内部規定と言われればそれまでだが、それ以前にarc氏の言っていることにもブレがあるのだ。前々回、氏は次のごとく言っていたのである。

「曼荼羅は誰が書いてもいい。文字でなく仏像でもいいと書かれています。」

誰が書いてもいい?

氏はこれには答えず、逆質問しているわけだ。確かに御法主上人のみの専権事項とするのは正宗の内部規定かもしれない。では誰が書いてもいいのかと言えば、そんなことはないだろう。

 問うて云はく、法華経を信ぜん人は本尊並びに行儀並びに常の所行は何にてか候べき。

arc氏が言っているのは唱法華題目抄のご覧の問いから始まる一段と思われる。これ以下の答えの部分を拝読しても、そこには誰が書いてもいいとは認められていない。もちろん御法主上人が書けとも言われていない(そんなの当たり前だが・・・)。

ただし、文意を正しく拝するならば、本尊を書く行為は智者のみが可能であることがわかるはずだ。

たへたらん人は、たへたらんは、たへたらん人は・・・

煩瑣になるので全文引用は控えるが、答えの部分にはご覧の言葉が繰り返し出てくるのだ。そして一段の括りには次のごとく認められている。

愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず・・・

もはや話は見えたはずだ。ようするに当時の文盲率を考えれば本尊を書ける人などごく少数に過ぎなかった。さらに、先ほどの曼荼羅図顕は智者の行為と書いたことを踏まえて、次の十章抄の一節を拝するべきである。

真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南妙法蓮華経なり。心に存ずべき事は一念三千の観法なり。これは智者の行解なり。日本国の在家の者には但一向に南妙法蓮華経ととなえさすべし。

あるいは法蓮抄にも傍証となるべき一節がある。

五種法師の中には書写は最下の功徳なり。何に況んや読誦なんど申すは無量無辺の功徳なり。

この対告衆とされる曾谷殿は、富木殿や大田殿に並ぶ大檀那であり、相当の教養人である。もちろん文盲のわけがない。arc氏の説が正しいのであれば、自分たちでどんどん御本尊を書いちゃえばいいだろう。しかし、そんなことはしなかったはずである。つまり、上掲の御文は直接的には無関係だが、それでも氏に対するじゅうぶん過ぎるほどの反証となり得るものなのだ。

もう一つ、是日尼御書を引用しておこう。

又御本尊一ぷくかきてまいらせ候。

対告衆は尼である。そして文中には入道が身延に参詣して、一ヶ月ばかり滞在していった旨の記述がある。尼の旦那さんだろう。彼らはもともと在家だったが、今は文字通り仏道に入ったわけなのだろう。だったらなおさら自分たちで御本尊を書いちゃえばいいはずだ。しかし、そうはしないで、大聖人から御本尊をたまわっているのである。

その理由は本尊抄の末文に明白だ。

 一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし・・・

繰り返し言っているように、曼荼羅図顕は智者の行為なのである。誰もができることではない。

諸法実相抄にも注目すべき一節がある。

・・・地涌の菩薩の中の上首唱導上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始めの五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給ふのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕はすべき人なし。

もうこうなると、そこらの尼や入道には書けないことは明々白々だ。

最後に「たへたらん」の意味について、ニワカ勉強であることをお断りした上で書いてみたい。「たへたらん」は、おそらくは「堪へたらん」なのだろう。持妙法華問答抄には次の一節がある。

一念三千の太虚には慧日くもる事なく、一心三観の広池には智水にごる事なき人こそ、其の修行に堪へたる機にて候なれ。

つまり、上根上機の人でなければその修行には堪えられないのだ。事実、当該御文の数行後には次の一節がある。

一切衆生皆成仏道の教なれば、上根上機は観念観法も然るべし。下根下機は唯信心肝要なり。

これで堪へたらんの意味も明瞭のはずだ。かつまた日興上人が十大部を撰せられるに当たって、唱法華題目抄については「常途の天台宗の義分を以て」云々と注意書きあそばしている点も見逃せないだろう。

「曼荼羅は誰が書いてもいい。文字でなく仏像でもいいと書かれています。」

再掲であるが、御文の上っ面だけを読んでいると、とんだ大間違いを犯すことになることが、よくわかったのではないかと思う。つまり、arc氏の主張は未だ台家の範疇から脱していないのだ。そんなものが大聖人の御本懐の御法門のわけがなかろうことは誰の目にも明らかであろう。


同日追記:御題目に脱字があった。まったく情けない話だ。

2017/3/25

春の大狂乱  
つい先ほど、arc氏よりコメントを頂戴したので、以下、全文を紹介しておこう。

2017/3/25 9:50
投稿者:arc
日蓮聖人は遺文に
「曼荼羅は誰が書いてもいい。文字でなく
 仏像でもいいと書かれています。」
曼荼羅は目的ではなく目標です。
日蓮聖人の信仰の柱は「立正安国の精神です。」

芸術家や彫刻家じゃあるまいし、
板本尊を建立したことが本懐であるわけがない。
まともに考えればわかる話。

戒壇本尊本懐論なんて
日寛さんが創作して戸田さんが流布したお話。


先日のコメントとは方向性が少し違うようである。すなわち先日は数多の曼荼羅御本尊の中でどうして弘安二年の大御本尊が出世の本懐であると言えるのかというような筆致だったわけだが、今回のそれはご覧のように曼荼羅図顕は目的ではなく目標などという意味の取り難いことを書いて、いわば煙に巻こうとするかのような感じになっている。かつまたカギカッコの意味がわからない。通常は誰かの言葉を引用する時にカギカッコを使って地の文との区別をつけるわけだが、上掲の場合はそれとは違う用法のようである。あるいはご自分の考えを強調する意味なのか、もしくは大聖人の御考えを短くまとめればこうなるという一種の意訳のようなものなのか、それともズバリ、何かの引用文なのか、その辺がまったくわからない。

ともかくハッキリしたことは、どうやら氏は日蓮宗系の人間だということだ。

曼荼羅は誰が書いてもいい。文字でなく仏像でもいい。

再掲である。氏はこれを遺文に書かれているという。つまり、御書にそのように書かれているそうなのである。ならば具体的な御文を挙げればよかろう。

日蓮正宗では御法主上人しか書いちゃいけないことになっている。もちろん仏像は不可である。当然、他門との法論となれば、その根拠を御書に求めなければいけないわけだが、さしあたってはarc氏のほうから提示すべきだろう。そちらが投げ掛けてきた議論である。

目的ではなく目標・・・

これも難しい議論だ。読者諸氏は重々承知のことと思うが、わたくしは沖浦氏が度々これを言うものだから、前回は今までとは違った角度から切り込んでみたわけである。より正確に言うと、沖浦氏のそれは上掲とは違って、目的と手段という二項目を立てて曼荼羅図顕は手段に過ぎないなどと言っているわけである。ところが今度のarc氏のそれは目的と目標という二項目の立て方をしている。これはひじょうに難解である。なぜならば、わたくしのようなアバウトな人間からすれば、目的と目標にどれほどの違いがあるのかと思ってしまうからである。つまり、近似の言葉なのだ。沖浦氏のように目的と手段とすれば、これは明らかに別々の概念を立てていることがわかるわけだが、目的と目標ではその違いがよくわからない。ゆえに、もしそこに重要な意味があるとするならば、それこそもっと丁寧に説明するべきだろう。

大聖人の信仰の柱は立正安国の精神・・・

これはいわゆる抽象的な意味において、そんなに間違ってはいないのだろうと思う。平たく言えば、正しい仏法を立てて国を安泰にする、それが立正安国の精神であり、詮ずるところはそれが目標ないし目的なのである。

芸術家や彫刻家じゃあるまいし、
板本尊を建立したことが本懐であるわけがない。
まともに考えればわかる話。


板本尊に限定して言っているのだとすれば、いかにも日蓮宗系の言いそうなことである。ただし、先日も引用したごとく、阿仏房御書には曼荼羅図顕を出世の本懐だと仰せになっている。まずはこれを肯定するのか否定するのか、そこからお聞きしたいところだ。

せっかくなので新尼御前御返事を引用しておこう。

此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存ぜば、諸王は国を扶け万民は難をのがれん。

先ほど、正しい仏法を立てて国を安泰にする、と書いた。まさに当該御文の御意はそこにあるわけで、ここでは国家の安泰と共に国民の安寧にも言及あそばしている点がいかにも懇切丁寧であられる。しかもである。正しい仏法とは何かについても、より具体的な御指南をあそばしているのだ。すなわち此の五字の大曼荼羅云々と。

そうそう、今気がついたことがある。わたくしは今日の冒頭において、arc氏のコメントは方向性が違ってきている、という意味を書いた。

しかし、そうではなかった。

後半部分は前回とまったく同じであり、早い話が戒壇の大御本尊に対するイチャモンなのである。

何を考えておるものかと思う。わたくしの観察では、沖浦氏の言うことやることに一々イチャモンをつけているので、沖浦氏個人に何かしらの恨みを懐いている人なのだろうと見ていた。事実、それは間違いのないことなのだろう。しかし、ここに来て、にわかに日蓮正宗への批判を開始した。行き掛かり上、そうなってしまった意味もあるのだろうが、しかし、もともとそのような考えを持っていたからこそ、書けるのだろう。それにしても意味不明である。

繰り返しになるが、書いておこう。

後半部分は日蓮正宗批判そのものである。しかし、前半はそうではなく、いわば所信表明みたいな感じで、つまりは相手への批判ではなく自分自身の大聖人観を開示するような、ある意味では正々堂々とした論陣を張っているようにも感じられるのである。わたくしは当初、それを方向性が違ってきている、煙に巻く、お茶を濁す、みたいに書いてしまったわけだが、それはやや失礼だったかもしれないと今反省している。

それにしてもである。

誰が書いてもいいとか、目的ではなく目標だとか、そのごとごとくが意味不明の発言に思えて仕方がないのである。それもこれも今後のコメント次第だろう。なるほど、そういうことだったのかと相手をうならせることができるのか、それともますます混迷を極めることになるのかは、まさに今後のコメントの内容次第である。

2017/3/24

固定観念の罠  
arc氏は正体不明の人物である。その立ち位置もよくわからない。それでずっと静観していたわけだが、ここに来てようやく本性をあらわしたようである。

弘安二年が究極中の究極であるなら
どうしてその後も相貌の違う文字曼荼羅を
書き続けたのか?


なかなか鋭い質問である。

わたくしがとっさに思い浮かんだのは涅槃経第一主義である。第一主義という表現は現代流のものであるが、古来より涅槃経第一を主張する宗派が存在したのは事実であり、かつまた新興宗教の中にもあるらしいのだ。

有名な樋田ビデオの中でもわりと最近だろうか、樋田氏がどこぞの新興宗教の幹部と対論している動画があるのだ。先方では涅槃経第一を唱えていた。その理由は単純明快、涅槃経がいちばん最後に説かれたからという。

arc氏の言わんとしていることを逆から捉えれば、まさに上述のことに通ずるわけである。すなわち弘安二年の大御本尊が究極の御本尊なのであれば、そこで打ち止めにすべきであり、それ以降は本尊を書くべきではなかったと。もしくは弘安二年が完成形なのであれば、それ以降はすべて同じ相貌でなければおかしいと。

なるほど、これは相当の説得力がある。

ただし、先ほども書いたように、法華経と涅槃経の関係を思えばそれほど矛盾はないことになる。つまり、もしも大聖人が涅槃経第一を主張しているのであれば話は違ってくるけれども、大聖人はあくまで法華経第一なのである。これまた有名な言葉を使えば、已今当説最為第一ということなのだ。

一般的な表現では空前絶後がそれに近いだろうか?

ある意味、これほど強引な説明もあるまいと思う。法華最勝の理論的説明としては久遠実成と二乗作仏がきわめて重要なキーワードとなるわけだが、已今当のそれは理論的というよりはほとんど頭ごなしの決めつけに近いものがあるわけだ。

とにもかくにもである。ここで言いたいことは、大聖人御図顕のあまたの御本尊の中で究極の御本尊が弘安二年であることにさしたる不都合はないということが、已今当のそれからわかるということである。

少し余談的に話を進めよう。

立正安国論 守護国家論

開目抄 観心本尊抄

報恩抄 撰時抄


これはわたくしがたった今、勝手に抽出したものである。大聖人の御化導における初期・中期・後期の代表的御書を二つずつ挙げたわけだ。もちろん異論があるかもしれないが、おそらく中期すなわち佐渡期の開目抄・本尊抄は異論がないだろう。また専門的な学者によっては、大聖人の御法門はこの二書に尽きる、という意味を述べている人もいるはずである。

もしそれが本当ならば、ここでも已今当の理屈が当てはまることになる。

ただし、上述は大間違いとは言えないまでも、必ずしも正解ではない。
そのいちばんわかりやすい例は三大秘法だろう。大聖人の仏法は三大秘法である。しかるに佐渡期においては未だ三大秘法の御法門は完全には開示されていない。ゆえに開目抄・本尊抄に尽きるというのは正解とは言えない。
さらに別の角度から言えば、大聖人の御法門はすべての御書を総合的に拝することによって、その全貌が見えてくるという面もあるので、重要御書だけを限定的に見ていても正解には至らない。ゆえにシツコイようだが、開目抄・本尊抄は物凄く重要な御書だけれども、それだけではダメなのである。

初期の二書はここでは省略しよう。問題は後期である。わたくしは報恩抄と撰時抄を挙げた。

後期はいわゆる身延期であるが、当該二書はいわゆる建治年間である。身延期を大きく前期後期に分ければ、建治年間はまさしく前期に当たるわけである。
ご存知のごとく、日蓮正宗では弘安年間こそが究竟ないし本懐と教えている。もっとも正宗の人でも勉強家であれば、それは御本尊のことであって御書は別の話だと承知していることだろう。まさにそのとおりなのだ。
わたくしも何の予備知識もなく虚心坦懐に御書を拝した時に、建治年間の御書群のベラボウな充実ぶりには驚く他ないと感じている一人である。その内容はもちろんのこと、膨大なる執筆量も驚異的である。

御書については以上である。

では御本尊はどうかであるが、わたくしは御本尊の相貌を云々するだけの知識もなければ、そうした鑑識眼もないので何も言えないというのが正直なところである。ただ単純に、これまでの説明でご理解いただけたかと思うのだが、弘安二年に究極の御本尊があらわされたということにさしたる矛盾はない、とは言えるのではないかと思う。ただそれだけの話である。

 釈迦の法華経も大聖人の文字曼荼羅もそれに至る手段です。
 目的は衆生の成仏です。


さて、最後に沖浦氏のコメントを少し拾っておこう。手段と目的、目的と手段。わたくしはこの言葉にワナが仕掛けられているような気がする。これを沖浦氏が意図的にやっているのか、それともさしたる深い考えもなくやっているのか、そこはわからないけれども、ここに初歩的かつ根本的な誤謬が潜んでいるのだと思う。

本懐=目的、曼荼羅=手段

沖浦氏の主張を単純化すれば上掲のようになるのだろう。しかし、どうしてそのように言えるのか、まずはそれを論証しないといけない。目的とか手段という語彙は現代人には当たり前のように使われているものの、おそらく大聖人の時代にはなかったものなのだろう。言葉そのものがなかっただけの話ではなく、そうした概念が存在しなかったかもしれないのだ。いやいや、そんなことはあるまい、と言うかもしれない。わたくしの思うに、そうした概念に近似のものは存在したかもしれないが、少なくとも現代ほどには整理整頓ができていなかったと考えるのが妥当である。

秘術

御書を検索すると、目的も手段も出てこない。わたくしはそれに代わる言葉を考えてみた。さしあたって思い浮かんだのが秘術である。
そしてわたくしの言語感覚が正しければ、秘術は手段に近いはずである。少なくとも目的と手段のいずれか一方を選択するとしたら、手段のほうに当てはめるしかないだろうと思う。
ここでは御書の一々を紹介しないけれども、先ほども少し触れた総合的に拝するという姿勢で結論を出すとすると、まさに曼荼羅図顕は秘術に相当するだろう。すなわち手段である。

さて、沖浦氏にはわたくしの説明が理解できただろうか?

ここで頭の悪い人は、曼荼羅図顕=秘術=手段と連想して、本懐=目的であるからして、曼荼羅図顕は手段であり目的ではない、すなわち本懐ではない、という結論を導き出すことだろう。これは大馬鹿者の結論である。

ようするにこれは現代人が培ってきた語彙ないしそれに伴う概念を基準に導き出した結論に過ぎないのであって、これがそのままイコールで大聖人の考えていらしたこととは言えないのだ。この道理が沖浦氏に理解できるかどうかである。

まあ、こんなところで終わりにしよう。かなり面倒臭い議論なので、すでにわけがわからなくなっている読者もいるかもしれないが、いわば教義論争とはそういうものなのである。

2017/3/23

第1401号まとめ  
コメント欄が少しばかり賑わっているようだが、いつものごとく独白に徹することにしよう。今日は第1401号掲載の幹部たちの発言を拾っていく。結論を書いてしまうと、今のテイタラクでは宗門との和解はムリ、ということになる。

先生のお姿と重なり・・・

ヤブカラボウに引用したわけだが、これは男子部総務の発言である。拙ブログの愛読者ならばすでに察しがついているだろう、ようするに日目上人と浅井先生が重なって見えると言っているのだ。

 正系門家の濁乱により、細井日達が「大事の御相承すら為し得なかった」という未曽有の大混乱をもたらすも、「本化国主」「一閻浮提の座主」ご出現になれば、正系門家の問題も忽ちに吹き払われる・・・

冒頭に記した結論の意味がよくわかったことだろう。まず、日達上人から日顕上人の相承を否定している時点でアウトである。さらに後半が問題である。考えても見よ、現代人の感覚として再誕という概念そのものが受け入れ難いというか、極論すればウサン臭いことなのである。つまり、誰がどのように認定するのか、である。自己申告で自分が日興上人ないし日目上人の再誕だと言ったところで、いったい誰が信用するだろうか? あるいは取り巻き連中がこの人こそが本化国主であられるとか一閻浮提の座主であられるなどと盛んに宣伝したところで、はたしてどれだけの説得力を持つだろうか? ということなのである。

第十九男子部長の発言も同様である。

先生のお姿が重なり・・・

総務とほぼ同文であるが、ただし、こちらはよく読めばそれほどおかしくはないのかもしれない。

・・・先生のお姿が重なり、まさに先生の戦いは、日目上人の大忠誠の延長線上にあることを大確信し、

つまり、彼は浅井先生こそが日目上人の再誕であられるなどと言うつもりは毛頭なく、日目上人の御精神をしっかりと受け継いでいるのが浅井先生なのだと言いたいわけなのだろう。

それにしても次の一節はどうかと思う。少し長いがぜひともご覧いただきたい。

 席上先生より日興上人の「唯仏与仏」の大境界を指導頂きましたが、大聖人御入滅後、五老僧が悉く師敵対に陥る中、大聖人様の仰せのままに後世に伝え、そしてそれが聊かも曲がらないということがいかなることか、胸に迫ったものであります。

ここまでは問題ない。宗門やかつての創価学会でも同じことを言っているはずである。しかし、この続きが問題なのだ。

 同時に、広布前夜、第六天の魔王の力により、学会・宗門が御遺命の大事を忘れ去ったとき、たったお一人、国立戒壇建立の一点を見つめて立たれた先生のお立場はいかばかりかと、震えるような大感動がこみ上げました。

思いっきり意訳をすれば、日興上人と浅井先生が重なって見える、ということだろう。これまた登壇者には再誕を云々するつもりはないのだろうけれども、意味的には日興上人と浅井先生は等値、浅井先生は日興上人と肩を並べるくらい偉大な存在なのだと、ほぼ言っているに等しいだろう。

次の記事も同様である。

 「もし日興上人がましまさなかったら、末代の我ら凡夫、どうして日蓮大聖人の大恩徳を知り、どうして三大秘法を正しく受持して一生成仏が叶う身となれたであろうか」
 と情感こめて指導下さいましたが、いま私たちも「浅井先生がいらっしゃらなければ…」との思いが込み上げ・・・


女子部第二百二十三区長と書くと、たくさんの区長の中の一人に過ぎないが、この人は少し前まで九州方面で婦人部の部長をやっていた人である。つまりは大幹部である。

もし日興上人がましまさなかったら・・・

もし浅井先生がいらっしゃらなければ・・・


当然、この人も先生を日興上人の再誕だと言っているのではなく、意味合いとしては日興上人に匹敵するくらいの偉大な人物、それが浅井先生なのだと言っているわけなのだろう。

浅井先生も偉くなり過ぎたものである。

ただし、取り巻き連中がどれほど賛嘆しようとも、客観的な事実としてはどうかと思う。例えば婦人部南部支区所属の男性平会員の次の発言がわかりやすい。

広宣流布までのあとわずかな時間・・・

彼は昨年九月の入信である。ゆえに深いことはあまりわかっていないのだろう。では、なぜに上掲の発言をなし得たのか? ようは婦人部の先輩たちがそのように言っているからなのだろう。あとわずかの具体的な年数は不明であるものの、本人にしても自分の目の黒いうちに広宣流布が実現すると思っているわけなのだ。

まさに言っているとおりになれば、浅井先生はその大功労者である。しかし、客観的にはほぼ絶望的だろう。つまり、結果は見えているのである。

最後に前回の拙稿との関連で婦人部総務の発言を拾っておこう。

 さらに世界各国に悪王ともいうべき者たちが現われている今・・・

実はここ一ヶ月ばかり、わたくしは森友問題に注目し続けている。盤石だった安倍政権もこれをキッカケに終焉を迎えるかもしれないと思って、ずっと注目してきたのだ。そうした中で自民党内では総裁任期の延長が決まった。超長期政権への布石である。つまり、安倍さんはやる気満々であり、同僚議員の多くも安倍さんに総理を続けてもらいたいと思っているようなのである。

浅井先生は安倍首相をずっと批判し続けてきた。痛烈な批判である。ボロクソと言ってもいいだろう。わたくしも浅井先生ほどではないが、安倍政権に対しては批判的な立場である。必ずしも長期政権を是とするものではない。

しかし、ある時ふと思った。まさに上掲が示唆的であり、そこから啓示を受けたような意味もある。

つまり、世界各国の猛者たちと対等に向き合うためには、経験豊富な政治家でなければいけない。すると幸か不幸か、今の日本には相応しい人物がいないのである。その結果として、仕方がないけれどもいつまでもダラダラと安倍さんにやってもらうしかない、という選択肢しかないようなのだ。それが有権者たちの判断でもあるのだろう。

天皇陛下ないし皇太子殿下を侮辱するつもりはないが、現状では世界各国の悪王たちを取りまとめるのは荷の重いことである。

2017/3/22

日蓮主義の残り香  
大沢氏によれば一昨日の午後二時半ごろに顕正会員と妙観講員が対論をしたそうである。コメント欄に書かれている内容だけでは判然としない部分が少なくないが、どうやら顕正会員の発言に問題があったらしい。極論すれば唯授一人の血脈相承を否定するような意味合いになるだろうか? まあ、しかし、これは顕正会側にも言い分があるだろうから、一方的に大沢氏のコメントだけを鵜呑みにするわけには行かない。現時点で言えることは、どうやら今もコンスタントに顕正会から妙観講に移籍する人がいるらしく、それをどうにか阻止したいという思いを懐いている人がいて、妙観講本部を偵察ないし監視していた、ということなのだろう。

さて、今日は顕正新聞第1401号の一面から二面にかけて掲載されている日興上人御報恩勤行会における会長講演を取り上げよう。

なかなか充実した内容である。これが全体の結論だ。

「富士大石寺」を冠し
    戦える有難さ


個別の問題に入ろう。まずは上掲の小見出しが気になった。ご覧のごとく、ここではウ冠になっている。ところが本文中ではワ冠になっているのだ。あるいは写真のキャプションもワ冠になっている。この辺の不統一が気になって仕方がない。

 ただ一回、こういうことが起こる。それが広宣流布前夜なのです。

日興上人の御遺誡に、時の貫首たりと雖も・・・という有名な一条がある。御法主上人は無謬であるなどとバカなことを言う人もいるが、まあ、御高徳の上人であってもマレには間違いを犯すものである。ゆえに日興上人も万一のことを慮られ、この一条を設けられたのだろう。堀上人も「常にはあるべきことではない」とおっしゃっているそうだ。

そこで浅井先生も、常には起きないが広布前夜にただ一回こういうことが起きる、という意味を述べているわけである。

しかし、古くからの会員ならば疑問に思うはずだ。あれ? 二回じゃなかったかしら? と。

すなわち以前の浅井先生は二回と言っていたのだ。一回はまさに昭和四十年代に起きたいわゆる正本堂問題である。そしてもう一回が日精上人の時代のことである。

すると浅井先生は見解を改めたのだろうか?

日精上人の問題について、わたくしはほとんど勉強したことがないので何も言えないのだが、どうやら近年に至って新しい学説(?)が出てきたらしいのである。日精上人は間違っていなかったと。これは当然ながら他宗他門が云々するような事案ではないので、宗門の中でのいわば新研究ということなのだろう。そうした意味から考えると、少しばかり手前ミソの論理が感じられなくもないところだが、先ほども言ったようにわたくしは詳しい内容をまったく知らないので、これ以上は何とも言えないところだ。

いずれにしても浅井先生はその新研究を参考にして見解を改めたのかもしれない。あるいは耄碌ゆえに日精上人の問題をすっかり忘れてしまっているという可能性もあるわけだが・・・

 こんなこと、いつまでも許してはいけない。顕正会の力で必ず・・・

これは御開扉問題である。今の宗門の御開扉は不敬であるから中止すべきというのが顕正会の主張であるが、しかし、わたくしにはチグハグ感が否めない。

当該講演では発言していないものの、ご存知のごとく、さまざまの場で言っていることがある。すなわち広宣流布は近いということだ。あるいは天生原までの四キロの道のりがどうのこうのとも言っている。だったら御開扉の中止を云々している場合ではないだろう。それこそ顕正会の力で広宣流布しちゃえばいいのだ。そして国立戒壇を建てちゃえばいい。そうすれば不敬の御開扉は自ずと解消されるのだ。

逆に言うと、上掲の発言の裏側には広宣流布はまだまだ遠い先であるとの意味が込められているのではないか、というようにも感じられるのである。浅井先生も虚勢を張って広宣流布は近いとは言うものの、内心ではまだ無理であることを承知しているのかもしれない。だから御開扉のことに文句を言うのである。穿った見方ではあるが、そんな感じがしてならないところである。

前生所持の大御本尊を

この一段は凄いの一語に尽きる。ヘタな説明をするよりも本文をそのまま引用したほうがよさそうだ。

 広宣流布の時には、日興上人の再誕たる本化国主が、前生所持の「本門戒壇の大御本尊」を必ず御尋ねになり、命かけて守護し奉るのです。

以下も文章が続くわけだが、長くなるでの省略しよう。たぶん初出だと思う。しかし、これは新見解というよりも、従来からの主張をいわば整理整頓した上で発表したものなのだと考えられる。(※追記参照)

全世界を統一

この一段も凄まじい。そしてここは現宗門において、少し異論のあるところかもしれない。明治期には天皇中心主義と呼ぶのだろうか、天皇を中心に世界統一を図るような考え方があった。そうした世論に影響されたかどうか、ここは微妙なところだとは思うが、日蓮正宗の中でもこの考え方に与するような人たちが少なからずいたようである。わたくしの漠然とした印象ではあるものの、浅井先生もそうした時代の影響を少なからず受けているのではないかという気がする。

本化国主が御出現になれば、日本国の統一はもちろん、全世界が統一され・・・

顕正会のタイムスケジュールが正確であれば、次の天皇陛下が世界を統一することになるのだろう。しかし、わたくしのような凡夫には想像を絶する話である。

しかもである。浅井先生は文証として本尊抄の次の一節を引くのである。

 「此の四菩薩 折伏を現ずる時は、賢王と成って愚王を誡責し」
 とあるのが、それです。


現行憲法において政治権力を有さない、それが天皇の立場である。国内においてすらかくのごとし、いわんや国外においてをやだろう。その天皇が賢王となって愚王を誡責するということのイメージがまったく湧いてこない。凡夫の浅知恵と言われればそれまでだが、しかし、ここは多くの人が疑問を感じるところだろうと思う。


三月二十三日追記:初出ではなかった。なんと昭和四十五年の諫暁書にほぼ同じ内容の記述が存するのである。過去の拙稿を参照されたい。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1130.html

2017/3/21

各氏のコメントに思うこと  
マイケル氏のおっしゃることはきわめて常識的である。すなわち少子高齢化の現代においてはどの宗派も信徒を増やすことが困難になっている。それどころか先日も触れたように葬儀に僧侶を呼ばないような人たちが増えているのが実情である。顕正会にしてもそうした日本社会の中に存在する以上は例外ではなく、なかなか信徒が増加しないというジレンマを抱えている。たとえ名目会員は増えても実働会員は現状維持が精一杯だ。

これに関連する意味で前々回のコメント欄に残された、へな氏の目撃談は貴重である。かつまた前回の現役活動会員A氏のコメントも実にタイムリーである。

折伏成果の大部分は外国人と病人と障害者。

A氏の証言だ。大部分の意味が難しい。低く見積もれば過半数という意味にもなるだろうが、文字通りに受け取れば十中八九ということになるかもしれない。つまり、一万人の入信者がいたとすると八千人から九千人が外国人か病人か障害者のいずれかに該当することになる。これはもう深刻である。

へな氏の教学試験についての目撃談も凄まじい限りで、合格率の低い理由を大きく二つにまとめている。

一つには勉強していないからである。それはそうだ。あの試験問題はすべて穴埋め式であり、そのテキストとなるのが基礎教学書である。ゆえにまずは同書を読まないことには始まらない。どれほど頭のいい人であっても、この本を読んでいなければ合格しないだろう。たぶん宗門や創価学会の人でも基礎教学書を読まずに受験すれば不合格になるに違いない。いわんや大聖人の仏法についてまるで素養のない一般人においてをやである。

二つ目の理由が凄まじい。すなわち日本語をほとんど理解していない外国人ということだ。

なるほど、自分がその立場になってみればよくわかる話だ。仮にどこかの外国に行くとしよう。そこでいきなり試験を受けるように言われるのだ。当然、試験問題はその国の言語で作られている。もはやお手上げである。わたくしは日本語だけはそこそこ使えるものの、その他の言語はまったく使えない。

ただし、ここからは話をひっくり返すようで恐縮だが、新たな可能性ということで顕正会に有利なことを書いておこう。

わたくしの思うに、日本に来ている外国人はおしなべて優秀である。そして根性がある。チャレンジ精神が旺盛だとも言えるだろう。彼らは単なる海外旅行ではないのだ。異国の地で何かしらの目的を持って生活している人たちなのである。ゆえに必死であるし、その覚悟もハンパないのだ。
その意味では病人や障害者と同列に扱うわけには行かないだろう。彼らの多くは母国では優秀な人材だったはずで、それぞれがそれぞれの夢を懐いて新天地を求めて渡航してきたわけである。
事実、その多くの人たちが瞬く間に日本語を習得して、日本全国で活躍しているのである。わたくしの身近でも中国系と思しき若者が何人も働いている。特にコンビニで働いている人が多い。何しろ基本的には日本人と顔が同じなので、名札を見ないとわからないくらいである。そう、彼らの中にはすでに日本語の微妙なイントネーションまでも習得していて、日常会話レベルにおいては何の不都合もない人もいるのである。

いかがだろう、こういう人たちがもし本気で大聖人の仏法を学んだならば、それこそ百点満点を取ってもおかしくないはずだ。

現実問題としてすでにその成果があらわれ始めている。第三十五女子部の登用試験合格者を見れば一目瞭然だ。

十八人中十一人

ぜんぶで十八人の合格者がいて、なんとその中には名前がカタカナ表記になっている人が十一人も含まれているのだ。その多くはモンゴル系の人たちだと思われる。

ただし、話がややこしくて恐縮だが、実は今回の登用試験では台湾とモンゴルにも試験会場が設けられたようである。はたしてそこでの試験問題が日本語だったのか現地語だったのかはわからないが、この話を都合よく解釈すれば世界広布の胎動みたいなことになるのだろう。

もっともこの件に関してはすでに何年も前から指摘しているように、一方で日本国内の組織の空洞化が進んでいるとすれば本末転倒である。

以上、いずれにしても登用試験の合格率の低下は厳然たる事実であり、何をどのように言おうとも数字がすべてを物語っているというのが結論である。

話は変わる。

 本尊図顕はそのためにある手段です。
 手段が本懐にはなりません。
 本懐とは目的そのものです。
 ですので、戒壇本尊本懐はあり得ないとわかります。


途中からの引用で恐縮だが、話は簡単である。沖浦氏は曼荼羅道具論を唱えている。道具は手段だから本懐にはならない。よって戒壇本尊本懐はあり得ない。これが氏の主張である。

しかし、これはまたしても氏のウッカリである。阿仏房御書を知らないわけではあるまい。

 あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。・・・出世の本懐とはこれなり。

以前の沖浦氏は当該御書を引用して戒壇本尊本懐を否定していた。たぶん今もその主張は同じなのだろう。けれども物の道理がわかっていない。
大聖人は本尊図顕を出世の本懐だとおっしゃっているのだ。ところが沖浦氏は本懐ではなく手段に過ぎないと言っているわけである。つまりは大聖人に逆らっているのである。
物には順序がある。ようするに沖浦氏は戒壇本尊本懐を云々する以前に大聖人の仰せに逆らってしまっているのだから、もはや論ずる資格なしということなのだ。

いちおう結論的なことを書いておくと、大聖人御図顕の御本尊はいずれも本懐の御本尊である。その中でもとりわけ戒壇の大御本尊こそが本懐中の本懐の御本尊であられる、ということになる。これならば何の矛盾もないはずだ。

 更に、一切衆生が等しく久遠からの南無妙法蓮華経如来なのですから、特別に唯受一人を設ける必要が無くなります。

これは面倒臭い議論である。単純に言えば総別の二義がわかっとらんということになるのだろう。

戒壇の大御本尊は日興上人一人が身に宛て給わるところの御本尊である。これは日興跡条々事に明白だ。ところがである。かつての創価学会では戒壇の大御本尊のことを一閻浮提総与の大御本尊と呼称していたという事実があるのだ。たぶん宗門ではこの呼称に文句を言っていないと思う。顕正会も文句はない。つまり、この一見すると二律背反と思しき事項は総別の二義がわかれば何の矛盾もないのである。

この際、創価学会は会長を廃止し幹部もすべて廃止して全員を平会員にしてしまえばよかろう。その上で唯授一人を批判すれば相当の説得力を持つはずだ。やや筋違いではあるものの、少しばかり皮肉を込めて書かせていただいた次第である。

2017/3/19

マイケル氏のご来臨をたまわって  
まず、沖浦氏の直近のコメントについて言えば、ずいぶん短絡的ではないか、ということだ。自身が南妙法蓮華経如来だとわかるとなぜに戒壇本尊本懐などがウソだとわかるのか、まるで説明ができていない。この点が沖浦氏はダメである。

マイケル氏には久々のご来臨をたまわった。

現状維持で手一杯なのかどうかについては、わたくしの立場からは正確なことが言えないことを、まずはご承知願いたいと思う。そこに奇しくも現役を名乗る人から崩壊寸前とのコメントが寄せられたので、それが一つの有力なヒントとなるだろうことは確実である。

今一度、前回の拙稿を繰り返せば、一万人以上の受験者がいて合格者が千人に満たないという現実がある。これはもう末期的な症状だろう。何しろカテゴリではいちばん下の試験なのである。これが最上級の試験であれば話は違ってくる。なるほど、顕正会の上級試験はレベルがベラボウに高い、ゆえに合格するのも一苦労、というような話になるはずだ。ところが登用試験はいわば初級試験なのである。その試験において合格率が四パーセント足らずではまったくお話にならないだろう。

ただし、それは教学試験を中心に考えた時の話であって、それのみで言えば顕正会はバカばっかりという結論になるわけだが、バカでも頭数が揃っていればそれなりの力を発揮するということは言えると思う。

つまり、実働会員数が増えているかどうかという問題である。

これがわたくしにはよくわからない。現状維持なのか、それとも衰退なのか、あるいは伸びているのか、である。たぶん、無難な解釈は現状維持なのだろう。そして悪意の解釈をすれば衰退なのだと思う。逆に善意に解釈すれば、さすがに大発展とは言えないまでも、微増くらいが妥当な表現なのではないかと考えられる。

というのは今もいちおうはコンスタントに会館の建設計画が推進されているからである。

もしもである。顕正会の実働会員数の伸びが完全に止まってしまっていたならば、もはや会館の建設は不可能だろう。ちょっとずつでも伸びているからこそ、建設が行なわれているのである。

けれども委細に見れば頭打ちの印象が強まりつつある。

顕正会は未だに全県に会館を建てていない。特に西日本が手薄であり、会館の建っていない県がいくつもある。逆に東日本はいちおうぜんぶの県に会館があり、活発な県では複数の会館が建っているくらいである。西高東低ならぬ東高西低が顕正会の現状ということだ。

顕正会では一年に三会館ずつ建設するのが通例となっている。だったら会館のない県に優先的に建設していけば数年以内に全県制覇が達成できるはずなのだが、そうはしない。近年は本部近隣に第二青年会館を建てたり顕正新聞の施設を建てたり、あるいは地方会館の増築だとか建て替えみたいなことを繰り返している。

つまり、いちおう伸びている地域は伸びている。しかし、それは主に東日本であり、西日本はそれほど伸びていないのだ。実際、会館を建てたものの、閑古鳥が鳴いているところもあるらしい。まさにこれが答えである。こうした現状を本部首脳もわかっているのだろう。ならば会館の建っていない県に無理して会館を建てることは愚の骨頂であり、その地域の真面目な活動会員たちを苦しめることにもなりかねない。それを考えれば建てたくても建てられないのが道理である。

以上のような理由から、会館建設を組織発展の目安とするならば、無会館県の解消が進まなくなった現状こそ、まさに頭打ちを物語るものなのだろう。

さて、実働会員が増えているかどうかについては会館建設の実情を見ればわかると書いた。その意味では会館の偏在という問題があるものの、いちおうは微増と言えるのではないかと思う。しかし、ややこしいようだが、ここで再び教学試験の問題に立ち戻って考えると、ややもすれば現状維持すらも難しくなっていることに気がつくだろう。

昨年末から本年初頭にかけての大ニュースは、小峰勝彦氏の離脱である。外部の人にはピンと来ない話だろうが、彼の離脱はいわば大事件なのだ。何しろ顕正会の首脳そのものだったからである。その理由であるとか、あるいは組織内部でどのような説明がなされているか、わたくしはまったく知らないけれども、活動会員たちにしてみれば心中穏やかならざるものが去来したはずである。彼はいわば代表例であって、実は相当の幹部たちが次々と離脱しているという現実がある。ゆえに前回のコメント欄に登場された現役活動会員A氏にしても、そろそろ身を引くべきかと悩んでいると語っているわけである。

つまり、顕正会は新陳代謝が激しい。

会長と一部の取巻き連中(?)は別にして、たいていの人が十年前後で去っていく。ゆえに頻繁な人事が行なわれる。極端な話、十年くらいすると顕正会の構成人員は総入れ替えになるのだ。

身体の新陳代謝は大事である。古い細胞から新しい細胞へとリフレッシュされる。人間そのものは変わらないけれども、細胞レベルでは常に生まれ変わっているのだ。それが健康体の秘訣だろう。
顕正会の組織の場合もそれに似ている。確かに腐った人材はいらない。そうした不要な人材を排除して、新しい人材を投入する。それで組織が活性化するという意味はある。
しかし、それはおかしいだろう。顕正会は人々を幸せにするのが目的のはずなのだ。ならば腐った人材はいらないという考え方はダメである。そもそも人材たちが次々に腐っていくという現状そのものが顕正会の根本的な問題であり、結論的には何かがおかしいし間違っているからこそ、そういう事態に陥っているわけなのだ。

いよいよ結論である。

いちおう人数的には現状維持か微増くらいには言えるのかもしれない。しかし、組織の場合、単なる身体における細胞レベルの新陳代謝とはわけが違うのだ。教学に秀でたベテランの会員たちがいなくなってしまい、教学に未熟なわけのわからない人たちばかりになってしまったら、いったいどうなることだろう。これでは人数が同じでもまったくダメである。もし仮に人数が増えていたとしても、微増くらいでは追っつかないはずだ。

以上、教学試験の結果がいかに深刻であるか、よくわかったのではないかと思う。


三月二十六日追記:御題目を間違えて書いていた。まったく情けない。


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