2017/5/30

第1406号の残りを中心に  
引き続き第1406号を見て行こう。中部大会にはモンゴルからの参加者もいた。女子部第百五十九区総班長の肩書を持つ人物だ。

・・・無二の師匠・浅井先生と同じ時代に生まれ合わせ、先生の最後の御奉公に御供が叶う、自身の宿縁の有難さ

凄いことを言うものである。

 昨年は十六名が合格し・・・

 本年の登用試験は十一名が合格することが叶い・・・


これだけでは何とも言えないところだが、来年以降の合格者数を見て行けば、何かがわかるかもしれない。

御在世に蒙古襲来を以て逆縁広布を扶け奉ったモンゴルこそ・・・

「扶け」が気になった。それと今現在のモンゴル人たちが蒙古襲来についてどのような認識ないしイメージを持っているのか、そこがひじょうに興味深いところだと思った。上掲はいわば顕正会目線からの発言であって、必ずしもモンゴル人一般の目線ではないのだ。

隣は創価学会歴五十五年、現在は男子部第八十一隊組長の肩書を持つ人物である。

 「五千万円を渡すから、顕正会はやめるように」
 「家と土地を譲るから」


この人の娘さんの舅にあたる人物が創価学会の幹部だそうで、いわば懐柔策として上掲のようなことを言ったらしい。凄い話だ。

下段の婦人部富士宮支区部長の記事は次の一段が凄まじい。

 平成二五年度の成人式の浅井先生の指導を毎年、繰り返し拝聴させて頂き、いまの客観情勢の激変を見るにつけ思うことは、先生の指導が年々に重みを増すとの思いであり、いかに凄いご指導だったのかと噛みしめては、やがて日本及び全世界が広宣流布すれば、この成人式のご指導を全人類が「永遠の指針」とさせて頂くのだと、大歓喜が込み上げました。

これは浅井教の広宣流布という意味では正しいが、大聖人の仏法という意味では間違いだろう。大聖人の御書こそが永遠の指針なのである。それを各時代の指導者が大聖人の御指南を踏まえつつ、自分なりの切り口で語るべきなのである。ゆえに近い将来、もし城衛が顕正会の指導者となったならば、城衛なりの切り口で語るべきなのだ。もしそうではなく、百年後も千年後も浅井先生の指導が永遠の指針として残るのだとすれば、それはもはや大聖人の仏法ではなく浅井教と言わざるを得ないだろう。

六面にはもう一つ、トイレで急死した話があるけれども、それは省略させていただこう。次は七面である。

嫁ぎ先の羽切家の先祖が身延の地頭であったと、親戚から家系図を見せられ・・・

婦人部甲州支区班長の記事である。

 昨年一月、甲州支区が誕生したことを機に、それまでの総班長職を降り、班長としての新たな御奉公を決意し・・・

家系のどうこうよりもこちらのほうが気になった。いわゆる降格である。わざわざ書く必要もあるまいと思うのだ。

さらに気になったのが編集部の付けた見出しである。

謗法汚濁の身延を早く清浄の地に

前ページの富士宮支区部長も身延会館建立を見つめ云々と書いているが、まさか会館建立がイコールで身延の清浄化につながると考えているのだろうか?

最終的には身延山久遠寺を改宗させなければいけない。この場合、日蓮宗から日蓮正宗への改宗である。それが清浄化の究極だろう。しかしながら、かく言う顕正会は現在の日蓮正宗そのものが濁乱していると考えているわけだから、話は厄介である。

作業療法士も入信

男子部第二十九隊支隊副長の記事を読むと、何やら厄介な病気を患い、難手術を受けたそうである。術後の経過は良好で、リハビリを受け持った作業療法士もその驚異的な回復を目の当たりにして、入信したそうである。

 「専門家の目から見て、本当に不思議に思っていた」

リハビリについては興味関心があるので、それで多少の知識を持っているが、あくまで個人差の大きいものだと考えるのが普通だろう。ゆえに専門家から見て、ぜんぜん回復しない人もいれば、その逆の場合もある。もちろん中間的な人もたくさんいる。専門家はそれらを嫌というほど目の当たりにしているのである。よって、くだんの人物がどれほど驚異的な回復を見せたとしても、それくらいのことでは驚かないのが専門家のはずなのだ。

その意味で、もしくだんの入信者が単なるお付き合いで入信したのではなく、心底から凄いと思って入信したのならば、ぜひとも今後の登壇に期待したいものである。医師や看護師の登壇にも期待したい。そうしてこそ顕正会の功徳は本物と言えるのだ。

八面と九面についても書こうと思ったが、もうこれくらいで終わりにしておこう。次回は四月度総幹部会の特集号だ。

2017/5/28

第1406号の五面を中心に  
大沢氏は余談と断わっているものの、なかなかどうしてこれはけっこう重要な話題である。顕正会的には願ったり叶ったり(?)のネタだろう。先日の総幹部会でも話題に上がっただろうし、さらに来月の総幹部会では、かなり突っ込んだ講演がなされるに違いない。当然、特集号扱いだ。

少し説明しておこう。

拙ブログではまだ取り上げていないが、四月度総幹部会で浅井先生は安倍首相に辞任せよと迫った。それが後日、「安倍首相辞任要求」特集号として発刊された。
顕正会では森友問題が急浮上して政権が揺らいだことを諸天の働きであるかのように言っている。しかし、揺らいだのは事実であるが、安倍政権は実にシブトイ。どうやら森友問題はこのまま終息しそうな気配だった。
ところがである。第二波がやってきた。それが加計学園問題だ。今度は文科省の事務次官だった人物が政権側に不利な証言を始めた。失礼ながら森友学園の籠池理事長はヘンなオッサンというレッテル貼りで誤魔化せたものの、今度の相手はそうは問屋が卸さない。まさにこれこそが諸天の働きなのだと、顕正会的には小躍りしたいところだろう。

いずれにしてもこの話題は世間的にも顕正会的にもしばらく続くと思われるので、拙ブログでも折を見て所感を述べていくつもりだ。

さて、中部大会特集号の続きであるが、次の引用もまた、上述と大いに関連する内容であり、興味深いところである。

 かつて宗門・学会が一体となり大事の御遺命を破壊せんとしたとき、浅井先生の連々たる諫暁によりその大誑惑が打ち砕かれ、誰人も想像し得なかった偽戒壇・正本堂が崩壊したことを拝しては、どれほどの独裁政権を築くとも先生の諫暁を無視し続けるとき、あっという間に崩れ去ることを大確信いたします。

加計学園の問題は先週あたりから急浮上したような印象がある。委細に見れば森友学園の問題が浮上した直後くらいから、安倍首相にはもっと大きな疑惑がある、というような発言が散見されたわけだが、広く注目されるようになったのはごく最近だろう。その意味でも上掲は興味深い。何しろ四月九日の段階での発言だからである。それから一ヶ月有余が過ぎて、今こうして加計学園の問題で政権が大揺れしている状況は、顕正会的には望外の結果、まさしく願ったり叶ったりの結果なのである。

そうそう、上掲は男子部総務の発言であり、さらに続きの文章でも次のように言っている。

安倍政権が大きく揺らぎ始めたことは、まさに劇的という他はなく・・・

繰り返し言っておくが、これは四月九日の発言なのである。してみれば今の状況はまさしく劇的であり、先ほども書いたように顕正会的には小躍りしたい気分だろう。

ただし、クギを刺しておこう。

 いよいよ先生が二百万の死身弘法を背景に、一国を揺さぶる大諫暁に立たれる時、いったい如何なる不思議の大現証が伴うのか――。

同じ人物の発言であるが、これはまったくの願望に過ぎない。何しろ百万の時の経験値を元に判断するならば、二百万になろうが三百万になろうが大差はないだろう。これが客観的な見方である。

しかもである。安倍政権が窮地に陥っていることと顕正会の動きとが密接に関わっているというのは、顕正会側の勝手な思い込みに過ぎない。顕正会はいわば便乗しているだけなのだ。この点にまったく気がついていないところが痛ましい。

その典型的な発言が第三十三女子部長の記事に見られるので、紹介しておこう。

 その中、安定を誇っていた安倍一強政権も、「神の国」を作らんとの謗法を、浅井先生より白日の下に晒されては、「森友学園騒動」が一挙に浮上し揺らぎ始めた姿に、諸天の誡めを強く感じたものであります。

前々回の拙稿で指摘したように、浅井先生は三年前に言っていたのだ。すなわち安倍政権は三年未満で倒れると。けれども倒れなかった。そして本年に入って、俄に森友問題が浮上してきた。これが安定を誇った安倍政権にしてはめずらしく大騒動になって今もそれを引きずっている。ここに顕正会は便乗しているだけの話なのである。

せっかくなので第十七婦人部長の記事も紹介しておこう。

先生の空中戦に相呼応する地上戦を・・・

以前、諸天の働きを空中戦と表現していたことがある。しかし、上掲では諸天の働きではなく先生の働き(?)を空中戦と書いている。当該記事にはその具体的な内容が書かれていないが、おそらくは新聞広告のことだろう。わたくし的には悩ましいところだ。

広告が無駄だとは言わない。しかし、ベラボウに効果があるとは思えない。結局、浅井先生のやっていることは大したことではないのだ。しょせん一対一の折伏には敵わない。それにもかかわらず、幹部たちは一生懸命に持ち上げている。そこが悲しいところだと思う。

「多摩会館」威容を現わす

今日は五面の記事ばかりを拾った。よって多摩会館の工事進捗を伝える記事にも触れておきたい。些細なことだが、写真が白黒である。これはおそらく初めてのことだろう。何か特別な理由があるわけではなく、たまたま紙面の都合上、そうなってしまったのだと考えられる。どうせならオールカラーにすればいいと思うのだが、ダメなのだろうか?

会館の地の利について書くと、写真を見る限りではけっこうな好立地らしい。というのは街灯が物凄くシャレているからで、どこの街かは知らないが、いわゆる目抜き通りに面して建てられているのだと考えられる。

2017/5/25

低迷期の文章作法  
前回のタイトルは失敗だった。なぜならば過去にも同じタイトルが存在するからである。同一タイトルを使わないのが拙ブログの流儀なので、これは完全なるウッカリミスだ。ある意味、わたくしの低迷状態を示しているのかもしれない。

沖浦氏は東奔西走の日々を送っている。しかも今朝のコメントを読むと、弟さんが会社を経営しているとか、大学の学長だった人が親戚であるとか、華々しい話が並んでいる。

わたくしとはエライ違いだ。いや、もちろん、そんなことで一喜一憂することはない。あくまで他人は他人、自分は自分である。

そういうわけで本題に入ろう。

「中部大会」特集号

顕正新聞第1406号は四月九日に行なわれた中部大会の模様を伝えている。今日はそれについて書くが、まずは中部圏について異論を差し挟んでおこう。

静岡、山梨、長野、岐阜

これが顕正会における中部圏の括りである。もちろん顕正会独自の括り方があっても構わない。しかし、ごく単純に、愛知はどうしたのか、というのがわたくしの疑問である。

実際には愛知県からも多数の顕正会員が参加しているわけであり、さらに拡大すると、関東方面からも参加しているし、他の地域からも参加している。地方大会とは名ばかりであって、実は全国大会にほぼ等しいというのが現実なのである。

それにしても批判者たちを意識してのことだろうか?

というのは、近畿大会の時には北陸方面だとか本来の近畿圏からすると辺境のところからの参加者が多く登壇していて、その点を批判者たちに突っ込まれてしまったのだった。それゆえだろうか、今回の大会ではほぼ全員が地元の幹部だった。

しかし、これは当然ながら登壇者に限った話であって、参加者全員が中部圏の人たちではなく、他の地域からの参加者もたくさんいたことは否定できない事実である。これについては後日、改めて書きたい。

 雷門会の力強い広布の陣太鼓が大会場をゆるがす。
 ついで「冨士大石寺顕正会」の大看板のもと、冨士軍楽隊、芙蓉コーラスによる演奏・合唱が始まる。


顕正新聞の編集部がこれを読めば、巌虎はイヤなヤツだ、と思うかもしれない。というのは上掲の記述にわたくしは疑問を持ったのだ。あれ? ヘンだな? と。普通の読者は気がつかないかもしれない。しかし、気がついちゃったんだから仕方がないだろう。

まず、地方大会では生演奏が行なわれない。今回も同じである。その代替措置として、おそらくは関東近郊のしかるべき会場を借りて、そこで中部大会の看板を掲げてビデオ撮りをするのである。しかし、上掲の文章はその意味で不自然だ。なぜ途中から看板の話が出てくるのかがわからない。その答えはどうやら雷門会に限って、今回はビデオ撮りが行なわれなかったようなのである。五万人の男子部大会の時の映像らしいのだ。

おおむね上述の推理で間違いはないと思う。その上でさらに想像を逞しくすれば、雷門会崩壊(?)ということかもしれない。ようは主要メンバーが離脱してしまって、ビデオ撮りすらままならない状況なのかもしれないのだ。

ずいぶんイジワルというか、顕正会にとってマイナス方向の推測ばかりしているように思うかもしれないが、これには先例があるのだ。

前総合女子部長・・・

こう書けばわかる人もいるはずである。彼女はお琴の先生だった。それを活かして顕正会の大きな集会の時には演奏を披露していたのである。女子部の有志を募って、合奏もしていた。いつの大会だったか、アトラクション全体の中でそれがかなりのウエイトを占めていたのも事実である。けれども今はまったく行なわれていない。なぜならば彼女が組織を離脱してしまったからである。

もちろん、今回がそうなのかはわからない。ただ、上述の先例はひじょうに重い事実である。

さて、いよいよ会長講演だ。

実は今回の会長講演はすこぶる評判が悪い。いや、もちろん、組織内でそんなことを言う人はいない。ようは批判者たちの評判である。わたくしがもっとも注目したのは次のリンク先である。

http://kensho-nostalgia.blog.jp/archives/16310293.html

中部大会には後世に語り継がれそうなトンデモ語録もなく、
特筆すべき発表も目標設定もなく。地方大会ならではの重みも深みもない。
顕正会マニアとしては、薄味で物足りなさを感じますね。


批判者たちが悪く言うのは当然だと思うかもしれない。けれども組織内の太鼓持ち幹部たちのオベンチャラよりも、遥かに正鵠を射ている。

このように「地方大会」とは、やればやるほど内容が薄っぺらく、
会長講演もどんどんマンネリ化しそうな気配です。


浅井先生は偉大なるマンネリズムなのである。こう書くと、バカにしているように聞こえるかもしれないが、そうではない。一つのことを貫くことは立派なことである。ただし、聴衆を飽きさせないようにする努力も必要であり、浅井先生もそのことにずいぶんと腐心してきた。しかし、自ずと限界があるわけなのだろう。大会もある程度の期間を置いて行なえばいいのだが、近年は続けざまに行なっている。するとネタが尽きてくるのも当然のことである。

そういうわけで今回の会長講演は、わたくし自身もさして取り上げるべき部分もなく、これでオシマイにしてもいいくらいなのである。さて、どうしたものだろうか?

「東日本大震災」は広布前夜の巨大地震連発の号鐘であった(宮古市を襲う大津波)提供/毎日新聞社

津波の写真が掲載されている。イジワルなことを言えば、今回の講演はツマラナイと本人ないし本部首脳も自覚しているのだろう。それでセンセーショナルな写真を掲載して読者を惹きつけようとしたのかもしれない。

「国立戒壇」を否定するために建てられた異形の偽戒壇・正本堂

池田大作は「末法万年までの戒壇」と豪語したが、わずか26年で消滅した


縦に二つの写真が掲載されている。上段は正本堂の全景写真であり、おそらくは完成直後くらいのものなのだろう。下段は解体中の写真である。

わたくしが注目したのは、異形である。この表現はあくまで主観的なものであって、必ずしも正解ではないと思う。むしろ下段の解体中の無惨な姿こそが異形であって、それを踏まえて再び上段を見れば、これはこれで立派な建物に見えるはずなのだ。

 安倍政権 国家神道の復活を策すか

会長講演の大見出しの一つである。ひじょうに些細な話かもしれないが、疑問形になっているのが興味深い。途中の見出しは「策す」となっており、さらに本文は断定的に書いている。

いわゆる御遺命守護の戦いにも似たようなところがある。結局、創価学会側の内部での議論だとか宗門高僧の議論をつぶさに知ることはできないわけで、浅井先生も推測で書いてしまっている部分が多かれ少なかれあるはずなのだ。しかし、それが時間を経るに従って、断定的な書き方に変ってくる。もちろん新証拠に基づく部分もあるのだろうが、そうではなくて浅井先生の中での思い込みが増幅されて、いつの間にか断定的な物言いになっているような感じも否めないのだ。

これについてはもっと具体的に指摘するべきなのだろうけれども、それはまた別の機会にやりたいと思う。

果無く・・・

わたくし的にはめずらしい表記だと思った。儚い、が普通のような気がする。また、墓無いも浅井先生なら書きそうな感じがするけれども、前後の文脈からするとちょっと生々しいかもしれない。命の話だからだ。

 「黒皮隠々として骨甚だ露わる」

顕正会は臨終の相についてコダワリを持っている。コダワリは語弊があるかもしれないが、少なくともこの件に関しては宗門や創価学会よりも強い思い入れがあるわけなのだろう。それはそれとして、問題は上掲の表記である。平成新編ではこれを次のように改めているのだ。

黒皮隠々として骨其れ露はる

ようは「甚だ」と「其れ」の違いである。字体が似ているので誰かが間違えたのだろう。問題はどちらが正解かである。臨終の相へのコダワリだとか思い入れは関係ない。むしろどちらが正解であるかにコダワリを持つべきなのだ。そこが甘いと浅井流の恣意的な法門という批判を受けることになりかねない。

 そしていま、営利のための御開扉を、法華講員の尻を叩き鞭を当てて強行している。

尻を叩き鞭を当てて云々はいわゆる表現の問題であるが、実際のところはどうなのか、そこがわからない。やや不適切な比較とは思うものの、顕正会だって尻を叩きもすれば鞭を当ててもいるではないかと言いたい。ことに近年の地方大会では遠隔地からの応援要員として、毎回のように参加している人もいるはずである。その交通費を考えたら堪ったものじゃないだろう。

低迷期の割にはよく文章が書けるものだと、我ながら不思議に思う。

2017/5/23

低迷期の過ごし方  
コメント欄が賑わっている。これまでにも種々雑多な議論があったけれども、今回のような事案はめずらしいかもしれない。そしていつものことながら、こういう時のわたくしは一歩退いて静観するのが常である。

そういうわけで今日は顕正新聞第1405号を取り上げよう。

八面と九面には三月度班長会の代表決意が掲載されている。代表決意と称する登壇は文字通り決意発表を意味するわけだが、なんとそれは集会の最後を締め括る各部の部長の登壇においても同じなのである。総男子部長指導みたいな言い方はしないのだ。つまり、指導者は浅井先生一人であって、それ以下の人たちはすべて決意発表という扱いなのである。

それはともかく、中身を見ていこう。

・・・もう広宣流布は眼前との大確信が込み上げてまいります。

総男子部長の発言である。彼は次期会長の有力候補というか、ほぼそれが既定路線と考えられるわけだが、その意味からしても重大な発言である。例えば三十年後くらいを想定してみよう。その時も広宣流布は実現していない。それがわたくしの見通しである。問題はその時に彼がいったいどのような発言をするのかである。

三十年後と書いたのはわかりやすくするためである。実際には五年後でも十年後でもいいだろう。たぶん拙ブログは続いているはずなので、いわば定点観測的に彼の発言を追うことができる。五年後も眼前、十年後も眼前、もしそんな感じだったならば、それが一つの答えなのだろう。ようするに有名無実ということだ。

もっとも総男子部長の発言を見るまでもなく、過去の会長発言を拾っていけば、すでに言っていることの虚しさは十分に論証できるわけだが・・・

本格的一国諫暁・・・

副総男子部長の発言を拾った。これはアゲアシ取りの続きみたいなものだが、実は第七十隊長の発言と齟齬があるのだ。

http://white.ap.teacup.com/ganko/2373.html

煩瑣になるので具体的な文章は省略するが、副総男子部長は平成十六年の一国諫暁を指して本格的と言っているのだ。対して第七十隊長は数年後に開始されるであろう一国諫暁を指して本格的と言っているのだ。

これまたイヤミながらもわたくしの見通しを書いておくと、数年後に始まる一国諫暁は不発に終わるだろう。不発の意味は、ゴールには到達できない、ということだ。

そこで仕切り直しをするのがこれまでのパターンである。

つまり、次なる目標を設定して、その時こそが本格的な一国諫暁であり、そこで勝負が決せられる。すなわちゴールに到達できるというシナリオなのである。

ただし、これまた見通しを言っておくと、もうムリなんじゃないか、というのがわたくしの感触である。

ようするに広宣流布の実現に向けてどのように進んで行くべきかを考えた時に、期限を決めてしまうことの難しさを感ずるわけである。今まで顕正会はそうしてきた。しかし、何度も期限を破ってきたのも事実である。その都度、仕切り直しが行なわれ、すなわち目標の再設定が行なわれ、新たな挑戦がなされてきた。けれども、もうムリなんじゃないかというのがわたくしの実感であり、おそらくは誰もが感ずるところのはずなのである。

では、どうするべきか?

残念ながら今の顕正会にはそれを考える余裕がないのだろう。もしくは考えたくないのだろう。悪く言えば、破綻するのを承知しつつも、ダラダラと惰性で続けているだけなのだ。

その象徴的な記事が次の第十八男子部長の登壇である。

浅井先生の顕正新聞特集号による連々たる諫暁が、今かかる諸天の働きを起こさしめた・・・

ようするに森友問題で安倍政権が揺らいでいることを仏法の視点から書いているわけなのだろうけれども、これはかなり手前ミソの解釈であり、必ずしも真実とは言えない。もしこれが真実であれば大いに結構である。先生について行けば間違いがないといちおうは言える。では、真実でなかったらどうなるのか、である。ようは諸天は動いてくれないのである。先生が何をどうしようが諸天は何もしてくれない。つまり、広宣流布は実現しないのである。

今度は昌子の発言を見てみよう。

ならば安倍首相がどんなに隠したいことがあろうとも、阿部日顕の悪心が「河辺メモ」で流出したごとく、諸天はすべてを暴き出す・・・

この直前の文章も興味深いのだが、煩瑣になるので省略しよう。簡単に要約すると、籠池理事長の怒りと阿部日顕の怒りが重なって映る、というような意味を書いているのだ。

先の第十八男子部長にしても昌子にしても、都合よく解釈し過ぎである。

まさに「建武の中興三年で崩壊」を彷彿とする大現証がついに現われ始めた・・・

同じく昌子であるが、これまた都合のいい発言である。

実はこの問題、過去にも取り上げたことがあるのだ。幸いなことに拙ブログはすべての記事がそのまま保存されているので、それを参照すれば昌子の言っていることの欺瞞もすべてが明らかとなる。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1950.html

 後醍醐天皇の「建武の中興」はわずか三年で亡んだが、安倍政権はもっと早いと私は思っております。

三年前の会長発言である。つまり、三年経っちゃった。森友問題が浮上して政権が揺らぎ始めたのは事実であるが、まだ政権が倒れたわけではない。ゆえに浅井先生の得意の予言はまたしても外れてしまったことになる。いわば昌子はそれに頬かむりして前掲のようなことを言っているわけである。

ただし、わたくしは何でもかんでも批判してやろうと思って書いているわけではない。ゆえに、仮定の話を少し書いておこうかと思う。

もし仮に今年中くらいに安倍政権が倒れたとしよう。だとすれば浅井先生の三年未満云々は外れたものの、じゃっかんの誤差はあったにせよ当たったという解釈もあながち間違いではないと思うのだ。そしてこのことが広宣流布についても言えるかもしれないのである。つまり、期限を切ってしまった手前、それが遅れ気味であることは事実であり、正直に認めなければいけないことである。しかし、その上で広宣流布の絶対を言い切ることは、逆の意味で可能になったと考えられるのである。ようするに、じゃっかんの誤差はあるものの必ず実現する、なぜならば安倍政権の先例があるからだ、という理屈である。これならばそこそこの説得力はあるように思う。

まあ、しかし、このまま安倍政権が続くとなると、今の話は無効なのだが・・・

今日の話はおおむねこれでオシマイだが、最後に女子部総務の記事から一つ拾っておきたいと思う。

身延山大学・仏教学部に通う学生の入信も叶っており・・・

興味深い話だ。一般の人でこの手の学部を選ぶ人がどれだけいるのか知らないが、普通に考えるとこの人は日蓮宗系の寺院の跡取り息子なのかもしれない。いや、記事には性別は記されていないので、厳密には息子か娘かはわからないのだが、まあ、しかし、寺院の相続者と考えるのが普通だろう。

さて、この場合、どういうことになるのだろうか?

もっとも今の段階でどうこう言っても仕方のない話である。なぜならば顕正会の場合、形だけの入信が横行しているからである。本人が登壇するようになれば面白いのだが、なかなか実現しないだろう。

2017/5/19

低迷期からの脱出方法  
マイケル氏のおっしゃる通り、広宣流布を実現するためにはさまざまの問題をクリアしなければならない。それを思えば、創価学会系の学者が正宗教学を批判することにも意味があるのだろう。ようは宗門がどれだけマトモな反論を構えられるかである。それこそ法主の権威みたいなものを振りかざしているだけで事足りると思っているようならば、もはや時代に取り残されてしまうだろう。顕正会も同じである。

いや、顕正会はもっと深刻かもしれない。カルケン氏のコメントを読めば、誰もがそう思うはずである。

送りつけ詐欺については、ともかく払わないことである。新聞が送られてくることは甘んじて受けてもいいが、さりとて購読料を払う必要はまったくない。どうしても払えと迫ってくるようならば、その時は断固たる態度に出るべきだろう。方法はいろいろあると思うが、わりと手っ取り早い方法としては、本部へ電話することである。本部職員は常識的な対応をするはずなので、それで問題は一気に解決するはずだ。すぐに新聞の郵送が停止されるか、もしくは高飛車だった幹部がおとなしくなるか、たぶんそのいずれかだろう。

幹部は何故、会館の中でしか威張れず、宗門の人から逃げ回るのでしょうか?

そうそう、マレには高飛車幹部が逆ギレして、ああだこうだと言ってくる場合もあるかもしれない。本部にチクったことを逆恨みするわけだ。これがいちばん厄介かもしれない。

しかし、お書きになっているように、顕正会の幹部の多くは法華講員に弱いので、それを味方につけるのも一つの手かもしれない。用心棒ということだ。ただし、その場合は正宗への移籍を勧められることになって、それはそれで厄介(?)なことかもしれないが・・・

さて、今日は顕正新聞第1405号の続きを取り上げよう。

「浅井先生に付いて間違いはなかった」

婦人部大宮支区班長の体験発表である。この度、夫が亡くなった。入信五十五年という古株であるが、銀座の一等地に店を構えたり、黄綬褒章をもらったりと、世法的にもなかなか立派な人物だったようだ。「江戸の名工」「現代の名工」などにも選ばれたそうだが、素人目には少し疑問に感じた。この人は料理人だったのだ。それを名工と呼ぶのは少しおかしな感じがするところである。

話を飛ばして、いきなり終わりのほうの文章を紹介しよう。

 さらに後日、浅井先生より
 「奥さんが長年にわたり御主人の信心を支えて来たこと、私は知っていましたよ」
 との勿体ないほどの労いのお言葉を頂き、ただただ感泣いたしました。


どうだろう、文章からは判然としないが、拙ブログの読者がどのように受け取るか、ひじょうに気になるところである。ようするに上掲のカギカッコは、浅井先生から直接聞いた言葉なのか、それとも組織を通じて伝言として聞いたものなのか、である。もし前者だとすれば、先生もなかなかやるじゃないか、と思う。しかし、もし後者であれば、ああ、先生も偉くなったものだ、ということになるだろう。

そして最初に掲げたカギカッコであるが、浅井先生に付いて間違いはなかった、というセリフは妙信講時代からの古株の発言だけに相当の説得力を持つ。

しかし、反証もまた、無数に存在すると考えられる。

直近の例は小峰勝彦氏である。あるいは十数年遡れば克衛の例もある。そして御遺命守護を戦ったであろう男子部の精鋭たちも相当数が離脱している。こうした事実を踏まえれば、はたして浅井先生に付いて間違いはなかったと言い切れるのかどうか、甚だ心許ないところである。

先生こそ正師

今度は隣の記事の見出しの一部をご覧に入れたわけだが、こちらは創価学会歴五十六年の女性が本年二月に入会してきたという話である。当然、見出しの意味は、池田大作氏を邪師・悪師とし、浅井先生を正師・善師と言っているわけなのだろう。しかし、法華講員に言わせれば、どっちもどっちである。もっとも今度は顕正会ないし創価学会側からの反撃があって、猊下のことをああでもないこうでもないとあげつらうわけだ。いわゆる泥仕合である。

ところで次の話はどうだろうか?

学会版本尊を返納する決意をすると、長男の動かなくなっていた右手が動くようになった・・・

この話も凄いがもう一つ、鼠径ヘルニアに苦しんでいる人のところに行ってお題目を唱えたら目の前で治ってしまった、という話も凄い。

そして下段には七十七歳になる男性婦人部員の記事があって、次の記述がひじょうに悩ましい。

酸素ボンベも外れ、喘息の薬も不要になり、大聖人様が下さった大良薬を実感する・・・

ちなみにこの記事には各所に小見出しが挟まれていて、上掲の一段にも次のような見出しがある。

 大聖人様の大良薬
      の有難さ


勤行をしている人は経文の中に良薬という言葉が出てくることを承知している。また御本尊そのものを良薬に譬えることも多い。しかし、上掲の場合はそれとは話が違うのだ。いわば医学上の薬と仏法上の譬喩としての薬を混同していて、あたかも医者も薬も不要であるかのような誤解を与えかねない文章なのである。ここは少し真面目に考えたほうがいいだろう。まさか編集部の人間までもが誤解して、医学と仏法との関係性がゴチャ混ぜになってしまっているのだろうか?

総班での語り合いも心が弾みます。

いまが一番幸せです。


七十七歳にしてそのように感じているとすれば、それは確かに幸せなことだろう。

2017/5/17

低迷期の独白  
種々のコメントが寄せられている。その中から気になったものをいくつか拾っておこう。

 須田さんは、御書を自分の都合のいい方面からしか拝せません。

これはお互いさまではあるまいか?

ともかく学者同士の論争ならば、我々のようなシモジモのズサンな議論とは訳が違うだろう。その意味で今後の推移を見守りたいと思う。


御宗門も同じじゃないんですか?

そしてこちらはまったくの別件である。ようするに顕正会には本尊複製疑惑があるわけだが、それは宗門も同じじゃないかというツッコミなのである。どのような意図でコメントしたのかがひじょうに気になるところだ。もし日蓮正宗批判のつもりならばおやめになったほうがよかろうと思う。わたくしの感触ではそういう人はロクな人生にならない。その意味であるが、これは宗門誹謗の罰である・・・などと言うつもりはまったくなくて、ようは時間のムダなのである。

つまり、わたくし自身の経験を言っているわけだ。

わたくしは十年以上もブログを続けている。しかし、結果的には時間の浪費に他ならないわけで、他にもっと有意義な過ごし方があったはずなのだ。
同様の意味で、法華講員だった人が離脱してから法華講のことをあれこれと書く、宗門のことを書く、当然ながら批判的なことを書くわけである。しかし、それは時間のムダであり、あまり有意義な人生とは言えないはずなのだ。

だったらオマエはさっさとブログをやめてしまえばいいではないか、と言いたい人もいるはずである。まったく反論の余地はないわけで、そう言われれば、確かにそうだと思う。

ただし、やりたいことをやる、というのも生き方の一つである。

つまり、客観的にはさして有意義な人生ではないにしても、本人がそれでいいと思っているのであれば、それはそれで一つの生き方なのである。わたくしはそのつもりで十数年にわたってブログを続けてきた。ただし、繰り返し言っておくが、決して有意義ではない。ゆえにこれを過大に評価するつもりはさらさらないのである。そんな自画自賛の自己評価に何の意味があるのか、何もありゃしない、というのが客観的な見方なのである。

話がかなり飛躍しているようだ。

宗門における本尊複製疑惑とは何を意味するのか、コメントを読む限りではわからない。そこで勝手に想像して書くわけだが、一つには戒壇の大御本尊の複製疑惑だろう。奉安堂に安置されているものは本物ではなく複製である、というウワサがある。もしそれが事実ならば、宗門が顕正会を責めるのはメクソハナクソだろう。しかし、そんなことはシモジモの法華講員が知る由もないことであり、確かめる術もないことである。ゆえにあくまでウワサのところで話が止まっているわけなのだろう。

そもそも熱心な法華講員がそのような疑いを持つことはないし、たとえ内心では思っていても恐れ多くて口には出せないのが普通だろう。逆に言えば、離脱者にはそうした足枷がないので、気楽に言えてしまうわけだ。

さらに深入りすると、戒壇の大御本尊の複製以前に、戒壇の大御本尊の真偽問題がある。これを言ったらそれこそ足掛け二十年とかの話ではなく、数百年来の疑惑ということになるのだ。

これまた法華講員にはベラボウに荷の重い話であり、逆に言えば離脱者だからこそ気軽に言及できる事案なのだろう。

そこで話が戻るのだ。

それを言ってどうするのかである。離脱者たちが正宗批判をする。その一つの事案として戒壇の大御本尊のことを云々する。先ほども言ったように、それが自分のやりたいことならば、それはそれで一つの生き方ではある。ただし、客観的には大したことではないのだ。ようするに世間を広く見た時には、しょせんは一宗派の問題に過ぎないわけであり、興味のない人から見れば、それがどうしたのか、というレベルの話なのである。

最初の学者同士の論争にしても同じである。学者だから多少は高尚な議論が行なわれているのかもしれないが、それとて興味のない人にとっては何の意味もない話なのである。

燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや

難しい漢字が並んでいて書けと言われても書けない。しかし、今はありがたいことにわりと簡単に入力できてしまう。あまりにも有名な言葉なので、入力ソフトのほうで勝手に変換してくれるのだ。

意味は説明不要だろう。問題は誰が燕雀で誰が鴻鵠なのかである。

大聖人の御書にも類似の御表現がたくさんある。わかりやすい例は師子王と狐兎の比較だろう。あるいは日月と蛍火の譬えもわかりやすい。

ただし、これも自画自賛は無意味である。

いくら師子王だと嘯いたところで、客観的には狐兎に過ぎないとしたら、それこそ嘲笑の的だろう。わたくしの勝手なイメージを言わせてもらえば、燕雀安んぞ云々は自ら口にしてはいけないと思う。ようは心に思うべきなのである。あるいは助け舟で使うのが望ましい。

助け舟?

説明が難しいので困っているのだが、ようは自分で自分に当てはめて言うのではなく、励ましの意味で言ってあげるのが好ましい使い方だということである。

ある政治家が崇高な政治理念を持っていて、その実現の一歩として具体的な政策を立案した。ところが一人の賛同者もいなかった。なぜなんだ、これほど素晴らしい政策もあるまいと思うのだが、誰も賛成してくれない、君はどう思うかね? と秘書に尋ねるのだ。秘書いわく、先生、これはまさしく燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんやではないですか、そこらの小者の政治家には理解できなくて当然なのですよ、先生は信念を曲げずに貫いて下さい、私はどこまでも先生について行きますから、と。

うまい例だったかどうかわからないが、ともかく自分で言っちゃったらオシマイのような気がするわけで、誰かに言ってもらったほうが具合がよさそうである。

安孫子師の自殺・・・

これについては前にも書いたが、その後、他の人の文章を読んだりしてさらに思いを深くしたところがあるので、少し書いておこうと思う。

すなわち樋田ビデオである。

氏は創価学会ないし顕正会への痛烈な批判を続けている。氏の作成したチラシには創価学会員には自殺者が多いという意味の記述がある。あるいは動画の中で、顕正会の幹部が自殺してしまったという話が出てくる。ところがここに来て日蓮正宗の僧侶が自殺してしまったわけである。もはやこれでは何も言えないはずであるが、いかがだろうか?

樋田氏は仏法世法の両面にわたって充実しているのだろう。それが自信たっぷりの物言いにもよくあらわれているように感じられる。そこがまた周囲の嫉み妬みを生むのだろう。

それはさておき、である。樋田氏は今回の一件について、どのように言及しているのだろうか?

まさか都合の悪いことには頬かむりをするみたいな、そんな姑息なことはしない人だとは思うのだが、何しろ氏の動画は膨大なので、どのような発言をしているのか、細かくは知らない。もしご存知の人がいれば、ぜひともご教示願いたいものである。

2017/5/14

五月病的独白  
法華講には良い人が多い。沖浦氏の発言である。ようするにネット上でああだこうだ言っている時はわからなかったが、彼らに実際に会ってみたら良い人たちだったという話である。その証拠写真も出している。すなわち生ビールのジョッキを前に、沖浦親子と法華講の諸氏が仲良く肩を並べているショットだ。そしてご存知のごとく、この頃を境にして沖浦氏はネット上の創価学会員から総スカンを食らうことになる。その状況は今も続いている。

それからもう一つ、動画のリンクを貼っているが、どうやら創価学会の御用学者(?)の発言らしい。これについては後日、気が向いたら書いてみようかと思う。

大沢氏の最初のコメントは難しいと思った。あえてその部分には触れず、ありきたりの部分を引用すれば、次のごとくである。

もはや学校当局は、本人を再評価しよう、目を向けようなどという気は更々なく、厄介者として距離を置いてただ卒業を待つことになるでしょう。

これは一般的に不良生徒への対処法である。ダメだこりゃと思えば、あとはひたすら卒業を待つのみなのだ。ようは卒業=厄介払いである。しかし、くだんの記事の場合、何しろ相手は生徒会長なのだから本当ならば不良生徒とは対極に位置する存在のはずなのである。すると顕正会の存在は、そんじょそこらの不良生徒など取るに足らないほどの厄介者ということになるだろうか?

まあ、かなりの偏見が含まれているとは思うものの、先日も書いたように顕正会がもたらす実害も否定はできない。その意味では、やはり高校生のうちは顕正会の活動を制限すべきなのだろう。当たり前ながらも、夜の集会には参加しなくてよいとか、折伏のノルマを課さないとか、である。

もっとも、今の顕正会にそれだけの精神的余裕があるとは思えないのだが・・・

そして大沢氏の最新のコメントは、まさしく顕正会の最新トレンドに関する話題である。いわゆる本尊複製疑惑だ。

この問題を年代順に分割すると、平成十年前後には下野正信氏がおそらくは初めてこの疑惑について書いたのだと思われる。そして平成二十年前後には顕正会是正協議会が動き、かつまた櫻川忠氏が『迷走する顕正会を斬る』というセンセーショナルなタイトルの本を出版して、この問題にメスを入れたのだった。さらにここに来て、すなわち平成三十年を目前にして法華講の樋田昌志氏が顕正会の本尊疑惑に斬り込んだ。おおむねこんな感じである。

つまり、顕正会は足掛け二十年にわたって、本尊複製の嫌疑を掛けられ続けているわけであり、法華講員などからの厳しい追求に悩まされ続けているのである。

とりわけ樋田氏は最強であり、顕正会の並の幹部にはとうてい太刀打ちできない。それは大幹部であっても同様であり、むしろプライドがあるので無残な姿を晒したくはない、それで逃げ回っているというのが実情のようだ。

また樋田氏は今回の本尊についての質問状の前にも、会長宛に公開法論の申し込みを行なっている。しかし、顕正会側はこの樋田氏からの再三の法論要請に対して、一度もマトモに返答したことがないようだ。いわゆる黙殺である。すると今回も無視することになるのだろう。それ以外の選択肢はなさそうである。

実に厳しい状況だ。

何が厳しいかは説明する必要もあるまい。今までの法論要請に対しては、いちおう回避するための口実があった。ようするにかつて顕正会側も日顕上人へ法論申し込みを行なったが先方が回避したという経緯があるので、それがいわば口実となるのだ。ゆえにおそらくは今でも同じことを言うのだろう、樋田などという小者(?)を相手にする必要はない、やるなら大将を呼んで来い、そうすればこちらも浅井先生に出ていただく、と。

浅井先生は半分くらいは本気なのだろう。しかし、残り半分は面倒臭いという気持ちなのだと思う。幹部たちに阿部日顕を呼べと言わせておけば、どうせ実現しないだろうからそれで話は終わると高を括っているわけだ。

そして、おそらくは日顕上人も面倒臭いと思っているはずである。第一、過去の経緯を考えれば、法論に応ずるつもりなど、さらさらないのだろう。

ゆえに樋田氏がどれほど息巻いたところで、この話はどうにもならないというのが現実である。

法論の実現は上述のごとくである。

しかし、本尊疑惑はかなり性質の異なる話である。

話は簡単だ。もう足掛け二十年も疑惑を持たれたままなのである。顕正会側は疑惑を解消できずに二十年の歳月を経てしまった。決定的な証拠がないのも事実である。刑法的には無罪だ。しかし、そういう問題ではないだろう。ようは説明責任がある。それにもかかわらず説明責任を放棄しているのが今の顕正会の姿なのである。

法論に応じろと迫っても埒が明かない。それどころか過去の経緯を持ち出して、むしろ逃げているのは宗門側であるなどと言ってくる。困ったものである。

しかし、法論に応じろではなく、質問に答えろと迫れば話が違ってくるだろう。

なかなかうまい言い訳が見つからない。

顕正会側が黙殺するのはほぼ間違いないことだ。しかし、それがいわば無言の回答という理解にも結びつくわけである。

今後、法華講員による顕正会員への折伏が勢いを増すとしたら、これが一つのキッカケとなるだろう。もはや難しい議論は必要ない。顕正会の本尊はニセ本尊である。そう言って責めれば話は簡単なのである。何だと? だったら証拠を出せ! こう言って反撃してくる顕正会員に対しては、樋田氏の内容証明郵便を引き合いに出せばいい。これがトドメの一撃である。

顕正会側に起死回生の手段はあるのか?

わたくしの答えはノーである。負け嫌いの浅井先生としては頑として認めたくないのだろうけれども、この件に関しては素直に間違いを認めるしかない、すなわち負けを認めるしかない、これがわたくしの結論である。

その上で御当代猊下に本尊を書いてもらえばいい。まさかそれをニセ本尊だと言う法華講員はおるまい。

いつも言っているように、そのためには宗門復帰が絶対条件である。まあ、これが最難関なのも事実であるが・・・

そこで子供じみた空想癖を発揮して書いておこう。

現状のままで御当代猊下が顕正会用特別御本尊を下付するのだ。現状とは文字通り、今のままである。いわく、顕正会は教義上の齟齬が解消されない限り復帰を認めない、しかしながら戒壇の大御本尊への渇仰恋慕の思いは嘘偽りのないものと認め、ここに特別御本尊を下付するものとする、と。超法規的措置ではあるものの、猊下の英断でやろうと思えばやれるはずである。

わたくしが言うと角が立つけれども、樋田氏はマレな存在であって必ずしも法華講の全体像をあらわしているわけではないだろう。つまり、法華講全体ないし日蓮正宗全体としては、閉塞感のようなものが漂っているのも一面の真理のはずなのだ。そこに風穴を開ける意味で、上述のような猊下の英断は必要なことかもしれない。

もっとも顕正会側がこれに飛びつくかどうかはこれまた微妙なところであり、ヘソマガリの浅井先生はこれを拒否するかもしれない。その辺が難しいところではあるが、しかし、いちおう宗門側からの最後の慈悲ということで、ぜひとも実現してほしい話である。

2017/5/10

顕正会の最新トレンド  
今日も第1405号の続きである。

高校校長 折伏を理由に「謹慎処分」下す
顕正会本部の抗議で撤回、「謝罪文」を構内に掲示


男子部第十二隊班長の記事に付された見出しである。先日は第一面のケッタイな文章を紹介した。再掲しよう。

先生が顧問弁護士に抗議せしめられる・・・

編集部の誰かが書いたのだろう。文法的な問題はさておき、一般人には違和感の拭えない言い回しだと思う。片や見出しのほうは見事な要約である。本文も紹介しておこう。

 時同じく、学校側の理不尽な怨嫉をお耳にされた浅井先生は勿体なくも、弁護士である藤村本部幹事に、教育委員会と学校への対応をご指示下さり・・・

なるほど、弁護士の威力は絶大である。おそらく普通の人ならばビビってしまうのが当然なのだろう。面倒臭いことになりそうだと思えば、さっさと謝罪撤回してしまったほうが得策ということだ。

ちなみに藤村氏の存在は、顕正新聞紙上ではすっかり鳴りを潜めてしまった感じだった。ゆえにずいぶん久しぶりのような気がする。

話を戻そう。前後するが、次の記述は重要である。

 私は県立高校に通い、生徒会長を努めておりますが・・・

これもなるほどの話である。ようするに彼はひじょうに影響力のある存在なのだ。ゆえに学校側としても看過できないと思ったのだろう。

ここで考えなければいけないことは、高校生はオトナかコドモか、である。もう十分にオトナだという意見もあるし、まだまだコドモだという意見もある。
前者の場合、入信するしないを判断するのもすべて自己責任ということになるだろう。後者の場合は親の判断というか許可を必要とする考え方である。
そしておそらく法律上は前者を支持するのだと考えられる。もちろんここでのオトナは成人年齢のことではない。たとえ未成年であろうとも入信するしないの判断は本人に委ねられているのだ。ゆえに校長先生も謝罪撤回を余儀なくされたわけだろう。

また、法律上の問題はさておき、現場の活動会員たちの意識としては、入信するにあたっては一切お金が掛からない、だったらコドモだろうが問題ないだろう、親が口出しするのはおかしなことだ、というような感じなのだと思う。早い話が実害がないのだから問題はないということだ。

しかし、どうだろう。次は隣の女子部第二百三十四区長の記事からの引用である。

それよりは自転車で片道一時間半もかけて水戸会館に参詣を重ねております。

ここでの登場人物は高校生ではないのだろうけれども、活動会員たちの行動パターンを知る意味で重要である。つまり、顕正会の組織は地域の偏在が激しく、最寄りの会館へ行くにも一苦労なのである。もし仮に集会があるとしよう。平日であれば夜に行なわれる。すると集会終了後、帰宅するのが深夜になってしまうことはザラにある話である。それが高校生だったらどうだろう。学校生活に影響するのではあるまいか?

顕正会の高校生は誰もが成績優秀でスポーツ万能。もしそうならば文句はない。しかし、現実は必ずしもそうではないだろう。逆に顕正会に熱心なあまり学業が疎かになったり、今まで頑張っていたクラブ活動を辞めてしまったり、というようなケースも少なくないはずなのである。

ようはこれも立派な実害ではないかということなのだ。

おそらく世のオトナたちは多かれ少なかれ若い頃のことで後悔していることがあるのだと思う。最大公約数的に言えば、もっと勉強しておけばよかった、という感じだろうか? 若い頃はわからないのである。後になってから気付くのだ。ゆえに、オトナたちは顕正会の活動が絶対悪だと言いたいわけではなく、その活動にのめり込むことによって勉強が疎かになることを恐れているわけである。

くだんの生徒会長が成績優秀・スポーツ万能だったとしよう。もうそれだけで他の高校生たちはどんどん入信してくるかもしれない。しかし、残念ながら入信者全員が成績優秀・スポーツ万能になれるわけではない。たぶん教師たちはそれがわかっているのだろう。だとすれば学校側には何のメリットもないわけで、ようは実害だけが残ることになるのである。

もっともここまで書くと、あたかも御本尊の功徳を全否定しているかのように感じられるかもしれないが、わたくしにそのつもりはない。

ずいぶん前に顕正会の教師が生徒を折伏する問題を書いたことがある。わたくしは卒業を待ってからにすべきと書いたと思う。それとは若干異なるものの、ほぼ同じことを言っておきたい。高校生が高校生を折伏するのは少し控えたほうがいいと思う。さすがに全面的に禁止せよとは言えないけれども、基本的には卒業を待ってからにすべきである。人生は長いのだ。

これも前にどこかに書いたかもしれないが、実は男子部も女子部も高校生の成果を相当に当てにしているのだ。事実、高校生の活動会員がいる組織は勢いがある。しかし、それは必ずしも好ましいものではない。なぜならば、オトナの幹部たちはその高校生を酷使しているのだ。成果のために無理をさせている。無理を強いている。特に高校生の場合、芋づる式に大量入信させることが比較的に簡単なので、幹部たちもそれに頼る傾向があるのだ。

この実態を知れば、さすがによくないことだと誰もが思うはずなのだ。ゆえに高校生の折伏は控えるべきだと書いたのである。

ちなみにくだんの生徒会長の記事には次のような記述もある。

 昨年の最終法戦は、思うように進まぬ戦いに一喜一憂した結果、一名の折伏の証拠も現わせないまま法戦を終えてしまいました。

正直な記述である。しかもわたくしが上述してきたことをすべて打ち消すような内容である。高校生は大量入信が期待できる・・・はずだったのだが、現実は上掲のごとくなのだ。

この答えはすでに出ている。

高校生の大量入信は、かつてはそうだった、だが、しかし、今はそうでもないらしい、ということなのである。その理由はインターネットの影響だろう。顕正会の情報が簡単に入手できる。しかもネット上の情報はその大半が顕正会にとってはマイナスの情報なのである。

そういうわけで、今は若い人の入信が少ない。よって、若い人材もあまり育っていない。そしてご存知のごとく、今は後期高齢の人たちや外国人の入信が多いのである。

顕正会の未来は暗いということだ。

2017/5/9

そうでもない活動家  
引き続き顕正新聞第1405号を見て行こう。まずは男子部総務だ。

先生の諫めに相呼応する諸天の働き・・・

何を言っておるのかと思えば、森友問題で安倍内閣の政権基盤が揺らぎ始めたことを諸天の働きだと言いたいらしいのだ。

次は第三十女子部長の発言である。

濁悪の日本国がまもなく白蓮華の花で覆われ・・・

これはいわゆる譬喩である。具体的には顕正会員で覆われると言いたいのだろう。それはさておき、次のくだりが問題である。

昭和二十年、正系門家の大不祥事により原爆投下の大罰を受けた広島こそ・・・

ひじょうに悩ましい記述である。ようするになぜに広島だったのかがわからないのだ。顕正会では何でもかんでも罰だの功徳だのと言うわけだが、その因果関係がまるで不明である。広島が罰を受けなければいけない理由は何か、それをちゃんと説明できるのだろうか?

沖縄こそ、眼前に迫る中国の侵略を迎え撃つ鉄壁の大陣列を急ぎ構築せねば・・・

別の男子部総務の発言である。まあ、譬喩だと考えればそれほどおかしくはないのかもしれないが、それにしてもどうかと思うところである。まさか本当の意味で中国軍の侵攻を顕正会の精鋭部隊が迎え撃つみたいな、そんなバカげたことを想像する人はいないとは思うものの、では顕正会員が増えると何がどのように変化するのか、そこがまったく見えて来ないのだ。もちろん、ここで諸天善神の力用を云々するのが、宗教的な意味では正しいのかもしれない。しかし、今現在、リアリティの上から国防を考えている人たちにとっては、論外の話である。この点、顕正会の主張は甚だ脆弱であり、説得力に欠ける。これが一般的な評価だろう。

真言祈祷僧池口恵観の影響受ける安倍首相
学会副支部長「学会員の半分は“顕正会が正しい”」


第十六男子部長の記事に付けられた見出しである。安倍首相が池口恵観の影響を受けている話はけっこう有名らしい。たぶん週刊誌などのネタなのだろう。けれども登壇者はそれを書いているわけではなく、厚労省の高官だった人物から直接聞いたということである。それによれば昨年末の日露首脳会談の前にも首相は池口の教示を受けているらしい。しかもである。池口はこの高官だった人物に対しても実務レベルのアイデアを授けているらしいのだ。

凄い話である。高官とは高級官僚のことであり、彼らは超エリート集団である。それが政治的にはシロウトのはずの僧侶からアイデアをもらうとは、ちょっと常識的には考えられないことである。すると池口という人物は「浅井先生のご見識」に負けないくらいの見識を持っていることになりそうだ。顕正会員的には、先生と池口を一緒にするとはケシカラン、ということになりそうだが、宗教的な正邪を抜きにすれば現時点では向こうのほうが上なのだから仕方がないことである。浅井先生の見識が認められて、国の要人たちが教えを請うような日が、はたして来るのだろうか?

 副支部長いわく
 「私の周囲の学会員の中には、顕正新聞を読んで『ウソだ!』と思う者が半分ぐらいいるが、顕正会が正しいと思っている者も半分ぐらいいる。しかし顕正会を正しいと思っている者は、そのことを仲間の学会員には絶対に言わない!」と。


得意のアゲアシ取りをさせていただこう。顕正会を正しいと思っている人はそのことを絶対に言わないわけなのだろう、だったらわからないじゃないか、ということである。

ゆえに上掲は副支部長の推論を交えた話と解するのが一般である。副支部長の感触では、半分くらいは顕正会が正しいのではと思っちゃっているのではないか、ということなのだろう。ゆえにそれが本当かどうかはわからない。

やや余談ながらも、いわゆる活動会員たちにも大きく分類すれば二種類いて、バリバリの活動家もいれば、いちおう活動家の範疇には属するものの消極的な活動家というのもいると思う。たぶん副支部長の感触というのも、ここから発しているのではないかと考えられる。バリバリの活動家は心配ない。けれども消極的な活動家はややもすれば離脱してしまいかねないわけで、組織を取りまとめる副支部長の立場としては心配なのである。こうした前提で推論すれば、半分くらいは顕正会が正しいと思ってしまっている、という心配も生じてくるわけである。

これは顕正会にも当てはまる話だ。

大雑把に二分すれば、バリバリの活動家とそうでもない活動家がいる。そうでもない活動家はバリバリの活動家に引っ張られて、それで何とか活動家として踏み留まっているのだ。ゆえにそういう人が法華講員に折伏されると、忽ちに気持ちが揺らいでしまう。実際、それで相当の人数が移籍していると考えられる。さらに言えば、バリバリの活動家だった人が移籍してしまう場合もあるわけで、この影響は甚大である。いわゆる大量脱会・大量移籍につながるわけだ。

学会の崩壊近し!

第十六男子部長の記事には前掲の見出しの他に、本文中にも小見出しが付いている。上掲である。

しかし、どうだろう? 創価学会が崩壊するかどうかは知らないが、それ以前に自分たちの心配をしなければならない。今はそういう状況に突入しているのではないかと思う。

2017/5/8

安全のための意識改革について  
顕正マン氏の礼儀正しさに感銘した。事故や病気には気をつけろとのことだが、これはまったくおっしゃる通りであり、何ら悪意を感じるものではなかった。拙ブログは個人のサイトとしては相当に長持ちだと思う。何しろ十年以上も続けているのだ。そのモチベーションもさることながら、こうして続けて来られたのは生活が安定しているからである。事故にも遭わなかったし、さしたる病気にも罹らなかった。ゆえにコンスタントに更新を続けられたのである。ごくマレに、丸一週間くらい更新が止まることがある。それを心配して問い合わせのコメントを下さる人もいたが、わたくしはその時に答えたものだった。今は不定期更新なので、一週間やそこらの空きがあっても驚いてはいけない、もし、丸々一ヶ月更新がなかったら、その時は何かあったのだろうと思っていただきたい、というような感じである。

さらに妙なことを書くと、当然、名目上ながらもわたくしを管轄している組織があって、担当の幹部がいる。今はもうすっかり諦められてしまったが、組織を離脱した当初はかなり熱心な説得を受けた。それは顕正マン氏が指摘するように、まさしく罰の恐怖を植え付けるような発言の数々だった。
そこでである。わたくしがそれにどのように対処したかを書いておくと、もちろん感情的に反論したりはしないで、相手の言うことを受け流してしまう。それが直接的な対処である。
そして日常的にはどうしたかと言うと、実は物凄く用心深くなったのだ。車を運転するにしても、絶対に事故を起こさないように安全運転を心掛けたし、また、貰い事故の危険も考慮して、ヤバそうな車が走っていれば絶対に近づかないみたいな、ようはあらゆる危険を想定して運転するようになったのである。

一事が万事、そのような行動を心掛けているのだ。あらゆる意味でトラブルを回避できているのはそのためだろう。

けれども担当幹部にこういうことを自慢げに言うと、反撃を食らうことになる。無間地獄が確定している人は罰が出ないのだと。イヤなことを言うものだが、まあ、それに対しても感情的にならずに、ああ、そうですか、と受け流す。当然、相手は思うだろう、ダメだこりゃ、と。そういうわけで今ではすっかり静かになって、滅多には連絡が来ない。

せっかくなので余談を続けよう。

わたくしは日常的に車を運転しているが、それと同時に、歩行者の立場でもある。例えばわりと狭い道を歩いているとしよう。いわゆる車道と歩道の区別がないところである。そこを歩いている時に背後から車の迫っている音が聞こえるとどうするか、である。
わたくしの場合、脇に避けるのだ。物凄く狭い道ならば、脇に避けて車が過ぎるのを待つ。そこそこのスペースがあれば歩き続けるが、それも壁にへばり付くくらいの感じで歩くのである。
当然、歩行者優先という考え方がある。しかし、だからと言って道の真中を堂々と歩く人はいないだろう。誰もが左右のどちらか寄りを歩いているはずだ。とは言え、わたくしのような行動を取る人は少ない。

何が言いたいか、わかるだろうか?

わたくしは権利や義務、あるいはどちらが優先かみたいな意識から、そのような行動を取っているわけではないのだ。絶対に事故に巻き込まれないためにはどうしたらよいか、というのがわたくしの行動原理なのである。

では逆に、わたくしが車を運転している立場の時はどうするのか、書いておこう。

正直なことを言うと、歩行者を轢き殺したくなる衝動に駆られることがある。物騒な話だが、本音を書いておいたほうがいいだろう。
上述のごとく、わたくしが歩行者の時は脇に避けるのだ。ところが避けない人が多いのも事実である。歩行者優先の意識が強いからなのか、あるいは轢かれることはないだろうと高を括っているのか、それはわからない。
しかし、わたくしの自己ルールからすると、歩行者の多くがルール違反を犯していることになるのだ。ゆえに腹が立つ。だから轢き殺したくなる。

けれども、わかり切った話だが、わたくしは絶対にそんなことはしない。ちなみに、クラクションを鳴らすこともしない。ひたすら徐行するのみである。それで歩行者に接触しないだけの目測が立てば、最徐行を心掛けつつ歩行者の横をすり抜けることになる。もしその幅すらなかったとしたら、ひたすら待つのみである。

エライ不公平な話である。わたくしばかりが一方的に損をしているようなアンバイである。しかし、それほど不満はない。

つまり、運転者の時も歩行者の時も一貫して、事故を起こさない・事故に巻き込まれない、という方針なのである。そして現実に、こうした心構えが奏効して無事でいられるわけだから、不満はないのである。

ただし、先ほども書いたように、時には轢き殺したいという衝動に駆られるのも事実で、実は狭い道路の時よりも問題なのが、大きな道路である。

特に早朝が多い。

片側二車線、両側で四車線という大きな道路があるとしよう。これを横断する歩行者の態度がよろしくないのだ。たぶん出勤途中なのだろう。朝はたいていの人が時間に追われている。ようは急いでいる。ゆえに横断歩道の信号が赤にもかかわらず、渡る人がいるのだ。とんでもない話である。もちろん横断歩道のないところを渡る人もいる。これも大きな道路では危険な行為だろう。

しかもである。その人たちの多くは、なぜかノンビリと歩いているのである。

この時がいちばんヤバイのだ。わたくしが車を運転していて、こうした場面に遭遇すると、それこそ轢き殺したくなるのだ。大きな道路であるから、それなりにスピードも出ている。ゆえに本当に轢いてしまえば死亡事故になるだろう。ましてやこうしてブログで本音を書いてしまっているわけだから、単なる致死罪ではなくて殺人罪になるかもしれない。実にヤバイ話だ。

わたくしの言い分は簡単である。

オマエは急いでいるのだろう。だから信号が赤でも渡るのだ。だから横断歩道でもないところを渡るのだ。だったら急いで渡るべきだろう。何をノンビリと渡っているのか。ふざけるのもいい加減にせよ。

う〜ん、余談とは断ったものの、今日のブログは相当に異色である。

ただし、拙ブログには固定客としておよそ二百人ほどの読者がいるわけで、その人たちへの啓蒙(?)にはなったのではないかと思う。もし今日の記述に該当する人がいて、ああ、そうか、気をつけないといけないな、というふうに少しでも思ってくれたならば、ムダではなかったことになるだろう。


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