2017/6/30

メガトンキュウバクダン  
安倍首相辞任要求特集号の第二弾は、加計学園をめぐる問題に焦点を当てて書かれている。ご存知、第一弾は森友問題だった。そして今回は加計問題。両者を掛け合わせて、モリカケ問題と称する人もいる。蕎麦のモリとカケの意味だろう。

いつも言っているように浅井先生の講演はわかりやすい。マスコミの錯綜した情報をうまく整理して、平易に述べている。

けれども、それだけでは他の安倍批判との差別化が図れない。そこで今回の講演で最大のポイントとなるくだりが、おそらくは次の一節だろう。

 私が辞任を求めるのは、一往は安倍政権の政治上の失による。しかし再往はもっと深い。仏法上の失あるゆえであります。

振り返れば、先日紹介した男子部幹部の発言が光っている。

 謗法を責めてのご発言なれば必ず事実に

この時にも言ったように、ようは野党やそこらの市民運動家たちの政権批判とは一線を画することを強調したいわけである。

会長講演に戻ると、わたくし的には次の一段が疑問である。

 ちなみに少し説明いたします。

どうやらここは新聞掲載時に加筆したらしいのだが、内容的にどうだったかと思う。三種の一念三千は正宗教学で最重要ポイントとなるべき法門である。これを特集号として一般人に向けて大量配布するのはどうかと思うのだ。仏法上の失をよりいっそう強調するために付加する必要があったのかもしれないが、しかし、あまりにも専門的であり、一般人には難解である。

また、後段においては聖徳太子の事例と日霑上人の事例を並べて書いているけれども、これもどうかと思うところだ。

聖徳太子の時代はあまりにも古いので、そこが実感を持って読めるかどうかのギリギリのところだが、ともかく歴史上の人物としては著名なので、一般人にも通用する話だろうとは思う。ところがである。一方の日霑上人の事例はいわば内輪の話であって、時代的には近いものの、一般人にはまるで馴染みのない話なのだ。それを特集号として大量配布するのはどうかと思う。

これが当該講演へのわたくしの全体的評価である。

あとは各論的に書いていこう。

「日蓮大聖人の仏法」の隣に、念仏の親鸞の本が並んでいた。大聖人様に申しわけない(爆笑)…と思った。

もはや浅井先生は自分で本屋に行くことはないらしい。上掲は本部職員が本屋に行って写真を撮ってきたものを先生に見せたのだそうだ。

もしかしたらネット上での批判を気にしたのかもしれない。ようは謗法の書物と一緒に並べられている状態は、謗法と同座すべからず、との日興上人の御遺誡に反するものだとの指摘が(もうすでにあるのかもしれないが)、あるいはこれから指摘される可能性もあるので、いわば先手を打つ意味で上掲のような発言をしたのだろうと考えられるのだ。

まあ、わたくしはそこまで気にすることもないと思うのだが・・・

ともかく先生としては基礎教学書を自分の人生の集大成のように思っているのだろう。ゆえに今後も新聞広告を永く続けていくと言っているし、顕正会員による広告の配布活動がすでに一千二百万枚に達したとも言っている。

問題はそれがどれだけの効果を発揮するかだろう。

次に行こう。

 これはもしかしたら、安倍政権を吹き飛ばすほどのメガトン級の爆弾になるかも知れない。

森友問題に続いて加計問題が大きくクローズアップされた。これをメガトン級の爆弾と表現しているわけである。
しかし、総幹部会の行なわれた五月二十六日からすでに一ヶ月が経過しているものの、未だに安倍政権は存在している。皮肉にもこうした先生の見通しは外れる場合が多いのだ。
おそらくは都議選が一つのターニングポイントなのだろう。この選挙結果が国政レベルにも何らかの影響を与える。早い話が都議選で自民党が大敗すれば、それが安倍政権に対するトドメの一撃になるかもしれないということである。

すなわち天照太神は皇室の祖先で日本国最初の国主。そして八幡大菩薩は第十六代の応神天皇のことです。

この記述の正確性が疑問である。普通に考えると、神武天皇が最初の国主のはずだが、違うのだろうか? ちなみに応神天皇の十六代説は御書に依るのだろう。これは浅井先生の一貫した主張である。

「日本会議」は傘下の神社本庁と共に・・・

前にも触れたが、これがわからない。わたくしが単に不勉強なだけなのかもしれないが、常識的には逆のはずである。

日霑上人は「弁惑護法抄」と題する、上・中・下三巻にわたる膨大な一書を著わされ・・・

読んでみたい。いや、面倒臭そうなので、やめておいたほうがよさそうだ。

宗門関係者からはボロクソに言われっ放しの浅井先生であるが、ともかく御書には精通しているし、歴代上人の御指南についても相当に読み込んでいるのは事実だろう。

とは言え、もはやそうした研鑽の成果を発揮する機会は永久に訪れないのだろう。

2017/6/29

ブッタルンデイル  
またしてもコメント欄が紛糾している。その中心にいるのが沖浦氏である。よほど恨みを買っているのだろう。普通ならば何事においてもホトボリが冷める時が来るものだが、沖浦氏に限っては例外のようである。わたくしに言わせれば、どっちもどっちであり、よくも飽きもせず続けられるものよと感心するばかりである。まあ、勝手にするがいい。

2017/6/27 12:59
投稿者:S@法華講
顕正会暴走の根底には、陽明学の「知行合一」あり、如何。


そうした中で上掲はわりと真面目なコメントのように思えるが、しかし、ずいぶんと不親切な文章である。

まず、陽明学がいけない。

知行合一はいちおう国語辞典などにも出てくる言葉なので、一般教養の範疇に入るのかもしれない。とは言うものの、具体的に何を言いたいのか、上掲からは読み取れない。もしかしたら陽明学に精通している人ならばわかる話なのかもしれないが、しかし、一般教養レベルにおいてはほとんど表面的な意味しか理解できていないのが実情のはずである。ゆえにこういう場合においては、それなりに噛み砕いた説明をする必要があるだろう。そこが甚だ不親切なところなのである。

そして問題は暴走である。

顕正会の暴走とは具体的に何を指しているのかが不明である。いわゆる顕正会問題にはさまざまの切り口があるわけで、それぞれが懐いているイメージだとか問題意識がハッキリしないことには議論にならない。

例えば『迷走する顕正会を斬る』という本がある。

長い本なのでなかなか読み切れないが、わたくしなりに大雑把に説明すると次のようになるだろう。まず、著者の櫻川氏はいわゆる御遺命守護の戦いを実際に経験した人物である。そこで氏は自身の経験とさまざまの資料とを照合させ、当時の妙信講について一定の評価を与えている。平たく言えば、御遺命守護の戦いを肯定的に見ているわけだ。しかし、妙信講はその後、変節してしまった。そして近年から近日に至るまでのテイタラクを見れば、まさしく迷走状態であると、結論しているわけなのだ。

というわけで、顕正会の暴走を云々するのであれば、まずは具体的な事例を挙げないことには話が始まらない。その点をよろしく斟酌願いたい。

2017/6/27 12:33
投稿者:大沢克日子
「恩に報ずる」の表現は御書にあったと思います。


このコメントも問題である。

まず、御書にあるのであれば、その具体的な御文を示すべきだろう。話はそれからである。

そしてこれはいつも言っていることだが、御書の表記と現代表記との齟齬について、どのように考えるかが問題である。わたくしは顕正会で多用する「始めて」について、繰り返し批判してきた。現代国語においては「初めて」と表記すべきところを、なぜか顕正会では「始めて」と書くのである。そしてそれはどうやら御書の表記に従っているらしく、その点はいかにも顕正会らしいところではあるのだが、しかし、わたくし的にはいかがなものかと思わざるを得ないところなのである。つまり、わたくしの考え方においては、たとえ「恩に報ずる」が御書の表記すなわち大聖人の御表現として存在したとしても、現代国語的には甚だ疑問だという点は動かないのだ。ゆえに、それをあえて使用することの意味ないし意義がどれほどあるのかを、逆に聞いてみたいくらいなのである。

「安倍首相辞任要求・特集号」2

さて、いよいよ五月度総幹部会を報ずる第1410号である。当該号は上掲のごとく、辞任要求の第二弾となっている。

二百万へのカウントダウン始まる

これが第一面の大見出しだ。

一般の読者には意味不明だろう。厳しい目で見れば、チグハグということかもしれない。辞任要求特集号と銘打っているにもかかわらず、ご覧の大見出しをつけることが、まさにチグハグなのである。

 次いで先生は・・・

 ついで先生は・・・

 ついで先生は・・・


第一面の下段には会長講演の要約が載っている。この要約自体はよくまとまっており、文句のつけようがない。しかし、ご覧のごとくの不統一をどう見るかである。たぶん単なるミスなのだろう。「次いで」と「ついで」はまったく同じ意味であり、わざわざ漢字表記とひらがな表記を使い分ける必要性があるとは思えない。これはおそらく変換ソフトのクセによるものなのだろう。

以下はわたくしの例である。

法門 訪問、 秘法 秘宝、 不変 普遍

いわば専門用語の領域に入ると思うが、拙ブログでは法門という言葉を多用する。当然、入力ソフトも心得ていて、法門がわりと簡単に出てきてくれる。ところがである。入力ソフトのほうで気を利かせているのか、法門という言葉が頻出する文章を書いている時に、たまに訪問が出てくるのだ。ようするにソフトのほうで勝手に、法門が続いているのでそろそろ訪問だろうと忖度(?)するのだ。そのたびにわたくしはバカヤロウと怒鳴りつけているが、ソフトのほうは一向に理解してくれない。困ったものである。

ただし、拙ブログの愛読者ならば、わたくしの文章にはそうした誤変換があまりないことをご存知のはずである。その理由は上述のごとくで、ようはソフトの馬鹿さ加減をよく承知していて、わたくしのほうで誤変換がないように常に気を引き締めて入力しているのである。もちろん、読み直しも怠らない。

つまり、顕正新聞の編集部はブッタルンデイルということだ。

せっかくなのでもう少し話を続けよう。近年は人工知能が急速に発達しているそうである。ならば人工知能搭載の入力ソフトは上述のような間違いを犯さないはずであるが、実際はどうなのだろうか?

その辺の最新事情についてはまったく不案内であるが、もしかしたらすでにわたくしの満足できるレベルの入力ソフトが存在するのかもしれない。あとは値段の問題だが、どれほど高かろうとも顕正新聞の編集部はすぐにでも導入すべきだろう。

一般人が何をどのように見るかはわからない。しかし、少なくとも誤字脱字だとか誤変換が目立つような出版物は一流とは言えないわけで、その段階でダメだこりゃと思われてしまうようではオシマイである。その点を顧みることなく特集号を連発しても、それは不発に終わる公算が大きいだろう。

やはり最終的にはモチベーションの問題である。日本ないし世界で唯一の言論機関を誇るのであれば、些細な点にも細心の注意を払う必要があるだろう。それはまさしく編集部のモチベーション次第なのである。

2017/6/27

梅雨空の鬱陶しさの中で  
前々回のコメント欄に法華講の人がお見えになってリンクを貼っておられるが、なかなか難しいものだと思った。先方のサイトを拝見して思うことは、他人に読んでもらうことがどれほど困難なことかである。拙ブログに比べれば遥かに整理整頓ができている。ようは分類ができているわけだが、逆に細分化され過ぎると面倒臭い印象が強くなる。そんな感じが否めないサイトだった。

さて、顕正新聞の続きである。

大忠誠の浅井先生のお姿と、御報恩の赤誠こもる勤行のなか、旭日に照らされ金色に輝く大聖人様の尊き御姿が眼に浮かび・・・

女子部第百二十九区長の文章を切り取らせていただいた。悩ましいの一語に尽きる。当然、浅井先生の後ろ姿を見ているわけである。そこに大聖人の御姿が浮かんでくるというのが悩ましいところで、いかにも会長本仏論的である。

「御遺命守護の戦い」や「天王山の戦い」に見るごとく・・・

今度は女子部第三十九区長の記事からの引用であるが、わたくしにとっては初見(?)の記述である。天王山がそれだ。

たぶん会長発言を詳しく調べていけば、天王山発言はいくつも存在するのだと思う。重要な場面において、今度の戦いは天王山の戦いだ、みたいな表現を使うことは当たり前に行なわれているはずなのだ。しかし、御遺命守護の戦いと並び称されるほどの戦いは、なかなか思い浮かばない。もしかしたら日顕上人との公開対決を言っているのかもしれないとは思うものの、ともかく顕正新聞を普通に読んでいる範囲ではなかなかお目に掛かれない表現なので、ここであえて取り上げさせていただいた次第である。

 この衝撃的特集号に、これまで腰が引けていたマスコミや司法等が息を吹き返し・・・

これは女子部第二百二十三区長の発言である。安倍首相辞任要求特集号によってマスコミや司法が息を吹き返すと言っているわけなのだが、これはウヌボレが過ぎるだろう。いや、正確には彼女がではなく、もし浅井先生がそう思っているのならばであるが、いずれにしても客観的にはどうかと言わざるを得ないところだ。

浅井先生の講演は各種のマスコミ情報を書いているに過ぎない。ゆえにマスコミや司法にしてみれば、顕正新聞に書かれていることなど先刻承知のことなのである。腰が引けていることについて言えば、それはその通りなのだろう。さりとて顕正新聞に啓発されて奮起することはない。もちろん顕正会が名目数ではなく実数において相当の力を持つようになれば話は違ってくるだろうが、現状では無理な話である。

ただし、少しだけ肯定的に書いておくと、浅井先生は話の要約がうまい、ベラボウにうまいのだ。ゆえにモリカケ問題にしても、浅井先生の講演のほうがそこらの報道機関よりも遥かにわかりやすいという意味はあるだろう。よって特集号の大量配布が何らかの作用をもたらすかもしれないという淡い期待は持ってもおかしくはない。

八十六歳になる男性女子部員の体験発表を紹介しよう。

 いまの人には信じられないかもしれませんが、天皇には後光が差していると信じ・・・

なるほど、信じられない話だ。そもそも彼はどうしてそのように信じたのかである。そのように教わったのだろうか?

今のように映像の発達した時代であれば、そのようなウソはすぐにバレる。さりとて当時であっても、そんなバカなことがあるかと疑って掛かる人がいてもおかしくはないだろう。その辺の感覚的なところが今のわたくしには想像できない。あるいは自分もその時代に生きていれば彼と同じだったのだろうか?

「天皇のため、東洋平和のため、お国のために命を捨てよ」

小学生時代に教師から教わったことだそうである。不勉強を棚に上げて書くわけだが、わたくしには東洋平和に違和感がある。当時は大東亜云々の表現が多かったはずで、今使っている変換ソフトでも勝手に大東亜戦争だとか大東亜共栄圏という語句が先取りして表示されるくらいである。ゆえに実際はどうだったのかが気になるし、真面目な人ならば当時の文献を調べてみるのだろうけれども、わたくしは面倒臭いのでやらない。いずれにしても今ならば世界平和と書くべきところなので、その意味からすると当時の日本は視野が狭かったことになるのかもしれない。

次は婦人部伊予支区班長の記事からの引用である。

浅井先生の指導を常に杖・柱として・・・

拙ブログを苦々しく思っている人は、またしてもイチャモンが始まった、と思うのかもしれない。

ただし、注意すべきは同じ記事の中に次の記述があることだ。

『日蓮を杖・柱ともたのみ給うべし』

つまり、大聖人=浅井先生という理解の仕方もあながち牽強付会とはならず、ようは会長本仏論の傾向性が強いと言われても仕方がないところなのである。

イチャモンのついでに男性婦人部員の記事から引用しよう。

 さらに血糖値や中性脂肪等も、すべて基準値よりも下がっていた・・・

いわゆる生活習慣病なのだろう。あらゆる数値がベラボウに高かった。それが下がってきたことを功徳だと言っているわけなのだ。ゆえにそうした大きな文脈から理解する場合、上掲はさほど問題を感じないところではあるのだろう。しかし、基準値よりも下がってしまったらダメである。上限下限の基準値内に入っていなければいけない。

恩に報ずる・・・

これが悩ましい。恩に報いるはかなり汎用的に使われているが、恩に報ずるは甚だ疑問である。

2017/6/26

梅雨の鬱陶しさの中で  
めずらしい人がお出ましになった。S@法華講氏である。文中、本門戒壇建立が即ユートピアの出現とはならない旨の記述があるけれども、わたくしはほぼ真逆の意見である。三大秘法抄には諸天善神が来下すると認められている。まさにこれこそが劇的な変化をもたらすものと信ずるべきだろう。もちろん氏のおっしゃるように、それぞれ個別の因縁があるので一切合切が平等に幸福を享受できるなどという甘い考えは禁物である。当然ながら、個人の幸不幸はあくまで個人の努力に帰属する問題であることは言うまでもない。また、後半でおっしゃっていることには特に異論がなく、しょせんは国家も個人の集合体であるからして、その構成員たる一人ひとりが国の命運を握っているのである。ゆえに戒壇建立後においても、不断の努力が求められるのは当然のことだろう。

さて、話は変わる。

どういうわけか、顕正新聞が溜まっている。実はもう何年も前からそうした傾向にあるわけだが、特に最近は顕著である。たぶん、やる気の問題だろう。何となく惰性で続けてはいるものの、やる気がないのでそれが少しずつ顕在化しているのだと思う。まあ、しかし、そのわりには書き始めるとけっこう書けてしまう。惰性とは恐ろしいものである。良くも悪くも継続されるからだ。

顕正新聞第1409号は登壇特集とでも言うべきか、一面こそ立宗会の会長講演が載るものの、それ以降はすべて各地の集会における登壇記事である。いつもながらウンザリする。やる気が失せるのも道理である。

 天台・伝教が法華経を弘めても、ただ南三北七の悪口だけだったではないか。

会長講演で気になった部分を取り上げた。今は資料なしで書いているわけだが、上掲はかなり乱暴というか不正確な記述だと思う。ようするに天台と伝教を一緒にして南三北七と書いている点がおかしいのだ。おそらく天台はしかり、伝教はしからずだろう。伝教大師の場合は南都六宗から悪口を言われたのだ。

もちろん、講演全体の論旨に大きくは影響しない。とは言うものの、間違った情報を書けば全体の信頼性を損なうことになる。誤字脱字の多い文章は読むに値しないというのがわたくしの持論であるが、上掲も往いては同じことである。

さて、二面から四面にかけては「代表決意」と題する登壇記事が載っている。いつもは細かく取り上げているが、今回は大きくまとめてしまおう。

安倍一強政権 崩壊近し

大幹部たちが口々に言っていることである。そうした中で男子部第七十八隊長の記事がなかなかの説得力を感じさせた。ここでは見出しを紹介しておこう。

 謗法を責めてのご発言なれば必ず事実に

ようするに単なる政権批判ではないと言いたいわけだ。つまり、野党による政権批判だとか、市民運動レベルのそれではなく、仏法上の重大発言なのだと言っているわけである。これは原発問題の時にも通ずる話で、単なる反原発の運動とは一線を画する意味で、仏国土を汚してなるものか、というような発言を当時は盛んにしていたのだった。今回もそれとほぼ同じパターンだろう。

安倍政権に対して批判の声を上げている人は少なくない。ことに本年に入ってからはその傾向が強まっている。そりゃそうだろう。モリカケ問題はもちろんのこと、自民党議員の失言や不祥事が続出している状況である。今度の都議選で大苦戦を強いられているのもそのためである。
ある意味、顕正会はそうした世の中の動きに便乗しているようなところがなきにしもあらずであり、単に政権批判をしているだけでは差別化が図れない。それどころか存在感がまったくないのである。ゆえに差別化を図った。まさしく上掲がそれである。

しかし、難しいところだ。

この先、安倍政権が倒れたとして、その時にどのような評価を下すかが難しいのだ。市民運動家たちは自分たちの努力が報われたと思うだろう。野党も自分たちの手柄であることを強調するに違いない。いわば顕正会はそれを横取りするわけである。つまりはヒンシュクモノということだ。これは相手の立場になって考えれば容易にわかることだろう。

話は変わるが、第十八男子部長の記事から少し引用したい。

 そこに、もうひと月たりとも猶予などなく、第十八男子部は一進一退のもたついた前進を、この五月こそ断固打ち破り・・・

一進一退だとか、もたついているとか、人によっては謙遜と受け取るかもしれないが、わたくしは正直な告白だと思う。なぜならば当該組織は本年の初陣戦で二百三十一名の成果を出している。これを多いと思うか少ないと思うかは人それぞれだろうが、これはかつての隊レベルの数字なのである。ゆえに部のレベルでは少ないと考えるのが妥当だろう。ゆえに本人も切迫感丸出しで、もうひと月たりとも猶予はない、と言っているわけである。

五面には「活動報告」が載っている。

農業関係の社長たちが続々と入信

男子部第五十三隊総支隊長補の記事に付いた見出しである。前回、現世利益のことを書いたけれども、これも大いに関連する話だろう。社長が入信するということは、何かしら現世利益的なものを期待してのことだと考えられる。

それにしても次のくだりはいかがなものだろうか?

入信後は野菜たちにお題目を聞かせたいと、早朝から畠のど真ん中でお題目を唱えているそうで・・・

男子部第二隊総支隊長補の記事は次が注目だ。

小学校の着工当初は、「安倍晋三記念小学校」「名誉校長・安倍昭恵」との看板が大きく掲げられていた・・・

森友学園の話題だ。地元の壮年の目撃証言だそうである。わたくしの思うに、これこそ画像を入手して顕正新聞に掲載すべきだろう。顕正新聞社の実力が問われているのだ。現状ではただ単に登壇記事をそっくりそのまま載せるという、手抜き作業のような編集に終始しているだけと言われても仕方があるまい。

男子部第八十隊班長の記事も紹介しておこう。

 迎えた大会当日は、地元別動隊という、かつてない重要な任務に当らせて頂きましたが・・・

見出しには、中部大会で衛護隊の任務に携わる、と書かれているけれども、本文中にはご覧のように別動隊と書かれている。衛護隊に別動隊なるものが存在するとは知らなかった。いや、より正確に言うと、組織上の役職は不明ながらも浅井先生に専属で警護の任に付いている人がいるのは誰もが見知っていることである。それが今回、少しだけ明るみに出たということになるだろうか?

今日はこんなところで終わりにしたい。

2017/6/24

梅雨の中休み  
十日ばかり間が空いてしまった。その間にも種々のコメントが寄せられたが、ここでは割愛させていただくことにして、顕正新聞の続きを見て行こう。

日本最大手の保険会社の約五万人の外交員の中で、全国一位の成績となり、一ヶ月の給料が七百万円、その年の年収は二千八百万円・・・

第1408号の七面に載る、女子部第三十区班長の体験発表である。わたくしは前回、臨終に関する体験発表も大事だが、もっと現世利益的な発表があってもいいだろう、という意味を書いた。まさに上掲がそれである。実に羨ましい収入だ。

ただし、はたしてこれが現世利益なのか、いわゆる功徳なのかと問われれば、ひじょうに難しい話である。なぜならば競争原理に基づく数字だからである。
彼女は幸運にも企業の大口契約を取りまとめることができた。従業員三百五十人分の契約を一気に獲得することができたので、そのため月収ないし年収が上掲のごとく跳ね上がったわけである。逆に言うと、からきしダメな時もあるだろう。
さらに広く見れば、広宣流布の暁にはどうなるかが問題である。こうした歩合給の場合、誰かが大勝ちすれば誰かが大負けするわけであって、まさか全員が勝利することは考えられないのだ。つまり、全員が信心していて功徳を得られるはずなのに、必ず誰かが勝って誰かが負けるという現実が待っているわけである。

まあ、さしあたっては広宣流布以前の今の段階が重要ではあるのだろう。上述のような難しい議論は抜きにして、確かに顕正会員ばかりがあらゆる分野で好成績を収めていれば、それそれは物凄く魅力的な話であって、だったら自分も顕正会に入ろうかなと、多くの人が思うに違いないのだ。

癌すべて消滅!医師「あり得ない」と驚歎

男子部第四隊組長の体験発表も余命三ヶ月からの奇跡の生還という意味で、実に立派な現世利益である。ただし、これも厳密には難しいところで、顕正会員の誰もがガンを克服しているわけではないし、顕正会員以外にもガンを克服した話はたくさんあるわけだから、これが本当の功徳なのかどうかはわからないのだ。やはりいつも言っているように、専門家である医師たちがそれこそ挙って入信するようでなければ説得力に欠けるだろう。

それはさておき、この人の記事で驚いたのは次の一節である。

 そのような中、東日本大震災で崩壊した福島第一原発の片付け作業の募集がメールで届いたのです。なんと日当が二五万円だったので、当時金銭苦だった私は一抹の不安はありましたが志願し・・・

これは凄い金額である。彼は四日間従事したそうなので、一週間足らずで百万円の収入を得たことになる。これは魅力的な話だ。

わざわざウソの話を書くとは思えないので、これは本当の話なのだろうといちおうは考えたいが、その場合に言えることは、相当に危険な作業だったのだろうことだ。ようは放射能のひじょうに強い場所での作業をやらされたのだろう。それが後々、人体にどのような影響を及ぼすか、いわゆる晩発性の病気が出てくる可能性は否定できないわけで、その時にしっかりとした保障がなされるのかどうかも心配である。そのように考えると、カネはいいけどやりたくない、という人が多いのかもしれず、それがさらに金額を押し上げて行くことにつながるのかもしれない。

廃炉に要する時間も相当の長期になると考えられているが、当然ながら費用も膨大を極める。原発の不経済さがここにもよくあらわれていると言えるだろう。

一日四回も勤行をあげる日もあるほど・・・

同じ人の記事でもう一つ気になったのがこれである。顕正会員は熱しやすく冷めやすい。いわゆる火の信心だ。そしてご存知のごとく、すでに燃え尽きてしまっている人が無数にいる。これが顕正会の構造的欠陥ないし悪しき体質であり、一向に改善される様子はない。たぶん、このままダメになっていくのだろう。


六月二十六日追記:本文中に下線を入れた。当然、誤字脱字の類であるが、「それはそれは」とすべきか「それはそれで」とすべきか、あるいは他の表現に変えるべきか、各自の判断に委ねたい。ともかく集中力が散漫になっていて、つまらぬミスを繰り返している昨今だ。

2017/6/14

梅雨寒の一日  
一大秘法に関してはマイケル氏が一本取った格好である。狭い日本の中で地域によって教えている内容が異なるとしたら、これほど面倒臭い話もないだろう。ましてや関西だけに真実を教えた、それ以外には教えなかった、などという話が本当ならば、関西以外の創価学会員はバカにされているようなものである。そんなわけがあるまい、というのが常識的な答えのはずだ。

さて、顕正新聞の話題に移ろう。第1408号だ。

 葬儀は林婦人部長の導師のもと・・・

婦人部千葉支区総班長の記事に出てくる一節である。従来、葬儀は儀礼室委員の仕事だったはずだが、今はそれが崩れつつあるのかもしれない。これがどんどん拡大していけば、創価学会の葬儀とまったく同じになってしまうだろう。もっともくだんの記事を読むと、同婦人部長の導師のもと、母と伯母と自分の四人で見送ったと書かれているので、そうした限定的なケースにのみ適用される話かもしれない。

下段には婦人部坂戸支区組長の記事があって、こちらにも葬儀のことが書かれている。

父の葬儀に
 13人の坊主


この小見出しから容易に想像がつくだろう、ようは入信前の出来事を綴っているわけだ。

近所に禪宗の曹洞宗寺院があり・・・

神主が泊りがけでお祓いに来たり・・・


なるほど、山梨県で生まれ育ったそうなので、そうした地方の旧家においては上掲のような宗教行事が当たり前のように行なわれていたわけなのだろう。それにしても葬儀の時に十三人もの僧侶が来るとは驚きである。よほどの名家なのだろう。

創価学会や顕正会をやめて宗門に移籍する人たちの理由の一つに葬儀の問題がある。そんな話をどこかで聞いたような気がするが、確かに有力な理由かもしれないと思う。他宗では十三人もの僧侶が来て盛大に葬儀を行なうのである。それと創価学会における同志葬や顕正会の儀礼室葬を比べたならば、結局は宗門に移籍して御僧侶を呼んだほうが世間的にも格好がつくと思う人がいて不思議はないわけである。

もっとも今は葬儀も相当に簡略化されてきて、むしろ上述のような意識を持っている人は古い人なのかもしれない。さりとて創価学会や顕正会の葬儀が新しいわけではなく、宗教色のない葬儀こそが今の最新のトレンドなのだろう。

どうでもよいことを書くと、禪宗の表記が気になった。しかも禪宗の曹洞宗寺院が重複的でどうかと思うのだが、いかがだろうか?

左側の記事も臨終ないし葬儀のことが書かれている。

登壇者は女子部第九十区の平会員で、班長をやっている娘さんの折伏で創価学会から入会してきたそうである。登壇者の母親も創価学会員である。

母は話は聞くものの、地域中が学会員ということもあり、「今さら変えられないよ」としがらみから抜け出せず、弟の反対もあって入会は叶いませんでした。

ところがである。

母はついに「信心は変えられないけど、自分が亡くなった時には顕正会で…」と言い始めたのです。

これは凄い話である。そして実際に顕正会儀礼室で葬儀を行なったそうなのだ。

今までのケースだと亡くなった人が名ばかりの入信で、家族親戚が大反対して儀礼室での葬儀ができず、いわゆる邪宗での葬儀を余儀なくされることがあった。そしてその娘さんないし息子さんが立場的には喪主に相当するにもかかわらず、謗法与同になるから葬儀には参列しないというような、何とも忸怩たる登壇記事が散見された。その意味からすると上掲の話はコペルニクス的な大転換である。

おそらくはパワーバランスの問題なのだろう。

ようするに顕正会員の一人ひとりが世間的な意味においても実力をつけて行けば、こうした場面場面においても有利になるわけだ。また、ごく単純に、数の論理が当てはまる話でもある。ようは顕正会の熱心な活動会員が多数を占めれば、あらゆる場面において自分たちの意見が通る。国立戒壇の建立もこの理屈だろう。当たり前過ぎる話だ。

それにしても最近の顕正新聞は臨終ないし葬儀の話が目立つ。もちろん大事な話ではあるのだが、わたくしはもっと現世利益的な体験発表がなされるべきだと思う。そのほうが入信者が増えるに違いない。

もっとも現世利益なるものが、あまりにもコドモダマシの内容であれば、返って墓穴を掘ることになるわけだが・・・

2017/6/13

梅雨冷えの一日  
電力需給にギャップがあるとか再生可能エネルギーだけじゃ無理との意見は、おおむね原発推進派の言いそうなセリフである。もちろん専門的な議論をしたら大変なことになるわけだが、わたくしなりの見解を書いておこうと思う。

再生可能エネルギーはいわゆる自然エネルギーのことだろう。これは蓄電技術の飛躍的進歩で相当の活用が見込まれる。例えば太陽光は天気が悪ければオシマイだった。けれども天気の良い時にたくさん発電してそれを貯めておくことができれば、ほぼ問題はクリアしたことになるはずである。そもそも携帯電話にしてもあるいは電気自動車にしても、蓄電技術の進歩が実用化に拍車を掛けたのだ。同様の意味で、自然エネルギーも蓄電池の問題がクリアできれば、今すぐにでも主力の電源になり得る存在なのである。

それから昨年だったろうか、電力の自由化が実現した。今までは地域独占だったので、我々は電力会社を選べなかった。けれども今は好きなところから電気の供給を受けることができるのだ。

そして本年四月からはガスも自由化された。

そこで興味深いことは、なんと電力会社がガス業界に新規参入してきたのである。電力会社は電気を売っているわけだが、同時にガスも売るようになった。実に不思議な話である。

けれども話はわりと単純なのである。

電力会社は電気を売っているわけだが、その主力の発電方法こそがガス発電なのである。ゆえにガスは売るほどあるのだ。逆にガス会社が電力供給事業に新規参入してきたのもまったく同じ理屈で、もともとガスをたくさん持っているわけだから、発電機さえ設置すればいつでも発電が可能なのである。

つまり、日本の電力供給の主役は天然ガスによる火力発電であって、原子力発電などはまったく太刀打ちできないレベルなのである。しかも事故のリスクが甚大と来れば、メリットはないに等しいだろう。実に単純明快な理屈だ。

さて、今度は沖浦氏であるが、これはもう終わっている話である。

昨年の春頃、一大秘法の議論があった。そこで沖浦氏の敗北が確定した。もちろん負け嫌いの沖浦氏はそれを認めないわけだが、まあ、客観的には終わっていると考えて差し支えないだろう。
それがなぜか今頃になって再戦を挑んできた。まあ、それはそれで構わない。一年間の研鑽の成果を出せばいいわけで、こちらを唸らせるような内容ならば再戦に応じてもいいだろう。
ところがである。内容的にはまったく進歩がなくて、ただひたすら自説に執着しているだけに見える。これでは話にならないだろう。

強いて言えば、今回は関西の古参幹部たちの証言(?)を持ち出してきた。

しかし、いかがなものだろうかと思う。関西はもともと創価学会員の多い地域であり、おそらくは沖浦氏にとって甚だ不利な証言も出ないとは限らないのである。それが出てきたらどうするのかと思う。

いずれにしてもである。古参幹部たちの証言などはまったく当てにならない話であって、大袈裟な言い方をすれば証拠能力ゼロと言ってもいいくらいである。

この場合、もっとも証拠能力の高いものは、文献上の証拠だろう。

沖浦氏は原田会長の発言を引用しているわけだが、いわばそれが今現在の創価学会の公式見解に相当することなる。そして過去の創価学会の書籍に載る教義上の見解が今のそれと異なるのであれば、これは創価学会そのものが変節したことの証拠であり、逆に一致しているのであれば一貫不変であることの証拠となるわけだ。沖浦氏はこうした文献上の証拠ではなく、古参幹部たちの証言なるものを持ち出して自説の正当性を主張している。すでにこの時点で終わっていることに気がつかねばなるまいと思う。

さて、顕正新聞第1408号から少し話題を拾ってみたい。

 先日も「北朝鮮のミサイルについての注意喚起」なるものが政府から出されましたが、このようなことは戦後七〇年なかったことであり・・・

わたくしはこれを知らなかった。そのような話があったことは少し遅れて知ったけれども、具体的にどのような媒体を通して注意喚起がなされたものか、今もよくわかっていない。ということは次にそのような広報があっても知らずに過ごすことになるかもしれない。

しかもである。もしそれを知ったところでどうなるものでもあるまいというのが本音である。まさかかつての空襲警報発令の時のように、そのたびに防空壕に入るわけにも行かないだろう。

そうそう、登壇者は副総男子部長であるが、彼の言いたいことは、いよいよ他国来難が事実となりつつある、というような感じである。もちろん北朝鮮問題を軽視してはいけない。けれども顕正会がそれを言ったところで、どれほどの影響力があるだろうか、というのがわたくしの正直な感想である。

中部大会後、先生は直ちに国家諫暁

これは婦人部富士宮支区部長の記事に付けられた見出しであるが、本文を読んでも何のことだかさっぱりわからない。たぶん四月度総幹部会において安倍首相に辞任を迫ったことを言っているのだろう。さらにそれを特集号として国会議員など全国三万箇所に発送することを国家諫暁だと言いたいのかもしれないが、はたしてそれが本当の国家諫暁なのだろうかと疑問に思うところである。もしそうならば、数年後に開始されるであろう本格的な一国諫暁においては、いったい何をどのように行なうつもりなのかが気になるところである。正直なところ、浅井先生にその秘策があるとは思えないのだが、いかがだろうか?

当日も貸し切ったバスの運転手にも声をかけて結集を叶える等・・・

結集の戦いがいかに熾烈かを物語る話だと思う。もし中部大会の結集が大結集で超満員の状態ならば、運転手には声を掛けないだろう。おそらく貸切バスの運転手は乗客が戻ってくるまでヒマだし、しかも顕正会の大会は時間がベラボウに長いので、そうやって誘えばヒマつぶしになるので参加する人が多いに違いない。

もちろんそれがダメだとは言わないが、ともかく結集が大変だったことは事実なのだろう。その証拠となる記述が婦人部兵庫支区総班長の記事に出てくるのだ。

一万人中部大会には鳥取から総勢三一名が参加・・・

これは婦人部の兵庫支区が把握している人数であって、総勢とはその意味だと思われる。ゆえに他の組織の人数は不明であるが、ともかく中部大会という名目にもかかわらず、こうして遠隔地からもたくさんの人が参加したことが窺えるわけである。

以上、二百万達成の暁に行なわれる一国諫暁において、はたして秘策があるのかどうかという心配と同時に、地方大会という名の全国大会による活動会員たちの疲弊が相俟って、惨憺たる結果が待っているのではないかという危惧が、わたくしの脳裏に去来してやまないのである。

2017/6/12

微々たる影響力  
沖浦氏の一大秘法論は一年前に破折済みである。その一例を紹介しておこう。

http://white.ap.teacup.com/ganko/2215.html

もっともこれは沖浦氏一人の責任ではなく、創価学会首脳部の責任だろう。ようするに近年の教義改変によって、あちこちに矛盾が生じて来ているのだ。迷走しているとも言えるかもしれない。思えば公明党もしかりである。いわば内側から安倍政権の暴走に歯止めを掛ける、それが公明党の役割のはずだろう。しかし、現実にはほとんど何もしていないに等しい。創価学会にしても公明党にしても、いったいどこに向かって進んでいるのか、それが実に不明瞭である。

安倍政権崩壊をこれほど前面に押し出すのは、地震などの自然災害よりも「的中率の高い予言」だからではないでしょうか?

あべしん氏のコメントであるが、的中率の意味ではすでに外してしまっているとわたくしは思う。先日も書いたように、浅井先生は三年前に安倍政権の崩壊を予言していた。三年未満で崩壊すると言っていたのだ。ゆえに予言は外れたのだ。

ただし、多少のズレはあっても本年中くらいに現政権が終われば、当たらずとも遠からずとは言えるのかもしれない。実際、森友問題以降は次々に問題が発覚して、ここに来てようやく国民も安倍政権に対して愛想を尽かし始めたような流れになりつつある。

けれども以前にも書いたように、安倍政権は今の段階でも十分に長期政権なので、仮に今すぐに辞めたとしても別におかしくはないだろう。もちろん、その辞め方が問題になるわけで、本当ならばさまざまの疑惑を完全に払拭し、かつまたアベノミクスの成果などを強調した上で、次の人に禅譲するような格好を取れば、いちおうパフォーマンス的には見事な退き際と言えるだろう。いわば、その辺の着地の仕方が問われているのだと思う。

自然災害よりも的中率が高い・・・

実はこれ、物凄く大事な視点であり、大聖人の御予言にも当てはまる議論なのだと思う。いわゆる三災七難の内の自他の二難は他の五難と大きく性格が異なる。まさに五難は自然災害などにカテゴライズされるものであり、残るところの二難はいわば政治的な問題である。自界叛逆難は国内政治であり、他国侵逼難は国際政治の問題である。

しかし、わたくしの思うに、むしろ的中率の意味では五難よりも二難のほうが遥かに当たらない。それは科学が発達すればするほど、顕著のように思えるところである。

今の気象情報は相当に正確である。科学の進歩によるのだろう。自然科学はもちろん未知の部分もあるけれども、相当の部分が解明されてきて、まさに気象情報などは相当の的中率を誇っているのではないかと思われる。では逆に、人文科学的な範疇に属するであろう政治経済はどうかと考えるに、実はこちらのほうが複雑怪奇であって、誰にもわからない。ゆえに当てるのが難しいのだ。

そんなわけで浅井先生の予言は当たらない。政権崩壊もしかり国家破産もしかりである。ましてや外国が攻めてくることなど、国際情勢に詳しい人でもわからない。最終的にはその国の指導者がゴーサインを出すか否かなのだから、そんなことがわかる人はおるまい。他人の心の中までわかる人はいないのである。

逆に言うと、大聖人の御予言的中の価値はそこにあるわけだ。仮に五難を当てたとしても、自然科学の発達した今日から見れば、甚だ幼稚な当て事のように思えてしまうわけで、大聖人の御予言がそのレベルに過ぎないのであれば、もはや信ずるに値しないだろう。実際はそうではなく、先難たる五難ではなく、後災たる二難を御予言せられ、かつまた的中せられたわけだから、これがどれほど凄いことなのかと改めて思いを深くするところである。

当然ながら、御本仏たる大聖人と、凡夫に過ぎない浅井先生との、歴然たる差である。

確かに安倍首相はどうなるかわかりませんが、浅井会長が自然災害の予言をやめたら、今度は何らかの大災害が起きるかもしれませんね。

イヤミな発言であるが、3.11の例があるので要注意だ。

浅井先生はあの大地震を予言し損なってしまったのである。何度も書いていることだが、当時はネット上で浅井先生の予言癖を批判する人がたくさんいた。大地震の予言を繰り返しているが、まったく当たらないと。それを気にしたものか、浅井先生は一頃、地震に関する予言めいた発言を控えていたフシがあるのだ。幸か不幸か、そのタイミングであの大地震が起きたのだった。実に皮肉な話である。

ところで大沢氏は国立戒壇についての戸田城聖氏の文章を紹介して下さった。

顕正会員は顕正会の書籍に載るその手の文証はよく知っているが、逆に言うと、それ以外の文証は知らない。わたくしもわりと不勉強なほうなので、ご紹介の文証は初めて拝見した。ここでは詳述しないが、もちろん顕正会でもそうした批判は百も承知していて、だからこそ近年は盛んに六千万を云々しているわけである。しかしながら現実が伴っていない。近く達成されるであろう二百万にしても、しょせんは名目上の数字に過ぎないわけだから、まったく話にならないレベルなのである。

ひるがえって、近く安倍政権が崩壊したとしても、だからどうなるわけでもあるまいというのが現実だろう。つまり、顕正会が存在しようがしまいが、いずれは安倍政権も終わるのである。残念ながら影響力の意味では、それ程度の存在でしかないのが顕正会なのだ。

自然災害が起きるか否かを予言するのではなく、如何にして犠牲者の数を極力少なくするかという視点が、何より大切なのではないでしょうか。

もちろんマイケル氏のおっしゃる通りである。顕正会でも災害に備えて、いろいろとやっている。備えあれば憂いなし、ということだ。

当然、政府のやっていることも同じであり、反対の声が多かったのも事実であるが、安保法制なども理念としては国民の生命と財産を守るという大義名分で強行されたわけなのだろう。何事も賛否両論があるのは当然だが、では原発の再稼働はどうかという問題があって、わたくし的には反対を唱えざるを得ないところである。それこそ大事故が起これば取り返しがつかないことになる。これはもう予言とかの問題ではなく、事故は必ず起こるわけであり、その時の被害を考えたら原発はやらないに越したことはないのである。こんな簡単な理屈がなぜわからないのか不思議に思うのだが、いかがだろうか?

今日はこんなところで終わりにしたい。

2017/6/8

影響力の有無  
沖浦氏のコメントに聞き慣れない言葉が出てきた。

連持色心

何だこりゃと思った。氏のことだから、またしても誤変換をやらかしたのか思った。しかし、正解がまったくわからなかった。それでそのまま検索してみると、どうやら御義口伝に出てくる言葉のようだった。大聖人の御書では唯一のワードである。しかも平成新編では「連持する色心」と表記しているので、四字熟語として考えた場合、御書には存在しないことになるのだ。いずれにしても難しい言葉であり、わたくしには意味がわからなかった。

さて、本題に入ろう。

セロリ氏のブログを拝見するまでまったく気にも留めなかったことがある。それは折伏法戦の成果のことである。本年の初陣は三万有余の大折伏がなされたと報じられている。

ところがどうしたことか、その内訳がどこにも記されていないのだ。

これは顕正会始まって以来、初めてのことではあるまいか?

善意に解釈すれば、当該号はいわゆる特集号として大量配布を前提に組まれているので、一般人にそうした数字の詳細を見せても意味がないから省略した、とも考えられる。しかし、その場合には翌号あたりに掲載するべきだが、それもないのである。実におかしな話だ。

もはやこうなると、粉飾のやりたい放題である。三万人が入信した。五万人が入信した。十万人が入信した。いくらでも言えてしまうのだ。

いや、もちろん、顕正会の内情は活動会員たちがいちばんよくわかっているので、あまりにも数字がデカ過ぎると、不審に思うはずである。つまり、インチキはできない。そんなマヤカシは通用しないし、たとえ一時的に通用しても、いずれはバレるだろう。

そういうわけで次の法戦が注目である。七月度総幹部会を報ずる新聞で、折伏成果の詳細をどのように書くか、今から注目しておきたいと思う。

前回の拙稿で、幹部たちが口々に安倍政権の崩壊を云々していると書いた。顕正新聞第1408号はまさにそのオンパレードである。

「安倍首相の辞任のときも近い」

謗法の安倍政権が近く崩壊すること・・・

大謗法内閣「安倍一強政権」が、一気に辞任・崩壊へと追い込まれる展開・・・

「安倍一強内閣」はここに音を立てて崩壊・・・

大謗法・安倍独裁政権がいよいよ亡びの時を迎えた


前回の繰り返しになって恐縮だが、顕正会の場合はその後のシナリオが不明なのである。安倍さんが辞めても次の人が顕正会のメガネに適うわけではない。しょせん誰がなっても同じことなのだ。

先生の卓抜のご見識・・・

出た。幹部たちの得意のセリフである。しかも誰が言っているのかと思えば、これは総男子部長の発言なのである。もちろん浅井先生の言っていることも、なかなかどうして中身の濃い話が多くて、決して無意味ではない。しかし、前述の話に戻って言えば、しょせんはダメ出しをしているに過ぎないのである。誰が首相になってもダメ出しをする、それが浅井先生なのである。

さて、第二十婦人部長の記事は前回紹介した折込広告のアイデアである。

組長は地元・山陽新聞の販売店にカラー広告の趣旨を伝えた上で、折り込み広告として挿入してもらう交渉をしました。

前回は男子部の隊長だった。今回は婦人部の組長が行なったことである。顕正会の中でこうしたアイデアが共有されているのか、それとも別々のところで自然発生的に同じアイデアが出てきたのか、その辺が気になるところではある。

 第二十婦人部が直接先生にお応えできる「今生最後の大会」・・・

近年、似たような発言を繰り返し引用してきた。ようするに、彼女のつもりとしては広宣流布が眼前であって、広宣流布の御奉公としてはこれが最後の大会になる、という意味なのだろう。しかし、甚だ不謹慎ながらも浅井先生の年齢的な意味からして、先生を中国・四国地方にお迎えするのはこれが最後になる、という意味に解するのが一般である。おそらくは幹部たちも内心ではそのようなことを思っているのだろう。

次は女子部総務の発言である。

仏法上の大悪から御遺命を死守せられた先生が、いま一国の大悪をも見抜かれ、連々と諫暁に立たれるご雄姿を拝見しては・・・

ひじょうに見栄えのいい文章である。しかし、実際はどうか、そこが疑問である。

御遺命守護の戦いは確かに意味のあることだった。強大なる創価学会を相手に弱小の妙信講が戦いを挑んだ。普通なら歯牙にも掛けない、ようは黙殺されてもおかしくなかった。けれども実際は創価学会の大幹部と浅井先生の間で何度も話し合いが持たれたのである。

では、今の一国を相手にした戦いはどうか、である。

残念ながら相手にされていない。黙殺どころの話ではなく、最初から眼中にない。これが実際ではないだろうか?
公安が調べていたのは事実だろう。しかし、それにしても顕正会だけを調べていたわけではなく、ありとあらゆる団体を調べている中での一つに過ぎないというのが実際のはずだ。
つまり、御遺命守護の戦いに比して、今の戦いは自分たちが思っているほど大仰なものではなく、実際には大した影響力を持っていないのである。

実は幹部たちもそのことは承知しているわけなのだろう。ゆえに二百万を早める戦いをしているわけだ。人数が物を言うわけである。

しかし、これまた何度も言っていることだが、顕正会の公称会員数はまったく信用できない。いわば粉飾の数字に他ならないのである。そのような数字を積み上げても意味はない。幹部たちもそれはわかっているはずである。

そこで冒頭の話に戻るのである。

折伏成果の内訳を公表できないようではオシマイだ。一つひとつの折伏は真面目なものであり、活動会員たちには何の罪もない。マレにはインチキをする人もいるのかもしれないが、それはまた別の議論である。問題はなぜに内訳を公表できないのかである。ようするにこれは本部首脳がインチキをしているか、もしくはインチキを認めてしまっているからだろう。それが成果に如実にあらわれてしまっていて誤魔化しようがない。だから公表できないのだ。

もちろん上述はわたくしの勝手な想像である。本当の理由はわからない。その意味で次の法戦の成果が注目されるわけである。

2017/6/7

ダメ出し最前線  
沖浦氏の縦線・横線のご教示はさておき、近況を伝えるコメントには驚いた。昨日は関東、今日は北陸と。文字通りの東奔西走だ。しかも電話が一日五十本と。これまた驚異的である。くれぐれも健康には留意して、かつまた交通事故などにも気をつけて、ご活躍を続けられることを念願するものである。

 諸天が動いている以上、安倍政権の崩壊は時間の問題・・・

先生のご一念に呼応した諸天の鉄槌・・・


新任の男子部総務の発言である。彼だけが突出して凄いことを言っているわけではなく、顕正会の幹部たちの大半が同じようなことを言っている。そこでわたくしが思ったことは、ポスト安倍政権である。

野党が安倍政権を攻撃するのは、最終的には政権交代を目論んでのことである。多くの市民運動家たちも考え方は一緒で、単に安倍首相が退陣すればそれでいいわけではなく、新たな政権の枠組みのようなものを模索するというか、それぞれがそうした青写真を持っているわけである。

では顕正会の場合はどうかであるが、どうもそうした具体的なシナリオは何もなく、ただ単に安倍政権の打倒を叫んでいるような感じが否めない。最終的には国立戒壇の建立を目指している。そんなことはわかり切っている。しかし、今の段階ではあまりにも飛躍が過ぎることであって、そこに至るためのシナリオがどうなっているのか、そこがまるで不明なのである。

結局、誰が首相になっても浅井先生から見れば不満なのである。ゆえに必ずイチャモンを付ける。しょせんはこの繰り返しなのだ。

現状、安倍政権がいつまで続くかわからないが、もし仮に安倍首相が退陣したとしても今のままでは自民党の誰かが次の首相をやるわけだろう。それでは何も変わらないのである。
さりとて政権交代が実現して、今の野党の人たちの中から誰かが首相になったとしても、浅井先生はそれを是とはしないだろう。
だったらどうしたいのか、である。その具体的な青写真がまるで見えて来ない。しょせんは行き当たりばったり、これが浅井先生の正体ではあるまいかと思う。

「大聖人様が戒壇の大御本尊様を御建立あそばした身延が、清浄なお山に戻るのも眼前」

女子部総務はたくさんいるので誰が誰だかわからない。いちおう上掲の発言者は山梨・静岡方面を担当している女子部総務である。

しかし、上掲にしても具体的な青写真が不明である。日蓮正宗の立場から言うならば、日興上人が身延を離れられてから今日までの七百有余年は、身延はいわば不浄の地になるわけだろう。これがもし清浄化されるとすれば、これはもう宗門七百有余年の歴史の中で空前の偉業となるはずだ。では、具体的に何がどのようになれば清浄と言えるのか、それがまったく見えて来ないのである。

 その中、以前は、けんもほろろな対応ばかりだったのが、昨今は「こんな暗い所までよく来てくれた」とカラー広告を快く受け取ったり・・・

なるほど、訪問折伏ないし配布活動における人々の反応が変ってきたことを彼女は実感しているわけだ。しかし、それはあくまで清浄化の第一歩であって、まだまだ眼前とは言い難いだろう。

暗い所・・・

再掲であるが、この表現が興味深かった。この地域での方言のようなものなのだろうか?

「中部大会が終われば、先生が次に静岡に来られるのは、国立戒壇建立のその日なのだ」

本気でそう思っているのか、単なるハッタリなのか、そこがよくわからないところである。

男子部第三十七隊長の記事には次のごとく書かれている。

もう間もなく国民の総意で仏法を根底に憲法が改正されること、また本化国主が皇室に御出現されること、何より二〇二〇年代には明治維新とは比較にならない信仰革命が起きること・・・

確かに希望的観測だけで言えば、ギリギリ間に合うのかもしれない。しかし、それは物凄く楽観主義というか、都合よく考え過ぎであることは否めないだろう。
筋論からすれば、浅井先生が次に静岡を訪れるのは宗門との和解の時だろう。順番的にもそうでなければおかしい。しかし、和解は絶望的である。
つまり、顕正会の幹部たちはそうした現実を無視して、ただひたすら夢想にふけっているだけなのだ。

具体性の意味では男子部第十七隊長の記事が興味深かった。彼は新聞の折込広告に目をつけたのだ。

もしこれが実現できれば、日本国中にカラー広告を配達できると思い、さっそく販売店に打診いたしました。

ようするに販売店に頼んで例のカラー広告を新聞に折り込んでもらうわけである。地方紙は広告を掲載してくれたものの、なぜか全国紙は広告の掲載を拒否しているらしい。しかし、新聞の折込広告は販売店の裁量に任せられているらしく、そこに折り込んでもらえれば全国紙の紙面には広告が載らないにしても、全国紙と一緒に配達してもらえるわけである。

なかなか考えたものだ。

ただし、当然ながら費用が発生するはずである。その費用を誰が持つかが問題だ。顕正会本部が持つのであれば問題はない。しかし、そうではなくて、活動会員たちが自腹を切るということであれば、それは問題だろう。

わたくしの思うに、新聞広告にしても折込広告にしても、その効果はきわめて小さい。新聞を一字一句隈なく読む人は少ない。ましてや広告をやである。また、折込広告にしても、主婦感覚で言えばスーパーの安売りの広告には目が釘付けになるけれども、その他の種々雑多の広告にはほとんど目もくれないのが普通だろう。失礼ながら例のカラー広告はそうした種々雑多な広告の一つに過ぎないのだ。

今日も嫌われるようなことを書いてしまったようだ。


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