2017/7/30

オリコミズミノマンネリカ  
マイケル氏のお書きになっていることは、旧皇族出身の竹田恒泰氏あたりが主張していることだと思う。わたくし自身は今現在、どっち付かずの立場であるが、問題は国民の賛意を得られるかどうかだろう。今さら旧皇族がしゃしゃり出てきてどうするのか、というような冷たい意見も少なくない中で、はたしてどこまでの合意形成ができるか、ちょっと目には相当の困難が伴うように見える。もちろん、マイケル氏のおっしゃるように、選択肢の一つであることは間違いないのだろうけれども、それにしても難しい問題である。

前川氏の捨身の行動に大衝撃・大感動
 諸天の働きを確信 仏法は生きている!


男子部第百二十隊支隊副長は厚生労働省の職員だそうである。それを特集号の掲載記事として発表している彼は捨身の覚悟なのだろう。

しかし、前川氏の場合は少し事情が異なる。

例えば官僚出身で反安倍の急先鋒的存在の一人として、古賀茂明氏の名前が挙げられると思う。彼はすでに官僚時代から体制批判を行なっていたそうだが、今となってはもはや怖いものなしであり、何でも言いたい放題の状態である。

では、前川氏はどうなのかであるが、彼の場合は官僚を辞めてからである。その意味では捨身の行動とは言えないだろう。もし現役のトップ官僚の立場で今のようなことができたならば、それこそ捨身であり、あるいは部下たちも命懸けで支えたかもしれない。

この点、副長は少し誤解しているようである。

 これら一連の動きこそ、先生のご発言に呼応する諸天の働きと確信・・・

厚労省の上司に目をつけられないようにと祈るばかりである。もっとも、オマエには祈られたくないよ、と言われそうだが・・・

八丈島にも日蓮大聖人の大恩徳 輝く
 新聞販売店の好意で常識覆す折込み


基礎教学書の新聞広告の話である。くだんの広告は地方紙の多くが掲載に踏み切ったものの、全国紙は冷たい対応に終始しているらしい。そこで現場の活動会員たちは折込広告という新手の方法を編み出した。これならば新聞販売店の一存で決められるらしく、八丈島においてもそれが実行されたわけだ。しかも販売店の人がひじょうに親切で、効果が十分に発揮されるような折込方法を考案し、かつ実行してくれたという。

 「日蓮大聖人の仏法」との美しい標題と、立正安国論の御真蹟と、浅井先生のお写真を前面にした、二つ折りの広告カラーコピーの中に新聞が入っていて、すべての人が、広告文を見なければ新聞を開いて読むことができないという大胆な発想で(大笑)、まさに広告カラーコピーで新聞を挟んだ「折り込み新聞」となっていたのでした(爆笑)。

少し長い引用で恐縮だが、これは文字通りの逆転の発想である。ただし、これを新聞社が知ったならば、ただでは済まないだろう。あくまで新聞が主であり、広告は従だからである。

そうそう、登壇者のことを書いていなかった。

彼女は婦人部久喜支区組長であるが、なんと昭和三十九年からの妙信講員なのである。夫の仕事の関係で、八年前に八丈島に移住したという。

縁もゆかりもない八丈島で、入信よりお守りしている御本尊様を杖・柱として、御奉公に励んでおります。

興味本位で恐縮だが、わたくしはその御本尊をぜひとも拝見してみたいと思う。あるいは他の古参の妙信講員宅の御本尊もしかりである。

というのは近年、顕正会の会館安置の御本尊について、ニセモノであるとの指摘が喧しいからである。それも従来は日布上人の御本尊についてだったが、最近は日寛上人の御本尊についても疑惑が取り沙汰されているようなのである。

これはユユシキ問題だろう。

ただし、何の根拠もなく疑うのはよくない。ゆえに原本というか、もともと昭和三十年代に広く下附されていた本物の御本尊を拝見して、その上で今現在、顕正会で出回っている御本尊を見てどのように感じるかという順序を踏まないことには、話にならないと思うのだ。

いや、もちろん、今となっては検証の難しい問題であり、もはや不可能かもしれない。まさか妙信講員宅に見せて下さいと言いに行っても見せてはくれないだろうし、今のわたくしは会館に行くことも憚られる立場である。

そんなわけで、わたくしとしては今後も顕正新聞をベースにああだこうだと論じるしか選択肢がなく、その意味ではすでに相当のマンネリ化を来しているという現実も否定できないだろう。我ながら何をやっているのかと思う。

2017/7/29

ウラシマジョウタイ  
わずか四日ばかりの間に、たくさんのコメントが寄せられ、正直なところ読むのも億劫な状態だ。まるで浦島太郎の気分である。そういうわけでコメントのすべてをすっ飛ばして、顕正新聞の続きを読んで行きたい。

先生の仏法上のご発言に即座に呼応する諸天の働き・・・

拙ブログの愛読者ならば、お馴染みのフレーズだろう。今回も同様のセリフがたくさん出てくる。ご覧の発言者は第十八男子部長だ。

そして続きには四月度総幹部会の翌日、今村復興大臣が辞任に追い込まれたことを云々するくだりがある。あの発言は確かに失言ではあるが、わたくしの率直な印象を書くと、まあ、誰もが同じ発言をしそうなくらい、話の流れ的には自然だったと思う。比較検討は難しいにしても、もっと過激な発言をしていながらも、図々しくもその地位に居座るような人物も過去には存在した。また、ここに来て、防衛大臣の辞任が決まったようであるが、彼女などはとっくの昔に更迭されてもおかしくなかった。一種のエコヒイキのような感じで、今までその地位にいられたのだという印象が拭えないところだ。

 思えば、昭和四十九年、死罪に等しい解散処分が下された折・・・

この後がベラボウに長いので省略したが、ようするに解散処分の折に浅井先生が言っていたことは、当時は誰にも信じられなかったけれども後には事実になった、と言っているわけである。

すべて不可能を可能とされている・・・

ゆえに今までは宗門の中で起きたことだったが、これからは国家レベルで不可能を可能とする浅井先生の戦いが展開されるのだ、と彼は言いたいらしいのである。

コメント欄で誰かが指摘していたように、そもそも安倍首相に対する辞任要求は大聖人の御振る舞いとは異なるのではないか、大聖人は幕府の要人に対して辞任を要求するようなことはしていない、というのはなるほどである。

単純に言うと、帰依を求めるべきなのだろう。顕正会へ入信せよ、と迫るべきなのだ。しかし、現時点でそれは相当に困難なことである。それに比べて辞任要求はわりと簡単なことであるが、さりとて単に辞めただけでは何も変わらない。

翻って宗門の事例がそれをよくあらわしている。

つまり、顕正会は日顕上人に退座を求めた。それは結果的に実現した。けれどもその後の状況を考えると、結局は何も変わらないわけである。

第十八男子部長にはそれがわからないのだろうか?

先生の諫暁に即座に感応する諸天の働き・・・

今度は女子部総務だ。まったくどいつもこいつも同じことを言いやがって、と思う。けれども彼女の発言の中に、ちょっと懐かしい事例が含まれているので、紹介しておこう。

正本堂の崩壊、阿部日顕の退座、女系天皇問題の解消のごとく、先生のお命かけた諫暁の師子吼に諸天が動き、安倍政権も崩壊すると大確信し・・・

女系天皇問題の解消が懐かしい。

しかし、これもずいぶんと手前ミソの話である。女系天皇問題において浅井先生がどれだけの役割りを果たしたのだろうか?

しかもこの問題は完全に解消したわけではない。次世代の皇統を継ぐべき男子がたった一人しか存在しないという事実をどうするかである。誠に不謹慎な発言とは思うものの、その一人が万々一のこと事故や病気でどうにかなってしまったら、そこで皇統は断絶するのだ。

そういうわけで、女系天皇問題は一時的に保留となっているものの、いずれは再燃するだろうし、日本人にとっては避けては通れない重要な問題である。

最後決着の時を迎えての歴史の必然・・・

同じく女子部総務の発言から拾った。これは神の国問題を言っているわけだが、しかし、これまた手前ミソというか自分勝手な結論に過ぎない。

以前、国立戒壇を建てるか建てないかで国論を二分する時が来る、という意味のことが言われていた。それこそが最後決着の時だろう。それが今は神の国とするか仏の国とするかの議論にスライドしているわけだが、それにしても現状では国論を二分するほどの大きな議論が起きているとはとうてい言えない。それで最後決着の時を云々するのはどうかと思う。

つまり、言っていることの内容・方向性は、確かに大筋では一貫しているのだろうけれども、しかし、現実を踏まえて考えた時には、まるで当てはまらないのだ。

女子部総務にはその自覚がないのだろうか?

今日は次で終わりにしよう。

「森友騒動の渦中より正義にめざめて」

籠池前理事長の次男だそうである。彼は昨年五月、日本会議の講演会の会場で女子部の総班長と知り合い、入信した。ようするに男性女子部員である。ゆえに顕正会での役職はない。

ちなみに顕正会の女子部員が日本会議の講演会に行くのは、おそらくは折伏の対象者を求めてのことだろう。原発事故後には各地の反原発運動の講演会にも女子部員が潜入していたという前例がある。しかし、そうして入信した籠池さんもすぐに未活動になってしまったようだ。

それがここに来て、顕正会の総幹部会で登壇するとは、大変貌である。

しかし、ある意味では自然な流れなのかもしれないと思う。

ようするに、いつも言っているように浅井先生の講演はわかりやすいのだ。ゆえにここ一連の特集号を読めば、森友問題のことがよくわかる。しかも浅井先生は籠池前理事長に同情的である。次男は両親と不和だったようだが、さりとて今の状況からすればどうにかして両親を守りたいと思うのが自然の感情だろう。その意味からしても、浅井先生の講演は心強いものがあるのだ。

そういうわけで、ここに来て未活動から一気に活動家へと変貌した。

わたくしは面白いと思う。この先、もし籠池さんの両親が顕正会に入信して、それこそ総幹部会で登壇でもしようものならば、あらゆる意味で変ってくるだろう。あるいは加計問題における文科省の前事務次官が顕正会に入信すれば、これも凄いことだろう。少なくとも顕正会員的には願ってもない展開である。

ただし、しょせんは取らぬ狸の皮算用である。

当面は籠池さんが男性女子部員を脱皮できるかである。すなわち男子部への移籍である。そこでようやく組長になれるのだ。さらに班長になり、副長になり、支隊長になる。そこまで行けば御の字だろう。

しかし、幸か不幸か、そういうちょっとした目玉的な人物も、顕正会ではたいていが途中で消えて行く運命にある。悲しいながらもそれが現実なのである。

それからもう一つ、タイトルに正義にめざめてと書かれているのがちょっとした注目点である。

主には日蓮正宗ないし創価学会から、そしてマレには一般の日蓮宗系からの移籍者、つまり、大聖人の仏法を正しく実践しているのは顕正会だけという意味から、日蓮関係の他の組織から移籍してくる場合のタイトルが「正義にめざめて」なのである。ゆえに今回のタイトルは異例中の異例だろう。

2017/7/24

サンドメノショウジキ  
沖浦氏が登場すると、コメント欄が賑やかになる。相変わらずの人気者だ。そうした中で、わたくしはあくまでマイペースを貫く。今回は顕正新聞第1413号に参ろう。

「安倍独裁政権退陣要求・特集号3」

六月度総幹部会の特集号にはご覧のようなタイトルが付けられている。あえてアゲアシ取りをするならば、これには第一弾と第二弾が存在するはずなのだが、存在しない。つまり、普通は同一タイトルに対して数字を1、2、3と振るはずなのだ。ところが実際はそうなっていない。参考までに1と2に該当するであろう号のタイトルを掲げておこう。

「安倍首相辞任要求」特集号

「安倍首相辞任要求・特集号」2


これもよく見ればカギカッコの括り方が統一されていない。何だろうね、この行き当たりばったりは・・・

いや、もちろん、最初に書いたようにこれはアゲアシ取りであって、まあ、誰が読んでもこれら三号分がシリーズ化されているのは一目瞭然だ。

そして浅井先生の主張も一貫性があって、しかも一般人が読んでもよくわかる内容なので、確かに特集号としての価値はあると思う。

 安倍首相が頼みとしてきた内閣支持率も大きく下がって来ましたね。

当該講演は六月二十六日に行なわれたものである。その段階で三十パーセント台から四十パーセント台、もう少し詳しく書くと毎日新聞が三十六パーセントで最低、最高は読売新聞の四十九パーセントだった。

そして一ヶ月後の最新調査では、なんと毎日新聞が二十六%という数字を出している。これはもう、かなり厳しい数字である。

イヤミな書き方だが、めずらしく浅井先生的には願ったり叶ったりの状況になりつつあるようだ。そしてわたくしの勝手な想像を言えば、もはや支持率の回復は望めない。いわゆるレームダック状態になりつつあるのだろう。昔から盛者必衰の理という言葉もあるくらいだから、別に不思議なことではないのである。

 この加計学園には、今治市の獣医学部新設以前にも、千葉県銚子市に同学園系列の「千葉科学大学」を開設する際、何と440億円にものぼる巨額の血税が注ぎ込まれているのです。

これはあまり報道されていないような気がするのだが、ただ単にわたくしのアンテナの張り方が足りないだけなのだろうか?

こういうところに特集号の価値があると思う。一般人の多くはただ漫然とニュース報道を眺めているだけである。しかも情報洪水の中にいると何が重要な報道なのかわからなくなる。ゆえにそのまま見過ごされてしまう情報も少なくないのである。その意味で上掲のような記述はひじょうに価値がある。

 「文科省文書の再調査は不要」と言い張る菅官房長官に対して、東京新聞の望月衣塑子記者が記者会見で食い下がった。

・・・まさに東京新聞・望月衣塑子記者の手柄です。


興味深い記述である。昔ならばオンナダテラに云々かんぬんという言い方もあったが、今はまったく関係ないだろう。しかもネットの時代であるからして、昔ならばなかなか表面化しない記者会見での応酬が手に取るようにわかるわけだ。

それにしても浅井先生が他人をここまで持ち上げるのはめずらしい。

ちなみに七年前の今頃だろうか、浅井先生は反原発の立場を旗幟鮮明に掲げた。そしてご存知の人も多いかと思うが、東京新聞は一貫して反原発の論陣を張っている。その意味で両者は親和性が高いとも言えるだろう。

さらに余談を続けると、かつての浅井先生は産経新聞と近しい関係と思われていた。うろ覚えながらも、何かの折に産経新聞を高く評価するような発言をしていたこともあったはずである。ところがである。これには明確なターニングポイントがあって、いつぞやの逮捕事件の時に産経新聞は顕正会のことをけっこうボロクソに書いたらしいのである。先生いわく、見損なった、と。このセリフもうろ覚えで書いているのでそこはご容赦願いたいが、ともかくこれを契機に浅井先生は産経新聞を快く思わなくなったのである。

その後、福島原発事故が起こり、浅井先生は反原発の方向性に進むわけだが、今日の激烈なる安倍政権批判と相俟って、傍目には右翼から左翼に転じたかのように思える。実際、そのように言う人もいるようだ。

しかし、わたくし自身はそういう見方をしていない。

いわゆる右翼だとか左翼、右傾化・左傾化の議論は、確かにわかりやすい話ではある。しかし、それはようするにレッテル貼りによるわかりやすさであって、実際にはそんな単純な話ではないだろう、安易なレッテル貼りは真実を見誤る危険がある、というのがわたくしの意見である。

たぶん浅井先生がこの場で意見を言うとしたら、自分は右でも左でもない、ど真ん中だ、ということになるだろう。実際、歴史認識の問題にしても、右の人と左の人では意見が異なるわけだが、浅井先生自身はどちらにも与しない、いわゆる独自の仏法史観に基づくわけである。

問題はそれが世間一般の人にどれほどの説得力を持つかだろう。なかなか難しいものがある。

條件

唐突な引用で恐縮だが、本文中の表記が気になったので、ここに掲げさせていただいた。何だろうね、この表記は? 普通に条件と書いちゃダメだったのだろうか?

二悪鼻を並べている・・・

今日はこれで終わりにするが、この表現は平成十六年の時にもよく使われていた。もちろん今とは内容が異なる。まあ、しかし、それを矛盾だとか自語相違だとか言うのは筋違いなのだろう。ようするに大枠で捉えれば同じことを言っているのである。今回は面倒臭いので具体的な文言の比較をしないけれども、基本的には同じことを言っていると見て差し支えないだろう。

2017/7/23

モチハモチヤ  
マイケル氏ご紹介のリンク先には、第八位に氷川神社と書かれている。これは顕正会本部の近くにあって、実はかつて浅井先生も言及したことがあるのだ。確か今の本部が建ってから、初めての元旦勤行を迎える時だった。神社に初詣に来る人たちとのトラブルを避けるためだろうか、顕正会員は最寄りの大宮公園駅ではなく、大宮駅から歩いて来るようにとのことだった。こうしてみると、浅井先生もずいぶん常識人のように思えるが、なぜか二年目からは特にそのようなお達しもなかったように記憶している。

2017/7/21 12:43
投稿者:素人
聖徳太子は居なかった、大聖人は御本仏ではない、御書は偽書だ、…という人にはどうすればいいでしょうか?


素人は素人らしく、わかりませんと答えればいい。このように書くと素人氏を冷たくあしらっているように感じる人もいるかもしれないが、かく言うわたくし自身がわからないことはわからないと正直に答えることにしているので、それ以上は返答のしようがないわけである。

ただし、上掲のような議論を吹っ掛けてくる人にしても、その大半がニワカ勉強であって、一から十まですべてを熟知しているわけではない。ゆえに、あまり深刻に考えることもないだろう。

さて、今日は顕正新聞第1412号の残りをやっつけてしまおう。

社会科の恩師、承久の乱の謎が解けた!
 「私も成仏したい」と大歓喜の入信


女子部第六十九区班長の記事に付けられた見出しである。そして次が本文中に出てくる恩師のセリフである。

 「臨終の話と、まさか『承久の乱』の話が聞けるなんて!私の専攻は社会だけど、謎が解き明かされた。浅井先生のご指導は本当に凄いね!有難う!」

ビデオ放映参加後の感想である。どうやら中部大会のビデオ放映らしいが、しかし、社会科の先生が浅井先生の講演を聴いて謎が解けたと思うものなのか、そこがちょっと腑に落ちないところである。今、中部大会の会長講演を確認して見たけれども、講演の全体的な分量からすればあくまでサワリを述べたに過ぎない。はたしてその程度で謎が解けてしまうものなのだろうか?

原発不要、ガスコンバインドサイクルで充分

男子部第八十五隊支隊長の記事の見出しである。彼は本年、大学を卒業し、就職した。具体的な社名は明かされていないが、どうやら発電関係の仕事のようである。それもこれも浅井先生の影響らしく、本文中には次のようなくだりがある。

 まさに次世代の妙法のエネルギーと実感しては、先生の卓抜のご見識に、圧倒されるばかりであります。

しかし、これはどうかと思う。なぜならば次世代エネルギーは何だかんだ太陽光や風力などではないかと思うからだ。ガス発電は次世代ではなく、むしろ現時点における主要な発電方法として、その立場を確立している。あとはどれだけ効率化を図れるかだろう。あたかも自動車の燃費向上のようなものである。しかし、効率化には限界がある。そこでまったく違った発電方法が模索されるわけなのだ。自然エネルギーは自然の気紛れで発電にムラがあって、そこが懸案の一つなのだが、今は発電の技術と同時に蓄電の技術も相当に進んでいる。おそらく蓄電の技術が飛躍的に進歩すれば、今の電力事情も革命的に変わるに違いない。

婦人部中予支区組長の記事を紹介しよう。

 そのとき先生より頂いた国家破産についての指導は、ニュースを見るよりも大へんわかり易く・・・

これについては肯定的に捉えたい。失礼ながら世の中には政治オンチ・経済オンチのご婦人も少なくない。そうしたレベルの人たちにとって、浅井先生の指導はわかり易さに定評があると言えるだろう。

翻って前掲の男子部員は、先生の古い常識に囚われてはいけないだろう。原発不要論そのものは大きく間違ってはいないものの、次世代の妙法のエネルギー云々がいかにも古臭いのだ。

36トンのクレーン車に轢かれ、生死彷徨う
 僅か十ヶ月で退院、示談金にも御守護


女子部第百九十区総班長は助かったこと自体が御守護である。ただし、わずか十ヶ月で退院というのがやや疑問で、わたくしの感覚からするとベラボウに長い入院期間に思えるところである。もっともそれほどの大事故だったということなのだろうが・・・

チェーンソーで左腕切断寸前の事故

この男子部第九十二隊支隊副長の記事も大事故は大事故なのだろうけれども、わたくしは本人に対して少し文句を言いたいところである。

 と申しますのは、私の作業はチェーンソーで木を切っていくという比較的簡単な作業でしたが・・・

オマエ、ナメてんのかよ、と言いたいところだ。

彼は水道関係の仕事をしているそうで、上掲の森林伐採の作業は何かの折にボランティアで行なったことらしいのだ。たぶん彼は配管屋なのだろう。水道管を繋いでいく工事業者であり、いわゆる職人さんである。水道管だとかガス管は水漏れやガス漏れがあったら困るので、それなりのスキルが要求される。当然、職人さんには自負がある。自分の仕事に自信を持っているわけだ。

その彼の目からすれば、木の伐採などはそれほど難しい仕事には思えなかったのだろう。それがナメているということなのだ。いわゆる餅は餅屋である。

結局、彼は事故の原因を信心を疎かにしたことだと思い、惰性の信心を改めたという。それで手術も成功し、驚異的な回復を見せるわけだが、それを功徳だとか御守護だとか言うのはわたくしの関知するところではない。

繰り返しになるが、問題は森林伐採の仕事を簡単な仕事だとする誤った認識である。これはもうナメているとしか言い様のないことで、彼の配管屋としてのスキルがどの程度であれ、職人としては未熟であることに気がつかないといけないのだ。ようするに自分の職人としての矜持と同時に、他職への敬意という一面を併せ持つ必要があることを知らなくてはいけない。実はこれ、案外に何年経っても何十年経ってもわからない人が多いという現実があるわけで、その意味では何も彼だけが未熟なわけではなく、早い話が皆んなが皆んな五十歩百歩なのである。

2017/7/19

キョコウトゲンソウ  
素人氏より重ねて質問を頂戴しているが、ちょっと意味の取れない部分もあるので、今日のところは割愛させていただくことにしたい。ともかく拙ブログは今後もずっと続けるつもりなので、別の機会を見つけてお答えできればと思う。

マイケル氏の質問は厄介である。結論は、わからない、である。

http://white.ap.teacup.com/ganko/130.html

リンク先はわりと短いので、ぜひともご覧になられたい。十年以上も前の拙稿であるが、今も結論は同じである。ようはさっぱりわからないのだ。

そもそもわたくしごときが十年やそこらで結論が出せるものならば、誰も苦労はしないだろう。むしろこの答えを知っている人がいるのであれば、ぜひとも教えていただきたいものである。

さて、顕正新聞の話題である。

共産党議員、宣伝車で先生の指導叫ぶ
 特集号と内容も順番も全く同じ!


第1412号であるが、まずは男子部第四十九隊長の記事の見出しをご覧いただいている。ようはどこぞの市会議員が浅井先生の講演をパクッて、宣伝カーの中から叫んでいたそうなのである。この辺の事実関係というか、事の真相はわからない。確かに顕正新聞は全国三万箇所に送付されていることだし、かつまた記事中には支隊副長が特集号を共産党市議に手渡したと書かれているので、それを参考にして街宣をしていた可能性は否定できない。しかし、そもそも浅井先生の講演にしても、各種のマスコミ情報を参考にしているわけだから、何とも言えないところではある。

それはともかく、わたくしは次の婦人部越谷支区班長の記事が気になった。

 「警視庁の前で新聞を配っていますよね?あの新聞に書いてある『基礎教学書』がほしいのですが、書店に問い合わせても置いてないので、一冊用意してもらえませんか」

よくわからんが、婦人部の中には官庁街での配布活動に熱心な組織があるらしい。彼女は二年前から毎週のように官庁街での配布を続けているらしく、いわば上掲はその成果の一つなのだろう。

しかし、おかしな話だ。なぜならば同新聞には上掲とは真逆の記事がいくつも存在するからである。

全国の書店も続々と平積みで基礎教学書を並べ・・・

女子部総務の発言である。他にも同様の記事が複数あるし、さらに別の号を調べれば、もっとたくさん存在するだろう。これは顕正会の欺瞞を象徴する典型的な例なのだ。

ちなみにこれについては一ヶ月以上も前に瑠璃堂氏が独自の調査を発表している。

http://kensho-nostalgia.blog.jp/archives/18153900.html

それほど難しい話ではない。実際に本屋に行ってみたが、平積みにはなっていなかった、という話なのである。

つまり、彼女の実地調査と前掲記事とが図らずも一致しているわけで、ようは平積み云々がウソっぱちであることがこれで証明されたわけである。

このテイタラクを知れば、顕正会の中でどれほど盛り上がっていようが、それがすべて幻想であることがよくわかるだろう。広宣流布が眼前であるかのように言っていても、確かに内部ではそのように信じ込まされていたにしても、現実的にはまったくの虚構なのである。

今日は暑いのでこんなところで終わりにしよう。

2017/7/18

ガチデショウブ  
沖浦氏のコメントは相変わらずであるが、さりとて頭ごなしに否定できるものではない。むしろ日蓮正宗の御僧侶たちは、氏の意見を真摯に受け止めるべきかもしれない。今のままではジリ貧を免れない、何かしらの手を打たないと取り返しのつかないことになる、というような危機感を持つべきかもしれない。

もう一人、面倒臭い人があらわれた。

2017/7/17 18:47
投稿者:素人
突然ですいません。質問です。浅井先生は仏は法門を説く。神は説かない。と言っていたような気がします。
須扇多仏や多宝如来は法を説かないと6巻抄で日寛上人が言っていた気がしますが… 曖昧な記憶ですいません。
浅井先生の失言なのでしょうか?


曖昧な記憶とは断わりつつも、六巻抄の内容を書いてくるところなど、とても素人とは思えない。まあ、しかし、6巻抄はいただけない。

たぶん五月度総幹部会の会長講演を言っているのだろう。ようするに浅井先生は仏法と神道との勝劣を具体的に示しているわけである。その一つの比較方法として、法門を説いているか否かという視点から論じているわけであって、仏は法門を説くが神は説かない、というのがここでの結論なのである。

ところが上掲では須扇多仏や多宝如来の例を挙げて、あたかも浅井先生の発言に矛盾があるかのように言っている。しかし、これは一種のアゲアシ取りのようなものだろう。

不勉強のわたくしは日寛上人の御指南をよく存じ上げないが、大急ぎで検索を掛けて見たところ、なんと御書の中に次の一節があるのだった。

 されば須仙多仏、多宝仏は世にいでさせ給ひたりしかども、法華経の御名をだにもとき給わず。釈迦如来は法華経のために世にいでさせ給ひたりしかども、四十二年が間は名を秘してかたりいださゞりしかども・・・

少し長くなるので途中を省略した上で、さらにご覧に入れたい。

さればこの経に値ひたてまつる事をば、三千年に一度花さく優曇華、無量無辺劫に一度値ふなる一眼の亀にもたとへたり。

いかに法華経ないし法華経の題目がありがたいものであるかを御指南下さっていることは、誰の目にも明らかだろう。それと神と仏の勝劣を論ずることが、いったいどのように関係するのだろうか?

以上、まるで関係のない事案を持ち出して、あたかも浅井先生が間違っているかのごとく言うのはどうかと思う。

さて、かく言うわたくしも今からアイマイな記憶を頼りに書くことになるので、その点はあらかじめご宥恕願いたいと思うが、ずいぶん前に神道系の人物と思しき人が大聖人を痛烈に批判している内容の本を見たことがある。見たと書いたのには意味があって、ようは真面目に読んでいない、本屋でちょっと立ち読みした程度、というのが真相である。

大聖人のあらわされた御本尊、すなわち曼荼羅御本尊の相貌を思い浮かべてほしい。最上段に釈迦多宝の二仏、それから上行等の四菩薩がまします。

以下、大雑把に言えば、仏菩薩を先頭に十界の聖衆が列座しているわけであるが、そうした中で天照太神と八幡大菩薩の位置が低過ぎるとその筆者は言っているのだった。神道の立場からすれば、ケシカランということなのだろう。

問題はこれについて神道系の学者とガチで勝負したらどうなるかである。

わたくしの立場は単純明快で、大聖人がそのようにあそばされたのだからそれが正解なのだ、ということになるわけだが、しかし、これはいわゆる内部規定に過ぎないので神道の人には通用しない。

例えば、

わづかの天照太神・正八幡なんどと申すは此の国には重んずけれども、梵釈・日月・四天に対すれば小神ぞかし。

と御書には認められている。

まさに曼荼羅御本尊の相貌もこれと軌を一にするわけであって、わたくし的には大聖人がそうおっしゃるのだからそうなのだろうと考える。しかし、神道の人は納得しないだろう。

これは大問題である。

ようするに創価学会員だとか法華講員と対論する場合には御書がベースになる。もう少し拡げれば他門との法論も同様だろう。また、仏教系であれば大聖人の他宗破折のエッセンスを用いて、それなりに対応できるかもしれない。

ところがである。神道の場合は案外に難しいのだ。

但し日本国は神国なり。此の国の習ひとして、仏菩薩の垂迹不思議に経論にあいにぬ事も多く侍るに、是をそむけば現に当罰あり。

これまた大聖人の御指南である。いかがだろう、前掲の御指南と当該御指南とでは、かなり雰囲気が違っている。もちろん二つの御指南は必ずしも矛盾しているわけではない。両御指南を整合させると、ようは大聖人は神道そのものを明確には否定しておらず、いわゆる仏法守護の善神と位置付けられているわけだ。まあ、それにしても梵天・帝釈に比べれば遥かに下位の存在になるわけだが・・・

そこが問題なのである。もしも神道系の人にその根拠を問われたら、わたくしには答える術がない。大聖人がそうおっしゃっているから・・・では答えにならないのだ。

ここでようやく会長講演に戻ることになる。

上述の問題に対する浅井先生の答えが、仏は法門を説くが神は説かない、ということなのである。法門とは別して言えば一念三千の法門である。この一念三千の法門こそが究極の法理であり、ために真言宗ではこれを盗んで自宗の骨目としたわけなのだろう。それ以外に対抗する術がないということなのである。

これは仏教だけではなく、すべての宗教に通用する理論である。

例せば外典外道等は仏前の外道は執見あさし。仏後の外道は仏教をきゝみて自宗の非をしり、巧みの心出現して仏教を盗み取り、自宗に入れて邪見もっともふかし。

神道も同じである。もともと神道には教義らしい教義はなかった。実に素朴な自然宗教だった。ゆえに、神道と仏教とで教義の中身を虚心坦懐に比較検討すれば、自ずと答えは出るのだろう。本来、日本人にとっては外国の宗教であるはずの仏教が、こうして弘まったのも必然なのである。

もっとも、ではイスラム圏やキリスト圏にはどうして弘まらなかったのか、と問われるとひじょうに困ることになるのだが・・・

いずれにしてもである。

わたくし自身は大聖人がおっしゃっているからそうなのだろうというレベルであって、法門の中身を深く理解しているわけではない。ゆえに仏教以外の宗教の人とガチで勝負したら、とてもじゃないが勝てる気がしない。上述の中で一念三千を云々したものの、それとて名目を知っているだけであって、深いことは何もわからないのだ。つまりは一念三千を識らざる者なのである。

以上、謙遜ではなく本当のことを書いた。それにしても過去のアイマイな記憶を頼りに、ずいぶんと話を拡げられるものである。

2017/7/17

ショウシュウケンノカタスミ  
S@法華講氏からわりと頻繁にコメントを頂戴している。少し前には勤行や数珠についての質問があった。まず、それについてお答えすると、拙ブログはすでに十年以上も続いているわけだが、実は未だに開示していない情報がいくつか存在するのだ。これは戦略的な意味から、言わないほうがいいだろうと判断して、拙ブログの中では触れないようにしているわけである。ゆえにもし直接お会いするような機会があれば、その時にはお話ししてもいいと思っている。

そして直近のコメントでは、宗門のデタラメ戒壇論のことと僧侶不要論のことについて書いてほしいとの要望が出されたわけだが、図らずもマイケル氏が過去の拙稿を紹介して下さった。戒壇論のほうはこれで十分だろうと思う。

僧侶不要論については、これを機会に書いておく必要がありそうだ。

2017/7/1 12:10
投稿者:S@法華講
四恩抄に曰く、
「仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。」

講中解散処分前の妙信講は指導教師たる御僧侶がいらっしゃったが、現在はいない。(創価学会も同様)

この点、巌虎さんは如何お考えだろうか。


以前、ご覧のようなコメントを頂戴した。その時にわたくしは次のように答えた。

指導教師の有無は関係ない。

これがS@法華講氏には不要論のように読めたのだろう。けれども、その時のわたくしの意図は、それではない。妙信講にしても創価学会にしてもそれぞれ言い分を持っている。ところが上掲のような論理を振りかざされると、もはや自分たちの言い分すら通らなくなる。ようは頭ごなし的なのである。権威主義的とでも言うのだろうか?

つまり、教義上の論争において法主の絶対権威のようなものを前面に立てるのは、すでにその時点で議論を放棄しているような意味があるのだ。この点を法華講の諸氏は見落としている。もしくは気がついていない。

そこでわたくしは、僧侶の有無は関係ない、と書いた。

これをスポーツなどに譬えるならば、プロアマオープンみたいなものだろう。甚だ未熟ながらもわたくしは思うのだ。日蓮正宗の御僧侶とわたくしと一対一で勝負したらどうなるかをである。

拙ブログはすでに十年以上も続いている。ゆえに日蓮正宗の御僧侶の中には拙ブログの存在を認識している人がいるかもしれない。生意気を言うようだが、顕正会の大幹部たちもそうであるし、創価学会系の人たちにも知られているはずである。そしてコメント欄は全面的に開放している。

しかし、議論を吹っ掛けてくる人はほとんどいない。

まあ、オチブレ顕正会員のグチ日記など相手にしても仕方がないというのが正解なのかもしれないが、逆に自画自賛ながらもわたくしの書いていることがけっこう鋭いのでウカツなコメントはできないと思っているのかもしれない。

ともかくわたくし自身はこんなアンバイなので、指導教師を戴いて教えを乞うという気はサラサラないのである。

ただし、これはあくまでわたくし個人のスタンスなのであって、必ずしも全面的な不要論を唱えているわけではない。法華講の諸氏が指導教師のもとで信心に励むことを否定するつもりはないし、やや話が脱線するけれども創価学会員や顕正会員が組織の中で信心活動することも否定はしない。ようはそうした中でわたくしは無所属だという、ただそれだけの話である。

ここまで書けば、たいていの人が矛を収める。しかし、マレには食い下がる人もいる。

その場合、さらに話を脱線させて、近年の葬儀事情などを例に取ると説得力があるように思う。改めて詳述するまでもなかろう。最近は葬儀の簡略化が進んで、僧侶を呼ばないで済ませてしまう人が増えているのである。わたくしはこれを僧侶オワコンと書いた。

つまり、法華講の諸氏が創価学会員や顕正会員を相手に、僧侶不要を主張するのは僧宝軽視であり三宝一体の上から言えば三宝誹謗に相当する・・・などと息巻いたところで、世間一般の人からすればまるで痛痒を感じない話なのである。この点は法華講の諸氏ではなく、むしろ日蓮正宗の御僧侶たちが他人事とはせずに真剣に考えないといけないことなのだが、実際にはベラボウに難しい問題である。なぜならば、まさにこれこそが時代の趨勢だからである。時代の波という表現もある。いわゆるニューウエーブだ。

本当は創価学会員や顕正会員など相手にせず、一般人ばかりを折伏して入信せしめて、創価学会や顕正会を凌駕する大法華講を構築する。これが理想のはずである。もちろん巌虎ごときに言われなくてもそんなことはわかっているはずであり、法華講の諸氏もあるいは正宗の御僧侶たちも理想論としては百も承知のことだろうと思う。しかし、上述のごとく、現実的にはそれがベラボウに困難な状況にある。ゆえに創価学会員や顕正会員をターゲットにせざるを得ないわけだ。

当然、創価学会側も顕正会側も黙ってはいない。攻撃は最大の防御という意味からしても、宗門攻撃を続けざるを得ないのだ。

少し話を戻そう。

ニューウエーブには勝てない。これは厳然たる事実である。新しい時代の波にどのように対応していくかはベラボウに難しい問題であり、そう簡単には答えが出ない。
そうした中で一つだけ確実に言えることがある。宗教の根幹部分は変えてはいけないのだ。もし仮に時代の変化に対応するために修正を加えることが許されたとしても、絶対に変えてはいけない部分があるはずなのである。
さしずめ日蓮正宗の場合は戒壇本尊本懐論と日蓮本仏論だろう。これが変ってしまったらオシマイである。こうした根幹部分まで変えてしまって、いったいぜんたい何を守りたいのかという話になってしまう。いわゆる本末転倒だ。

実は戒壇論も似たような構造にある。正本堂問題で宗門はいわば創価学会を庇ったわけなのだろう。しかるに後年、宗門は創価学会と袂を分かつことになる。そして御高徳の日顕上人は正本堂問題において宗門側にも行き過ぎがあった旨、述べられた。まさしく御高徳なるがゆえ正直さであろう。しかし、委細に見れば、未だにじゃっかんの瑕疵が残っている。それを現宗門は認めようとしない。わたくしは思うのだ、いったいぜんたい何を守りたいのか、単なるメンツの問題ではないのか、と。

いずれにしてもである。宗門の内輪の問題としては教義の根幹に関わる問題なので深刻であるが、さりとて僧侶オワコンないし宗教オワコンという時代の趨勢からすれば些事に過ぎないのかもしれない。逆に言うと、そんなところでグダグダしていてどうするのか、ということになるだろう。

もっとも、そういうオマエはグダグダの片隅でブツブツと独り言ちているだけではないか、というツッコミを受けることになるわけだが・・・


七月十八日追記:修正した。その他、文意のわかりにくい箇所がいくつもあるが、よろしく斟酌されたい。

2017/7/11

ナカナカナオルマイ  
沖浦氏は今頃になって都議選の話題を蒸し返している。しかもその内容たるや、まったくお話にならないレベルだ。拙稿を真面目に読んでいないことは明白である。マイケル氏もマイケル氏だ。両者とも大馬鹿野郎である。こういう馬鹿さ加減はなかなか治らない。

http://white.ap.teacup.com/ganko/2414.html

まず、これが都議選関連の拙稿である。かなりの紙数を費やしているので、そのすべてを熟読しないことには始まらない。部分的にどうこう言われてもアゲアシ取りに過ぎないのだ。

そのことを踏まえた上で、次の一段を読んでほしい。

直接読んだわけではないが、毎日新聞でシミュレートした結果が報じられているという。ようするに今回の都議選、もし仮に公明党が全面的に選挙協力したとしても自民党の大敗は確実だった、という話らしいのである。おそらく今よりはマシだったのだろうけれども、それでも大負けには変わりがないらしい。興味のある人は調べられるといいだろう。

わたくしは毎日新聞を読んでいない。情報洪水の現代においては、いちいち原文を確認していたらキリがないという意味もある。ゆえに又聞きの話を上掲のごとくまとめたわけである。

その点は反省しないといけないものの、わたくしとしてはそれほど間違ったことは書いていないつもりである。幸いにも毎日新聞のウェブ版に記事が残っていた。次のリンク先がそれである。

https://mainichi.jp/senkyo/articles/20170706/ddm/005/010/035000c

都議選ショック
公明協力なら自民12増 それでも過去最低 毎日新聞試算


これが見出しだ。そして本文からも一部引用しておこう。

 ただ、自公両党が協力していたとしても、自民党の議席は35にとどまり、2013年以前の都議選で最低だった38議席(1965年、09年)に届いていない。

いかがだろうか、わたくしは今朝になって初めてこの記事を読んだわけだが、ああ、やっぱり正しかったという思いを強くした次第である。また、わたくしの情報源もあながち捨てたものではないことを、これで再認識した。

沖浦氏の読んだニュースがどれであるか定かではないが、事実関係そのものには違いがないはずである。あとはどのような分析・評価をするかであって、そこに多少の違いが出る程度のことだと思う。

以上、過去の拙稿と毎日新聞の当該記事を熟読した上で、なおも反論があるならば、承りたい。

さて、顕正新聞第1412号に参ろう。

先生の諫暁に呼応する諸天の励みに・・・

励みを増す諸天の鉄槌により・・・

先生の重きご発言に、諸天が感応している姿を・・・

先生の強烈なる諫暁であれば、諸天が呼応すること・・・

必ずや諸天が感応し・・・

先生のご発言に即座に感応する、諸天・・・

勢いを増す諸天の働きに、先生のご発言の重きことを・・・

先生のご発言に相呼応する諸天の働きに・・・


二面から四面にかけて十二本の記事が掲載されている。いわゆる代表決意と呼ばれる登壇であり、文字通り各部を代表するような大幹部たちが勢揃いしている。もう少し具体的に書こう。男子部は副総男子部長が一人、男子部総務が二人、隊長が一人である。婦人部は婦人部総務が一人、地方部長が三人である。女子部は総務が一人、地方部長が三人である。

唖然とするばかりだ。

上掲は諸天をキーワードとして拾ったものであるが、別のパターンもある。一例を挙げれば、次のような発言である。

先生の仏法上のお立場は、私たちの想像を絶するほどの重さである・・・

細かく見ていけば、キリがない。そこで代表決意からは、次の引用で終わりにしたいと思う。

安倍首相は阿部日顕の時と同様、また前回辞任したとき以上にみっともなく自ら辞任すること、確信するものであります。

男子部総務の一人であるが、まるで浅井先生の予言癖みたいだ。

確かに安倍政権の支持率は下がっている。このまま下がる一方であれば、あまり好ましい辞め方はできないだろう。ただし、自ら辞任するかどうかはわからない。総理の専権事項とされる解散・総選挙という手段もあるのだ。そこで潔く討ち死に(?)するという選択肢だ。

つまり、いずれは辞めるにしても、その辞め方まではわからない。それが未来を見通せない凡夫の悲しさ(?)なのである。それにもかかわらず、上掲のように確信してしまうところが、どうかしているとしか言い様がないのだ。

2017/7/10

ナカナカオルマイ  
大結集で教団の勢力を誇示する時代は終わった。沖浦氏のコメントである。画一された団体行動に魅力がない時代。これも沖浦氏の言である。

画一的団体行動とは一糸乱れぬ行進だとか組み体操をイメージしているのかもしれないが、もう少し広く解釈するならば、公明党への投票行動も同じことだろう。創価学会員が公明党に投票するのは当たり前であると、誰もがそのように思っているとしたら、これこそが画一的であり、団体行動そのものである。そして公明党の得票数こそが創価学会の伸張を示すバロメーターなのである。

ところがご存知のごとく、顕正会にはそうしたバロメーターがない。名目会員数は二百万になんなんとしているものの、実数は不明なのである。ゆえに結集力に注目しているのだ。

そういうわけなので、沖浦氏の言わんとしていることはわからなくもないけれども、拙稿に対するコメントとしてはマトハズレと言わざるを得ないだろう。

また、マイケル氏と沖浦氏の間で少しく議論が展開されているけれども、わたくしからは一点だけ指摘しておこうかと思う。

戸田城聖氏は自ら四十余年未顕真実と言ったのか、である。

言ってはいないだろう。これがすべてである。沖浦氏の論理はここでオシマイである。いくら方便だとか爾前経だとか言ったところで、それは沖浦氏が勝手に言っているだけの話なのだ。戸田氏が言ってもいないことを勝手に言って、それを真実だと言ったところで、いったい誰が信じるだろうか?

さて、今日は顕正新聞第1412号の話題である。

わたくしは第一面を見て、オヤっと思った。いつもと雰囲気が違うのである。一つには編集部の工夫なのだろう、少しレイアウトに変化が見られるようだ。そして決定的なことは次である。

小沼男子部総務の指導

副総合婦人部長の指導


これはけっこう斬新というか、今まで見られなかったことである。それぞれ顔写真付きで「指導」と書かれている。こんなことは顕正会始まって以来のことかもしれない。

第一面のメイン記事は、あくまで浅井先生の指導なのである。指導と書かれる場合もあれば、講演と書かれる場合もある。あるいは挨拶となっている時もあるが、その主人公はあくまで浅井先生なのである。
それが六月は他に主だった行事がなかったこともあるのだろうが、当該号は一面から八面まで、ようはすべてが各地の集会での登壇記事なのである。そしてそれらの集会において締め括りの登壇をするのは、当然ながら出席者の中で最上位の幹部が行なうわけである。
そうした中で副総合婦人部長はまだしも、男子部総務がトリを務めるのは異例中の異例だろう。新潟男子部集会においてだ。男子部には彼よりも上位と考えられる人が少なくとも四人はいるはずなのだが・・・

ちなみに小沼男子部総務は顕正新聞の発行人でもある。その権限を用いて自ら一面を飾ったのだろうか?

まあ、しかし、常識的には難しいことである。まさか浅井先生や城衛がチェックをせずに、新聞の発行がなされているとは思えないからである。

これについては今後も注目していくことにして、話を進めよう。

「中国・四国大会」の会場決定
12月3日「ビッグ・ローズ」で


ケチばかり付けて恐縮だが、これも本当ならば中国一万人と四国一万人の二つの大会を実現しなければいけないだろう。しかし、今の顕正会にはそこまでの結集力がない。このことは月例の各集会やビデオ放映の参加者数を把握しているであろう大幹部たちが、いちばんよくわかっているはずだ。しかも中国四国大会とは称するものの、九州からも応援があるだろうし、近畿からの応援もあるはずだ。つまりは西日本大会みたいなものなのである。

さて、新潟男子部集会は第一面の上段にあって、中段左側には先ほどの中国四国大会が書かれていて、残るところの下段には青森の第十二婦人部集会の模様が書かれている。そのトリを努めているのが昌子であるが、その直前の登壇が興味深い。

総務決意

これは初出だろうと思う。通常、代表決意と呼ばれる登壇なのだ。今回の集会でも代表決意はある。それは第十二婦人部長が登壇しているわけだが、その上位概念として婦人部総務が登壇しているわけなのだ。そして最後の登壇は副総合の昌子である。

しかし、逆に言うと、小沼男子部総務の存在がますます光ることになる。総男子部長の城衛がいて、その下に副総男子部長が三人ほどいるのだ。それらを抑えて第一面の上段を飾っているのだから、凄いことである。

最後に青森の婦人部集会について、ツッコミを入れておこう。

今回は月例集会としては過去最高の六八五名が参集した。

もちろん一般の読者にはこの数字の意味はわからない。実はわたくしもわからない。一々データを取っているわけではないので、これだけ読んでもわからないのだ。

ところがである。直後の文章を読むと気がつくのだ。おかしさにである。

 これも、昨年末の猛吹雪の中での一千名結集を成し遂げたことによって・・・

昨年末に一千名を集めておいて、なぜに今回が過去最高なのか、である。これについてどのような言い訳がなされるのか知らないが、わたくしはごく単純に季節的な意味から疑問に思うわけである。雪国である。しかも猛吹雪の中で一千名を集めたわけだろう。だったら六月十八日に行なわれた集会のほうが遥かに条件がよいはずなのである。

それとも六月は農繁期で農家の人は集会に参加しづらいのだろうか?

逆に十二月は農閑期で参加しやすいのか?

そういう地域性だとか季節性のことは地元の人にしかわからない。ゆえにわたくしの指摘は的外れのイチャモンなのかもしれない。いちおうはそのように言っておこう。

しかし、ご存知のように、顕正会は何事も過去最高だの空前だのと言って、大騒ぎする傾向が物凄く強い。その意味で、わたくしの疑念も無理からぬことだと、誰もが理解して下さるのではないかと思う。

それにしても第一面だけでここまで長々と書く人もなかなかおるまい。我ながら妙な気分である。

2017/7/9

ヒトツノシヒョウ  
このところマイケル氏から高頻度のコメントを頂戴しており、その多くが質問の体裁になっているけれども、それに対するわたくしの回答はあまり期待しないほうがいいだろう。毎回のブログに書かれている内容がすべてであって、それ以上でもそれ以下でもないからである。

例えば組織の新陳代謝が激しいのはまさにその通りであって、わたくしのほうから付け足すべきことはほとんどない。たぶんマイケル氏の言わんとしていることは、顕正会だけではなく宗門も似たり寄ったりであり、総じて富士門流全体の傾向性がそうなのだということだろう。まったくその通りである。

そして最新のコメントでは顕正会オワコン説について再質問しておられるわけだが、これも特に言うべきことはない。いつも言っているように、凡夫には未来のことはわからない、これが答えなのである。

ただし前例を引いて、そこから一つの推測を述べることは可能である。

正信会がそれである。

妙信講は昭和四十九年に解散処分に付された。当時の宗門と創価学会は妙信講を危険分子と見なして排除した。しかし、皮肉にもその後は宗門と創価学会の関係がおかしくなってきて、昭和五十年代前半はいわゆる正信覚醒運動が大きなウネリとなるのである。
わたくしはその時代を直接には知らないが、最終的には創価学会側が折れて、なんと池田会長が辞任することで事態の収拾が図られたのである。この一事だけで正信覚醒運動がどれほどの凄まじさだったかわかるだろう。
もう一つの指標は日本武道館での集会だろう。当時の正信会は何度も武道館で集会を開いている。ようは一万人規模の集会である。つまり、当時の正信会はそれだけの結集力があったわけである。

では、その後どうなったか?

今も正信会はいちおう存在するのだろうと思う。しかし、今の正信会はまったく元気がない。これが衆目の一致する見解のはずだ。
たぶん武道館で集会を開くことは困難なのだと思う。それだけの大人数を集める力が今はないのだ。そしてこの先もたぶん無理だろう。いわゆるジリ貧である。
正信会の人が聞いたら気分を悪くするようなことを書いたが、まあ、事実なのだから仕方がないだろう。

では、顕正会はどうか?

何度も言っているように、凡夫には未来のことはわからない。ゆえに具体的にどうなるかはわからないが、おそらくは結集力がいちばんわかりやすい指標になるだろう。
先年、さいたまスーパーアリーナで三万人規模の集会を開いている。これも数字にマヤカシがあると言われているが、まあ、細かいことを抜きにすればいちおうは三万結集を実現したと言えるだろう。
しかし、ご存知の人も多いと思うが、浅井先生は東京ドームで集会を開くと豪語していたのである。ようは五万人規模の集会だ。けれどもそれは実現していない。そして今は地方大会と称して一万人規模の集会を繰り返している。

つまり、顕正会が今後も躍進を続け、名目数ではなく実働数が伸びていくならば、それこそ東京ドームでの集会も可能だし、新国立競技場での集会もできるだろう。けれども現状では逆に規模を縮小していくしかなさそうなのである。

繰り返し言うが、わたくしは凡夫なので未来のことはわからない。しかし、この答えは数年ないし十数年後には必ず出るので、ようはそれを見守っていればいいのである。ともかく何十年だとか何百年先の話ではないので、マイケル氏も関心を持ち続けていれば結果を見ることができるだろう。

さて、そういうわけで今日は顕正新聞第1411号の中から、上述の話題に関連する記事を紹介しよう。

 千葉から帰った翌日、団地内で、女性から人違いで声をかけられ、「これも何かの縁」と思い、翌日訪ねました。

婦人部新座支区組長の登壇記事である。ともかく活動会員は熱心であるからして、上掲のようなわずかな縁をも利用して折伏を実践しているわけである。しかし、続きを読むと苦笑を禁じ得ない。

 広告文を読み上げましたが、私も耳が遠く、相手も耳が聞こえず、会話になりませんでした(笑)。

実は彼女は九十二歳なのである。相手も相当なのだろう。何しろ人違いをするくらいだからである。

他のくだりを読んでも同様だ。

 さらに「桜の会」で知り合った橋詰さんは、三十年来の友人で、約束はしたものの顔を忘れてしまいましたが(笑)、無事に会うことができました。

カッコして笑いが書かれているのは、顔を忘れてしまったことを自嘲する意味なのだろう。いや、もちろん、善意に解釈するならば、三十年来の友人はそれこそ極端な話、三十年振りに会うので顔を憶えていないという意味にもなるだろう。

いずれにしても、今の顕正会にはこうした後期高齢の会員が相当数いて、その人たちの活躍に依存している度合いが少なくないのである。一方、若い人たちが育っていない。詳しい内情はわからないものの、おおむねこのような感じなのである。

以上、顕正会オワコン説について、ここで言えることは会員の高齢化である。さらにそれが組織にどのような影響を及ぼすかについては、おそらく結集人数が一つの有力な指標となるだろう。つまり、いずれは目に見えて結集力が落ちる。それを、見ててご覧なさい、というのが今回の結論である。


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