2017/8/4

ジンソクナレスポンス  
今日は顕正新聞の続きを書くつもりだったが、その前に大沢氏からのコメントに応じておかなければならないだろう。

正本堂問題はあくまでもキッカケに過ぎず、年々影響力を増していた創価学会(池田名誉会長)への反発が浅井会長(妙信講)の行動となって顕れたといえるのではないでしょうか?

この部分は正解だろう。しかも活動会員であっても、そこそこリベラルな考え方の人であれば、おおむね賛同するのではないかと思う。それはごく単純な話で、試練と忍従の歴史を読めば浅井先生自身がいつかは立たなければいけない旨の決意を述べているからであって、すでに池田大作氏の専横ぶりはその頃から顕著だったのだ。

ただし、キッカケという表現にはイチャモンを付けるためのキッカケみたいな意味合いも感じられるので、そこは活動会員たちも反発するだろう。

わたくし自身は浅井先生のそうした本音の部分をどのように見るか明確な結論を持ってはいないが、それでも話はわりと単純であろうと思っている。ようするに巨大な創価学会に立ち向かうためには、それ相応の重要な問題でなければならなかった。それこそ瑣末な問題ばかりを取り上げてイチャモンを付けているとしたら、逆にお里が知れるというか、一種のチンピラみたいなものであり、それこそ相手にもされないだろう。大聖人の御遺命という教義上の再重要問題だからこそ、創価学会側も一笑に付すわけには行かなかったのだ。

別の言い方をすると、創価学会側に隙きがあった。

もしもである。当時、創価学会にそうした油断も隙もない状態だったとしたら、妙信講には何も為す術はなかっただろう。逆に今日の顕正会は存在しなかったかもしれない。未だに創価学会にとって顕正会が目の上のタンコブのような存在であるのは、いわば正本堂問題でのツマヅキをいつまでも引きずっているからである。

浅井会長も広宣流布前夜を強く意識していたことは間違いありません。

浅井会長も昭和40年当時から正本堂の意義を認識していたことになります。


ハッキリ言っておかなければいけないが、これは元顕正会・現法華講員の悪いクセである。

まず、昭和五十二年の浅井発言であるが、これはさほど不自然なことではないだろう。昭和四十年当時のことを回想しているくだりが後の試練と忍従の歴史における記述と矛盾するとの指摘は、確かに文章の上っ面だけを読めばそのように受け取れるのかもしれない。しかし、それは誤読である。

ようするに五十二年発言は過去の出来事をただ単に回想しているわけではなく、いわば解釈を加えているのである。誰もが人生経験としてあるだろう、その時は気がつかなかったけれども、ずっと後になってから気がつくことがあるということをである。

つまり、その線で読むならば、昭和四十年当時の認識は誑惑は顕著ではなかったということであり、日達上人の御説法も正本堂が御遺命の戒壇であると断定しているようには読めなかった、しかし、十有余年の歳月を経て振り返ってみると、上人の御説法は国立戒壇を否定する目的でなされたものだと、先生は解釈したわけなのだろう。

ただし、話がややこしくなることを承知で、もう少し説明したいと思う。

この浅井先生の解釈なるものは、必ずしも一定していないのだ。ゆえに会長発言を細かく拾っていくと、自語相違がたくさん出てくる。これもまた法華講員たちの格好のネタになるわけだが、しかし、それこそアゲアシ取りに過ぎないことを理解しなくてはいけない。

昭和四十年の日達上人の御説法について、浅井先生の認識ないし解釈は一定していないと書いた。本当は具体的な文証を提示しないと話にならないわけだが、今は調べるだけの気力がないので当てずっぽうに書かせていただくことをご承知願いたい。

日達上人は正本堂を御遺命の戒壇に当たるとは言っていない。創価学会が勝手にそのように宣伝しているだけなのだ。

日達上人は正本堂を御遺命の戒壇とは思っていらっしゃらなかったが、創価学会に頼まれてそのように発言された。

日達上人は創価学会の首脳と共謀して、正本堂を御遺命の戒壇と意義付けた。


おおむね三パターンにまとめた。

元顕正会・現法華講員ならば百も承知のはずである。昭和四十五年当時の御遺命守護の戦いは猊下の御立場を守りつつ、創価学会の非を強く責めた。すなわち第一パターンである。
そして二つ目のパターンはいわゆる御遺命守護の歴史を論ずるに当たって、わりと多用されてきたものだと思う。いわゆる主犯と共犯の関係で、宗門側は共犯の立場であるが、しかし、仏法上は最も重い責任を有する、という考え方である。
そして三番目は近年の顕正会の主張である。ご存知のごとく、今は日達上人とも細井管長とも呼ばず、あろうことか細井日達と呼び捨てにしている。もはやそうなると、三つ目のパターンに落ち着かざるを得ないことになる。

かくも浅井先生の発言は自語相違のオンパレードであり、突っ込まれても仕方がないわけなのだが、しかし、それとこれとはまったく別である。

ようするに法華講員たちはこうした浅井発言をあげつらって、いわばこのようなデタラメな人物なのだから、昭和四十年当時も同じなのだと言っているわけなのである。

しかし、別の解釈も成り立つ。

当時はきわめて真面目だった。けれども後年、道を違えてしまい、おかしくなってしまった。

これがわたくしの解釈である。ところが法華講員たちは浅井先生を全否定したいらしく、早い話が浅井なんぞは最初から間違っていたのだ、最初から性根が腐っていたのだ、それで宗門ないし創価学会の隙きを窺い、イチャモンを付け始めたのだ、と言わんばかりなのである。

最初のほうで、浅井先生の本音がどうであったかわたくしにはわからない、という意味を書いた。そして今、法華講員に仮託して性根という言葉を使った。ようするに浅井先生の性根がどうであるか、わからないというのがわたくしの結論である。
ところが法華講員たちはわかったようなことを書いている。いちおう文証を並べ立てて、そのように断定しているわけである。
では、客観的に見て、その判断が正しいのかどうかと問われれば、わたくしはぜんぜんダメだろうと言いたいのだ。

さて、今日の文章は相当にややこしいので、はたしてわたくしの言わんとしていることが伝わっているかどうかも心許ないところだが、おおむね書き尽くしたつもりである。

単なる文字面のアゲアシ取りではなく、相手の文章を十分に斟酌した上での批判を心掛けたい。

そういうオマエは顕正新聞のアゲアシ取りばかりしているではないかと言われそうで怖いのだが・・・


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