2017/8/13

テンハケンジンヲステタマハヌ  
沖浦氏から諸天のことでコメントを頂戴した。おっしゃる通り、顕正会のそれはいわゆる神風的発想であり、別の言い方をすれば他力本願的であって、よくないと思う。さりとて沖浦氏の認識も十全とは言えないだろう。

ようするに諸天善神は基本的に天上界の衆生なのである。ゆえに人間に特化して論ずるのは誤解を生ずることにもなりかねない。

まず、基本は天上界であることをしっかりと認識しないといけない。その上で変化人という概念を知れば、すべては解決するはずである。

また、一般的にも化身という言葉・概念が存在する。今、手元の辞書を引けば、次のごとくである。

仏や菩薩が衆生を救うために人の姿となって現れたもの。

これが一つ目の説明であり、さらには三つほど説明が付加されている。それらは省くけれども、ともかく一つ目の説明が重要で、一般的にも変化人に近い考え方が定着していることの証左と言えるだろう。

かく言うと、仏・菩薩とは実は人間のことなのだ、と返してくるかもしれない。

沖浦氏らしい返し技というか、逆転の発想ないし再逆転の発想とでも言いたくなる魅力的な考え方である。また、そこが創価学会の面目躍如なのかもしれないと思う。

しかし、これは何も彼らの専売特許ではなく、もともと存在する概念なのである。

生仏一如 凡聖一如

これまた教養人であれば、知らない人がいないほど、巷間に流布された言葉である。

いずれにしてもである。

顕正会の主張する諸天の働きは、現代人の感覚からすると相当の乖離があって、俄には信じ難いところである。対する創価学会のそれは、そうした現代感覚を考慮してのことか、かなりアレンジされたもののようである。悪く言えば現代感覚に迎合しているのだろう。

人の悦び多々なれば、天に吉瑞をあらはし、地に帝釈の動あり。人の悪心盛んなれば、天に凶変、地に凶夭出来す。

改めて瑞相御書を拝すると、ここに帝釈の動とある。これを新鮮に感じるのはわたくしが不勉強だからだろう。当該御書には依正不二の原理が示されている。この依報をいわゆる環境と捉える時に、特に創価学会では盲点が生じているものと考えられる。つまり、依報を草木国土という非情のカテゴリに押し込めてしまって、いわば感情のない無機質な世界のように理解してしまっているフシがあるのだ。しかるに上掲の御文では、帝釈の動があると認められている。ここは現代感覚がどうであれ、大聖人の御認識はかくのごとしである。

よって、これを否定することは大聖人の仏法を否定することにもなりかねないわけで、この点を創価学会ではどのように考えるかが問われるのである。

まだまだ説明が足りないものの、これで諸天善神についての顕正会の認識がわりと大聖人の御指南に忠実であることがわかったのではないかと思う。一方の創価学会のそれは現代感覚に迎合するあまり、本来の諸天善神観から大幅に外れてしまっているように見えるのだ。

しかしながらわたくしは顕正会のそれを全面的に支持するものではなく、むしろ今の顕正会は諸天の働きを重視するものの、すべて自分たちの都合で解釈してしまっている点が問題なのだと、これまでにも繰り返し指摘してきたわけである。

天人相関説 災異説

これまた不勉強ながらも、これらは古くからある中国思想であり、大聖人の依正不二論はこの影響を多大に受けていると指摘する人もいるようだ。これについては特に言うことはない。どっちでもいいと思う。

問題はこれが現代科学の観点からして、どれほどの信憑性を持つかである。

つまり、現代人の中にはこれをまったくの迷信だとして一笑に付す人もいるし、あるいは無教養のゆえだろうか、こうしたことに無頓着の人もいる。

例えばずいぶん前にも書いたことだが、道路ないし道路脇にゴミが大量に投棄されているような場所がある。悪循環なことには、少しでもゴミがあると、それが増幅されていって、瞬く間にゴミだらけになってしまうのである。当然、公道であれば公費で清掃が行なわれる。つまりは我々の税金が使われるのである。だったら全員が自覚を持ってゴミを捨てないようにすれば、そうしたムダな公費が使われることもなくなるはずである。こんな簡単な道理がわからないものかと嘆息するばかりであるが、まったく改善される様子がない。

実は今、税金がどうのこうのと書いた。しかし、わたくしの本音はそこではない。そんなことは大したことではないと思っているのだ。

では何が大したことなのかを書こう。ズバリ、罰当たりではないか、ということなのである。

つまり、わたくし自身は罰当たりなことだと思っているので、絶対にしないのである。けれども実際に投棄している人たちは、罰が当たるとは思っていないわけなのだろう。ようはバレなきゃいいという考えなのである。わたくしはバレようがバレまいが、そのような行為をすれば必ず罰が当たると思っている。だからしないのである。

そろそろ結論を書きたい。

先ほど、天人相関説とか災異説のことに触れた。無教養の人はそんなことも知らずにゴミを捨てているのかもしれない。それはまだカワイイと言えるだろう。
問題は、天人相関なんか迷信に過ぎない、別にゴミを捨てようが捨てまいが罰なんて当たりっこない、という考えの人である。もしそれが本当ならば、わたくし自身はずいぶんと損な生き方をしていることになるだろう。つまらぬところで罰に怯えて生きているからだ。
しかし、その結論がどうであれ、わたくしは思うのだ。そういうヤツは物凄くイヤなヤツだと。つまり、もし迷信であるとしても、むしろわたくしのような考え方のほうが人間としては正しいのであって、その対極にいるそういう連中はまったくのダメ人間なのだと、わたくしは思っているのである。

うまく伝わっているかどうか心許ないが、今日のところはこれで終わりにしたい。


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