2017/10/31
フセハイモドキ
顕正新聞第1420号を見ていこう。九月十七日に新秋田会館が落成した。以下はその報道の出だしの文章である。
この日、台風の影響による「終日雨天」の予報もみごとにはずれ・・・
まあ、わたくしが何を言いたいかは一目瞭然だろう。見事に外れた天気予報もさることながら、浅井先生の予言の外れっぷりも相当である。もっともこの時点ではまさか総選挙が行なわれるかどうかも不確定であり、ましてや周知のような結果になるとは誰にも予想し得なかったことである。ゆえにこのような取り上げ方は性格の悪い人間のすることであり、やってはいけないことである。
しかし、次に取り上げる秋田会館での会長講演は、誰もが注目すべき重要なキーワードがたくさん出てくるので、もはや性格の善し悪しに頓着せず、しっかりと指摘しておきたいと思う。
広布最終段階を迎えて、いよいよ北東北顕正会が、改めて東北先陣の、新しい戦いを起こす時が来たのだ・・・
広布最終段階の初出はいつだろうか?
今は資料がないので当てずっぽうだが、おそらくは二十年近く前から言っていることではないかと思う。それを「迎えて」と言っているのだから問題である。ただし、その後に「改めて」と書いている。ようはここに馬脚があらわれているわけだ。もちろん決意を新たにすることはよいことなのだが・・・
広宣流布の前夜を迎えて・・・
これも前掲の言い直しであって、言っている意味はまったく同じである。
広布最終段階の、新しい力強い戦いを起こしてほしい・・・
実に性格の悪い引用方法だが、ともかく本文を忠実に引用しているわけだから、わたくしに非はないはずだ。
これも善意に解釈すれば自然な文章構成であり、いわば講演の前半部分の結論なのである。ゆえに上の三つの文章は標釈結の三段構成になっていると考えられるわけで、本来は何の問題もないわけである。
しかし、先ほども書いたように、これを十年も二十年も言い続けていることが問題なのである。
近き広宣流布の・・・
ところが浅井先生は懲りない人で、講演の後半に入ってもご覧のように言い張るのである。
いよいよ広宣流布は近い。
ここはじゃっかん切り文であることをお断りするものの、言っていることはまさにご覧の通りである。
その中に、二百万は明年七月には必ず達成できることが確実になった。これは一年早まったのです。
浅井先生が広宣流布の最終段階を言い出してから、すでに久しい。ゆえに委細に見れば最終段階に入ってからも何度も仕切り直しをしているのだ。言葉を換えれば目標の下方修正である。
つまり、仕切り直し後の意味においては確かに一年早まったと言えるのだろう。しかし、当初の目標設定からすれば大幅な遅延であり、もはや回復不能の状態なのである。この点の反省がまったく見られない。ゆえにわたくしは執拗に指摘し続けているわけだ。
会長講演はおおむね以上であるが、もう一つだけ引用しておこう。
たとえ難しい御法門はわからなくとも・・・
この部分は前後の文脈からすれば至極当然のことを言っているだけであって、さしたる問題はないと思う。けれども近年の顕正会は全体的に愚民化しているような印象があって、それだけに気になるところなのだ。もし組織に余裕があれば、教学の専門チームを作ってもいい。一般の顕正会員は基礎教学書で十分だろうが、それだけでは文字通りの基礎レベルであって、今や法華講のツワモノたちには太刀打ちできない。その現実を直視するならば、もっと教学のスペシャリストを養成するべきなのだ。
まあ、しかし、最後にまたしてもイヤミを書けば、教学を学べば学ぶほど、やっぱり宗門のほうが正しいのではないか、と思っちゃう人が増えるのかもしれない。だから愚民化政策を続けるしかないのかもしれない。
最後に三面下段の写真について感想を書いておこう。
これはよくないだろう。いわゆる伏せ拝もどきの何とかである。もし仮に写っている人たちの手に数珠を掛けさせたら、これはもう完全に礼拝合掌の姿そのものである。ネット上でさんざん叩かれているのに、なぜに是正しないのだろうか? そこが不思議である。
この日、台風の影響による「終日雨天」の予報もみごとにはずれ・・・
まあ、わたくしが何を言いたいかは一目瞭然だろう。見事に外れた天気予報もさることながら、浅井先生の予言の外れっぷりも相当である。もっともこの時点ではまさか総選挙が行なわれるかどうかも不確定であり、ましてや周知のような結果になるとは誰にも予想し得なかったことである。ゆえにこのような取り上げ方は性格の悪い人間のすることであり、やってはいけないことである。
しかし、次に取り上げる秋田会館での会長講演は、誰もが注目すべき重要なキーワードがたくさん出てくるので、もはや性格の善し悪しに頓着せず、しっかりと指摘しておきたいと思う。
広布最終段階を迎えて、いよいよ北東北顕正会が、改めて東北先陣の、新しい戦いを起こす時が来たのだ・・・
広布最終段階の初出はいつだろうか?
今は資料がないので当てずっぽうだが、おそらくは二十年近く前から言っていることではないかと思う。それを「迎えて」と言っているのだから問題である。ただし、その後に「改めて」と書いている。ようはここに馬脚があらわれているわけだ。もちろん決意を新たにすることはよいことなのだが・・・
広宣流布の前夜を迎えて・・・
これも前掲の言い直しであって、言っている意味はまったく同じである。
広布最終段階の、新しい力強い戦いを起こしてほしい・・・
実に性格の悪い引用方法だが、ともかく本文を忠実に引用しているわけだから、わたくしに非はないはずだ。
これも善意に解釈すれば自然な文章構成であり、いわば講演の前半部分の結論なのである。ゆえに上の三つの文章は標釈結の三段構成になっていると考えられるわけで、本来は何の問題もないわけである。
しかし、先ほども書いたように、これを十年も二十年も言い続けていることが問題なのである。
近き広宣流布の・・・
ところが浅井先生は懲りない人で、講演の後半に入ってもご覧のように言い張るのである。
いよいよ広宣流布は近い。
ここはじゃっかん切り文であることをお断りするものの、言っていることはまさにご覧の通りである。
その中に、二百万は明年七月には必ず達成できることが確実になった。これは一年早まったのです。
浅井先生が広宣流布の最終段階を言い出してから、すでに久しい。ゆえに委細に見れば最終段階に入ってからも何度も仕切り直しをしているのだ。言葉を換えれば目標の下方修正である。
つまり、仕切り直し後の意味においては確かに一年早まったと言えるのだろう。しかし、当初の目標設定からすれば大幅な遅延であり、もはや回復不能の状態なのである。この点の反省がまったく見られない。ゆえにわたくしは執拗に指摘し続けているわけだ。
会長講演はおおむね以上であるが、もう一つだけ引用しておこう。
たとえ難しい御法門はわからなくとも・・・
この部分は前後の文脈からすれば至極当然のことを言っているだけであって、さしたる問題はないと思う。けれども近年の顕正会は全体的に愚民化しているような印象があって、それだけに気になるところなのだ。もし組織に余裕があれば、教学の専門チームを作ってもいい。一般の顕正会員は基礎教学書で十分だろうが、それだけでは文字通りの基礎レベルであって、今や法華講のツワモノたちには太刀打ちできない。その現実を直視するならば、もっと教学のスペシャリストを養成するべきなのだ。
まあ、しかし、最後にまたしてもイヤミを書けば、教学を学べば学ぶほど、やっぱり宗門のほうが正しいのではないか、と思っちゃう人が増えるのかもしれない。だから愚民化政策を続けるしかないのかもしれない。
最後に三面下段の写真について感想を書いておこう。
これはよくないだろう。いわゆる伏せ拝もどきの何とかである。もし仮に写っている人たちの手に数珠を掛けさせたら、これはもう完全に礼拝合掌の姿そのものである。ネット上でさんざん叩かれているのに、なぜに是正しないのだろうか? そこが不思議である。
2017/10/29
ハタメイワク
今日も引き続き、顕正新聞第1419号である。
また埼玉県のある市長選挙で、候補者が五千万円を創価学会に支払って票集めをお願いした場面を目撃した・・・
婦人部越谷支区部長の記事である。もしこれが事実ならば大事件だろう。顕正新聞を隈なく読んでいると、このような驚くべき情報がそこそこの頻度で出てくる。しかし、同記事には次のようなくだりもある。
「ほーら出たよー、顕正会の特殊な思想」
これは日本会議系の人物とのやり取りであるが、彼らも彼らだが顕正会も顕正会だろう。ようするに、どちらも平均的な日本人の感覚からすれば特殊な思想であり、どっちもどっちということなのだ。ぶっちゃけ言えば、ヘンな連中ということだろう。ゆえに前掲のようなスクープ情報も、ようは話半分であり、最初から誰も信用していないのだ。もしこれが一般紙であれば、大スクープ情報であり、大騒ぎになっているはずである。逆に言うと、顕正新聞はしょせん三流紙レベルということだ。
ネット座談会・・・
第六回モンゴル集会の記事があって、そこに出てくる言葉である。なるほど、ネット座談会とは斬新だ。
モンゴル顕正会員こそ、恋慕渇仰の勤行を根本に二百万の石垣を積み・・・・
女子部総務の発言である。これまで何度も言ってきたことだが、日本の成果と海外の成果をごちゃ混ぜにしたらダメだろう。二百万は日本人ないし日本在住の外国人だけでカウントを取るべきなのだ。そうしなければ最悪の場合、顕正会員は二百万人、しかし、全員がアフリカ人ということにもなりかねないのだ。それで日本に国立戒壇を建てるというのは、まるでツジツマの合わない話である。
次は男子部第七十九隊総支隊長補の体験発表である。彼は脳幹梗塞という重篤な病気に見舞われた。
曽てない異変を感じた私は、近くの総合病院に駆け込み、受付係に回らぬ舌で症状を話すと、事態を重く見たその人は私を車椅子に乗せ、CTとMRIの撮影、血液検査、診察と、誰よりも早く行なってくれたのです。
これは幸運だった。大きな病院は融通が利かない。最悪、順番待ちの間に容体が急変して死亡ということもあり得るのだ。なぜ融通が利かないかは秩序の問題なのだろう。ともかく具合の悪い人が病院に来ているわけである。ゆえに誰だって早く診てもらいたい。しかし、救急車で運ばれるくらいでないと、優先的には診てもらえないのだ。そうしなければ秩序が保てないからである。
しかも大病院の受付の人は事務系の人であって医師でも看護師でもない。ゆえに専門的な判断をすることはできない。また普通はそのような権限もないだろう。よって彼もヘタをすると長い順番待ちを強いられたかもしれないのだ。もしそうなっていたら、取り返しのつかない事態になっていたかもしれない。
その意味でひじょうに幸運だったと思う。
次は婦人部桐生支区組長の記事だが、かなり問題のある内容である。まず、見出しが問題である。日達上人と池田大作氏を並べて表記した上で、大聖人の弟子ではなかった! などと書いている。これは編集部のシワザだろう。まったくケシカランことだ。
私は五十年間、学会に籍を置き細井日達書写の御本尊を頂いていましたが、平成二十五年、御本尊を桐生市にある学会の会館に返納し、顕正会に入会させて頂いたのです。
まず、日達上人の御本尊を創価学会の会館に返納するのがおかしい。彼女はどこかの正宗寺院で入信し、そこで御本尊を頂戴したはずなのだ。ゆえに返納するのであれば、そちらに返納するのが筋だろう。
ところが「私が頂いた御本尊なのに」という執着が消えず・・・
ようするに未活動になってしまったそうである。よくあるパターンだ。
ところで上掲は図らずも今の顕正会のトレンドをよくあらわしていると思う。日達上人・日顕上人の御本尊を用いないという方針のことだ。彼女自身はそれに納得していなかった。ゆえに未活動になってしまったわけである。
しかし、今こうして登壇しているのは信心に目覚めたからである。もちろん、顕正会流の信心だ。
私が信じ祈っていた細井日達書写の御本尊では大聖人様と繋がっていない、絶対に信じてはいけない御本尊だったのだ・・・
もはやオシマイである。顕正会は大謗法団体に成り下がってしまった。こんな記事を顕正新聞に載せているようでは、ダメである。
なるほど、浅井先生の予言が当たらないのも道理である。諸天からも完全に見放されてしまった。それにもかかわらず、ただひたすら執念だけで組織を維持している。その根性は大したものであるが、しかし、ハタメイワクな話である。何しろ大勢の人間を巻き込んでいるわけだから・・・
学会では「南無妙法蓮華経」は自分自身であると教えられていましたが・・・
沖浦氏の言っていることはわりと創価学会内でも言われていることのようである。
また埼玉県のある市長選挙で、候補者が五千万円を創価学会に支払って票集めをお願いした場面を目撃した・・・
婦人部越谷支区部長の記事である。もしこれが事実ならば大事件だろう。顕正新聞を隈なく読んでいると、このような驚くべき情報がそこそこの頻度で出てくる。しかし、同記事には次のようなくだりもある。
「ほーら出たよー、顕正会の特殊な思想」
これは日本会議系の人物とのやり取りであるが、彼らも彼らだが顕正会も顕正会だろう。ようするに、どちらも平均的な日本人の感覚からすれば特殊な思想であり、どっちもどっちということなのだ。ぶっちゃけ言えば、ヘンな連中ということだろう。ゆえに前掲のようなスクープ情報も、ようは話半分であり、最初から誰も信用していないのだ。もしこれが一般紙であれば、大スクープ情報であり、大騒ぎになっているはずである。逆に言うと、顕正新聞はしょせん三流紙レベルということだ。
ネット座談会・・・
第六回モンゴル集会の記事があって、そこに出てくる言葉である。なるほど、ネット座談会とは斬新だ。
モンゴル顕正会員こそ、恋慕渇仰の勤行を根本に二百万の石垣を積み・・・・
女子部総務の発言である。これまで何度も言ってきたことだが、日本の成果と海外の成果をごちゃ混ぜにしたらダメだろう。二百万は日本人ないし日本在住の外国人だけでカウントを取るべきなのだ。そうしなければ最悪の場合、顕正会員は二百万人、しかし、全員がアフリカ人ということにもなりかねないのだ。それで日本に国立戒壇を建てるというのは、まるでツジツマの合わない話である。
次は男子部第七十九隊総支隊長補の体験発表である。彼は脳幹梗塞という重篤な病気に見舞われた。
曽てない異変を感じた私は、近くの総合病院に駆け込み、受付係に回らぬ舌で症状を話すと、事態を重く見たその人は私を車椅子に乗せ、CTとMRIの撮影、血液検査、診察と、誰よりも早く行なってくれたのです。
これは幸運だった。大きな病院は融通が利かない。最悪、順番待ちの間に容体が急変して死亡ということもあり得るのだ。なぜ融通が利かないかは秩序の問題なのだろう。ともかく具合の悪い人が病院に来ているわけである。ゆえに誰だって早く診てもらいたい。しかし、救急車で運ばれるくらいでないと、優先的には診てもらえないのだ。そうしなければ秩序が保てないからである。
しかも大病院の受付の人は事務系の人であって医師でも看護師でもない。ゆえに専門的な判断をすることはできない。また普通はそのような権限もないだろう。よって彼もヘタをすると長い順番待ちを強いられたかもしれないのだ。もしそうなっていたら、取り返しのつかない事態になっていたかもしれない。
その意味でひじょうに幸運だったと思う。
次は婦人部桐生支区組長の記事だが、かなり問題のある内容である。まず、見出しが問題である。日達上人と池田大作氏を並べて表記した上で、大聖人の弟子ではなかった! などと書いている。これは編集部のシワザだろう。まったくケシカランことだ。
私は五十年間、学会に籍を置き細井日達書写の御本尊を頂いていましたが、平成二十五年、御本尊を桐生市にある学会の会館に返納し、顕正会に入会させて頂いたのです。
まず、日達上人の御本尊を創価学会の会館に返納するのがおかしい。彼女はどこかの正宗寺院で入信し、そこで御本尊を頂戴したはずなのだ。ゆえに返納するのであれば、そちらに返納するのが筋だろう。
ところが「私が頂いた御本尊なのに」という執着が消えず・・・
ようするに未活動になってしまったそうである。よくあるパターンだ。
ところで上掲は図らずも今の顕正会のトレンドをよくあらわしていると思う。日達上人・日顕上人の御本尊を用いないという方針のことだ。彼女自身はそれに納得していなかった。ゆえに未活動になってしまったわけである。
しかし、今こうして登壇しているのは信心に目覚めたからである。もちろん、顕正会流の信心だ。
私が信じ祈っていた細井日達書写の御本尊では大聖人様と繋がっていない、絶対に信じてはいけない御本尊だったのだ・・・
もはやオシマイである。顕正会は大謗法団体に成り下がってしまった。こんな記事を顕正新聞に載せているようでは、ダメである。
なるほど、浅井先生の予言が当たらないのも道理である。諸天からも完全に見放されてしまった。それにもかかわらず、ただひたすら執念だけで組織を維持している。その根性は大したものであるが、しかし、ハタメイワクな話である。何しろ大勢の人間を巻き込んでいるわけだから・・・
学会では「南無妙法蓮華経」は自分自身であると教えられていましたが・・・
沖浦氏の言っていることはわりと創価学会内でも言われていることのようである。
2017/10/25
エダノンヒキイル
引き続き顕正新聞第1419号を見ていこう。
先生の三たびの諫暁により諸天は動き・・・
第三十女子部長の発言である。続きの文章には、安倍政権崩壊近しを大確信、と書かれている。ただ現状では崩壊どころか盤石であり、少なくとも来秋の総裁選までは続くと考えないといけないだろう。それどころか超長期政権も夢ではなくなってきた。
国家神道の大罰により、原爆投下の悲惨を味わった広島の地に浅井先生をお迎えし・・・
第三十女子部長は中国地方を統括しているらしい。それにしても上掲はいかがなものかと思う。ようするになぜに広島が犠牲になったのかである。国家神道の大罰が広島・長崎に下る理由がまったく示されていない点が不満なのだ。
次は第四十一女子部長であるが、この人は新潟方面のリーダーらしい。
過去十二回も新潟に足を運んでは、数々の魔障から新潟の組織をお守り下さり・・・
ほう、十二回という細かい数字まで把握している点が凄いことだ。確かに新潟は地方組織としてはかなり早い時期から伸びており、特に女子部の活躍が顕著だった。しかし、交代人事が頻繁に行なわれており、あれ? あの人はどうしちゃったのかな? というような人物が何人も思い浮かぶくらいである。魔障とはその辺のことを言っているのかもしれない。
最後、先生をお迎えするに相応しい大成長を・・・
来年、二万人の新潟大会が行なわれる予定なのだが、浅井先生としてはそれが最後の新潟訪問になるらしい。先生自らがそのように発言しているし、幹部たちもそのように思っているわけだろう。何回も言っているように、これは先生の年齢的な限界を示しているわけだ。
次は女子部総務の記事である。
秋田市全戸配布が完遂できるまで進められており・・・
基礎教学書の宣伝文の配布である。確かに全戸配布は凄いことだが、しょせんはビラ・チラシの類である。こう書けば活動会員たちが憤るのは百も承知の上で書いた。なぜならばそれが事実だからである。一軒一軒訪問して手渡しするならばまだしも、ポストに投函するだけならば他のビラ・チラシと分別がつかない。ようは多くの人がロクに見もしないで捨ててしまうことになるのだ。
深緑に映えるナツズイセン(夏水仙)
拙ブログではあまり取り上げた記憶がないのだが、これは「本部庭園の四季」と題する連載である。主には花々の写真が掲載されている。地味ながら悪くはないと思う。しかもご覧のようにキャプションが入ると、花鳥風月に疎いわたくしにはありがたい。
しかし、深緑? 夏? 何を今頃言っておるのかと思う。
ああ、違った。今は十月下旬だが、取り上げている新聞は九月十五日号なので、それほどおかしくはない。ようはわたくしのほうがおかしいのだ。
なぜか最近は更新が滞り気味であり、その分、顕正新聞も溜まり気味である。
さて、次は第十八男子部長である。
この王侯貴族のごとき奢りの元ガネは、御遺命を売り渡した見返りの学会からの莫大な供養ではないか・・・
わたくしは元ガネという表現に興味を持った。一般的な辞書には存在しない語彙であるが、前後の文脈から言っている意味は誰もが容易にわかるはずである。なかなかのセンスだと思った。
しかし、言っている内容が古い。何しろ宗門が創価学会を破門にして、すでに四半世紀からの歳月が流れているのである。いつまで言い続けるつもりだろうか?
次の婦人部総務の発言はやや事実に反すると思う。
そして先生の三たびにわたる「安倍首相辞任要求」によって、森友疑惑・加計疑惑が噴出するにつれ・・・
浅井先生は既存のマスメディアの情報に便乗しているだけ、という事実を忘れてはならないだろう。テレビや新聞、あるいはネットなども含めて、まだ誰も発信していない段階で浅井先生が初めて言い出したことならば凄いと思う。しかし、事実は逆である。
これは原発問題の時も同じである。
ただし、顕正新聞特集号の効果は千万が一分くらいの影響力を持っているのかもしれない。原発問題でもモリカケ問題でも、活動会員たちが熱心に特集号を配ったことが、多少なりとも世論に影響を与えたかもしれないということは言ってもいいと思う。
とは言え、上掲ないし次掲は浅井先生が中心になって世の中を動かしているみたいな感じがするので、さすがにそれは勘違いもいいところだろう。
(先生の)師子吼に諸天が忽ち感応し・・・
やはり今回の選挙結果を見ると、諸天はどうしちゃったのかな? とイヤミを言いたくなるところである。
次の男子部総務の記事も同様だ。
安倍独裁政権も先生の諫めによって急にガタガタになり・・・
諸天が呼応する凄まじさを見ては・・・
ところで、ウッカリながらも沖浦氏のコメントを拝見するまで気がつかなかったことだが、公明党の得票数が大幅に下落しているようである。
自公圧勝という報道を目の当たりにして、実際、自公で三百議席を超える現実を思えば、公明党が得意とする全員当選を果たせなかったことくらい、大したことではないように思っていた。しかし、あまり詳しくは報道されていないものの、公明党の山口代表の意気消沈した写真だけがやけに印象に残っていた。その意味がようやくわかったわけだ。
他の政党ならば、小選挙区での取りこぼしなどは日常茶飯事であり、候補者本人はともかくとして政党全体としては大した痛手とはならない。しかし、公明党は全員当選が党是なので、それだけでも大ダメージなのである。しかもである。なんと比例区で五議席も減らしてしまったというから驚きである。公明党もいよいよオワコンの時代に突入したのだろうか?
顕正会的には好都合のネタではあるのだろう。
わたくしの思うに、これは少し遡って考えれば、よくわかる話なのだ。公明党は政権与党内でブレーキ役を果たすみたいなことを言っていた。ところが安保法制をめぐる応酬の中で、結局は何のブレーキにもなっていない事情が見えてきてしまった。
そこに今回、小池新党が登場し、当初は安倍政権に代わる、新たな日本の希望となり得る存在だと思われた。ところが公認問題で馬脚をあらわし、有権者を落胆させてしまった。むしろその時に立ち上がったエダノン(?)が俄かに脚光を浴び、結果的にもエダノン率いる立憲民主党が大躍進した。
公明党支持の有権者だって思うだろう。立憲民主のほうが筋が通っているのではないかと。公明党はブレーキ役などと言っているけど、ぜんぜんダメじゃないかと。
以上、与党圧勝の中でかき消されてしまったようなアンバイながらも、公明党はけっこう深刻な状況なのかもしれない。
先生の三たびの諫暁により諸天は動き・・・
第三十女子部長の発言である。続きの文章には、安倍政権崩壊近しを大確信、と書かれている。ただ現状では崩壊どころか盤石であり、少なくとも来秋の総裁選までは続くと考えないといけないだろう。それどころか超長期政権も夢ではなくなってきた。
国家神道の大罰により、原爆投下の悲惨を味わった広島の地に浅井先生をお迎えし・・・
第三十女子部長は中国地方を統括しているらしい。それにしても上掲はいかがなものかと思う。ようするになぜに広島が犠牲になったのかである。国家神道の大罰が広島・長崎に下る理由がまったく示されていない点が不満なのだ。
次は第四十一女子部長であるが、この人は新潟方面のリーダーらしい。
過去十二回も新潟に足を運んでは、数々の魔障から新潟の組織をお守り下さり・・・
ほう、十二回という細かい数字まで把握している点が凄いことだ。確かに新潟は地方組織としてはかなり早い時期から伸びており、特に女子部の活躍が顕著だった。しかし、交代人事が頻繁に行なわれており、あれ? あの人はどうしちゃったのかな? というような人物が何人も思い浮かぶくらいである。魔障とはその辺のことを言っているのかもしれない。
最後、先生をお迎えするに相応しい大成長を・・・
来年、二万人の新潟大会が行なわれる予定なのだが、浅井先生としてはそれが最後の新潟訪問になるらしい。先生自らがそのように発言しているし、幹部たちもそのように思っているわけだろう。何回も言っているように、これは先生の年齢的な限界を示しているわけだ。
次は女子部総務の記事である。
秋田市全戸配布が完遂できるまで進められており・・・
基礎教学書の宣伝文の配布である。確かに全戸配布は凄いことだが、しょせんはビラ・チラシの類である。こう書けば活動会員たちが憤るのは百も承知の上で書いた。なぜならばそれが事実だからである。一軒一軒訪問して手渡しするならばまだしも、ポストに投函するだけならば他のビラ・チラシと分別がつかない。ようは多くの人がロクに見もしないで捨ててしまうことになるのだ。
深緑に映えるナツズイセン(夏水仙)
拙ブログではあまり取り上げた記憶がないのだが、これは「本部庭園の四季」と題する連載である。主には花々の写真が掲載されている。地味ながら悪くはないと思う。しかもご覧のようにキャプションが入ると、花鳥風月に疎いわたくしにはありがたい。
しかし、深緑? 夏? 何を今頃言っておるのかと思う。
ああ、違った。今は十月下旬だが、取り上げている新聞は九月十五日号なので、それほどおかしくはない。ようはわたくしのほうがおかしいのだ。
なぜか最近は更新が滞り気味であり、その分、顕正新聞も溜まり気味である。
さて、次は第十八男子部長である。
この王侯貴族のごとき奢りの元ガネは、御遺命を売り渡した見返りの学会からの莫大な供養ではないか・・・
わたくしは元ガネという表現に興味を持った。一般的な辞書には存在しない語彙であるが、前後の文脈から言っている意味は誰もが容易にわかるはずである。なかなかのセンスだと思った。
しかし、言っている内容が古い。何しろ宗門が創価学会を破門にして、すでに四半世紀からの歳月が流れているのである。いつまで言い続けるつもりだろうか?
次の婦人部総務の発言はやや事実に反すると思う。
そして先生の三たびにわたる「安倍首相辞任要求」によって、森友疑惑・加計疑惑が噴出するにつれ・・・
浅井先生は既存のマスメディアの情報に便乗しているだけ、という事実を忘れてはならないだろう。テレビや新聞、あるいはネットなども含めて、まだ誰も発信していない段階で浅井先生が初めて言い出したことならば凄いと思う。しかし、事実は逆である。
これは原発問題の時も同じである。
ただし、顕正新聞特集号の効果は千万が一分くらいの影響力を持っているのかもしれない。原発問題でもモリカケ問題でも、活動会員たちが熱心に特集号を配ったことが、多少なりとも世論に影響を与えたかもしれないということは言ってもいいと思う。
とは言え、上掲ないし次掲は浅井先生が中心になって世の中を動かしているみたいな感じがするので、さすがにそれは勘違いもいいところだろう。
(先生の)師子吼に諸天が忽ち感応し・・・
やはり今回の選挙結果を見ると、諸天はどうしちゃったのかな? とイヤミを言いたくなるところである。
次の男子部総務の記事も同様だ。
安倍独裁政権も先生の諫めによって急にガタガタになり・・・
諸天が呼応する凄まじさを見ては・・・
ところで、ウッカリながらも沖浦氏のコメントを拝見するまで気がつかなかったことだが、公明党の得票数が大幅に下落しているようである。
自公圧勝という報道を目の当たりにして、実際、自公で三百議席を超える現実を思えば、公明党が得意とする全員当選を果たせなかったことくらい、大したことではないように思っていた。しかし、あまり詳しくは報道されていないものの、公明党の山口代表の意気消沈した写真だけがやけに印象に残っていた。その意味がようやくわかったわけだ。
他の政党ならば、小選挙区での取りこぼしなどは日常茶飯事であり、候補者本人はともかくとして政党全体としては大した痛手とはならない。しかし、公明党は全員当選が党是なので、それだけでも大ダメージなのである。しかもである。なんと比例区で五議席も減らしてしまったというから驚きである。公明党もいよいよオワコンの時代に突入したのだろうか?
顕正会的には好都合のネタではあるのだろう。
わたくしの思うに、これは少し遡って考えれば、よくわかる話なのだ。公明党は政権与党内でブレーキ役を果たすみたいなことを言っていた。ところが安保法制をめぐる応酬の中で、結局は何のブレーキにもなっていない事情が見えてきてしまった。
そこに今回、小池新党が登場し、当初は安倍政権に代わる、新たな日本の希望となり得る存在だと思われた。ところが公認問題で馬脚をあらわし、有権者を落胆させてしまった。むしろその時に立ち上がったエダノン(?)が俄かに脚光を浴び、結果的にもエダノン率いる立憲民主党が大躍進した。
公明党支持の有権者だって思うだろう。立憲民主のほうが筋が通っているのではないかと。公明党はブレーキ役などと言っているけど、ぜんぜんダメじゃないかと。
以上、与党圧勝の中でかき消されてしまったようなアンバイながらも、公明党はけっこう深刻な状況なのかもしれない。
2017/10/22
キボウトゼツボウ
今日は総選挙の投票日である。まだ朝の八時半なので、どのような結果が出るかはわからない。とは言うものの、今月初旬に書いた拙稿を読み返すと、その後の情勢変化の凄まじさをまざまざと感じさせるものがある。わたくしの当たらぬ予言云々は、文字通り当たらぬ結果に終わりそうだ。
しかし、わたくしはともかくである。
浅井先生の予言が今回は当たるようにも思えたが、どうなんだろう、今の段階で結論を書くのは早計ではあるものの、現状では外れの公算が大きそうである。もしそうなれば、先生はとことん運に見放された人生だった、ということになるだろうか?
顕正新聞第1419号を見ていこう。
一面の竜の口会の会長講演は後で触れるかもしれないが、その前に総男子部長の発言を見てみたい。八月度の班長会、すなわち八月末時点の発言であることが、返って興味深いのではないかと思う。
権力の座から引きずり降ろされた瞬間、これまで隠し続けた戦後最大の疑獄事件の闇が暴かれ、悲惨な末路を辿ることは想像に難くなく・・・
安倍政権がわずか四ヶ月でガタガタになってきた不思議を見れば・・・
今日の結果次第でどっちに転ぶかわからない。もちろん安倍首相のやっていることが不正であるならば、どのような選挙結果に終わろうとも引き続き疑惑は追及されてしかるべきだろう。もしそうでなければ完全なる独裁体制の確立を意味するわけであり、恐るべき暗黒社会の現出である。
前にも書いたが、わたくしの関心は安倍首相の末路ではなく、むしろ周辺の人たちの態度・対応である。御用評論家たちがどのような言動をするのか、それを見てみたいと思っている。
この意味は、ようは顕正会の大幹部たちへの牽制でもあるのだ。
今は広宣流布の最終段階だと言っている。そして数年後にはいわゆる広宣流布の決戦場たる二十年代に突入する。そこで最後の戦いが繰り広げられるのだと言っているわけである。
当然ながら、これは浅井先生が言っていることである。それを幹部たちは口マネで言っているわけだ。
しかし、先生にとっての最後の戦いの意味は、年齢的な意味も含まれるのだろう。そこが大問題なのである。
ようするに現状では広宣流布が実現する可能性は低い。おそらくは無理だろう。それにもかかわらず、浅井先生を先頭に幹部たち全員が広宣流布の絶対を言っているわけである。
では、それが実現しなかった時はどうするのか、誰が責任を取るのか、である。
不謹慎な言い方だが、たぶんその頃には浅井先生はこの世にいないだろう。ゆえに責任は残った人たちが取らないといけない。はたして、その時にどのような責任の取り方をするのだろうか、ということなのである。
さて、次は副総男子部長の発言である。
かつて百万法城が旧暦の十月十三日に成就したことを合わせ見ては・・・
何を言っておるものかと思う。この人も焼きが回ってきたのだろうか?
まず、疑って掛かれば上掲の事実関係がアヤシイわけで、数字のマジックで都合よく帳尻合わせをすることはいくらでも可能だろう。百歩譲って、その数字が紛れもない事実だったとしても、では今までの浅井先生の予言の外れっぷりは何なのか、である。百万をいつまでに達成するとか、三百万だとか、一千万だとか、その都度目標を定めてきたけれども、何の総括もなく勝手に下方修正してきたという事実をどうするのか、である。まさか彼がこれらのことを知らないわけがない。つまりは都合のよい事実だけを拾い集めて、逆に都合の悪い事実には目をつぶって、話を作っているわけである。
婦人部の大幹部の発言も拾っておこう。総合、副総合、副総合、総務の順番である。
しかし先生の三たびの諫暁が諸天を動かし・・・
諸天のテンポの早さには、日々、驚嘆するばかり・・・
諸天が感応したのだ・・・
諸天の描くシナリオ・・・
いずれも八月末時点の発言である。あたかも安倍政権の崩壊が確実であるかのように書いてしまっているわけだが、確かに今日の結果が自民の大敗となれば諸天のシナリオもなかなかのものと言えるだろう。はたして、それ以外にどのようなシナリオが待っているのか、引き続き注目したい。
ちなみに昔から言われていることで、投票日が雨の時は公明党が有利ということが本当ならば、今日の全国的な悪天候は皮肉にも創価学会・公明党を諸天が守ったことになるだろう。
しかし、わたくしはともかくである。
浅井先生の予言が今回は当たるようにも思えたが、どうなんだろう、今の段階で結論を書くのは早計ではあるものの、現状では外れの公算が大きそうである。もしそうなれば、先生はとことん運に見放された人生だった、ということになるだろうか?
顕正新聞第1419号を見ていこう。
一面の竜の口会の会長講演は後で触れるかもしれないが、その前に総男子部長の発言を見てみたい。八月度の班長会、すなわち八月末時点の発言であることが、返って興味深いのではないかと思う。
権力の座から引きずり降ろされた瞬間、これまで隠し続けた戦後最大の疑獄事件の闇が暴かれ、悲惨な末路を辿ることは想像に難くなく・・・
安倍政権がわずか四ヶ月でガタガタになってきた不思議を見れば・・・
今日の結果次第でどっちに転ぶかわからない。もちろん安倍首相のやっていることが不正であるならば、どのような選挙結果に終わろうとも引き続き疑惑は追及されてしかるべきだろう。もしそうでなければ完全なる独裁体制の確立を意味するわけであり、恐るべき暗黒社会の現出である。
前にも書いたが、わたくしの関心は安倍首相の末路ではなく、むしろ周辺の人たちの態度・対応である。御用評論家たちがどのような言動をするのか、それを見てみたいと思っている。
この意味は、ようは顕正会の大幹部たちへの牽制でもあるのだ。
今は広宣流布の最終段階だと言っている。そして数年後にはいわゆる広宣流布の決戦場たる二十年代に突入する。そこで最後の戦いが繰り広げられるのだと言っているわけである。
当然ながら、これは浅井先生が言っていることである。それを幹部たちは口マネで言っているわけだ。
しかし、先生にとっての最後の戦いの意味は、年齢的な意味も含まれるのだろう。そこが大問題なのである。
ようするに現状では広宣流布が実現する可能性は低い。おそらくは無理だろう。それにもかかわらず、浅井先生を先頭に幹部たち全員が広宣流布の絶対を言っているわけである。
では、それが実現しなかった時はどうするのか、誰が責任を取るのか、である。
不謹慎な言い方だが、たぶんその頃には浅井先生はこの世にいないだろう。ゆえに責任は残った人たちが取らないといけない。はたして、その時にどのような責任の取り方をするのだろうか、ということなのである。
さて、次は副総男子部長の発言である。
かつて百万法城が旧暦の十月十三日に成就したことを合わせ見ては・・・
何を言っておるものかと思う。この人も焼きが回ってきたのだろうか?
まず、疑って掛かれば上掲の事実関係がアヤシイわけで、数字のマジックで都合よく帳尻合わせをすることはいくらでも可能だろう。百歩譲って、その数字が紛れもない事実だったとしても、では今までの浅井先生の予言の外れっぷりは何なのか、である。百万をいつまでに達成するとか、三百万だとか、一千万だとか、その都度目標を定めてきたけれども、何の総括もなく勝手に下方修正してきたという事実をどうするのか、である。まさか彼がこれらのことを知らないわけがない。つまりは都合のよい事実だけを拾い集めて、逆に都合の悪い事実には目をつぶって、話を作っているわけである。
婦人部の大幹部の発言も拾っておこう。総合、副総合、副総合、総務の順番である。
しかし先生の三たびの諫暁が諸天を動かし・・・
諸天のテンポの早さには、日々、驚嘆するばかり・・・
諸天が感応したのだ・・・
諸天の描くシナリオ・・・
いずれも八月末時点の発言である。あたかも安倍政権の崩壊が確実であるかのように書いてしまっているわけだが、確かに今日の結果が自民の大敗となれば諸天のシナリオもなかなかのものと言えるだろう。はたして、それ以外にどのようなシナリオが待っているのか、引き続き注目したい。
ちなみに昔から言われていることで、投票日が雨の時は公明党が有利ということが本当ならば、今日の全国的な悪天候は皮肉にも創価学会・公明党を諸天が守ったことになるだろう。
2017/10/16
コウレイカシャカイ
コメント欄が賑わっている。少し前、沖浦氏が投稿を控えていた時にはわりと静かだったことを思うと、さしずめ沖浦氏は嵐を呼ぶ男(?)なのだろう。ようは人気者なのだ。
普通は72歳になると、仕事なんかほとんどありませんし出来ません。
それが多忙の日々を送っている。
これは凄いことである。過去にも繰り返し書いていることだが、今の超高齢化社会における最大の課題は高齢者の生き方であり、同時に死に方でもあるのだ。いわゆる介護問題にしても、ただ単に予算をたくさん組めばそれで済む話ではないだろう。こういうことを政治家が言うと大問題になるけれども、わたくしの立場ならば構わないだろう、早い話が将来性のない人のために莫大な予算を使って何のメリットがあるのか、である。ましてや今は医学の飛躍的な進歩で、昔ならばとっくに死んでいてもおかしくないような状態のまま、何年も生かされているようなケースも少なくないのだ。しかし、だからと言って生きている人間を意図的に死なせるわけには行かない。それは殺人である。
超高齢社会においては、いわばポンコツになった生産性のない人間がたくさんいて、その社会的負担がとてつもなく大きくて、ニッチもサッチも行かない状況にならざるを得ないのである。
ゆえにそうした中で、元気な老人はその存在自体が貴重であり、今後も末永く活躍されることが望まれる。まさに沖浦氏はそのお手本のような存在なのだ。
さて、今日は顕正新聞の続きである。
宗門では年一回、「寺族同心会」と称して、僧侶とその妻が一堂に本山に集う会が開かれるのですが、身に着けるものはすべてが最高級品・ブランド物で、同伴する妻も必ず新調した着物を着ては妍を競います。
婦人部京都支区総班長の登壇記事である。彼女は若い頃、創価学会の総局と呼ばれるところで働いていたそうで、後に宗門の僧侶と結婚したという。その経験談ないし目撃談を語っているわけだ。
上掲について思うことは、年一回くらいならば許してやりたい、というきわめて主観的な感想である。当然ながら、僧侶にあるまじき、という意見もあるだろうし、まさに顕正会全体の意見がそれなのだろう。
おそらく今は宗門側にしても、顕正会のみならず創価学会でも目を光らせているわけだから、そういう意味では自粛というか是正の方向性で動いているのではないかと想像される。
ましてや近年は僧侶オワコンの時代になりつつあるわけで、世間一般の尺度からしても同様のことが言えるのではないかと思う。そりゃそうだろう、自分たちの供養が僧侶の身に着けるブランド品に化けるのだと知れば、これほどバカバカしい話もあるまい。
私も正本堂に参詣しましたが、内部はすり鉢状の椅子席で、戒壇の大御本尊様を上から見下ろすようになっており、何とも恐れ多い限りでありました。
なるほど、御本尊を見下ろすのはどうかと思うところである。この反省もあってか、現在の奉安堂は見下ろすような構造にはなっていないはずである。
ちなみに椅子席についてはどうなのだろうか?
何となく顕正会の建てる国立戒壇は畳敷きのようなイメージがあるけれども、それはさすがに現実的ではないだろう。椅子席がダメということはないはずだ。現実に顕正会の会館でも確か青年会館などは椅子席になっているはずなので、おそらく国立戒壇もそれでいいのだろう。
・・・先生の諫暁のお叫びに、必ず宗門にも現証が現われ、目が覚め、清らかな富士門流の精神が蘇ること、大確信いたします。
現証とは何だろうか? 何か具体的な想定はあるのだろうか?
顕正会員が見えていない、気がついていないことを、わたくしは書いているつもりである。上掲の言い回しは、顕正会が全面的に正しくて宗門が全面的に間違っている、という雰囲気が濃厚である。これが和解の道を閉ざしているのだと思う。このテイタラクでは五十年後も百年後も和解は実現していないだろう。そして顕正会はいつまでも正本堂のことをあれやこれやと言っているのだ。今はまだ記憶を残しているものの、五十年後にすり鉢状の椅子席がどうのこうのと言ったところで、もはやどうにもならないだろう。もちろん教義上の問題は半永久的に残る。しかし、そこに正本堂というアイテムを介する時、正本堂が存在しない今は御遺命守護の歴史も朽ち果てていく運命にあるのだ。
さて、八面には新潟女子部集会の様子が報道されている。この時の総合女子部長の指導から引用しよう。
大石寺の堅き伝統が、解散処分を機に、浅井先生によって顕正会で守られている・・・
遥拝勤行のことを言っているのかと思える文章だが、実際は違うのである。
そして今『戒壇の大御本尊様は秘蔵厳護し奉らくてはいけない』との大石寺の堅き伝統が・・・
普通に読むと、理解不能である。宗門では堅き伝統が守られていないが、顕正会では守られている。では、どうやって守っているのか? わたくしにはさっぱりわからない。
とうとう総合女子部長もおかしくなってしまったのか、あるいはわたくしの理解力が乏しいだけなのか、何とも言えないところである。
前後するが、七面の左側の記事から引用する。
長行ができるお経本を手にしては嬉しさでいっぱいになり・・・
女性男子部員の「正義にめざめて」である。どうやら今の創価学会では長行を読まないらしい。長行が載っている経本は全廃されてしまったのだろうか?
普通は72歳になると、仕事なんかほとんどありませんし出来ません。
それが多忙の日々を送っている。
これは凄いことである。過去にも繰り返し書いていることだが、今の超高齢化社会における最大の課題は高齢者の生き方であり、同時に死に方でもあるのだ。いわゆる介護問題にしても、ただ単に予算をたくさん組めばそれで済む話ではないだろう。こういうことを政治家が言うと大問題になるけれども、わたくしの立場ならば構わないだろう、早い話が将来性のない人のために莫大な予算を使って何のメリットがあるのか、である。ましてや今は医学の飛躍的な進歩で、昔ならばとっくに死んでいてもおかしくないような状態のまま、何年も生かされているようなケースも少なくないのだ。しかし、だからと言って生きている人間を意図的に死なせるわけには行かない。それは殺人である。
超高齢社会においては、いわばポンコツになった生産性のない人間がたくさんいて、その社会的負担がとてつもなく大きくて、ニッチもサッチも行かない状況にならざるを得ないのである。
ゆえにそうした中で、元気な老人はその存在自体が貴重であり、今後も末永く活躍されることが望まれる。まさに沖浦氏はそのお手本のような存在なのだ。
さて、今日は顕正新聞の続きである。
宗門では年一回、「寺族同心会」と称して、僧侶とその妻が一堂に本山に集う会が開かれるのですが、身に着けるものはすべてが最高級品・ブランド物で、同伴する妻も必ず新調した着物を着ては妍を競います。
婦人部京都支区総班長の登壇記事である。彼女は若い頃、創価学会の総局と呼ばれるところで働いていたそうで、後に宗門の僧侶と結婚したという。その経験談ないし目撃談を語っているわけだ。
上掲について思うことは、年一回くらいならば許してやりたい、というきわめて主観的な感想である。当然ながら、僧侶にあるまじき、という意見もあるだろうし、まさに顕正会全体の意見がそれなのだろう。
おそらく今は宗門側にしても、顕正会のみならず創価学会でも目を光らせているわけだから、そういう意味では自粛というか是正の方向性で動いているのではないかと想像される。
ましてや近年は僧侶オワコンの時代になりつつあるわけで、世間一般の尺度からしても同様のことが言えるのではないかと思う。そりゃそうだろう、自分たちの供養が僧侶の身に着けるブランド品に化けるのだと知れば、これほどバカバカしい話もあるまい。
私も正本堂に参詣しましたが、内部はすり鉢状の椅子席で、戒壇の大御本尊様を上から見下ろすようになっており、何とも恐れ多い限りでありました。
なるほど、御本尊を見下ろすのはどうかと思うところである。この反省もあってか、現在の奉安堂は見下ろすような構造にはなっていないはずである。
ちなみに椅子席についてはどうなのだろうか?
何となく顕正会の建てる国立戒壇は畳敷きのようなイメージがあるけれども、それはさすがに現実的ではないだろう。椅子席がダメということはないはずだ。現実に顕正会の会館でも確か青年会館などは椅子席になっているはずなので、おそらく国立戒壇もそれでいいのだろう。
・・・先生の諫暁のお叫びに、必ず宗門にも現証が現われ、目が覚め、清らかな富士門流の精神が蘇ること、大確信いたします。
現証とは何だろうか? 何か具体的な想定はあるのだろうか?
顕正会員が見えていない、気がついていないことを、わたくしは書いているつもりである。上掲の言い回しは、顕正会が全面的に正しくて宗門が全面的に間違っている、という雰囲気が濃厚である。これが和解の道を閉ざしているのだと思う。このテイタラクでは五十年後も百年後も和解は実現していないだろう。そして顕正会はいつまでも正本堂のことをあれやこれやと言っているのだ。今はまだ記憶を残しているものの、五十年後にすり鉢状の椅子席がどうのこうのと言ったところで、もはやどうにもならないだろう。もちろん教義上の問題は半永久的に残る。しかし、そこに正本堂というアイテムを介する時、正本堂が存在しない今は御遺命守護の歴史も朽ち果てていく運命にあるのだ。
さて、八面には新潟女子部集会の様子が報道されている。この時の総合女子部長の指導から引用しよう。
大石寺の堅き伝統が、解散処分を機に、浅井先生によって顕正会で守られている・・・
遥拝勤行のことを言っているのかと思える文章だが、実際は違うのである。
そして今『戒壇の大御本尊様は秘蔵厳護し奉らくてはいけない』との大石寺の堅き伝統が・・・
普通に読むと、理解不能である。宗門では堅き伝統が守られていないが、顕正会では守られている。では、どうやって守っているのか? わたくしにはさっぱりわからない。
とうとう総合女子部長もおかしくなってしまったのか、あるいはわたくしの理解力が乏しいだけなのか、何とも言えないところである。
前後するが、七面の左側の記事から引用する。
長行ができるお経本を手にしては嬉しさでいっぱいになり・・・
女性男子部員の「正義にめざめて」である。どうやら今の創価学会では長行を読まないらしい。長行が載っている経本は全廃されてしまったのだろうか?
2017/10/10
シリメツレツ
沖浦氏の今朝のコメントを読んで思うことは、かく言う沖浦氏自身が実は折伏的な生き方を貫いているのではないかということである。これを自己矛盾と言うのだろう。
そう思っていたら、直後にひじょうに厳しいコメントが寄せられた。
・・・正気の沙汰と思えない。自語相違と支離滅裂も甚だしい。
巌虎よ、オマエがいちばん矛盾しているのだ。
こう言われているわけであるが、特に積極的に反論する気分にはならない。なぜならば、しょせん人間なんてものは自己矛盾のカタマリみたいなものだからである。
ただし、それが組織ともなれば、大勢の人を巻き込むことになるわけだから、リーダーには大きな責任が生じてくる。わたくしのようにたった一人であれば、アイツは頭が狂っている、まったくどうしようもないヤツだ、と言われても、それはわたくし一人に対する評価であって、それ以上でもそれ以下でもないわけだが、それが組織であれば話が違ってくる。ゆえにわたくしは顕正会の批判もすれば宗門の批判もするわけである。
しかし、顕正会員から見ると、わたくしは猊下に対しては相当に甘くて、逆に浅井先生に対しては相当に厳しい、と映るようである。
これは顕正会員による浅井先生絶対論の裏返しだと思っていただくしかないだろう。
浅井先生が絶対であるとする根拠はどこにもない。それにもかかわらず、顕正会員たちは先生は絶対だと言う。だったら猊下にも同じ理屈がつけられるだろう。ましてや猊下は唯授一人の血脈相承を受けし御方なのである。この点はとてつもなく大きい。
結局、創価学会もそうだったが顕正会も同様で、これに対抗する有力な方法論が見当たらないので、いわゆる御相承の断絶みたいなことを言い出す始末なのである。
わたくしはこれに大反対である。何をトチ狂っておるものかと思う。
猊下は猊下として奉った上で、己の主義主張を貫けばいいのである。かつて顕正会で細井管長・阿部管長と申し上げていた時分は、まだそうした節度が保たれていたと思う。しかし、後に呼び捨てにするようになってからは、まさにタガが外れてしまったごとくで、もはや後戻りができなくなってしまっているのだ。
この点をぜひともお考えいただきたいものである。
さて、今日も顕正新聞の続きを見ていくが、わたくしのやっていることもようは矛盾の追及である。問題は矛盾の度合いだろう。先ほども書いたように、しょせん人間なんてものは矛盾だらけである。問題はその矛盾が許容範囲なのか、それともどうしようもないほどの深刻なる自己矛盾なのか、である。
以前、語義矛盾として、安倍政権の悪政は必ず裏目に出る、というような文章にツッコミを入れたことがあった。悪政が裏返ったら善政になるのでは、と指摘したのだ。顕正新聞側としては、なるほど、と思ったのか、それ以降の紙面にはその手の表現が消えたのだった。わたくしとしては事前にアゲアシ取りであると断ってはいたわけだが、顕正新聞側としてはこれを真摯に受け取ったわけである。
実はこの問題はけっこう重要なことを教えてくれているのだと思う。
総じて人間は、わりと簡単なミスについては、あっさりと己の非を認めるものなのである。ああ、これは失礼しました。自分のうっかりミスです。
ところがである。重大なミスを犯してしまった時には、一種のフリーズ状態になってしまって、そこで対応が止まってしまうのである。あるいは意固地になって、もしくは逆ギレして、自己正当化を図ろうとする場合もある。
これはもう、誰もが経験上、知っている事象だろうと思う。自分自身がそうなってしまっている場合もあるし、身近にそうした振る舞いをする人物を目の当たりにしている場合もある。
わざわざこういうことを書くことの意味は、自分自身が何か重大なミスをした時に見苦しい行動を取らないようにしたいという、ようは自戒の意味である。
さて、話を戻そう。
「今の学会員は池田先生を仏様としているから問題ない」
これは第五男子部長の記事に出てくる創価学会員のセリフである。彼は祖母の代からの創価学会員で、現在の年齢が二十歳、そして高校時代は高等部長として三百人の後輩を取りまとめていたそうである。凄い人物だ。
前後の脈絡は省略させていただくが、それにしても上掲のセリフが気になるところである。いわゆる会長本仏論が問題視されたのはけっこう昔のことである。その後、創価学会は会長本仏論を取り下げた。それが近年になって、復活したのだろうか?
「成仏なんて初めて聞いた…」
これも前後の脈絡は省略する。実は同じページの下段に男子部第八十一隊班長の記事があって、そこには創価学会員のセリフとして次のようなものが紹介されているのである。
「学会に入会して御本尊を頂いたら即、成仏だ」
今日の矛盾はこれである。先ほどの創価学会員は成仏なんて初めて聞いたと言っていた。しかるに今度の創価学会員は上掲のごとく言っているのだ。もっとも前者は二十歳の若者であり、後者は詳細は不明ながらも高齢と思われるので、その世代間のギャップが理由かもしれない。つまり、今の創価学会では成仏を教えていないということになるだろう。
学会では凡夫と仏様の境界の違いがわからず、「御本尊は自分の姿を映す鏡」などと大慢心の解釈がなされており・・・
沖浦氏が何か言ってきそうなところである。ちなみに、わたくし自身は上掲を大慢心の解釈だとは思っておらず、難信難解の仏法を平易に理解せしむるための一つの表現方法として、アリだと思う。まあ、これについてはまた別の機会にやりたい。
本年五月から自宅拠点をさせて頂いております・・・
わたくしは組織を離れて相当の年月が経つので記憶がアイマイであるが、確か自宅拠点は副長以上でないとできないルールだったはずである。この点、詳しい人がいれば、ぜひともご教示願いたいところである。
そう思っていたら、直後にひじょうに厳しいコメントが寄せられた。
・・・正気の沙汰と思えない。自語相違と支離滅裂も甚だしい。
巌虎よ、オマエがいちばん矛盾しているのだ。
こう言われているわけであるが、特に積極的に反論する気分にはならない。なぜならば、しょせん人間なんてものは自己矛盾のカタマリみたいなものだからである。
ただし、それが組織ともなれば、大勢の人を巻き込むことになるわけだから、リーダーには大きな責任が生じてくる。わたくしのようにたった一人であれば、アイツは頭が狂っている、まったくどうしようもないヤツだ、と言われても、それはわたくし一人に対する評価であって、それ以上でもそれ以下でもないわけだが、それが組織であれば話が違ってくる。ゆえにわたくしは顕正会の批判もすれば宗門の批判もするわけである。
しかし、顕正会員から見ると、わたくしは猊下に対しては相当に甘くて、逆に浅井先生に対しては相当に厳しい、と映るようである。
これは顕正会員による浅井先生絶対論の裏返しだと思っていただくしかないだろう。
浅井先生が絶対であるとする根拠はどこにもない。それにもかかわらず、顕正会員たちは先生は絶対だと言う。だったら猊下にも同じ理屈がつけられるだろう。ましてや猊下は唯授一人の血脈相承を受けし御方なのである。この点はとてつもなく大きい。
結局、創価学会もそうだったが顕正会も同様で、これに対抗する有力な方法論が見当たらないので、いわゆる御相承の断絶みたいなことを言い出す始末なのである。
わたくしはこれに大反対である。何をトチ狂っておるものかと思う。
猊下は猊下として奉った上で、己の主義主張を貫けばいいのである。かつて顕正会で細井管長・阿部管長と申し上げていた時分は、まだそうした節度が保たれていたと思う。しかし、後に呼び捨てにするようになってからは、まさにタガが外れてしまったごとくで、もはや後戻りができなくなってしまっているのだ。
この点をぜひともお考えいただきたいものである。
さて、今日も顕正新聞の続きを見ていくが、わたくしのやっていることもようは矛盾の追及である。問題は矛盾の度合いだろう。先ほども書いたように、しょせん人間なんてものは矛盾だらけである。問題はその矛盾が許容範囲なのか、それともどうしようもないほどの深刻なる自己矛盾なのか、である。
以前、語義矛盾として、安倍政権の悪政は必ず裏目に出る、というような文章にツッコミを入れたことがあった。悪政が裏返ったら善政になるのでは、と指摘したのだ。顕正新聞側としては、なるほど、と思ったのか、それ以降の紙面にはその手の表現が消えたのだった。わたくしとしては事前にアゲアシ取りであると断ってはいたわけだが、顕正新聞側としてはこれを真摯に受け取ったわけである。
実はこの問題はけっこう重要なことを教えてくれているのだと思う。
総じて人間は、わりと簡単なミスについては、あっさりと己の非を認めるものなのである。ああ、これは失礼しました。自分のうっかりミスです。
ところがである。重大なミスを犯してしまった時には、一種のフリーズ状態になってしまって、そこで対応が止まってしまうのである。あるいは意固地になって、もしくは逆ギレして、自己正当化を図ろうとする場合もある。
これはもう、誰もが経験上、知っている事象だろうと思う。自分自身がそうなってしまっている場合もあるし、身近にそうした振る舞いをする人物を目の当たりにしている場合もある。
わざわざこういうことを書くことの意味は、自分自身が何か重大なミスをした時に見苦しい行動を取らないようにしたいという、ようは自戒の意味である。
さて、話を戻そう。
「今の学会員は池田先生を仏様としているから問題ない」
これは第五男子部長の記事に出てくる創価学会員のセリフである。彼は祖母の代からの創価学会員で、現在の年齢が二十歳、そして高校時代は高等部長として三百人の後輩を取りまとめていたそうである。凄い人物だ。
前後の脈絡は省略させていただくが、それにしても上掲のセリフが気になるところである。いわゆる会長本仏論が問題視されたのはけっこう昔のことである。その後、創価学会は会長本仏論を取り下げた。それが近年になって、復活したのだろうか?
「成仏なんて初めて聞いた…」
これも前後の脈絡は省略する。実は同じページの下段に男子部第八十一隊班長の記事があって、そこには創価学会員のセリフとして次のようなものが紹介されているのである。
「学会に入会して御本尊を頂いたら即、成仏だ」
今日の矛盾はこれである。先ほどの創価学会員は成仏なんて初めて聞いたと言っていた。しかるに今度の創価学会員は上掲のごとく言っているのだ。もっとも前者は二十歳の若者であり、後者は詳細は不明ながらも高齢と思われるので、その世代間のギャップが理由かもしれない。つまり、今の創価学会では成仏を教えていないということになるだろう。
学会では凡夫と仏様の境界の違いがわからず、「御本尊は自分の姿を映す鏡」などと大慢心の解釈がなされており・・・
沖浦氏が何か言ってきそうなところである。ちなみに、わたくし自身は上掲を大慢心の解釈だとは思っておらず、難信難解の仏法を平易に理解せしむるための一つの表現方法として、アリだと思う。まあ、これについてはまた別の機会にやりたい。
本年五月から自宅拠点をさせて頂いております・・・
わたくしは組織を離れて相当の年月が経つので記憶がアイマイであるが、確か自宅拠点は副長以上でないとできないルールだったはずである。この点、詳しい人がいれば、ぜひともご教示願いたいところである。
2017/10/9
カデンリカ
沖浦氏は法門談義をご所望のようであるが、他の宿題がたくさん溜まっているので、しばらくお待ちいただくしかないだろう。物事には優先順位があるということだ。こう書けば、教義上の問題が最優先事項だろうと反論する人がいるかもしれないが、ともかく沖浦氏との法門談義はこれまでにも繰り返しやってきたことなので、今さら急ぐ必要もあるまい。
それよりも大沢氏からのコメントが重要である。直接は浅井先生へのヤンワリとした批判であるが、同時にわたくしの無知・無教養を指摘している意味もあるだろう。
ここでは具体的な文言を掲げないが、どうやら大学の設置基準がイヤラシイことになっているらしく、なぜか許認可を受ける前に校舎を建て始めなければいけないシステムなのだそうだ。その意味からすると、加計学園が認可前に建設工事を始めたことは何の問題もないことになるだろう。それを浅井先生は知らなかったのだと、大沢氏は言っているわけである。
しかし、ここは常識論ないし原理原則論で考えるべきところである。
認可を受ける前に工事をして、もし認可が下りなかったらどうするのか、という素朴な疑問がある。これについて一般的にはどのような回答が模範となるのか知らないが、常識的に考えれば事前に何らかの根回しが行なわれているだろうことは確実である。事前工作も何もしないで、莫大な費用を使って、それでもし認可されなかったら、大損である。そんなバカなことがあるわけがないのだ。
そしてこれまた常識論として、許認可制度そのものが贈収賄を生む温床となっている。もちろん許認可制度を撤廃することは難しいわけで、いわばそこが痛し痒しの構造的な問題ではあるのだろう。ともかく認可を受けるためにはさまざまの根回しが必要となる。ぶっちゃけ言えば、お上へ袖の下を握らせる必要があるわけだ。
こうした背景を踏まえれば、加計問題がどれほど深刻であるかがわかるだろう。何しろ加計孝太郎氏と安倍首相とは古くからの友人なのである。状況的には物凄くアヤシイと言わざるを得ないわけで、真実がどうであれ、まさに疑われても仕方がない、疑われても文句は言えない、という状況なのである。
瓜田李下という言葉がある。調べればすぐにわかるが、これこそが賢人の振る舞いだろう。
思えば政治家の不倫問題が取り沙汰されている。しばしば行為に及んだか否かみたいな下世話な話がワイドショーを賑わしているが、それもまさに瓜田李下という賢人の振る舞いを見習うべきであって、つまらぬ言い訳をするくらいならば、最初からそのような疑われる行動を取らなければいいだけの話なのである。
さて、顕正新聞第1418号である。
唯授一人の御相承の深意を垣間見させて頂いたかのような喜び・・・
第二十四婦人部長は凄いことを言うものである。浅井先生の指導を聞いてご覧のように言っているわけだが、しかし、先生の言っていることはそれほど真新しいことではなく、部長クラスであれば何度も聞いている話である。
「密附とは密かなる付嘱ということ」
ツッコミを入れるとすれば、そのまんまじゃないか、ということになるだろう。
しかし、浅井先生も偉くなったものである。唯授一人の御相承は文字通り唯授一人なのだから、在家の一信徒に過ぎない浅井先生がその内容を知っているわけがないのである。それを顕正会員たちは、先生は何でもご存知なのだと錯覚しているわけである。
先生にとっての「師」とは日寛上人であり、先生は、日寛上人から時を超えて直々に御書の極理、大聖人様の深き御心を師伝されておるのだ・・・
同じく二十四部長であるが、先ほどの唯授一人とも関連して、ひじょうに興味深い記述である。
アゲアシ取りながらも、時空を超えて直々にと言うならば、いっそのこと大聖人の時代まで遡ってしまえばいいのに、と思う。そうすれば沖浦氏も文句は言わないだろう。
そして今度は逆に浅井先生を擁護することを書く。
浅井先生が日寛上人の御指南に精通しているのは事実である。そこらの不勉強の正宗僧侶よりも遥かに詳しいだろう。もちろん正宗僧侶の中にも勉強家はいる。
ならば、その人に問いたい。現宗門は、日寛上人の御指南を捻じ曲げてはいまいか、ということだ。
不勉強のわたくしが言うのもおこがましいが、宗門は正本堂問題以降、自分たちを正当化するために日寛上人の御指南を捻じ曲げてしまい、それを未だに修正せずにいる。もちろん戒壇論を中心にである。
たぶん正宗僧侶の中でも真面目に教学に取り組んでいる人はわかっているはずである。しかし、立場的な問題もあってか、それを大っぴらに言うことはない。だったら思い切って、御隠尊ないし御当代が言えばいいのだが、それも難しそうである。
実に困ったものである。
それよりも大沢氏からのコメントが重要である。直接は浅井先生へのヤンワリとした批判であるが、同時にわたくしの無知・無教養を指摘している意味もあるだろう。
ここでは具体的な文言を掲げないが、どうやら大学の設置基準がイヤラシイことになっているらしく、なぜか許認可を受ける前に校舎を建て始めなければいけないシステムなのだそうだ。その意味からすると、加計学園が認可前に建設工事を始めたことは何の問題もないことになるだろう。それを浅井先生は知らなかったのだと、大沢氏は言っているわけである。
しかし、ここは常識論ないし原理原則論で考えるべきところである。
認可を受ける前に工事をして、もし認可が下りなかったらどうするのか、という素朴な疑問がある。これについて一般的にはどのような回答が模範となるのか知らないが、常識的に考えれば事前に何らかの根回しが行なわれているだろうことは確実である。事前工作も何もしないで、莫大な費用を使って、それでもし認可されなかったら、大損である。そんなバカなことがあるわけがないのだ。
そしてこれまた常識論として、許認可制度そのものが贈収賄を生む温床となっている。もちろん許認可制度を撤廃することは難しいわけで、いわばそこが痛し痒しの構造的な問題ではあるのだろう。ともかく認可を受けるためにはさまざまの根回しが必要となる。ぶっちゃけ言えば、お上へ袖の下を握らせる必要があるわけだ。
こうした背景を踏まえれば、加計問題がどれほど深刻であるかがわかるだろう。何しろ加計孝太郎氏と安倍首相とは古くからの友人なのである。状況的には物凄くアヤシイと言わざるを得ないわけで、真実がどうであれ、まさに疑われても仕方がない、疑われても文句は言えない、という状況なのである。
瓜田李下という言葉がある。調べればすぐにわかるが、これこそが賢人の振る舞いだろう。
思えば政治家の不倫問題が取り沙汰されている。しばしば行為に及んだか否かみたいな下世話な話がワイドショーを賑わしているが、それもまさに瓜田李下という賢人の振る舞いを見習うべきであって、つまらぬ言い訳をするくらいならば、最初からそのような疑われる行動を取らなければいいだけの話なのである。
さて、顕正新聞第1418号である。
唯授一人の御相承の深意を垣間見させて頂いたかのような喜び・・・
第二十四婦人部長は凄いことを言うものである。浅井先生の指導を聞いてご覧のように言っているわけだが、しかし、先生の言っていることはそれほど真新しいことではなく、部長クラスであれば何度も聞いている話である。
「密附とは密かなる付嘱ということ」
ツッコミを入れるとすれば、そのまんまじゃないか、ということになるだろう。
しかし、浅井先生も偉くなったものである。唯授一人の御相承は文字通り唯授一人なのだから、在家の一信徒に過ぎない浅井先生がその内容を知っているわけがないのである。それを顕正会員たちは、先生は何でもご存知なのだと錯覚しているわけである。
先生にとっての「師」とは日寛上人であり、先生は、日寛上人から時を超えて直々に御書の極理、大聖人様の深き御心を師伝されておるのだ・・・
同じく二十四部長であるが、先ほどの唯授一人とも関連して、ひじょうに興味深い記述である。
アゲアシ取りながらも、時空を超えて直々にと言うならば、いっそのこと大聖人の時代まで遡ってしまえばいいのに、と思う。そうすれば沖浦氏も文句は言わないだろう。
そして今度は逆に浅井先生を擁護することを書く。
浅井先生が日寛上人の御指南に精通しているのは事実である。そこらの不勉強の正宗僧侶よりも遥かに詳しいだろう。もちろん正宗僧侶の中にも勉強家はいる。
ならば、その人に問いたい。現宗門は、日寛上人の御指南を捻じ曲げてはいまいか、ということだ。
不勉強のわたくしが言うのもおこがましいが、宗門は正本堂問題以降、自分たちを正当化するために日寛上人の御指南を捻じ曲げてしまい、それを未だに修正せずにいる。もちろん戒壇論を中心にである。
たぶん正宗僧侶の中でも真面目に教学に取り組んでいる人はわかっているはずである。しかし、立場的な問題もあってか、それを大っぴらに言うことはない。だったら思い切って、御隠尊ないし御当代が言えばいいのだが、それも難しそうである。
実に困ったものである。
2017/10/7
キレアジバツグン
時事ネタから書こう。前回の拙稿から数日経って、確かに潮目が変わってきたような印象がある。希望の党に対する評価がじゃっかん下がってきて、選挙情勢はひじょうに混沌としたものになってきた。大沢氏も書いているように、ここに来て小池氏の腹心的な存在だった都議二人が離脱するという動きもあって、かつまた首班指名をどうするかの問題もいまだに不透明のままなので、そのような党をどこまで信用してよいものか有権者も判断に迷うような状況である。そうした中、枝野氏を中心に立憲民主党が立ち上がった。そもそもつい一ヶ月前に民進党の代表選挙があって、前原氏と枝野氏が戦っていた。結果は前原氏が勝ったわけだが、それにしてもその民進党が解党され、新たな枠組みが出来つつあることが、まさに政局の急展開を物語っているわけだ。個人的な印象ながらも、今となっては前原氏は埋没ぎみであり、むしろ枝野氏のほうが存在感を示しているように感じられるところである。
柄ではないが、当たらぬ予言を書いておこう。
わたくしの感触では自民党は相当に議席を減らすと思う。希望の党については当初の期待値ほどではないにしても、新党としては格好がつくだけの議席数を獲得するだろう。共産党と立憲民主党もそこそこの議席を獲得するのではないかと思う。結果として安倍氏は辞任となる。問題はその後の構図である。何しろ希望の党が自民党との大連立をも視野に入れているような口ぶりなので、そうなると安倍さんを引きずり下ろしたのはいいものの、結局は元のモクアミみたいなことになりかねない。わたくしは自公を政権から完全に引き離さないといけないと思う。
「安倍政権崩壊特集号」
これは八月度総幹部会の記事を中心に組まれた顕正新聞第1418号に付けられた名前である。今頃になって八月の話題を云々するのもどうかしているが、まあ、そこはお許し願いたい。
この政権は必ずまもなく崩壊する。
浅井発言である。今回の会長講演は安倍首相批判に終始している。ほぼ全編がそれなのである。
これはもう、ひじょうに明快になってきた。白か黒かの勝負である。わたくしはダラダラと任期いっぱいまで政権が続くものと思っていたが、なぜかここに来て安倍首相は解散カードを切ってきた。今月の下旬には結論が出る。十月度総幹部会の前だと思われるので、そこで浅井先生がどのような発言をするかがミモノである。先生の予言は外れることで有名なのだが、さて、今回はどのような結果になるか、ひじょうに興味深いところである。
国家破産はまもなく事実になります。
同じく浅井発言であるが、これまた興味深い事案である。なぜならば浅井先生は安倍首相云々に関わらず、それ以前から国家破産を予言していたからである。つまり、今度の選挙で政権の枠組みが大きく変わったところで、この問題は解消されないとするのが浅井説のはずなのである。その意味で、もし仮に自民党が負けて安倍さんが退陣しても、喜んでばかりはいられないだろう。それとも顕正会員たちは浅井先生の予言が当たったと言って狂喜するのだろうか?
賭博は刑法で禁じられている。その賭博を国が行うのです。おかしいでしょう。
賭博は人の心を狂わせ、家庭を壊わす。ところがこれを「成長戦略」などと称している政権は、頭が狂っているとしか言いようがない。
これはカジノ法案に対する批判である。なるほど、手順としてはまず刑法を改正しないといけないだろう。その上でカジノ法案をやるのであれば、いちおうは整合性が保たれる。しかし、そもそもなぜに刑法で禁止されているのかを考えれば、人の心を狂わせ家庭を壊すからなのだろう。浅井先生の言っていることは単純明快な正論である。
目を閉じて、8秒間も頭を下げた安倍首相
毎日新聞社から提供された写真に付された説明である。都議選で大敗を喫し、その後の内閣改造の時の記者会見での出来事だそうである。どうでもいい話かもしれないが、わたくしは八秒が気になった。これはマスコミ各社が報道していることなのか、顕正会が独自に計測して言っていることなのか、である。確かに八秒は長い。だが、しかし、それがどうした、とも思うところだ。
国家戦略特区が
そもそも憲法違反
不勉強のわたくしはこれを知らなかった。そもそも今回の問題が大きく報道される以前から、このような指摘をする人がいたのかいなかったのかが気になるところである。ようするに「前々から」というヤツだ。前々から言っていた、言い続けてきた、こういう人がいれば、その人は本物の見識を備えた人物だろう。
・・・突然、在イタリア日本大使館に移動になってしまった。
これは森友疑惑隠し、口封じのためです。疑惑はますます深まっております。
会長講演は有効な情報源である。上掲は森友問題の深層部分を知っていると思われる谷査恵子氏についてであるが、わたくしを含めてごく一般的な人々はそこまでの情報を知らない。
しかし彼は疑惑発覚後、四ヶ月も行方をくらましているのです。
こちらは加計問題の当事者である加計孝太郎氏のことである。これもなるほどである。森友問題では当事者である籠池夫妻の露出度がベラボウに高かった。ところが加計問題ではまさに雲隠れ状態であり、わたくし自身、一度たりとも加計氏を目撃していない。たぶん国民の大半が同様だろう。このこと自体がすでにして事のヤバさをあらわしているのだ。
現証は事前工事
現証がいかにも顕正会的であるが、言っていることはマトモである。もし認可を受ける前から工事をしているのが本当ならば、これはもう完全なる癒着を意味するものだ。平たく言えば、首相とオトモダチだからこそ、可能な芸当なのである。
以上、今回の会長講演はおおむね肯定的に読ませてもらった。浅井先生の切れ味が遺憾なく発揮されていると思う。
最後に一号遡って、第二十七婦人部長の記事を紹介しておきたい。
また北野駅前で配布していると、自転車を停めてじっと聞いていた七十代の壮年がいたので、班長が特集号を手渡すと、先生のお写真を見て「浅井さんじゃない、甚兵衛さんだよね」と言ってきたので、「先生をご存知ですか?」と聞くと、かつての文京区音羽の先生のご自宅の裏に住んでいた人で、自ら「漬物屋の田口」と名乗ってきました。
興味深い話である。
柄ではないが、当たらぬ予言を書いておこう。
わたくしの感触では自民党は相当に議席を減らすと思う。希望の党については当初の期待値ほどではないにしても、新党としては格好がつくだけの議席数を獲得するだろう。共産党と立憲民主党もそこそこの議席を獲得するのではないかと思う。結果として安倍氏は辞任となる。問題はその後の構図である。何しろ希望の党が自民党との大連立をも視野に入れているような口ぶりなので、そうなると安倍さんを引きずり下ろしたのはいいものの、結局は元のモクアミみたいなことになりかねない。わたくしは自公を政権から完全に引き離さないといけないと思う。
「安倍政権崩壊特集号」
これは八月度総幹部会の記事を中心に組まれた顕正新聞第1418号に付けられた名前である。今頃になって八月の話題を云々するのもどうかしているが、まあ、そこはお許し願いたい。
この政権は必ずまもなく崩壊する。
浅井発言である。今回の会長講演は安倍首相批判に終始している。ほぼ全編がそれなのである。
これはもう、ひじょうに明快になってきた。白か黒かの勝負である。わたくしはダラダラと任期いっぱいまで政権が続くものと思っていたが、なぜかここに来て安倍首相は解散カードを切ってきた。今月の下旬には結論が出る。十月度総幹部会の前だと思われるので、そこで浅井先生がどのような発言をするかがミモノである。先生の予言は外れることで有名なのだが、さて、今回はどのような結果になるか、ひじょうに興味深いところである。
国家破産はまもなく事実になります。
同じく浅井発言であるが、これまた興味深い事案である。なぜならば浅井先生は安倍首相云々に関わらず、それ以前から国家破産を予言していたからである。つまり、今度の選挙で政権の枠組みが大きく変わったところで、この問題は解消されないとするのが浅井説のはずなのである。その意味で、もし仮に自民党が負けて安倍さんが退陣しても、喜んでばかりはいられないだろう。それとも顕正会員たちは浅井先生の予言が当たったと言って狂喜するのだろうか?
賭博は刑法で禁じられている。その賭博を国が行うのです。おかしいでしょう。
賭博は人の心を狂わせ、家庭を壊わす。ところがこれを「成長戦略」などと称している政権は、頭が狂っているとしか言いようがない。
これはカジノ法案に対する批判である。なるほど、手順としてはまず刑法を改正しないといけないだろう。その上でカジノ法案をやるのであれば、いちおうは整合性が保たれる。しかし、そもそもなぜに刑法で禁止されているのかを考えれば、人の心を狂わせ家庭を壊すからなのだろう。浅井先生の言っていることは単純明快な正論である。
目を閉じて、8秒間も頭を下げた安倍首相
毎日新聞社から提供された写真に付された説明である。都議選で大敗を喫し、その後の内閣改造の時の記者会見での出来事だそうである。どうでもいい話かもしれないが、わたくしは八秒が気になった。これはマスコミ各社が報道していることなのか、顕正会が独自に計測して言っていることなのか、である。確かに八秒は長い。だが、しかし、それがどうした、とも思うところだ。
国家戦略特区が
そもそも憲法違反
不勉強のわたくしはこれを知らなかった。そもそも今回の問題が大きく報道される以前から、このような指摘をする人がいたのかいなかったのかが気になるところである。ようするに「前々から」というヤツだ。前々から言っていた、言い続けてきた、こういう人がいれば、その人は本物の見識を備えた人物だろう。
・・・突然、在イタリア日本大使館に移動になってしまった。
これは森友疑惑隠し、口封じのためです。疑惑はますます深まっております。
会長講演は有効な情報源である。上掲は森友問題の深層部分を知っていると思われる谷査恵子氏についてであるが、わたくしを含めてごく一般的な人々はそこまでの情報を知らない。
しかし彼は疑惑発覚後、四ヶ月も行方をくらましているのです。
こちらは加計問題の当事者である加計孝太郎氏のことである。これもなるほどである。森友問題では当事者である籠池夫妻の露出度がベラボウに高かった。ところが加計問題ではまさに雲隠れ状態であり、わたくし自身、一度たりとも加計氏を目撃していない。たぶん国民の大半が同様だろう。このこと自体がすでにして事のヤバさをあらわしているのだ。
現証は事前工事
現証がいかにも顕正会的であるが、言っていることはマトモである。もし認可を受ける前から工事をしているのが本当ならば、これはもう完全なる癒着を意味するものだ。平たく言えば、首相とオトモダチだからこそ、可能な芸当なのである。
以上、今回の会長講演はおおむね肯定的に読ませてもらった。浅井先生の切れ味が遺憾なく発揮されていると思う。
最後に一号遡って、第二十七婦人部長の記事を紹介しておきたい。
また北野駅前で配布していると、自転車を停めてじっと聞いていた七十代の壮年がいたので、班長が特集号を手渡すと、先生のお写真を見て「浅井さんじゃない、甚兵衛さんだよね」と言ってきたので、「先生をご存知ですか?」と聞くと、かつての文京区音羽の先生のご自宅の裏に住んでいた人で、自ら「漬物屋の田口」と名乗ってきました。
興味深い話である。
2017/10/3
ヒサシブリ
実はここ一週間あまり多忙を極めていて、自分のブログもろくに見ていない状況だった。ゆえに諸氏のコメントもよく読んでいないし、かつまた世間の動きにも疎い状況である。
そうした中、政局は急転換を見せている。
現時点では国民の野党側に対する期待もそれほど高くはないと思われる・・・
前回の拙稿である。九月二十三日午前の記述であるが、この時点の状況分析としてはそれほど間違ってはいないだろう。ところがである。この直後に急展開が起こるのだ。
小池百合子氏による新党立ち上げである。その名も希望の党という。
これにマスコミは色めき立った。その後の報道は希望の党を中心にした野党勢力の結集がどのように進展するかにスポットが当てられ、民進党の事実上の解党に始まってその他もろもろの細かい動きが今も続いている状況である。
先ほども書いたように、わたくし自身はまったくの別件で忙しかったものだから、この政治状況についてはまるで不案内である。今も当てずっぽうで書いているに過ぎないことをお断りしておきたい。
政権交代の目が出てきたことで、有権者たちも希望を持ち始めた。
わかり切ったことだが、人間は手が届かないと思っているものには手を出さないものである。空に浮かんでいる月を取らんとしても、取りようがない。どれほど手を伸ばしても届かないからだ。これまでの安倍一強政治も同様の意味があって、野党のだらしなさを見ればどうにもこうにも現状打破は不可能と見るのが一般だった。ゆえに有権者も消極的ながらも現政権を容認せざるを得なかった。
それが小池氏の登場で一気に変わり始めた。正直に凄いことだと思う。
この急展開は誰も予想しなかったでしょう、これこそが諸天の働きなんですよ・・・
上掲は誰の言葉でもなく、今思いつきで書いたものである。知る人ぞ知るパロディだ。いかにも浅井先生の言いそうなセリフではあるまいか?
かつての橋下徹氏にも通ずる話だが、一人の強烈なキャラクターによって全体が大きく動いていくという現象が今起こりつつあるのかもしれない。郵政選挙における小泉純一郎の成功例が思い起こされるところである。
ただし、素人目にも問題点が映る。
委細には小池氏の政治理念と一致するかどうかの踏み絵の問題があって、いわゆる左派と目される人たちは排除される運命にあって、今度はその人たちで新党を立ち上げるという話にもなっているようだ。あるいは総理経験者などの重鎮的な人たちも入れてもらえないらしい。一種の主導権争いなのだろう。希望の党と名乗ったところで、構成メンバーが旧来の野党の面々ということになれば、そのまま旧来の力関係が残ってしまう。それでは看板を掛け替えただけで何も変わらないことになるだろう。
その意味で、政治理念だとかその他もろもろの条件を付けて峻別していくことは理に適っていると思う。
しかし、素人目線からすれば、もっと単純明快な疑問があるのだ。
もし仮にである。希望の党を中心にした新政権が実現したとしても、そこでの首班指名をどうするのかが大問題なのである。
ゆえに小池氏が国政に戻るか否かが取り沙汰されてもいるわけだが、現時点では本人が否定している状況である。であれば彼女が総理大臣になることはあり得ない。では誰がなるのかである。すると残念ながら今のところは役不足の人ばかりであり、まったく総理候補が見えてこないのが正直なところだと思う。
以上は前回の拙稿からわずか十日ばかりの動きを雑駁に書いたものである。まだまだこの先も動きがあるだろうし、さらなる新展開もあるかもしれない。これについては今後も推移を見守っていくつもりだが、以下は関連する話題を書いておきたいと思う。
小池百合子氏はタレント議員のハシリである。
今さらこういうことを書くと𠮟られそうだが、上述は厳然たる事実だろう。そして最近で言えば、丸川珠代氏などもその典型的な人物だと思う。彼女はすでに大臣経験者なのだ。しかし、それは当然ながら実力ではなく人気によるところが大きいのだろう。もちろん小池氏も大臣経験がある。
ところがである。今の若い人は小池氏をよく知らないらしく、東京都知事になって大きく脚光を浴びるようになって、そこでようやく彼女の存在を知ったという人が多いようなのだ。
ウッカリしていてわたくし自身もあまり気がついていなかったことなのだが、そう言えば都知事以前の彼女はずいぶんと影が薄かった。自民党所属の国会議員だったわけだが、ひと頃は露出度がベラボウに低かった。安倍内閣では女性の活躍する社会がどうのこうのというスローガンを掲げており、多くの女性閣僚も輩出した。ところがそこに小池氏の姿はなかった。
実は小池氏と安倍首相は相当に険悪な関係らしく、それゆえに安倍内閣では小池氏の起用は行なわれなかった。ぶっちゃけ言えば干されていたわけなのだ。
結果として、それが彼女の奮起を促がしたのだろう。このまま埋没してしまうくらいならば一か八かの勝負に出よう、ということで都知事選に出たのだと考えられる。
わたくし自身はもうこれで十分だと思った。彼女の政治家人生は成功だった。このまま都知事の職を全うして、それで引退すれば文句はないだろうと思うのだ。
しかもである。先の都議会選挙では自民党を歴史的な大惨敗に追い込んでいるのだ。もう文句はあるまい。
と思いきや、第二弾を放ってきた。今度の新党立ち上げがそれである。もともと都民ファーストの国政版を模索していたのは周知のことであるが、今のこのタイミングで打ち出したのが強烈だった。変な話、だったら解散しなきゃよかった、という気分にもなるだろう。もちろん安倍さんがである。
選挙の結果がどうなるかはわからない。いちばん無難な答えは勝負は時の運であると言ってしまうことだ。
ゆえに結果はともかくとして、ここでわたくしが言いたいのは小池氏の生き様である。最初はタダのお飾りのタレント議員だったのかもしれないが、今は日本を動かすもっとも有力な政治家の一人である。正直、凄いことだと思う。
それからもう一つ、御用評論家について書いておきたい。
具体的な人物名は省略するものの、安倍首相の太鼓持ち的な評論家ないしコメンテーターが雲霞のごとく存在する。わたくしはこの人たちの挙動に注目したいと思っている。実はひと頃、一年に一回くらいの頻度で首相が交代していた時代があった。こういう時の評論家はある意味で気楽である。逆に今のように安倍体制が続いている時の彼らは大変なのだ。おわかりだろう、批判ばかりしている人たちは権力側から疎まれるし、ヘタすると仕事を失うことにもなりかねない。ゆえに自ずと太鼓持ちが増えてくるのだ。
これは本当に興味深いテーマだと思う。もし何百年も生きることができるならば、定点観測したいくらいである。
早い話が、こんなにもたくさんの太鼓持ち評論家がいた時代があっただろうかと思うほど、今はそういう人たちが跋扈しているのである。そして彼らは虎の威を借る狐の言葉どおり、野党側に対する批判を激しく展開している。けっこう過激な言葉を吐く人も少なくない。
面白いものが見られるかもしれない。立場が逆転した時、彼らがどのような言動をするかである。
そうした中、政局は急転換を見せている。
現時点では国民の野党側に対する期待もそれほど高くはないと思われる・・・
前回の拙稿である。九月二十三日午前の記述であるが、この時点の状況分析としてはそれほど間違ってはいないだろう。ところがである。この直後に急展開が起こるのだ。
小池百合子氏による新党立ち上げである。その名も希望の党という。
これにマスコミは色めき立った。その後の報道は希望の党を中心にした野党勢力の結集がどのように進展するかにスポットが当てられ、民進党の事実上の解党に始まってその他もろもろの細かい動きが今も続いている状況である。
先ほども書いたように、わたくし自身はまったくの別件で忙しかったものだから、この政治状況についてはまるで不案内である。今も当てずっぽうで書いているに過ぎないことをお断りしておきたい。
政権交代の目が出てきたことで、有権者たちも希望を持ち始めた。
わかり切ったことだが、人間は手が届かないと思っているものには手を出さないものである。空に浮かんでいる月を取らんとしても、取りようがない。どれほど手を伸ばしても届かないからだ。これまでの安倍一強政治も同様の意味があって、野党のだらしなさを見ればどうにもこうにも現状打破は不可能と見るのが一般だった。ゆえに有権者も消極的ながらも現政権を容認せざるを得なかった。
それが小池氏の登場で一気に変わり始めた。正直に凄いことだと思う。
この急展開は誰も予想しなかったでしょう、これこそが諸天の働きなんですよ・・・
上掲は誰の言葉でもなく、今思いつきで書いたものである。知る人ぞ知るパロディだ。いかにも浅井先生の言いそうなセリフではあるまいか?
かつての橋下徹氏にも通ずる話だが、一人の強烈なキャラクターによって全体が大きく動いていくという現象が今起こりつつあるのかもしれない。郵政選挙における小泉純一郎の成功例が思い起こされるところである。
ただし、素人目にも問題点が映る。
委細には小池氏の政治理念と一致するかどうかの踏み絵の問題があって、いわゆる左派と目される人たちは排除される運命にあって、今度はその人たちで新党を立ち上げるという話にもなっているようだ。あるいは総理経験者などの重鎮的な人たちも入れてもらえないらしい。一種の主導権争いなのだろう。希望の党と名乗ったところで、構成メンバーが旧来の野党の面々ということになれば、そのまま旧来の力関係が残ってしまう。それでは看板を掛け替えただけで何も変わらないことになるだろう。
その意味で、政治理念だとかその他もろもろの条件を付けて峻別していくことは理に適っていると思う。
しかし、素人目線からすれば、もっと単純明快な疑問があるのだ。
もし仮にである。希望の党を中心にした新政権が実現したとしても、そこでの首班指名をどうするのかが大問題なのである。
ゆえに小池氏が国政に戻るか否かが取り沙汰されてもいるわけだが、現時点では本人が否定している状況である。であれば彼女が総理大臣になることはあり得ない。では誰がなるのかである。すると残念ながら今のところは役不足の人ばかりであり、まったく総理候補が見えてこないのが正直なところだと思う。
以上は前回の拙稿からわずか十日ばかりの動きを雑駁に書いたものである。まだまだこの先も動きがあるだろうし、さらなる新展開もあるかもしれない。これについては今後も推移を見守っていくつもりだが、以下は関連する話題を書いておきたいと思う。
小池百合子氏はタレント議員のハシリである。
今さらこういうことを書くと𠮟られそうだが、上述は厳然たる事実だろう。そして最近で言えば、丸川珠代氏などもその典型的な人物だと思う。彼女はすでに大臣経験者なのだ。しかし、それは当然ながら実力ではなく人気によるところが大きいのだろう。もちろん小池氏も大臣経験がある。
ところがである。今の若い人は小池氏をよく知らないらしく、東京都知事になって大きく脚光を浴びるようになって、そこでようやく彼女の存在を知ったという人が多いようなのだ。
ウッカリしていてわたくし自身もあまり気がついていなかったことなのだが、そう言えば都知事以前の彼女はずいぶんと影が薄かった。自民党所属の国会議員だったわけだが、ひと頃は露出度がベラボウに低かった。安倍内閣では女性の活躍する社会がどうのこうのというスローガンを掲げており、多くの女性閣僚も輩出した。ところがそこに小池氏の姿はなかった。
実は小池氏と安倍首相は相当に険悪な関係らしく、それゆえに安倍内閣では小池氏の起用は行なわれなかった。ぶっちゃけ言えば干されていたわけなのだ。
結果として、それが彼女の奮起を促がしたのだろう。このまま埋没してしまうくらいならば一か八かの勝負に出よう、ということで都知事選に出たのだと考えられる。
わたくし自身はもうこれで十分だと思った。彼女の政治家人生は成功だった。このまま都知事の職を全うして、それで引退すれば文句はないだろうと思うのだ。
しかもである。先の都議会選挙では自民党を歴史的な大惨敗に追い込んでいるのだ。もう文句はあるまい。
と思いきや、第二弾を放ってきた。今度の新党立ち上げがそれである。もともと都民ファーストの国政版を模索していたのは周知のことであるが、今のこのタイミングで打ち出したのが強烈だった。変な話、だったら解散しなきゃよかった、という気分にもなるだろう。もちろん安倍さんがである。
選挙の結果がどうなるかはわからない。いちばん無難な答えは勝負は時の運であると言ってしまうことだ。
ゆえに結果はともかくとして、ここでわたくしが言いたいのは小池氏の生き様である。最初はタダのお飾りのタレント議員だったのかもしれないが、今は日本を動かすもっとも有力な政治家の一人である。正直、凄いことだと思う。
それからもう一つ、御用評論家について書いておきたい。
具体的な人物名は省略するものの、安倍首相の太鼓持ち的な評論家ないしコメンテーターが雲霞のごとく存在する。わたくしはこの人たちの挙動に注目したいと思っている。実はひと頃、一年に一回くらいの頻度で首相が交代していた時代があった。こういう時の評論家はある意味で気楽である。逆に今のように安倍体制が続いている時の彼らは大変なのだ。おわかりだろう、批判ばかりしている人たちは権力側から疎まれるし、ヘタすると仕事を失うことにもなりかねない。ゆえに自ずと太鼓持ちが増えてくるのだ。
これは本当に興味深いテーマだと思う。もし何百年も生きることができるならば、定点観測したいくらいである。
早い話が、こんなにもたくさんの太鼓持ち評論家がいた時代があっただろうかと思うほど、今はそういう人たちが跋扈しているのである。そして彼らは虎の威を借る狐の言葉どおり、野党側に対する批判を激しく展開している。けっこう過激な言葉を吐く人も少なくない。
面白いものが見られるかもしれない。立場が逆転した時、彼らがどのような言動をするかである。