2017/11/29

カケモチ  
顕正新聞第1422号の五面を見ていこう。

立正安国論に御予言の的中・・・

女子部第百二十九区長の記事から引用した。文法的に正しいのかどうかわからないが、難しい言い回しであることは間違いなかろう。

次の男子部第十三隊支隊長は若手の成長株である。拙ブログではこれまで何度も取り上げている。

 思うに、人間がいかに核ミサイルを打ち合い、地球や他の天体を破壊しようとも、宇宙全体を破壊することは不可能であります。

この部分だけでは何を言わんとしているのか理解不能であるが、前後の文脈がわかるとこの人の壮大なるロジックが見えてくる。ようは教学をよく勉強している人なのだ。昔のように教学を重視していた時代の顕正会であれば、彼は瞬く間にトップクラスに躍り出ていたことだろう。

二十五歳の先生が・・・

ようするに教学だけでなく顕正会の歴史についてもよく勉強しているわけなのだろう。そして今の彼の年齢がおそらくは二十五前後であり、若き日の浅井先生に思いを馳せつつ自分自身を見つめ、そこに何かしらの感慨を懐いているのだろうと想像されるところである。

しかし、さすがに次の一節は今のわたくしの立場からすれば、いかにも浅井教の色が濃くてウンザリするところである。

第六天の魔王の全力をあげての妨害と戦われること、実に六十年に及びます。

これを直ちに会長本仏論と言うのは言い過ぎにしても、大聖人の御化導が三十年であり、釈尊が五十年である。それを超過する期間、第六天と戦ってきたわけであり、しかもまだ戦いは続くわけである。あと何年かは知らないが、ともかく悩ましい限りである。

第十六女子部長は二年間で五倍の陣容を構築すると言っている。五倍は大変な数字であるが、それとは別の部分で気になったのが次のくだりである。

お姿が重なり・・・

ようするに日目上人の御姿と先生のお姿が重なると言っているのだ。

隣の男子部第三十五・第百十六隊長という掛け持ち隊長は、安倍政権崩壊を事実とすべく云々と書いているが、それとは別にやはり次のような気になる記述を残している。

 この日目上人の尊き御振舞いの延長線上に、浅井先生の戦いがあり・・・

日蓮正宗の存在を無視して、顕正会こそが直系であるかのような言いっぷりである。

これに関連する意味で七面の記事を紹介しよう。

代々法華講の人が入会、功徳に感激

婦人部足立支区班長の記事の見出しである。しかし、本文を読むと少し事情が違っている。

代々法華講の家に生まれ、四年前に池袋の法道院で法華講に入信した・・・

代々法華講の人がなぜに四年前に入信するのだろうか?

確かに日蓮正宗でも古くからの檀家さんは信仰心が薄く、すでにして本人がそうなのだから子供に対しても同様なのかもしれない。けれども、そういう人が四年前に入信したということは、逆に言うと今の法華講はけっこう熱心に折伏だとか人材の掘り起こしをしていることになるだろう。その人材を顕正会は横取りしたことになる。

 そして入会勤行の前日には、自ら法道院の先輩に御本尊を返納する旨を伝え・・・

代々法華講の人ならば、歴代上人の常住御本尊を所持しているかもしれない。あるいは本人は次男三男などで、そういう家宝を受け継ぐ立場ではなかったのかもしれない。その場合は四年前に御本尊を受けたと考えられるので、現猊下の御本尊ということになる。それを返納すると言っているわけだ。

さらに看過できないのは次のくだりである。

長年、宗門に身を置いた〇〇さんにも直ちに無間地獄の道を塞いで下さり・・・

ひじょうにブレまくった記事である。代々法華講を云々しているわりには四年前に入信したという事実が書かれていたり、そうかと思えば今度は再び長年宗門に身を置いていたかのごとく書いている。

しかし、そういう些末なことが問題なのではない。

ご覧のごとく、宗門そのものを全否定するかのような書きっぷりが問題なのである。日蓮正宗で信仰すると無間地獄に行くことになると彼女は思っているわけなのだろう。わたくしに言わせれば、これこそ浅井教の教義そのものである。

もう何年も前から指摘していることだが、いよいよ顕正会は分派独立路線を明確化してきた感じである。もちろん本人たちは分派ではなく正統派すなわち直系だと言いたいわけなのだろう。困ったものである。

2017/11/26

タマサカ  
引き続き第1422号を見ていくが、まずは副総合婦人部長の発言で見過ごしていた部分があるので、それを取り上げよう。

 三大秘法護持の賢王御出現も遠からじと確信しては・・・

昨年の夏だったろうか、天皇陛下の生前退位の問題が浮上した。そして今、その具体的スケジュールが固まりつつある。このことを踏まえて上掲を読むと、あたかも新天皇に即位する人が三大秘法護持の賢王ということになりそうである。

なるほど、顕正会が言っている広宣流布の最終段階と天皇の譲位の時期が不思議にも一致するわけだが、これもしょせんは後付け理論のようなものだろう。何しろ顕正会はかれこれ二十年も最終段階を言い続けているのだ。それがたまさか今になって一致するようになっただけの話であり、いくら何でも二十年前にこのことを想定していたとは、とうてい考えられないことである。ましてや現状では天皇陛下が三大秘法を護持することは相当の困難を伴なうことであって、おそらくは顕正会の会員数が名目ではなく実質で六千万にでもならない限り、無理な話だろう。

総合女子部長の発言を見てみよう。

凡慮を絶して正本堂が崩壊したごとく、安倍政権も崩壊し・・・

すべて事実となる時はもう眼前であり・・・


正本堂崩壊と安倍政権崩壊を並べてどうするのかと思う。このことで付言するならば、正本堂は崩壊したものの日蓮正宗そのものは続いている。同様の意味で、もし安倍政権が終わってもその後も自民党政権が続く蓋然性が高い。この点をどう考えるのだろうか?

モンゴル担当の女子部総務の発言も見ておこう。

大聖人様が「隣国の賢王」を出現せしめ給うたモンゴル国に、順縁広布のいま、宿縁深き地涌の菩薩が続々と集い来たるを眼前にしては・・・

これまた都合の良過ぎる解釈である。なぜならば顕正会は中国脅威論を唱えているからだ。

つまり、今の中国は大聖人御在世当時における蒙古の役割を担っているわけである。すると習近平は現代における隣国の賢王となるわけだ。ではその隣のモンゴル国は何なのかである。たまさか顕正会員が増えてきたからと言って、都合よく解釈してはいけない。原理は同一なのだろう? だったら今こそモンゴルに隣国の賢王が出現しなければおかしいはずだ。

ちなみに浅井先生はその昔、池袋界隈には無数の中国人留学生がいるとして、これを順縁広布の予兆のごとく言っていた。まだ昭和の御代の時である。その後、平成五年くらいから盛んに中国脅威論を唱えるようになった。この二つは必ずしも矛盾するものではないが、少し発言にブレが感じられるところである。
そして今現在、政府の方針として主にはアジア系であろうか、いつの間にか周辺諸国の若い人たちがたくさん日本に来て、働いているのだ。コンビニ店員などが目立つ。名札を見るとカタカナで書かれていたりして、実際、言葉遣いもたどたどしかったりして、いかにも外国人という感じの人たちがどの店舗にもいる状況である。
顕正会がモンゴルに進出できたのも、もともとはそういうツテなのだろう。ここ最近はあまり話題に上がらないけれども、ネパールのほうにも相当数の顕正会員がいる。思えば今、ネパールだとかインド系の料理店がどこの町にも一軒や二軒はあって、店員はほぼ全員が向こうの人たちである。
そう言えば、たまさか今、大相撲のほうでも騒動が勃発しているが、そこに登場する人たちの多くがモンゴル人である。

つまり、いま日本に来ているアジア系の人たちの中でも、モンゴルだとかネパールはわりと目立つ存在なのだと思われる。実際の入国者数はどうだか知らないが、印象としてはそんな感じである。

モンゴルは大聖人御在世に重要な役割を果たした国である。ネパールは熟脱の仏が出現した国であり、歴史上、日本に仏法をもたらした国というわけだ。広布前夜において、そうした国々の人たちが日本に集まってきていることを必然と捉えるか偶然と捉えるかであるが、顕正会では必然と考えているわけなのだろう。

しかし、はたしてそうなのだろうか?

例えばアメリカの存在がある。これが仏法上、ひじょうに説明し難いのだ。何しろ大聖人の時代には存在しなかった国、もしくはまるで無関係の国だからである。しかし、今の日本にとって、良くも悪くもアメリカは密接不可分の関係にある。この説明ができずに中国脅威論を述べたところで、理論としては不完全だろう。結局は今の国際情勢を都合よく仏法上の視点から説明しているだけであって、説明がつかない部分については無視を決め込んでいる。これでは説得力に欠けるだろう。

それにしても、今日の拙稿はやや迷走気味であり、話のまとまりがあまりよくないようだ。しかし、結論は簡単である。

浅井先生の仕事はたまさか起こった世間の事象をどう解釈するかなのである。それをあたかも仏法上の必然であるかのように会員に思わせるのが先生の仕事であり、いちおう組織内ではそこそこの成功を収めていると言えるだろう。

問題は、傍目にはどうか、ということである。

2017/11/21

ショセンハボンプ  
今日は顕正新聞第1422号、すなわち九月度班長会の各種登壇が掲載された新聞を取り上げる。一面下段には顕正新聞社第二別館の建設中の写真が掲載されているが、十一月末に竣工すると書かれているので、今頃はほぼ完成に近い状態なのだろう。撮影当時は躯体工事が終わったところであり、記事では次のように言っている。

第一別館(左)と並び立つ姿は壮観である。

確かに壮観ではあるのだろう。しかも新興宗教にありがちな奇をてらう建物ではなく、地味なところがいい。

ここで、たぶん誰も言っていないことを書いておくと、建物が地味なのは顕正会が解散することを前提に建設しているからなのかもしれない、と思うところだ。キミョウキテレツな建物では再利用しづらい。つまりは転売しようにも買い手がつかない。オーソドックスな建物であれば、どこかの企業が買い取ってくれるだろう。

さて、本題である。

民進党の議員秘書が「安倍政権が揺らいできたことには顕正会の力がある」と語ったり、医師が顕正会員の功徳を医学会で発表したり・・・

これは六面に本文が掲載されているものだが、すでに一面にあらましが紹介されていて、確かに目を惹く内容である。しかし、マヌケな話だ。ご存知のごとく、民進党は分裂してしまい、結果として野党共闘の足を引っ張ることになってしまったからである。医師の話はここでは省略したい。

マヌケは総男子部長以下、錚々たる大幹部たちも同じである。

十月二二日の衆院選を前に、安倍晋三の正体を先生が白日の下に晒されたことは重大であります。

城衛の発言であるが、これにはまだ続きがある。

近く発刊される総幹部会特集号を全日本人に知らしめるとき、民意が大きく動き、安倍政権に鉄槌が下ることを大確信いたします。

そしてややアゲアシ取りながらも、副総男子部長二人の発言と城衛のそれを比べると、齟齬ないし矛盾のようなものが感じられるところである。

ぎりぎりの逆算に・・・

副総の一人だ。そして次は城衛である。

それを一年も前倒しで実現され・・・

前倒しの意味は二百万達成の時期についてである。しかし、以前から繰り返し言っているように、過去の一千万の誓いなどを思えば、まったくお話にならないだろう。

もう一人の副総は次のごとく言っている。

 そこに、この決戦場を見つめ、五年前から逆算の戦いを開始され・・・

そして城衛だが、本文よりも見出しのほうがわかりやすい。

先生は八年かけて広布決戦場へ準備

もちろん、アゲアシ取りである。ただ、アゲアシを取りたくなるような、そういうズサンさを感じさせるのが今の大幹部たちの発言なのである。

さて、次は総合婦人部長であるが、この人はもともと頭の切れる人で、だからこそ長いこと総合部長をやってこれたのだろうと思う。

解散の報道から急転、刻々と変化する政界の姿には、先生の諫暁に呼応する諸天の働きを痛感いたします。

刻々と変化する政界の姿・・・

なるほど、十月一日時点での発言であることを思えば、なかなか的確である。彼女も諸天の働きを確信したことだろう。

安倍首相の「今なら勝てる」との判断が裏目に出るを痛感し・・・

しかし、結果はご存知の通りである。これでも彼女は諸天の働きを疑わないのだろうか?

ところで前後して恐縮だが、総合婦人部長の記事には次のようなくだりがある。

御姿が重なり・・・

煩瑣になるので前後を端折ったものの、いつものパターンである。ここで言わんとしていることは、浅井先生のお姿と日目上人の御姿が重なって見える、というような意味である。

副総合の発言も拾っておこう。

安倍政権崩壊もいよいよ眼前・・・

「今なら勝てる」との判断が裏目に出ること・・・


特に言うことはない。

さて、次の第二十五婦人部長の発言がけっこう悩ましい。

 「彼の正体は畜生界そのもの」
 「安倍晋三という男は、ウソつきで恥知らず」
 「今こそ日本全国民は、総理大臣・安倍晋三がペテン師であることを、よくよく知らねばいけない」
 と火を吐くご気魄で叱責されましたが、大聖人様の「十一通申状」における良観への
 「矯賊の聖人」
 「今生は国賊、来世は那落」
 との仰せと重なり、先生以外に誰が命かけて諫暁できようか、との思いでいっぱいになりました。


彼女は大聖人と浅井先生が重なると言っている、だから会長本仏論だ、ケシカラン、とは思わない。問題は本当に重なっているのかどうかである。大聖人の時代、権力者ないしその取り巻き連中に盾突くことは文字通りの命懸けだったわけで、現に大聖人は身命に及ぶ大難を何度も受けられている。では今の時代はどうかである。つまりはぜんぜん比較にならないのだ。

まあ、わたくし自身は浅井先生の発言をまったくの無意味とは思わないが、辛口の人であれば先生の発言をただの遠吠えに過ぎないというふうに斬って捨てるかもしれない。

二百万を背景に最後の一国諫暁に命かけて立たれる先生に・・・

いずれにしても浅井先生にとっては最後の戦いになるだろう。しかし、命を懸けるという形容に相応しい戦いがどういうものなのか、わたくしにはまったく見えてこない。失礼ながら、浅井先生も見えていないのだろう。しょせんは凡夫だからである。

2017/11/19

アデヤカ  
引き続き顕正新聞第1421号を見ていこう。

私が出先で携帯電話を落としてしまってから連絡先がわからくなり・・・

マヌケな話である。いわゆるバックアップをしっかりと取っておかないと、こういうことになる。しかし、案外にバックアップができていない人が多いのだろう。かく言うわたくし自身も似たり寄ったりである。

それにしても上掲の話は凄まじい。何しろその後、十八年間も音信不通になってしまったそうである。これは普通じゃ考えられない話である。携帯を落としたくらいでそんなことになるのは、よほど縁が薄いのだろうと思わざるを得ないところだ。

上掲は男性女子部員の記事であるが、詳しい話は割愛させていただく。

女子部第百三十八区長は神奈川県の鎌倉藤沢方面で活動しているらしい。

 江の島、鎌倉在住の人に配布すると、竜の口の大現証のことはほとんどの人が知っており・・・

まあ、しかし、これはいわゆる俗伝として知っているのであって、その深い意味は誰も知らないわけである。顕正会では竜の口の大現証について、かなりの頻度で言及がなされているが、ヘタをすると今の顕正会員のレベルでは、俗伝の範疇から脱することができていないかもしれない。もしそれが事実だとすると、やはり教学の強化を考えないといけないだろう。

女子部第百八十七区長は政治関連の話題を中心に書いている。

わずか三ヶ月余りの出来事・・・

先生が楔を打たれるところ必ず諸天は動く・・・


四月末から起算してのことらしい。

 そしてこの特集号こそ、仏法上の失ある安倍政権に先生がトドメを刺されたもの・・・

これは八月末、出来は九月上旬だろうか、「安倍政権崩壊特集号」のことである。その後の政局は言わずもがなである。

先ほどの竜の口の話に戻れば、今の顕正会は浅井先生自身が、凡夫は難しい理屈でわかるのではない現証でわかるのだ、という意味を繰り返し言っているので、活動会員一同、その言葉を信用しているわけである。だったら今回の選挙結果はどうなるのかを考えるべきだろう。これまた言わずもがなのことだ。

第百四十八隊班長は男性看護師である。

彼は上尾中央医科グループを統括する中心的な病院の救急初療看護課に配属されているそうで、新人として入職する時には大宮ソニックシティの大・小のホールを新人看護職員が埋め尽くす中、代表として辞令授与の任を務めたくらいのエリートである。そして顕正会では班長をやっている。当然ながら同僚たちを折伏するわけだ。すると看護部長から呼び出されたそうである。早い話が折伏をするなとの勧告である。しかし、彼は折伏をやめるつもりはないと言い切ったそうである。

 すると二週間後、驚くことが起こりました。
 なんとその看護部長の夫が家で倒れ、急死したのでした。


これはいかがなものかと思う。

もしこれを罰の現証だと言うのならば、そこら中で急死していないといけないだろう。そして折伏を妨害すると近親者から死者が出るという方程式が広く認識されれば、もはや折伏を妨害する人はいなくなるはずである。
しかも看護部長のやっていることはわりと常識的な範疇だろうと思われる。単に口頭で注意をしたまでのことなのだ。これが解雇処分のようなことであれば、話は違ってくるわけで、その上で急死の事実が持ち上がれば確かに罰の現証を云々したくもなるところであるが、今言ったように単なる口頭の注意に過ぎない。それで死者が出るようでは、ずいぶんと恐ろしい宗教ではないかということになるだろう。
もう一つ常識的なことを言っておくと、大病院の部長職ともなれば、彼女自身がすでに定年を迎えるくらいの年齢か、あるいはそれ以上の場合もあり得るだろう。すると配偶者も相当の年齢と考えられるので、いつ何時、亡くなっても不思議ではないという解釈も成り立つのだ。

以上、現証論はその運用に注意を要することを、強調しておきたい。

男子部第三十八隊組長は脳腫瘍の摘出に成功し、障害年金の受給ができるようになって経済苦も解決したと発表している。

 脳腫瘍の後遺症で中度の高次脳機能障害がありますが、生活にはほとんど支障がなく・・・

御本尊の御守護だと言っているわけである。しかし、わたくしはこの後の話の展開にやや疑問がある。

 さらに労務士は、私が現在通院している病院の診断書には、私の高次脳機能障害の検査結果が軽く書かれているとのことで・・・

つまり、社会保険労務士の尽力で障害年金をたくさんもらえるようになったと言っているわけだ。

実に悩ましい話である。こういう話には必ず不正受給の問題が表裏一体となって付きまとうことになる。彼の受給が不正であるかどうかをここで判断するのは難しいものの、アゲアシ取り的に言えば、ちょっとおかしいよね、ということになるだろう。何しろ最初のほうで、生活にはほとんど支障がない、と言っているからである。

ちなみに、わたくしのささやかな自慢話を披露しよう。

実は昔、わたくしは病気関係の補助金のようなものを受け取っていたことがある。事実、病気だったので、受給の権利はあった。しかし、わたくしはある時、自らその権利を放棄したのである。申請というか更新の時に、自筆の手紙を書いて、もう要りません、と断わったのである。

あでやかなサルスベリの花

本部庭園の四季は紙面の空白を埋めるためのやっつけ仕事のような感じがしないでもない。なぜならば、今回の写真はピントが合っていないからである。こんなピンボケ写真を載せてどうするのかと思う。あるいはワザとボカシ気味にしてあでやかさを演出したのだろうか?

2017/11/16

ニゲノジンセイ  
前回の拙稿では最初に沖浦氏関係の話題を書いた。それが一見すると沖浦氏擁護のように見えたのだろう。ために反発を露わにするようなコメントがいくつか寄せられた。
しかし、わたくしは必ずしも氏を擁護しているわけではない。早い話が静観しているだけのことである。
ある意味、沖浦氏に対していちばん冷たい対応をしていることになるのかもしれない。特に大沢氏による懇切丁寧なる助言は、当然ながら沖浦氏を思ってのことなのだろう。それに比べれば、いかにわたくしが冷たい人間であるかがよくわかるに違いない。

ここでまたしても客観的なことを言っておこう。

沖浦氏は勝ち負けのハッキリする人生を歩んでいる。これに対して世の中の多くの人たちは、勝ち負けのハッキリしない人生を歩んでいるのだ。
例えば、どこかの有名な会社に入ったとしよう。もちろん、その中でも勝ち組負け組の選別がある。しかし、非正規雇用で働いている人がたくさんいるという今の時代背景を考えれば、大した出世をしなかったとしても有名企業で定年まで勤め上げられれば、もうそれだけで十分のようにも感じられるところである。つまり、これがごく一般的な人たちの人生なのである。
ところが沖浦氏の場合は常に勝つか負けるかの瀬戸際で生きてきた。そのような生き方が好きなのかもしれないし、あるいは好き嫌いではなく、そのような生き方しかできないタイプの人なのかもしれない。

さて、ここで自分自身を見つめてみよう。わたくしの場合はどうだろうかと。

そう考えた時に、わたくしは沖浦氏と戦えない。同じ土俵には上がれない。同じ土俵で戦ったら負けるだろうことがわかっているから、という意味もある。多くの人間がそうなのだと思う。

また、沖浦氏がしばしば言っているのは、ネットでハンドルネームを使ってああだこうだ言うのは簡単だ、ということである。まさにその通りで、もし実名で同じことをするとなると、大変なことになるだろう。沖浦氏は実名でやっている。となると、この場合の土俵とは実名での戦いを意味することになる。自分がその土俵に上がれるのかである。

まあ、しかし、逆もまた真なり、である。

わたくしはハンドルネームを全否定するつもりはない。というよりも、わたくし自身がハンドルネームを使ってブログを書き続けてきたわけであり、主には顕正会批判を中心にやってきたわけである。ゆえにハンドルネームを否定することは自分自身を否定することにもなるのだ。

そしてウヌボレながらも、拙ブログが果たしている役割はそれ相応に大きいと思っている。以前から何度も言っているように、言論の世界はさしあたって言っていることが正しいかどうか、それが問われるわけである。匿名だからダメという話にはならない。つまり、わたくしの顕正会批判はそれ相応の説得力があって、活動会員たちにしても内心では首肯せざるを得ないことがたくさんあるはずなのだ。

よって、ハンドルネームでの主張も当然ながら、アリである。

では、なぜにわたくしが沖浦氏をめぐる問題に対して静観しているのか、なぜにまったく意見を言わないのか、ということになるが、これはすでに答えの一端を示したつもりである。ようは冷たい人間なのである。沖浦氏がどうなろうが知ったことではないのだ。

ともかく沖浦氏は勝負の好きな人、もしくは勝負の世界でしか生きられない人なので、今それで何かの問題をめぐって係争中なのだろう。わかりやすく言えば、法廷闘争をやっているわけだ。

ちなみに、わたくしはその内容についてまったく承知していない。知りたいとも思わない。何しろ冷たい人間だからである。

まあ、無難な答え方は、係争中なのでコメントを差し控えたい・・・みたいな感じだろうか?

いや、これは係争中の当事者が言うセリフかな?

なるほど、だから大沢氏が口を酸っぱくして言っているわけだ、沖浦氏が裁判ネタをペラペラしゃべっていることに対して・・・

いずれにしてもである。顕正会の場合もそうだが、沖浦氏の場合もひじょうにわかりやすい。

近くは今般の衆院選が好例であり、浅井先生の思惑とは正反対の結果となってしまった。勝ち負けで言えば、負けだろう。
同様の意味で、沖浦氏のやっていることも遅かれ早かれ結論が出る。いずれは司法の判断が下されるわけだ。しばしばニュースで見る、勝訴だとか敗訴の紙を掲げて裁判所から走り出てくる光景を思えば、まさに裁判は勝負の世界である。
我々はその結果を見ることができるのだ。沖浦氏に敵意を燃やしている人にとっても、見逃せない事案だろう。

翻って、わたくし自身はそうした勝負の世界とは無縁の人生を歩んできた。単に無縁と言うよりも、勝ち負けをつけるのがイヤなので、そういう場面を回避するような生き方をしてきたと言うべきなのかもしれない。沖浦氏から見れば、いかにも軟弱に映ることだろう。

いろいろとご不満もあろうかと思うが、とりあえずこんなところで終わりにしておこう。

2017/11/13

ゾウゾウノカフカ  
相変わらずコメント欄は沖浦氏をめぐって攻防が続けられている。ずいぶん前にも書いた記憶があるが、たいていは沖浦氏一人に対して大勢が襲い掛かる構図である。投稿者たちはぜひともこの構図を客観視されたい。

さて、今日も顕正新聞の続きを見ていくが、たまたま上述のことに符合するような記事を発見したので紹介しておこう。

 みなが右往左往するなかに、師子王のごとくたったお一人で・・・

けっこう登場頻度の高い、第十八男子部長の発言である。もちろん、ここでの一人とは浅井先生のことであり、沖浦氏とは関係がない。けれども一対多という構図は同じである。そしてこの場合、多よりも一のほうが上位概念となるのだ。

次は女子部第百五十九区長の登壇である。

 私の母・・・は、先生から頂く数々の重大指導に、「世界広布はもう近い!」との大確信で・・・

この区長さんはモンゴル出身であり、母親は現地で支区長補をしている。ゆえに当該区の成果はモンゴルの成果を含んでいる。前々から指摘している問題だ。

それにしてもどうかと思う。かつて創価学会が世界広布を盛んに言っていた時には、日本の広宣流布もまだなのに世界広布を云々するのはおこがましい・・・みたいな批判をしていた顕正会が、今はご覧のように世界広布のことを記事にしているのだ。冷静に見れば、日本の広宣流布も難しい状況である。それにもかかわらず、世界広布が近いなどと思っているとしたら、これは確信ではなく妄信の類だろう。

身延山大学で正義にめざめ折伏に立つ
学長が全学生にメール「カルト団体に注意」

顕正会の勢いに身延派は焦っている


男子部第四十八隊組長の記事に付けられた見出しである。同記事には学長のメール本文と、大学の掲示板に張り付けられた「カルトへ入信しないために」と題する文書が、写真で紹介されている。

字が小さくて判読するのが困難だが、わたくしの読んだ限り、顕正会のことを名指しで云々しているくだりは存在しないようである。つまり、これはカルト宗教全般を想定しての注意喚起であり、顕正会を特定するような意図はないと解するのが一般だろう。
しかしながら、登壇者の言いっぷりでは顕正会の折伏を妨害する意図がアリアリであり、事実関係として大学側から両親同伴で呼び出されたことも書かれている。
その意味からすると、やはり顕正会がターゲットなのだろう。けれども文面的には顕正会を特定せず、一般論を装っている。それは信教の自由という大原則があるので、そこを配慮したというか、ようは逆襲されないための一種の逃げ道を作ったのだろうと考えられる。

さて、身延派が顕正会の勢いに対して焦りを感じているのかどうか、それはわたくしの知ったことではないが、学長メール及び掲示物の内容はそこそこ常識的であり、むしろ顕正会側に反省すべき点が多々あることをよくあらわしていると思う。

「遊びに行こう。」「話を聞いてほしい。」「色々な話をしたい。」「飲みに行こう。」

学長メールの中から引用した。ようするに勧誘の手口を紹介しているわけである。四つのセリフの中で、二番目三番目は問題ないだろう。しかし、最初と最後がいけない。遊びに行こうと言って折伏するのは騙し討ちである。飲みに行こうも同じことだ。

おわかりだろうか? 先ほども書いたように、文面的には顕正会を特定するものは何もない。けれども登壇者は、これを顕正会の折伏を妨害するためのメールだと認識しているわけである。ということは、折伏の時に相手を呼び出す方法がいかに卑劣であるかを自ら証明しているも同然なのである。

「あなた、日蓮宗?
私たちも同じ
南無妙法蓮華経なのよ。
一緒に頑張ろう!」


これはもう一つの、カルトへ入信しないために、という掲示物の文面である。

繰り返し強調しておくが、顕正会を名指しする文書ではない。それにもかかわらず、登壇者は顕正会のことを書いているのだと認識しているわけだ。

ならば大問題だろう。

何が問題であるかは前述のごとく騙し討ちの雰囲気が濃厚であることだ。しかし、もっと重大なことを言うと次のごとくなるだろう。

顕正会は折伏路線から摂受路線へ変更したのか?

前掲のような折伏はもはや折伏ではない。これはもう摂受だろう。何しろ顕正会では身延派日蓮宗を似て非なるものと言っているのだ。同じ御題目と唱えていても、実はまったく違うのだと。彼は脱、此は種。彼は釈迦の法華経であり、此は日蓮大聖人の三大秘法であると。

ゆえにもし前掲のような折伏をしている顕正会員がいるとしたら、これはすでに異端者であり、即破門、すなわち除名ということになってもおかしくないわけだ。

それにしてもこれが総幹部会での登壇とは驚くばかりである。悩乱の極みと言うべきか?

ちなみに、この記事の最初のほうには、次のような記述がある。

 もともと私は仏像彫刻に非常に興味があり、山梨県で唯一、仏像彫刻を学べる身延山大学に入学しました。

彼の今現在の興味関心がどのようなものか知りたいと思った。

何しろ日蓮正宗は大曼荼羅正意論の本家本元であり、当然ながら顕正会もその流れを汲んでいる。ゆえに一般的な意味での仏像は存在しない。
そして長い年月、他門との間で論争が繰り広げられてきた。いわゆる造像の可不可の問題である。
これはこれでひじょうに難解な議論であり、ある意味では知的好奇心をくすぐる意味で、興味の尽きない問題ではあるのだが、しかし、顕正会の中にいたらこういう議論もできないだろう。

そういうわけで仏像彫刻に興味関心のあった彼がその後どのように変化したのか、本人に聞く機会があればぜひとも聞いてみたいと思った次第である。

2017/11/11

ブシツケナモウソウ  
モリカケ問題はまだ終わっていないと書いたところ、異論がいくつか寄せられた。これについての専門的な議論はわたくしの仕事ではないので控えたいが、ともかく疑惑が払拭されたとは言い難い状況なのは事実だろう。それをこのままウヤムヤにしてよいのかである。これは単なる政権批判のネタなのではなく、事実において犯罪を構成するのか否かが問われているわけで、これを不問にすることは権力者の横暴を許すことに等しい。つまりは独裁政治を認めることになるのだ。今の時代にこんなことが許されるわけがない。そこをお考えいただきたいものである。

さて、本題に入ろう。

「安倍ペテン政権」特集号

顕正新聞第1421号である。わたくしは浅井先生の安倍批判に全面的に賛同するつもりはないのだが、内容的にはなかなかどうして鋭いものがあると思う。しかし、結果論ながらも浅井先生のやったことは今回もまた失敗だった。

卑劣「森友・加計疑惑隠し」の解散

「丁寧、謙虚、真摯に説明」の誓い破る
総理大臣は嘘をついてはいけない!!


一面の大見出しである。そして二面から三面にかけては、九月二十七日に行なわれた総幹部会での会長講演が掲載されている。
講演内容には特に目新しいところがない。顕正新聞を熟読している人にとってはほぼ既出の内容である。
ただし、当該号の目的はそこではない。会員に対する指導ではなく、むしろ外部への啓蒙である。

このことを翌号・翌々号、さらには最新号から論証しよう。

民意を動かす戦い・・・

後の号にはご覧のような言葉がたくさん出てくるのだ。これは顕正会員の使用する語彙としては異例だろう。そして最新号には次のような記述がある。

 十月三日、異例の早さで「安倍ペテン政権特集号」が発刊され・・・

拙ブログの愛読者ならば、わたくしの言わんとしていることがよくわかるだろう。当該号は十月五日号である。そして顕正新聞の出来はいつも遅れがちなのだ。五日号にもかかわらず、十日過ぎに出来するようなこともあるし、いつまでも出来しないと思っていたら、それが翌号との合併号になってしまったりするテイタラクなのである。
それがなんと期日前に出来した。上掲の文章はそれをよくあらわしていると言えるだろう。異例の早さ云々と。そして前掲のごとく、民意を動かす云々である。
つまり、浅井先生としては顕正新聞特集号の力で民意を動かすつもりだったのだ。特集号の大量配布の力で安倍政権を崩壊させるということを今春以降やってきたわけだが、いよいよ今度の総選挙こそがその最終段階の戦いなのだと位置付けたわけである。

ゆえに出来を急いだのだ。その傍証を翌々号から引用したい。

 されば、本特集号を十月二二日の衆院総選挙までに広く配布し、安倍晋三の正体を白日の下に晒し、安倍ペテン政権の崩壊を一刻も早くと決意するものであります。

いかがだろうか、拙ブログの切れ味もなかなかのものだと、自画自賛したくなるところだ。

ゆえにタラレバの話ながらも、もし今回の総選挙で自公政権が負けていたら、その時は顕正会員による特集号の大量配布の結果であると、翌月の総幹部会で言うつもりだったのだろう。
確かに顕正会の活動会員たちは頑張った。すでに十月度総幹部会の新聞が届いているけれども、そこには活動会員たちの奮闘ぶりがたくさん紹介されている。
しかし、結果は周知のごとくであり、皮肉ながらも浅井先生の目論見は失敗に終わったわけである。

少しだけ冒頭の話題に戻りたい。おそらくは今日の本題と冒頭の話題にはじゃっかんのネジレがあることに気がつくだろう。

ようするに本題では浅井先生の目論見通りに行かなかったことを痛烈に批判しており、これを単純に見れば浅井批判・安倍擁護の論陣のように感じられるかもしれないのだ。しかし、わたくしの立場は必ずしも安倍擁護ではなく、むしろ安倍批判の側にいると考えて差し支えないだろう。早い話が是々非々である。もはや浅井先生の主張する広宣流布の最終段階説にはまったく賛同できないが、さりとて浅井先生の言っていることを全否定するつもりはない。戒壇論においては宗門のそれよりも遥かにマシであるし、その他の諸問題においてもなるほど会員たちが先生の見識を持ち上げるだけのことはあるわけで、安倍批判においてもなかなか鋭いものがあるのは事実である。

そこでさらに話を脱線させよう。

顕正会が公安調査庁に目をつけられているのは周知の事実である。そして近年はことさら政権批判を強めているので、政権中枢にも顕正会の存在がよく知れ渡っていると想像される。するとどうだろう、政権与党の一角を担う公明党すなわち創価学会と顕正会はまさに犬猿の関係であり、政権中枢はこうした対立関係についてもよく承知しているはずであるが、自公の議員たちがこの件で協議をすることがあるのだろうか?

ブシツケな妄想で恐縮だが、今後、顕正会員の逮捕事件が急増するようなことがあれば、まさしく安倍独裁政権による権力の横暴であり、その裏で糸を引く公明党・創価学会の存在が浮かび上がってくる。

まあ、しかし、逆に逮捕事件も起こらず、平穏に過ぎれば、これはもう、まったく相手にされていないことになるだろう。顕正会的にはどちらも痛し痒しである。

2017/11/10

テンジョウガワ  
大急ぎで第1420号をやっつけてしまおう。

川より低い位置に建つ我が家は・・・

 実は、我が家の一軒だけがこの地域で川より低い位置にあり・・・


女子部第百六十九区班長は七月二十三日の秋田豪雨について書いている。ようは川より低いところに家が建っているにもかかわらず、御守護で浸水を免れたという話だ。そもそも川より低い理由がわからない。いわゆる天井川と呼ばれる状態なのだろうけれども、それが一軒だけというのが解せない。もし本当ならば実際に見てみたいものである。

高校二年生に当る年に無事に高卒認定試験に合格・・・

男子部第百二十一隊支隊副長の話である。彼は母親の縁で高校入学と同時に顕正会員となった。しかし、不良グループに入ってしまい、三ヶ月で高校を退学した。それが高校二年に当たる年に高卒認定試験を受けて合格したというのだから、凄いことである。

さて、次は第十八男子部長の記事であるが、相変わらずの安倍批判である。

・・・権力を失った途端、自身が獄に繋がれる恐怖を味わっていることを想像しました。

韓国の場合は容赦がない。歴代大統領の相当数が後に裁きを受けている。それに比べると日本の場合は寛容だ。武士の情けだろうか?

ただし、前にも書いたように、モリカケ問題は終わっていない。選挙で信任を得ようが得まいが、これはまた別次元の話である。安倍首相が不正を行なっているのが事実であれば、それ相応の裁きを受けて当然である。

 されば第十八男子部は、十月までの誓願達成を断固、成し遂げ・・・

難しい表現だ。

「十月まで」と言った場合、十月の一日を意味するのか、末日を意味するのか、それがハッキリしない。本人はどちらのつもりで書いたのだろうか?

婦人部総務の発言も拾っておこう。

諸天が動かぬわけは断じてないとの確信が衝き上げ・・・

九月十三日の段階での発言である。これ以上は言うまい。

そして女子部第百二十九区総班長は千葉県で公立高校の教師をしているそうだが、教育委員会から「折伏やめよ、教員やめよ」と迫られたそうである。しかし、憲法の信教の自由を盾に反論すると、「在校生以外の折伏は制限しない」ということで決着がついたらしい。

それが常識的な線だろう。

 私は「妙法の教育」の実現をめざし、卒業生・同僚・教育実習生を折伏・・・

つまり、この段階ではまだそれほど問題ではなかったのだ。ところがである。

 その中、親からの虐待が日々エスカレートしていく生徒を見て、「救ってあげたい」との思いで折伏すると・・・

これが大問題となったわけだ。

これまでにも類似の問題を繰り返し取り上げてきた。わたくしの結論は単純明快で、在校生への折伏は控えるべき、卒業を待ってからにすべき、というものだった。

ただし、上掲はけっこう深刻な話である。なぜならば虐待という事実があるからだ。むしろ総班長の「救ってあげたい」という気持ちは当然のことであり、事なかれ主義と思しき教育委員会のほうにこそ問題があるかもしれないのだ。つまり、親からの虐待に対して、教師が何をしてあげられるのか、教育委員会が何をしてあげられるのか、である。結局は見て見ぬふりをして、そのまま時間が過ぎるのを待っているわけだろう。そこでマレには自殺してしまったり、虐待死のような事態に発展して、教育委員会の無能ぶりが発覚することになるのだ。

そういうわけで、今回の記事については総班長の肩を持ちたい気分である。

次のように整理しておこう。

教師による在校生の折伏は原則禁止とし、特殊な事情がある場合に限って許される。もちろんその判断は自己判断によるべきである。ようは成果至上主義によるナリフリ構わずの折伏がいけないわけで、得てして在校生への折伏はノルマ達成のための安易な手段と化す。ゆえに原則禁止とすべきなのである。

次回はようやく九月度総幹部会の話題に触れられそうである。

2017/11/8

ジュウダイナジジツ  
顕正新聞第1420号の五面に載る婦人部大仙支区総班副長の「正義にめざめて」は、創作の疑いが濃厚である。というよりも昭和三十八年入信で、平成八年入会、現在の役職が総班副長とすれば、もはや記憶が上書きされていると考えるべきなのかもしれない。まさか本人が作り話だと自覚しつつ登壇しているとは考え難いからだ。

大石寺に一度だけ参詣したときのことは、忘れるものではありません。

その時に妙信講員らしき人々を目撃したそうである。後に顕正会に入会し、「試練と忍従の歴史」を読んで、ああ、あの人たちは妙信講の人たちだったのだ、と言っているわけなのだが、もしそれが本当ならば凄いことである。妙信講は数年ぶりの登山だった。しかも一年三百六十五日の内のたった一日のことである。さらに彼女の側から見ても、大石寺への参詣はたった一度だけということなのだから、ベラボウに低確率のはずなのだ。ゆえにこれが事実ならば、まさに宿縁とはこういうことなのだろう。まあ、しかし、今となっては本当かどうか確かめようのないことである。

そういうわけで、どちらとも断定はできないものの、わたくしの感触では記憶の上書きと考えるのが妥当ではないかと思う。

それはさておき、上述のことでもっとも注目すべき点は「一度だけ」の参詣である。彼女は秋田県の大仙市に住んでいるらしい。もしそこから大石寺への登山を頻繁に行なっていたとしたら、その費用だけでも相当の額になるだろう。けれども一度しか参詣していないという。今、顕正会では営利の御開扉がどうのこうのとイチャモンをつけているけれども、もちろん、それは現宗門に対してなのだが、それはともかく、この記事には当時の創価学会が会員に大石寺登山を強要していなかったことの傍証の意味があるわけだ。おそらく首都圏や関西圏などからの大石寺登山はアクセス的に無理がないので盛んに行なわれていたのだろう。しかし、それ以外の遠隔地からの登山参詣については、それほど無理強いをしていなかった。もしそうだとすれば創価学会は良心的な組織と言えるだろう。だから発展したのかもしれない。

当時、学会の座談会で「訂正された」と聞き、

いわゆる浅井武勇伝である。創価学会を二度も訂正せしめた。細井管長をも訂正せしめた。これが浅井先生の自慢であり、繰り返し語られてきたことだ。

しかし、どうだろう。創価学会の中で訂正が徹底されたとは考え難い。これも何か文書的なものが残っていればいいのだが、たぶん存在しないだろう。いわゆる聖教新聞紙上に掲載された訂正文なるものは、顕正会が訂正文だと言っているだけであって、創価学会員がそのように認識していたことにはならないのだ。

顕正会に入会直後、細井日達書写の御本尊を本部会館に納めたとき、なぜか清々しい思いが湧き上がった・・・

これは重大な証言である。

今や顕正会は上から下まで思考に狂いが生じており、いわば感覚がマヒしてしまって気がついていないだけなのだが、もし上掲が事実であれば大変なことである。

拙ブログは整理整頓ができていないので恐縮であるとお断りしつつ、はっきりと書いておこう。平成十一年に御相承の断絶を発言した。これはもう取り返しのつかない大失言である。そしてこの頃より水面下では日顕上人の御本尊を拝まないという方針が徹底され始めた。
わたくしは当初、これを御相承の断絶との因果関係から解釈していた。ようは日顕上人は血脈を受けていないニセ法主である。ゆえにその書写本尊はニセ本尊である。という理屈なのだろうと考えていた。
しかし、浅井先生も御相承の断絶を失言であると気がついたのだろう。後にはあまり口にしなくなった。けれども水面下では日顕上人の御本尊を拒否する方針に変わりがなかった。これが活動会員たちに、やはり阿部管長は御相承を受けていないから、という意識を持たせることになるわけだ。しかも平成十六年からは阿部日顕と呼び捨てにするようになった。その当時はまだ、日達上人については細井管長と呼称していた。
しかし、ご存知のごとく、後には日達上人をも細井日達と呼び捨てるようになるのだ。当然、水面下では日達上人の御本尊も拝まないという方針が徹底された。

水面下ということが重要なポイントである。

つまり、これほどの重大事にもかかわらず、浅井先生は公の席でほとんど発言していないのだ。ひたすら水面下でのみ事が進行していたわけである。
ゆえに表面上の発言だけを拾えば、順番的には日顕上人の御本尊を拝まないというのが最初であり、その次に日達上人の御本尊を拝まないという具合に、いわば段階的に変化しているわけなのだが、現実はそうではなかった。
しかもである。今回の証言が事実であれば、すでに平成八年の段階で日顕上人の御本尊どころか日達上人の御本尊すらも否定するという、恐るべき事実が発覚したことになるのだ。

今が平成二十九年である。つまりは二十一年前になる。もうこれだけの年月が経つと、顕正会の首脳部も記憶が錯綜してくるのだろう。例えば妙信講時代に建てた本部会館に会長室があったかなかったか常識的に考えればすぐにわかりそうなものだが、会長以下、大幹部たちが揃って会長室を云々しているわけである。悩乱しているとしか言いようがないだろう。

どうしてこうなってしまったのだろうか?

そして恐ろしいことには、上述のような指摘が新しい人たちにはあまり響かないだろうことである。何しろ当時のことを直接的には知らないからである。
では、当時から在籍している活動会員たちはどうかであるが、これも悩乱のゆえなのか、指摘していることの意味すら理解できない人も少なくないのだ。
いや、そんなことはないかな。本当はわかっているけど、もはや顕正会から抜け出すのも勇気がいることなので、ダラダラと続けるしかないと観念しているのかもしれない。だとすれば、こんな悲しいこともないだろう。

しかし、困ったものだ。今日は一つの記事だけで終わりだもんな。顕正新聞が溜まる一方だ。

2017/11/2

ニノマイ  
今朝の沖浦氏のコメントは謎だらけである。細かくツッコミを入れてみたいところだが、やめておこう。たぶん、他のコメント投稿者がおやりになるだろうから、わたくしは静観することにしたい。

引き続き秋田会館特集号である。

崩壊寸前まで追い込まれ・・・

諸天が動くさまには・・・


秋田での会長講演には安倍批判が出てこない。しかし、大幹部たちの登壇にはそれがある。まずは婦人部総務の記事だ。ご覧のように最小限の引用に止めたのでわかりにくいとは思うが、ようは安倍政権の崩壊を云々しているわけである。しかもである。ここでは日顕上人の退座を例に挙げて、同様に安倍首相も退陣に追い込まれると言わんばかりなのである。

同じく男子部第六十三隊支隊長も次のごとく発言している。

先生が本年四月に諫暁を開始されてより、一気に安倍政権がガタガタになっていく現証を見ては、先生のご発言に諸天が相呼応していることを大確信・・・

再び婦人部総務に戻って、次の文章をご覧いただこう。

先生こそが大聖人様の御心のままであり、大聖人様と一体であられれば・・・

もはや言葉を失うほどだ。さらにご覧いただこう。

 そして王仏冥合の憲法が制定され、金剛不壊の仏国が実現する秒読み段階に入ったことを思えば・・・

王仏冥合の憲法、そして仏国の実現、これらを目標に掲げることは大いに結構なことだ。しかし、それが秒読み段階に入ったと言ってしまってはいけない。これは言い過ぎどころか、オオボラ吹きである。繰り返し言おう。理想を掲げることはよいことだ。しかし、現実を見れば秒読み段階とはとうてい言えないはずである。たとえそれが譬喩だとしても、現実的に数年からせいぜい十数年くらいが最大スパンであり、それ以上の時間が掛かるとしたら譬喩だとしても不適切である。それが世間の常識だろう。

それに比べれば、女子部総務の登壇はわりと現実的である。

カラー広告の秋田県全戸配布を全員で決意いたしました。

大変な労力である。

 本日現在、秋田市・約十四万三千世帯への配布をほぼ完遂いたしました・・・

まあ、しかし、少し前にも書いたことだが、これがどれだけの効果を発揮するかは疑問である。

第二十六婦人部長の登壇にも注目しておきたい。

二百万から六千万、そして大聖人お待ちあそばす大法戦場・・・

これはどうなんだろう?

わたくしの認識では二百万達成後、間を置かずにいわゆる二十年代に突入するわけで、そこでの戦いこそが大聖人の御待ちあそばす大法戦場ではなかったかと思うのだが、彼女の言い方だとかなり違った印象を受ける。ようするに六千万の暁に到来するのが大聖人云々の法戦場と言っているように聞こえるのだ。もしそうならば、またしても下方修正となるだろう。

とは言え、これは彼女に非があるのではなく、浅井先生がいけないのだ。むしろ彼女の認識こそが顕正会の実力を鑑みての、わりとまっとうな現状認識と言えるのだろう。

ここで本部首脳に言っておこう。百万の二の舞いを踏むつもりかと。

ようするに二百万ないし二十年代に過度の期待を懐かせることがどれほど危険なことかである。
百万の時、ガッカリした人がどれほどいるかということだ。わたくしもその直後くらいに別の理由もあって組織を離れてしまった。当時、他にもたくさんの人が離脱した。
もちろん、組織に留まった人たちもたくさんいた。その時、歯を食いしばって耐え抜いた人たちが今の顕正会を背負っているわけだが、しかし、二百万の時が正念場である。


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