2017/12/31

ヘラズグチ  
歩氏より質問が寄せられているが、特に目新しいことを申し上げるつもりはない。前回の拙稿に、六根が研ぎ澄まされて頭がスッキリしている、とあるのが答えである。おそらくはその逆が諸根闇鈍なのだろう。もちろんこの言葉の前後には、現代感覚に照らして問題となるだろう数々の表現があるのだが、それはまた別の議論ということでご容赦願いたい。

さて、今日は顕正新聞第1424号である。当該号は「国家破産」特集号と銘打たれていて、内容は十月度総幹部会の記事を中心に組まれているが、総選挙直後のことでもあり、会長講演が注目されるところである。

自民党大勝は「漁夫の利」

安倍政権は必ず崩壊する


数々の見出しの中から選挙関連の部分を拾ってみた。本文中には次のごとくある。

・・・民進党の不可解な小池新党への合流によって野党が分裂し、この敵失により自民党が「漁夫の利を得た」という以外にない。

言っていることは正しい。しかも小池氏に失言があって、それが流れを大きく変えてしまったような印象がある。

慢心したのか予定の行動だったのかはわからないが・・・

いわゆる小池氏の排除発言を指してのことだ。

 かくて「希望の党」は、希望が失望に、失望が絶望に、そして今や滅亡せんとしている(爆笑)。

浅井先生も他人事だと思って言いたい放題である。

 このようなドタバタ劇の中で、「立憲民主党」が小さいながらも野党第一党に躍進したことは、「筋を通した」という意味で爽やかでした。

これは多くの人が言っていることであり、誰もが共感する話なのだと思う。特に浅井先生の場合は妙信講時代のことが投影されて、なおさらその感を強くしたのかもしれない。

 さて、自民党が勝ったことにより、安倍首相は続投となった。
 しかし、安倍政権は必ずまもなく崩壊する。私は確信しております。


こういうのを減らず口と呼ぶのだと思う。負け嫌いの浅井先生らしい発言ではあるが・・・

もちろん根拠があって言っているわけで、先生は二つの理由を述べている。一つにはモリカケ問題で、安倍夫妻が関与していたことを示す証拠が今、次々と出つつある、と言っている。このことは後日また触れるつもりである。そしてもう一つの理由が本特集号の題号となっている国家破産のことである。アベノミクスの失敗により国家破産が訪れると。

わたくしは内容以前の問題として、浅井先生の発言には基本的な問題が横たわっていると思う。ようは前言との齟齬、すなわち自語相違である。

 後醍醐天皇の「建武の中興」はわずか三年で亡んだが、安倍政権はもっと早いと私は思っております。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1950.html

かれこれ四年前になるだろうか、その時の発言が上掲である。いわゆるオオカミ少年みたいなものだろう。これでは言っていることが正しくても誰も信用しないし、信用できない。少なくとも前言について何らかの釈明が求められるところである。

さて、その上で国家破産のことを考えてみると、いつものことながら経済オンチのわたくしにはよくわからない話である。ただし、浅井先生は子供時代とは言え戦争経験者であり、敗戦時の苦境を実際に経験している。ゆえにそうした体験をもとに将来の国家破産を論ずるとなると、相当の説得力を持つのは事実だろう。ここでは細かい記述を省略するが、なるほど、特集号として広く一般に読ませるだけの中身の詰まった記事であることは間違いない。

しかし、次の国家破産の時期についての発言は得意の予言であり、きわめてオオカミ少年的である。

 「早ければ来年の後半、遅くとも3年後のオリンピック前後」ということです。

そしてこれがまた浅井先生のズルイところで、上掲は信頼に足る研究機関やエコノミストたちの見解ということなのだそうである。

 この国家破産により、ペテン師・安倍晋三の化けの皮は完全に剥がされる。
 だがそのとき、彼はもう姿を消しているに違いない。


過激な発言である。

少し余談を交えると、わたくしはあまりテレビを見ないというか、家にテレビがないので普段は見ていないのだが、討論番組などで事実上の出入り禁止みたいな人物がいくつか存在するようである。討論番組は丁々発止の議論があってこそ面白い。しかし、あまりにも過激過ぎる人物は敬遠されるようなのだ。何人か名前を挙げたいところだが、やめておこう。

彼はもう姿を消している・・・

またしても予言である。来年後半、なるほど来年は総裁選があるので、出馬しないか、もしくは対抗馬に負ける可能性を示唆していることになるだろう。もちろんその前にモリカケ問題が深刻化して辞任に追い込まれる可能性もなくはないわけだが・・・

それにしてもペテン師云々はどうかと思う。ブーメラン的に書けば次のごとくなるだろう。

予言の外れまくりにより、ペテン師・浅井昭衛の化けの皮はすでに完全に剥がされている。

顕正会員が激昂しそうであるが、ようは同じことを他人に向けてやっていることを自覚すべきなのである。姿を消している云々も同様であって、不謹慎ながらも浅井先生の年齢からすれば同じことが言えてしまうのである。オマエはもう死んでいる、というのは何かのマンガの名ゼリフであるが・・・

憲法9条問題をどう見るか

当該号は国家破産に力を入れているが、後半においてはご覧のように九条問題にも言及し、さらに近隣諸国の軍事情勢にも触れている。

 私はこの北朝鮮の脅威こそ、他国侵逼の序・ハシリだと思っています。

いやあ、懐かしいなあ、と思った。ハシリがそれである。わたくしが顕正会に入った頃、ようはもう三十年以上前になるが、浅井先生の講演にはこのハシリという言葉が頻出していたような記憶がある。拙ブログの愛読者ならば、わたくしがわりと高頻度でカタカナ語を使うのをよくご存じだろう。通常のカタカナ語ではなく、一般的には漢字やひらがなで表記するのが普通のところを、あえてカタカナで表記するのである。一種の強調表現のつもりでやっているわけだが、もしかしたら浅井先生の影響なのかもしれないと、今にして思った次第である。

 台湾統一は中国共産党の長年の悲願であったが、いよいよその悲願達成に向けての動きが始まったのです。

これはどうなんだろうかと思う。面倒なので確認していないが、かつての諫暁書を読めばそこに自語相違が見出せそうである。

2017/12/30

ジコカンケツガタ  
マイケル氏から質問が寄せられている。功徳を感じたことがあるのかと。しかし、功徳の話は実名でないと説得力に欠けると誰かが言っているので、ここで云々しても仕方がないだろう。

むしろ問題は指導教師云々のほうだと思う。

拙ブログは開設当初から独白を看板に掲げてきた。副題にはオチブレ顕正会員と書いてある。ここで読者によってはわたくしを今も現役の顕正会員のように扱って、顕正会への論難をわたくしにぶつけてくるようなこともかつてはあった。そこで近年は、日蓮正宗系無所属信者、というような表現を使うことで、現役の活動会員ではないことを強調しているわけである。

おそらくマイケル氏にとっては、その意味・意義がよくわからないのだろうと思う。いや、マイケル氏だけではなく、世の大多数の人には理解不能というか、ひじょうに難しいスタンスなのだと考えられる。

もっとも典型的な事例は御書の拝し方である。ウソだと思われるかもしれないが、わたくしは解説書を読まないで御書だけを読むのである。もちろん理解できない部分もたくさんある。その時はネットで調べたりもするし、手元に解説書の類があればそれを参考にすることもある。しかし、今は純粋に御書だけを読むことが多い。そして生意気なようだが、御書を拝していてわからない時は大聖人に質問するのである。大聖人に質問? この意味も難しい話で、一つには勤行の時に大聖人に質問申し上げるというような意味合いだと誰もが想像するはずである。しかし、それで大聖人が答えて下さることはあり得ない。そのようなテレパシー的なことは宗教の世界ではよく語られていることではあるのだが、もちろんそのような啓示というかヒラメキはあるのかもしれないが、わたくしの場合はそれではない。基本的には日々の御書の拝読がヒラメキを呼ぶのである。

もはや何を言っているのかわからないだろう。しかし、わりと簡単な話である。例えば開目抄を拝読していてわからない時に、観心本尊抄を開くのである。本尊抄を拝読していてわからない時に、報恩抄を参考にするのである。報恩抄がわからない時は、本尊問答抄を読むのである。

つまり、大聖人の仰せを理解するためには、他人の解説を信用するのではなく、大聖人に解説していただくのがいちばんなのである。とは言え、これができるのは御書全編を知悉していなければいけない。当然、御書全編を一回通読したくらいでは無理だろう。生意気ながらも、わたくしの拝読量はもはやそういうレベルを超越しているのだ。

慢心の極みかもしれない。しかし、日蓮正宗の指導教師であっても不勉強の人は、拙ブログを見て思うだろう、コイツは扱いづらい人物だと。

そういうわけで、現状ではどこかの寺院に所属するような気持ちはサラサラなくて、こうして独白ブログをやっているのが性に合っているという意味からしても、無所属を標榜するのが至当だろうと思っているわけである。ゆえに、こうしたスタンスを他人に勧めるつもりはないし、勧めたところでこれを全うできる人はそうザラにはいないだろうと思うわけである。

功徳論に少しだけ触れておこう。

功徳とは六根清浄の果報である。解説書を読まないと言っておきながら、これについてネット上の解説を読むとなかなかいいことを言っている。

六根清浄とは、私たちの六根(眼・耳・鼻・舌・身・意。六つの知覚器官)、すなわち生命の全体が浄化され、本来もっているはたらきを十分に発揮することです。これによって、私たちは、さまざまな困難に直面しても動揺しない、力強い仏界の大境涯をわが身に開き顕していくことができます。

http://www.sokanet.jp/pr/kyougakunyuumon/shinkoutojissenn/5-shinnjinnsokuseikatsu/01-2/

さすがは天下の創価学会である。特に異論はない。

天は自ら助くる者を助く、というのは世間一般で使われている俗諺であるが、天という存在、もしくは神仏そのものは単なる譬喩であって自助努力こそがすべてである、という考え方の人も少なくないのだろうと思う。しかし、同じように努力しても結果が異なるのはなぜか、そう問われると答えに窮することも事実である。その答えの一つが宿命論であるが、いわゆる過去世の因縁という話になると信用しない人が多いのも事実で、それは証明できない事案だからなのだろう。けれども、そういう現実主義者にとっても六根清浄は説明としては受け入れやすい。そしてこの場合、いわゆる他力本願的ではなく、きわめて自力本願の要素が強いわけで、努力家には向いている話なのだと考えられる。つまり、六根清浄はスタート地点に他ならず、そこからどれだけ努力したかが結果にあらわれるわけである。仏という存在が事実だとしても、仏が結果を与えて下さるのではなく、結果は自らが獲得すべきものなのだ。

いかがだろうか、これをわたくし自身に当てはめた時、一つの答えが出ると思う。

わたくしは信心のお蔭だろうか、六根が研ぎ澄まされて頭がスッキリしているのである。御書を拝読していてもスラスラと頭に入ってくる。これこそ六根清浄の果報ではないかと思うのだが、いかがだろうか?

まあ、しかし、日蓮正宗系の宿命なのか、お互いを罵り合うことにおいて、しばしば使われる言葉がある。アイツは頭がおかしいのだ、狂っている、悩乱している、等々と。それにしても拙ブログの場合、わたくしに対するそうした罵りはきわめて少ない状況にある。自分的にはこれも功徳だろうと思っているのだが、いかがだろうか?

以上、実名ではないものの、独白ブログの自己完結型功徳論としては、いちおう成立しているつもりである。

2017/12/24

ナガスギ  
何やらコメントを読んでいると、マイケル氏が創価学会に入会しそうな雰囲気が漂っている。実に複雑な心境であるが、こればかりは本人の自由なので、これ以上の言及は控えたいと思う。

また、罰が出て喜ぶ云々について、罰で苦しんでいる人を救うのが宗教だという、きわめて常識的なコメントが寄せられた。これはまったくその通りであり、これには顕正会員たちも異論はないはずなのである。
ところが顕正新聞を読んでいると、相手に罰の現証が出たことを喜んでいるようなフシがあるので、拙ブログではそれを繰り返し指摘してきたわけである。
もっともこの喜ぶという精神構造について考えると、あるいは罰によって気がつくチャンスを得た、つまりは顕正会に入信するキッカケを得た、往いては幸せになるためのスタートラインに立てた、というような意味合いから喜んでいるのだとすれば、それほどおかしなことではないのだろう。
相手の不幸を見て喜ぶのは、ひじょうにおかしなことというか、仮に本心がそうだとしてもそれを表に出すのはきわめて幼稚なことである。

いずれにしても顕正会員は世の中のあらゆる事象を仏法で説明しようとするので、その最終形としては自ずと功徳と罰の二分法にならざるを得ないのだろうと思う。また、こうした思考自体がすでにして顕正会の活動にのめり込むための装置となっていて、何か悪いことがあれば罰だと解釈してもっと頑張って活動しないといけないと思い込むわけだし、良いことがあればあったでよりいっそう信心に励むことになる。さらに付け加えれば、ここに魔障という概念が組み込まれることもあるが、これもまた功徳と罰の応用に他ならない。二分法では単純すぎるので、少し複雑化しただけの話である。

しかし、ここまで書くと、オマエは大聖人の仏法を否定しているのか、というような反論が寄せられるかもしれない。

これについて釈明しておくと、表面的なことで功徳だとか罰だとか騒ぐな、というのが第一点である。浅薄なる功徳論・罰論、あるいは幼稚な功徳論・罰論と言ってもいいと思うが、そういうものはもはや現代人には通用しなくなってきているのだと思わないといけないだろう。ともかく功徳も罰も否定はしないが、それはもっと深い次元で捉えなければいけないことだと思う。もちろん答えとしては不十分である。ようはわたくし自身、よくわかっていないのが本当のところであり、今後の課題である。

もう一つ言っておくと、わたくし自身は日蓮正宗系無所属信徒という立場である。そこから見えるものは、教団ごとの自己都合解釈である。唯一の例外が沖浦氏であって、氏の場合はどこの教団に属していようが功徳はあると言っている。しかも日蓮正宗系に限らず、どこでもいいのである。さらには日蓮系に限らず、他の宗派でもいいのである。さらには仏教系に限らず、他の宗教にも功徳があると言っている。
しかし、今言ったように、これは例外中の例外であって、日蓮正宗系は他宗教に不寛容というのが一般的な認識であり、事実、そうなのだと思う。その最右翼が顕正会であるが、宗門も創価学会も五十歩百歩である。
たとえば樋田昌志氏がわかりやすい。氏の作るパンフレットには顕正会員や創価学会員の罰に苦しむ様子がよく表現されている。確か美大出身のはずで、あのエゲツナイほどデフォルメの効いたイラストは本人によるものなのだろうと思われる。
創価学会系ですぐに思い浮かぶのはフェイクである。これはもう謀略情報紙だけのことはあって、実にエゲツナイ。
顕正会は拙ブログで常々紹介している記事の数々を見ればよくわかるだろう。また、顕正会の内部にいた人であれば、いわゆる口コミ指導としてエゲツナイことがたくさん語られていることはよく承知しているはずである。

ここで思い切り上から目線で言わせてもらえば、もしかしたら日蓮正宗系のすべての教団が罰を受けているのではないか、ということになる。ようするに大聖人の立場からすれば、お前たちはいったい何をやっているのか、皆で力を合わせて広宣流布を目指さなければダメではないか、というふうに思っていらっしゃるかもしれないのだ。現状、各教団が信徒の獲得合戦をやっていて、日蓮正宗系の中で行ったり来たりしている人がいるけれども、それでは何の進歩もないだろう。なぜ大同団結を目指さないのか、なぜ大連立の発想が生まれないのか、むしろそこが日蓮正宗系の未熟なところである。

あるいは今のところ、ぜんぶを取りまとめるほどの実力を備えた大人物が存在しないということなのかもしれない。その意味でも日目上人の御出現が待たれるところなのだろう。

しかし、こんなテイタラクだから顕正新聞が溜まる一方なのだ。もちろん、これはわたくしの話である。そこで今日はもう少し頑張って、第1423号の残りを取り上げてみよう。

「三桁の供養をすれば四桁の功徳がある」

これは平成二十一年入会の男性婦人部員である。かなり時間が経っているけれども、なぜか男子部に移籍せずにいる。それはともかく彼は創価学会員時代に上掲のようなことを言われたそうである。これは凄い話だ。顕正会では上限があって、ようは一桁の供養しかできない。いちおう建前上はそのようになっている。ところが創価学会ではご覧のごとくなのだそうである。

しかし、これは話半分ということなのだろう。実際、そのような話があるのかもしれないが、あくまで話であって事実ではない。

以前、ネット上で創価学会の古参幹部の指導テープを聞いたことがある。確か戸田会長の側に仕えていた女性幹部である。彼女はそこで百万円供養しろとハッパを掛けていた。しかし、その場の雰囲気はひじょうに明るくて、彼女が百万円と言った直後に大爆笑が巻き起こるのである。それを聴いたわたくしの印象では、百万円は冗談なのだろうと思えた。もちろんお金持ちの人は百万円の供養をするのかもしれないが、それが創価学会における供養の相場というわけではなくて、無い人からむしり取るような、そういうエゲツナイことはしていないのだろうと思えたわけである。

それはさておき、次のくだりが疑問だった。

 私は中学生のころから母に連れられて学会の会合に参加しており、昭和五十二年には当時勤務していた東京の病院の同僚から折伏を受け、何の抵抗もなく池袋の常在寺で御授戒を受けました。

なぜに母親は彼を入信させなかったのかである。

 また創価班の御奉公ができることを誇りに思い、寝る間も惜しんで都内の会館や正本堂の衛護、少等部の指導に熱を入れ・・・

少等部は小等部の誤記か、もしくは創価学会特有の表現なのかもしれないが、ここで前掲の疑問が鮮明になるはずである。中学生の頃から云々である。当然、中等部があるはずだから、そうなると彼の母親がなぜに彼を入信させなかったのか、まるで理由がわからないのである。

つまり、こういう記事を載せるから創作だとかヤラセだとか言われてしまうわけなのだろう。編集部はそこをよく考えるべきである。

話は後半に移る。

広布以前に、何度も御開扉を重ねてきた恐れ多さに・・・

そんなにおかしな文章ではないのだが、顕正会員的な思考からすると何か悪いことをしてきたようなイメージになるので、そこが問題である。さらに問題は次のくだりだ。もはや彼が顕正会に染まっていることは一目瞭然であるが、話が支離滅裂に感じられるのも事実である。

 「本音を言うと戒壇の大御本尊様にお値いしたい。もう学会の言うことは信じられない。もう学会の言うことは聞かない!」

近所の創価学会員の発言だそうである。わたくしならば、だったら宗門に行くべきですね、と応えるところである。これで支離滅裂の意味がよくわかっただろう。

もう一つ、女子部第四十三区総班長の記事から、総班員のセリフを紹介しておきたい。

「顕正会は仏壇を買わせたりしないから良いね」

これは創価学会との比較である。単純に言うと、本尊の下付があるかないかの話なのだろう。創価学会では入信者に本尊を下付する。すると必然的に仏壇が必要になる。顕正会の場合はそれがないという話なのだ。

しかし、ここが顕正会の定着率の悪さの一端でもあるわけで、実は本部首脳もそれを理解しているフシがあるのだ。ゆえにかなり以前の話ではあるものの、経机の推進が行なわれたことがある。しかし、これはかなり中途半端というか、傍目にはケッタイな風景に映るかもしれない。その意味では失敗だったのだろう。そこで今、わたくし自身はその実態をほとんど知らないけれども、自宅拠点の名目で本尊の下付が行なわれているらしいのだ。もちろん入信早々のわけのわからない人に本尊を押し付けるようなことはしない。この点はしっかりと守られているとは思うが・・・

2017/12/22

ミセジマイ  
不治の病に罹っている人にどのような言葉を掛ければいいのか、わたくしにはわからない。月並みな慰めや励ましは無意味であろうし、医者でもない人間が病気の内容を根掘り葉掘り聞いたところでどうにもならない。

顕正会では最近、ガン消滅の体験発表がかなりの頻度でなされている。しかも医者がそれに驚き、医学会で発表したりもしているそうだ。

顕正会に入れば、治るかもしれない?

いや、これはウソである。ウソは言い過ぎにしても不正確な情報であることは間違いない。なぜならば顕正新聞には依然として臨終の体験発表が多く存在し、死因はさまざまあるにせよ、ガンが原因の場合が少なくないからである。

五年生存率という指標がある。ガンの手術をして、五年後にどれくらいの人が存命であるかのデータである。その結論はガンの種類によってさまざまであり、仮に〇〇ガンの場合の五年生存率が五十パーセントだとすると、十人中五人が死んでしまうということになる。逆に言うと、十人中五人が生きているわけである。この場合、自分が死んでしまうのか生きていられるのかは五分五分の確率であって、これをどう捉えるかは人それぞれである。仮に五年生存率が二十パーセントだとしても、楽観的な人であれば自分は生き残る側に入るだろうみたいな、何の根拠もないにもかかわらずそのように思う人もいるはずだし、逆に絶望する人もいるわけである。

ともかく人間は死ぬまでは生きるのである。ゆえに今をどう生きるかであり、病気に差し支えのない範囲で頑張るしかない。病気が悪化したら元も子もないので、そこは健康な人に比べれば遥かにハンデが大きいわけだが、それでも頑張るしかない。

では何をどう頑張るか?

ここは人間の特質たる考えるということが最大の武器となる。何をどう頑張るかはその人の健康状態だとかその他もろもろの条件によって変わってくることなので、そこを自分でよく考えて自分が最善だと思う方向に進む以外にない。もちろん他人からのアドバイスも有効であるが、最終的には自分が決めることである。他人任せで失敗したらバカバカしいではないかということだ。

きわめて個人的な話をすると、実は三年前に手術入院した。しかし、このことはまったくブログには書いていない。たぶん当時の拙ブログを読んでも、わたくしが病に伏していたことはまったく感じ取れないのではないかと思う。そこはわたくしのブログに対する矜持が為せる業に他ならない。

いちおう傍証的に書いておこう。パソコンでご覧になっている人は左側に月別の更新数がカッコ書きされていることがわかるはずだ。その三年前の秋ごろを見ると、更新数が激減していることが確認できる。入院期間は十月から十一月にかけて、二十日間ほどだった。しかし、ご覧のごとく、九月の更新数が最低を記録している。すでにこの頃、相当に具合が悪く、キーボードも打てない状態だったのだ。逆に十月十一月に盛り返しているが、これは入院を悟られないようにするために、あえて頑張って更新した結果である。

なぜそこまで頑張ったのか、もしくは頑張れたのか、ということを別の意味からも書いておこう。

拙ブログは長年にわたって顕正会のことを痛烈に批判してきた。顕正会員の立場から見れば、大謗法者ということになるだろう。ゆえにわたくしが病に倒れて更新不能になれば、その時には顕正会員たちが大喜びすることにもなりかねない。いわゆる罰であると。

罰だと思われるのがイヤだから頑張って更新を続けた。こういう一面も否定はできないだろう。

ともかく拙ブログはインターネットの片隅の微々たる存在に過ぎないわけだが、顕正会関連のブログとしてはそれなりの存在感を示しているのではないかと自負するものである。そういう意味でささやかながらも使命感のようなものを感じていて、このまま顕正会の行く末を見届けることも拙ブログの仕事なのではないかと思ったりもしているわけなのだ。

浅井先生いわく、使命のある人はなかなか死なないんですよ、と。

その意味ではどのような状況であれ、使命感を燃やし続けることができる人が強いのだろう。

とは言え、またしても話をややこしくするようだが、わたくしもしばしば自問自答している。こんなブログに何の意味があるのか、時間のムダではないのか、人生の浪費ではないのか、と。結局、現状では固定客というか常連のコメント投稿者もいるし、アクセス数もそこそこ安定している。ようは需要があるわけで、その意味で読者に応えたいという意欲が必然的に湧いてくる状況にあるわけだ。

ここが一つの目安となるのだろう。

さすがにアクセス数も激減し、誰もコメントを寄せなくなれば、わたくしのモチベーションも続かないはずである。つまり、拙ブログをつぶそうと思うならば、不読運動をするべきなのだ。それとコメントを寄こさないことだ。それが一ヶ月も続けば、わたくしも店じまいを考えざるを得ないに違いない。

2017/12/17

チョウナンカイ  
マイケル氏の質問は超難解の部類に入ることで、わたくしのような未熟者が答えられるわけがないのは、氏も承知のはずである。いわゆる、試している、のかもしれない。

少し話がズレるかもしれないが、治病大小権実違目の冒頭には身の病と心の病についての御指南がある。身の病は仏でなくても治せる。しかし、心の病は仏しか治せない。これが弘安元年六月二十六日の御書だ。

実は同日付で別の御書がある。中務左衛門尉殿御返事、すなわち四条金吾殿への御書と考えられる。そこには大聖人が下痢を患っておられ、四条殿の薬を服した結果、回復した旨の記述がある。

ところがである。直後の御文がひじょうに悩ましいのだ。

しらず、教主釈尊の入りかわりまいらせて日蓮を扶け給ふか、地涌の菩薩の妙法蓮華経の良薬をさづけ給へるかと疑ひ候なり。

身の病と心の病を別のものとして考えれば、四条殿の医療行為も是認できる。というか整合性があるだろう。何しろ心の病は仏にしか治せないからだ。ところが上掲の御文は身の病と心の病を混同するような記述であり、わけがわからない。もちろん四条殿を励ます意味だとか感謝の意味を込めての譬喩表現と解釈することも可能だろう。

とは言え、治病大小権実違目を委細に読めば、もはや身の病と心の病の話がゴチャマゼになっていて、整理整頓がつかないような気がしてならないのだ。
そこはたぶん大聖人の御思考では十分に整合性があるものの、愚鈍のわたくしにはその複雑なロジックを読み解けないだけなのだろうとは思う。
ちなみに、ここでの心の病はいわゆる精神科だとか心療内科の領域を意味するわけではなく、純粋に仏法上の意味に他ならない。具体的には謗法の念慮とでも表現すべきだろうか?

その意味から類推すると、謗法の念慮(心の病)に起因する身の病は難病であるという理屈になるだろう。そこで新たな問いが発せられるのだ。

何ぞ汝が弟子等又やみ死ぬるや。

ようするに謗法者だけでなく大聖人の門下にも病気に罹る人もいれば死ぬ人もいるわけで、その合理的な理由が求められているわけである。回答部分はあえて掲げないが、あるいはマイケル氏の求めている答えがこれなのかもしれないと思う。

さて、一神教の問題である。

外道仏を難じて云はく、汝は成劫の末、住劫の始めの愚人なり。我等が本師は先代の智者、二天三仙是なり・・・

いわゆる内外相対は五重相対の最初に出てくるわけで、種脱相対の立場から見るといちばん初歩的な比較相対のように思える。しかし、現実的にはかなり難解だ。
善無畏三蔵抄の当該御文にはこの外道の論難に対して直接的な回答は示されていない。御書全編を拝してもなかなか見えてこない。それがわたくしの正直な感想である。
汝は成劫の末、住劫の始めの愚人・・・はひじょうにわかりやすい御文であって、釈尊は人類史上ではわりと初期の人物、実在の人物として一般的にも認識されている。しかし、今書いたように、あくまで人類史上なのである。ゆえに地球創世だとか宇宙の始まりというレベルから見ればヒヨッコである、というのが外道の言い分なのだろう。

ここで法華経における久遠思想が登場する。

わたくしの念頭にあるのは今此三界合文である。ここでは具体的御文を挙げないが、そこには懐中と呼ばれる謎の文証が引用されていて、久遠思想には多重性があることがわかる。

平たく言うと、五百塵点は始成の説に順じた一応の説であって本当は無始無終なのだ、というような意味に読める。これは一種のバージョンアップであって、なぜにその必要性に迫られたのかを考えると、あるいは真言の我一切本初を意識してのことかもしれない。

仏教内においてもこうした競争原理が働いている。いわんや他教をやであろう。

時間的にはどちらが古いか、ようは先輩であるかを競って、空間的にはどちらが広いか大きいかを競っている。早い話、同じ土俵で競えばそういうことになるのだろう。

さて、偉そうなことを書いているが、わたくしとてしょせんは凡夫である。答えがわかっているわけではない。しかし、生意気ながらも独学で勉強してきて、わたくしなりの発見もあった。すると、教団の言っていることが百パーセント正しいとは思えなくなってきて、実際のところ、間違っているのではないかという部分がいくつも存在するわけである。

具体例を挙げよう。御講聞書の一節だ。

一 妙楽大師の釈に末法之初冥利不無の釈の事

いわゆる顕益と冥益の説明であるが、煩瑣になるので結論部分だけ引用しよう。

仍って本化の菩薩は顕の利益、迹化は冥の利益なるべし云云。

いかがだろうか? 宗門でも創価学会でも顕益・冥益の説明をしており、それはネットで検索しても出てくるが、しかし、当該御文を拝するとかなり違った印象を受けるはずである。この点、明快な答えを出せる人がいれば、ぜひともご教示願いたいと思う。たぶん大半の人が解説書を読んでそれを鵜呑みにしているだけなのだろう。わたくしはそうではないということだ。

2017/12/16

イゴコチ  
マイケル氏のおっしゃることはまったくその通りであり、たとえ顕正会員であっても冷静な判断力を持っている人ならば、誰もが首肯せざるを得ないところである。浅井先生は前々から、顕正会は政界に進出しない、と言ってきた。ゆえに今後もそれは貫くのだろうけれども、ご存知のごとくに直近の総選挙では民意を動かす戦いを起こしたわけである。逆に言うと、まさにここが中途半端なところであって、だったら自ら政党を起こして民意を問うほうが単純明快だった。しかし、現実問題としては今の顕正会の実力でそれをやったところで、恥をかくだけの話である。これは例を出して恐縮だが、幸福の科学を見ればよくわかるだろう。

さて、顕正新聞第1423号の続きである。

私は昭和五三年より約三〇年間、神道系の邪教「神霊界」で熱心に活動してきました。

婦人部川崎支区組長の記事である。平成二四年一二月に職場で知り合った顕正会の班長から折伏され入信したという。

 入信勤行で神奈川会館の御本尊様を拝した瞬間、それまでに体験したことのない力が体中にみなぎり・・・

わたくしは神道系の宗教に疎く、神霊界なる教団もまったく知らなかったが、御本尊を拝した瞬間に身体中に力が漲ったという点が、いかにも神霊界チックに感じられるところである。

今、顕正会は二百万人近くの会員を擁している。もちろん名目数に過ぎないが、いちおうはその全員が一度は御本尊の前に額づいたわけだろう。もし上掲のような体験を誰もが味わっているのであれば、もう少し定着率が上がってもおかしくないだろう。事実は即日退転というパターンがけっこう多いのである。

私は六九歳という年齢にもかかわらず、現役の看護師として働いておりますが・・・

これは立派なことである。なかなか大変な仕事だとは思うが、世の中から必要とされている限りは頑張るべきだろう。

 そして有難くも、いままで折伏してきた方は全員、入信が叶っております。

これはまた羨ましい話である。先ほど、即日退転の多さを云々したが、もちろん入信して熱心な活動家になる人もいる。しかし、そうした人たちの中からも脱落者が出てくる。その一つのパターンが入信がなかなか決まらず、ようは成果がなかなか上がらず、そこで行き詰ってしまって退転していくパターンなのである。その意味からすると、折伏した人の全員が入信するなんてことは驚天動地の出来事であり、羨まし過ぎる話なのである。

さて、本年八月二八日、婦人部の紹介で入信した男性は、子供の頃に父親から次のように言われて育ったそうである。

「これからは学歴社会だからしっかりと勉強しなさい。宗教に頼らないで自分の力を信じなさい」

何かヘンな感じがする文章である。次は本部会館に初めて訪れた時の様子である。

 当日、本部会館に到着した瞬間、会館の壮大さと庭園の素晴らしさに思わず足が止まり・・・

そんなことで入信するのならば、苦労はしない。それこそ一般人に開放すればいいだろう。実際にはもっと壮大な建築物や素晴らしい庭園のある宗教団体は他にもたくさんあるだろうから、しょせん、こんなことはどうでもいいことなのである。

・・・さらに御本尊様を初めて拝見させて頂いた瞬間は息もできないほどで、金色に光り輝く御本尊様に吸い込まれていくような感激の中、入信勤行を執り行って頂きました。

前掲の記事とまったく同じことが言えるだろう。誰もが同じような感激を味わっていれば、もっと定着率が上がるはずなのだ。

ともかく彼の場合は御本尊の功徳を感じているわけなのだろう。次の記述もその延長線上の話である。

清掃の仕事も初めて「綺麗にできているよ」と褒められたり・・・

しかし、これはどうかと思う。何年やっているのか知らないが、今まで一度も褒められたことがないとすれば、これはこれで大問題だろう。

 また顕正会の組織は、何を考えているのかわからない世間の繋がりとは全く違い、垣根が低く・・・

ほほう、よほど居心地がいいらしい。たぶん幹部もいろいろなタイプがいるのだろうけれども、平均すると婦人部の幹部は腰の低い偉ぶらない人が多いのだと思われる。では、男子部あたりはどうか、である。彼もやがては男子部へ移籍することになるかもしれない。そこでも同じような居心地のよさを感じられるといいのだが・・・

さらに彼は九月度総幹部会の会長講演を聞いて大衝撃を受けたという。

 それは今まで私は、歴史は人が作ってきたと思っていましたが、実は宇宙を司る仏様がレールを引いて下さっているのだと感じたのです。

こういう部分は逆に勉強になる。イヤミを言っているわけではない。ようするに今まで仏法に無縁の人生を送ってきた人が、大聖人の仏法を学んでどのように感じるかという点において、わたくしに新たな知見を与えてくれているのである。

いわゆる日蓮本仏論は限りなく一神教に近い。もしくは一神教そのものであると。

日蓮本仏論は日蓮正宗系の共通認識と考えられるが、しかし、委細に見れば組織ごとに捉え方が微妙に異なる。そしてこれは『迷走する顕正会を斬る』においても指摘されるごとく、特に浅井先生の仏法観は突出しており、ひときわ一神教色が強いように感じられるところである。

2017/12/15

コワイコワイ  
佐渡の雪山童子氏は過去の拙稿を同時並行でお読みになっているという。それによればコメント欄の様子があまりにも違うらしい。まあ、しかし、どうやら沖浦氏もそろそろ掲示板関係から引退するらしいので、当然そうなれば拙ブログからも撤退することになるだろう。その後はコメント欄も静かになるだろうから、ゆっくりとお読みいただけるはずである。

「南無妙法蓮華経如来」とは日蓮大聖人

顕正新聞第1423号の五面にはご覧のような見出しが躍っている。女子部第百二十六区総班長の記事は御大会式の会長講演を受けて書かれたものなので、その意味で上掲は顕正会の教義上の公式見解ということになるだろう。一切衆生を南無妙法蓮華経如来だとする沖浦説とは異なる。ゆえに、掲示板での議論を不毛と考えるのならば、顕正会本部に法論を申し込んだらどうかと沖浦氏に提案しておきたい。

日目上人に源を発して集い来った地涌の菩薩として・・・

これは婦人部津軽支区部長の記事であるが、地涌の菩薩は釈尊久遠の弟子であるから、この記述はおかしい。下種仏法の立場から言えば、ここでの釈尊は日蓮大聖人であり、ようは大聖人を源としなければいけないはずなのだ。もっともこれはややアゲアシ取りの気味がなくもないところで、肩書きを見ればわかるように彼女は東北の人間である。ゆえに東北弘通の先駆けたる日目上人に源を発する云々も、それほど不自然ではないことになるだろう。

拙ブログで心掛けていることは、こうした表面上のアゲアシ取りと、真面目な批判との峻別である。

先生の最後の御奉公の御供が叶う喜びいっぱいに駆け抜ける弟子として・・・

同じ記事中の文章であるが、このややこしい言い回しについてはアゲアシ取りの意味で引用した。しかし、同時に真面目な批判の意味としては、先生の最後の御奉公とは何か、である。結局、これまで何度も指摘してきたように、これは広宣流布のゴールが近いという意味と同時に浅井先生の年齢的限界を意味しているわけであり、我々のような外部の人間から見れば後者の意味にしか受け取れないのである。実は顕正会の活動会員たちも同じなのではないかとわたくしは思っているのであるが、いかがだろうか?

さて、男子部第百七隊幹事の登壇は、何月何日の集会でのものだろうか?

一刻も早い安倍政権崩壊・・・

安倍ペテン政権崩壊をかけた歴史に残る大法戦に・・・

 されば、本特集号を十月二二日の衆院総選挙までに広く配布し、安倍晋三の正体を白日の下に晒し、安倍ペテン政権の崩壊を一刻も早くと決意するものであります。


当然、選挙前の話である。そして選挙結果は周知のごとくである。それで顕正会は意気消沈しているのかと思えばそうではない。負け嫌いの浅井先生は直後の総幹部会で安倍批判の継続を宣言した格好である。それは次号で取り上げることになるだろう。

安倍首相の姿は池田大作に酷似・・・

同じく隊幹事の記事から、要約した形で引用させていただいた。ここでイヤミを言えば、ああ、なるほど、そうすると顕正会は安倍首相を倒せないな、ということになる。結局、顕正会は池田大作氏を倒せなかった。
池田氏が今どのような状況にあるのか知らないが、いわば人生の終わりを迎えようとしているわけなのだろう。棺桶に片足を突っ込むみたいな俗な表現があるけれども、わたくしに言わせればどうやら無事にゴールを迎えようとしているわけである。
仏法上のことはわからない。あるいは無間地獄が決定しているのかもしれないわけで、その場合はゴールどころかスタートを迎えることになる。いつ終わるとも知れない地獄のスタートである。
しかし、世間一般の評価としては地獄云々の話は出てこないわけで、いわば一人の傑出した人物の人生の幕が閉じられる。対顕正会の意味では一種の逃げ切り勝ちみたいなものだろう。それが客観的な評価だと思う。

実は安倍首相のことに関しては、すでに何度も書いていてわたくし的には結論が出ているのだ。つまり、このまま引退すれば歴代総理の中でもかなりの長期政権として名を残すことが確定するのだ。ただし、凡夫には未来のことはわからない。ゆえに安倍首相がこのまま幸せでいられるかどうか、そこは何とも言えないところである。

もう一つ、隊幹事の文章を紹介しておこう。

 安倍首相は、先の衆議院解散を「国難突破解散」などと称しておりますが、次々に送付される顕正新聞を手にして、「国難」の二文字が彼の目に留まったこと、疑いなきところであり・・・

これは興味深い話である。さらに続きを紹介しておこう。

・・・疑いなきところであり
 「誰が原因でこの『国難』を招いているのか、分かっているのか」との激しい憤りが込み上げてまいります。


怖い怖い、怖すぎる。

しかし、現状でどのくらいの影響力があるのだろうか、そこが問題である。ヘンな話、もし創価学会・公明党が顕正会くらいの迫力で安倍首相を弾劾する側に回れば、これは確実に脅威だろうと思う。しかし、現実問題として、それはなかなか実現しそうにない話であり、実現したらしたで、これはまた別の意味で怖い話になるだろう。

2017/12/10

ブロックチョウ  
顕正新聞第1423号の続きを見ていこう。まずは男子部第十六隊長の活動報告からである。

この亡国迫る大事なときに、一体何をやっているのかと、呆れるばかりでありました。

記事によれば、大石寺では先日、五重塔の工事が終わり、今は三門と総門の全面改修をやっているという。彼はこれに対して上掲のように言っているわけである。

しかし、隊長レベルであれば日興跡条々事くらい知っているだろう。浅井先生が何度となく引用してきた御文である。

一、大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。

浅井先生によれば、日興上人・日目上人は広宣流布朝夕近しの大情熱で戦っていた、とのことだ。そのような気概・決意を持つことは当然のことながら、客観的な状況判断も必要だろう。わたくしの拝する限りでは、まさに上掲の御指南こそがそれだと思う。もし広宣流布が明日にも実現するのであれば、このような御指南にはならないだろう。つまり、日興上人の御認識として、広宣流布はまだ先のことである、ゆえに長い年月の間には御堂も墓所も修理が必要となる、ということを御示しになられているのだ。

ところでこの記事は、冒頭こそ大石寺関連の話題に触れているものの、主には日本会議関連の話題で占められている。

・・・日本会議の異常性、徹底した秘密主義には驚きました。

隊長以下、第十六隊の有志で日本会議の講演会に、いわば潜入したわけなのだろう。そこでの顛末が書かれているわけだが、ここでは次のくだりを紹介しておきたい。

 また講演の最後に「伴」と名乗る、日本会議本部・事務総局の者が、「憲法改正」について講演を始めた瞬間、スーツを着た取り巻きの者たちが一斉に、会場の窓やカーテン、扉を閉め始めたのです。

なるほど、情景を思い浮かべると、ちょっとヘンな感じかもしれない。ゆえに彼も続きの文章で次のごとく書いている。

 その光景はまさに「異常」の一言でありました。

これは顕正会にも幾分言えることであって、内部にいると感覚がマヒしてしまって感じないことでも、外部の人から見れば異常にしか思えないようなことがたくさんあるのだと思う。その典型的な例がいわゆる伏せ拝もどきの拍手だろう。これはもう、わたくし自身がずっと異様に思っていたことで、おそらく顕正会員の中でも比較的に常識的な人であればおかしな風習だと感じていることだろう。これを是正しない、もしくは是正できないことが、顕正会のもっとも根源的な問題なのかもしれない。その光景はまさに「異常」の一言なのである。

望月衣塑子記者「顕正会 知ってますよ」
 先生の指導が浸透 二百万の力実感


女子部第百二十七区総班長の記事に付けられた見出しである。前々回の拙稿でも言及したが、顕正会の存在が知られるようになってきたのは事実だろう。まあ、そのこと自体は一歩前進と言えるのかもしれない。しかし、現時点ではただそれだけの話である。ようは影響力をどれだけ発揮できるかなのである。その点ではまだまだお話にならないレベルだろう。

ちなみに当該記事には知的障害を持つ組長の話が出てくる。

 その後、組長は、怨嫉によりグループホームを退所することになり・・・

それで実家に戻ることになって十五年ぶりに家族と暮らせるようになったと。

これを大功徳だと書いているわけだが、わたくしにはよくわからない話である。そもそもなぜにその施設に入所していたのかを考えれば、それは老人の介護施設とほぼ変わらない事情からなのだろうと想像されるところである。ぶっちゃけ言えば、面倒見切れない、ということだろう。ゆえに理想的な話の展開としては、信心の功徳によって健常者と遜色のないレベルに戻れた、よって施設にいる必要がなくなった、ということで退所するのが理想なのだ。

また、喉元過ぎれば云々ということでもある。拙ブログでもずいぶん前に話題にしたことだが、わたくし自身もすでに記憶がアイマイになっていることがある。今は過去の拙稿を読み返さずに記憶だけで書こう。つまり、知的障害者への折伏・入信に関するトラブルのことである。確か城衛もこの問題に触れており、活動会員たちに対して自粛を促すような指導をしていたはずである。

一年三ヶ月ぶりに入信が叶った・・・

これは婦人部四日市支区班長の記事で、彼女は平成四年入信という二十五年選手である。この手の話題も繰り返し取り上げてきた。ようするに入信が長くなると、折伏の対象者が尽きてしまい、なかなか成果が出なくなるのである。もしかしたら一年三ヶ月ぶりはマシなほうなのかもしれない。わたくしの勝手な基準で言わせてもらうと、一年に一名を入信させれば二十五年で二十五名である。もしこの人たちが全員真面目に信心していれば、もうこれは大変な大組織である。いわゆるネズミ算ではどういう結果が出るか、もし計算が得意の人がいれば教えていただきたいものである。よって一年三ヶ月ぶりはマシどころか、優秀と言ってもいいかもしれないと思う次第である。

男子部第二十五隊総支隊長補の記事はやや話が複雑で説明するのが面倒である。そこで登場人物を簡略化してしまおう。創価学会歴六十年の壮年、創価学会男子部ブロック長、この二人である。

 しかし、空気の読めない壮年は、私たちに対してこんどは「学会幹部の中で、大聖人様が見える人がいる」等と見当違いな発言をし、するととうとうブロック長は「俺はそんなこと知らないな」「お前はもうしゃべるな」と壮年の話を遮り、仲たがいを始めたのでした。

いわば顕正会員と創価学会員の法論で、創価学会側が途中で仲間割れを起こした場面である。わたくしが不審に感じたのは、「お前はもうしゃべるな」である。創価学会歴六十年の壮年に対して、男子部のブロック長がお前呼ばわりしているのである。これが本当だとしたら、創価学会もダメな組織である。たぶん六十年選手のほうは事実上の現役引退であり、今は無役なのだろう。男子部のブロック長はもしかしたら年齢的には半分にも満たない若輩なのかもしれないが、ブロック長という役職者なのだ。ようは役職者が偉いという組織なのだろう。わたくしに言わせれば、それはそれでいいとしても人生の先輩に対する敬意は必要である。もし創価学会でそうした教育を疎かにしているのだとしたら、つくづくダメな組織である。

ちなみに今日は冒頭で日興上人の御指南を引用したが、同じく日興上人の二十六箇条の御遺誡には若輩者であっても能力のある人物を重んずるべき旨の御指南がある。しかし、これとそれとは矛盾しないだろう。もしその若輩者が慢心を起こして驕り高ぶるようなことがあれば、これはまたこれで厳格なる日興上人の御叱りを蒙ることになるのだ。ブロック長殿に日興門流の自覚があるならば、この点をよく反省すべきだろう。

2017/12/8

ミンイ  
今日は顕正新聞第1423号である。一面のトップ記事は御大会式の報道であるが、会長講演の詳細は翌々号に掲載される旨、書かれている。下段には北関東大会が明年の三月二十一日に「ぐんまアリーナ」で開催される旨の発表がある。そして二面以降はいつものごとく、各種集会での登壇記事の羅列である。

もはや取り上げる気力も失せつつあるが、いちおう順番に気になったところを拾っていこうかと思う。

第十・第二十五・第二十六男子部長

面倒臭い表記である。どうも近年はポストの乱立によって組織が複雑化しているような印象がある。しかし、人材そのものは大したことがないらしく、ご覧のように一人の人物がいくつもの組織を兼任しているケースがめずらしくなくなっている。この際、リストラしたらどうかと提案したいところである。この場合のリストラは組織の再編の意味である。例えば上掲の三つの男子部を一つにまとめてしまえば、シンプルでわかりやすいだろう。けれども、それは組織の縮小・後退を印象付けるので、やりたくないのだと思う。つまりは粉飾である。こんなテイタラクでは遅かれ早かれ破綻をきたすだろう。本部首脳はこんな簡単なこともわからないのだろうか?

広布の前段階

本文からの引用である。この表現はめずらしい。最終段階と前段階、たぶん同じ意味なのだろうけども、印象的にはかなり異なる。

 されば、新体制を整えて頂いた新潟男子部こそ、どんなに遅れていようとも・・・

これはわりと正直な発言かもしれない。彼がいくつもの男子部を兼任しているのは、裏を返せば前任者がどうかしてしまったからなのだろう。おそらくそのような組織は自ずと停滞せざるを得ないわけで、いわばその組織の再生を彼は課せられたわけなのだ。

日本の歴史始まって以来、最悪の国家の仏法上の失・・・

これは第二十四婦人部長の発言である。これが何を意味するのか、正解を書ける人がいたら大したものである。わたくしは竜の口のことだと思った。しかし、彼女の言っている意味は違うのだ。ようは安倍政権が神の国を作らんとしていることと、そこにコバンザメのごとく創価学会・公明党が加わっていることを言っているわけである。それもこれも顕正会の重大使命を際立たせるための過剰表現なのだろう。先ほども書いたように、竜の口はどうなるのか、である。

さて、全体的な印象を書くと、相変わらず、民意を動かす大折伏、みたいな表現が目立つ。しかし、これは前にもけっこう取り上げたので、省略しよう。

関連する話題として、第三婦人部長の記事の次のくだりを取り上げたい。

 「ここに大聖人様は八幡大菩薩を対告衆として、仏法守護の諸天善神すべてに対し、『守護の責務』を果すべきを、その道理を示し、つよづよと申し付け給うたのである」と。

この部分は浅井先生の発言そのものであるが、ようは竜の口における一シーンを解説しているわけである。そして以下が彼女の所感である。

 いま時に当り、浅井先生によって、総理大臣・安倍晋三を対告衆として、全国民に対し
 「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
 と諫暁しておられるのだと思い、先生のお立場の重さに畏敬の念で一杯になりました。


これじゃ民意は動かんだろうが、と言いたいところだ。

そもそも大聖人の御振る舞いと浅井先生のそれとを重ね合わせるような表現方法がケシカランところで、文中「日蓮によりて」云々とあるのが救いではあるものの、それでもかなり会長本仏論的な雰囲気が漂っていてよろしくないというのがわたくしの意見である。

民意に関して、当たり前過ぎることを書いておくと、この時点での顕正会員たちの目論見は総選挙で自公を敗北に追い込むことだった。しかし、それは顕正会の仕事ではないだろう。民意をもっと広義に解釈するならば、顕正会が支持を得られるかどうかなのである。顕正会員たちが功徳に満ち溢れ、誰が見ても幸せそうに見えるならば、ボクもやりたい、ワタシもやりたい、ということでやがては入信勤行の行列ができるようになる。実際、内部では幹部たちがそのような発言をしていたし、あるいは今もしているかもしれない。では、現実はどうか、ということなのだ。

沖浦氏じゃないが、やはり功徳の体験が大事なのだろう。しかし、それが浅薄な功徳論・御利益論であれば、かえって墓穴を掘ることになる。なかなか難しいところである。

2017/12/6

ゲンパツカンレン  
今日もまた第1422号の続きを取り上げよう。

先生の巌のごとき大忠誠心が一国を動かし、すでに顕正会の存在を無視できなくなったことを目の当りにし・・・

婦人部郡山支区部長の発言であるが、これは事実誤認も甚だしいだろう。顕正会の存在が広く知られるようになってきたのは事実であるものの、無視できなくなったは言い過ぎである。無視云々を別の言葉で表現すれば、影響力ということになると思う。では、今現在どれだけの影響力があるかが問題であるが、それは残念ながら微々たるものと言わざるを得ないだろう。

さて、この記事の後半が悩ましい。前回紹介したように、当該号の六・七面は医療関係の記事が多く、当該記事もその一つである。見出しを紹介しておこう。

 顕正会員の功徳、医師が学会で発表

県立医大の医師が顕正会員の功徳を学会で発表したそうである。ここでの学会は創価学会のことではない。当たり前だ。顕正会員の功徳を創価学会で発表するわけがない。医学会である。さらに言えば、功徳を発表したわけではない。これは顕正会目線で功徳と書いているだけの話である。

しかし、余命宣告を受けていた顕正会員のガンが、なんと消滅してしまったそうである。ゆえに、このことに驚いた医師は学会で発表したという。また、この医師は別の医師が顕正会員のガン消滅を発表しているのを聞いたことがあるとも言っているそうだ。

ひじょうに悩ましい話である。

前回の終わりのほうで、医師の敗北、ということを書いた。これは医者が患者を救うに当たって、医療行為ではなく信仰の力に頼るとしたら、それは信仰者としては正しいにしても医者としては間違っているのではないか、これは医者の敗北を意味するのではないか、という問題提起のつもりで書いたわけである。これについて顕正会ではどのように考えているのか、現時点では不明瞭のような気がする。

御書には大聖人御自身が晩年は御病気を患われ、四条金吾から貰った薬が効いて快方に向かった意味のことが認められている。その意味からすると、今の顕正会の考え方は少し間違っているのではないかということになるだろう。四条金吾の立場にしてみれば、御本仏に対して医療行為を行なうことは恐れ多いことであり、やや婉曲的にはなるものの医療行為=信仰の否定にもなりかねないことになるのだ。もちろん顕正会的思考に基づけばである。しかし、事実として大聖人御自身は医療行為に肯定的であり、もし仮に今の時代にいらっしゃれば必要に応じて薬も服用するだろうし、手術を受けるようなこともあり得るだろう。であれば大聖人も医学の進歩を歓迎するはずなのである。

ではその医者たちが、医療技術の向上ではなくて、信仰の力に頼るとすれば、大聖人はそれをどのように御考えになるのだろうか?

わたくしにはよくわからない話である。

 「自分は福島に赴任して一〇年になる。原発災害までは、癌が発症するのは主に四〇代、五〇代だった。それが現在、二〇代、三〇代が急激に増えている。放射能の影響はとてつもない」

くだんの医師の発言である。そして登壇者も次のごとく書いている。

3.11より丸六年を経て、いよいよ放射能による甚大な被害が現われてきたことが肌身に迫ってまいりました。

久しぶりに原発関連の話題が出た。

これについてはわたくしも最新事情に精通しているわけではないが、ともかく問題意識を持ち続けることが大事だと思う。なぜならば、いわゆる疫学は十年二十年という長いスパンで見ないとわからないものなので、現時点ではまだ何とも言えない段階なのである。しかも病気は人々の身体の中で起こっていることなので、容易にはわからない。気がついた時には甚大な被害になっているかもしれないし、杞憂で終わるのかもしれない。わからないのだ。

それから現政権は原発再稼働の方向性を示している。これがさまざまのところに忖度を働かせることになる。結論を言ってしまえば、再稼働の妨げになるような情報はなかなか出てこない状況にあるのだ。

その意味で顕正新聞掲載の原発関連記事は、やや誇張が過ぎるような印象が拭えないものの、それなりに貴重な情報と言えるだろう。


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