2017/12/30

ジコカンケツガタ  
マイケル氏から質問が寄せられている。功徳を感じたことがあるのかと。しかし、功徳の話は実名でないと説得力に欠けると誰かが言っているので、ここで云々しても仕方がないだろう。

むしろ問題は指導教師云々のほうだと思う。

拙ブログは開設当初から独白を看板に掲げてきた。副題にはオチブレ顕正会員と書いてある。ここで読者によってはわたくしを今も現役の顕正会員のように扱って、顕正会への論難をわたくしにぶつけてくるようなこともかつてはあった。そこで近年は、日蓮正宗系無所属信者、というような表現を使うことで、現役の活動会員ではないことを強調しているわけである。

おそらくマイケル氏にとっては、その意味・意義がよくわからないのだろうと思う。いや、マイケル氏だけではなく、世の大多数の人には理解不能というか、ひじょうに難しいスタンスなのだと考えられる。

もっとも典型的な事例は御書の拝し方である。ウソだと思われるかもしれないが、わたくしは解説書を読まないで御書だけを読むのである。もちろん理解できない部分もたくさんある。その時はネットで調べたりもするし、手元に解説書の類があればそれを参考にすることもある。しかし、今は純粋に御書だけを読むことが多い。そして生意気なようだが、御書を拝していてわからない時は大聖人に質問するのである。大聖人に質問? この意味も難しい話で、一つには勤行の時に大聖人に質問申し上げるというような意味合いだと誰もが想像するはずである。しかし、それで大聖人が答えて下さることはあり得ない。そのようなテレパシー的なことは宗教の世界ではよく語られていることではあるのだが、もちろんそのような啓示というかヒラメキはあるのかもしれないが、わたくしの場合はそれではない。基本的には日々の御書の拝読がヒラメキを呼ぶのである。

もはや何を言っているのかわからないだろう。しかし、わりと簡単な話である。例えば開目抄を拝読していてわからない時に、観心本尊抄を開くのである。本尊抄を拝読していてわからない時に、報恩抄を参考にするのである。報恩抄がわからない時は、本尊問答抄を読むのである。

つまり、大聖人の仰せを理解するためには、他人の解説を信用するのではなく、大聖人に解説していただくのがいちばんなのである。とは言え、これができるのは御書全編を知悉していなければいけない。当然、御書全編を一回通読したくらいでは無理だろう。生意気ながらも、わたくしの拝読量はもはやそういうレベルを超越しているのだ。

慢心の極みかもしれない。しかし、日蓮正宗の指導教師であっても不勉強の人は、拙ブログを見て思うだろう、コイツは扱いづらい人物だと。

そういうわけで、現状ではどこかの寺院に所属するような気持ちはサラサラなくて、こうして独白ブログをやっているのが性に合っているという意味からしても、無所属を標榜するのが至当だろうと思っているわけである。ゆえに、こうしたスタンスを他人に勧めるつもりはないし、勧めたところでこれを全うできる人はそうザラにはいないだろうと思うわけである。

功徳論に少しだけ触れておこう。

功徳とは六根清浄の果報である。解説書を読まないと言っておきながら、これについてネット上の解説を読むとなかなかいいことを言っている。

六根清浄とは、私たちの六根(眼・耳・鼻・舌・身・意。六つの知覚器官)、すなわち生命の全体が浄化され、本来もっているはたらきを十分に発揮することです。これによって、私たちは、さまざまな困難に直面しても動揺しない、力強い仏界の大境涯をわが身に開き顕していくことができます。

http://www.sokanet.jp/pr/kyougakunyuumon/shinkoutojissenn/5-shinnjinnsokuseikatsu/01-2/

さすがは天下の創価学会である。特に異論はない。

天は自ら助くる者を助く、というのは世間一般で使われている俗諺であるが、天という存在、もしくは神仏そのものは単なる譬喩であって自助努力こそがすべてである、という考え方の人も少なくないのだろうと思う。しかし、同じように努力しても結果が異なるのはなぜか、そう問われると答えに窮することも事実である。その答えの一つが宿命論であるが、いわゆる過去世の因縁という話になると信用しない人が多いのも事実で、それは証明できない事案だからなのだろう。けれども、そういう現実主義者にとっても六根清浄は説明としては受け入れやすい。そしてこの場合、いわゆる他力本願的ではなく、きわめて自力本願の要素が強いわけで、努力家には向いている話なのだと考えられる。つまり、六根清浄はスタート地点に他ならず、そこからどれだけ努力したかが結果にあらわれるわけである。仏という存在が事実だとしても、仏が結果を与えて下さるのではなく、結果は自らが獲得すべきものなのだ。

いかがだろうか、これをわたくし自身に当てはめた時、一つの答えが出ると思う。

わたくしは信心のお蔭だろうか、六根が研ぎ澄まされて頭がスッキリしているのである。御書を拝読していてもスラスラと頭に入ってくる。これこそ六根清浄の果報ではないかと思うのだが、いかがだろうか?

まあ、しかし、日蓮正宗系の宿命なのか、お互いを罵り合うことにおいて、しばしば使われる言葉がある。アイツは頭がおかしいのだ、狂っている、悩乱している、等々と。それにしても拙ブログの場合、わたくしに対するそうした罵りはきわめて少ない状況にある。自分的にはこれも功徳だろうと思っているのだが、いかがだろうか?

以上、実名ではないものの、独白ブログの自己完結型功徳論としては、いちおう成立しているつもりである。


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