2018/1/29

アサハカ  
S@法華講氏から、オマエの考えは浅はかなのだ、と言われているような感じである。

確かに大宮は交通の要衝であり、新幹線は東北・上越・北陸の、いわば三方向への玄関口となっている。思えば大宮ソニックシティで総幹部会が行なわれることも、そうした地方幹部への配慮を兼ねてのことだった。新潟方面は以前から顕正会の盛んな土地であり、東北方面もしかりである。末端の人たちはどうか知らないが、おそらくは支隊長だとか総班長クラスの人たちはけっこう頻繁に総幹部会などの集会に参加しているのだと思う。

ある意味、東京会館よりも今の本部会館のほうがアクセス的には幸便である。本部会館の立地については、なぜにわざわざ埼玉県にしたのか理由がよくわからず、さまざまの憶測が流れていたけれども、全国展開の意味からすれば必然だったのかもしれない。西日本からのアクセスにしても、乗り換えを考えれば今の本部会館のほうが便利であり、逆に東京会館は相当に不便である。

ともかく長野に本拠を置く会社の社長が大宮に住んでいたとしても、それほど不自然ではないということである。わたくしが住んでいるところから見ると、長野はけっこう遠いのだ。それで自分の尺度で判断してしまったわけであるが、これはいかにも浅はかだった。

大沢氏からは教会についてのご教示をたまわった。

日蓮正宗の宗規に教会のことが書かれており、その条文を紹介下さっているわけだが、これを読むとどうやら寺院よりも下位概念のようである。極論すれば、どこかのアパートやマンションの一室を「日蓮正宗〇〇教会」とすることも可能なのだろう。さすがに寺院の場合はダメなのだと思われる。

そもそも教会は日本語であるからして、キリスト教の専売特許ではないわけだ。ゆえに教会=キリスト教というイメージそのものが後天的に作られたものであって、そうした現代感覚だけで物事を見ようとすることも、これまた浅はかだと言われてしまいそうなところである。

入信した後どれだけの人が、信心を続けているのか富士門流の各宗派には、具体的なデータを出して欲しい。

さて、このマイケル氏の要望であるが、当然ながら叶えられることはないだろう。

例えば顕正会の場合は本年二百万を達成すると言っている。しかし、公称は二百万でも実数はその十分の一に満たない。いや、もしかしたら二十分の一かもしれない。それを正直に言えばいいのだが、とてもじゃないが言えないだろう。

では本家本元の日蓮正宗はどうかであるが、さまざまの事情からあまり正直なことは言えないのだと思う。本来ならば、ぜんぶさらけ出せばいい。しかし、それが憚られる事情があるのだ。

これは簡単な話である。敵対勢力に弱みを見せたくない。これだけの話である。

何しろ創価学会系の謀略部隊が目を光らせている。顕正会もしかりである。そして正信会の存在もある。さらには他宗他門の目もある。

ヘンな話をすると、日蓮正宗は半ば新興宗教化している面があって、そのイメージを払拭できないでいるのだ。

かつて正本堂という堂宇があった。これを顕正会では誑惑不浄の殿堂だと言い、その外観そのものにまでイチャモンをつけていた。ようは奇怪な建物だと言っているわけだ。
わたくしの思うに、そうしたデザイン的なものは個人の主観によるわけで、教義上の問題として正本堂を云々するのはともかくとして、その外観にまでイチャモンをつけるのはどうかというのが、かねてよりのわたくしの主張だった。
ただ、その上であえて言うならば、確かに七百年からの伝統ある古刹にしてはどうか、という面は否めなかったかもしれない。そして当時は創価学会と蜜月関係にあったので、その意味からしても新興宗教チックなイメージを払拭できないでいたのだ。

ちゃんとリサーチしていないことをあらかじめ言っておくが、富士山周辺は有数の観光地でもあり、多くの人が訪れる。そこで意図せず正本堂を目撃する。知らない人はその巨大さに驚くし、デザイン的にも目を惹くものがあるので、話題にするだろう。何だありゃと。その仲間の中に物知りの人がいて答えるのだ。ああ、あれは創価学会の建物だよ、と。

厳密には間違いであるが、世間一般の認識はおおむねそんな感じだったのではないかと思う。

これは先ほども言ったように、建物の外観的な問題もあるわけだ。とてもじゃないが伝統的な寺院建築ではないわけで、いかにも新興宗教のメッカ的な雰囲気が漂っている、というふうに思われても文句は言えまい。

さて、ここからが本題である。

創価学会とは縁を切った。正信会や顕正会という不満分子も存在しない。正本堂などのモダン建築を悉く撤去して、伝統寺院の雰囲気を取り戻した。

ところがである。現宗門はそうした外観などの表面的な部分は取り繕うことができたものの、本質的な部分は何も変えられないでいるのだ。

これを別の角度から捉えると、かつての創価学会や今の顕正会の模倣をしているという意味もあるだろう。ぶっちゃけ言えば、ぜんぶ破門にしちゃって信徒が激減してしまったので、それを回復しなければいけないわけだが、その手法を創価学会や顕正会から学んでいるということである。
信者を獲得するための手法を新興宗教から学んでいるとすれば、新興宗教チックになるのは理の当然だろう。建物は伝統仏教の体裁を取り繕っていても、組織的には新興宗教そのものだという実態がある。
もしこれが事実であれば、たとえ日蓮正宗に入信したとしても、その実態に愕然として離れていく人も少なくないだろう。あたかも顕正会の定着率の悪さに酷似している話である。

しかし、これは別角度の話である。

わたくしの思うに、創価学会や顕正会の模倣をしているのは事実だろう。ただし、その創価学会や顕正会はどこからそれを学んだのかと言えば、実は日蓮正宗から学んだのである。つまり、本筋から言うと、もともと一般の伝統寺院とは一線を画すのが日蓮正宗なのであり、世間一般から見ればきわめて特殊な存在、それが富士大石寺なのである。

この意味からすると、先ほど表面的には伝統寺院の体裁を取り戻したものの本質的には何も変えられないでいると述べたわけだが、実はそれでいいのである。それを貫くのが日蓮正宗の面目躍如なのだ。

ただ、ここがややこしいところで、世間の目はかつての創価学会のイメージと重ね合わせて見たりする、それが日蓮正宗としては迷惑な話であり何とか払拭したいと考えている、しかし、実はかつての創価学会のいわゆる折伏大行進こそが本筋であり、今の顕正会もそれを踏襲している意味がある、この点を宗門の僧侶たちはちゃんと理解できず、わけがわからなくなっているのだ。

先ほど新興宗教チックという表現を使った。

世間一般のイメージとして、新興宗教はイカガワシイ、ということがあると思う。日蓮正宗は新興宗教チックに陥っている。これを解消しないといけない。しかし、そこで一般の伝統仏教と肩を並べるようでは本末転倒なのだ。つまり、新興宗教チックでもいけないし、伝統仏教チックでもいけないのだ。無難な表現を使えば中道でなければいけないわけだが、現実的には世の中でいちばんあり得ない存在であり、世間からの反発が必至である。

繰り返し言うが、それは創価学会や顕正会のせいではない。日蓮正宗そのものの宿命なのだ。この点を宗門僧侶はわかっていないのだと思う。

気が付けばマイケル氏のコメントから大幅に脱線してしまったようである。

またしても宗門僧侶や法華講員から嫌われそうなことばかり書いたが、マイケル氏のコメントを踏まえて話をまとめよう。今現在、日蓮正宗の定着率がどんなアンバイなのか、わたくしにはまったくわからない。ただし、定着率を云々するということは新規の入信者が無数に存在することを意味するわけである。これが凄いことなのだ。少なくとも一般の伝統仏教ではあり得ない話だろう。つまり、このこと自体がすでにして一般仏教とは一線を画する立場にあることを証明しているわけであり、日蓮正宗の正宗たるゆえんなのである。

2018/1/26

カエダマ  
廃仏毀釈のことは不勉強でよくわからないのだが、以前、日蓮正宗の寺院にもかかわらず「〇〇教会」という名称のところがあって不思議に思ったことがあった。それは確か廃仏毀釈の問題と関連があって、明治期に建立された寺院はそのような一種のカモフラージュが行なわれていたのだと何かで読んだ記憶がある。あたかも江戸期の隠れキリシタンみたいな話だ。

さて、今日も顕正新聞第1427号の続きを見ていこう。

日蓮大聖人・日興上人のみ知り給う究極を先生が師伝下さればこそ・・・

女子部総務に他意はない。しかし、どうかと思うところだ。大聖人日興上人のみ、これは現代に当てはめれば猊下のみという意味になるだろう。それを今の顕正会はまったく度外視してしまっている。いつも言っているように、このままの状態で広宣流布が実現するわけがない。

公明党の大幅な議席減は非常事態
 異常と不正に満ちた学会の選挙活動


男子部第八十一隊班長は、長いこと創価学会で活動していた人なので、内部事情に詳しい。

 会館で選挙の会合を行う理由は、外部の施設を使うと高額な費用がかかることの他に、違法な選挙活動の指示等が、盗聴などによって漏れるリスクをなくすためでもあります。

高額な費用で思うことは、顕正会の集会も主には会館で行なっている。それはともかく、違法な選挙活動の指示は本当だろうか?

わたくしの思うに、それは遥か昔の話であって今はわりとまともに行なわれているのではあるまいか?

 例えば、選挙当日に幹部が学会員宅を訪問し、投票所へ行くのを渋っている者を見つけたら、その者の投票用紙を預かり、幹部がその者になりすまして投票する・・・

彼はこれを替玉投票と呼んでいるが、わたくしの聞いた話はもっと悪質である。ようするにアパートなどのポストから他人の投票用紙を盗み出してくるのである。それを使って投票するのだ。もちろん同じ地域の創価学会員が複数回も投票所に足を運べばすぐにでもバレる。しかし、組織力を動員して、他の地域の人間を引っ張ってくればわからない。

上掲の話だと地元の幹部がなりすます話になっているが、今説明したようにそれは無理な話だろう。その幹部だって自分の一票がある。同じ投票所に二度は行けない。

ヘンな擁護の仕方だが、もし今もなお創価学会がインチキをしているのであれば、公明党の大幅な議席減は避けられたのではないかと思う。また逆に、最悪のことを言えば、今もなおインチキをしているとして、それでいて公明党の凋落を止めることができないのだとすれば、それはもうオワコンを意味するのだろう。

男子部第九十七隊支隊長は某大手メーカーに勤務しており、昨年四月に岡山県から長野県の関連会社に取締役として出向を命ぜられたという。その出向先で、さっそく折伏に関するトラブルが起きた。最初は常務に呼び出されたそうだが、常務は手に負えないと思ったのか、社長のところに行って事情を説明しなさいと言ってきた。そこで社長室に行き説明をした。

 「何だ、顕正会か、知っているよ」「俺は日曜日に大宮公園に犬の散歩に行くから、よく顕正会員を見かける。あちらこちらで集まって話をしているよね。前に創価学会とか総本山と揉めたんだろ。差し支えなければ、話を聞きたい」

わたくしが不思議に思ったのは、長野県の会社だったはずなのに、なぜにそこの社長が大宮公園で犬の散歩をしているのか、である。

婦人部大和田支区組長は群馬在住の八十二歳である。

 私も、一つでも多く石垣を積ませて頂きたいと、我が家に植木の仕事で来ていた飯塚さんを折伏しました。

石垣と植木の親和性が一種の韻を踏んでいるようにも感じられる文章である。植木職人は広くは庭師というカテゴリに属するわけで、当然、庭石などを取り扱ったりもするわけだ。それはともかく、わたくしが思ったのはお金持ちだなあということであり、顕正会にもいろいろな人がいるということである。ちなみに彼女はもともと創価学会員だったらしい。

凛々しい顔をした男子部員が、看板を前後にかけて練り歩いている姿には・・・

例の総選挙の様子を伝えるくだりである。これがどこの話であるか不明であるが、続きの文章を読むと彼女は投票日前日の秋葉原にも行っており、夜の九時近くまでそこにいたそうである。それから群馬まで帰るのは大変だなあと思って続きを読むと、彼女は群馬在住ではなく埼玉県熊谷市が地元であると書かれていた。熊谷まで帰るのも大変だが・・・

土地勘がないのでピンと来ないのだが、少なくとも彼女の場合は群馬会館が最寄りの会館なのだろう。冒頭の植木職人は群馬会館で入信したと書かれている。

第二十七婦人部長も投票日前日の秋葉原の様子を語っている。

 プラカードを掲げると、日の丸の旗を持った者たちの怒号と罵声が飛び交い、プラカードを奪われ壊され・・・

前にも言ったが、訴えるべきだろう。

 一総班長は五年前、「左中大脳動脈閉塞症」と診断され、脳の左半分が閉塞して全く機能していない状態ですが、一切の麻痺も機能障害も出ず、医師も驚いております。

これはガン消滅の話と同じで、大変なことである。

 また、一男性からストーカー行為の嫌がらせを受け、気持ち悪い思いをしていた総班長のことが、組織を通して浅井先生のお耳に入るや、藤村弁護士が迅速に対応して下さり・・・

なるほど、藤村弁護士も忙しそうだ。

中国で魔障乗り越え熱烈な弘通

女子部第八区支区長補の記事はいわゆる国内と海外の成果がゴッチャになっている問題を如実に示すものである。

七名の紹介者により二〇名の入信を叶えました。

二〇名の紹介者により過去最高の一一四名の入信を叶えました。


具体的な数字が書かれているくだりはこの二つだが、他にも夫や兄夫婦・親戚の人たちが入信したという記述があったりするので、ぜんぶで百五十人近くが入信したということになるだろう。

ご存知のごとく、本年七月には二百万を達成するという。

しかし、本来ならば、国内の成果だけで二百万を達成しないといけないはずなのに、現実にはご覧のように海外の成果がたくさん混じってしまっている。また、近く教学試験の結果も発表されるだろうが、これまたご存知のごとく近年は合格率がベラボウに低くなっている。失礼ながら、海外の人たちにしてみれば、わけがわからない状態であり、教学試験の合格などは望むべくもないし、期待もできない。

つまりは虚飾に満ちた二百万なのである。

いや、もちろん、外国人が入信してはいけないという話ではない。どんどん入信すべきだろう。ただし、その成果をゴチャマゼにして粉飾していることが問題なのである。

2018/1/23

カンガエスギ  
いくつかコメントが寄せられているけれども、今日のところは割愛させていただき、顕正新聞第1427号の記事を見て行こうと思う。

 自然発生的に起きた運動がここまで民意を動かしめたことを思うほどに・・・

総男子部長の発言を逆手に取って言いたい。まず、本当に民意が動いたのかどうかという問題があるわけだが、そこは問わないことにしよう。わたくしの思うに、だったら折伏誓願を廃止せよ、ということである。ようするに、先般の選挙時における顕正会員たちの奮闘は本部の指示によるものではなく自然発生だった、と言っているのであれば、折伏や結集などもノルマを課さないほうがいい結果を生むことになるはずなのだ。実際、そのほうが活動会員たちも伸び伸びと活動できるはずだし、離脱者も少なくなるに違いない。ただし、たぶんこれは単なる理想論であって、現実にはノルマを課さないとダメなのだろう。しかし、今述べたように、それが会員たちを苦しめているという事実も否定できないわけであって、その辺のサジ加減がひじょうに難しいのだろうと思う。ともかく自然発生を云々するのであれば、だったらノルマをなくせ、と言いたくなるのが人情であり、活動会員たちの代弁でもあるわけなのだ。

かえって顕正会の輝きを増した・・・

これは第十八男子部長の発言である。先の解散総選挙において顕正会は存在感を示すことができた。彼はそう言っているわけである。まあ、しかし、これはかなり主観的なものであり、自己満足の域を出ないのかもしれない。

選挙に勝ったことでかえって悪政の実態を国民に晒し、末路の近きこと強く思った・・・

末路云々はさておき、悪政の実態については比較対象があって初めて明瞭になることだと思う。いちばんわかりやすいのはニューヒーローの登場だろう。ようはその新しい首相が打ち出す政策が悉く功を奏し、誰もが安倍さんの時よりもよくなったと感じられるようにならないとダメなのだ。しかし、現実には誰がやってもそんなに変わらない。となれば、顕正会が目指す妙法の政治を実現しないといけない。顕正会から政治家を輩出して、顕正会が理想とする政治を実現するしかないだろう。

「物部」のごとき所行・・・

総合婦人部長も凄いことを言うものである。これは基礎知識のない一般人にはわからない話だと思うが、仏教は聖徳太子の時代に日本に入ってきた外国の宗教だった。ゆえにその時、物部氏は仏教に反対した。一方の蘇我氏は仏教に賛成し、物部氏を討伐するわけである。しかし、その蘇我氏も後には大慢心して結果的に身を亡ぼすことになる。

浅井先生は以前、池田大作氏の慢心ぶりを、蘇我がごとき、と表現したことがあった。総合婦人部長はこれに倣ったのかもしれない。

そして今の話は、安倍首相が神道に傾倒していることを捉え、往古の時代の物部氏になぞらえて批判しているわけである。

では、次の御文をどのように拝するのだろうか?

 夫此の国は神国なり。

もちろん浅井先生を筆頭に教学に長けた幹部たちはすぐに答えられるだろう。しかし、御書を持っていない末端の会員たちにはわけのわからない話である。

ここでわたくしなりの見解を示しておこう。

安倍政権が目指している神の国なるものは大謗法であるとするのが顕正会の立場であるが、それはもしかしたら考え過ぎのことかもしれない。神道は日本固有の土着の宗教であり、他の宗教とは同じ土俵で語れない面が少なくないのだ。いちばん無難な説明は、宗教ではなく文化である、ということになるかもしれない。だとすれば安倍首相がG7首脳を伊勢神宮に招待したことも、日本文化の紹介という意味に過ぎないわけであって、他意はないことになるはずなのだ。そうでなければ、各国首脳にしてもそれぞれの思想信条や信仰を持っているはずなので、場合によっては拒否することもあり得ただろうし、もしそういう事態になれば安倍首相の面目もつぶれることになる。さすがに安倍さんはそこまで強硬な人物ではないだろう。第一、ブレーンの人たちだってリスク回避のために取りやめるように進言するはずなのだ。

問題は明治期の国家神道体制である。そしてその時に行なわれた廃仏毀釈である。もし安倍さんの目指しているものがこれならば、これはもう顕正会のみならずすべての宗教団体が反対することだろう。創価学会だって他人事ではなくなるはずなのだ。

しかし、これは明らかなる歴史の逆行であり、それが実現するとはとうてい思えない。これまた前回から引き続いての現実思考である。

まさしく安倍首相が世界に向けての発信だったのだ・・・

昌子が言っていることは前述の話である。各国首脳を伊勢神宮に招いたことだ。彼女は続きの文章で次のようにも言っている。

国家神道の復活をめざす大陰謀の根深さ・・・

だから繰り返し言っているように、これはさすがに考え過ぎじゃないかと思うのだが、それはわたくしの認識が甘いということなのだろうか?

広宣流布の新段階・・・

これは第十二女子部長の発言である。新段階が新しい。今までは最終段階だった。それが新段階に変わったとすると、表現的にはやや後退を感じさせるようにも思うのだが、逆に今度はわたくしのほうが考え過ぎなのだろうか?

2018/1/20

ミソシル  
前回のコメント欄は本文の内容に沿ったものばかりで、実に気持ちのよいものだった。特に大沢氏には懇切なる資料の紹介をたまわり、ひじょうにありがたかった。

おそらく榎木境道御尊師の見解と浅井先生のそれと、ほぼ一致するのだろうと思われる。だとすれば、宗門内には諸説があるものの、顕正会の主張と大きくは異ならないのだろう。もちろん、この件に関しては、である。

また、タケシ氏からは御相承の全体像についての質問をたまわった。

これについて、一言で済ませるとすれば、わたくしは答える立場にない、ということになる。ただし、浅井先生の説明をそのまま踏襲すれば、相承には法門相承と法体相承がある、法体相承はいわゆる唯授一人の血脈相承であるから余人には窺い知れない、一方の法門相承は複数の高僧に伝えられていて今日においてはその大半が活字化されているので誰もが容易に知ることができる、というような感じになるだろう。また、生死一大事血脈ということがある。これをどのように理解すべきか、ひじょうに難しいところであり、わたくしにはわからないとしか言いようがない。おそらく現宗門のロジックだと、顕正会や創価学会は血脈が切れているのでそこでいくら頑張っても功徳はない、というようなことになるのだと思う。

そこでマイケル氏のコメントに移るわけだが、浅井先生が御相承の断絶を言い出した背景には、いわゆる本尊複製疑惑がある。早い話が顕正会で勝手に御本尊を作っちゃっているのではないかという疑いが持たれたのだ。これはいわば二段構えの攻撃陣であり、まずはニセ本尊だから功徳はないと責める、これが一陣であり、次にもし仮に本物だったとしても顕正会で所有する本尊は血脈が切れているから功徳がないのだ、というふうに二陣目を用意しているわけで、このような攻撃陣を敷かれると顕正会側としてはヒトタマリもない。そこで窮鼠猫を噛むのごとく、浅井先生は御相承の断絶を言ってしまったわけである。

これについて俯瞰的に見れば、最初に言い出したのが正信会、次に創価学会、そして顕正会という順番になる。しかもひじょうにわかりやすいことには、正信会が言い出した当初、創価学会は日顕上人を懸命に擁護していたのだ。それが後には正信会の言っていたことをそっくり踏襲して、日顕上人を攻撃するようになった。すると今度は顕正会が日顕上人を擁護した。いや、もちろん、積極的に擁護していたわけではないのだが、こと血脈に関しては発言を控えていた。しかし、上述のごとく、具体的には平成十一年四月だったろうか、とうとう寝返ったわけである。

ただし、浅井先生の見解は正信会や創価学会のそれと異なる部分も少なくない。

正信会の主張はよく知らないのでここでは触れないが、創価学会の場合はいわば日蓮正宗そのものを全否定する方向性にあるわけだ。そこにはやや試行錯誤のところがなきにしもあらずで、いわゆる日顕宗という呼称は、日顕上人だけを悪者にしてしまい、上人を宗門から追放し、その後には創価学会の傀儡となる人物を新猊下に擁立する、という構想を意味するのだと思われる。最初の頃はそうだった。しかし、ご存知のごとく、近年に至っては戒壇の大御本尊を受持の対象から外すというような大きな方向転換を示しているわけで、これはもう日蓮正宗からの脱却を図り、創価学会の存在そのものが日蓮大聖人の正統を継ぐものだと、いわば開き直っているわけなのだ。

浅井先生の場合はそれとは異なる。

御相承の断絶を言ったのは事実であり、これは取り返しのつかない大失言であるが、しかし、同時に、血脈は断絶しない、とも言っている。わけのわからないロジックではあるものの、一貫不変をウリにしている浅井先生としては、過去の発言との整合性を考えてギリギリのところ狙ったのかもしれない。

そしてもう一つ大きな事実がある。いわゆる目師再誕への希求がそれだ。

日達上人から日顕上人への相承はなかった。断絶した。正信会、創価学会、顕正会の共通の主張である。しかし、上述のごとく、浅井先生は血脈は断絶しないとも言っている。実にわけのわからない話であるが、一つだけ言えることがある。相承がなされていないとすれば、そこで伝えられるであろう口伝(?)の類は消滅してしまったことになる。もはや復元できない。これに対する浅井先生の答えが日目上人の御出現なのである。目師は宗開両祖に直接御仕えした方なので、御法門のすべてを御存知であられるし、御相承のこともしかりである。するとあらゆる問題が解決する。戒壇論にしたって、目師が御裁定あそばせば誰も文句は言えないだろう。ゆえに浅井先生の目師再誕への希求は誰よりも強い。

いかがだろう。ここまで読んで、浅井ってのはけっこう純粋なんだな、というふうに読めたとしたら、いちおう正解である。

かなり面倒臭い文章になってきた。自分で書いていてそう思うくらいだから、読んでいるほうはなおさらかもしれない。しかし、せっかくなのでもう少し書いておこう。先ほど、口伝のところに(?)を入れた。そして今、正解のところに「いちおう」と入れた。

わたくしの素朴な疑問は未だに猊下だけにしか伝えられていない口伝が存在するのかである。文書化されない純粋なる口伝がである。例えば、誰でもいいのだが、歴代猊下の中で一人くらい、あるいはもっと多数の猊下が、頭で憶えておくのは心許ないので筆記しておこう、というように思ったりはしなかったのかである。
つまり、わたくしの感覚が正しければ、すでに文書化されていると考えるのが常識的であり、後世に伝えていくためにはそのほうが確実だろうと思えるのだ。
すると次の段階の話になる。すなわち猊下だけに伝えられる秘蔵の文書の存在である。浅井先生は今般、御大事箱に言及した。おそらく初めてのことだろう。それが猊下だけに伝わる秘蔵の文書ということになりそうだが、わたくしにはなおも疑問が残るのだ。

実は前にも書いたことがある。簡単な話だ。なぜにそれが非公開なのかである。それを読まれると困ることでもあるのかである。

ここであえて嫌われることを書いておこう。

もし仮にそうした秘蔵の文書があったとしても、実は大したことがないのではないか、ということである。ポーカーゲームのように、切り札があるぞあるぞと見せかけて、それで牽制しているだけの話ではないか、というふうにも思えるのである。つまり、たとえ秘蔵の文書があったとしても、それは切り札と言えるほどのものではないのではないか、ということである。

いちおう、これが現実思考ということだと思う。

さて、もう一つの「いちおう正解」の話をしたい。ようするに浅井先生は純粋であるという話だ。当然ながら浅井先生の裏の顔ということがある。この点を追求していけば、とてもじゃないが純粋だとは言えないだろう。表面的には純粋を装っているものの、実はまったく違うのだ。

いやいや、それを言いたいわけではない。浅井先生の裏の顔については、そちらの専門(?)の人に聞いたらいいだろう。

ようするに浅井先生が純粋だとしても、それが正解とは言えないのである。純粋であることはおおむね良い意味に捉えられる。しかし、場合によっては良くない意味になることもあるのだ。

つまり、現実思考の上からはどうか、ということである。

日目上人の御出現をいったい誰が認定するのかという問題がある。結局、そこでまた争いが起こることになる。顕正会にとって都合の悪い人物ならば、顕正会は認めないだろう。ようは偽者であると。また、目師出現について、今や蚊帳の外と思われる創価学会がその時には口出ししてくるかもしれない。先に述べたような自分たちに都合のよい新猊下を擁立するという構想が復活するわけである。

また、現代人の教養レベルからして、誰々の再誕という概念がひじょうに信じ難くなっているという現実もある。

以上のような理由で、子供じみた純粋さというのはもちろん不純であるよりは遥かにマシであるものの、現実思考に即した上での純粋さにはとうてい及ばないことを知るべきなのである。

最後に御御御付について感想を述べよう。

オミオツケはもちろん知っている。ミソシルもオミオツケもかなりの高頻度で使われる言葉である。しかし、思えば今まで一度も文字入力をしたことがなかったかもしれない。ことにオミオツケがそうだ。ゆえに今、いつも通りにパソコンで入力していて、オミオツケが御御御付と当たり前のように変換されて驚いている次第である。つくづく死ぬまで勉強だと思った。

2018/1/17

ケシタ  
前回は顕正新聞第1426号の七面を中心に取り上げた。ガン消滅と臨終の記事が並んでいる点に少しばかり疑問を差し挟んだわけだが、今度は八面を見ると、臨終ないし葬儀関連の記事ばかりが並んでいる。しかし、細かい話は省略しよう。下段の婦人部大宮北支区組長の記事から、一つだけ引用して終わりたい。

 父は僧侶でありながら浮気と暴力を繰り返し、あるときは大雪の夜に、母を布団ごと窓から庭に突き落としたこともありました。

石川県で三百年以上続く浄土真宗の寺院だそうである。もはやこうなると、家業を継ぐような感覚なのだろうから、くだんの暴力オヤジには宗教上の道念など微塵もないのかもしれない。それはともかく、大雪がポイントであることは事実だろう。ヘンな話だが、オヤジは手加減したのだ。もし雪のクッションがなければ大ケガをしたかもしれない。つまり、大雪の日だからこそ、そういう荒っぽいことができたのだろう。

どうでもいい話ながら、面白いと思ったので紹介させていただいた。

さて、第1427号に移ろう。年末合併号だ。

 ちなみに申します。「御相承」「御相伝」などとよく言われるが、唯授一人の別付嘱と法門相承を混同してはなりません。

当該記事は目師会での会長講演である。浅井先生はごくごくマレにこういう話をする。

 そしてこの法体付嘱に附随して「金口の御相承」という大事がある。これは誰も知ることができない。まさに唯授一人です。

ひじょうに興味深い話である。誰も知ることができない。つまり、浅井先生も知らないのだ。ご存知なのは、猊下だけなのだろう。

この御相承の話は十二月度の総幹部会でも言及がある。これはまた後日、書く予定だ。

 「之を申すと雖も、未だ天聴を驚かさざるか。事三箇度に及ぶ、今諫暁を止むべし。後悔を致す勿れ」

この引用の仕方は初めてかもしれない。以前から繰り返し引用されてきた御書ではあるが、冒頭の部分が省略されている場合が多かった。ゆえに拙ブログではそれを指摘し、全文引用すべきであるとかなり前に提案したことがあった。浅井先生がそれを踏まえたのかどうか知らないが、今回は全文引用となっている。つまり、この御書は断簡であり、上掲で全文なのである。

ちなみにこの御書は全集には掲載されていない。創価学会が民衆立戒壇に固執した原因の一つが、あるいはこうした貴重なる断簡御書を学んでこなかったがためなのかもしれない。

 〇 日興 園城寺申状を代奏す[初度天奏](聖六一三)

これは平成新編に付された巻末の年表である。今回、宗門と顕正会で見解が異なる点を発見した。ご覧の文章を読めば、日興上人が上洛したことになるはずである。しかし、顕正会では昔からそうは教えていない。

 そしてこの奏上の大事を日興上人に付し、日目上人を代官として、京都の朝廷に奏せしめ給うた。

この点はどのように考えるべきなのだろうか?

さらに脱線して、巻末年表のことで思うところを書いておきたい。

 ▽ 熱海真言僧金剛院行満 日興により改衣して日行と名乗り自坊を大乗寺と号す(日興詳伝一四)

これは文証としてどうなのだろうかと思った。富士日興上人詳伝は近世の大学匠と謳われた日亨上人の著作である。ようは文献としては新しい部類に入るはずなのだ。それを一次史料のごとくに扱うのは問題だろう。
御書研究においても御真蹟と写本とを分けて考える場合がある。ガチガチの真蹟主義者にしてみれば当然のことなのだろうが、逆にそれは行き過ぎだろうとの意見もある。おそらくもっとも平均的な学究態度は、大聖人の時代に近い写本であれば用いてもいいのではないかという考え方である。
ゆえに平成新編の目次には御真蹟の有無と同時に古写本のそれが記載されている。だったら同書の巻末年表においても同じ姿勢を貫かなければいけないだろう。

話を戻そう。

浅井先生にしても何か特別な史資料を持っているわけではないはずで、おそらくはこれまで宗門が刊行してきた書籍の数々を参考にして、教学的な見解を述べているのだと思われる。かく言うわたくしはそうした書籍を渉猟していないし、ネットで必死に調べているわけでもない。ゆえにわからないことはわからないと正直に言う以外にないのである。今回の場合は、上洛したのは日興上人なのか日目上人なのか、どっちなのか? という疑問点を書かせていただいたまでのことである。

お御足

これは少し前にも指摘した。もともと女性語だそうである。日目上人には相応しくない? これもわたくしにはよくわからない話だが、そもそもなぜに疑問を持ったかを言っておくと、ようは重複的だからである。「お」と「御」が重複している。そこで気になって検索してみたら女性語と書かれていた。そういう次第である。

真言の山と化した叡山・・・

これも似たような話である。新聞では「化した」を「けした」と読ませている。ごく単純に、現代国語では言わないよなあ、というのがわたくしの感想である。

2018/1/14

コトノホカ  
新聞のテレビ欄なんか今どき誰も見ていないとのご指摘をたまわった。しかし、それは大袈裟だろう。誰もではなく、往時に比べれば見ている人が少なくなった、と書くのが妥当なところだと思う。これは若者のテレビ離れを意味しているのだと思われるが、ではなぜにテレビ離れが進んでいるのかを考えると、動画サイトの影響だろう。別にその時間に合わせて、テレビの前に座る必要はない。いつでも好きな時に視聴できる。それが動画サイトの良さである。しかもである。テレビ番組がそっくりそのまま動画サイトで視聴できたりもする。著作権がどうなっているのか知らないが、視聴者にしてみればそんな小難しい話は関係ないわけで、タダで見れてしまうのだからそれをありがたく利用するのが普通の感覚である。ちなみに先般、NHKの受信料の問題で最高裁が判断を下したそうである。わたくしはその詳細をまったく知らないのだが、いろいろな解説を見聞きしていると、いずれはネット環境を持っている人の全員から受信料を徴収するとの話もあるようだ。わたくしは三十年以上、テレビのない生活を送っており、当然ながら受信料を払ったことがない。しかし、上述の話が本当だとすると、いずれは払わざるを得なくなるだろう。

さて、顕正新聞第1426号を見ていこう。

主治医が顕正会員の不思議な事例発表
 成仏の相にも言及、医師ら動執生疑!


女子部第六十八区長の記事に付された見出しである。細かい内容は省くが、文中、入信近きを確信、と書かれているので、続報を待ちたい。医者はたくさんの患者を診ている。いろんなケースがあるわけで、ちょっとやそっとでは驚かない。ゆえに記事に出てくる医師が本当に入信すれば、それはけっこうなインパクトだろうと思う。

今のが六面の記事で、七面には三つの記事がある。

「お題目で癌消滅」医学会で発表相次ぐ

左上の婦人部郡山支区総班副長の記事である。見出しの一行を引用させていただいたわけだが、当然、これは前掲とは別の話である。前者は群馬県、こちらは福島県である。ちなみにこの記事は、前にも掲載されていたと思う。今は詳しく確認していないが、以前は班長会だったろうか、そして今回は総幹部会での登壇である。いい話なので、いわば昇格したわけなのだろう。

本人が聞いたらガッカリするようなことを書いておきたい。本文中には次のごとく書かれている。

 また、抗がん剤で体調が悪い時も、医師は
 「前の顕正会員の患者は、強い抗がん剤でも笑顔だったよ」と励ましてくれ(大笑)、私もしっかりと信心口唱に励んでいこうと、決意を固めました。


この医師は同じセリフを他の宗教団体の人にも言っているかもしれない。俗にも病は気からと言いうくらいだから、精神状態によって容態が大きく左右されることは、医師でなくてもよくわかる道理である。ゆえに宗教の正邪に関係なく、その人の精神状態をポジティブに保つようにと、医師も看護師も考えているわけなのだ。おそらく入院経験のある人ならばご存知と思うが、入院の手続き書類には患者さんの信仰について問う項目があったりもする。これは輸血拒否問題など、医療上の直接的な必要性から問うべき必須項目なのだろうけれども、同時に精神状態の安定ということが二次的ないし副次的な意味で含まれているのだと考えられる。

ともかく医学会での発表が相次いで行なわれているのが事実であれば凄いことだし、おまけに医師の入信が相次ぐようであれば本当に凄いことである。

悪性リンパ腫で余命半年=u絶対信」に

これは下段の記事で、男子部第百三十九隊組長が十一月度総幹部会で登壇したものである。昨年三月に余命半年の宣告を受けたという。しかし、この記事は前掲のそれと違って治ったという話ではないようである。人の寿命はわからない。ゆえに余命半年が幾分かは延びたものの、どうなるかはわからない。

大反発の妹が「卵巣癌」!ついに入信
 臨終当日、家族を御奉公に送り出す

美事な成仏の相、大慈大悲に感泣


右上の女子部第百四区総班長の記事である。内容は見出しのごとくだ。

下段の記事と右上の記事は医学会での発表対象とはならない。特にこの記事の場合、現実にガンで亡くなっているわけである。しかも近年の顕正新聞は臨終に関する記事が多い。もちろん人はいつかは必ず死ぬわけであるが、ガン消滅の記事とガンで亡くなった記事が併載されているのは何とも悩ましいところで、公平に言うならばプラスマイナスゼロということだろう。しかし、当然ながら活動会員たちは都合のよい記事ばかりを宣伝する。

 実はこの日、妹の容体は非常に悪く、医師から「いつ臨終を迎えてもおかしくないので、目を離さないように」と言われておりました。しかし私たちは・・・

医師の言うことを聞かずに病院を離れたそうである。

実は見出しにある通り、妹の思いを背負って御奉公に出掛けたわけであり、本文中から引用すれば、「お母さん、私の分までがんばって来て」との妹のセリフがあるのだ。ゆえにイチャモンをつけるべきではないのかもしれないが、しかし、悩ましいところである。

いつも言っているように人の寿命はわからない。先ほどの余命半年の話もその一例であるが、短期的な意味でも同様である。極端な話、今夜がヤマでしょう、みたいなセリフがドラマでよく使われるが、それもドラマならば予定通りに死なせることができるものの、現実の世界はシナリオ通りには行かないものである。つまり、現実にはそれから三日も四日もあるいはそれ以上も生き続けることがザラにあって、たぶん医師も経験則としてそういうことがわかっているから、おそらくは滅多なことでは言わないセリフなのである。その意味で上掲の医師の発言はひじょうに重いのだ。

しかもである。顕正会はことのほか臨終を重んじる。その意味での整合性を考えると、やはり疑問が残るのだ。ぶっちゃけ言えば、臨終よりも成果のほうが重要であるという、何ともイヤラシイ話にも思えてきてしまうわけである。

2018/1/12

チュウブラリン  
マイケル氏の指摘するように、新聞が売れなくなってきたのは事実である。その分を広告収入で穴埋めすることが常態化しているのかもしれない。聖教新聞の場合は広告収入を得たいがためにそれらを掲載しているのではなく、おそらくは宗教色を弱め一般紙に近い紙面作りを目指しているからなのだろうと思う。テレビの番組表が裏の第一面に掲載されているのも、そのためだろう。わたくしの観察が正しければ、個人経営の飲食店などに他の一般紙と一緒に聖教新聞が置かれていたりする。その経営者が創価学会員の場合もあるだろうが、多くはお付き合いで購読しているのだと思う。一般人にとっては読む価値のない記事の羅列であるものの、裏面にテレビの番組表があるのでその点は便利である。翻って顕正新聞の場合は完全なる宗教新聞であり、顕正会員以外にとってはまったく購読価値がない。そこを近年は特集号と称して一般人にも興味を持ってもらえるような紙面作りに勤しんでいる。この点は評価できるものの、全体としてはマンネリ化していて、おそらくは活動会員たちもウンザリしているのではないかという気がする。

さて、今日も顕正新聞第1426号の続きを見ていこう。婦人部春日部支区部長の活動報告も例の総選挙関連の話だ。投票日前日の秋葉原での攻防(?)が克明に描かれている。

 大声で罵声を浴びせるばかりか、押し倒そうとしたり、あるいはプラカードを壊し、特集号に手をかけてくる者も多くおりました。

日本会議の者たちの行為らしい。これはもう器物損壊だとか傷害で訴えるべきだろう。今の時代、そこら中でカメラが回っているはずだし、顕正会員たちだって自前のスマホなどでいくらでも撮影できるはずなのだ。つまり、証拠はいくらでも揃えられる。そして彼らはいわば安倍応援団なのだから、その者たちが暴力沙汰を起こせば安倍首相に対するイメージが悪化することになる。わたくしは法律に詳しくないが、もし顕正会側が候補者を立てていれば、相手側を選挙違反に問うこともできるだろう。悲しいかな、顕正会は政治的には宙ぶらりんの立場なので、それはできない。とは言え、最初に述べた器物損壊などの罪に問うことは可能のはずで、ぜひとも実行すべきである。

憲法学者小林名誉教授「学会と違い顕正会は正しい」

これは男子部第十九隊総支隊長の記事に付けられた見出しであるが、そこに所属する支隊副長が本庄駅で特集号の配布を行なっていたそうである。安倍政権崩壊特集号だったろうか、そこには小林節教授の発言が引用されているわけだが、なんと気がつかずに本人に配布してしまったそうなのである。

 その壮年は「私の家にもこの新聞は届いている。ここには私の発言が引用されている」と語ってきたのです。

副長は相手から名刺をもらって、そこでようやく気がついたらしい。わたくしの勝手なイメージを言えば、小林節教授はメディアへの露出度も多いし、わりと特徴的な顔立ちである。ゆえにすぐに気がつかないといけないだろう。

それはともかく駅前での立ち話と思われるが、教授は次のようにも発言したそうである。

 「創価学会と違って、顕正会は正しい」

これがおかしいのだ。スッテンコロリンの中でも書いたが、これはあくまで政治的見解を述べただけの話であって、宗教的な正しさを言っているわけではないだろう。つまり、自民党と公明党の仲が良過ぎるので、創価学会としては従来の主義主張を大きな声では言えなくなってしまっているのだ。安保法制の時もそうだった。創価学会の若き本部職員三名が立ち上がったのも、これがためである。そして顕正会の場合はそうした足枷がないので、言いたいことが言える。安倍政権の傍若無人に対して、ハッキリと物を言っている。小林教授が評価しているのはこの点だろう。何ならば聞いてみるがいい、小林教授は国立戒壇に賛成ですかと。もし賛成だと言えば凄いことだが、たぶんそれはないだろう。

男子部第五十九隊支隊長もまた総選挙関連の話題である。

 そして演説中、安倍首相が「北朝鮮の核問題」と言おうとしたところ、間違えて「北朝鮮の加計問題」(大笑)と口を滑らせ・・・

ほほう、これは聴いてみたいものである。

ちなみにこれは十月十七日、場所は山形県河北町のことらしい。その時は婦人部の人も来ていたらしく、安倍首相は嘘をつかないで下さい! と大音声で叫んだという。そしてそれが山形県内のニュース番組で放映され、婦人部の人の声がしっかりと入っていたそうだ。これも聴いてみたいものである。

 また選挙当日、投票所で特集号を配布していた一組長は・・・

先ほど、政治的には宙ぶらりん、と書いた意味が、ここにもあらわれている。たぶん、これがどこかの政党の支援者であれば、選挙違反になるはずだ。

かなり前の話をしよう。

克衛が言っていたことだが、ある時、某政党から顕正会本部に手紙が来たらしい。封書である。当時の克衛にはそれだけの権限があったのだろう、先生に見せる前に内容を確認したそうだ。そこには選挙の支援をお願いする意味のことが書かれていた。克衛は喜んだ。顕正会の実力が認知され始めた証拠であると。そこで喜々として先生に報告しに行った。ところがである。浅井先生はその封書をロクに読みもせず、ゴミ箱に投げ入れたのだった。

わたくしは思う。今の顕正会は崩壊寸前との見方もあるが、いちおう表面的には克衛の活躍していた頃に比べて、相当に規模が大きくなっている。ゆえに各政党から熱烈なるラブコールがあってもおかしくないだろう。それに対して浅井先生はどのような対応をしているのだろうか?

いや、まるで違うのかもしれない。

特集号を見れば、政治的には共闘できると考える政党があって不思議ではない。しかし、それと同時に、顕正会の宗教性に対しては物凄く違和感というか抵抗感を持つのではないかと想像されるのだ。だとすれば、顕正会に接近しようと考える政党は、ほぼゼロなのかもしれない。

2018/1/11

イヤラシサ  
顕正新聞第1426号の各種記事を見ていこう。まずは理事の登壇だ。

 余談ですが、最近では複数の新聞社が
 「ぜひ、うちの新聞にも掲載させてほしい」と申し入れてくるまでになっており・・・


基礎教学書の広告の話である。これは横並び意識の強い日本社会の典型例だかもしれない。理事はこれを広宣流布が近づいてきているからだと言っているが、それは飛躍だろう。確かに顕正会の認知度が上がってきた証拠ではある。ただし、それは単に広告料稼ぎのターゲットになっただけの話であり、他の宗教団体も同様に広告を掲載している以上、悪く言えば謗法と肩を並べていることにもなりかねないのだ。新聞社の収入は読者の購読料は当然のこと、それに加えて広告の掲載料が大きいのだ。現に無料で配布されている情報紙のようなものが無数に存在するが、民間でやっているとすれば必ずどこかから収入がなければおかしいわけで、それが広告収入なのである。

お御足

これは女子部総務の記事に出てくる言葉である。当然、彼女は浅井先生の発言を受けて、このように表現しているわけなのだろう。少し気になったので、検索してみた。

相手を敬って、その足をいう語。もと女性語。

これは検索最上位のサイトから、そっくりそのまま引用したものである。現代は男女差をあまり気にしないので、特に問題はないのかもしれない。とは言え、浅井先生は古き時代の人間だから、あるいは相応しくない言葉遣いなのかもしれない。人間は死ぬまで勉強なのだ。

さて、第十一男子部長の記事を見ていこう。

 本年九月、「安倍政権崩壊特集号」を読んだ福岡県水巻町の町議会議員から、顕正会本部に「詳しく話を聞きたい」と電話があったので・・・

彼が応対したそうである。顕正会のネットワークもなかなかのものだ。ようは地元の幹部を介しての迅速な対応ということが、今はわりと普通にできるわけである。結果、この人は入信したそうである。

しかし、問題はこれからだ。

 あるときなどは、立憲民主党から出馬した唯一の対抗候補・川内博史氏が・・・

この一段はけっこう感動的であり、わたくし自身も川内氏の当選を嬉しく感じるくらいなのだが、しかし、それとこれとは別である。

先ほどの入信した町会議員は名前を伏せている。ところが入信したわけでもない川内氏はご覧のごとくである。氏はわりと著名な人物である。ようするに当該記事からはそのネームバリューを利用しているようなイヤらしさが感じられるわけなのだ。

地方議員の入信を軽く見るつもりはないが、これからは国会議員レベルの入信が相次ぐようでなければ広宣流布は無理だろう。

同記事の後半には八女市の市議会議員の入信が伝えられているが、すでに問題点は上述のごとく示したので、ここでは別のことを書いておこう。議員は登壇者に議会の様子をいろいろと語っている。その中で興味深いのは市長の発言だ。

市長は「国が破綻してもウチは大丈夫」などと言いのけ・・・

苦笑を禁じ得ないところだ。民間企業であれば今はグローバルな視野からさまざまの対策が練られている。キャピタルフライトなどがその一例だろう。しかし、一自治体にそんなことはマネできないし、他に秘策があるとも思えない。能天気な市長である。

ちなみに同じ紙面に載る男子部第百四十八隊長の記事には、次のごとくある。

 以前、折伏した投資家が「国家破産の予兆があったら、資産は海外に逃がす」と語っておりました。

隊長は国税庁の職員だそうである。前後するが、彼は次のようにも言っている。

まさにこのたびの諫暁こそ、二〇年代の大諫暁の「前哨戦」と思わずにはいられず・・・

例の総選挙の時の話だ。安倍首相の行くところ行くところを顕正会員が待ち構えていて、特集号を掲げて叫んでいる図である。

本部首脳に言っておこう。

前哨戦で手応えがあったのは事実だろう。しかし、それはいわばお祭りに便乗して、その結果として手応えがあっただけの話である。総選挙というお祭りに便乗してのことだ。だからマスコミも少しは注目した。

では、そうした媒介もなく、いきなり顕正会がアクションを起こしたとして、いったいどれだけの注目が集まるのか、である。またしても空振りに終わるのではないかと思う。

本部幹事の藤村雄大氏が原発監視レポートを書いている。弁護士の肩書きが外されている点が注目されるものの、記事そのものはそれほど目を惹かなかった。強いて一つだけ書けば、福井県知事は一時期、原発再稼働にかなり慎重な姿勢を見せていたのだが、いつの間にやら寝返ってしまったようである。あちら側の勢力の巻き返しがあったのだろうか?

2018/1/10

トリイソギ  
昨日は大沢氏から行き違いでコメントを頂戴していた。

浅井先生が日刊ゲンダイの記事をパクったのかどうかはわたくしの知るところではないが、少なくとも先生は日刊・週刊・月刊を問わず、あらゆる紙誌を情報源に使っていると考えられる。当然、そうした膨大な情報の中から、己の主張に合致するものを取り出して利用しているわけである。それを活動会員たちは浅井先生のご見識として、あらゆる分野において先生の言っていることを信用してしまっているわけだ。教義上の問題はそれでいいにしても、それ以外のことは自分の意見があってもよさそうなものである。しかし、顕正会ではそれが許されない雰囲気がある。

幸い、わたくしはこうして自由に発言できる環境にいて、実際、自由に発言しているつもりである。

そこで再び大沢氏のコメントに目を移せば、安倍首相の体調悪化説を云々する医師がいると書かれている。確かわたくしも何かでそのような話を見聞きした記憶がある。日刊ゲンダイそのものは読んでいないが、あるいはその中吊り広告だったのかもしれない。
すると生意気なようであるが、わたくしはそうした情報に影響されていないことになる。健康悪化説も一理あって、それが原因で平衡感覚が失われている可能性もあるし、大幅に体力低下を招いているとも考えられる。そこで例のスッテンコロリンが起こったという推理である。
しかし、わたくしはまるで正反対の推理をした。安倍首相はあえて急斜面のところを駆け上がろうとしたのだ。それは元気な証拠だろう。結果的には失敗したものの、それで大ケガをすれば大ニュースであるが、そうはならなかった。肉体年齢が若い証拠である。

もしわたくしが今も顕正会の中にいたら、なかなかこうは言えないと思う。組織の中では言い難いという意味もあるが、顕正会的な思考に染まってしまっていて上述のような発想が生まれない可能性もある。

さて、マイケル氏は顕正会の会館建設構想について、企業の論理を用いて考えればわかりやすいと言っている。それと同時に宗教法人会計については無知であると言っている。わたくしも似たり寄ったりであるが、おそらくは誰もがほぼ同意見だろう。

収益が見込めないような過疎地に店舗を構えるような経営者はいない。

郵政民営化の時に問題になったのもこれと同じ理屈で、今は全国津々浦々に郵便局網が敷かれているけれども、民営化されれば大幅なリストラが行なわれるのではないか、そうなったら困るので郵政民営化には反対である、というような議論が当時なされていた。民営化してすでに久しいが、その後の事情についてはあまり取り沙汰されていないので、どうなっているのかわたくしはまったく知らない。
ともかく顕正会の場合はそうした全国網すら完成していないので、前回書いたように最低でも各県に一つずつくらいは会館を建てたいところである。それをしないのはその地域がよほど遅れているからなのだろう。もちろん人口比例という意味もあって、例えば鳥取島根あたりは人口そのものが少ないので、相対的に顕正会員も少ないわけである。ただ顕正会の場合はそれだけが理由ではなく、さまざまの事情から弘通が大幅に遅れている地域があるのは事実だろう。
そしてこれが国家的事業であれば、くだんの郵政の話ではないが、過疎地だろうが何だろうが人が住んでいるところには最低限のインフラ整備の一環として郵便局を置くわけである。それが赤字だったとしてもだ。
そう言えば、今のJRはおよそ三十年ほど前までいわゆる国鉄だった。わたくしは鉄道にまるで無知であるが、どうも国鉄が民営化されてからこれまでの間に、ずいぶんと廃線が増えたような気がする。

ここでいきなり話が飛躍するようだが、国立戒壇の建立は国家的事業として行なわれるものである。もちろん、宗門やかつての創価学会も国立戒壇を唱えていた。しかし、その詳細についてはそれぞれの見解があるのかもしれない。その議論はさておき、少なくとも顕正会では国家的事業という考え方をしているはずである。

ヘンな言い方だが、その事業を実現させるための大前提が需要があるかどうかなのである。先ほどは国家は赤字だろうがやらねばならないことがあると書いた。しかし、国立戒壇の場合はあり得ない話である。少なくとも現代においてはである。つまり、独裁国家であれば独裁者の裁量でそうしたことが行なわれることもあり得るだろうが、今の民主国家においては国民の大多数が反対すれば実現しないのである。それを企業的な表現で言えば、需要ということになるだろう。

ひるがえって顕正会の会館建設構想を見れば、それはまさに企業的な発想で行なわれていることは確実である。ゆえに需要のないところには会館を建てないのだ。

これは結局のところ、国立戒壇の建立はまだまだ先の話である、という当然の結論を意味していることになる。

繰り返しになるが、言っておこう。

民主国家における国立戒壇の建立は国民のニーズに左右されるのだ。これは企業論理と一致する。そして今の顕正会も企業論理そのままに会館を建てている。それでいて今もなお無会館県が存在する。早い話がニーズがないわけだ。こんな状態では国立戒壇の建つ道理がない。実に明快な理屈である。

富士門流はどうしてこうも、「数」にこだわるんですかね?

まあ、いちおう、この件に限って善意に解釈すれば、顕正会の場合はまだ本気で広宣流布を目指しているので、こうして常に具体的な目標設定を掲げているわけなのだろう。

2018/1/9

クスブリ  
引き続き十一月度総幹部会の会長講演を見ていこう。浅井先生は総選挙を振り返って、次のごとく言っている。

 この師子吼は全国の駅前や街頭演説会場で響きわたり、安倍首相の肺腑を抉った。

ようするに安倍首相の行くところには必ず顕正会員が待ち構えていて、例の特集号を掲げて「総理大臣は嘘をついてはいけない」等と叫んでいたという話を言っているわけである。

 演説会場の警備担当者などは、「顕正会の中の同一グループが全国を回わっているのだろう」と思ったようですが、そうではない。

先生は、自然発生的にこの大運動が起きた、と言っている。

この点、内部事情に詳しい人の証言がほしいところだが、同一グループでないことは間違いないだろう。なぜならば、今や顕正会員は全国津々浦々にいるからで、それぞれが担当地域を決めて行なったほうが効率的だからである。ここで問題になるのは、それを本部が主導して行なったことなのか、それとも正真正銘の自然発生だったのか、である。少なくとも成果至上主義の顕正会では、折伏法戦の真っ只中において成果にならないことをやるわけがないので、その意味では本部主導ではないのだろうと想像されるのだが、しかし、そうだとしても第一線で活動している人たちにしたって成果に結びつかないことはしないはずなのである。ゆえにこの辺の事情に詳しい人がいれば、ぜひともご教示をたまわりたいものである。

 ゆえに登用・五級・三級ともに、この「基礎教学書」を共通のテキストとしているのです。

ヤブカラボウの引用で恐縮であるが、今度は教学試験の話題である。これはネット上での批判を念頭に発言しているのかもしれない。ようするに出題範囲がすべて基礎教学書だというケッタイさについて、いわば言い訳をしているわけである。その言い訳の妥当性もさることながら、わたくしは四級試験が欠落している点に注目した。これはもう絶対におかしなことであり、顕正会の教学試験が厳格に行なわれているとするならば、現時点における五級合格者すなわち四級受験資格者はお休みしなければいけないことになる。そして数字の上では二級や一級があってしかるべきであり、すると三級合格者は二級試験の実施を待ちわびていることになる。後輩の面倒を見るという仕事があるものの、自分の試験についてはお休みということになるのだ。

しかし、わたくしも毎年同じようなことを言っている気がする。

広布御供養については特に書くことはない。年一回、上限八万円の方針が貫かれている以上、それが建前上のことだとしても、差し当たっては文句を言う筋合いではないだろう。先日、国会破産などの経済事案について少し触れたが、おそらくハイパーインフレ等の劇的な変化が起こらない限り、顕正会は今の集金システムでやっていけるという算段なのだろうと思われる。さしずめ健全経営となるだろうか?

 明年は福島県の郡山に、大規模な新本館を建設します。

例年のごとく、会館建設構想の発表である。明年とは本年のことで、どうやら本年は郡山だけのようである。

 そして明後年の建設計画でありますが、東北地方の中心都市である宮城県仙台に、これも大規模な新仙台会館を建設します。

明年はご覧の通りである。

これはけっこう大きな変化かもしれない。なぜならば顕正会は毎年三ヶ所ずつ会館を建ててきたからだ。しかも上掲の二つの会館は新規会館ではなく、建て替えである。もう少し詳しく書くと、新聞を読む限りでは郡山は移転、仙台は現在地に建て直すようである。

これは先ほどの健全経営に通ずる話ではある。ようするに会員の集まらないようなところに無理して建てても無意味というか、かえって経営を圧迫することになる。つまり、メリットがないということだ。

ここで十二月度総幹部会の会長講演から引用する。

・・・しかし西日本は、これまで遅れていたのです。
 そこで私は、西日本の各県に相次いで会館を建て、人材の城を築き・・・


ひじょうに悩ましい発言である。なぜならば今もなお会館の建っていない県がいくつも存在するからだ。そうした無会館県の顕正会員たちがどのような心境なのかを思うと、実に複雑である。

ともかく顕正会はその無会館県を抱えたまま、広宣流布の決戦場に突入していくことになるわけだ。いつだったか入信勤行の行列云々の話をしたと思うが、その意味からしても最低ラインのインフラ整備として全都道府県に会館を建てておくのが理想ではなかったかと思う。それよりも健全経営が優先されたことになりそうだ。

 近畿財務局の職員は当然この関係を知っている。そこで忖度して不当な値引きが行なわれたものと思われる。

これまた唐突な引用で恐縮だが、いわゆる森友問題についてである。わたくしはこの発言を見て、あれ? と思った。

法律上の詳しい話はわからない。ゆえにこれはわたくしの純粋なる言語感覚と社会常識に当てはめて言うわけだが、もし上掲が事実であるならば安倍首相の責任は問えないことになると思う。問うべきは近畿財務局の担当者である。

今世間では、それほどニュースに詳しくない人のイメージとして、籠池夫妻が何やらインチキをして逮捕されてしまったくらいに思っている場合が少なくないように思う。しかし、夫妻は一民間人に過ぎない。ゆえにどれほど策を凝らしたところで、国有地をタダ同然で手に入れることはできない。つまり、そこには必ず官側の力が働いていることになるのだ。そこで昨年はほぼ一年間にわたって安倍首相の関与が取り沙汰されてきたわけである。今もなお疑惑はくすぶり続けているが、もちろん真相はわからない。

そうした時にくだんの会長発言である。

先ほども言ったように、これでは安倍首相の責任は問えないだろう。担当者の責任である。つまり、くだんの発言は浅井先生にしてはめずらしくヌルイのだ。もしくは言語感覚が狂っているか、最悪、頭が狂っているのである。

いや、もちろん、これはわたくしの言語感覚ないし社会常識が正しければの話だが・・・


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