2018/3/30

アタマゴナシ  
会員氏はそのコメント内容からして典型的な顕正会員の思考そのものであることがわかる。ただそれが一般人の感覚からすると異様なのだ。おそらく本人にはその自覚がないのだろう。それが文章から伝わってくる。具体的には次のくだりがわかりやすい。

私は鉄拳くらって顔面骨折したけど、完治したし怨恨リーダーは速攻で死んでくれました。

速攻はいかにも若者言葉である。普通はソッコーだろうか?

ちなみにわたくし自身はほとんど使わないのであまり考えたことがなかったが、これは即行が正解なのかもしれない。それにしても死亡原因が気になるところだ。病死とか事故死とか、即行で死ぬとなると、文字通り即死なのかもしれない。安倍政権もソッコーで崩壊すれば話が早いのだが・・・

腐敗堕落については晃氏のおっしゃるように、基本的に末端の活動会員たちは熱心であり、まったく該当するものではないのだ。前回の拙稿を読めばわかるように、わたくしは上層部の人たちこそが当てはまるのだと思っている。そして顕正会では宗門の腐敗堕落を云々する。だったら顕正会だって同じじゃないかと言いたかったわけである。

さて、マイケル氏の質問である。

地球規模での人口増加は罰論の上から矛盾しているのではないかとのことだが、これについては顕正会で教えていることがわりと整合性が高いように思う。ようするに、いよいよこれから大量死の時代に入るのだ、と。確かに大量破壊兵器の威力を考えれば、各国が本気で戦争をする事態になれば大量死は免れないだろう。第二次世界大戦でも多くの人が亡くなったが、核戦争にでもなれば死者はその比ではない。

ただし、これは一つの解釈であって、それが正解かどうかはわからない。そもそも仏典に説かれていることがすべて正しいかどうかもわからないし、恐れながら言えば大聖人の御認識にも錯誤があるかもしれないのだ。

過去にも何度か話題にしたが、御秘符のことがその好例だと思う。幸いにも平易な解説を見つけたのでリンクを貼らせてもらう。

http://honshubou.main.jp/fswiki/wiki.cgi?page=%B8%E6%C8%EB%C9%E4

この中に信心のない人が服しても効能はない旨が書かれていて、御秘符の文証としては伯耆公御房消息が引用されている。ここでは詳しく触れないが、前述のごとく大聖人の御認識が間違っている可能性もあるのだ。すると御秘符なるものはまったくの非科学的な迷信の類であり、日蓮正宗ではそれを知らずに七百年間、伝承し続けてきたことになりそうである。

ということで話はズレたものの、マイケル氏の指摘はなかなか鋭いものであり、現代人の合理的思考の上から考えるとどうしても納得できないような事案がいくつも存在するのが現実である。ただし、わたくしはそれを頭ごなしに否定するのではなく、ではどのように考えればいいのかを問題提起させてもらっているわけなのだ。なぜならば一見すると合理的思考をしているような人も、気がつかないところで非合理的な思考に囚われていることが、案外に多いからである。わたくしはそうした陥穽に陥ることを恐れているのだ。

例えば顕正新聞第1433号の続きを取り上げよう。婦人部南部支区総班長の記事には次の記述がある。

 関わった誰しもが驚嘆したその証こそ、大聖人様が「死すれば光を放つ」と仰せられた「外用の成仏」であり・・・

この大聖人の仰せについて、浅井先生は臨終の相だと解釈していて、必ずしも発光するとは認識していない。いわゆる半口半眼などのことを言っているに過ぎないのだ。ならば御生骨も同じではないかと思うのだが、顕正会員の諸君はいかがだろうか?

つまり、顕正会員は一種のダブルスタンダードを用いていることになるのだ。

成仏すると発光する。もしこれが本当ならばそこら中で発光していることになる。少なくとも顕正会で活動していた人たちは、亡くなれば発光するわけである。しかし、現実にはそんなことは起こっていない。だったら御生骨も同じじゃないかと思うわけだが、今のところ顕正会の中では本当に発光すると信じられているわけである。この非合理性をどのように解消するのか、聞いてみたいものである。繰り返しになるが、頭ごなしに否定するつもりはない。もし納得できるような説明が可能ならば、ぜひともお願いしたいということである。

「願わくば、あと十有余年の命を頂き、息子と共に光り輝く御生骨を拝観したい。しかし途上、命終わるならば、願うことはただ成仏の一事」

これは男子部第三十八隊班長の記事に出てくるものである。ガンを患いながらも文字通り最期まで活動しておられた組長さんのセリフである。どうやらこの班長の上にいる支隊長が、亡くなったご婦人の息子さんらしい。ゆえに本文中には次のごとくある。

良き臨終を遂げた支隊長の母親の・・・

わたくしはこれをよく憶えている。今でこそ顕正新聞には臨終の話題がたくさん載っているが、かつてはそれほど多くなかった。そうした中でこの話はひじょうに印象的だった。

しかし、いつ頃だったのかは失念してしまった。あるいは二十年くらい経つかもしれない。なぜならば「あと十有余年」のキーワードがひと際目立つからである。一千万の誓いも同じ頃だったかもしれない。

 我が班には、曽て総支隊長を務めるなど幹部だった未活動者が多くおり・・・

同じ記事からの引用である。くだんの御子息が支隊長として頑張っているのはけっこうなことだが、同時に活動をやめてしまった人がたくさんいることも事実なのだろう。そりゃそうだろう。あと十有余年とか言っていて、その数字が一向に減らないのだから、イヤになるのも当然である。

そうそう、前後して恐縮だが、先ほどの総班長は三次救急指定病院で、心臓や腹部のエコー専門の超音波認定検査士をやっているそうである。また、病理医の補佐として解剖にも携わっていたことがあるらしく、けっこう詳しいことが書かれている。

 臓器を取り出した後のお腹は空っぽなので、元通りに膨らみをもたせるため新聞紙を詰めます。

生々しい記述である。それにしても新聞紙が悩ましい。当然、古新聞だろう。死者の威厳を保つ意味ではやや不適切なことのようにも思える。わたくし自身はさほど気にしないが、気にする人もいるだろう。もっと適切な処置の方法を確立すべきと思う。

2018/3/28

フハイダラク  
マイケル氏のご指摘通り、創価学会員が池田創価学会と称することはまず考えられないことで、こうした点から記事の信憑性には疑問が残る。もし編集部が真面目に編集するつもりならば、まずはこの辺から直していくべきだろう。というよりも、編集とは常にこの繰り返しなのである。この意味で、実は編集部ないし本部首脳たちも、かなり焼きが回っているのではないかと考えられる。

・・・一国諫暁の新たなる空中戦を開始されました。

男子部第二十九隊長のこの文章、前を省略しているのでややおかしな言い回しになっているが、主語に浅井先生を加えると意味が通じるはずである。彼は次のようにも言っている。

 同時に、常に新しい戦いを起こされ・・・

新しいと言えるのかどうかが疑問である。事実、冒頭に示したごとく、編集部ないし本部首脳の多くはやる気をなくしているフシが感じられるのだ。唯一、例外が法務部だろうか? 彼らは年齢的にもフレッシュであり、今のところはやる気満々のように感じられる。

男子部第五十三隊総支隊長補の記事に目を転ずると、銚子市を根城に三十五年間続いた常総新聞が廃刊になったと書かれている。

昨今の新聞離れと広告収入の激減から・・・

これがまた悩ましい。先ほどの新たな戦いとは例の新聞広告に他ならないわけで、ご覧のように今は新聞そのものが斜陽化しつつあるのだ。それを顕正会の活動会員が証言しているようなものなのである。それにもかかわらず別の人はこれを新たな戦いだとか言っているわけだから、ずいぶんと認識に違いがあるものだと思う。イヤミながらも、地方紙の多くが顕正会の広告を載せるようになったのは、まさに仕方がないからかもしれないのだ。まあ、いずれにしても、新聞が斜陽産業だとすると、顕正会がいくら頑張って資金援助的に広告を載せたところで焼け石に水だろうし、顕正会の広告そのものも効果が薄いことになるだろう。

次は婦人部春日部支区総班長の記事である。

駅前配布の縁で入信した男子高校生は・・・

登壇者には失礼ながら、相手は自分の息子くらいの年齢だろう。逆に言うと、高校生から見れば母親くらいの年齢のはずである。

高齢の組長たちも・・・

前後するが、このような記述もある。具体的な年齢は書かれていないものの、現代感覚からすれば七十だとか八十くらいかもしれない。ようするに、総班長の記事は自分の報告だけでなく、総班員たちの活動報告でもあるわけだ。つまり、くだんの男子高校生は自分の母ないし祖母のような年齢の人たちに折伏されて入信したことになる。

それがどうした?

そう開き直られると困るのだが、いつも言っているように今の顕正会の組織は男女混合のわけのわからない混沌とした状態なのである。ちなみに余計なことを言うと、自分の父親ないし祖父くらいの人に折伏されて入信する女子高校生は圧倒的に少ないだろう。

婦人部垂井支区総班長はかつて二年間、創価学会に籍を置いていたそうである。その後、顕正会に入会し、すでに二十八年の歳月が流れた。この点だけを見れば、創価学会のほうが定着率が悪いことになるだろう。彼女は顕正会員になってからのほうが遥かに長く、かつ頑張っているわけだ。

御遺命成就の暁に、先生の「最後の願い」が叶うその日まで・・・

最後の願いとは何だったろうか?

正確には思い出せないものの、天生原への四キロの道のりがどうのこうのという話だろう。その時に軍楽隊の演奏を聴くことが最後の願いだったかもしれない。

すると彼女は先生の願いが叶うと本気で思っているのだろうか?

その辺の本心はわからないが、繰り返しになるものの実は本部首脳こそがもう無理だと思ってしまっているような感じである。

 そして宗門が堕落したいま、この清き流れを受け継いでおられるのは、先生ただお一人であられ・・・

女子部第二百十一区班長の発言である。これは日寛上人の次の御言葉を受けてのことだ。

 「邪義多くあれど正しきは当門流のみ」

不勉強のわたくしはこの出典を知らない。

それはさておきである。今日は再三にわたって本部首脳の堕落を指摘してきたわけで、宗門の堕落がどれほど深刻なのかわたくしはほとんど知らないけれども、顕正会の堕落はよく知っている。ことに本部首脳の堕落がヒドイのだ。この点、総班長だとか班長クラスの真面目に活動している人にとっては、逆に気の毒なことだと思う。

私ごときが法務部次長の大任を仰せつかり・・・

三年生の時には大学を卒業・・・

一回目の受験で無事に合格・・・

 そしてこのたび、一年間の司法修習を経て、晴れて顕正会本部に弁護士として出仕できることになったのです。


最初のほうでも指摘したように、例外が法務部である。顔写真を見るからに、実に若く、初々しい。この人が弁護士だとは誰も気づかないだろう。しかもである。彼は男子部第七十八隊支隊長でもあるのだ。これは文句の付け所がない。

腐敗堕落した本部の中で、染まらずにいられればいいのだが・・・

2018/3/26

ヤジウマコンジョウ  
今日は各方面から寄せられているコメントについては触れずに、さっそく顕正新聞の話題に入りたい。第1433号の続きである。

医師が「顕正会は凄い」「お題目は凄い」
 未入信の担当医もお題目を唱える


婦人部郡山支区総班副長の記事に付けられた見出しである。彼女は十一月度総幹部会で体験発表をしている。たぶん、その時にも言ったと思うが、だったら早く入信すべきだろう。ヘンな話、患者のご機嫌を取るために、そのように言っているだけかもしれないのだ。ご機嫌は語弊があるにしても、病気は精神的な影響も大きいので、医師が彼女の気分を害さないように気を配っていると考えるのが常識的だろうと思う。

 「医者として治療方法に悩まなくても、お題目という凄いもので救われる」

これは福島県の医学会での発表だそうである。本当かよ?と言いたい。医学会であれば、会報のようなものがあるかもしれない。ならば、ぜひとも当該文献を拝見したいものである。

 以前に病院内で、学会員の医師が「池田創価学会が一番。顕正会は悪い団体」と騒いだ・・・

これも本当かよ?と言いたい。

さらに医学長の話が出てくるが、これがまた凄いのだ。

 一方で、その医学長は、給料アップを条件に職員を学会に入信させているという噂も流れており・・・

ともかく噂レベルの話をこうして機関紙に載せてしまっているところがお粗末である。

さて、医療関係の記事が続く。婦人部松戸支区班長は看護師だそうである。彼女の職場には非常勤を含めて約四十人の医師がいるという。また、以前の職場のツテをたどると、そこには医師会の単位として百八十人ほどの医師が所属しているそうだ。

具体的な内容は省略するが、ようするに彼女はそうした連絡先のわかっている医師を片っ端から折伏しているわけなのだろう。そこが凄いと思った。

ちなみに前の職場は折伏が原因で退職を余儀なくされたらしい。

次の婦人部津軽支区班長も看護師だ。

 現在、私は看護師として施設や患者宅の訪問看護に携わっておりますが、実は以前から、高齢者や重症患者に対する苦しい延命治療に対し、「いつまで続け、誰が終わりにするのか」と、迷走する医療現場の限界を常に感じておりました。

最初の話を思い出してほしい。くだんの医師いわく、治療方法に悩まなくても云々、と。

治療方法ないし治療方針は簡単なことではない。一口に延命治療と言っても、それは回復の見込みがあって行なう場合もあるわけで、結果として回復せずに死に向かっていくにしても、それはあくまで結果論であって、その医療方針が間違っていたことにはならないだろう。むしろ今の顕正会の雰囲気からすると、重症患者はどんどん成仏させてしまえと言っているようにも聞こえるところである。つまり、顕正会の場合はややもすれば医療そのものを否定しかねないような危険性を孕んでいるわけであって、くだんの医師の発言がまさにそれを裏付けている意味があるのだ。この点、顕正会員はもっと真面目に考えるべきだろう。

ちなみに当該記事には肺癌の末期の人を入信に導いたことが書かれている。ほどなく亡くなったわけだが、その臨終の相についてはそこそこ詳しい記述がある。それにもかかわらず、葬儀のことは書かれていない。

男子部第四十一隊支隊長の活躍を紹介しよう。

千葉県市川市にある正宗末寺「弾正寺」へ赴き、前回会えなかった住職を糾弾せんと訪ねました。

ほほう、これはめずらしい。今の顕正会は宗門に対して弱腰の印象がある。浅井先生は総幹部会の場でけっこう過激な発言をしているものの、現場の活動会員たちは法華講員との接触を恐れているような感じなのだ。その点、彼は勇ましい。

しかし、住職は不在だった。事前にアポを取っていないようなので、そこは文句の言えないところである。ともかくその日は住職夫人と一時間ほど話をしたという。

曽て登山者の中に不審者が紛れ込んだことを先生は強く指摘された・・・

支隊長のセリフである。そうだったっけ? 憶えていないが、わたくしが鮮明に記憶しているのは、宗門と創価学会が分裂した直後くらいに登山会の日程表が一般紙の広告に載せられたことである。これに浅井先生が怒っていたのはよく憶えている。もはや御内拝の域を超えて一般公開と同レベルではないかと。

冷静沈着な法華講員ならば、確かにその通りだと応えるだろう。一つひとつの事象を検証すれば、そこにはさまざまの行き過ぎや失敗があったことは間違いない。そこで意固地になって無謬を言い募っても、どうなるものでもあるまい。

住職夫人もそう思ったのか、次のセリフなどはひじょうに素直な心情の吐露である。

 「今の妙観講は本当に過激。しかも法華講はみな御開扉に狎れ切っていて、本山での登山の係りをする者も全然頼りない。若い人は寺に来ても、バーベキューや餅つきを楽しみにしていて、感激も、教学を学ぶ意思もない。集団行動も全然できない。その点、顕正会の若い人は、齋藤さんみたいにしっかり教学を勉強して凄い」

これが宗門全体の傾向なのかどうかはわからないが、少なくとも弾正寺の実態はかくのごとくなのだろう。

この際、野次馬根性的なことを書いておこう。

どうせならば理境坊でも訪ねればいいのにと思う。あるいは法道院でもいいかもしれない。妙縁寺でも常泉寺でも本行寺でもいいだろう。住職がどのように応対するかは定かではないが、法華講員の猛者たちが相手をしてくれるに違いない。地方の寺院はともかく、都内であれば誰かしら相手になってくれるはずだ。あるいは御講の日ならば確実だろう。

2018/3/25

ハルランマン  
面倒臭いコメントが続けて寄せられている。一つは広宣流布のことであり、もう一つは猊下を生身の釈迦日蓮と拝するかどうかとの問いである。

後五百歳中広宣流布についてはさまざまの解釈がなされている。いちばん単純に言えば、経文には広宣流布と書かれているものの現実的には広宣流布していない、これはどういうことなのだろうか、というような議論である。かつて顕正会ではこれを法体の広宣流布と化儀の広宣流布という分類を用いて説明していた。最近は言わなくなったが、その理由はともかくとして、現実に広宣流布していないことの説明としてはそれなりの説得力を持っていたと思う。わたくしとしてはそうした難しい解釈論ではなく、客観的に見ればどう考えても広宣流布しているとは言えまいと、ただ単に主張しているだけの話なのだ。ゆえにその逆のことを言いたいのであれば、それなりの説得力のある説明をするべきだろう。

さて、猊下の話であるが、これはもう面倒臭くてやってらんない、というのが本音である。

例えば教義上、間違ったことを言っているとしよう。猊下が間違ったことを言っているのだ。

そんな釈迦日蓮はおるまい。

すると法華講員がムキになって言うのだ。猊下が間違うはずがないと。些末な間違いはともかくも、重要な部分で間違うことはないと。

しかし、いつも言っているように、宗門の戒壇論はデタラメである。それを修正できずにいるのは猊下の責任である。つまりは猊下が間違っているのだ。

拙ブログの読者には法華講員がけっこう混じっている。そこで上述のようなことを書くと、わたくしを顕正会側の人間だと思い込む。しかし、それはまた大きな誤解であって、わたくしは顕正会もデタラメだと思っていて、事実、顕正会をボロクソに批判している。もちろん浅井先生を批判しているわけだ。

特に最近は会長本仏論と思しき発言が目立つので、そのたびに批判を加えている。あるいは目師再誕説を唱える人もいて、それについても痛烈に批判している。平たく言えば、浅井先生も偉くなり過ぎちゃった、幹部たちのオベンチャラも度が過ぎている、ということなのだ。

ご存知の人も多いだろうが、今の顕正会員は猊下を見下している。浅井先生のほうが上だと思っている。

すると、凄いことになるのだ。

もし猊下が生身の釈迦日蓮だとすると、浅井先生はそれよりも偉大な存在となるのだ。生身の釈迦日蓮より偉大な存在? それはいったい何者なんだろうか? 大慢婆羅門か?

さて、生身の釈迦日蓮についてであるが、幸いにも検索すると最上位に次のサイトが出てくる。

http://www.correct-religion.com/pages/souka07-04.html

これはけっこうマトモなことを書いていると思う。

この中に御本尊七箇相承の引用があって、わたくし自身、これについてはずいぶん前に見解を書いたことがある。今は記憶だけで書く。ようするに猊下は大聖人とは別人なのである。では、大聖人ではない別人が御本尊を認めて、はたしてその御本尊に功徳はあるのか、ということになる。この答えが七箇相承なのである。

つまり、別人が認めた御本尊に功徳はないのだ。ゆえに本来は大聖人が自ら御本尊を認めなければいけない。しかし、大聖人はいらっしゃらない。

末法の全人類を御救い下さるはずの大聖人が、こうした問題点について何の用意もせずに御入滅あそばすわけがない。つまりはその用意こそが御本尊書写の権能なのである。

結論は出た。

猊下が御本尊を書写される瞬間は、まさに生身の釈迦日蓮なのである。それ以外の時は、その限りではない、ということだ。

以下はまったくの私見であって、おそらくは法華講員から大バッシングを受けることになるかもしれないことを覚悟の上で書く。

大聖人が御本尊書写の権能について御定めになられたのは、制度上の意味合いが強いのではないかと思う。すでに日興上人の時代において御本尊の乱発がなされていた。いわゆる形木本尊である。版木さえ作ってしまえば御本尊をいくらでも複製することができる。大聖人がこうした事態を予測できなわけがない。ゆえに本尊書写については猊下一人に権能を集約することにしたわけである。

この意味においてわたくしは、他門の誰々が書いた本尊などはまるで拝む気になれないが、大聖人の御真筆御本尊であれば他門の寺院に所蔵されているものであっても拝むべきではないかと思う。また、今はそうした御真筆のほとんどがネット上にデータ化されているので、極論すればそれをコピーして表装した上で拝むこともアリだと思う。

たぶん予想されるのは開眼をどうするのかという反論だろう。

これについても私見を述べておくと、開眼すらも制度上の問題かもしれないと思う。ゆえにこの場合は、創価学会や顕正会のように勝手に御本尊を増刷することは許されないが、もし個人がひそかに自宅等において拝む範囲においては許容されるのではないか、ということになるだろう。

最近はおかしなコメント投稿者が多いので、それに連動してわたくしもおかしくなってしまったようだ。

2018/3/24

ユユシキ  
浅井先生の目師再誕説が組織内で流布しているとすれば、ゆゆしき大問題である。ゆえにもしそのような発言をしている幹部がいるのならば、ここで具体的な名前を挙げるべきだろう。もしそれが末端の無名の幹部ならばまだしも、部長クラスの誰かが言っているのだとしたら深刻だ。

それから細井管長と阿部管長の間に授受がないとするのは顕正会側の主張であって、それをそのまま鵜呑みにするのは危険である。ゆえにそうした前提で今の管長から受ける必要性があるのかと問うのは、まさに手前ミソの論理そのものである。

そこで堂々巡りを覚悟で書けば、では浅井先生はいったいどうやって猊座に登るのか、である。

わたくしはここに感動的なシナリオを思い描いても無意味だと思っている。それは単なる夢想に過ぎない。常識的には御当職から譲り受ける以外に、実現性のあるプロセスは存在しないはずである。

この点、確たる反論があれば承るにやぶさかではないが、そうでないのならばあまり出過ぎたことは書かないほうがいいだろう。

それからもう一人、おかしなことを言っている人がいる。

目師の再誕であると自称するのは勝手だが、誰からも認知されないとすればこれほど無意味な話もあるまい。冗談もほどほどにしないといけない。

さて、顕正新聞の続きを見ていこう。

成仏へと導いて下さるお方は、全世界で浅井先生ただお一人・・・

お断りしておくと、これはいわゆる切り文である。しかしながら、凄い発言であることは間違いない。男子部総務の一人である。

次は第十八男子部長だ。

 大聖人様のかかる御振舞いを拝し、浅井先生の仏法・世法ともに一分の過ちも犯さない正々堂々のお姿が重なり・・・

これも凄い発言である。

ところで第四十七女子部長の記事には次のようなくだりがある。

「千葉先陣」と「記念碑建立」のお約束を果たしてまいる・・・

記念碑とは何のことだか忘れたが、あるいは立宗宣言の地に記念碑を建てるつもりなのかもしれない。ただ思うのは、記念碑は建てようと思えばいつでも建てられることである。いわゆる大標識タワーがそうだった。しかし、百万達成記念のタワーは、諸般の事情から取り壊されてしまった。

第二十五婦人部長の記事はわりとタイムリーだ。

 昨日、米株式市場において、過去最大の下げ幅を記録し、日本の株価も大きく下落したというニュースには、慄然といたしました。

誤解のないように書いておくと、当該新聞は二月二十五日号である。つまり、二月初旬に行なわれたであろう集会での登壇である。株価は上がったり下がったりを繰り返すものなので、一時的な落ち込みを云々しても仕方がないだろう。しかしながら、その後の株価の推移は決して芳しいものではなく、昨日あたりはまた一段と値を下げたようであり、あまり明るい展望は描けない。

第九婦人部長も同様のことを書いている。

 ・・・との指導からわずかにして、米国株は歴史的大暴落をし、瞬く間に世界に波及する様相を見るとき、先生のご発言の重さ、それに呼応する諸天の働きを眼前にし、国難五年とはいかに凄いのかと、理屈抜きに迫りました。

出た。諸天の働きである。

引用文の直前について説明しておくと、一月度総幹部会の会長講演では経済事案についてけっこう詳しく説明していた。そこで浅井先生は間もなく大暴落を始める旨の予言をしたのである。それがめずらしく当たった格好であり、登壇者はそれを浅井先生の発言に呼応する諸天の働きだと言っているわけである。

次の第六男子部長の文章については、アゲアシ取りと思われるかもしれないが、いちおう指摘しておきたいと思う。

「現証ほど重いものはない」とのお言葉がずっしりと命に響いては「一切は現証に如かず」の仰せが千鈞の重み身に迫り・・・

本人に悪気はないのだろう。というか、これが問題なのかどうかも微妙なところであり、わたくし自身も悩ましいと思っている。そこであえて修正案を言わせてもらえば、カギカッコのどちらかを削除すべきである。そのほうがスッキリとした明快な文章になるはずだ。

第二十一婦人部長の記事からは次のくだりを紹介しておこう。

 そして広布前夜にただ一度だけ起こる大不祥事が、まさに六十六・六十七代の貫首によって起きたとき・・・

以前、浅井先生は二度だと言っていた。すなわち日精上人の時代にも大不祥事が起こったとの認識である。近年の大不祥事を含めて、七百年間でたった二回だと言っていたのだ。

するとこれは見解を改めたことになるだろうか?

日精上人の問題については、わたくしはまったくの不勉強ゆえに何一つ語れないが、どうやら教義的に相当の問題を含んでいるようである。それを日享上人も指摘されているし、創価学会あたりが盛んに言っていることでもある。ところが近年、日蓮正宗の俊秀が新見解を発表したらしく、それで日精上人への評価が百八十度転換したそうなのである。

こうした経緯を踏まえると、浅井先生はこの新見解を踏襲して日精上人への評価を改めたことになりそうである。

ただし、そうではない可能性もある。

ようするに広宣流布前夜の今、たった一回起こった大不祥事だとしたほうが、顕正会の存在意義を高めることができる。御遺命守護の価値をよりいっそう高めることができる。ぶっちゃけ言えば、浅井武勇伝の宣伝効果を高めることができる。

まさに手前ミソの論理に基づくものなのかもしれないということだ。

2018/3/22

シンエン  
コメント欄では会員を自称する不審人物が、あることないことを書きまくっている。その最たるものが次の一文だろう。

浅井先生は日目上人の生まれ変わりです。
いずれ御遺命堅持の上人として大石寺上人になられる予定です。


いわゆる目師再誕説は批判勢力によるレッテル貼りである。わたくしはいちおうそのように理解しているが、違うのだろうか?

上掲の問題点は、その実現性である。

浅井先生が歴代上人に名を連ねる可能性はゼロである。少なくとも現状では不可能なのだ。まず、僧侶ではない。また、仮に僧侶だとしても破門の立場である。そして不謹慎ながら年齢が問題だ。
年齢的にはもはや限界である。今の猊下からすぐにでも相承を受けないことには間に合わない。しかし、諸般の事情からして、というよりも客観的にはどう考えても浅井先生が相承を受けることはあり得ない。
ゆえにもし顕正会の中でそのようなことが言われているのだとしたら、その具体的なプロセスを明示すべきだろう。ぜひとも次のコメントでお願いしたいものである。

さて、今日は顕正新聞第1433号を見ていこう。

相変わらずの紙面であるが、めずらしく興味深い記事が一面の下段に掲載されている。法務部長による山梨ビラ訴訟についての報告だ。

山梨県巨大団地で顕正会誹謗のビラを貼る
裁判所 明快に判決、顕正会勝訴!


裁判は金額の多寡ではなく、勝ったか負けたかのほうが重要なのだろう。特に顕正会の場合はそうなのだと思う。しかし、いちおう書いておくと、今回の判決では名誉棄損による損害賠償として相手側に三十万円の支払いが命じられたそうである。

ビラが貼られたのは平成二十一年のことらしい。裁判が起こされたのは平成二十八年のことだ。そして本年二月に判決が下りた。

先ほど、金額の多寡ではないと書いたものの、わずか三十万円のためにご苦労なことである。

わたくし自身は裁判とは無縁の人生を送ってきたが、ずいぶん若い時に知人が裁判をするかしまいかで弁護士に相談したということを、何かの折に聞いたことがある。結局、裁判はしなかった。いわく、弁護士費用と相手から取れるであろう賠償金との収支バランスを考えたら裁判をするメリットがない、と弁護士から言われたのだそうである。なるほど、世の中は損得勘定で動いているわけだ。

しかし、顕正会の場合は違うのだろう。損得ではなく、真面目に活動している人たちを守ることが法務部の責務なのだ。また、大局的に見ればそれが得になるという、首脳部による高度な政治的判断が働いているのかもしれない。

法務部長の記事については、特にツッコミどころは見当たらない。判決も妥当なところだろう。

 背後に学会の怨嫉

強いて言えばこのくだりだろうか。本文中には次のごとく書かれている。

 この背後には学会の怨嫉があった。貢川団地は、住民の大半が学会員といわれる団地で・・・

住民の大半が創価学会員? これは本当だろうか?

この点、どうやって証明するのか、知りたいところである。そのように言われているだけの話なのかもしれないが、だとするとそうした不確かな情報を書いてしまっている時点で、どうかと思うところである。

さて、これが一面の下段ということは、上段には別の記事が載せられている。「中国・四国大会」のビデオ放映が全国で行なわれている旨の報道だ。

電磁パルス攻撃の範囲は日本全土に及ぶ

わたくしはこれが胡散臭いと思った。そこには楕円で電磁パルス攻撃が及ぶであろう範囲を示している図が載せられているのだ。

まず、楕円が不審である。しかもである。日本列島の描き方がかなりイビツなのである。具体的には横長になっている。意図的に縮尺変更されているような感じなのだ。

この理由は誰もが容易に想像できると思う。

楕円ではなく真円にするとどうなるかである。さらに縦横の縮尺比を元に戻すとどうなるかである。おそらくは朝鮮半島も攻撃範囲に入ってしまうのだろう。それが南だけならばまだしも北朝鮮にも影響するとなると、ほとんど自爆行為みたいなものである。

実際にはピンポイント攻撃を仕掛ければ一ヶ所ずつは真円だったとしても、全体で楕円状に被害を及ぼすことは可能なのだろう。その意味では顕正新聞の図も間違っているわけではないのだが、それにしても意図的なものが感じられてあまりよろしくない印象である。

そして今回は本部行事にもイチャモンをつけておこう。

3月21日(水)正午   北関東大会 ALSOKぐんまアリーナ
3月21日(水)午後2時 春季彼岸会 本部会館


これはおかしい。完全に被っている。昨日の悪天候は諸天の怒りだったのかもしれない。

2018/3/21

ザイム  
前にも書いたと思うが、法務部の役割はマスコミ各社への牽制である。ゆえに今回の判決一つを取って、勝った負けたを云々するのはあくまで表面的な意味に過ぎず、その真意はマスコミに顕正会問題を取り上げさせないことなのだ。事実、一頃に比べれば顕正会関連の報道が沈静化している印象がある。俗に触らぬ神に祟りなしと言うが、マスコミにしたって面倒臭いと思えば相手にしない、それが得策なのである。もちろん、顕正会員たちが次々に問題を起こし、とてもじゃないが看過できないということになればマスコミだって動き出すだろう。また、横並び意識ということもあって、今は例の改竄問題が深刻化しており、今まで政権に対して及び腰だったテレビ局や新聞社もかなり積極的に報じているような印象がある。ゆえに今後、顕正会問題にしても再びクローズアップされる時が来るのかもしれない。

わたくしの思うに、法務部はつまらぬ牽制球ばかり投げているのではなく、顕正会自体の悪しき体質を是正する方途を探るべきだろう。いつも言っているように、自己正当化の論理ばかりを振り回しているようではダメなのである。

さて、顕正新聞第1432号である。

大師子吼

前回の拙稿でも触れたように、最近はこの表現が目立つ。当該号の場合、四ヶ所ほど見られる。これも広い意味では悪しき体質の一つだろう。

一面から二面にかけては日興上人会における会長講演だが、今回は特に触れないことにしよう。そして三面以降はいつものごとく、各種登壇の羅列である。

 巨大地震の連発、北朝鮮の暴発、中国による台湾統一と尖閣奪取、その後の他国侵逼・・・

総男子部長の記事である。これから起きることを書いているつもりなのだろう。しかし、冒頭からしてすでに間違っている。なぜならば巨大地震の連発は始まっているからである。3.11もそうだし、熊本での地震もそうだ。局地的ではあっても震度七の連発はひじょうにめずらしいことなのだ。
北朝鮮問題にしても、暴発とは何を意味するのか、それが問題である。近々、米朝首脳会談が実現するという話もある。これはもう、今の金正恩が相当のヤリ手であることを意味するのだろう。暴発なんてしませんよと、そう言っているようにも聞こえる話である。
そして台湾統一は相当に困難である。わたくしの思うに、少なくとも軍事的な方法でそれを行なうことは国際世論の許さないところであり、中国首脳にしたってそんなことは百も承知のはずなのだ。

尖閣奪取、その後の他国侵逼・・・

ややアゲアシ取りではあるものの、尖閣奪取そのものがすでにして他国侵逼なのではあるまいか、と言いたいところだ。ただし、竹島問題に象徴されるごとく、無人島ゆえにあまり大きな騒ぎにならないのも事実だろう。そして上掲の文脈的な意味はまさに本土上陸であり、中国軍が日本の本土に上陸するようなことがあれば、それは確かに大事件であり、文字通りの他国侵逼である。しかしながら台湾統一の話と同様で、これを国際世論が許すとはとうてい考えられない。

広布史上、燦然と輝く御遺命守護の御奉公すら序分とされ、いよいよ最後の戦いにお立ちになる先生・・・

副総男子部長の発言である。今、同格の幹部が何人いるのか知らないが、このところ副総男子部長の一人の消息がハッキリしない。降格か、もしくは離脱してしまったのだろう。

しかし、この登壇者も焼きが回ってきたものか、この二十年間の経緯をすっかり忘れてしまっているようだ。

顕正会では平成十年に御遺命守護が完結したとしている。ならば平成十六年の一国諫暁開始こそ、最後の戦いの始まりだったことになるはずなのだ。いわゆる百万達成の暁に行なわれた一国諫暁である。しかし、ご存知のように、それは一種の空振りに終わった。ゆえに今度の二百万を最後の戦いだと言っているわけなのだろう。この間、実に二十年である。

この間には総合男子部長だった人物が消息不明になったり、会長の娘婿が離脱してしまったり、ロクなことがなかった。総合女子部長も代替わりをして、今は三代目に当るのだろうか? なぜか総合婦人部長だけは盤石だが、とは言え、もはや顕正会の組織そのものが金属疲労によって瓦解するかもしれない状況なのだ。

さて、ここで少し話を戻そう。

先生こそ、大聖人様から召し出された唯お一人のお方・・・

第二十四女子部長もまた熱烈なる浅井信者である。嫌われるのを承知であえて書いたが、もちろん彼女だけがそうなのではない。幹部たちのほとんどが同様なのである。そこで先ほどの大師子吼に話を戻すと、総合婦人部長の記事には次のようなくだりがある。

・・・との大師子吼に、御馬前での重大御奉公に思いを馳せ、武者震いしたものであります。

紛らわしいにも程がある。大師子吼は浅井先生、御馬前は大聖人、文脈的にはこのように別々の意味をあらわしているものの、大師子吼という表現そのものがすでにして仏と同格を意味するものなのだ。まったく偉くなったものである。

話は変わる。

 学会では、十二月は「財務の月」であり、毎年、銀行に行くと多くの学会員と会いましたが、昨年の十二月は一人も会うことがなく、改めて「学会崩壊近し」を大確信しております。

男子部第百一隊班長の証言である。しかし、これは事情を知らない人にはひじょうにわかりにくい話である。どうやら創価学会では財務を銀行振り込みで行なっているらしく、ゆえに登壇者は暮れに銀行に行くと例年たくさんの創価学会員を目撃したと書いているのだ。ところが昨年末には一人も会わなかったと。

しかし、これはどこのどのような銀行なのか知らないが、ずいぶんいい加減な話のように思う。

まさか十二月になると連日のように創価学会員が銀行を訪れるのだろうか? それを彼は毎日のように観察しているのだろうか?

近所のスーパーマーケットにでも行けば、わりと高頻度で顔見知りに遭遇するかもしれない。しかし、少し離れたところに行けば、滅多に遭わないだろう。銀行の場合はその店舗数からしても、一般人の利用頻度からしても、顔見知りに出遭うことは少ないはずなのだ。以上のような理由から、これは彼の思い込みであり、創価学会崩壊近しという結論を導かんために、話を誇張しているようなところがなきにしもあらずだろうと思う。

利益を求めた他の広告とは明らかに異なる・・・

第二十九女子部長の記事から拾った。例の広告の話である。一つだけツッコミを入れるとすると、だったらアマゾンの何々部門で第一位だったみたいなことを書くなよ、ということになるだろう。世の中にはランキングにつられて購入する人も少なくない。逆に言えば顕正会側はそれを狙っているわけでもあるのだ。

・・・阿部日顕書写の本尊への執着が残っていたので、この日の入会も見送りになってしまいました。

男子部第六十七隊長である。隊長クラスがこんなことを言っているようではオシマイだ。

2018/3/19

ビシュウ  
顕正新聞第1431号の続きを見ていこう。

大師子吼

女子部総務の記事の中から引用した。この主語が重要である。すなわち浅井先生である。これをもって会長本仏論だと直ちに言うのは短絡かもしれないが、ともかく最近はこうした大仰な表現が目立つように思う。

大空中戦

これは第二十三男子部長の記事であるが、ここでの主語も浅井先生である。今一度、前後の文章をつなげて紹介しよう。

先生が起こされる大空中戦の凄まじさ・・・

本年初頭、全国の地方新聞に全面カラー広告が載った。ここでは岩手県の胆江日日新聞に載った全面広告のことを言っていて、いつもはテレビ欄が掲載されているところに載ったことで、そのド迫力に感嘆の声が続々と上がったということらしい。

婦人部千葉支区総班長も広告の話題を書いているが、わたくしが注目したのは別の部分である。

妻の暴言に屈していましたが・・・

妻の大反対を受けてからは・・・


拙ブログではこれまで繰り返し、男性婦人部員だとか男性女子部員の話題を書いてきた。今回の記事はその問題点を象徴するような事例である。

上掲の二文はすなわち二例を意味する。いずれも配偶者のいる男性である。つまり、くだんの総班長が純粋な意味で折伏を実践しているのだとしても、それを男性の奥さんが快く思わないのは当たり前のことなのだ。この点について本部首脳は何らかの方針を示さないといけないだろう。今のままでは遅かれ早かれトラブルが続発することになりかねない。やはりこれも成果至上主義の弊害であって、実は本部自体がそれを知ってて放置しているようなフシがある。ようは成果が落ち込むのを恐れているのだ。実に困ったものである。

「あまりに綺麗でメスを入れられない」
 「この現象を何と説明すべきなのか」

医学生と教授、眼前の「成仏の相」に衝撃


この記事はすでにネット上でも話題になっているようだが、わたくしはわたくしなりの視点から書いてみたい。

まず、この登壇者が平会員であることが不審である。男子部の紹介で入信したらしく、おそらくは今も男子部所属なのだろう。すると亡くなった女性も男子部所属となる。

登壇者はどこかの病院で看護師長をしているそうだ。亡くなった女性は同じ病院の看護師で、十一日前に入信したらしい。ようは末期ガンで、余命幾ばくもない時期に入信したわけだ。本人は献体希望ということで、そのままどこかの大学に搬送された。しかし、見出しにあるごとく、あまりに綺麗な臨終の相に教授も学生たちもメスを入れられなかったという。それで一年もしないうちに、遺体はそのままの状態で戻されたそうである。

わたくしの疑問を書こう。葬儀はどうしたのかである。顕正会の儀礼室で行なったのかである。その記述がまったくないところが問題である。文章の雰囲気からすると家族は未入信のようである。ゆえに儀礼室での葬儀は実現しなかったと思われる。

この点、ずいぶん都合のいい記事だと言わざるを得ないだろう。

しかも医学生らの記述がかなり長く引用されている。これも大筋は見出しのごとくであるが、わたくしの素朴な疑問はこの文章の出どころである。まず、登壇者の勤めている病院がイコールで献体先の大学というわけではなさそうである。すると登壇者が学生らの証言をどこから手に入れたのかがわからない。報告書みたいな形で病院に送られてくるものなのだろうか? もしそうならば看護師長クラスの人間であればそれを読む機会もありそうではある。まあ、しかし、その辺の細かい事情は不明であり、これ以上は何とも言えないところである。

いずれにしてもである。医療関係者を驚かすほどの臨終の相ならば、家族が真っ先に入信しても不思議はないだろう。本記事にはそうした記述がまったくない点が問題であり、ここが顕正会特有の誇張表現の臭さを感じさせるところなのである。

2018/3/14

クウフク  
大沢氏が平成校定御書を引用しつつ、説明して下さっている。そうした中で、次のくだりが秀逸だった。

龍が飛翔し鳳凰が舞うが如き大聖人様の御筆勢・・・

わたくしのミミズ云々は悪気はないものの、大聖人に対する悪口と見なされても文句は言えないところだ。それはさておき、御書をより深く学ぶためには、平成校定を入手すべきなのかもしれないと思った。

晃氏のコメントはまず広宣流布の定義から始めなければいけない議論なので、その前提がある以上は話を進めるわけには行かないだろう。

そこにマイケル氏から関連するコメントが寄せられた。

御生骨を見てみたいかどうかについては、今は積極的に見てみたいとは思わない、というのが答えである。将来、光を放つのであれば、それを見ればいいだろう。

そして問題は次だ。ようは御生骨にまつわる種々の伝説について信じているのかどうかとの問いである。
具体的にどのような言い伝えがあるのか、わたくしはその一々を知らない。ともかく光を放つという話が最大のポイントであり、それを信じているのかどうかを答えるべきなのだろう。
しかし、これについては前回の拙稿をよく読めば自ずと答えが見えてくるはずなのである。

ようするに、御書には死すれば光を放つとあるが、それを浅井先生はいわゆる臨終の相のことだと解釈しているのだ。つまり、一般人が亡くなっても実際に光を放つことはない。浅井先生もそれを承知している。そうなると当該御文における光を放つ云々は譬喩であると考えていることになるだろう。だったら御生骨の光を放つ云々も譬喩と考えるべきではないのか、というのがわたくしの意見である。

ぶっちゃけ言えば信じていないことになるのかもしれないが、わたくしの考えの基本にあるのは現代感覚である。とてもじゃないが現代人には信じ難い話である。ゆえに譬喩なのだとすれば、次にはその意味するところが何なのかという議論が生じるにせよ、ともかく現代人にも納得が可能になるはずなのだ。しかも浅井先生自身がそうした可能性を示唆する発言をしているわけだから、なおさらのことだろう。

この件に関しては以上である。

「天皇の生前退位は安倍政権への抵抗」か
  王仏冥合みつめ御奉公叶う有難さ


さて、いつものごとく顕正新聞の話題である。これは婦人部十和田支区部長の記事に付けられた見出しであるが、実に興味深い内容である。

異例中の異例で生前退位を表明されたのは、御自身の体調が第一の理由ではなく、天皇制を利用して国家神道を復活させようとする改憲勢力への渾身の抵抗であった・・・

誰の発言であるかハッキリしないものの、わたくし的にはさもありなんである。

ところで本年は明治百五十年に当るのだそうで、この節目を狙って憲法改正を実現したいというのが彼らの目論見なのだという。しかし、ここ最近の政治状況を見ると、もはやそんなことを言っている場合ではなさそうである。例の改竄問題がどうなるか、少なくともその白黒がハッキリするまでは先に進めないだろう。

九年前に重症筋無力症を発症した組長は、・・・重大指導に大衝撃を受け、立ち上がりました。

同じ記事に出てくる話である。これがまた悩ましい。先ほどの光を放つ話みたいに、一種の譬喩表現であればすぐに納得できるが、どうやらそうではなくて寝たきり状態だった人が本当に立ち上がったらしいのだ。これは本人の登壇が待たれるところである。少なくとも近親者は本人が長いこと寝たきり状態だったことを目の当りにしているわけだから、そこから驚異の復活を遂げたのだとしたら信心の力を認めざるを得ないことになる。入信者続出となる道理だ。

女子部第百九区組長は五級試験を受けたそうである。

激務の中、弟子のために、心血を注いですべての問題を作って下さった先生のご慈愛が胸に迫り・・・

これは驚きだ。教学試験の問題を作成したのは、浅井先生本人なのだそうである。しかし、ご苦労なことだ。自分の書籍をベースに穴埋め問題を作る気分とはどんなものか、わたくしにはまったく想像できない。

2018/3/12

セイダク  
ニャンコ氏は元正信会で現在は正宗の末寺に所属する法華講員だそうである。氏は浅井先生顔負けの予言をしている。

『妙観講』の残された時間は、『御隠尊』の残された寿命と、ほぼ同じなんですが。せいぜい、がんばってください。

これは遅かれ早かれ答えの出ることである。妙観講が放逐されればニャンコ氏の予言が当たったことになる。

しかし、これは創価学会系の謀略者たちが盛んに言っていたことで、御隠尊から御当代へ代替わりになった頃、これで妙観講もオシマイだ、みたいなことをネット上で言い触らしていたのである。ようは過去の経緯からして、御当代は妙観講に恨みを持っているということらしい。しかし、実際にはどうだろう。あれからすでに十年以上が経過しているが何も起こっていない。

すると今度は、まだ御隠尊の睨みが利いているうちは手が出せないのだ、御隠尊が遷化されればその時こそ放逐されるだろう、などと不謹慎なことを言う。

わたくしの思うに、政治の世界などでも純化路線という表現が使われることがあるが、その行きつく先はジリ貧だろう。何だかんだ数の論理が物を言う世界なのだ。宗教の世界は違うと思うかもしれないが、むしろトップに立つ人間は清濁併せ呑む懐の大きさが求められるわけである。もっともこういう書き方をすると、まるで妙観講を濁だと言っているみたいだが・・・

ともかくわたくしが宗門の内情に疎いのは事実である。ゆえに宗門の内部において不平不満が渦巻いていることを、ウソだと断言はできない。逆にさもありなんと思うところもなきにしもあらずである。

ただし、それはいついかなる時代にもあることであって、今が特段に異常というわけではないだろう。例えば、かつては管長選挙のようなものがあったそうだが、当然そこには虚々実々の駆け引きがあったはずである。ごく単純に、自分の支持していた人物が落選すれば不満に思うだろうし、当選した人物に対しては何かとイチャモンをつけたくなるものだ。何しろ大聖人・日興上人の時代ですら、離反があったくらいである。特に日興上人の時代はベラボウな頻度で離反があった。事情はさまざまだろうが、しょせんはそんなものなのである。

会社になぞらえてもいいだろう。上司に不満を持つ人は多い。ウチの上司は百点満点だと言える人が、はたして何割いるだろうか? それは欲張り過ぎにしても、単純に不満か満足かの二択にしたらどういう結果が出るか、興味深いところである。わたくしの感触では七三ないし八二で不満が勝っていると思う。

いずれにしてもニャンコ氏は宗門事情に詳しいようなので、引き続きご教示をたまわれれば幸いである。

さて、今日は昨日の続きである。

 内証成仏だから生きている時は自身も確たる自覚がない、人も知らない。だが「死すれば光を放つ」と。臨終に成仏の相が現われるのです。これを「外用の成仏」というと、お示し下されている。

浅井先生は一念三千法門を引用した上で、上掲のごとく説明している。わたくしは思うのだ。では、御生骨はどうなのか、と。

顕正会ではこの御生骨のことを盛んに指導している。広宣流布の時には光を放つのだと。それがいつだったか、六千万で光を放つという話になった。その辺の細かいことはどうでもいいだろう。問題は本当に光を放つのかどうかである。むしろ上掲の説明のごとくならば、光を放つというのは譬喩になるはずである。この点、浅井先生はどのように考えているのだろうか?

『黒皮隠々として骨甚だ露わる』と申して

神国王御書の引用である。今回の顕正新聞には当該御書の御真蹟が掲載されている。その直下に解読文と呼ぶのだろうか、御真蹟の行に合わせる形で、ようは原文を忠実に書き起こしているのだ。

黒皮隠々骨甚露焉と申て

いつも言っていることだが、わたくしは御真蹟を読めない。恐れながら言えば、ミミズののたくったような字にしか見えないのだ。それで活字化された御書を拝読しているわけだが、当該御文は顕正会の表記と平成新編の表記で異なっている。後者は次のごとくだ。

黒皮隠々として骨其れ露はると申して

ようするに「甚だ」と「其れ」の違いである。はたしてどちらが正解だろうか?

幸いに今回の顕正新聞には当該部分の御真蹟写真が掲載されているので、読めないながらも頑張って読んでみた。するとわたくしには「そ」に見えるのである。ひらがなの「そ」だ。そして次の行にも「そ」がある。ほぼ同じ字体である。顕正会ではそれを「其」と表記しているのだ。

だったら前の行の「そ」も「其」だろうが、と言いたい。

わたくしの勝手な想像を書くと、浅井先生は誇張表現が好きである。すると当該御文も「其れ」よりも「甚だ」のほうが意味的にインパクトが強いので、浅井先生好みということになる。

しかし、どうだろう。そんなことで御書の読みを捻じ曲げてもいいのだろうか?

実際には大差ない。これで文意が大幅に違ってしまうことはないので、さしたる問題ではないのだろう。とは言え、そういう問題ではない。これは浅井先生が恣意的な解釈をすることの傍証となる話なのだ。

以上、顕正会側の言い分を聞いてみたいものである。


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ