2018/3/11

ケープ  
大聖人は正嘉の大地震を御経験されている。それがまた立正安国論等の御執筆の契機ともなっている。その意味で日蓮系の人たちが地震について仏法上の因縁を云々するのは、ごく自然なことではある。ただし、いつも言っているように、それは手前ミソの論理に基づく場合が多く、ようは自分に都合のよい解釈をしているだけだというのが、ほとんどである。では、現代においてはどうあるべきか? これは超難問であり、そう簡単に明快な答えが出せるものではない。臨終の相の問題もしかりである。

安倍政権が潰れてもそもそも次もペテン政権であることを浅井会長はどのように考えているのでしょう?

今朝の大沢氏のコメントである。答えは簡単だ。浅井先生は誰が総理になっても文句を言うのである。少なくとも国立戒壇を掲げている以上、それはいわば国家的なプロジェクトとなるわけだから、時の総理がノータッチであることはあり得ない。ようは国立戒壇に賛成するか反対するかの選択を迫っているわけであり、それにイエスと答えない総理はすべてダメ総理という理屈になる。

まあ、しかし、そこにたどり着くまでにはまだ相当の時間が掛かるだろうから、その途中経過としては相対的な意味で今度の総理はマシであるとかぜんぜんダメだとか、そういうことは言うのかもしれない。

さて、顕正新聞第1431号の話題である。一月度総幹部会の会長講演に注目だ。

広告文コピーこそ開目のメス

基礎教学書の広告がリニューアルされたそうである。それが全国の地方紙に全面広告で載せられたという。そしてそのコピーを作って、今まで同様に大量配布をするらしい。

「法務部」を新設

これが当該講演の最大の目玉だろう。浅井先生らしいところは、この法務部も大聖人の御事蹟を参考にして設置したことである。

 大聖人様は、当時の憲法に相当するこの「御式目」をすべて筆写しておられたと思われる。幕府が施政の根拠とする基本法典であれば、違法は許さじとのお心から、御式目の五十一条から起請文まで、筆写あそばされたものと私は拝する。

当時は独裁政治のように思えるが、法治主義だった。御成敗式目という法律に基づき、裁きが行なわれていた。ところが大聖人に対する処罰は恣意的なものであって、御式目に反するものだった。大聖人はこの点を鋭く指摘あそばされている。

ゆえに浅井先生の見解というか想像では、大聖人は御式目のすべてを筆写されていたということになる。

しかし、この点は甚だ根拠薄弱だろう。大聖人の御筆によるそうした書物が残っていればまだしも、たぶんそれはないと思われる。あくまで先生の想像に過ぎないのだ。ならば同様に、富木殿や池上殿、あるいは四条殿などが筆写した、もしくは入手したという想像も有力だろう。大聖人の在家分の、いわゆる檀那たちの中には、幕府に仕えていた人が何人もいるのだ。特に富木殿は文官だったと思われるので最有力である。大学殿も有力候補だろう。

ともかく大聖人は世法仏法の両方にわたって精通しており、裁判に関しても熟知しておられた。ゆえに御書の中にはそうした面でのアドバイス的なものが残っている。

こうした大聖人の御事蹟を踏まえて新設された法務部であるが、わたくしは会長講演の次のくだりがわからなかった。

 このために、このたび改めて「法務部」を作ったのであります。

前後の文脈を省略しているのでその点は恐縮であるが、それはあまり関係がない。

改めて・・・

わたくしが気になったのはこの表現である。この一段の冒頭には次のような文章がある。

 さて、先ほど発表のごとく、このたび顕正会で始めて「法務部」を設置いたしました。

始めては初めての意味である。一般的には初めてのはずであるが、なぜか浅井先生は始めてを多用する。それはともかく、見出しにもあったごとく、新設のはずである。それをなぜに改めてと表現したのか、その辺の言語感覚がわたくしにはわからないのである。

あるいは顕正会もそれなりに歴史があるので、その昔、もしかしたら法務部が存在したのかもしれない。それが事実ならば改めての意味もよくわかるのだが・・・

世界大恐慌いよいよ迫る

この一段はいつも言っているように、経済オンチのわたくしには解説不能である。ただし、部分的にはわかりやすい話も含まれているので、その辺を拾っていこうと思う。

・・・日本の東京株式市場も26年ぶりに2万4000円を突破した。
 テレビでは著名な証券アナリストまで「10万円まで行く」などと煽っている。
 これはもう天井なのです。まもなく大暴落が始まり、それが世界恐慌につながるのであります。


これはめずらしく浅井先生の見通しが当たった格好である。当該講演は一月二十五日であり、日経平均ではその二日前に近年ではマレにみる高値を記録した。ところがである。その後は雲行きが怪しくなって、二月半ばには三千円も値を下げてしまった。これだけ下がると反発もある。しかし、それも高が知れており、今月に入るとまたしても落ち込んでしまった。今のところ二万円割れには至っていないが、いつどうなるかはわからない状況である。

CAPE(ケープ)

これはノーベル経済学賞のロバート・シラー教授が考案したものだという。細かい数字はさておき結論だけを書くと、その経済指標に基づけばあの1929年の世界恐慌の時よりも悪い数字が出ているらしい。ゆえにいつ大暴落が起きても不思議ではないそうだ。

毎度のことながら経済オンチのわたくしには、これが正しいのかどうかわからない。しかしながら次のくだりは物の道理として、まさにその通りなのだろう。

 いつかも申しましたが、以前の紙幣は兌換券であった。お札を銀行に持っていけば金と取り換えてくれたのです。金の裏づけがあった。金というのは四千年来の正貨ですよ。紙幣というのは時の政府が中央銀行に印刷させた紙切れです。だから政府・中央銀行の信用がなくなれば、ただの紙切れになってしまう。

さらに極論すれば、金すらもタダの物質であって、それをかじったところで飢えは凌げない。最終的には食糧の確保をどうするかだろう。現代文明に慣れ切ってしまった人々にとっての、最大のテーマかもしれない。

2018/3/10

チュウヨウ  
今朝の大沢氏のコメントは、客観性ばかりに拘泥すると信心の確信が揺らぐ、思い切り端折ってしまえばこのような意味になるだろう。もちろん、それ自体は頭ごなしに否定すべきことではないのだが、問題は医師の場合である。やはりどうしても立場上、客観性が求められるわけで、もし医師が信仰の力を前面に押し出すようになったら、それはどこぞのアヤシゲな祈祷師と変わりがなくなってしまうはずである。わたくしの言いたいのはそれだけのことだ。

さて、顕正新聞の続きを見ていこう。

中国・四国の全土の駅前・街頭配布

女子部総務の発言にご覧のようなくだりがある。全土の駅前の意味が難しい。平たく言えば全部の駅前だろうか? もしそうならば顕正会の組織力も相当なものである。

安倍ペテン政権の崩壊も時間の問題

第二十婦人部長の記事から拾ったが、このところ森友問題が再燃しているイメージがある。昨日も国税庁長官の辞任が報じられており、予断を許さない状況が続いている。もちろん、これを諸天の働きとするのは、顕正会独自のいわば主観に依るわけだが・・・

阿部日顕直属の謀略部隊・妙観講

第十五男子部幹事の活動報告だ。この登壇では八月に宗門から移籍してきた人物を中心に、妙観講員と顕正会員との間でバトルが展開されたことを報告している。わたくしが感心したのは、妙観講側の人物がわざわざ東京から四国までやってきたことである。実際、すでに顕正会に入会しているはずの当事者が、十一月三日に行なわれた徳島市敬台寺での御会式に参加したというくらいだから、妙観講側の奪還作戦もなかなかのものである。もっとも同記事ではそれを逆手に取って、その御会式で宗門僧侶が日達上人の悪臨終を云々していたと書いているわけだが、この辺の真相はわたくしの知ったことではない。ともかく日顕上人直属の謀略部隊という記述自体がおかしなことであり、これではまるで御隠尊が謀略に関与しているようにも読めてしまうところである。おそらく今回の一件については、講頭の大草氏にしてもせいぜい報告を聞いている程度であり、まさか逐一指示を出しているようなことはないだろうと想像する。もはや妙観講はそんな小さな組織ではないのだ。

中立の立場を取る山陽新聞が、一宗教団体の広告を半ページ大で掲載するなんて、有り得ない・・・

婦人部岡山支区総班副長の記事には、山陽新聞の元記者だった人物のセリフが引用されている。わたくしは山陽新聞を見たことがないのでわからないが、基本的にはよほど倫理に反する内容でなければ、どのような広告でも掲載されるのではないかと思う。ようは広告料を払えるかどうかの問題である。

広宣流布が点から線に、線から面に広がる喜びを肌身に感じました。

倉敷駅で配布していると、福山でも貰った、岡山でも云々、というような声掛けがあったらしい。それで上掲のように言っているわけだ。すると先ほどの女子部総務の全土の駅前云々も、あながち誇張ではないのかもしれない。

 「顕正会は正しい。安倍政権が崩壊したら入信する」

一壮年のセリフだが、少しおかしい。顕正会が正しいのならば、安倍政権が崩壊するしないは関係ないだろう。直ちに入信するべきである。ただし、これが世間一般の平均的な人々の態度なのだとも言える。いわば大勢順応主義なのだ。六千万の根拠もこれだろう。国民の過半数が入信すれば、自ずとそれに倣う人が出てくる。しかし、現状では六千万には程遠く、それゆえに加速度的な会員増加も見込めない。

「3.11東日本巨大地震では、多くの信徒が亡くなったが、国難だから仕方がない」

これは平会員の立場で登壇している人の記事である。この人は昭和六十年に顕正会へ入信したそうだ。ところがその数年後、高知では組織が二分する大事件が起こった。いわゆる寺田事件である。その時に彼女は正信会へ移籍したそうである。その彼女が顕正会へ復帰したのは平成二十五年である。ゆえになぜに今も平会員なのか、それがナゾである。

それはさておき、上掲は正信会の僧侶の発言だそうである。わたくしは思った、正信会にも信徒がたくさんいるらしい、と。彼女は別の意図からこのセリフを引用しているわけだが、むしろこれは正信会にも信徒がたくさんいることを示唆するものだろう。

甚深の御法門を拝されるは日興上人・日目上人の延長線上におられる浅井先生ただお一人・・・

今度は女子部第六十六区総班長である。この人はもともと正信会に三十年もいて、寺院総代をやっていたほどの人物である。女子部大会でも登壇しているらしいが、わたくしの記憶にはない。現在七十九歳だそうである。立派な女子部員だ。

三十八万円が入った財布を拾い・・・

婦人部広島支区総班長の記事にはご覧のような話が紹介されている。これは凄いことだ。わたくしの財布にはその十分の一すら入っていない。

2018/3/7

オサムイ  
晃氏の広宣流布ないし王仏冥合の定義はいちおう承ったものの、特に好んで議論をしたいとも思われないので、今回は割愛させていただくことにしたい。

マイケル氏ご紹介のサイトは樋田昌志氏のものだろう。ゆえに文句があるなら氏に言えばいい。また、どうしても納得がいかないのであれば、小川・原島の両氏を訪ねてもいいだろう。リンク先には媒体が明記されていないが、おそらくは宗門関係の機関紙などに掲載された記事なのだろう。その意味では発言者にもそれ相応の責任があるわけで、もしこちら側の質問に応じないようならば、その時点で記事の信用性が失墜することになる。ようはインチキ記事だと誰にも憚らず言えるわけだ。

さて、今日は「中国・四国大会」特集号を取り上げる。顕正新聞第1430号だ。

医学界でも
 気づき始める


さっそく会長講演を取り上げよう。上掲は臨終の相を云々する一段の小見出しの一つである。マイケル氏のご関心でもあるので、優先的に取り上げようと思う。

 広宣流布が近いせいか、最近では医学界でも臨終の相に注目している医師が出つつあること、先日の総幹部会でも、二人の顕正会員が発表してましたね。

非顕正会員の医師が注目しているという点に価値があるのかもしれない。なぜならば、その医師が顕正会員だとすると、その時点で説得力がなくなってしまうからである。いつも言っているように手前ミソの論理が働くからだ。

しかし、まったく別の視点から言いたいことがある。

最近、顕正会には法務部ができた。そこには若手の弁護士が二人いる。もちろん熱心な顕正会員だ。では、医師はどうか、である。

医師の人口比を調べると、十万人当たり二百人、これが日本の現状のようだ。すると、どうだろう。今の顕正会にはいったい何人の医師が存在するのか、である。
前倒しして会員数を二百万としよう。すると単純計算で顕正会には四千人からの医師が存在しないといけないことになる。しかし、現実にはそんなにいないだろう。
名目会員と実働会員を混同するな、というお叱りを受けるかもしれない。では実働会員で考えてみよう。仮に十万人が実働会員だとすると、もはや答えは簡単である。つまり、顕正会には二百人からの医師がいることになる。

弁護士も人口比率で考えると、顕正会の中にもっとたくさん弁護士がいてもおかしくないという指摘がなされることになるが、ここでは深入りしないことにしよう。ともかく医師の数を考えても顕正会の現状はお寒いばかりである。これで広宣流布が近いとは、よく言えるもんだなあと思う。

いずれにしても非顕正会員の医師が臨終の相に驚いて次々に入信するようになれば、それは相当のインパクトを持つことになるだろう。現時点では顕正会員が勝手に都合よく報告しているだけだと言われても仕方がないのだ。

電磁パルス攻撃

会長講演の内容は多岐にわたるが、今度は北朝鮮問題を取り上げよう。たぶん初出である。浅井先生は北朝鮮の脅威について、これまで繰り返し言及してきた。しかし、この電磁パルス云々の話は初めてだと思われる。こういう大きな大会の時には必ず目玉がある。本大会における目玉の一つがこれであろう。

 電気が止まればすべてが止まる。近代文明社会を石器時代に引き戻すほどの、致命的な打撃を与えるのが、この電磁パルス攻撃です。

この前後において、どのような被害が出るかを事細かに説明している。なるほど、確かに深刻である。
ただし、上掲を見てわたくしは浅井先生らしい誇張表現だと苦笑した。
すなわち、石器時代はオーバーだろう、江戸時代くらいが妥当じゃないか、ということなのである。

話を進めよう。

何にもできない木偶の坊、当事者能力のない者・・・

相変わらず過激な発言である。誰のことを言っているのかはあえて書かない。

 その時期については、党大会の以後に軍関係者が「二〇二〇年から二五年の間に」と明かしております。

これは中国の台湾侵攻についてである。面倒なので調べていないが、平成十六年の諫暁書では違うことを言っていたような気がする。

 大聖人様はこのとき、広宣流布をあそばあす。

 広宣流布はもう近い。

浅井先生の発言はワンパターンである。細かい時期だとかの数字が違っているだけで、言っている内容はすべて一緒なのだ。ようするに、前述の台湾侵攻が事実化すれば、その次のターゲットが日本であり、この他国侵逼の大難が迫る時、日本人はようやくにして大聖人の大慈大悲に気がつくというのだ。

わたくしの拙い私見を述べれば、台湾侵攻はひじょうに考え難い、少なくとも軍事的侵攻は難しいのではないか、と思う。ゆえに、もしあるとすれば平和的な併合だろう。具体的なシナリオはまったくわからないが、軍事的はあり得ないので、あるとすれば平和的という漠然とした考えである。つまり、この時点ですでにして浅井先生の見通しは間違っているというのがわたくしの意見であり、それゆえに上掲のような発言には説得力を感じないのである。

ともかく差し当たっては台湾侵攻があるかないか、であろう。そこでようやく広宣流布が近いかどうかを云々することができるのだと思う。

2018/3/4

モッテノホカ  
わたくしは原発反対派である。これについては過去にもたくさん書いてきたことなので、今さら改めて書くこともない。もうすぐ3.11がやってくる。時と共に風化しつつある問題ではあるものの、さすがのマスコミもこの時ばかりは話題にする。実際、廃炉作業は難航しており、いつ終わるともわからない。その周辺地域もまた、未だに帰宅できないところがあって、いわゆる原状回復は困難である。この現実に目を向ければ、再稼働などはモッテノホカのことだろう。全廃が筋である。

ぜんぜん関係ないことを書くと、わたくしはレバ刺しが好きである。大好物なのだ。ところが何年前だろうか、禁止になってしまった。これはどうかと思うところで、自己責任で食べれば問題ないはずである。ところが食肉店でも牛のレバーは売っていない。焼いて食べればいいものの、おそらくは生で食べてしまう人がいるので売らないのだろう。売ってはいけないというルールになっているのかもしれない。

これをもってこれを思うに、だったら原発も全面的に禁止にすればいいだろう。未だに原発が許されていることが、わたくしには理解できない。

広宣流布は終わっている。王仏冥合の段階である。

晃氏はわたくしに似て(?)ヘソマガリのところがあるので、ご覧のようなイミシンのことを書く。しかし、最近は昔のように詳しく書かないので、こちらとしても応じようがないところである。一般的には未だ広宣流布は達成されていないと考えるべきだろう。また、王仏冥合についても、必ずしも前後があるわけではないと思う。広宣流布と同時進行と考えてもいいし、過去の絶対王制の時代であれば王仏冥合が先ということにもなる。ゆえに広宣流布の次の段階が王仏冥合という固定的な考え方は疑問である。

いずれにしても、この議論をするためには言葉の定義から始めないといけないだろう。おそらく晃氏の言っている意味は言葉の定義からして異なるはずなので、そこを詰めて行かないと話が噛み合わないのだと思う。

広宣流布の定義、王仏冥合の定義、である。

広宣流布の定義はさておき、王仏冥合のほうはかつて創価学会が言っていた定義が話をややこしくしている意味がある。わたくしは単純に王とは天皇のことだと理解しているので、まったく紛れがない。現状、天皇が仏法に帰依しているとは言い難いので、王仏冥合は実現していないことになる。天皇が帰依すれば即王仏冥合なのだ。しかし、ご存知のごとく、天皇が自らの意志で仏法に帰依することは現在の政治体制の中ではほぼ不可能と考えられる。ここが最大の難所なのだ。ゆえに国民の大多数が仏法に帰依することが先決で、その後、天皇の帰依が実現するという順序になると考えるのが一般的である。

まあ、しかし、折伏もせずして能書きばかり垂れているようでは叱られるだけだろう。いわゆる机上の空論ないし口舌の徒ということだ。

さて、話を変えよう。

他宗の信徒だった人の臨終の相を見たことがあるのか、との質問が寄せられた。

まず、ここでも言葉の定義から詰めて行かないといけない意味がある。臨終とは死に際のことである。ゆえに納棺後の遺体は臨終の相に当てはまらないのかもしれない。いわゆる死に化粧が施されるという意味もあるので、納棺後の遺体を云々しても仕方がないのかもしれない。

そこでわたくしの拙い人生経験を述べれば、まさに死に際に立ち会ったのは一回だけであり、亡くなった直後、まだ身体に温もりが残っている段階が一回、納棺前が一回、都合三回くらいだろうか?

そうそう、思い出した。

心肺停止状態の人を搬送した経験がある。詳しいことは省くが、まったく面識のない人である。たまたまその場に居合わせて、そこが道路から相当に離れた場所だったので、そこで救急車が来るのを待っているよりは救急車が入ってこられる場所まで運んでおいたほうが一刻も早く病院に着けるはずだとの判断だろう。担架に乗せて運ぶのを手伝ったのである。
六人だったか八人だったか、両側に三人ないし四人ずつ付いて、担架を運んだのだった。人数が多かったので遺体の重さは感じなかった。ただ、そこで手伝うことになったのは、亡くなった人がわりと身体の大きい人だったので、重いと判断されたのだろう。それで自然の流れの中で手伝うことになったのだった。
今、遺体だの亡くなっただのと書いた。実はその時の様子がそうだったのだ。もう助からないと思われていたフシがあって、そこにいたメンバーは誰一人として救命措置を行なわなかった。心臓マッサージだとか人工呼吸のようなことは誰もしなかった。

つまり、一刻も早く病院に運ばなければという意識と同時に、もう助からないという矛盾した意識が混在していたわけである。

質問の主旨から大幅に脱線してしまったようである。

顕正会では邪宗の葬儀に出ないというルールがある。明文化されたルールではないが、ほぼそのような共通認識ができ上がっているのは事実だろう。しかし、わたくしは顕正会時代においても、他宗他門の葬儀にけっこう参列している。いわんや今はなおさらである。
そして先ほど書いたように、それらはすべて納棺後の死に化粧を施された遺体ばかりであり、これを比較検討の対象にしてよいものかどうかは疑問が残る。その上で、わたくしの率直な感想を言わせてもらえば、わからない、ということになる。
顕正会では臨終の相を重要視している。しかし、直前に書いたように彼らは邪宗の葬儀に出ないのだ。ということは遺体を見る機会を失しているわけで、それでどうして比較検討ができるのだろうかという素朴な疑問が生じてくる。

以上のような理由から、わたくし自身はわからないとしか言い様がないし、顕正会員たちの言っていることも客観性に乏しい。仮に彼らが邪宗の葬儀に出てそこで遺体を目撃したとしても、しょせんは主観に過ぎない。ゆえに客観的な比較検討とはとうてい言えないし、いつも言っているようにそこには必ず手前ミソの論理が働くことになる。この場合、平たく言えばヒイキメということである。

最後に付言しておくと、他宗の葬儀=他宗の信徒ということにはならないわけで、故人がその宗派の熱心な信徒だったというケースはひじょうに少ないのだ。その意味で、わたくしは念仏宗の強信者だとか、その他いわゆる邪宗と呼ばれるところの熱心な信者の臨終の相を見たことがないのである。もはやこうなると、なおさらわからないとしか言い様がないだろう。

2018/3/2

ネットザダンカイ  
顕正新聞第1429号の七面下段には、本部幹事・弁護士の藤村雄大氏が寄稿している。いや、寄稿は違うかもしれない。今や彼は本部幹事であり、顕正会専属の弁護士と考えられるので、外部の人間が投稿したわけではないのだ。ゆえに寄稿は正しい表現ではないだろう。では何が適切なのか、ちょっと思いつかない。

画期の伊方原発・運転差止判決
 「阿蘇山噴火リスク」を理由に
 火山大国・日本に原発は不適当


ともかく内容に入ろう。これが当該記事の見出しである。原発訴訟については立場によって評価が分かれる。今回の判決は原発反対派にとっては画期的なものである。顕正会は原発反対を唱えているので、そのように評価しているわけだ。

 ノンキャリ裁判長
    最後の大仕事


本文中の小見出しである。通常、原発裁判は推進派に有利な判決が下されると相場が決まっている。それは国のエネルギー政策が原発推進だからであり、三権分立が建前とは言うものの、さすがの裁判所もこの件に関しては弱腰にならざるを得ないようなのだ。

では、なぜに今回の裁判では運転差し止めの判決を出すことができたのか、である。

これについて藤村氏は明快な分析をしている。ぶっちゃけ言えば、定年退官の直前だったので出世のことを気にする必要がなかった、ということなのだ。これは本人にしてみれば不本意な分析かもしれないが、世間一般の尺度からしても頷けるところだろう。

そこでわたくしは言いたいのだ。

このところ藤村氏の活躍が目立つ。これ自体は大いに結構なことだが、問題はそのロジックである。当たり前ながらも彼はすべて顕正会に有利になるように尽力している。それが傍目には過剰に映る場合があるのだ。ようは手前ミソの論理に陥ってしまうことである。これはどれほど頭脳明晰な人であっても陥りやすい陥穽であり、彼自身が顕正会の熱心な活動家である以上は世間的にはその前提で、換言すればイロメガネで見られてしまうわけである。もちろんイロメガネで見るほうも問題だが、顕正会側にしても手前ミソの論理でガチガチに凝り固まってしまっているとすれば、どっちもどっちということになるだろう。

当該記事にはすでにその片鱗が見られる。

 そこに、一国の民意を動かす顕正会の戦いの重大さがある。

顕正会が民意を動かすだけの力を持って、原発全廃を実現すれば大いに結構なことである。大聖人の本国土を汚してなるものかという宗教次元からの原発反対も、なかなか迫力があって悪くはないだろう。ところがである。次のくだりはいかがなものだろうか?

世間の一時的な市民運動とは異なり・・・

これは既存の反原発運動家たちへの冒瀆である。

顕正会の中にも熱心な活動会員とそうでない人がいる。市民運動も同様であって、ブームに乗じてのニワカ活動家もいるし、付和雷同的にやっている人もいる。しかし、長年にわたって地道に活動している人もいるわけで、その人たちに対する敬意を忘れてはいけないだろう。

以上、結果的に苦言を呈する形になったが、藤村氏の活躍には今後とも期待したいところである。

さて、次のページをめくると、成人式の登壇記事が四つ並んでいる。毎年、恒例のごとく、男子女子二人ずつであり、いずれも立派な登壇である。そこで本年は少し角度を変えて紹介しよう。

 現在、父は男子部隊長、母は女子部総班長として、共に御奉公することが叶っており・・・

 また、今では共に新生・第二百四十九区の総班長として、励まし合いながら御奉公が叶いますこと・・・


これはどうなんだろうかと思った。比較が難しいので良し悪しは何とも言えないが、かつてはあり得ないことだった。ようするに父親は壮年部であり母親は婦人部が普通だったからである。この人たちの場合はうまく行っているから良いようなものの、うまく行かない場合も少なくないだろう。この点、本部首脳はどのように考えているのか、そこが気になるところである。

第九面の三つの記事のうち、二つを紹介しておこう。

 最後、支区部長も駆けつけて下さり、同志で葬儀を行ない・・・

婦人部千葉支区総班副長のご主人が亡くなって、同志で葬儀を行なったという話である。

形ではない・・・

後文にはご覧のような記述もあるので、儀礼室の人を呼ばなかったのだろうと思われる。

モンゴルで健気な信心、パン屋が繁盛
 夫が良き臨終、御金言どおりの相に涙


女子部第百五十九区班長のご主人が亡くなったそうである。モンゴルでの出来事だ。これまた葬儀のことが気になる記事だが、読む限りでは詳細不明である。

それはさておき、当該記事にはもう一つの注目点がある。

「体験発表」モンゴルネット座談会より

ネット座談会が斬新である。

どうせならば今後は総幹部会などをライブ配信したらどうかと提言しておきたい。広く一般にも公開する形にしてである。今ならば瞬時に視聴者数などもわかる仕組みになっているので、それが広宣流布のバロメータにもなるだろう。


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ