2018/7/1

ガクシャセンセイ  
本年も半分が終了した。この半年は拙ブログの存続が危ぶまれる状況にあった。しかし、直近のコメント欄を眺めると、半年前の状況に戻ってしまったかのようである。これを喜ぶべきか悲しむべきかは微妙なところだが、ともかく拙ブログはわたくしの独白を主体としているのでそうしたことに一喜一憂するのは間違いだろう。

https://plaza.rakuten.co.jp/sokakyougaku/diary/201602160000/
https://plaza.rakuten.co.jp/sokakyougaku/diary/201602230000/

沖浦氏が紹介してくれたページである。

教学理論は、大きく分けて「日蓮と日興が遺した理論」と「それ以降の法主たちが遺した理論」に大別することができますが、法主たちが遺した理論の中でも、第26世日寛の教学理論には、現在の教学の柱となったものが多数含まれています。

なるほど、これはうまい分類である。顕正会員と法華講員の議論においても、ようは戒壇論の議論においても、法華講員たちは〇〇上人がこう言っている△△上人がああ言っているみたいな感じで顕正会員を屈伏させようとするが、おそらくは対創価学会においても同様のことが行なわれているのだろう。

日主の時代に、武田勝頼の軍勢が大石寺や周辺地域に侵入し「二箇相承」を紛失するという事件が起こります。二箇相承とは、日蓮が日興に教団の後事を託した「身延相承書」「池上相承書」のことですが、これらの正本の紛失によって、日興門流が日蓮の正統であるという証明が失われました。

この部分はどうかと思った。何しろ御書全集にも二箇相承は掲載されているのだ。正本が失われたことはもちろん大きな痛手であるが、しかし、これによって相承の事実が失われたことになるわけではない。この点、学者先生にしては短絡的ではないかと思う。

さらに追い打ちをかけるように、日精の登座直前に大石寺で大火が発生して、ほとんどすべての堂宇を消失するという事件が起きています。この大火によって、それまでの大石寺の全貌はわからなくなってしまいました。現在の大石寺には、江戸中期以前の建造物は1棟も残っていません。

これも疑問である。大石寺には大聖人の御真蹟御書が多数存在する。堂宇は焼けたが御書は残ったのだろうか?

ちなみに前掲の事案を身延に当てはめると、明治の大火で開目抄などの重要御書が焼失してしまった。しかし、開目抄を疑う人は誰もいない。二箇相承も同じ理屈だと思うのだが、違うのだろうか?

現在では日興創建の大石寺の詳細が不明なため、ネットなどの一部の噂では、日興創建大石寺は別の場所に存在していた、とする主張も飛び出しています。

学者先生がこういう不確かな情報に飛びつく。一部のウワサとは断っているものの、どうかと思うところである。

二箇相承の抜けた穴を埋める理論の出発点がここに定まった・・・

これもどうかと思うところで、彼の言い様では日寛上人の教学理論は二箇相承抜きで組み立てられているかのように読めてしまうが、はたして事実はどうだろうか? もし上人の御筆記の中に二箇相承の引用がまったくないのであれば、ご説ごもっともとなる。さて、事実はどうかである。

さて、日寛教学の中には、上記のように存亡の危機に瀕した日蓮正宗を救うために構築した、法主絶対論のようななかば強引な理論も存在しますが、
「祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来たらざるなく、理として顕れざるなきなり」のように、格調高く「信」を鼓舞する優れた教えも多く存在します。
日寛のこのような「御本尊に題目を唱えることでどれほど幸せになれるか」を説いた文章は、教学理論として今後も採用してよい箇所だと言えるのでしょう。


ご都合主義の典型である。

格調高く「信」を鼓舞する優れた教え・・・

再掲であるが、日寛上人が仰せられているのは戒壇の大御本尊への信であり、まさに学者先生がおっしゃるごとく、格調高く信を鼓舞する御指南に他ならない。そして重要なことは、創価学会においても牧口・戸田時代から一貫して、戒壇の大御本尊への信を強調してきたわけなのだ。

それにもかかわらず都合の悪い部分を消去してイイトコドリするということなのだから、これはもう誰が見てもバレバレの悪事である。どれほどエライ学者先生が言おうが事実は変わらない。

また、日寛書写御本尊を創価学会が採用することと、日寛教学の「時代的制約を受ける箇所」を捨て去ることは全くの「別もの」であり、日寛教学の一部を捨てたからといって、日寛書写御本尊を採用することが矛盾しているわけではないことが確認できます。

正直、これがロジックとして正しいか否か、わたくしにはまったく判断できない。ただし、こういう場合は難しい理屈ではなく、一般人の平均的な感覚からしてどうかが重要だろう。何かヘン、ちょっと無理があるんじゃないの? と思う人が多ければ、先ほどのどれほどエライ学者先生云々が援用されることになるだろう。

余談ですが、日寛の存在と日寛教学は、大正〜昭和期に堀日亨上人が「富士宗学全集」で取り上げるまでは歴史に埋れて忘れ去られた存在でした。「富士宗学全集」以前の日蓮正宗では、中興の祖といえば第9世日有と17代日精のことを指したようです。
堀日亨上人が「富士宗学全集」で日寛の事績を再評価してからは(同時に日精が釈迦仏像を造立するなどの謗法法主であったことも宗学全集で再確認された)、中興の祖は日有と日寛に変わったようです。


この部分、余談とは断っているものの、どのような論拠によるのかが気になるところである。

顕正会の浅井によれば、六巻抄並びに御書文段は貫首直伝の秘書だった、在家はもちろんのこと僧侶であっても容易には閲覧の許されるものではなかった、ということらしい。これが事実であれば、学者先生の言う「歴史に埋れて忘れ去られた存在」はまったくの事実誤認となるだろう。

翻って冒頭の話に戻れば、歴代上人たちが後付け理論を構築してきたというのは頭ごなしに否定できないものの、さりとて話はそんなに単純なものではないと言っておきたい。ようするに日寛上人ほどの大学者が他宗他門との法論で通用しないような、そんなチャチな後付け理論を構築するわけがないのである。この点を軸に考える時、結局は創価学会そのものが今まさに後付け理論を構築して自己正当化を図っているという現実が浮かび上がってくるわけなのだ。


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