2018/7/7

ハヤトチリ  
なりた氏はありがたい存在である。リンク先をよく読んだ上で、わたくしと沖浦氏に対して疑問を投げ掛けているわけだ。

すでに明らかなごとく、先方のページは創価学会員のたなか12345氏が立ち上げた個人のブログであり、冒頭には創価学会の公式見解ではないとの断り書きまで掲げているくらいである。ようはいつもの沖浦氏らしい早とちりに、わたくしが同乗した格好になる。とは言え、基本的には創価学会の教学を踏襲するものであり、その御用学者的存在が宮田教授なのだろう。ゆえに彼も宮田教授の言説を多く採用しているわけであって、沖浦氏が間違えるのも頷けるところではあるのだ。

ちなみにわたくしは面倒臭がり屋なので、前回はとりあえず紹介ページの文面のみをあげつらった。ガクシャセンセイはイヤミを込めた表現だったわけだが、ようは相手が誰であれ、自分の意見は変わらないつもりである。

 御書に二箇相承が載っている件ですが、次の改定で外れると思います。

いわゆる御書全集は日享上人が編纂されたものであるから、上人の許可がなければ変えることはできない。ゆえに沖浦氏の言う通りならば、新たな御書全集を発刊することになる。そしてもしそこに二箇相承がなければ、その時こそ脱日蓮正宗の完結ということになるのだろう。

はたしてそれでいいのだろうか?

 曽存の件ですが、開目抄は書写も沢山あって、内容に異なりがありませんし、明治まで残っていました。
 具体的には、日乾が1604年(慶長9年)に書写した真跡対交本が京都の本満寺に現存しております。


主師親の三徳を高らかに謳っている結文の問題を見落としているのではあるまいか?

日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり・・・

日乾の真跡対校本がどのようになっているのか知らないが、他門では「しうし」を「したし」と表記している。これも注目だろう。はたして創価学会版の御書でこの部分をどうするかである。もし「したし」を採用すれば、これもまた脱日蓮正宗の進捗を意味することになるだろう。

 対して二箇相承は写本と言われるものがあちこちにありますが、内容に統一性がなく、真筆(私はこの呼称を用います)対交本はありません。

これはよく指摘されている問題であるが、わたくしごときが云々できることではないので、割愛させていただこう。ただ一言、対校本ではなく臨写本と言われているものがいくつか残されているようである。

 ですので、貴方のご主張はイスラム国と同じく原理主義に過ぎません。

途中を大幅に省略して結論部分だけを引用した。さすがにイスラム国と同じは言い過ぎだろう。そもそも原理主義とは何かが問題であるが、大聖人の教えに忠実であろうとする姿勢を原理主義と呼ぶならばそれは大いに結構なことである。創価学会は教義の改変を繰り返しているが、そんなことをしているうちに大聖人の仏法とはまるで別のヘンテコリンな宗教になってしまうかもしれない。むしろその心配をしたほうがいいのではないかと思う。

 御書には

 『法華宗の心は一念三千性悪性善妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり、』
 (治病大小権実違目)

 色々と読み方があると思いますが、私はこの元品無明とは、祈りが叶う事を信じることが出来ない自分自身と捉えます。


いろいろと読み方があると断わっているので問題はないだろう。ようするに原意を十分に理解した上で応用的に解釈することは悪いことではない。

 『譬えば頭をふればかみゆるぐ心はたらけば身うごく、大風吹けば草木しづかならず大地うごけば大海さはがし、教主釈尊をうごかし奉ればゆるがぬ草木やあるべきさわがぬ水やあるべき。』
 (日眼女造立釈迦仏供養事)

 この教主釈尊は、自分自身の命の事。


しかし、この引用はいい度胸しているとしか言い様がない。題名が示すごとく、これは釈迦仏造立を肯定する御書なのだ。その原意を無視して、ここでの釈尊は自分の命のことである、などと解釈したところでムナシイ限りである。

そもそも沖浦氏は曼荼羅道具論者だった。ここから話を発展させれば、あるいは曼荼羅でも仏像でもどちらでもいいという考え方なのかもしれない。なぜならば道具だからである。

いちおう、それはそれで整合性があるのかもしれない。

しかし、もはやそうなると創価学会のこれまでの歴史は何だったのか、ということになるわけで、これはもう単なる脱日蓮正宗ではなく、実は脱創価学会なのではないか、ということにもなりかねないだろう。よく言えば脱皮であり、専門的には発迹顕本を意味するのだろう。しかし、ハタから見れば、変節に変節を繰り返した挙句、わけのわからない宗教になってしまった、ということになると思う。

もちろん創価学会の首脳部だって馬鹿ではないので、ガクシャセンセイのお知恵を拝借しつつ方向性を決めているのだろう。しかし、そもそも宗教はコロコロと教義が改変されること自体がおかしなことであり、必ず過去との不整合を指摘されることになる。それをその都度、釈明しないといけないわけだから、実にご苦労な話である。

思えば顕正会も過去との不整合が目立つようになってきた。一貫不変をウリにしてきた顕正会にとっては、すでにしてそれ自体が致命的であり、事実、会員の流失もなかなか歯止めが掛からないようである。


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