2018/7/17

アキレギミ  
先般、西日本各地において大水害が発生し、多くの人たちが亡くなった。片やわたくしの住む地方では六月中に梅雨明け宣言が出るほどで、その後は連日の猛暑に苦しめられている有り様である。そんなわけで、普段からボーッとしているわたくしの頭が、暑さにやられて今まで以上にボーッとしている状態である。

その間隙を襲うかのごとく、沖浦氏の猛攻が続いている。

わたくしの思うに、沖浦氏は曼荼羅正意論について態度を明確にすべきだろう。日眼女への御指南をそこまで重視するならば、当然の帰結として仏像肯定の立場を取らざるを得ないはずである。さすがに今の創価学会の公式見解ではそこまで踏み込んではいないと思うのだが、いかがだろうか?

そして今度は仏像開眼の問題にぶち当たることになる。

日蓮正宗では曼荼羅正意の立場から、例の木絵二像の御指南は一般的な仏像開眼の事例を取りつつも元意においては曼荼羅御本尊の開眼を御指南あそばされているのだと解釈しているが、沖浦氏の場合はそのまま仏像の開眼だと理解することになるだろう。さて、その場合、何の仏像を立てるのか、そして誰が開眼をするのか、というような問題が発生してくると思われる。

さて、どうするつもりだろうか?

 『其の上仏教已前は漢土の道士月支の外道儒教四韋陀等を以て縁と為して正見に入る者之れ有り、』
 (如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

 外道においても南無妙法蓮華経を悟る人がいたとあるでしょう。


この点は大沢氏が触れているように、すでに数年前に決着済みである。大沢氏は半ばアキレ気味であり、マトモに相手にする気にもならないらしいが、わたくしはキッチリと破折して差し上げようと思う。

外道が南無妙法蓮華経を悟る?

ようするに正見とは南無妙法蓮華経のことであると、このように解釈しているわけなのだろう。沖浦氏らしからぬオオボケである。

しかれども外道の法九十五種、善悪につけて一人も生死をはなれず。

開目抄の御指南である。沖浦氏は本尊抄を引用して前掲のごとく言っているわけだが、開目抄にはまったく相矛盾する御指南が存在する。とは言え、佐渡期における重要法門書の二書が矛盾するわけがないのだ。つまり、沖浦氏の解釈が間違っていると考えるのが妥当である。

この明快な理由は同じく佐渡期の小乗大乗分別抄に説かれている。

 夫小大定めなし。一寸の物を一尺の物に対しては小と云ひ、五尺の男に対しては六尺・七尺の男を大の男と云ふ。外道の法に対しては一切の大小の仏教を皆大乗と云ふ。

つまり、広義・狭義、あるいは総別の二義という、こうした捉え方の違いによって意味が変わってくるわけである。ゆえに正見を究極的には南無妙法蓮華経のことであると捉えるのは間違いではないが、ここでは八正道の一つと捉えるくらいが妥当なところだろう。

一切世間の外道の経書は皆是仏説にして外道の説に非ず

涅槃経である。これも沖浦流の解釈からすれば、だから何を信仰してもいいのだ、ということになりそうである。しかし、だったら大聖人の御化導は何だったのか、ということになるだろう。諸宗を破折する必要など、まったくなかったことになるのだ。

さて、今日も暑いので簡単に終わらせたいところだが、今朝も沖浦氏からコメントが寄せられているので取り上げておこう。

 ご本尊が法華経である。

法華講員たちの発言だそうである。しかし、これはいったいどのようなシチュエーションでの発言なのかが問題だろう。沖浦氏は自分の都合に合わせて引用しているに過ぎない。ゆえに法華講員たちにしてみれば迷惑な話なのである。

大聖人の御書は権実相対が主軸となっている。基本的には当時の念仏や禅などとの比較相対を表にしているわけだ。もちろん深奥には本迹相対があり種脱相対がある。しかし、一般の信徒に対しては平易を心掛けられたという意味もあって、そこまで立ち入った法門の開示はあそばしていない場合がほとんどである。

ゆえに大聖人が、念仏や禅ではなく法華経を信仰しなさい、と御指南あそばされているのをそのまま字句どおり受け取って今も法華経を信仰しているとすれば、それは違うのではないかということなのだ。

おそらく法華講員たちの言っている意味はそういうことなのだろう。

ゆえに御書に出てくる法華経云々は元意においては御本尊のことであり、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることが正しい仏道修行なのであると、おおむねこのような意味を言っているのだと思う。

それを沖浦氏は知ってか知らずか、ともかく自分に都合よく引用して、もっともらしい説を展開する。なるほど、法華講員たちがウンザリするのも頷けるところである。


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ