2018/8/10

シジュウクイン  
沖浦氏が本を出版するらしい。どんな本が出来するか、楽しみにしたい。

セロリ氏より懇切なコメントを頂戴した。

まず、顕正会シンドロームについて申し上げれば、おそらくハタから見て、巌虎はいつまで経っても顕正会から抜け出せずにいる、というような観察がなされているのだと思う。組織は離脱しても、思考であるとか行動がいかにも顕正会チックである、ということなのだろう。ところがどっこい、今は顕正会員からも嫌われる立場であり、どこにも行く当てがない、いわば流浪の身なのである。

セロリ氏がどのような意図でシンドロームという言葉を使ったのかは不明だが、わたくしがとっさに感じたのは上述のようなことどもである。

さて、本題である。

四十九院申状について、顕正会では御書と見なしているようなのだが、どうやら現宗門は違う見解のようである。ただし、これについて議論が行なわれた様子はなく、わたくし自身もよくわからないので意見を募ったところ、セロリ氏がコメントを寄せて下さったわけである。

まず、問題を整理しよう。

御書全集には収録されているが、平成新編には収録されていない。当然、平成新編のほうが後から出版されているので、最新の研究が織り込まれていると考えていいのだろう。

ところがである。

収録(宗内既刊御書との対比)

平成新編では巻頭に日顕上人の格調高き御言葉を掲載し、その次に例言を長々と載せている。別の言葉に直すと、凡例などと呼ばれるものであるが、上掲はその中の一段である。

つまり、この中で全集には収録されていないが平成新編において新たに収録した御書や、逆に全集には収録されているけれどもさまざまの理由から平成新編には収録しなかった御書など、けっこう事細かに説明しているわけである。

そうした中で、唯一の脱漏というべきか、四十九院申状のことについてはまったくの言及がない。ゆえにわたくしは過去にもこの問題を取り上げ、宗門側の見解を問い質しているのだが、今のところ明快な答えをいただいていないので、今回も同様の問いを発したわけなのである。

そして失礼ながら、セロリ氏の回答もわたくしの納得を得られるものではなく、この件に関してはまったく前進していないというのが正直なところだろうと思う。

代作御書

大聖人の御晩年には日朗が代筆したり、日興上人が代筆せられた御書が存在する。そしてその逆のパターンもある。有名なのは滝泉寺申状であり、他にも頼基陳状や下山御消息などがある。これらを代作御書と呼ぶとしよう。

だったら四十九院申状も代作御書の一つだと考えて差し支えないのではないか?

むしろ違うのであれば、それを積極的に証明しなければいけない。先ほども紹介したように、平成新編ではその説明をまったくしていないのである。そこが問題である。

日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使ひ、上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、五五百歳の大導師にて御坐候・・・

頼基陳状の一節である。日蓮本仏論を唱える正宗系の人たちからするとそれほど衝撃的な内容ではないのかもしれないが、実は物凄く大胆な御指南なのである。大聖人は御謙遜あそばす場合が多く、一般的な御書ではここまで大胆なことはおっしゃられない。

教主釈尊より大事なる行者・・・

下山御消息である。御謙遜が常の大聖人にしては大胆きわまる御発言と申し上げる以外にないだろう。

法主聖人・・・

滝泉寺申状の一節にはご覧のような表現がある。一見、何のことだかわからないようだが、御相伝書における「仏は熟脱の教主、某は下種の法主なり」と併せて拝するならば、事の重大さがわかるだろう。

第三の秘法・・・

四十九院申状の中でもっとも注目すべき御文かもしれない。既出の三つの御書が人に約して説かれているのに対し、当該御書は法に約して説かれている。その違いはあるものの、いずれも耳目驚動の御指南であることに変わりはないだろう。

以上がわたくしの現時点での結論である。

結果として顕正会寄りの意見になってしまったが、それはあくまで結果に過ぎない。わたくしはわたくし独自の判断で考えを述べているのであって、顕正会の擁護などサラサラするつもりはない。それは言わずもがなことである。


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