2018/10/23

クドクガナイ  
以下、八月度総幹部会における会長講演を抜粋する。

 日本国の犯した仏法上の最大の罪は、七百年前に、大慈大悲の御本仏・日蓮大聖人の御頸を刎ね奉ったことであります。

・・・当時の日本国は、法華経第五の巻で頭を打つ等の狼藉ののち、恐れ多くも竜の口で御頸を刎ね奉った。この大禍(大いなる禍)は、現当二世にのがれがたし――と仰せ下されている。


ここまでは御文に沿った解釈である。問題はこの続きの文章である。

 この「現当二世」には、二つの意味がある。
 一つには、個人に約す。すなわち御頸を刎ね奉った平左衛門が、現世には謀叛の罪を疑われ自邸において誅殺され、御生には無間地獄に堕ちたこと。これが個人に約した現当二世であります。
 もう一つは、国家に約す。すなわち、御在世の日本は「現」であり、未来広宣流布前夜の日本は「当」にあたる。


はたしてこの解釈は正当なのだろうか?

 しかるに日本国は一分の改悔もなく・・・

わたくしの思うに、ここがもっとも受け入れ難いところである。何しろ我々には自覚がない。もし仮に自分の先祖が大聖人に敵対する側だったとしても、自分自身がその責任を負う必要があるのかどうか、そこが甚だ疑問なのである。

おそらく日蓮系の教団は星の数ほど存在するだろうが、このような主張をしているのは顕正会だけなのではないかと思う。

これを顕正会の独自性・オリジナリティと言えば聞こえはいい。ただ、これでは世間の支持はまったく得られないはずで、今のように熱心に折伏を続けていればいちおう数的には伸びるものの、いつまで経っても実数は増えないのではないか、ようはメジャーにはなり得ないのではないか、というのがわたくしの観察である。

むしろ報恩抄の次の御文をよく拝するべきである。わたくしの記憶が正しければ、平成九年の一国諫暁の頃は浅井先生もよくこれを引用していたはずである。

謗法はあれどもあらわす人なければ国もをだやかなるににたり。

ところがである。浅井先生が予言めいたことを言うと悉く外れるのだ。つまりは浅井先生のシナリオ通りには事が運ばない。

これを言い換えると、現証が伴なわない、ということになる。

これをどのように説明するのかが難しいところで、一つには顕正会そのものが邪教だからということになるだろう。顕正会が謗法なのだ。謗法が謗法をあらわす? わらわすなよ、という話である。ゆえに顕正会が自らの非を認めて仕切り直しをするならば、そこでようやく現証が伴なってくるのかもしれない。まさに本気度が問われている。今のままダラダラとやっているようでは何も変わらないということだ。

話を戻して、現代人に対して七百年前の大罪がどうのこうのと言ったところで、どうにもならない。むしろ現時点における問題を直視するべきであって、創価学会の極限の大謗法が国を危うくすると思うのならば、それをとことん追求すればいいのである。神の国云々もしかりである。

ただし、たぶん浅井先生も承知はしていると思うのだが、国家レベルの話ではなく個人レベルの話のほうが実は強いのである。ようは人々にとっては自分の幸福が最大の関心事であるからして、そうした方向性の功徳の体験などが弘通のカギを握っているわけである。

実際、創価学会の折伏大行進時代はそうした個人の幸福にスポットが強く当たっていたわけであり、下世話な話のようだがきわめて俗的な御利益を求めて多くの人が入信してきたという現実がある。

結論めいたことを書こう。

いちおう当時の創価学会は日蓮正宗の信仰を真面目に実践していたわけであり、それゆえに多くの人が功徳をいただいていたわけである。翻って顕正会はどうかであるが、今の顕正会は正しい信仰をしているとは言えない、よって功徳がない、だから伸び悩んでいる、となるだろう。

話が脱線してしまったような感じだが、思いつくままに書いたのでご容赦願いたい。

2018/10/22

ハナハダ  
会長講演からもう一つだけ引用しておこう。

 バカな経済学者は「孫・子の代にそれを見せてはいけない」などと言っているが、「孫・子の代」ではない、それはもう直前に迫っているのです。日銀が持ちこたえられなくなったら、そのとき国家破産が起こるのです。

凄いことを言っている。経済学者もさまざまで、楽観論を唱える人もいれば悲観論の人もいる。そうした中で、上掲の孫・子の代の心配をしている学者は、大枠で見れば浅井先生と同じ立場を取っているはずなのである。それを先生はバカな経済学者と言っている。すると楽観論者に対してはどのように表現するつもりだろうか?

期を画する大人事

四面下段には隊長・区長・支区部長たちの顔写真がたくさん載っている。上掲のごとく、文字通りの大人事である。その中でわたくしは男子部第三十八隊長に注目した。彼は少し前まで総副男子部長だった。その意味ではずいぶんと降格したものだと思うが、あるいは何か病気を患っていたのかもしれない。写真の様子からして、何となくそんな感じがするのだ。

さて、次は第十八男子部長の登壇である。

思うに細井日達に敬称を用いないことは、池田大作・阿部日顕とは次元が違うご決断と拝するものであり・・・

最近の顕正会では、あたかも解散処分直後から細井日達と呼び捨てにしていたごとくに語られているが、それは完全なる捏造である。この登壇者だってそんなことは百も承知のはずなのだ。まずはこの点から正さなければならない。

それにしても上掲は何を意味するのだろうか?

思うところは多々あるが、ここでは語らないことにしたい。妙信講に同情すべき点があるのも事実であり、やはり宗門側に非があったことは否めない。ただ、それとこれとは別である。すなわち近年に至って、御法主上人を呼び捨てにする挙に出た。これはこれで顕正会側の非なのである。

次は第十三隊総支隊長の発言である。

御遺命守護の御奉公を完結され・・・

この若き俊秀は御遺命守護完結をリアルタイムでは知らない。しかし、彼の思考力をもってすれば、容易に理解できる話のはずである。ようするに御遺命守護は完結していない。ゆえに今もなお宗門への復帰が叶わないのである。この点をもっと真剣に考えるべきだろう。

極道の妻「三度の飯より喧嘩」の40年
前科12犯@慕渇仰で心法が穏やかに


顕正会も人材が豊富である。ご覧のような経歴の人もいる。それにしても入信勤行の帰りに宝くじを買って十万円が当たったなどと総幹部会の場で発表させてよいものか、甚だ疑問である。

2018/10/21

アシバヤ  
顕正新聞第1451号には次のようなタイトルが付いている。

「三百万前進開始」特集号

当該号は八月度総幹部会の模様を伝えているわけだが、さっそく会長講演を見ていくことにしよう。

御遺命成就の戦いは、いよいよこれから始まるのであります。

前法戦で二百万を達成した。そして当該号のタイトルにもあるごとく、いよいよ三百万に向けた戦いが開始された。その三百万と御遺命成就の戦いがイコールであると言わんばかりであるが、はたしてそうだろうか?

それ以前に、いよいよこれから始まる、などと言われても本音ではウンザリしている会員が少なくないのではないかと思う。もう十年、いや二十年になるだろうか、この間ずっと最終段階の戦いがどうのこうのと言い続けてきたわけである。それでいながら、これからが本番なのだ、というようなニュアンスのことを言われても、だったら今までは何だったのか、と思わざるを得ないところである。

 顧みれば、顕正会発足より最初の百万は四六年もかかった。しかし百万から二百万まではわずか一五年です。

わたくしは数字に弱いので直接的な反証が思い浮かばない。ただ直感的に、これは数字のマジックのようなものであり、必ずどこかに欺瞞があるはずだ、と思っている。

 さあ、いよいよ本日より、三百万への前進開始であります。

前にも触れたと思うが、ここに馬脚があらわれていると思う。会長講演ではここで九・十・十一月法戦の誓願を打ち出している。三万人だそうである。それはもちろん短期的目標なので問題はない。では中長期目標はどうなのかである。

結局、三百万をいつまでに達成するか、まったく明言していないのである。

 郡山新本館御入仏式において、原発の安全システムの点検及び管理に携わっている男子部の・・・

折しも前回の拙稿で取り上げた話題である。なんと浅井先生は例のズサンな内容をそのまま鵜呑みにして発表してしまっているのだ。何をやっておるものかと思う。

だからいま、日本列島の全原発は停止したままになっている。

もはや終わっているとしか言い様がない。

わたくし自身、原発問題に精通しているわけではないし、四六時中、情報収集しているわけでもない。それでも安倍政権になって徐々に原発利権が巻き返しつつあることは感じており、すでに数基の原発が運転を再開していることはニュースなどで見知っていた。つまり、上掲は完全なる事実誤認である。

 昨年2月、安倍首相はトランプ大統領と初の首脳会談を行なったが、その日の朝食会に、カジノ企業のトップ三人が出席していた。

不勉強のわたくしはこれをまったく知らなかった。ようするに先般可決されたカジノ法案はアメリカ側の言いなりで作られた法案だという話なのだ。これが事実ならばとんでもないことだろう。まさに悪政である。

「現当二世」の二意

これは純粋に教学上の問題である。浅井先生のこの二意には先例があるのかどうか、そこが気になるところである。ようは先師上人の中でこのような解釈をあそばしている方がいらっしゃるのかどうかである。

普通の人間の感覚からすると、今さらそれを言われてもなあ、という感じなのではないかと思う。

2018/10/17

ムベナルカナ  
S@法華講氏はわたくしの想像を間違いであると言っている。しかし、たとえ施錠云々がその通りだとしても謗法者を近づけたくないという心理が働いて当然とも思えるのだが、いかがだろうか?

一般的な寺院はたいてい境内への出入りが自由にできる。かつてのわたくしは決して他宗の神社仏閣には近づかなかったが、今では散歩がてら通り抜けることがある。大きな寺社になると四方八方に出入り口があって、それがわりと近道だったりすることがあるのだ。しかし、当然ながら堂宇の中には勝手に入れない。ご自由にどうぞというところもあるだろうが、基本的には建物の中には入れないはずである。

大石寺も基本的には同じではないかと思う。ただし、一般的な寺院の場合は防犯上の理由からと考えられるが、大石寺の場合は特殊な事情がある。それが謗法者云々なのである。もちろん最終的には謗法者も救っていかなければいけない。しかし、戒壇の大御本尊の近くには謗法者を近づけたくない。前回の拙稿はそうした背景を踏まえて書いたわけである。

さて、顕正新聞の続きである。

第三男子部長の肩書きが気になった。この人は副総男子部長だったはずだが、降格になったのだろうか?

 解散処分より四四年目の本日・・・

なかなか斬新な視点である。郡山会館に新しい本館が完成して入仏式が行なわれた。その日が解散処分から数えて四十四年目なのだそうである。

大師子吼・・・

あらまあ、まだ言っているの? 第二十二婦人部長も同じことを言っている。困った人たちだ。

大聖人様が、全人類成仏のための大法を守り奉る義務と大任を果される先生を、七百年の時を越えて召し出だされ・・・

第二十二婦人部長の記事にはご覧のようなくだりがある。その上で大師子吼が登場するのだ。話が複雑でわかり難いが、かなり危ない表現のように思える。ようは会長本仏論的な発言なのである。

創価学会歴四十八年の男性が本年六月に顕正会へ入会した。その記事から引用しよう。

始めて拝聴した浅井先生のご講演は・・・

初めて本部会館に参詣いたしましたが・・・

いつも指摘していることである。始めてと初めての使い分けにどれほどの意味があるのだろうか?

これは浅井先生に公開質問状を出したいくらいである。

次の男子部第六十四隊長の記事もよくない。彼は平成十八年に顕正会に入会したわけだが、それまでの二十年間を創価学会員として過ごしたそうである。男子部の隊長ということは顕正会歴十年ちょっとでそこまで上ってきたわけなのだろう。

学会の任用試験に合格すると、知らないうちに班長になっておりました。

創価学会の役職には不案内であるが、班長の呼称は違うのではあるまいか?

また、顕正会に入会後の話として、山形県鶴岡市の宗門末寺「宝樹院」の住職と法論したことが書かれている。

 この末寺は、私が学会時代に「御授戒」を受けた寺で、当時は五千円の料金を支払ったことを記憶しております。

料金はおかしいだろう。世間一般の表現としてはあり得るものの、日蓮正宗の中ではそのような言い方をする人はいないのではあるまいか? それともわりと普通に使われているのだろうか?

基本、顕正会では無料を謳っている。彼はすでに隊長という役職をいただいているほどの熱心な顕正会員である。その上で想像するならば、彼は悪意を込めて料金などと書いたのかもしれない。

 導師席には僧侶がいましたが、勤行の声は明らかに録音した音声を流しており・・・

再び創価学会時代の話に戻る。今はかなり事情が異なるものの、彼はギリギリで大石寺への参詣を経験している。上掲は丑寅勤行の話のようだが、はたして本当だろうか?

 その翌日、正本堂を見学しましたが・・・

見学? 見学ができるのだろうか?

もはや悪意の塊のような登壇記事である。冒頭の話にも通ずるごとく、謗法者を近づけないのが日蓮正宗のシキタリである。こう書くと正本堂の完工式のことをあげつらうかもしれないが、それは例外と考えるべきだろう。正本堂は一般の観光寺院が行なっているような拝観が許される道理もなく、あくまで篤信者への御内拝が行なわれているわけである。

その意味では当時の彼の置かれていた状況からして、創価学会の教育が悪かったと考えるのが自然である。その数年後に宗門との関係が壊れることからしても、すでにその萌芽をここに見るべきなのだろう。

彼は平成十八年に顕正会に入会した。これもまた象徴的な話であって、ようは創価学会の中で宗門の悪口をたくさん聞かされてきたわけである。そして顕正会に入会後もしかりである。創価学会とは切り口が異なるものの、顕正会のそれも宗門に対する悪口に他ならないわけだ。すると都合三十年近くも宗門の悪口を聞いてきて、すっかりそれに馴染んでしまっているわけなのだろう。

以上、悪意の塊みたいな記事が書けるのもムベナルカナである。

危機一髪だった
 「水蒸気爆発」!!


男子部第三十六隊班長の記事はやや疑問である。福島第一原発の事故について書いているわけだが、事実と相違するのはないかと思う。

 溶けた核燃料が圧力容器の底の水と接触することで発生する「水蒸気爆発」が起これば・・・

日本は壊滅していたという。

 実際、溶けた燃料棒は原子炉を突き破り、溜まっていた水まで、鉄板一枚を挟んだギリギリのところまで到達しており・・・

ようはギリギリセーフだったと言っているわけだ。

わたくしも専門家ではないので間違っているかもしれないが、しょせん浅井先生以下顕正会の幹部たちも付け焼刃の知識しかないわけなのだろう。

わたくしのいわく、圧力容器=原子炉ではないのか、と。だとすれば上掲は矛盾した話である。登壇者は原発関連の仕事に就いているそうだが、それにしてもどうかと思う。

簡単に説明すると、まず圧力容器は水で満たされている、その中に燃料棒がある、もし万一にも水がなくなると空焚き状態になる、すると燃料棒が制御できなくなって高熱を発する、それがやがて溶け落ちて下部に残っている水と接触すると大爆発を起こす、というシナリオである。しかし、水蒸気爆発は起きなかった。

ちなみに今も動画サイトで確認できるはずだが、水素爆発が一号機と三号機で起きている。そして二号機も含めて三つの原子炉でメルトダウンが起こった。さらに四号機も崩壊してしまった。

すでにこの時点で人類史上最悪の原発事故と考えるべきなのである。

やはり人間とは愚かなものなのだろう。あれほどの大事故を経験しておきながら時間と共に忘れ去られようとしている。今回の登壇記事は方向性こそ原発批判になっているものの、かなりズサンな内容のように感じられる。つまり、顕正会の中でも風化が起こっているのだ。

 登用試験を受験した翌週より・・・

高校受験においても・・・


最後は男子部第八十九隊組長の記事である。これは難病を克服した体験であり、そのこと自体をとやかく言うつもりはない。ただ上掲を見れば誰もが容易に想像できることがある。ようは中学生が登用試験を受けたのだ。

まあ、大した問題ではないのは事実だろう。だが、しかし、すると本人が希望すれば小学生でも受験できるのか、幼稚園児はどうか、というような線引きの問題が生じてくる。その意味ではやはり問題なのだろう。

2018/10/14

カケアシ  
沖浦氏は早起きである。今朝は五時前に投稿している。かく言うわたくしも今朝は七時前から書き始めている。九時前には公開することになるだろう。

顕正新聞第1450号は郡山新本館の入仏式を報じている。その時の会長講演が二面から四面にかけて掲載されているので、今日はそれを取り上げたい。

羅什三蔵は、釈尊が霊鷲山において法華経を説法したときに聴聞していた諸菩薩の中の一人であった。ゆえに間違いがないのです。

この前後のくだりはひじょうに興味深いところだが、そもそも上掲は何を根拠に言っているのだろうか? 諸菩薩の一人であるとすると、具体的には何菩薩だったのだろうか?

不勉強ゆえか、わたくしには思い当たらない。

 「御扉が開かないので、きょうの御開扉はやめます。御開扉料は返します」などと、芝居小屋のオヤジみたいなことを言った(笑)。

これは平成十七年十一月七日の出来事だそうである。

顕正会ではこの前年の秋ごろから宗門攻撃を激化させ、挙句の果てには日顕上人へ対決を申し入れる挙に出た。そして上掲の出来事があって、その翌月十五日、日顕上人は退座されるのである。確か創価学会あたりが言っていて顕正会もマネをしたのだと思うが、上人の御退座について、当時、逃座などと揶揄していた。

御開扉の件は、遠路はるばる参詣された人たちにとっては残念な結果であるものの、それで永遠に御開扉ができなくなったわけではないのだから、レアな体験という意味では良き思い出だろう。これを顕正会では因縁めいた話に仕立て上げているが、しょせん機械は壊れるものである。ゆえに何の不思議もない。その意味では日常の保守点検に問題があったのだろうと想像される。

想像を逞しくすれば、戒壇の大御本尊は秘仏にてましますゆえに外部の業者に保守点検を委託することをしなかった、おそらくは機械オンチであろう僧侶たちが保守点検を行なっていた、というような背景があったのかもしれない。

 貫首の権威は絶対ですよ。なぜ絶対か。御相承を頂いているからです。私たちには口出しもできないことになっている。

自爆発言である。ならばなぜに御相承の断絶を言ったのかである。この自己矛盾をどのように説明するつもりだろうか?

 顕正会は何百万になっても、世俗の名利は求めない、権力は求めない。右翼でもなければ左翼でもない。

あえてイヤミを言えば、その何百万とやらがマヤカシの数字だから求めようにも求められないわけなのだろう。ようするに名目数ではなく実数であれば大変な実力組織と見なされるわけであり、文字通りの不求自得となるはずなのだ。

また、右翼左翼云々は顕正会ウォッチャーたちの目を気にしてのことかもしれない。

何度も書いているような気がするが、かつての浅井先生は右寄りの印象が強かった。ところがである。原発問題に傾注するようになってからは左寄りの印象が強くなったと見られているのだ。

ただ、これもどこかで書いたことのように思うのだが、浅井先生は常に反権力であり、今の安倍政権に対してもかなり激烈な批判を展開している。一般的にも安倍政権は極右政権だと見られているわけで、そうするとその反対の立場を取れば必然的に左翼と見られてしまうことになるだろう。

いずれにしても、右だろうが左だろうが本人はドマンナカだと思っている場合が多く、これを中道と呼ぶわけなのだろう。

ついでにご存知の人がいればご教示願いたいのだが、この中道は公明党が盛んに言っていていつの間にか他の政党などでも使うようになったものなのか、それとも以前から政治用語として存在していたものなのか、はたしてどちらなのだろうか?

 遥拝勤行においては、三具足すなわち、お水・燭台・お樒は省略していいです。

これは間違いである。すでに法華講員のブログなどで指摘されているのだが、その後、顕正会では訂正を行なったのだろうか?

ちなみに「南無日蓮大聖人」の九十三ページには厳かな写真が掲載されており、次のような説明が付けられている。

大聖人が祈雨に用いられた三具足(大石寺蔵)

一般的な呼称を用いれば左から順に、花立・香炉・燭台、となるだろうか?

話を戻して、会長講演では経机のことを云々するくだりで三具足の話が出てきた。ようは経机の推進である。

 経机は仏具屋で買うとたいへん高い。顕正会で作らせた経机がある。一つ八千円だそうです。

これも法華講員のブログなどで批判が上がっていたと思う。八千円は高いと。

わたくしはまったく別の角度から言いたいと思う。高いとか安いとか言っていること自体がナンセンスであると。むしろ謗法に厳格な顕正会ならば、一般の仏具屋さんで購入するのはイヤでしょう、だから顕正会専用のを作りました、それを使いましょう、というような説明が相応しいのではと思う。一般人の感覚でも縁起物にはカネを惜しまない。こういう考え方があるわけだから、高い安いを言っているのがどうかしているのである。

 やがて三百万、五百万、一千万、六千万の人々が、直接、戒壇の大御本尊様に向かい、南無妙法蓮華経と唱え奉るようになる。

実にイミシンだ。直接の語が何を意味するのか、そこが問題である。

真面目な経済学者はみな、オリンピック前後と言っております。

例の国家破産の話だ。経済学者の意見を借りてはいるものの、これは浅井先生の予言と見なしていいだろう。

 もう、入信勤行が間に合わない、そのような儀式をしている暇がない。

いよいよ広宣流布に加速度が付いてきて入信勤行が間に合わなくなるとの予言である。

ここにはじゃっかんの欺瞞が隠されている。近年、会館建設構想が鈍化している。未だに無会館県も存在する。もし自分の予言が正しいと確信しているのならば、どんどん会館を建てるべきだろう。

いやいや、建ててはいけない。活動会員たちが苦しむだけだからだ。わたくしは浅井先生の欺瞞を指摘しているのである。

2018/10/13

ムリクリ  
前回のコメント欄は沖浦氏の独壇場と化した。良く言えば、誰も太刀打ちできない、悪く言えば、誰からも相手にされない、そんな感じだろうか?

そんな沖浦氏の自宅に顕正会の婦人部員が訪れたそうである。たぶん沖浦氏がどのような人物か知っていて訪問したわけではなく、おそらくは片っ端から戸別訪問を行なっているのだろうと思う。今の活動会員たちは下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる的な考え方で、ともかく片っ端から折伏するのが当たり前になっているのだ。

さて、今後であるが、それは何とも言えないところである。

成果至上主義の上から考えると、とてもじゃないが脈がない、もしくは、とてもじゃないが手に負える人物ではない、このように判断すればそこでアプローチが終わるのかもしれない。あるいは特集号が出来するたびに、お届けに上がるという地道な作戦を取るかもしれない。

さて、顕正新聞の続きを見ていこう。

浸水した地域は三嶋神社の信仰者が多く・・・

婦人部愛南支区部長の記事である。七月度の班長会では「西日本大水害を乗り越えて」と題する登壇がたくさんあった。彼女の登壇もその中の一つである。

ひじょうに悩ましいところだ。

立正安国論の考え方からすれば決して間違っているわけではないのだろうけれども、必ずしもそこには客観的な尺度があるわけではない。次の第二十九女子部長の記事もしかりである。

 まして本特集号が出来するや、忽ちに他国侵逼の前相たる異常気象が盛んになり、「大水の難」も現われたことに、諸天の働きを如実に感じたものであります。

「二悪並現の日本」特集号と名付けられた顕正新聞がある。彼女によればそれが出来したことで異常気象が盛んになってくだんの大水害などが起こったということなのだが、はたして本当だろうか?

だったら事前に予言しておけばいいのだ。

しかし、ご存知のごとく、浅井先生が予言めいたことを言うと、ことごとく外れるのだ。その的中率の低さはギネスものだろう。逆に言うと、だからこそ幹部たちが上掲のようにムリクリに当たったかのごとく演出するのかもしれない。いわば後出しジャンケン的にである。

話をくだんの支区部長の記事に戻そう。

・・・自宅の裏山が崩れそうになり、恐怖を感じる雨音の中にも必死にお題目を唱えると、不思議と山は崩れず・・・

八十一歳の組長さんの話だそうである。

他の記事にも共通することを書くと、真面目に信心をしている人たちは守られた、信心に反対する人たちは災害に見舞われた、という方程式になっている。

この事実関係はさておき、裏山が崩れるか崩れないかの話で言えば、まずは避難するのが基本だろう、題目を唱えさえすれば避難しなくてもいいのか、というツッコミを入れたいところである。上述の信心している人は守られ反対者は守られないということと考え合わせると、顕正会が天下を取った暁には災害に対して無防備な国家が現出することになりそうである。すべて大聖人の御守護で賄われるのだから、余計な予算を費やす必要はない。国防もしかりである。なるほど、税金も安くなりそうだし、なかなか優れた国家かもしれない。

イヤミはこのくらいにしておいて、次は法務部次長による世相閻魔帳である。

ウソ≠ナ原発を推進する櫻井よしこの
           悪質コラムを糾弾する


顕正会の場合、敵味方の分別が明確である。それは呼び方を見れば一目瞭然である。当然、櫻井よしこ氏は敵なのだろう。呼び捨て表記がそれを物語る。ところが今回の記事では編集部が付けたと思しき導入の文章で、次のように表記しているのが印象的である。

 「日本会議の広告塔」とか「保守の女神」などと言われている櫻井よしこさんだが・・・

本文中はぜんぶ呼び捨てになっているものの、この冒頭のところだけがご覧のように「さん」付けになっている。

それはさておきである。いわゆる識者と呼ばれる人たちは実際に頭脳明晰のはずである。ならば相手の言い分もよく理解しているはずなのだが、こと原発問題に関してはどうも事情が違うようなのである。結論を急げば次の小見出しが答えのようだ。

 「核武装」という
    隠された目的


ようするに原発推進派の真の目的は核武装にある。その真の目的を達成するためには原発が必要不可欠であり、そうした理由から原発反対派の意見にはまったく耳を貸さないわけなのだ。

それにしてもこれが本当ならば愚かなものだと思う。

ちなみに竹田恒泰氏は若手の保守論客であるが、多くの保守が原発推進を唱えている中で原発反対を唱えている異色の存在である。彼は核武装と原発は切り離して考えるべきという意見のようであり、上掲のような隠された目的のために原発推進を唱えている人間とは一線を画す意味で、なかなか立派だとは思う。

しかし、そうすると櫻井氏に代表される保守の論客たちは姑息な人間ばかりということになりそうだが、実際のところはどうなのか、わたくしにはわからない。

ヘルニア悪化で激痛

最後に婦人部三橋支区総班長の記事を紹介しよう。

 同時に、あまりの痛みで、離れの仏間にすら行けないときも・・・

這うようにして必死で離れの仏間に行き・・・


彼女は創価学会三世として生まれ育ったそうで、平成十七年に顕正会に移籍したごとくである。わたくしが注目したのは上掲の離れ云々である。ずいぶん大きな家に住んでいるものだと思ったのと同時に、彼女もそれを自慢したいのかもしれないというふうに感じたものだが、考え過ぎだろうか?

問題はそこに安置されている御本尊だろう。いわゆる顕正会版の本尊なのだろうか?

それからもう一つ注目すべきは、文中に出てくる婦人部総務の発言である。

「二百万以降も大事な御奉公はある。少しでも治る見込みがあるなら、いまは入院をして治した方が良い」

大事な御奉公のために治しておけ、という話である。顕正会の活動にウンザリしている人たちにとっては、そのこと自体が地獄のような話だろう。

一般人の感覚ならば、例えば五十歳くらいの年齢だとすればまだこれから三四十年は生きるのだからしっかりと治しておいたほうがいい、ということになるだろう。

いずれにせよ、治るものは治したほうがいい、当たり前の話ではあるが、それにしても顕正会員の感覚と世間一般の感覚はかなり違うようである。

2018/10/7

ヒルメシマエ  
沖浦氏に要望しておきたい。聖教新聞などの貼り付けは原則禁止、御書などの引用は可能な限り自分で打ち込むこと。

どうやら大沢氏はかなり以前から沖浦氏の手口を熟知していたようであるが、わたくし自身はつい先日まで知らなかった。もちろん御書の引用は打ち込みではなく貼り付けであることがわかっていた。ただ、そうであっても具体的にどの御書を引用するかはその人のセンスなので、まったくの不勉強の人であれば貼り付けすらも不可能だろうから、そのような意味でわたくしは沖浦氏の御書に対する理解度をある程度は評価していたのである。

まあ、しかし、今回の一件でかなり評価が変わった。

コピー&ペーストはインターネットを利用する上での必須のテクニックであり、もはや今となってはテクニックと呼ぶことすら憚られるような簡単な操作である。パソコンを使って仕事をしている人にとっては作業の効率化の上からも必要不可欠な操作であり、ひじょうに便利な機能である。

ところがである。これは大学の先生などの悩みのタネでもあって、学生に課題を出すとかなりの確率でコピペが使われているという実態があるらしいのだ。ようはネットでいろいろと調べて課題をこなすわけなのだろうけれども、横着な学生はネットの文章をそのままコピペしてあたかも自分で書いたかのごとく装うのだそうである。まるで沖浦氏みたいではないか?

先生たちの危惧は、そうしたテクニックも必要であり習得して損はないのだが、そればかりに頼ってしまうと自分で考える力が養われない、ということらしいのである。

前回も書いたように、わたくしは沖浦氏の発言を封殺しようとは思わない。けれども冒頭で示したごとくのことは、最低限のルールとして守っていただきたいと思う。

宗門末寺玄中寺住職 回答不能、ついに逃げる
 法華講員らも「無相承ならば脱講」と


久しぶりに顕正新聞の話題である。上掲は七月度班長会での男子部総務の登壇記事に付された見出しである。この人物、後に副総男子部長に昇格している。いわゆる論功行賞だろうか?

それにしてもデタラメな話である。

 すると、その中の数名は
 「もし阿部日顕が細井日達から相承を受けていなければ、法華講を脱講する」
 と口々に言い出す展開となったのでした。


通常、カギカッコは発言の引用を意味するものである。法華講員がご覧のような呼び捨てをするはずがない。すでにしてこの辺がおかしいわけであって、まるっきりウソを書いているわけではないにしても、かなり恣意的なニオイが感じられるところである。

そしてもっとも重要なことは、何年前の話をしているのか、ということである。

ここが顕正会のいちばんタチの悪いところであり、逆に言うと、これくらいしか宗門に対抗する術がないということなのかもしれない。

御相承に疑義を差し挟んだのは正信会であり、後に創価学会がそれに乗じた。ところが顕正会だけは与しなかった。当初は、そのように疑われること自体が罰なのである、と言っていたのである。それが今頃になって盛んに言っているわけだから、何を今さら息巻いているのか、と思わざるを得ない。先ほども言ったように、まさにこれ以外に対抗手段がないわけなのだろう。

御相承については、すでに既成事実化しているとも言えるし、イヤラシイ言い方ではあるものの時効が成立しているとも言い得るだろう。今さら宗門側に証明義務はないし、逆の立場の人がどれほど反証を試みようにも不可能である。

つまり、こうした事情を踏まえれば、法華講員たちが脱講を云々したのも自信のあらわれかもしれないのだ。

顕正新聞を読むのは顕正会の真面目な会員だけである。ゆえに真面目な会員たちはこの記事を読んで顕正会側の攻勢をイメージすることになるのかもしれないが、わたくし自身は今述べたごとくである。守勢の顕正会が窮鼠猫を噛むの挙に出たに過ぎず、それを文章で誤魔化しているだけの話なのである。

第五婦人部長の記事もどうかと思った。

「池田会長は海外で多忙なんだ」

創価学会員を折伏した時の話である。池田氏がもう何年も公式の場に姿を見せていないという事実を指摘したわけなのだろう。それに対する返答が上掲なのだそうである。

先ほども書いたように、カギカッコはセリフを意味するわけである。創価学会員が池田会長などと呼ぶだろうか?

池田先生って書けばいいのに、と思う。この辺が顕正会員の異常性をあらわしてあまりあるところだ。相手のセリフなんだから気にする必要はないのにもかかわらず、そこにヘンなコダワリがあるようなのである。

そしてこの話でもっとも重要なことは、創価学会の人たちは本当に池田氏が海外で多忙だと思っているのか、ということである。

もし第五婦人部長の創作だとすれば、バレバレの話を作るなよ、と言いたい。

いわゆる安保法制における解釈改憲において、創価学会の若手本部職員三人が執行部に異を唱える一件があった。今は記憶だけで書くが、彼らは池田氏を病床に伏していると認識しているごとくで、もはや池田氏には判断能力がない、それをいいことに現執行部は池田氏の意に反する方向に進んでいる、ケシカランことだ、と言っていたわけである。

末端の創価学会員には知らされていないことも多々あるだろうが、とは言え、海外で多忙だなどと誰が本気で信じているだろうか?

デタラメ過ぎるとしか言い様のないところである。

ところで男子部第十六隊支隊長の記事が興味深い。

 いまから五年前、私の縁で飯島勲の弟が顕正会に入信し、それが週刊紙に報道されたことで・・・

週刊紙は週刊誌の間違いか、具体的にはどの紙誌なのか、知りたいところである。さらに興味深いくだりが続くわけだが、省略しよう。ともかくこの時点では安倍政権の崩壊近きを云々していることを付言しておく。

最後に男子部第十三隊総支隊長の記事については内容を割愛するが、この人は若手の出世株であり、気がつけばいよいよ隊長になる一歩手前まで来た。これまでにも繰り返し言っているように、顕正会も高齢化が著しい。そうした中で彼は若手の有望株として目立つ存在なのである。


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