2018/10/23

クドクガナイ  
以下、八月度総幹部会における会長講演を抜粋する。

 日本国の犯した仏法上の最大の罪は、七百年前に、大慈大悲の御本仏・日蓮大聖人の御頸を刎ね奉ったことであります。

・・・当時の日本国は、法華経第五の巻で頭を打つ等の狼藉ののち、恐れ多くも竜の口で御頸を刎ね奉った。この大禍(大いなる禍)は、現当二世にのがれがたし――と仰せ下されている。


ここまでは御文に沿った解釈である。問題はこの続きの文章である。

 この「現当二世」には、二つの意味がある。
 一つには、個人に約す。すなわち御頸を刎ね奉った平左衛門が、現世には謀叛の罪を疑われ自邸において誅殺され、御生には無間地獄に堕ちたこと。これが個人に約した現当二世であります。
 もう一つは、国家に約す。すなわち、御在世の日本は「現」であり、未来広宣流布前夜の日本は「当」にあたる。


はたしてこの解釈は正当なのだろうか?

 しかるに日本国は一分の改悔もなく・・・

わたくしの思うに、ここがもっとも受け入れ難いところである。何しろ我々には自覚がない。もし仮に自分の先祖が大聖人に敵対する側だったとしても、自分自身がその責任を負う必要があるのかどうか、そこが甚だ疑問なのである。

おそらく日蓮系の教団は星の数ほど存在するだろうが、このような主張をしているのは顕正会だけなのではないかと思う。

これを顕正会の独自性・オリジナリティと言えば聞こえはいい。ただ、これでは世間の支持はまったく得られないはずで、今のように熱心に折伏を続けていればいちおう数的には伸びるものの、いつまで経っても実数は増えないのではないか、ようはメジャーにはなり得ないのではないか、というのがわたくしの観察である。

むしろ報恩抄の次の御文をよく拝するべきである。わたくしの記憶が正しければ、平成九年の一国諫暁の頃は浅井先生もよくこれを引用していたはずである。

謗法はあれどもあらわす人なければ国もをだやかなるににたり。

ところがである。浅井先生が予言めいたことを言うと悉く外れるのだ。つまりは浅井先生のシナリオ通りには事が運ばない。

これを言い換えると、現証が伴なわない、ということになる。

これをどのように説明するのかが難しいところで、一つには顕正会そのものが邪教だからということになるだろう。顕正会が謗法なのだ。謗法が謗法をあらわす? わらわすなよ、という話である。ゆえに顕正会が自らの非を認めて仕切り直しをするならば、そこでようやく現証が伴なってくるのかもしれない。まさに本気度が問われている。今のままダラダラとやっているようでは何も変わらないということだ。

話を戻して、現代人に対して七百年前の大罪がどうのこうのと言ったところで、どうにもならない。むしろ現時点における問題を直視するべきであって、創価学会の極限の大謗法が国を危うくすると思うのならば、それをとことん追求すればいいのである。神の国云々もしかりである。

ただし、たぶん浅井先生も承知はしていると思うのだが、国家レベルの話ではなく個人レベルの話のほうが実は強いのである。ようは人々にとっては自分の幸福が最大の関心事であるからして、そうした方向性の功徳の体験などが弘通のカギを握っているわけである。

実際、創価学会の折伏大行進時代はそうした個人の幸福にスポットが強く当たっていたわけであり、下世話な話のようだがきわめて俗的な御利益を求めて多くの人が入信してきたという現実がある。

結論めいたことを書こう。

いちおう当時の創価学会は日蓮正宗の信仰を真面目に実践していたわけであり、それゆえに多くの人が功徳をいただいていたわけである。翻って顕正会はどうかであるが、今の顕正会は正しい信仰をしているとは言えない、よって功徳がない、だから伸び悩んでいる、となるだろう。

話が脱線してしまったような感じだが、思いつくままに書いたのでご容赦願いたい。


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