2018/11/29

イブリ  
顕正新聞の続きを見ていくが、その前に沖浦氏の活躍を祝したいと思う。日本新記録、二年ぶりの自己ベスト云々と。わたくしの思うに、これが直ちに創価学会の正しさを証明することにはならない。とは言え、立派な記録であり、賞賛に値することは動かぬ事実であろう。

さて、男子部第十六隊長の記事である。

 このたび、八年前に宗門に誑かされて顕正会を離れた者の姿を通し・・・

顕正会の男子部員だった人物が八年前に宗門に移籍した。長野県の実境寺だそうである。そして八年間に見てきたことを顕正会に戻って証言しているわけなのだが、その内容が凄まじい。

ビアガーデンで急死、半身不随になって急死、五・六十代の数名も急死、十九歳がコタツで急死、というような凄まじい話が並べられている。長い間にはいろいろあるだろう。しかし、わずか八年間の出来事となれば、これは異常だかもしれない。

 法華講員の急死はこの寺にとどまらず、全国でいちばん勧誘の数をあげている長野県の妙相寺においては、その住職が出張先のホテルで五七歳の若さで急死し、その臨終の相は日焼けしたように茶色く異様で、またその後任住職の妻も病死、さらに別の長野県の末寺では、講頭の息子が急死したとのことでした。

しかし、このくだりを読むと、むしろ悪意の文章としか思えない。

まず勧誘がそれだ。宗門の折伏は折伏ではなく勧誘なのだと言っているわけなのだろう。
妙相寺の住職が亡くなった話はわたくしも知っている。ただその臨終の相については初耳である。誰の目撃談なのだろうか?
後任住職の妻が病死したことについて言えば、これは急死とは話が違うだろうし、具体的にどのような病気なのかが問題である。それを示さず急死と一緒に並べて論ずるところが、いかにも悪意丸出しなのである。
別の寺院の講頭の息子が急死した云々も問題だろう。すでに二つの寺院を名指しであげつらっているのである。ならば今さら寺院名を伏せる必然性はないはずなのだ。

しかも使用した塔婆をカンナで削り、その上に戒名を書き直すのだそうです。

この話は本当だろうか? 単なるイメージダウンを狙った風評的な話なのではあるまいかと思うのだが、いかがだろうか?

わたくしの感覚では面倒臭い作業である。まさか住職ないし寺の関係者が裏で必死になってカンナを掛けているとは思えない。実に非効率な話である。ゆえに業者が塔婆を回収して、機械を使って再生しているということならば、現実的にあり得る話だと思う。もしそうならば単なる金儲けとは別次元の話になるだろう。ようは森林資源を守るための一つの方法だからである。

だとすれば、当該記事がいかに悪意に満ちたものであるか、ということになるだろう。彼らはそれに気がつかないのだろうか?

 一方、勧誘活動もデタラメ極まりなく、葬儀に参列した未入信者や、寺の豆まき大会に参加した近所の子どもたちを、知らぬ間に「入信扱い」にしているとのことでした。

この点は詳しい事情を知らないものの、何となくそういう傾向があるのかもしれないと感じている。ようは宗門でも目標を設定して折伏を実践しているわけであり、それを悪く言えばノルマ化というふうにも言えてしまうわけなのだ。ようは顕正会と同じなのである。

今、国会では外国人労働者の受け入れ拡大を図る法案が審議されている。わたくしの実感ではすでにたくさんの外国人がコンビニや飲食店で働いている。それをさらに拡大しようという法案らしいのだ。いったい何を考えているものかと思う。

そしてご存知のごとく、顕正会では外国人の入信者が増加しつつある。わたくしはそれをダメだと言いたいわけでない。ただ、宗門の折伏をデタラメだと言っている顕正会だって、けっこうデタラメな折伏をやっているわけなのである。その最近の傾向として言えるのが外国人への折伏である。結局、数合わせのために、ようはノルマ達成のために、外国人をも対象者にしないと間に合わない。そんな事情から外国人の折伏をやっているのがバレバレなのだ。

まあ、しかし、それにしても最近の宗門誹謗キャンペーンは凄まじい限りである。

元旦勤行における浅井先生の
 「北海道の沖で、マグニチュード9クラスの超巨大地震の発生が切迫している」
 との指導が過ぎり・・・


これは女子部総務の記事である。彼女は北海道胆振東部地震のことに言及しているわけだが、上掲のくだりを読むとまるで浅井先生の予言が当たったかのごとくである。ただし、わたくしの記憶にはまったくないし、幹部たちもその大半がこれに言及していないので、仮に先生が発言していたとしてもそれほど力説していたわけではないのだろう。

ちなみに記事中、胆振にはルビがあって、「たんしん」と読ませている。あれ? そうだっけ?

基本、地名は難しい。馴染みのない土地の場合、とんでもない読み方をすることが少なくないので要注意である。今、大急ぎで調べたら、「いぶり」が正解のようである。わたくしのパソコンでも「いぶり」で「胆振」が出てくる。顕正会の編集部もダメだなあ・・・

婦人部日吉支区総班長の記事も見ておこう。

・・・先生にしかなし得ない師子王心の諫暁に、ただひれ伏しました。

凄いことを言うものである。

 このとき、末法万年の総貫首たる日興上人が、力ある在家の先生にこの一条を託す儀式が行われたのではないか。

説明するのが面倒臭いので省略させていただく。「このとき」とはどの時なのか、「この一条」とはどの一条なのか、儀式とは何を意味するのか、拙ブログの読者にはさっぱりわけがわからないだろう。実はわたくしもよくわからないのである。ともかく浅井先生は凄い人なのだと、そう言いたいわけなのだろう。

2018/11/22

エンセキ  
前回からの続きの意味で、今回は内藤正信組長の登壇を取り上げたい。

「細井日達の悪臨終を母(細井日達の縁戚)から聞く
 「ドス黒く、阿鼻獄を恐れ叫んでいるような相」


ご覧のような衝撃的な見出しのもと、記事が載せられている。

前回も言ったように、こうした不確かな伝聞を公の場で発表するのはどうかしていると思う。どうせならば母親本人が登壇すべきだろう。それならば多少は説得力があるはずだ。

しかし、彼は昭和二十五年生まれという。すると現在は六十八歳の計算になる。当然、母親の年齢は推して知るべしであり、本文中にはどこにも見当たらないが、おそらくは鬼籍に入っているものと思われる。ならば本人からの直接証言はもはや永遠に得られないことになる。

 その後、ほどなくして細井日達が富士宮市のフジヤマ病院に入院した際には、母は三回ほど見舞いに行っておりました。

わたくしの感触だと、こういう話はほぼ真実なのだと思う。大沢氏から紹介を受けた妙通寺のページを読むと、登壇者の母親をナゾの人物として捉え、日達上人の縁戚であること自体を疑っているフシがあるけれども、もし縁戚が真っ赤なウソだとすればトンデモナイことである。そんな人物が純粋な信仰を保っているとは言えないわけであり、そのような登壇を許す顕正会自体がすでにして邪教であることを自ら認めているような結論にならざるを得ないと思う。さすがにそれはないと思うのだが、いかがだろうか?

両親ともに宿坊の務めも引退し、私も富士宮市内の大工として働くようになりました。

唐突の引用で恐縮だが、これは前後の文脈からして昭和の末期から平成十年の間の出来事と考えられる。失礼ながら彼はいわばニートであり、親のスネをかじって生活していた。そんな感じかもしれない。しかし、両親が仕事を引退してしまい、仕方がなく大工の仕事に就いた。もちろんわたくしの勝手な想像であるが、もしそうならば母親が日達上人のお見舞いに出掛ける様子を目の当りにする機会があっても不思議ではなく、「三回ほど」云々が実にリアリティを持った表現に思えてくるのである。

そういうわけで、わたくし的には彼女が上人の縁戚だったことを疑う理由は見当たらない。とは言え、記事として不審な点がないわけではない。おそらくは次のくだりが当該記事における最大の問題点だろう。

 母は突然のことに大へん動揺し、なかでも細井日達が大事な「御相承」を行なおうとしていた前日に臨終を迎えたことと、医師が二時間に及ぶ心臓マッサージを施したにもかかわらず蘇生しなかったことに、臨終が思うようにならなかった恐ろしさを肌身に感じていました。

後付けの説明であることがバレバレである。

突然のことに動揺はその通りだろう。しかし、突然にもかかわらず彼女はどうして上人が翌日に御相承を行なうつもりだったと知っていたのか、である。また、二時間の心臓マッサージをどうして知っていたのか、である。縁戚ゆえにそうした細かいことまで聞く機会があったのだろうか?

 さらに正本堂崩壊後、飲み屋で知り合った元後藤組の者から正本堂建設で集められた三五〇億円のうち、約五〇億円が後藤組に渡っていたことを耳にしては、驚愕しました。

疑っては悪いが、こういう話もアヤシイものだと思う。週刊誌から拾ってきましたとは言えないので、飲み屋で聞いた話という体裁を取っているような気がしないでもない。

男子部第八十隊組長・内藤正信氏の登壇についてはおおむね上述のごとくである。

彼の場合は平成二十四年に婦人部の人から折伏されて、今は男子部に移籍して組長職を拝命している。ゆえに当てはまらないけれども、ご存知のごとく、昨日今日入会ないし入信したという平会員が登壇している記事を読むと、オイオイと言いたくなることがある。ようするに顕正会用語が満載なのだ。

オマエ、なんでそんな言葉を知っているんだよ、普通の人は使わないだろう、顕正会に長く居て、完全に染まり切っている人しか使わない、そんな言葉をどうしてオマエが知っているのか、誰かに原稿書いてもらったんじゃないのか、というような登壇記事がたくさんあるのだ。

 私自身も身震いし、今にして思えば・・・

再び内藤組長の記事からの引用であるが、ご覧のような書き方ならば問題はないだろう。今にして云々は、今の顕正会員目線で書けばという意味になるからだ。

記事を添削する幹部はこの辺に気をつけないといけないだろう。もっとも顕正会の幹部たちは、こうした世間の常識そのものがわからなくなっているのかもしれない。もちろんわかっている人もいるとは思うのだが…

2018/11/19

ケッテイバン  
前回のウルトラ勤行の登壇者について、大沢氏より丁寧な分析を頂戴した。端折ってしまえば、子供の頃の記憶がマゼコゼになってしまって、あのような記事になったのではないか、とのことである。

そこで今回は顕正新聞第1454号に入るわけだが、当該号は看過できない問題を抱えている。

始めて聞く 細井日達の臨終の相

当該号は「学会員を救う特集号」7となっていて、一面の大見出しにしても二面から始まる会長講演の大見出しにしてもその趣旨に基づく記述になっている。ところがである。会長講演の冒頭ではいきなり日達上人のことに言及しているのである。その一段の見出しが上掲である。

わたくしは浅井先生の見識を疑う。幹部会員は皆が皆、先生のご見識がどうのこうのと讃嘆するけれども、死者を冒涜するような発言をする人のどこに見識があるのかと言いたい。

このように書くと、あるいは大聖人の事例を引き合いに出してくるかもしれない。

ようは大聖人も御書の各所において念仏者などの悪臨終を云々しておられるわけで、それはまた、法華経の教理そのものでもあるわけだ。ゆえに謗法者の悪臨終をあげつらうことは当然のことであって、日達上人といえども御遺命に背いた以上は例外ではないのだと。

わたくしは宗門の戒壇論をデタラメだと考えていて、その原因の一端を作ったのは日達上人であると言わざるを得ないと思っている。

だが、しかし、この件に限っては顕正会に与することは断じてできない。

なぜならば、デタラメだからである。

 総本山近くのフジヤマ病院に入院していたが、退院の前日に激甚の発作を発して倒れ・・・

過去の書籍の数々を読むと同様の記述がある。ゆえに浅井先生の言っていることは一見すると一貫性があるように思える。しかし、委細に見ればブレブレなのである。

ここでは詳述しないが、「退院の前日」が大問題である。ようするに病状が快方に向かっていよいよ明日は退院だと、そのような印象操作を意図して文章を書いているフシが感じられるわけである。その上で急死したとなれば衝撃は大きい。つまりは罰であることを強調するのに都合がいいわけなのだ。

ところが現実は違うようなのである。むしろ病状が悪化してフジヤマ病院では手に負えないのでもっと大きな設備の整った病院に転院するという、そのような話だったのだ。

そしてもう一点、今回の話は出どころが問題である。

 その中で、さきほど男子部の内藤正信組長から、細井日達の臨終の相について発表がありましたが、私も始めてこれを聞き、驚きました。

発表した男子部組長の母親は日達上人の縁戚だったことから、上人の葬儀に参列したのだそうである。その様子を息子に語り、そして今、息子が総幹部会という公の場で発表しているわけなのだ。

わたくしのいわく、だったら息子ではなく母親が出てきて発表しろ、と。

こんなデタラメな話はあるまい。見た本人が発表するならばまだしもである。見てもいない人間が聞いた話を発表しているに過ぎないのである。それが今、顕正会の中ではあたかも真実のように語り継がれているのだ。

言い忘れていたが、当該記事は九月度総幹部会での登壇である。そして会長講演には日達上人の話題に続いて次のようなくだりがある。

 しかもこの大現証が、単なる言い伝えではなく、大聖人様の御筆によって具さに活写されていることは、なんと有難く、重いことかと・・・

竜の口の大現証を言っているわけだ。

おわかりだろうか、このご都合主義がである。大聖人の御書を重んずるのは当然である。しかし、その同じ理屈が前述の話題にも当てはまることに気がつかないのがおかしいのだ。くだんの組長は見ていない。見たのは母親である。しかも何十年も前の話である。つまり、日達上人の悪臨終云々は単なる言い伝えであり、不確かな伝聞に過ぎないのである。

ゆえにデタラメだと言うのである。

このことはもし仮に組長が母親の発言を正確に伝えていたとしても同じ結論である。専門的に言えば証拠能力に乏しいということになる。そんな話に縋っているようでは顕正会もオシマイだろう。

竜の口の刑場付近の砂浜。左端の島は「江の島」

これは単なるアゲアシ取りである。写真があって上掲のような説明がある。しかし、左端はおかしいだろう。単に左と書くか、左側と書くべきである。

池田大作は「本門戒壇の大御本尊」を
 三段階で、全学会員に捨てさせた‼


顕正会では本特集号を学会員を救う特集号の決定版だと言っている。確かにわかりやすい構成ではある。ただ、わたくし的には納得し兼ねる。

まず、不正確な点を指摘しよう。

 次に彼は、学会版経本の観念文から「本門戒壇の大御本尊」の九文字を抜き取って、全学会員に戒壇の大御本尊を忘れさせようとした。

浅井先生が得意とする省略なのか、もしくはうっかり失念しているのか、そこはわからない。ただ明確に言えることは、創価学会では観念文の改定を何度か行なっているのである。この点は論旨に大きくは影響しないものの、いちおう指摘しておきたい。

そして問題は第三段階である。

ようするに平成二十六年十一月七日の教義改変において、戒壇の大御本尊を受持の対象にはしない、と決定した。これは大変な事実であり、本来ならば宗門と顕正会が共闘して、創価学会を弾劾すべきと思う。

ただ、わたくしの思うに、これは池田氏のあずかり知らぬところで勝手に行なわれたことであって、何でもかんでも池田氏のシワザと考えるのはもはや無理があるだろう。

結局、顕正会の言っていることは、結果だけをつなぎ合わせて、しかも自分たちの都合に合わせて、もっともらしく言っているだけなのだと思う。

さて、今回の会長講演は長くて、さらに四面から五面の半分まで費やしている。そこでは主に安倍首相の批判に終始しているわけだが、ここでは一点だけ取り上げておこう。

 今月の7日、衆議院事務局に30年余も勤務し、元参議院議員であった平野貞夫さんが、安倍首相を「内乱予備罪」で、最高検察庁の検事総長宛てで告発しましたね。

一般のマスコミが報じないような話題が載っている点で、顕正新聞は価値があるかもしれない。

さらにもう一点、プーチンの話題が書かれているけれども、これには続報があるのでおそらくは次の総幹部会でも言及するだろう。この点も注目したいと思う。

2018/11/18

ウルトラゴンギョウ  
柄にもなく多忙を極め、先週はまったく更新できなかった。そうした中、沖浦氏からはコンスタントにコメントを頂戴しているが、勝手ながらお返事は抜きとさせていただき、今日はさっそく顕正新聞の続きに入りたい。

最後、御遺命成就の戦いも、第六天の魔王と浅井先生の一騎打ちと拝察申し上げれば・・・

第六婦人部長の発言である。ここで問題となるのは第六天の魔王だろう。これはいったい何を意味するのだろうか?

浅井先生はいわゆる実在の人物である。では第六天はどうかである。かつては池田大作氏をそれになぞらえていた。もちろん今もそうなのだが、しかしながら実際問題として池田氏はすでに表舞台から降りているのである。すると池田氏以外の人物を想定しているのか、それとも相変わらず池田氏なのか、この辺がひじょうにアイマイのような気がしてならない。

穿った見方をすれば、御遺命成就も当分はないことであるし、それを顕正会の幹部たちも承知しているがゆえに、テキトーなことを言っているだけなのかもしれない。

総裁選を前に民意を動かさん・・・

これは第二十九女子部長である。わたくしの更新が遅々として進まないためにおかしなことになっているが、ようは九月初旬に行なわれたであろう女子部の集会での発言なのだ。結局、民意は動かなかったことになる。

命の執着を捨てて・・・

命への執着をすて・・・


第三十一女子部長と第三十一女子部幹事の発言である。二人が言っているのは福島在住の顕正会員たちのことだ。ようは放射能被害におののく福島県民の中で、顕正会員たちは命を捨てる覚悟で戦っている。

しかし、これはひじょうに悩ましい話である。

通常、死身弘法だとか不惜身命の意味するところは、法華経を弘通する上で命に及ぶような迫害を受けることを覚悟することである。ところが福島の顕正会員たちは、それとは少しニュアンスの異なる覚悟を固めていることになるのだ。

先般も原発問題でかなりデタラメなことを言っていた。ここが顕正会のダメなところで、結局は世間で話題になっている事象を行き当たりばったりで取り上げているだけで一貫性がない。ゆえに会長講演も過去の発言との齟齬がいくつも生じてきているわけなのだ。

法華講で不幸、入会して始めて功徳

女子部第百三十八区総班副長の記事の見出しの一部である。また、本文中の小見出しにも次のような文言がある。

功徳を始めて実感

いつも言っていることだが、この始めては現代国語としてどうなのかと思う。しかもである。当該記事の本文は次のようになっているのだ。

御本尊様から頂く御守護を初めて実感いたしました。

本文に基づいて見出しをつけるのが常識である。その意味で顕正新聞は非常識と言わざるを得ないだろう。

 また御登山したとき、阿部日顕が勤行中に立ち上がり、これを持っていればおカネ持ちになれる、幸せになれる≠ニいう富士山や鶴の絵が描かれた丸い形の「お守り」のようなものを、勤行している信徒に向かって上から投げ、大人たちがそれを奪い合うという光景があり、子供ながらに阿部日顕に傲慢さを感じました。

この部分は彼女が子供の頃に法華講員の父親に連れられて御登山した思い出を綴っているわけなのだろう。よくわからんが、他の神社仏閣では節分の時などにそのようなことをしているので、おそらくは日蓮正宗でも同様の行事があるのだと思う。しかし、その光景を見て傲慢さを感じるのかどうかは微妙なところである。ようは後付けの感想のような気がしないでもないということだ。

ウルトラ勤行

何のことかと思いきや、丑寅勤行のことらしい。ともかく最近の顕正会は宗門に対して異常とも思えるほどの憎悪を露わにしているので、こういう話もどこまで信用していいものか判断に悩むところである。

 葬儀は顕正会儀礼室で執り行って頂きましたが、本部よりお見えになった儀礼室の横田理事が・・・

これは男子部第百四隊支隊長の記事で、母親の葬儀について云々している部分である。儀礼室委員の個人名が書かれるのはめずらしいことだと思う。横田氏は派手さのない実直な人物であり、その意味で儀礼室委員に向いているのかもしれない。

逆に言うと、派手な人物はいわゆる火の信心そのものであり、たいていが消えていく運命にある。

ちょうど隣には男子部第百七隊幹事の記事がある。この人も横田氏タイプと言えるだろう。会津会館の管理副主任をやっているそうである。と同時に、設計支援業務の在宅勤務をやっているらしく、会館から徒歩二分に自宅があるとのことで、いわば二足の草鞋が実現したという体験発表なのである。

安倍首相の「1月20日に始めて知った」は
 「収賄罪等」を恐れてのウソ発言!


例の世相閻魔帳だ。細かい話は抜きにして、わたくしの思うに現職の総理大臣がバレバレのウソを吐いていてそれがまかり通ってしまうという現状は、もはや絶望的である。

ちなみに上掲においても始めてが使用されている。これは何か公文書があってそれをそのまま引用しているものなのか、それとも首相の発言を勝手に書き起こしているだけなのか、そこが気になるところである。もし仮に後者だった場合、弁護士の彼はこれをどのように考えるのだろうか?

2018/11/10

ワカミヤ  
ゲラゲラ氏によれば、平成十七年の段階では次のような文証が残っているそうである。

大聖人が「聖人御難事」を認められ、出世の本懐を遂げられることを宣言されたのが、十月一日です。法戦の全魂の指揮を執られながら、一方で大御本尊御建立の準備をしていかれたと拝せられる。

池田大作氏の発言とのことだ。

一方、沖浦氏は次のように書いている。

 タンカーは方向転換に時間がかかります。
 モーターボートは一瞬です。


譬えとしてはわかりやすいものの、現実的にはどうかと思うところだ。ようはタンカーにしたって方向転換するのに何十年も掛かるわけではない。鶴の一声ということもあり得る。池田先生がそうおっしゃるならば従いますと。つまり、沖浦氏の言っていることは体のいい言い訳に過ぎないのだ。そもそもが方向転換とは変節なのだから、それを自ら白状しているようなものなのである。

ところで、後日取り上げることになるが、実は顕正会でも池田氏が長い年月を掛けて方向転換を図ってきたと言っているのである。しかし、前掲の平成十七年の池田発言からすると、どうも違うのではないかと思えてくるのだ。ようは顕正会では結果だけをつなぎ合わせて自分たちに都合のよいように解釈している、というふうに思えてくるのである。これは後日また書くことになるだろう。

さて、顕正新聞第1453号に参ろう。

 「本、願を立つ」との仰せ、――ついでに言っておきますが、発刊されている多くの御書集には「大願を立てん」と読んでいるのが多いが、「大願」ではない、「本、願を立つ」が正しい。

これは以前にも取り上げたことのある教学上のテーマである。ようはどちらの読みが正しいのかという問題だ。御書全集も平成新編も「大願を立てん」としている。わたくしの知るところでは日蓮宗系が「本、願を立つ」と読んでいるごとくである。

この場合、日蓮宗だから間違っているという短絡はいけない。いわゆる是々非々で論じるべきところであり、彼らの読みが正しいのであればそれを採用すべきだろう。

ただし、浅井先生の場合はもう一つの足枷がある。

一、大願を立てん句、日本国の位をゆづらむ句、法華経をすてて観経等について後生をごせよ句、父母の頚を刎ん念仏申さずば云云。(同n)

  一たびこの文を拝せば涙数々降る。後代の弟子等、当に心腑に染むべきなり云云。


http://www.mitene.or.jp/~hokkekou/kaimokusyougukige.html

リンク先は正信会系の人物が運営しているサイトであるが、わたくしの所持していない史資料がたくさんあり、かつまた他には同様のサイトが存在しないこともあるので、大いに利用させていただいている次第である。

それはともかく、上掲は日寛上人の御筆記である。ご覧のように、ここでは「大願を立てん」となっている。さて、どうしたものだろうか?

何しろ浅井先生は言うのだ。日寛上人の仰せは絶対であると。

単なるアゲアシ取りのような話に思えるかもしれないが、そうではないだろう。前述のごとく、教学上の一つのテーマである。それを日寛上人の教学は絶対だと言う浅井先生が、日寛上人とは違う説を採用しているのである。これが許されるのであれば、何でもアリになってしまう。ようは自分の都合に合わせてどのようにでも解釈できてしまうのだ。

ぜひとも浅井先生の弁明を聞きたいものである。

鎌倉若宮八幡宮

今度はアゲアシ取りに近いものの、ちょっとしたマメ知識のような意味で貴重かもしれない。たった今、ネットで調べてみたら上掲のような言い方は存在しないようである。通常、鶴岡八幡宮と呼ぶ。そして当然ながら地元の人は鎌倉を冠する必要がないので、鎌倉鶴岡八幡宮などと呼ぶこともない。逆に他所の人たちは鎌倉八幡宮と通称するようである。

わかみやこうぢにうち出で四方に兵うちつゝみてありしかども・・・

これは顕正新聞からの引用ではなく、平成新編から種々御振舞御書の一節を引用したわけだが、「わかみやこうぢ」が興味深い。ここには漢字ルビが振ってあって、若宮小路となっている。しかし、今現在の鎌倉ではあの中央の大通りを若宮大路と称している。

だから何なのだと問われると困る。一つ言えることは、わかっていないことがまだたくさんある、ということだろう。ゆえに上述のような視点からもっと深く探求すれば、あるいは今まで気がつかなかった発見があるかもしれないということである。

 「汝、伏して之を信ずべし。当に知るべし、此の文の元意は、蓮祖大聖、名字凡夫の御身の当体、全く是れ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と顕われ給う明文なり」と。

これは顕正新聞の引用である。日寛上人の仰せであることは誰もがすぐにわかるだろう。そしてこれがなんと前掲のリンク先にも出てくるのである。浅井先生のご都合主義がよくわかる事例と言うべきだろうか?

 やがてこの日本国に、立正安国論に仰せの天変地夭が相次いで起きてくる。すでにそのはしりは始まっているが・・・

ハシリもまた浅井先生の好んで使う言葉かもしれない。詳しくは調べていないが、ずいぶん昔から使っていると思う。いつまでハシリが続くのだろうか?

2018/11/3

ダイシシク  
引き続き沖浦氏からコメントが寄せられているが、今日は顕正新聞の話題に戻りたいと思う。

女子部は御大会式までの誓願達成を見つめ・・・

総合女子部長である。目標を立てることは悪いことではないものの、いかにも成果至上主義の顕正会らしい発言である。

ところがである。

全組織、九月達成を事実と成し・・・

女子部総務の一人はご覧のように発言している。凄まじいものだ。

石垣・西表島で広告文片手の熱烈な戦い
 学会員が求めるように相次ぎ入会


これは第八女子部幹事の記事に付けられた見出しである。離島での活動はさまざまの意味で大変である。ある意味、本気度が問われていると言えるだろう。

 また第百二十四区におきましては、一総班副長の三十代の娘が、火事に巻き込まれて臨終を迎えるという出来事がありました。

文字通り不幸な話である。

上野殿の弟・五郎殿が若くして不慮の水死をされたとき・・・

他人の不幸をとやかく言うつもりはない。ただ以前にも取り上げたように、五郎殿の水死は何を根拠に言っているのだろうか?

「西日本豪雨」でもご守護、胡瓜が高値で
 舅が良き臨終、大慈大悲にひれ伏す


今度は婦人部中予支区班長の記事である。今の顕正新聞には臨終の話が高頻度で出てくる。前掲の話題は若くして気の毒だったが、こちらのほうは具体的な年齢はわからないものの、それ相応の年齢だろうから納得できなくはない。

けれどもわたくしが注目したのは臨終の話ではなく、次のくだりである。

 また父が作る胡瓜も、数十本に傷が付いただけで済み、消毒も肥料も手抜きしていたことで、かえって丈夫な根を張り、豪雨にも倒されず、これまで以上に立派な胡瓜が大量に採れました。

顕正新聞はこういうフザケタ話が多い。手抜きしていたことが幸いするならば、誰も苦労しないだろう。そもそもキュウリはつる性の植物なので、自立しているわけではない。ところが上掲の言い様だと、あたかも根が強くて倒れなかったみたいに思えてしまうのだ。

 さらにこの豪雨による野菜不足から胡瓜の値段が上がり、一日平均七万円の収入があり・・・

前掲はいかにもデタラメっぽい話だったが、この部分は羨ましい限りの話である。もっとも農家の人たちは収穫までにたくさんの苦労をする、言い方を換えれば無収入の期間もある、ゆえに普通の勤め人の感覚で考えても仕方がないわけだが・・・

さて、次の第六男子部長の発言はいかがなものか?

迎える広布最終段階・・・

何度も指摘していることだが、広布最終段階という表現はかなり昔から使われている。それにもかかわらず、今新たに迎えるがごとく言っている。本人はおかしいと思わないのだろうか?

第二婦人部長もヘンな人である。

 同時に、かかる先生の大忠誠心に、第六天の魔王もどれだけ肝を潰したであろうと思うと、胸のすく大感動をおぼえました。

事情のわからない人には申し訳ないが、ともかくヘンである。漫画チックに想像すると、第六天の魔王が肝を潰している様子が浮かばなくもない。しかし、その場合は浅井先生すらも漫画チックに描かないといけない。だったらいっそのこと顕正会でアニメーションでも制作したらどうかと思う。

大師子吼

またしても登場である。前掲の大忠誠心はまだしも、さすがに大師子吼はダメだろう。わからんのだろうか?

義祖母

男子部第七十隊総支隊長の記事に出てくる言葉である。人生経験が拙いためか、わたくしはこの表現に馴染みがなかった。顕正新聞もよく読めば勉強になるものである。

競馬の予想屋に
 1千200万円


最後は創価学会一筋五十年の男性が顕正会に入会した話である。男子部第七十八隊の組長さんは創価学会に騙されていたと言っているわけだが、わたくしはそれよりも競馬の予想屋に騙されていたことのほうが深刻だと思う。当然ながら、いっぺんに一千二百万円を騙し取られたわけではなく、気がつけばそれだけのカネをつぎ込んでいたということなのである。

これまた人生経験が拙いためか、わたくしにはまったく考えられない話である。世の中にはいろいろな人がいる。ただそれだけの話なのかもしれないが・・・

2018/11/2

タタリガミ  
沖浦氏はわたくしに対しては少し寛容なところがあるものの、法華講の諸氏に対しては容赦がない。その理由がよくわからない。あるいはわたくしの場合はブログの主宰者なので、それで手加減してくれているのかもしれない。

ところで今朝になって、ヤメケン氏からコメントが寄せられた。

祟り神日蓮という独自解釈はどう思いますか?

貴殿は昭衛教学に一目置いていたようだけど、戸田とも異なるこの狂学。

戸田はんに憧れて息子に城と克の字を充てがう御仁。

日蓮系は狂ってる人が多いが昭チャンも多分に漏れず狂。


まず、息子に城と克の字を云々について書くと、城衛は城聖を想起させるが克衛のほうは何を意味するのか、わたくしにはわからない。この点、ご教示願いたいと思う。

それから昭衛教学に一目置いていたのは事実であって、それは今もそれほど変わらないつもりである。ただし、独学で研鑽するようになってからは浅井教学の問題点も見えてきた。拙ブログではそうした観点からも顕正会批判を展開してきたつもりであるが、まさに徒然なるままに書いているので、まとまりがない。その意味ではいずれ本格的に書かないといけないとは思うものの、ズボラな性格が災いしてなかなか実行できない。今はそんな感じである。

祟り神日蓮という独自解釈・・・

さて、本題である。ヤメケン氏はご覧のように独自解釈と書いていらっしゃる。ようするに氏の認識としては浅井先生独自の解釈ということなのだろう。

わたくし自身はそれが独自の解釈なのか否かよくわかっていないのだが、前々回の拙稿で示したように、たくさんある日蓮系の教団の中でもこのような解釈をするのは顕正会だけではないか、というふうには書いた。あるいはヤメケン氏もこの文脈を受けて上掲のように書いたのかもしれない。

そこで煩瑣になるのを承知しつつも説明したい。浅井先生のロジックは次の二つの御書に基づくと考えられる。

・・・教主釈尊よりも大事なる行者を、法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち、十巻共に引き散らして散々に踏みたりし大禍は、現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ。

まず一つ目が下山御消息であり、浅井先生はいわゆる現当二世の解釈において独自性と思しきものを打ち出している。ようするに大聖人御在世当時と広宣流布前夜の今現在を意味するのだと。

 仏、法華経をとかせ給ひて年数二千二百余年なり。人間こそ寿も短き故に、仏をも見奉り候人も侍らね。天上は日数は永く寿も長ければ、併ら仏をおがみ法華経を聴聞せる天人かぎり多くおはするなり。

そして祈禱抄の当該御文は前掲を補強する意味がある。諸天善神の寿命は人間のそれとは異なる。ゆえに時間感覚が異なる。具体的に示すと、日月天や毘沙門天などは釈尊入滅後二ヶ月足らず、さらに帝釈や梵天の感覚からするともっと短い日数になる、ということなのだ。

当然、顕正会では大聖人を御本仏と仰ぐ。大聖人滅後すでに七百有余年。人間の時間感覚からすれば遥か昔であるが、諸天善神の時間感覚は上述のごとくである。つまり、昨日のことのように憶えている。

ゆえに今、諸天善神が励みをなして天変地夭を起こし、日本の人々を罰している・・・

これでおおむね説明できたと思うのだが、はたしてこれが正解なのかどうかが問題である。すでに前々回、疑問を呈したごとく、わたくし自身はこの説を支持することに相当の躊躇がある。また、一般人の感覚からしても相当に受け入れ難いものがあるだろう。

自分は関係ない!

個人主義が幅を利かせる現代においては、誰もがそのように思うはずである。実際、まったく記憶がないことであって、それにもかかわらず罪を着せられるとすれば、いわゆる冤罪にも相当することだろう。この点、顕正会側がどのように反論するのか、聞いてみたいものである。

くだんの二つの御文をゴリ押しするのかもしれない。大聖人がこのようにおっしゃっているのだ。オマエはそれを信じられないのかと。

実に困ったものである。

いちおう御書の拝し方で意見を言っておくと、別々の御書を持ち出してきて合わせて一本みたいなロジックは得てして誤謬を生むものである。ようは正解の場合もあるが不正解の場合もある。まずはこの点を理解しておく必要があるだろう。

そこでわたくしの結論を書くと、この場合は不正解の蓋然性が高いと思う。

 然れば大悪人を用ゆる大科、正法の大善人を恥辱する大罪、二悪鼻を並べて此の国に出現せり。・・・現世には国を亡ぼし身を失ひ、後生には悪道に堕ちぬ。

前掲の下山御消息は長文の御書であり、大事なことがたくさん認められている。実は上掲も同御書の一節なのである。前掲の現当二世云々と、上掲の現世には国を亡ぼし云々が、見事に対応していることに気づくべきである。

するとどうだろう。当時、大聖人にアダをなした人々は皆悉く悪道に堕ちている。その時間たるや転々無数劫である。七百年後の今日も地獄の業火に苦しんでいるはずなのだ。

いわゆる輪廻転生の考え方からすると、もしかしたら自分は七百年前に大聖人にアダをなした一人なのかもしれないと思う人もいるわけで、あるいは顕正会ではその説を採っているとも考えられる。ただし、無間地獄の長さはベラボウであって、そう簡単には出所できないはずなのだ。そのことは顕正会員がいちばんよく知っているはずではないか?

つまり、現代人の感覚として自分は関係ないと考えることは決して間違いではなく、その無関係の人間までもが罰せられるとしたら、まるで八つ当たりみたいな話になってしまう。

なるほど、これを祟り神云々と評するわけなのだろう。

こうして見ると、浅井先生の独自解釈は間違いであり、かえって大聖人のイメージダウンにもなりかねない、そういう危険性を孕んでいるとも考えられるところである。だとすれば、これから開始されるであろう本格的な一国諫暁など無意味であり、それどころかハタメイワクなだけの話になってしまう。

日蓮系は狂ってる人が多いが昭チャンも多分に漏れず狂。

改めて掲げてみると、なるほど、そうかもしれない、と思わせるコメントである。

2018/11/1

ノサバル  
法華講の諸氏が撤退してしまった。そして今現在、コメント欄は沖浦氏の独壇場のようになっている。氏の一人天下と書けば聞こえはいい。ただ別の見方を書けば、沖浦氏は誰からも相手にされていない、ということになるだろう。

このように書けば、沖浦氏から反論が寄せられるのは必至である。その言い分はあえて書くまでもなかろう。

そこで今度は日蓮正宗信徒の立場から言わせてもらうと、早い話が沖浦氏は大謗法者なのである。この大謗法者に対しては積極的に破折する。これが一つの選択肢である。そしてもう一つの選択肢は座を同じうしないことである。法華講の諸氏は後者を選択したわけなのだろう。

だったらオマエはどうなのか?

当然、わたくしに対する批判もあるはずで、沖浦氏のような大謗法者を駆逐しないでノサバラセテいることは与同罪に当たる、というコメントが寄せられてもおかしくはないだろう。

これについてはその通りなのであえて弁解するつもりはないが、ただ明確に言えることは沖浦氏に対する破折は要所要所でやっていることなので、その点は拙ブログを隈なく読めばわかるはずだし、今後もそれは継続的に行なっていくつもりである。何しろ氏の主張はあまりにもデタラメ過ぎるためか、他の創価学会員からも破折されてしまうくらいなのである。わたくしはいちいち他所のサイトまで確認していないので詳しくは知らないが、大沢氏から寄せられる断片的な情報だけでもその様子はおおよそ窺えるところなのである。

つまり、わたくしとしてはその場の勢いだけで反論めいたことを書く必要はなく、どっしりと構えていればいいわけで、相手がデタラメなことを言っている時にはキッチリと破折する、というような姿勢で今後もやっていくつもりである。

さて、話は変わる。顕正新聞第1452号を見ていこう。

安倍首相の自衛隊高級幹部会同における「訓示」は
 「憲法尊重擁護義務」に違反している


顕正会法務部長である藤村弁護士の記事である。一言で感想を述べると、これは一見するとイチャモンのような話にも聞こえるところなのだが、かなり重要なことなのだろうと思えた。

話はわりと簡単である。安倍首相は自衛隊の会合で憲法改正を訴えた。この場合、どのような立場での発言か、それが問題となるのだ。一政治家として主義主張を述べることは問題ない。しかし、行政府の長として憲法改正を述べることは大問題なのである。この点を藤村氏は弁護士らしい緻密な文章で詳しく説明している。ともかく権力者を縛るものは法である。もし権力者が法を犯しても罰せられないとすれば、それは独裁である。もはや誰も権力の横暴を止められない。その意味で今回の問題はけっこう重要な意味を持っていると考えられるのだ。

ところで当該号は八月度班長会の記事を中心に組まれている。今頃になって取り上げるのもどうかしているが、いちおう順番通りということでご了承願いたい。

公権力とマスコミを使って顕正会を危険な団体と世間に誤信させようと・・・

総男子部長の発言である。誤信が気になった。語義的に適切かどうかが悩ましい。わたくしならば誤解と書きたいところである。

ちなみに上掲は創価学会がさまざまの謀略を仕掛けて顕正会のイメージダウンを図ったという話である。確かにそうなのかもしれないが、ぜんぶがぜんぶではないだろう。創価学会とは無縁の動きも存在するはずなのだ。
例えば『迷走する顕正会を斬る』という本がある。まさかこの本も創価学会のシワザだと考えているのだろうか?
おそらく今となっては創価学会の謀略の有る無しにかかわらず、顕正会を危険視する論調が生まれて当然であるし、政府の調査機関においても注目していると考えて間違いないだろう。

つまり、何でもかんでも創価学会と絡めて考えるのが顕正会の悪いクセであり、今もそんなところを行ったり来たりしているようでは、まるで進歩がないということになるだろう。

広布最終局面・・・

副総男子部長の記事に出てくる言葉である。最終段階を言い続けて二十年。さすがに己を客観視できる人間ならば言えなくなって当然である。彼がそうなのかもしれない。だとしても、最終段階も最終局面も似たり寄ったりだろう。

大師子吼

総合婦人部長である。困った人だ。

釈尊在世の比ではない・・・

今度は副総合婦人部長だ。通常、大聖人と釈尊とを比較する、いわゆる種脱相対が日蓮正宗の教学である。ところが彼女の言っていることはそれとは異なる。なんと浅井先生のことを云々するくだりにおいて、釈尊在世の比ではないなどと言っているわけである。まったくわけのわからない話だ。

いま諸天と浅井先生しかおられぬ・・・

もはや面倒なので説明を端折る。ともかく諸天と浅井先生が並んじゃっているのが凄いわけで、彼女は先生を普通の人間ではないと言いたいわけなのだろう。


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