2018/11/2

タタリガミ  
沖浦氏はわたくしに対しては少し寛容なところがあるものの、法華講の諸氏に対しては容赦がない。その理由がよくわからない。あるいはわたくしの場合はブログの主宰者なので、それで手加減してくれているのかもしれない。

ところで今朝になって、ヤメケン氏からコメントが寄せられた。

祟り神日蓮という独自解釈はどう思いますか?

貴殿は昭衛教学に一目置いていたようだけど、戸田とも異なるこの狂学。

戸田はんに憧れて息子に城と克の字を充てがう御仁。

日蓮系は狂ってる人が多いが昭チャンも多分に漏れず狂。


まず、息子に城と克の字を云々について書くと、城衛は城聖を想起させるが克衛のほうは何を意味するのか、わたくしにはわからない。この点、ご教示願いたいと思う。

それから昭衛教学に一目置いていたのは事実であって、それは今もそれほど変わらないつもりである。ただし、独学で研鑽するようになってからは浅井教学の問題点も見えてきた。拙ブログではそうした観点からも顕正会批判を展開してきたつもりであるが、まさに徒然なるままに書いているので、まとまりがない。その意味ではいずれ本格的に書かないといけないとは思うものの、ズボラな性格が災いしてなかなか実行できない。今はそんな感じである。

祟り神日蓮という独自解釈・・・

さて、本題である。ヤメケン氏はご覧のように独自解釈と書いていらっしゃる。ようするに氏の認識としては浅井先生独自の解釈ということなのだろう。

わたくし自身はそれが独自の解釈なのか否かよくわかっていないのだが、前々回の拙稿で示したように、たくさんある日蓮系の教団の中でもこのような解釈をするのは顕正会だけではないか、というふうには書いた。あるいはヤメケン氏もこの文脈を受けて上掲のように書いたのかもしれない。

そこで煩瑣になるのを承知しつつも説明したい。浅井先生のロジックは次の二つの御書に基づくと考えられる。

・・・教主釈尊よりも大事なる行者を、法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち、十巻共に引き散らして散々に踏みたりし大禍は、現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ。

まず一つ目が下山御消息であり、浅井先生はいわゆる現当二世の解釈において独自性と思しきものを打ち出している。ようするに大聖人御在世当時と広宣流布前夜の今現在を意味するのだと。

 仏、法華経をとかせ給ひて年数二千二百余年なり。人間こそ寿も短き故に、仏をも見奉り候人も侍らね。天上は日数は永く寿も長ければ、併ら仏をおがみ法華経を聴聞せる天人かぎり多くおはするなり。

そして祈禱抄の当該御文は前掲を補強する意味がある。諸天善神の寿命は人間のそれとは異なる。ゆえに時間感覚が異なる。具体的に示すと、日月天や毘沙門天などは釈尊入滅後二ヶ月足らず、さらに帝釈や梵天の感覚からするともっと短い日数になる、ということなのだ。

当然、顕正会では大聖人を御本仏と仰ぐ。大聖人滅後すでに七百有余年。人間の時間感覚からすれば遥か昔であるが、諸天善神の時間感覚は上述のごとくである。つまり、昨日のことのように憶えている。

ゆえに今、諸天善神が励みをなして天変地夭を起こし、日本の人々を罰している・・・

これでおおむね説明できたと思うのだが、はたしてこれが正解なのかどうかが問題である。すでに前々回、疑問を呈したごとく、わたくし自身はこの説を支持することに相当の躊躇がある。また、一般人の感覚からしても相当に受け入れ難いものがあるだろう。

自分は関係ない!

個人主義が幅を利かせる現代においては、誰もがそのように思うはずである。実際、まったく記憶がないことであって、それにもかかわらず罪を着せられるとすれば、いわゆる冤罪にも相当することだろう。この点、顕正会側がどのように反論するのか、聞いてみたいものである。

くだんの二つの御文をゴリ押しするのかもしれない。大聖人がこのようにおっしゃっているのだ。オマエはそれを信じられないのかと。

実に困ったものである。

いちおう御書の拝し方で意見を言っておくと、別々の御書を持ち出してきて合わせて一本みたいなロジックは得てして誤謬を生むものである。ようは正解の場合もあるが不正解の場合もある。まずはこの点を理解しておく必要があるだろう。

そこでわたくしの結論を書くと、この場合は不正解の蓋然性が高いと思う。

 然れば大悪人を用ゆる大科、正法の大善人を恥辱する大罪、二悪鼻を並べて此の国に出現せり。・・・現世には国を亡ぼし身を失ひ、後生には悪道に堕ちぬ。

前掲の下山御消息は長文の御書であり、大事なことがたくさん認められている。実は上掲も同御書の一節なのである。前掲の現当二世云々と、上掲の現世には国を亡ぼし云々が、見事に対応していることに気づくべきである。

するとどうだろう。当時、大聖人にアダをなした人々は皆悉く悪道に堕ちている。その時間たるや転々無数劫である。七百年後の今日も地獄の業火に苦しんでいるはずなのだ。

いわゆる輪廻転生の考え方からすると、もしかしたら自分は七百年前に大聖人にアダをなした一人なのかもしれないと思う人もいるわけで、あるいは顕正会ではその説を採っているとも考えられる。ただし、無間地獄の長さはベラボウであって、そう簡単には出所できないはずなのだ。そのことは顕正会員がいちばんよく知っているはずではないか?

つまり、現代人の感覚として自分は関係ないと考えることは決して間違いではなく、その無関係の人間までもが罰せられるとしたら、まるで八つ当たりみたいな話になってしまう。

なるほど、これを祟り神云々と評するわけなのだろう。

こうして見ると、浅井先生の独自解釈は間違いであり、かえって大聖人のイメージダウンにもなりかねない、そういう危険性を孕んでいるとも考えられるところである。だとすれば、これから開始されるであろう本格的な一国諫暁など無意味であり、それどころかハタメイワクなだけの話になってしまう。

日蓮系は狂ってる人が多いが昭チャンも多分に漏れず狂。

改めて掲げてみると、なるほど、そうかもしれない、と思わせるコメントである。


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