2019/2/28
ダンピツ
個人情報に抵触する質問にはお答えし兼ねる。これは以前にも同様のやり取りがあったはずで、どうしても知りたいのであれば、直接お会いしてお話しさせていただく。これが結論である。
顕正新聞の続きを見ていこう
大聖人様より唯お一人、遥拝勤行の大精神をお教え頂いた先生の仰せの・・・
女子部総務の文章である。わたくしは文法に疎い。しかし、上掲はいかにもヘンな文章に思える。具体的に言うと、「お教え頂いた」という表現がヘンである。そして文法的にどうこうではなく文脈的な意味において、「お教え頂いた先生」はいかにもヘンである。これではいったい誰が誰に教えているのか、それがさっぱりわからないのだ。全体の文脈としては、大聖人が浅井に対して教えたわけなのだろう。ところが浅井のところを先生にしてしまうと、どちらが先生でどちらが生徒なのかわからなくなる。もちろん彼女の言いたいことはわかっているつもりである。ただそれがいかにもヘンな言い回しであり、女子部の大幹部がこんなテイタラクでは困るだろうということなのだ。
もう一人の女子部総務の文章を見てみよう。
大聖人様の大師子吼・・・
もしかしたら初出かもしれない。実はこれ自体は何の問題もないのである。何が問題なのかわかるだろうか?
大聖人=大師子吼、浅井先生=師子吼
これはわたくしの提案である。もしこのルールに従えばさしたる問題はないと思う。ところがである。昨年中には驚くべき頻度で「浅井先生の大師子吼」が登場したのである。
おわかりだろうか?
大聖人が師子吼で浅井先生が大師子吼なのである。これでは本末転倒も甚だしいだろう。かくも顕正会の大幹部たちは狂っているのである。
女子部副総務の記事にも触れておこう。彼女はアメリカで戦う総班長の決意を次のように紹介している。
・・・明年の北東北大会には、「浅井先生を北東北にお迎えできるのは、それが最後」との真剣なる思いで、アメリカから馳せ参ずる決意を固めております。
この直前にはカリフォルニアとテキサスに自宅拠点を頂けるようにとの記述がある。確かこの人は三沢基地に駐留するアメリカ人と結婚し、夫の帰国に合わせて米国に移住したのだと思う。ゆえに北東北大会に馳せ参ずることに不審はない。その上であえて言えば、「それが最後」が気になるところである。
どうでもいいことを言うと、わたくしは「それが最後」とするか「これが最後」とするかが悩ましいと思っている。
いずれにしてもである。この発言は浅井先生の年齢を踏まえてのことだろう。不謹慎なことを書いているようだが、普通に読めば他に読みようがないと思う。
しかし、近頃また顕正新聞が溜まり始めている。そろそろ断筆すべきか・・・
顕正新聞の続きを見ていこう
大聖人様より唯お一人、遥拝勤行の大精神をお教え頂いた先生の仰せの・・・
女子部総務の文章である。わたくしは文法に疎い。しかし、上掲はいかにもヘンな文章に思える。具体的に言うと、「お教え頂いた」という表現がヘンである。そして文法的にどうこうではなく文脈的な意味において、「お教え頂いた先生」はいかにもヘンである。これではいったい誰が誰に教えているのか、それがさっぱりわからないのだ。全体の文脈としては、大聖人が浅井に対して教えたわけなのだろう。ところが浅井のところを先生にしてしまうと、どちらが先生でどちらが生徒なのかわからなくなる。もちろん彼女の言いたいことはわかっているつもりである。ただそれがいかにもヘンな言い回しであり、女子部の大幹部がこんなテイタラクでは困るだろうということなのだ。
もう一人の女子部総務の文章を見てみよう。
大聖人様の大師子吼・・・
もしかしたら初出かもしれない。実はこれ自体は何の問題もないのである。何が問題なのかわかるだろうか?
大聖人=大師子吼、浅井先生=師子吼
これはわたくしの提案である。もしこのルールに従えばさしたる問題はないと思う。ところがである。昨年中には驚くべき頻度で「浅井先生の大師子吼」が登場したのである。
おわかりだろうか?
大聖人が師子吼で浅井先生が大師子吼なのである。これでは本末転倒も甚だしいだろう。かくも顕正会の大幹部たちは狂っているのである。
女子部副総務の記事にも触れておこう。彼女はアメリカで戦う総班長の決意を次のように紹介している。
・・・明年の北東北大会には、「浅井先生を北東北にお迎えできるのは、それが最後」との真剣なる思いで、アメリカから馳せ参ずる決意を固めております。
この直前にはカリフォルニアとテキサスに自宅拠点を頂けるようにとの記述がある。確かこの人は三沢基地に駐留するアメリカ人と結婚し、夫の帰国に合わせて米国に移住したのだと思う。ゆえに北東北大会に馳せ参ずることに不審はない。その上であえて言えば、「それが最後」が気になるところである。
どうでもいいことを言うと、わたくしは「それが最後」とするか「これが最後」とするかが悩ましいと思っている。
いずれにしてもである。この発言は浅井先生の年齢を踏まえてのことだろう。不謹慎なことを書いているようだが、普通に読めば他に読みようがないと思う。
しかし、近頃また顕正新聞が溜まり始めている。そろそろ断筆すべきか・・・
2019/2/21
ムリクリ
顕正新聞の続きを見ていこう。まずは大幹部たちの記事に散見される次の言葉に注目したい。
指呼の間
不勉強のわたくしはこの言葉を知らなかった。知らないけれども意味は何となくわかる。どうやら南海トラフ地震が目前まで迫っていることを言っているようである。
姿は、・・・先生のお姿と重なり、
さて、これは副総男子部長の記事に出てくるものだが、どのようなことを言っているのか、想像できるだろうか?
煩瑣になるので引用は控えよう。ようするに熱原の法華講衆と浅井先生が重なって見えると言っているのだ。このパターンはめずらしいかもしれない。特にイチャモンをつけるようなところではないが、あえて指摘するならば「姿」と「お姿」だろう。
法華講衆は姿で浅井先生はお姿なのだそうである。
先生の戦いは必ず諸天を動かす・・・
第十八男子部長の発言である。
次の男子部総務の発言も見過ごせない。
そこに広宣流布の時、日目上人が改めて御出現になり、本部会館の貴賓室において、浅井先生と御面談されることに思いを馳せれば・・・
ズバリ、無理である。
総合婦人部長の発言にも注目したい。
そしていよいよ発足以来のご念願たる、大聖人様御馬前の大法戦場を眼前にされ・・・
これは確認しないといけないだろう。いわゆる決戦場がそれなのかと。
このところ何度も言っているように、決戦場だとか三百万だとか、そうしたハデな言葉ばかりが飛び交っているわりには、その意味するところはアイマイであり、ハッキリしない。ようはゴマカシがあるのだ。
副総合婦人部長の発言もどうかと思う。
いまこの大潮流に呼応して、諸天の誡めも激しくなってきたことを・・・
大潮流とは何ぞや? 文脈的には直前の次のくだりが相当すると思われる。
いま顕正会は二百万となり、この歓喜の五十展転がやがて六千万となり・・・
二百万は名目上の数字に過ぎないけれども、いちおうは達成した。そして今は三百万を盛んに云々している段階である。それにもかかわらず彼女は六千万がどうのこうのと言っている。もちろん言うのは勝手である。しかし、大潮流は言い過ぎだろう。
わたくしの感覚で言わせてもらえば、二百万を達成し、いよいよ加速度が付いてきて、今では五百万を窺う勢いであり、一千万も夢じゃない、というような感じになって、そこでようやく大潮流と表現し得るのではないかと思う。
事実、彼女は締め括りのところで次のように言っているのだ。
一刻も早く三百万を成し遂げる大猛進を展開し・・・
結局のところ、現実的には三百万を達成できるかどうかのレベルに過ぎないわけで、言葉尻を捕らえるようではあるが、ここで大猛進を云々するのはまだ大猛進のレベルに達していないからに他ならない。つまりは大潮流も同様である。
もう一人の副総合婦人部長の発言も拾っておこう。
先生は、歓喜の五十展転に呼応して諸天の誡めも激しくなると指摘・・・
先ほどと同じところをなぞっているが、微妙に異なっている。そしてわたくし自身はウッカリ見過ごしてしまったようであるが、これは浅井先生の指導に基づくものらしい。
歓喜×誡め=広宣流布?
これはわたくしが作った数式である。最後にハテナを入れたことでわかるように、わたくし自身はこれに疑問を懐いているのだ。
ひじょうに難しい話だとは思う。ゆえに今は暫定的な意見と断わった上で言おう。ようは呪詛的であり、狂気的である。なぜならば諸天の誡めとは差し当たって自然災害などにより多数の人たちが不幸になることなのだ。そうした不幸に対して顕正会員たちは歓喜しているわけである。他人の不幸は蜜の味ということだろうか?
最後に婦人部横浜支区総班副長の記事を紹介して終わりたい。
二万人の創価学会・学生部大会
何号か前に載っていた写真に、ベラボウに大きな会場で超満員の聴衆を前にして池田氏が演説しているものがあった。昭和四十三年のことらしい。
そして本号では昭和四十二年に行なわれた東京文化祭の写真が紹介されている。国立競技場に十万人を集めたのだそうである。
なかでも、四万二千人で作った「世界平和」「正本堂堂宇」の人文字は強烈に印象に残っていますが・・・
レベルがめちゃくちゃ高い。いちおうキャプションも紹介しておこう。
池田大作筆の「世界平和」の人文字(国立競技場)
通常のレベルだと、いわゆるゴシック体みたいな四角四面の人文字を作るのが精一杯だと思う。ところがここに「筆」とあるごとく、まさに池田大作氏の筆跡をそのまま人文字で表現しているのである。なるほど、四万二千人で作ればこうした精巧なものが作れるのだろう。今の言葉で言えば、ドット数の多さによって解像度が高くなっているみたいな感じだろうか?
現状、顕正会では十万人集めるのも一苦労だろう。無理くり掻き集めたとしても烏合の衆と化すのが関の山である。当然、こんなハイレベルな人文字は作れまい。
指呼の間
不勉強のわたくしはこの言葉を知らなかった。知らないけれども意味は何となくわかる。どうやら南海トラフ地震が目前まで迫っていることを言っているようである。
姿は、・・・先生のお姿と重なり、
さて、これは副総男子部長の記事に出てくるものだが、どのようなことを言っているのか、想像できるだろうか?
煩瑣になるので引用は控えよう。ようするに熱原の法華講衆と浅井先生が重なって見えると言っているのだ。このパターンはめずらしいかもしれない。特にイチャモンをつけるようなところではないが、あえて指摘するならば「姿」と「お姿」だろう。
法華講衆は姿で浅井先生はお姿なのだそうである。
先生の戦いは必ず諸天を動かす・・・
第十八男子部長の発言である。
次の男子部総務の発言も見過ごせない。
そこに広宣流布の時、日目上人が改めて御出現になり、本部会館の貴賓室において、浅井先生と御面談されることに思いを馳せれば・・・
ズバリ、無理である。
総合婦人部長の発言にも注目したい。
そしていよいよ発足以来のご念願たる、大聖人様御馬前の大法戦場を眼前にされ・・・
これは確認しないといけないだろう。いわゆる決戦場がそれなのかと。
このところ何度も言っているように、決戦場だとか三百万だとか、そうしたハデな言葉ばかりが飛び交っているわりには、その意味するところはアイマイであり、ハッキリしない。ようはゴマカシがあるのだ。
副総合婦人部長の発言もどうかと思う。
いまこの大潮流に呼応して、諸天の誡めも激しくなってきたことを・・・
大潮流とは何ぞや? 文脈的には直前の次のくだりが相当すると思われる。
いま顕正会は二百万となり、この歓喜の五十展転がやがて六千万となり・・・
二百万は名目上の数字に過ぎないけれども、いちおうは達成した。そして今は三百万を盛んに云々している段階である。それにもかかわらず彼女は六千万がどうのこうのと言っている。もちろん言うのは勝手である。しかし、大潮流は言い過ぎだろう。
わたくしの感覚で言わせてもらえば、二百万を達成し、いよいよ加速度が付いてきて、今では五百万を窺う勢いであり、一千万も夢じゃない、というような感じになって、そこでようやく大潮流と表現し得るのではないかと思う。
事実、彼女は締め括りのところで次のように言っているのだ。
一刻も早く三百万を成し遂げる大猛進を展開し・・・
結局のところ、現実的には三百万を達成できるかどうかのレベルに過ぎないわけで、言葉尻を捕らえるようではあるが、ここで大猛進を云々するのはまだ大猛進のレベルに達していないからに他ならない。つまりは大潮流も同様である。
もう一人の副総合婦人部長の発言も拾っておこう。
先生は、歓喜の五十展転に呼応して諸天の誡めも激しくなると指摘・・・
先ほどと同じところをなぞっているが、微妙に異なっている。そしてわたくし自身はウッカリ見過ごしてしまったようであるが、これは浅井先生の指導に基づくものらしい。
歓喜×誡め=広宣流布?
これはわたくしが作った数式である。最後にハテナを入れたことでわかるように、わたくし自身はこれに疑問を懐いているのだ。
ひじょうに難しい話だとは思う。ゆえに今は暫定的な意見と断わった上で言おう。ようは呪詛的であり、狂気的である。なぜならば諸天の誡めとは差し当たって自然災害などにより多数の人たちが不幸になることなのだ。そうした不幸に対して顕正会員たちは歓喜しているわけである。他人の不幸は蜜の味ということだろうか?
最後に婦人部横浜支区総班副長の記事を紹介して終わりたい。
二万人の創価学会・学生部大会
何号か前に載っていた写真に、ベラボウに大きな会場で超満員の聴衆を前にして池田氏が演説しているものがあった。昭和四十三年のことらしい。
そして本号では昭和四十二年に行なわれた東京文化祭の写真が紹介されている。国立競技場に十万人を集めたのだそうである。
なかでも、四万二千人で作った「世界平和」「正本堂堂宇」の人文字は強烈に印象に残っていますが・・・
レベルがめちゃくちゃ高い。いちおうキャプションも紹介しておこう。
池田大作筆の「世界平和」の人文字(国立競技場)
通常のレベルだと、いわゆるゴシック体みたいな四角四面の人文字を作るのが精一杯だと思う。ところがここに「筆」とあるごとく、まさに池田大作氏の筆跡をそのまま人文字で表現しているのである。なるほど、四万二千人で作ればこうした精巧なものが作れるのだろう。今の言葉で言えば、ドット数の多さによって解像度が高くなっているみたいな感じだろうか?
現状、顕正会では十万人集めるのも一苦労だろう。無理くり掻き集めたとしても烏合の衆と化すのが関の山である。当然、こんなハイレベルな人文字は作れまい。
2019/2/17
ザックバラン
今日はざっくばらんに顕正新聞の続きを見ていくつもりだが、昨日の拙稿で示した三百万と決戦場の関係性については、図らずも総男子部長が答えを書いてくれているようである。
いよいよ三百万を一気に成す体制を構築してまいらん・・・
わたくしの指摘は、三百万が十五年後に達成されるものだとすると、二十年代の決戦場とはいったい何なのか、というものである。しかし、上掲のごとく、三百万が一気に達成されればツジツマは合うわけで、三百万=決戦場、という等式が成り立つ。
ただ、おそらくはすでに同様のことを繰り返し書いているはずだが、現実的には難しいだろうと思う。なぜならば今までだって下方修正を繰り返してきたのである。ゆえに今後もそう大きくは変わらないだろう。
そこに、宗門と仲間割れするや、たちまちに戒壇の大御本尊を捨て奉った池田大作・・・
同じく総男子部長であるが、わたくしはこのくだりに違和感を覚えた。
昨秋、学会員を救う特集号の決定版が出された。そこで言っていることと上掲にはかなりの隔たりがあるように感じられるのである。決定版には三段階云々の記述がある。その第一段階は正本堂が完成する数年前のことだとしているのだ。浅井先生によれば、池田大作氏はそこから四十数年の歳月をかけて創価学会員に戒壇の大御本尊を捨てさせたのだそうである。
だったら上掲はおかしいだろう。
わずか数ヶ月前に言っていたことと今言っていることが、これほど食い違う例もめずらしい。行き当たりばったりにも程がある。今や顕正会は矛盾だらけになってしまい、まったく収拾がつかないようだ。
同様の発言を副総男子部長の一人もしている。あれ? ひょっとしたら? と思って十二月度総幹部会の会長講演を確認してみたところ、案の定、それは会長講演からの受け売りだった。
しかるに池田大作は、宗門との仲間割れが始まるや、たちまちにこの戒壇の大御本尊を捨て奉った。
これが会長講演である。拙ブログではすでに当該講演の話題を書いているわけだが、ウッカリとこの部分は見過ごしてしまっていた。しかし、男子部の大幹部たちのお蔭でこうして気がつくことができた。感謝申し上げたい。
いよいよ浅井先生も焼きが回ってきたようである。
ようするに、決定版を謳っているのは九月度総幹部会の会長講演をベースにした特集号であり、上述のごとく三ヶ月後の総幹部会ではまるで違ったことを言っているのである。
また、ある意味ではそれを男子部の大幹部たちが増幅させてしまったことになる。いわば先生の恥を隠すのではなく、晒してしまったわけである。何しろわたくしは彼らの記事を読むまでウッカリ気がつかずにいたのだ。ゆえに彼らが書かなければわたくしは気がつかず、よってこうしてブログに書くこともなかったのである。その意味で彼らは不肖の弟子たちであり、そのうちの一人は親不孝者である。
では、どちらが正解なのか、それを書いておこう。
単純化すると、三段階説とたちまち説の二つがある。このどちらが正しいのか、という問題である。別の表現を使うと、用意周到説と行き当たりばったり説、である。答えは一目瞭然だろう。
ようは後者が正解である。しょせんは凡夫なのである。凡夫には未来がわからない。浅井先生も凡夫であるからして今回のような矛盾を生ずるし、池田大作氏もしょせんは凡夫に過ぎないので似たり寄ったりなのである。
もちろん創価学会という大組織を運営するに当たっては長期的視野が必要であり、池田氏の公式非公式の発言を拾っていけばそうした遠大な構想のようなことが語られているのも事実である。
しかし、現実にはさまざまの要因があって、必ずしも思うように事が運んでいるわけではない。繰り返し言うが、それが凡夫なのである。
すでに触れているように、このことは浅井先生もまったく同じである。ところが今の顕正会は浅井先生をほとんど本仏であるかのように扱っている。これが返ってアダになることは目に見えている。人間は必ず間違えるのである。それを無謬のように錯覚しても、しょせんは錯覚に過ぎないのだから、いつかは化けの皮が剥がれる時が来る。
浅井先生は広宣流布のゴールが近いことを繰り返し言っているけれども、むしろ化けの皮の剥がれる日のほうが早いのではないかと、そんな気がする今日この頃である。
いよいよ三百万を一気に成す体制を構築してまいらん・・・
わたくしの指摘は、三百万が十五年後に達成されるものだとすると、二十年代の決戦場とはいったい何なのか、というものである。しかし、上掲のごとく、三百万が一気に達成されればツジツマは合うわけで、三百万=決戦場、という等式が成り立つ。
ただ、おそらくはすでに同様のことを繰り返し書いているはずだが、現実的には難しいだろうと思う。なぜならば今までだって下方修正を繰り返してきたのである。ゆえに今後もそう大きくは変わらないだろう。
そこに、宗門と仲間割れするや、たちまちに戒壇の大御本尊を捨て奉った池田大作・・・
同じく総男子部長であるが、わたくしはこのくだりに違和感を覚えた。
昨秋、学会員を救う特集号の決定版が出された。そこで言っていることと上掲にはかなりの隔たりがあるように感じられるのである。決定版には三段階云々の記述がある。その第一段階は正本堂が完成する数年前のことだとしているのだ。浅井先生によれば、池田大作氏はそこから四十数年の歳月をかけて創価学会員に戒壇の大御本尊を捨てさせたのだそうである。
だったら上掲はおかしいだろう。
わずか数ヶ月前に言っていたことと今言っていることが、これほど食い違う例もめずらしい。行き当たりばったりにも程がある。今や顕正会は矛盾だらけになってしまい、まったく収拾がつかないようだ。
同様の発言を副総男子部長の一人もしている。あれ? ひょっとしたら? と思って十二月度総幹部会の会長講演を確認してみたところ、案の定、それは会長講演からの受け売りだった。
しかるに池田大作は、宗門との仲間割れが始まるや、たちまちにこの戒壇の大御本尊を捨て奉った。
これが会長講演である。拙ブログではすでに当該講演の話題を書いているわけだが、ウッカリとこの部分は見過ごしてしまっていた。しかし、男子部の大幹部たちのお蔭でこうして気がつくことができた。感謝申し上げたい。
いよいよ浅井先生も焼きが回ってきたようである。
ようするに、決定版を謳っているのは九月度総幹部会の会長講演をベースにした特集号であり、上述のごとく三ヶ月後の総幹部会ではまるで違ったことを言っているのである。
また、ある意味ではそれを男子部の大幹部たちが増幅させてしまったことになる。いわば先生の恥を隠すのではなく、晒してしまったわけである。何しろわたくしは彼らの記事を読むまでウッカリ気がつかずにいたのだ。ゆえに彼らが書かなければわたくしは気がつかず、よってこうしてブログに書くこともなかったのである。その意味で彼らは不肖の弟子たちであり、そのうちの一人は親不孝者である。
では、どちらが正解なのか、それを書いておこう。
単純化すると、三段階説とたちまち説の二つがある。このどちらが正しいのか、という問題である。別の表現を使うと、用意周到説と行き当たりばったり説、である。答えは一目瞭然だろう。
ようは後者が正解である。しょせんは凡夫なのである。凡夫には未来がわからない。浅井先生も凡夫であるからして今回のような矛盾を生ずるし、池田大作氏もしょせんは凡夫に過ぎないので似たり寄ったりなのである。
もちろん創価学会という大組織を運営するに当たっては長期的視野が必要であり、池田氏の公式非公式の発言を拾っていけばそうした遠大な構想のようなことが語られているのも事実である。
しかし、現実にはさまざまの要因があって、必ずしも思うように事が運んでいるわけではない。繰り返し言うが、それが凡夫なのである。
すでに触れているように、このことは浅井先生もまったく同じである。ところが今の顕正会は浅井先生をほとんど本仏であるかのように扱っている。これが返ってアダになることは目に見えている。人間は必ず間違えるのである。それを無謬のように錯覚しても、しょせんは錯覚に過ぎないのだから、いつかは化けの皮が剥がれる時が来る。
浅井先生は広宣流布のゴールが近いことを繰り返し言っているけれども、むしろ化けの皮の剥がれる日のほうが早いのではないかと、そんな気がする今日この頃である。
2019/2/16
ギュウギュウヅメ
顕正新聞第1463号を見ていこう。
第一面は合計十三枚の写真を使って元旦勤行の様子を伝えている。まずは右下の三つの写真について感想を述べたい。本部会館二階の第一集会室で三者それぞれが浅井先生に新年の挨拶をしているのだ。
女子部最強を印象付ける写真である。
三者とは男子部女子部婦人部の三つの組織のことで、それぞれが別々に集合して浅井先生を迎えるような格好である。入れ替わる時間を考えると、けっこう面倒臭いことだが、それはともかく三つの写真を眺めると明らかに違いが存するのだ。
畳の空きスペースを見ると、女子部はギュウギュウヅメ、男子と婦人はそれほどでもない。つまり、人数が違うのだ。
さらに言えば、かつては壮年部が存在した。ゆえに旧の四者体制に戻せば、男子部壮年部はスカスカ状態になる。あるいは単純に男女別にすると、掲載されている男子部の写真はそのままで使える。そして女子部婦人部の連合軍は、想像するだけでも凄いことになる。まさにスシヅメ状態だ。
先生の「年頭ご挨拶」のビデオ放映に感動がたぎる。盛岡会館(右)と秋田会館(左)
左下には二列三段で六つの写真が掲載されている。中段の二つの写真にはご覧のような説明があるわけだが、わたくしには甚だ疑問である。ようするに盛岡会館を左に配置するなり説明文を逆にするなりすれば自然のはずなのである。つまり、そのようにすればわざわざ右とか左などと書く必要はないのだ。それとも何か特別な理由があるのだろうか?
さて、二面から三面には元旦勤行における浅井先生の御挨拶が掲載されている。
ここに顕正会は自然と、御遺命に背き奉った細井日達・阿部日顕が書写した本尊ではなく・・・
これはウソである。この点はハッキリと言っておかねばならない。
ごく単純に、解散処分直前までは妙縁寺で御授戒を受けていたはずであり、当然、御本尊も妙縁寺経由で授与ないし貸与されていた。ゆえに今となっては希少な存在ではあろうけれども、妙信講員の中にも日達上人御書写の御本尊を頂戴している人がいるわけである。
あるいはそれ以降、おそらくは平成十年ごろまでのことだろうか、創価学会や法華講から移籍してくる人たちは、その多くが日達上人ないし日顕上人の御本尊を携えてやってくるのである。それを顕正会では肯定していたのだ。
ところがここ十年ないし二十年くらいは返納が普通になってしまった。顕正新聞を調べれば一目瞭然である。逆に平成十年以前においては返納云々の記事がほとんど見当たらないと言っても過言ではなく、つまりはこの頃に方向転換したわけである。
自然と・・・
再掲である。浅井先生は解散処分を経て自然とそのようになったかのごとく言っているが、事実は上述のごとくであるからして、これは許し難き変節であり、かつまた歴史の改竄なのである。
日本は世界で初めて広島・長崎に原爆を投下された国・・・
拙ブログではすでに何十回も指摘していることだが、浅井先生の始めてと初めての使い分けには何か法則性があるのだろうか?
いよいよ本年、三百万への死身弘法を大きく進め、全員で二〇年代の決戦場に馳せ参じ、何としても大聖人様に応え奉ろうではありませんか。
締め括りの一節である。そして同時に今回の浅井発言における最大の問題点である。
三百万と決戦場の関係性がわからないのだ。
三百万は数値目標である。その数字を達成するために前進していく。ゆえにいつかは到達できるものだと思う。
決戦場は場所である。そして二十年代を云々してしまっている。ゆえに必ずその時がやってくる。
しかし、決戦場の時期はすぐそこまで迫っているにもかかわらず、三百万のほうは十年以上先のことだと考えられるのだ。まるでわけがわからん話である。
つまりはデタラメなのである。
決戦場云々は顕正会が勝手に言っていることであって、そこが本当に決戦場なのかどうかはわからない。三百万云々にしたって、過去の目標値を調べれば一目瞭然であって、ようは下方修正の繰り返しなのである。ゆえに信用に値しない。
結局のところ、会員の士気を鼓舞するためには当面の目標を掲げないといけない。ゆえに浅井先生としてはその都度、場当たり的に見栄えのいいことを言うしかないのだろう。その繰り返しなのである。
第一面は合計十三枚の写真を使って元旦勤行の様子を伝えている。まずは右下の三つの写真について感想を述べたい。本部会館二階の第一集会室で三者それぞれが浅井先生に新年の挨拶をしているのだ。
女子部最強を印象付ける写真である。
三者とは男子部女子部婦人部の三つの組織のことで、それぞれが別々に集合して浅井先生を迎えるような格好である。入れ替わる時間を考えると、けっこう面倒臭いことだが、それはともかく三つの写真を眺めると明らかに違いが存するのだ。
畳の空きスペースを見ると、女子部はギュウギュウヅメ、男子と婦人はそれほどでもない。つまり、人数が違うのだ。
さらに言えば、かつては壮年部が存在した。ゆえに旧の四者体制に戻せば、男子部壮年部はスカスカ状態になる。あるいは単純に男女別にすると、掲載されている男子部の写真はそのままで使える。そして女子部婦人部の連合軍は、想像するだけでも凄いことになる。まさにスシヅメ状態だ。
先生の「年頭ご挨拶」のビデオ放映に感動がたぎる。盛岡会館(右)と秋田会館(左)
左下には二列三段で六つの写真が掲載されている。中段の二つの写真にはご覧のような説明があるわけだが、わたくしには甚だ疑問である。ようするに盛岡会館を左に配置するなり説明文を逆にするなりすれば自然のはずなのである。つまり、そのようにすればわざわざ右とか左などと書く必要はないのだ。それとも何か特別な理由があるのだろうか?
さて、二面から三面には元旦勤行における浅井先生の御挨拶が掲載されている。
ここに顕正会は自然と、御遺命に背き奉った細井日達・阿部日顕が書写した本尊ではなく・・・
これはウソである。この点はハッキリと言っておかねばならない。
ごく単純に、解散処分直前までは妙縁寺で御授戒を受けていたはずであり、当然、御本尊も妙縁寺経由で授与ないし貸与されていた。ゆえに今となっては希少な存在ではあろうけれども、妙信講員の中にも日達上人御書写の御本尊を頂戴している人がいるわけである。
あるいはそれ以降、おそらくは平成十年ごろまでのことだろうか、創価学会や法華講から移籍してくる人たちは、その多くが日達上人ないし日顕上人の御本尊を携えてやってくるのである。それを顕正会では肯定していたのだ。
ところがここ十年ないし二十年くらいは返納が普通になってしまった。顕正新聞を調べれば一目瞭然である。逆に平成十年以前においては返納云々の記事がほとんど見当たらないと言っても過言ではなく、つまりはこの頃に方向転換したわけである。
自然と・・・
再掲である。浅井先生は解散処分を経て自然とそのようになったかのごとく言っているが、事実は上述のごとくであるからして、これは許し難き変節であり、かつまた歴史の改竄なのである。
日本は世界で初めて広島・長崎に原爆を投下された国・・・
拙ブログではすでに何十回も指摘していることだが、浅井先生の始めてと初めての使い分けには何か法則性があるのだろうか?
いよいよ本年、三百万への死身弘法を大きく進め、全員で二〇年代の決戦場に馳せ参じ、何としても大聖人様に応え奉ろうではありませんか。
締め括りの一節である。そして同時に今回の浅井発言における最大の問題点である。
三百万と決戦場の関係性がわからないのだ。
三百万は数値目標である。その数字を達成するために前進していく。ゆえにいつかは到達できるものだと思う。
決戦場は場所である。そして二十年代を云々してしまっている。ゆえに必ずその時がやってくる。
しかし、決戦場の時期はすぐそこまで迫っているにもかかわらず、三百万のほうは十年以上先のことだと考えられるのだ。まるでわけがわからん話である。
つまりはデタラメなのである。
決戦場云々は顕正会が勝手に言っていることであって、そこが本当に決戦場なのかどうかはわからない。三百万云々にしたって、過去の目標値を調べれば一目瞭然であって、ようは下方修正の繰り返しなのである。ゆえに信用に値しない。
結局のところ、会員の士気を鼓舞するためには当面の目標を掲げないといけない。ゆえに浅井先生としてはその都度、場当たり的に見栄えのいいことを言うしかないのだろう。その繰り返しなのである。
2019/2/11
コウゴウシイ
顕正新聞第1462号の続きをざっと見ていこう
何より、日尊・日郷が日目上人の御遺言のまま、日目上人のご遺骨を奉じて申状を奏呈されていたと始めて伺っては、大衝撃を受け・・・
第二十五婦人部長の発言である。部長クラスがこのテイタラクなのだから、顕正会員の大半が誤解していたことになるだろう。ようするに日目上人御遷化の後、日尊は京都へ、日郷は上人の御遺骨を奉じて直ちに大石寺に戻ったと、このような理解が顕正会では一般だったわけである。
男子部第百三十七隊支隊長の記事は祖父の臨終を伝えるものであるが、一点だけ指摘しておきたい。
なんと数十万円の保険まで下りたのです。
このアバウトさがわからない。そもそも保険金は、掛け金はさておき受け取り金額のほうは、わりと整った数字になっている場合が多いはずである。現実的には端数が生じることがあるのかもしれないが、さりとて数十万みたいなアイマイな言い方はしないだろう。
また、上掲とは話がズレるが、お金を工面しなければならないような時にはもちろん正確な数字がわかればそれに越したことはないけれども、最初のうちは概算しかわからない場合もある。その場合、まさか数十万です、とは言わないだろう。例えば五十数万だとか、六十万弱だとか、そんな感じで伝えられるはずである。それはそうだろう。今の例では、とりあえず六十万用意しておけば大丈夫という話になるはずなのだ。それが数十万みたいな言い方では、それこそ念のために百万くらい用意しておかなければいけないという話になってくる。
女子部第二百三十八区長の記事は、創価学会員が続々と目覚めている様子を伝えている。その中の一人が顕正会の基礎教学書について、次のような感想を述べている。
「この本は神々しい」
誉め言葉なのだろう。それはさておき当該記事の問題点は次の一節である。
「早く一国を動かしたい」
と六千万を急がれる無二の師匠・浅井先生に・・・
幹部たちの言っていることがバラバラである。それは最終的には浅井先生の責任なのだろう。先生の言っていることが一定しないからである。
拙ブログをよくお読みになっている人ならばおわかりだろうが、このところの浅井先生は三百万を云々することが多かった。もちろん同時並行的に五百万だの一千万だの六千万だのと言っている。ゆえにくだんの区長はその中から六千万の部分を抽出して、上掲のように言っているわけなのだ。
結局、三百万になっても一国は動かない、もっと力を付けなければ無理である、ということなのだろう。その最終的な数字が六千万なのだ。しかし、三百万ならまだしも六千万は遠い未来のことである。つまりは夢のまた夢なのである。
女子部第百八十八区総班副長は、創価学会歴六十年にして婦人部長を務めていた七十九歳になる姑の入会を伝えている。ここでは二点ほど取り上げておこう。
これまで執着していた細井日達書写の本尊を学会に返納し・・・
おかしいだろう。なぜに正宗寺院に返納しないのかである。
そして次は前後の脈絡を省いているのでわかり難いが、重要なところなので紹介したい。
すると、何と本部長は
「いまの学会は確かに大聖人の御遺命のままではないが、池田会長を師として、会長の仰せのままの信心をしている。会長の指導を世界に弘めるのが広宣流布です」
と、学会が御遺命を捨てたことを認めたのでした。
こと御遺命に関しては顕正会員に一日の長がある。ゆえに本部長殿も上掲のように言うしかなかったのかもしれない。ただし、物凄く不審な点がある。池田会長云々である。
現役の創価学会幹部が池田会長という呼称を用いるのかが不審なのだ。池田名誉会長と呼ぶか池田先生と呼ぶか、その二つに一つだろう。
最後に男子部第六十三隊組長のことを書いて終わりたい。彼は創価学会三世だったらしく、顕正会へは昨年十月に移籍してきたようである。写真を見る限り、三十前後のように思える。現状、創価学会から顕正会へ移籍する人たちは、その多くが高齢者である。失礼ながら将来性はあまりない。そこにこうした三十前後の青年が入会してくるとなると、かなり事情が違ってくる。創価学会も全体的に高齢化が進み、若い人材が少ないようにも仄聞する。ゆえに若手の人材が顕正会へと大量に流入するような事態になれば、それこそ大きな地殻変動が起きることになるだろう。
さらにもう一つ、書いておく。
当該号は新春号だった。ゆえに巻末には、全国会員数および会館 列島分布図が載り、併せて顕正会発足より今日までの弘通の足跡が掲載されている。
それによれば百万達成が平成十五年十一月で、二百万達成が平成三十年七月である。
ようするに今後もあまり加速度が付かずダラダラと数字が伸びていくのであれば、三百万を達成するまでには十五年ほどの年月を要することになるのだ。
何より、日尊・日郷が日目上人の御遺言のまま、日目上人のご遺骨を奉じて申状を奏呈されていたと始めて伺っては、大衝撃を受け・・・
第二十五婦人部長の発言である。部長クラスがこのテイタラクなのだから、顕正会員の大半が誤解していたことになるだろう。ようするに日目上人御遷化の後、日尊は京都へ、日郷は上人の御遺骨を奉じて直ちに大石寺に戻ったと、このような理解が顕正会では一般だったわけである。
男子部第百三十七隊支隊長の記事は祖父の臨終を伝えるものであるが、一点だけ指摘しておきたい。
なんと数十万円の保険まで下りたのです。
このアバウトさがわからない。そもそも保険金は、掛け金はさておき受け取り金額のほうは、わりと整った数字になっている場合が多いはずである。現実的には端数が生じることがあるのかもしれないが、さりとて数十万みたいなアイマイな言い方はしないだろう。
また、上掲とは話がズレるが、お金を工面しなければならないような時にはもちろん正確な数字がわかればそれに越したことはないけれども、最初のうちは概算しかわからない場合もある。その場合、まさか数十万です、とは言わないだろう。例えば五十数万だとか、六十万弱だとか、そんな感じで伝えられるはずである。それはそうだろう。今の例では、とりあえず六十万用意しておけば大丈夫という話になるはずなのだ。それが数十万みたいな言い方では、それこそ念のために百万くらい用意しておかなければいけないという話になってくる。
女子部第二百三十八区長の記事は、創価学会員が続々と目覚めている様子を伝えている。その中の一人が顕正会の基礎教学書について、次のような感想を述べている。
「この本は神々しい」
誉め言葉なのだろう。それはさておき当該記事の問題点は次の一節である。
「早く一国を動かしたい」
と六千万を急がれる無二の師匠・浅井先生に・・・
幹部たちの言っていることがバラバラである。それは最終的には浅井先生の責任なのだろう。先生の言っていることが一定しないからである。
拙ブログをよくお読みになっている人ならばおわかりだろうが、このところの浅井先生は三百万を云々することが多かった。もちろん同時並行的に五百万だの一千万だの六千万だのと言っている。ゆえにくだんの区長はその中から六千万の部分を抽出して、上掲のように言っているわけなのだ。
結局、三百万になっても一国は動かない、もっと力を付けなければ無理である、ということなのだろう。その最終的な数字が六千万なのだ。しかし、三百万ならまだしも六千万は遠い未来のことである。つまりは夢のまた夢なのである。
女子部第百八十八区総班副長は、創価学会歴六十年にして婦人部長を務めていた七十九歳になる姑の入会を伝えている。ここでは二点ほど取り上げておこう。
これまで執着していた細井日達書写の本尊を学会に返納し・・・
おかしいだろう。なぜに正宗寺院に返納しないのかである。
そして次は前後の脈絡を省いているのでわかり難いが、重要なところなので紹介したい。
すると、何と本部長は
「いまの学会は確かに大聖人の御遺命のままではないが、池田会長を師として、会長の仰せのままの信心をしている。会長の指導を世界に弘めるのが広宣流布です」
と、学会が御遺命を捨てたことを認めたのでした。
こと御遺命に関しては顕正会員に一日の長がある。ゆえに本部長殿も上掲のように言うしかなかったのかもしれない。ただし、物凄く不審な点がある。池田会長云々である。
現役の創価学会幹部が池田会長という呼称を用いるのかが不審なのだ。池田名誉会長と呼ぶか池田先生と呼ぶか、その二つに一つだろう。
最後に男子部第六十三隊組長のことを書いて終わりたい。彼は創価学会三世だったらしく、顕正会へは昨年十月に移籍してきたようである。写真を見る限り、三十前後のように思える。現状、創価学会から顕正会へ移籍する人たちは、その多くが高齢者である。失礼ながら将来性はあまりない。そこにこうした三十前後の青年が入会してくるとなると、かなり事情が違ってくる。創価学会も全体的に高齢化が進み、若い人材が少ないようにも仄聞する。ゆえに若手の人材が顕正会へと大量に流入するような事態になれば、それこそ大きな地殻変動が起きることになるだろう。
さらにもう一つ、書いておく。
当該号は新春号だった。ゆえに巻末には、全国会員数および会館 列島分布図が載り、併せて顕正会発足より今日までの弘通の足跡が掲載されている。
それによれば百万達成が平成十五年十一月で、二百万達成が平成三十年七月である。
ようするに今後もあまり加速度が付かずダラダラと数字が伸びていくのであれば、三百万を達成するまでには十五年ほどの年月を要することになるのだ。
2019/2/10
アマネク
マイケル氏から繰り返し質問が寄せられているので、今日はそれについて思うところを述べたい。
ペットとして、飼われている犬や猫
↕
野良犬、野良猫その他動植物
境界線を引いてるのは、私達人間じゃないですか。
生きとし生ける「命」やのに、何故一方は塔婆を立てて一方は立てないのか。
先祖代々って言いますけど、先祖をず〜っと辿っていけば、それこそ膨大な人数がいる訳じゃないですか。
その先祖に対しては、塔婆を立てなくていいんですかね?
(簡単に言えば、直近の先祖だけ塔婆供養しなくちゃいけない理由が知りたいという感じです。)
マイケル氏はかつて日蓮正宗の信仰をしていた。すると朝晩の勤行を実践していたはずである。その勤行のいちばん最後に読み上げるのが、乃至法界平等利益云々である。
すでにこの時点で境界線云々は否定されることになるだろう。
いわゆる屠畜場では定期的に供養が行なわれている。もちろん日蓮正宗の立場からすれば他宗他門の坊さんが御経を読んでも意味がないことになるわけだが、それはさておき一般的な見地からしても我々にはすべての生き物に対する敬虔な気持ちがあって、何もペットだけを尊んでいるわけではないのだ。あるいは食事の時にいただきますと言う。丁寧な人は両手を合わせる。まさに目の前の牛や豚や鳥などの命に対して手を合わせているのだ。さらに広く捉えると、動物だけではなく植物に対してもいただきますと言っていることになるだろう。
こうした考え方は、いわゆる仏教思想における不殺生戒が背景になっているらしく、西洋人の場合はやや感覚が異なるようである。
捕鯨の問題がわかりやすい。あるいはイルカでもいいだろう。わたくしはイルカを食したことがある。
ところが西洋人はこれらに対して、可哀想だからやめるべきである、と言っているらしいのである。
そこで日本人側からは、だったら牛や豚や鳥は可哀想ではないのか、みたいな反論が発せられるわけだが、これに対する西洋人たちの反応をわたくしは知らない。
話が脱線してしまったようである。
ともかく乃至法界平等利益が答えであって、個々の塔婆を立てる立てないは些末な話である。あるいは、ペットの塔婆を立てることはそのペット一匹だけの功徳ではなく、その周辺にも功徳を及ぼすことになる、という考え方もできる。有名な中興入道御消息の御指南を思い起こすべきである。
去りぬる幼子のむすめ御前の十三年に、丈六のそとばをたてゝ、其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕はしてをはしませば・・・
あえて続きの御文を省略したが、あとはマイケル氏の信心に委ねるのみである。御書を紐解いてしっかりと拝読するべきだろう。
直近の先祖だけ塔婆供養しなくちゃいけない理由が知りたい・・・
単純な話である。人間は感情の生き物である。先ほどのペットの話も同じである。ようは自分の両親だとか祖父母など身近な存在に対しては特別な感情を懐く。しかし、それがたとえ直系だったとしても会ったこともないヒイジイチャンだとかヒイバアチャン、さらにはその何代も先となれば特別な感情など懐きようがない。それが普通だろう。
おおむね結論は出ただろう。あとは関連すると思われる御書を紹介しておく。
六道四生の衆生に男女あり。此の男女は皆我等が先生の父母なり。
これはまさに仏の知見であり、凡夫には実感の薄い話である。ようするに、世の中には男と女がいる、これらすべてが父であり母なのだ、という話なのだ。
願はくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん
法華経の言葉であるが、大聖人はこれを弘安二年の出世の本懐を御遂げになる、その前後において引用あそばしている。
しょせん凡夫は自分のことしか考えていない。もちろんわたくしもその一人である。けれども近親者の追善回向くらいはするだろう。差し当たってはそれでいいのである。それがやがては普く一切に波及することになる。大聖人の仏法にはそれだけの力があるのだ。
マイケル氏が拙ブログないしその周辺に留まっているのは、一つの求道心のあらわれではないかと思う。
ペットとして、飼われている犬や猫
↕
野良犬、野良猫その他動植物
境界線を引いてるのは、私達人間じゃないですか。
生きとし生ける「命」やのに、何故一方は塔婆を立てて一方は立てないのか。
先祖代々って言いますけど、先祖をず〜っと辿っていけば、それこそ膨大な人数がいる訳じゃないですか。
その先祖に対しては、塔婆を立てなくていいんですかね?
(簡単に言えば、直近の先祖だけ塔婆供養しなくちゃいけない理由が知りたいという感じです。)
マイケル氏はかつて日蓮正宗の信仰をしていた。すると朝晩の勤行を実践していたはずである。その勤行のいちばん最後に読み上げるのが、乃至法界平等利益云々である。
すでにこの時点で境界線云々は否定されることになるだろう。
いわゆる屠畜場では定期的に供養が行なわれている。もちろん日蓮正宗の立場からすれば他宗他門の坊さんが御経を読んでも意味がないことになるわけだが、それはさておき一般的な見地からしても我々にはすべての生き物に対する敬虔な気持ちがあって、何もペットだけを尊んでいるわけではないのだ。あるいは食事の時にいただきますと言う。丁寧な人は両手を合わせる。まさに目の前の牛や豚や鳥などの命に対して手を合わせているのだ。さらに広く捉えると、動物だけではなく植物に対してもいただきますと言っていることになるだろう。
こうした考え方は、いわゆる仏教思想における不殺生戒が背景になっているらしく、西洋人の場合はやや感覚が異なるようである。
捕鯨の問題がわかりやすい。あるいはイルカでもいいだろう。わたくしはイルカを食したことがある。
ところが西洋人はこれらに対して、可哀想だからやめるべきである、と言っているらしいのである。
そこで日本人側からは、だったら牛や豚や鳥は可哀想ではないのか、みたいな反論が発せられるわけだが、これに対する西洋人たちの反応をわたくしは知らない。
話が脱線してしまったようである。
ともかく乃至法界平等利益が答えであって、個々の塔婆を立てる立てないは些末な話である。あるいは、ペットの塔婆を立てることはそのペット一匹だけの功徳ではなく、その周辺にも功徳を及ぼすことになる、という考え方もできる。有名な中興入道御消息の御指南を思い起こすべきである。
去りぬる幼子のむすめ御前の十三年に、丈六のそとばをたてゝ、其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕はしてをはしませば・・・
あえて続きの御文を省略したが、あとはマイケル氏の信心に委ねるのみである。御書を紐解いてしっかりと拝読するべきだろう。
直近の先祖だけ塔婆供養しなくちゃいけない理由が知りたい・・・
単純な話である。人間は感情の生き物である。先ほどのペットの話も同じである。ようは自分の両親だとか祖父母など身近な存在に対しては特別な感情を懐く。しかし、それがたとえ直系だったとしても会ったこともないヒイジイチャンだとかヒイバアチャン、さらにはその何代も先となれば特別な感情など懐きようがない。それが普通だろう。
おおむね結論は出ただろう。あとは関連すると思われる御書を紹介しておく。
六道四生の衆生に男女あり。此の男女は皆我等が先生の父母なり。
これはまさに仏の知見であり、凡夫には実感の薄い話である。ようするに、世の中には男と女がいる、これらすべてが父であり母なのだ、という話なのだ。
願はくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん
法華経の言葉であるが、大聖人はこれを弘安二年の出世の本懐を御遂げになる、その前後において引用あそばしている。
しょせん凡夫は自分のことしか考えていない。もちろんわたくしもその一人である。けれども近親者の追善回向くらいはするだろう。差し当たってはそれでいいのである。それがやがては普く一切に波及することになる。大聖人の仏法にはそれだけの力があるのだ。
マイケル氏が拙ブログないしその周辺に留まっているのは、一つの求道心のあらわれではないかと思う。
2019/2/7
ヘントウフノウ
マイケル氏は障害をお持ちとのことであるが、具体的にはどのようなものなのか、気になるところである。おそらくはあまり詳しくは書きたくないのだろう。これまで膨大なコメントを残されているけれども、障害の具体的な話はまったく出てこない。ゆえに書きたくないのだろうとは思う。ただ、それならば障害のことにはまったく触れなければいいわけで、少しでもそれを匂わせるようなコメントを書いている時点で、もしかしたら逆に他人に聞いてほしいのではないかとも思えるところである。もちろん書く書かないは自由である。
さて、今日も顕正新聞を見ていこう。
そこに、いよいよ「二〇年代の決戦場」まであと一年。
女子部総務の発言である。わたくしはあと何年というフレーズに敏感で、以前の浅井先生がそれを多用していたことをいつまでも忘れずにいる。あと十有余年と言っていたのはいつ頃のことだろうか?
結局、十年を切ることはなかった。いわゆるカウントダウンされることはなかった。
今回の女子部総務の発言には、いきなり「あと一年」というフレーズが出てくるので、けっこうインパクトがある。十有余年は先が長いけれども、あと一年はあっという間だからだ。問題はそこで何をするかである。
宗門末寺「聞正寺」住職も返答不能
嘘・はぐらかし・詭弁の果て「罰が出るぞ」と
新潟男子部長の記事に付された見出しである。まず、住職も、と書かれている。ようするに最近の顕正会男子部では宗門末寺に行って住職をやっつけるのが一つのトレンドとなっており、あちこちの末寺の住職が返答不能になっているらしいのだ。そこで今回は聞正寺の住職が返答不能になったと報告しているわけなのである。
罰が出るぞ・・・
住職の発言だそうである。ただし、これはむしろ顕正会のお得意のセリフであって、いわゆる逆縁の者に対しては必ずそれを言い切るようにと指導されているのである。
顕正会の創価学会批判にはさまざまのメニューがあるけれども、創価学会は世間に迎合して罰論を言わなくなった、というのもその一つである。これを逆手に取れば、創価学会はそうかもしれないが宗門は今もしっかりと罰を言い切っていることになるだろう。もっとも詭弁云々とあるように、苦し紛れに罰が出るぞと言っているようでは話にならないわけだが・・・
カネ儲けのためにペットの塔婆まで立てる卑しさに、情けない思いになりました。
今回の記事は先日の男子部総務と違って新潟男子部長自らが寺に乗り込んで行ったらしく、この点は評価できると思う。ゆえに上掲は彼自身の目撃談である。寺に立ち並ぶ塔婆の中に、カタカナ名があった。外国人かと思ったら、そうではなく、ネコの名前だった。
それにしても悩ましい話である。顕正会ではペットの塔婆を否定していることになるわけだが、もっともそれ以前に塔婆供養そのものを廃止してしまったという経緯があるものだから、余計に話がややこしいのだ。ゆえにここは改めて顕正会側の見解を質さないといけない。
ようするに、塔婆は不要である、いわんやペット塔婆をや、というロジックなのか、である。
あるいは中間的な意見として、塔婆は必要である、しかし、それは人間界のことであって畜生界には不要である、という考え方もあるだろう。
他にも考え方があるかもしれないが、ともかく顕正会側の見解を確かめたいものである。
しかし、待っていても答えが返ってくることは期待できない(返答不能)ので話を進めよう。
宗門の伝統からすれば、塔婆供養は肯定されてしかるべきである。問題はペットのそれであるが、わたくしは肯定派である。宗門にしたって何もカネ儲けのためにペットの塔婆供養を奨励しているわけではあるまい。そうではないのだ。むしろ飼い主の愛情がそうした行為を生むわけである。ペットは畜生界の衆生だから云々かんぬんという議論もあるのかもしれないが、愛猫家ないし愛犬家にとっては家族の一員なのである。ゆえにペットのための葬儀もすれば塔婆も立てるのである。
ちなみにわたくし自身は犬も猫も飼っていない。ようは自分の都合で論じているわけではないことを、ここにお断りしておきたいと思う。
細井日達の悪臨終を取り繕う宗門!
内藤班長の親族は宗門と深い関係
これはヒドイ記事である。発表者は第二十四男子部幹事・第八十隊長であるが、なぜに内藤班長が登壇しないのかである。わたくしは前に言った。内藤班長の母親が自ら発言すべきであると。しかし、おそらくはすでにお亡くなりになっているのだろう。だったらその息子が発表すべきである。しかるに今回は上述の人間が登壇している。いわゆる弁護士的な手法を気取っているのだろうか?
内藤みどり、渡辺まつ子、清水正、高野日深、阿部日顕、柳沢金次郎、柳沢喜惣次
話が込み入っているので大幅に省略するが、詳しく知りたい人は顕正新聞を入手して確認されるといいだろう。上掲は記事中に出てくる登場人物である。内藤班長の親戚筋という意味では最初の内藤みどりだけがそれとわかる。実際、この人物こそが班長の母親であり、くだんの悪臨終云々の証言者とされている。ところがである。その他の人物は名前を眺めているだけでは何が何だかさっぱりわからない。もちろん本文を読めばそれなりには理解できるのだが、全体像はかなり不鮮明である。
実に簡単な話である。ここに列記される人物には一人として細井姓が存在しない。それが答えである。
内藤班長の親族は宗門と深い関係
再掲である。もうおわかりだろう。すでにしてこの見出し自体がブレているのである。日達上人との関係が問題だったはずなのに、いつの間にか宗門との関係に話がスライドしてしまっている。もちろんそれはそれで重要なことではあるのだが、話はもっとシンプルのはずなのだ。ようは内藤みどりの周辺に細井ナニガシという登場人物が出てくれば話は終わるのである。
ちなみに、この「大白法」のたばかり文書には、「四十年近く経って細井日達の臨終を『悪臨終』『堕獄の相』などと口汚く罵る様は、人間としての品性を疑うものだ」と、浅井先生に対する悪口を書いておりました。
どこかのサイトに転載されているはずなので、興味のある人は調べてみるといいだろう。この続きが問題である。
しかしこれ、大聖人様が中国における真言宗の元祖・善無畏三蔵の悪臨終を挙げて
「人死して後 色の黒きは地獄に堕つとは、一大聖教に定むる所なり」
と、御在世から数百年も昔の、善無畏三蔵の臨終の様を御書に留めておられることを「品性を疑う」と言っているに等しく・・・
これが顕正会の公式見解だとすると、顕正会もずいぶんレベルを落としたものだと思う。もしかして思慮の浅い人ならばこれで納得するのかもしれないが、こんなデタラメなロジックに騙される人はそう多くはおるまい。
大聖人は臨終の相について善無畏三蔵以外にもたくさんの例示をあそばしているが、ここでは善導和尚の話を紹介しよう。楊柳房という一種のアダ名がある。これは大聖人が創作されたものかそれ以前から存在するものか知らないが、善導和尚を指して楊柳房と呼ぶ。その事情は念仏無間地獄抄に詳しい。思い切り端折ってしまえば、ようは柳の木に縄を掛けて首つり自殺を図ったという話である。次の一節に注目したい。
此の事全く余宗の誹謗に非ず、法華宗の妄語に非ず、善導和尚自筆の類聚伝の文なり云云。
ようするに誹謗ないし妄語であれば品性が疑われて当然なのである。ゆえに大聖人は誹謗でも妄語でもないと断わられているのである。
翻って今回の一件は、顕正会の誹謗ないし妄語であると、そのように見なされても文句が言えなくらいの、ようは不確かな情報を元にしたデタラメ極まる話なのである。大聖人を引き合いに出すこと自体、まったくのお門違いと言わざるを得ないだろう。
この点、顕正会側は大いに反省すべきである。
さて、今日も顕正新聞を見ていこう。
そこに、いよいよ「二〇年代の決戦場」まであと一年。
女子部総務の発言である。わたくしはあと何年というフレーズに敏感で、以前の浅井先生がそれを多用していたことをいつまでも忘れずにいる。あと十有余年と言っていたのはいつ頃のことだろうか?
結局、十年を切ることはなかった。いわゆるカウントダウンされることはなかった。
今回の女子部総務の発言には、いきなり「あと一年」というフレーズが出てくるので、けっこうインパクトがある。十有余年は先が長いけれども、あと一年はあっという間だからだ。問題はそこで何をするかである。
宗門末寺「聞正寺」住職も返答不能
嘘・はぐらかし・詭弁の果て「罰が出るぞ」と
新潟男子部長の記事に付された見出しである。まず、住職も、と書かれている。ようするに最近の顕正会男子部では宗門末寺に行って住職をやっつけるのが一つのトレンドとなっており、あちこちの末寺の住職が返答不能になっているらしいのだ。そこで今回は聞正寺の住職が返答不能になったと報告しているわけなのである。
罰が出るぞ・・・
住職の発言だそうである。ただし、これはむしろ顕正会のお得意のセリフであって、いわゆる逆縁の者に対しては必ずそれを言い切るようにと指導されているのである。
顕正会の創価学会批判にはさまざまのメニューがあるけれども、創価学会は世間に迎合して罰論を言わなくなった、というのもその一つである。これを逆手に取れば、創価学会はそうかもしれないが宗門は今もしっかりと罰を言い切っていることになるだろう。もっとも詭弁云々とあるように、苦し紛れに罰が出るぞと言っているようでは話にならないわけだが・・・
カネ儲けのためにペットの塔婆まで立てる卑しさに、情けない思いになりました。
今回の記事は先日の男子部総務と違って新潟男子部長自らが寺に乗り込んで行ったらしく、この点は評価できると思う。ゆえに上掲は彼自身の目撃談である。寺に立ち並ぶ塔婆の中に、カタカナ名があった。外国人かと思ったら、そうではなく、ネコの名前だった。
それにしても悩ましい話である。顕正会ではペットの塔婆を否定していることになるわけだが、もっともそれ以前に塔婆供養そのものを廃止してしまったという経緯があるものだから、余計に話がややこしいのだ。ゆえにここは改めて顕正会側の見解を質さないといけない。
ようするに、塔婆は不要である、いわんやペット塔婆をや、というロジックなのか、である。
あるいは中間的な意見として、塔婆は必要である、しかし、それは人間界のことであって畜生界には不要である、という考え方もあるだろう。
他にも考え方があるかもしれないが、ともかく顕正会側の見解を確かめたいものである。
しかし、待っていても答えが返ってくることは期待できない(返答不能)ので話を進めよう。
宗門の伝統からすれば、塔婆供養は肯定されてしかるべきである。問題はペットのそれであるが、わたくしは肯定派である。宗門にしたって何もカネ儲けのためにペットの塔婆供養を奨励しているわけではあるまい。そうではないのだ。むしろ飼い主の愛情がそうした行為を生むわけである。ペットは畜生界の衆生だから云々かんぬんという議論もあるのかもしれないが、愛猫家ないし愛犬家にとっては家族の一員なのである。ゆえにペットのための葬儀もすれば塔婆も立てるのである。
ちなみにわたくし自身は犬も猫も飼っていない。ようは自分の都合で論じているわけではないことを、ここにお断りしておきたいと思う。
細井日達の悪臨終を取り繕う宗門!
内藤班長の親族は宗門と深い関係
これはヒドイ記事である。発表者は第二十四男子部幹事・第八十隊長であるが、なぜに内藤班長が登壇しないのかである。わたくしは前に言った。内藤班長の母親が自ら発言すべきであると。しかし、おそらくはすでにお亡くなりになっているのだろう。だったらその息子が発表すべきである。しかるに今回は上述の人間が登壇している。いわゆる弁護士的な手法を気取っているのだろうか?
内藤みどり、渡辺まつ子、清水正、高野日深、阿部日顕、柳沢金次郎、柳沢喜惣次
話が込み入っているので大幅に省略するが、詳しく知りたい人は顕正新聞を入手して確認されるといいだろう。上掲は記事中に出てくる登場人物である。内藤班長の親戚筋という意味では最初の内藤みどりだけがそれとわかる。実際、この人物こそが班長の母親であり、くだんの悪臨終云々の証言者とされている。ところがである。その他の人物は名前を眺めているだけでは何が何だかさっぱりわからない。もちろん本文を読めばそれなりには理解できるのだが、全体像はかなり不鮮明である。
実に簡単な話である。ここに列記される人物には一人として細井姓が存在しない。それが答えである。
内藤班長の親族は宗門と深い関係
再掲である。もうおわかりだろう。すでにしてこの見出し自体がブレているのである。日達上人との関係が問題だったはずなのに、いつの間にか宗門との関係に話がスライドしてしまっている。もちろんそれはそれで重要なことではあるのだが、話はもっとシンプルのはずなのだ。ようは内藤みどりの周辺に細井ナニガシという登場人物が出てくれば話は終わるのである。
ちなみに、この「大白法」のたばかり文書には、「四十年近く経って細井日達の臨終を『悪臨終』『堕獄の相』などと口汚く罵る様は、人間としての品性を疑うものだ」と、浅井先生に対する悪口を書いておりました。
どこかのサイトに転載されているはずなので、興味のある人は調べてみるといいだろう。この続きが問題である。
しかしこれ、大聖人様が中国における真言宗の元祖・善無畏三蔵の悪臨終を挙げて
「人死して後 色の黒きは地獄に堕つとは、一大聖教に定むる所なり」
と、御在世から数百年も昔の、善無畏三蔵の臨終の様を御書に留めておられることを「品性を疑う」と言っているに等しく・・・
これが顕正会の公式見解だとすると、顕正会もずいぶんレベルを落としたものだと思う。もしかして思慮の浅い人ならばこれで納得するのかもしれないが、こんなデタラメなロジックに騙される人はそう多くはおるまい。
大聖人は臨終の相について善無畏三蔵以外にもたくさんの例示をあそばしているが、ここでは善導和尚の話を紹介しよう。楊柳房という一種のアダ名がある。これは大聖人が創作されたものかそれ以前から存在するものか知らないが、善導和尚を指して楊柳房と呼ぶ。その事情は念仏無間地獄抄に詳しい。思い切り端折ってしまえば、ようは柳の木に縄を掛けて首つり自殺を図ったという話である。次の一節に注目したい。
此の事全く余宗の誹謗に非ず、法華宗の妄語に非ず、善導和尚自筆の類聚伝の文なり云云。
ようするに誹謗ないし妄語であれば品性が疑われて当然なのである。ゆえに大聖人は誹謗でも妄語でもないと断わられているのである。
翻って今回の一件は、顕正会の誹謗ないし妄語であると、そのように見なされても文句が言えなくらいの、ようは不確かな情報を元にしたデタラメ極まる話なのである。大聖人を引き合いに出すこと自体、まったくのお門違いと言わざるを得ないだろう。
この点、顕正会側は大いに反省すべきである。
2019/2/1
ムニノセンセイ
マイケル氏の言っていることを端折ってしまえば、巌虎の人物像に興味はあるがわざわざ会って確かめるほどではない、という感じになるだろう。そこに今度は沖浦氏が、会いたい、と言ってきた。それに対するわたくしの返事を書かねばならない。
ハッキリ言おう。沖浦氏と友好的な会談を持つことは不可能である。
話は簡単である。わたくしは日蓮正宗の無所属信徒を名乗っている。対する沖浦氏は日蓮正宗批判の急先鋒のような人物である。ならば必然的に法論とならざるを得ないだろう。
今現在のコメント投稿者の中には厳しい人がいて、その人は仲間であるはずの法華講員を批判してやまないのである。ようは大謗法者である沖浦氏に対して、ロクに破折もせずにのうのうとコメントを書いていることを批判しているわけなのだ。
あるいは顕正会本部も厳しい眼差しを向けていることだろう。戒壇の大御本尊を誹謗する輩とヨシミを通ずるとは何事か、ということになる。
また、ややこしい話ではあるが、法華講員たちもわたくしに対しては快く思っていないところがある。何しろ宗門の戒壇論はデタラメであると言い続けているからである。
以上、諸般の事情からして沖浦氏と対面する時は法論の時である。
さて、話は変わる。
学会の顕正会対策&カ書を入手
組織防衛に躍起、学会崩壊いよいよ近し
いつものごとく顕正新聞の続きを見ていくわけだが、男子部総務の記事に付された見出しが気になるところである。上掲には文書を入手したとあり、本文中には太字でその文書とやらが引用されている。少し長いが全文紹介しよう。
「今、邪宗顕正会は『学会員を救わん』といった表題で、特に『学会員』を標的にして、折伏を展開しています。
特に、各家庭に公明党のポスター掲示をしている家庭が標的になっています。日蓮大聖人の正当な団体は、唯一『創価学会』だけであります。
池田先生は御健在で、会員とお会いすることを心待ちにしておられます。無二の先生は『池田先生』のみです。
顕正会が、何をいっても全て嘘です。作り話です。先生を信じて益々信心強盛に『創価学会』を守っていきましょう」
「顕正会等の会員が来訪したときは、下記のように対応してください。
@ドアホン越しに『顕正会』と名乗ったら、なにもい言わずにドアホンを切る(笑)。
A新聞等の配布をされたら、『読まず』にゴミ箱へ。
B外で出会ったときは、なにも言わず、会釈もしない、無視をする。
C顕正会は、教学において優れているので、仏法対話は絶対行わない(大笑)。
D法論等を申し込まれたら、それを絶対受けない。
E顕正会は、断っても、断っても来訪するので、できれば男性が対応するように。
F広布基金について、顕正会は、上限6万円とありますが、一人何口でも出来るので無制限です(笑)。数字に迷わないように。創価学会は上限も下限もありません。一万円単位での御供養です。
G日蓮大聖人に南無できるのは『創価学会』が唯一無二です。顕正会の嘘に迷うことなく信心に励んでください。
あまり、強引な場合は警察を呼んで下さい。
会館では対応出来ません(笑)」
ウソ臭い文書である。
まず、見出しに文書を入手とある。また登壇者も、文書を入手した、と明言している。ならば上掲は創価学会のしかるべきところが作成した文書を、正確に引用していることになるだろう。しかるに本文中には次のごとく書かれている。
学会から顕正会に入会した壮年が、近畿方面の学会支部長宅を訪問したところ、通された部屋に顕正会対策のマニュアルが置いてありました。
そもそもこれもインチキ臭い。普通、入会した人物であれば、名前で呼ぶはずである。〇〇さんとか、すでに役職があれば、〇〇組長、○○班長、みたいな感じである。また、男子部総務自らが同席するのは無理にしても、支隊長だとか隊長などがいわゆる折伏の応援という形で同席するのが普通のはずである。ところがそうした記述は見当たらない。
支部長は「見たらあかんでぇ」と言いながら三〇分以上も席を外したので・・・
ここが問題である。それだけの時間があれば、読むことは可能である。だが、しかし、仏典結集ではあるまいし、すべて正確に記憶することは不可能だろう。すると考えられるのは携帯などを使って撮影することだろうか? それともまさか文書を丸ごと盗んできたのだろうか?
すでにここまでの話でも相当にウソ臭いことが読者にも伝わったのではないかと思う。顕正会は文書を入手したと言っているわけだから、その現物を顕正新聞紙上に掲載すべきだろう。それができない時点でこの話は信用に値しないと思う。
さて、以下はマニュアルの記述に対する疑問である。
邪宗顕正会・・・
今の創価学会は他宗を邪宗呼ばわりしない。顕正会だけは例外なのだろうか?
折伏を展開・・・
後のほうに「仏法対話」という言葉が出てくる。顕正会では使わない表現である。逆に言うと、上掲は顕正会目線での表現となるわけだが、創価学会側が作成した文書だとすればずいぶんと自虐的にも思えるところである。
各家庭に公明党のポスター掲示をしている家庭が標的・・・
重複の甚だしい駄文である。「各家庭に」は削除しても意味が通るし、むしろそれが普通の文章のはずである。ようは文章力としては最低レベルと言わざるを得ない駄文なのである。
無二の先生・・・
いかにも顕正会っぽい表現だ。
できれば男性が対応するように・・・
ここが不審である。創価学会の役職を詳しくは知らないが、例えば支部長だとか本部長みたいな人たちがザラにいるわけだろう。あるいは教学をそれなりに勉強している特殊部隊があるとも聞く。ゆえにマニュアルが事実ならば、そうした具体的な対応策を示すべきところだと思う。それを男性が対応する云々では、ずいぶんとアバウトな話である。
顕正会は、上限6万円とありますが・・・
マニュアルの作成時期が気になるところである。登壇者もこの点には気がついているようで、本文中には次のごとく書かれている。
すでに広布御供養の上限が「六万円」に変更されたことを知っていることも驚きですが・・・
もちろん創価学会の情報収集力からすれば、それほど不審ではないのかもしれない。
顕正会は、上限6万円とありますが、一人何口でも出来るので無制限です(笑)。
この(笑)の意味は総幹部会での聴衆の反応をあらわしているのだろう。顕正会もずいぶんと自虐的である。
あまり、強引な場合は警察を呼んで下さい。
会館では対応出来ません(笑)
ここでの(笑)は創価学会の弱腰を嘲笑しているのだと思うが、問題はそこではない。いかにも会館云々がおかしいのだ。
基本、顕正会でも同じである。会館が対応するのではなく、組織が対応するのだ。例えば男子部の平会員がいるとしよう。彼にはいわゆる先輩がいる。紹介者かもしれないし、その紹介者の所属する組織の人たち全般がいわゆる先輩に相当するわけである。ゆえに何かあれば、組長だとか班長に相談する。組長班長で対応し切れない場合は、副長だとか支隊長に相談する。さらにその上に相談する。という具合である。
ゆえに先ほどの男性云々もおかしいわけであり、繰り返しになるがそこには創価学会内部の組織名ないし役職名が記されるはずなのである。
最後にもう一つだけ指摘しておく。
顕正会の嘘に迷うことなく信心に励んでください。
あまり、強引な場合は警察を呼んで下さい。
文章の内容ではなく表記に注目されたい。上掲は改行されているとは言え、続きの文章なのである。前半は「ください」と表記し、後半は「下さい」と表記している。
以上、もしこれが本物のマニュアルだとしたら創価学会もアホだなあということになる。そしてもしこれが顕正会のでっち上げだとしたら顕正会もオシマイである。
各方面からの情報を期待したいところだ。
ハッキリ言おう。沖浦氏と友好的な会談を持つことは不可能である。
話は簡単である。わたくしは日蓮正宗の無所属信徒を名乗っている。対する沖浦氏は日蓮正宗批判の急先鋒のような人物である。ならば必然的に法論とならざるを得ないだろう。
今現在のコメント投稿者の中には厳しい人がいて、その人は仲間であるはずの法華講員を批判してやまないのである。ようは大謗法者である沖浦氏に対して、ロクに破折もせずにのうのうとコメントを書いていることを批判しているわけなのだ。
あるいは顕正会本部も厳しい眼差しを向けていることだろう。戒壇の大御本尊を誹謗する輩とヨシミを通ずるとは何事か、ということになる。
また、ややこしい話ではあるが、法華講員たちもわたくしに対しては快く思っていないところがある。何しろ宗門の戒壇論はデタラメであると言い続けているからである。
以上、諸般の事情からして沖浦氏と対面する時は法論の時である。
さて、話は変わる。
学会の顕正会対策&カ書を入手
組織防衛に躍起、学会崩壊いよいよ近し
いつものごとく顕正新聞の続きを見ていくわけだが、男子部総務の記事に付された見出しが気になるところである。上掲には文書を入手したとあり、本文中には太字でその文書とやらが引用されている。少し長いが全文紹介しよう。
「今、邪宗顕正会は『学会員を救わん』といった表題で、特に『学会員』を標的にして、折伏を展開しています。
特に、各家庭に公明党のポスター掲示をしている家庭が標的になっています。日蓮大聖人の正当な団体は、唯一『創価学会』だけであります。
池田先生は御健在で、会員とお会いすることを心待ちにしておられます。無二の先生は『池田先生』のみです。
顕正会が、何をいっても全て嘘です。作り話です。先生を信じて益々信心強盛に『創価学会』を守っていきましょう」
「顕正会等の会員が来訪したときは、下記のように対応してください。
@ドアホン越しに『顕正会』と名乗ったら、なにもい言わずにドアホンを切る(笑)。
A新聞等の配布をされたら、『読まず』にゴミ箱へ。
B外で出会ったときは、なにも言わず、会釈もしない、無視をする。
C顕正会は、教学において優れているので、仏法対話は絶対行わない(大笑)。
D法論等を申し込まれたら、それを絶対受けない。
E顕正会は、断っても、断っても来訪するので、できれば男性が対応するように。
F広布基金について、顕正会は、上限6万円とありますが、一人何口でも出来るので無制限です(笑)。数字に迷わないように。創価学会は上限も下限もありません。一万円単位での御供養です。
G日蓮大聖人に南無できるのは『創価学会』が唯一無二です。顕正会の嘘に迷うことなく信心に励んでください。
あまり、強引な場合は警察を呼んで下さい。
会館では対応出来ません(笑)」
ウソ臭い文書である。
まず、見出しに文書を入手とある。また登壇者も、文書を入手した、と明言している。ならば上掲は創価学会のしかるべきところが作成した文書を、正確に引用していることになるだろう。しかるに本文中には次のごとく書かれている。
学会から顕正会に入会した壮年が、近畿方面の学会支部長宅を訪問したところ、通された部屋に顕正会対策のマニュアルが置いてありました。
そもそもこれもインチキ臭い。普通、入会した人物であれば、名前で呼ぶはずである。〇〇さんとか、すでに役職があれば、〇〇組長、○○班長、みたいな感じである。また、男子部総務自らが同席するのは無理にしても、支隊長だとか隊長などがいわゆる折伏の応援という形で同席するのが普通のはずである。ところがそうした記述は見当たらない。
支部長は「見たらあかんでぇ」と言いながら三〇分以上も席を外したので・・・
ここが問題である。それだけの時間があれば、読むことは可能である。だが、しかし、仏典結集ではあるまいし、すべて正確に記憶することは不可能だろう。すると考えられるのは携帯などを使って撮影することだろうか? それともまさか文書を丸ごと盗んできたのだろうか?
すでにここまでの話でも相当にウソ臭いことが読者にも伝わったのではないかと思う。顕正会は文書を入手したと言っているわけだから、その現物を顕正新聞紙上に掲載すべきだろう。それができない時点でこの話は信用に値しないと思う。
さて、以下はマニュアルの記述に対する疑問である。
邪宗顕正会・・・
今の創価学会は他宗を邪宗呼ばわりしない。顕正会だけは例外なのだろうか?
折伏を展開・・・
後のほうに「仏法対話」という言葉が出てくる。顕正会では使わない表現である。逆に言うと、上掲は顕正会目線での表現となるわけだが、創価学会側が作成した文書だとすればずいぶんと自虐的にも思えるところである。
各家庭に公明党のポスター掲示をしている家庭が標的・・・
重複の甚だしい駄文である。「各家庭に」は削除しても意味が通るし、むしろそれが普通の文章のはずである。ようは文章力としては最低レベルと言わざるを得ない駄文なのである。
無二の先生・・・
いかにも顕正会っぽい表現だ。
できれば男性が対応するように・・・
ここが不審である。創価学会の役職を詳しくは知らないが、例えば支部長だとか本部長みたいな人たちがザラにいるわけだろう。あるいは教学をそれなりに勉強している特殊部隊があるとも聞く。ゆえにマニュアルが事実ならば、そうした具体的な対応策を示すべきところだと思う。それを男性が対応する云々では、ずいぶんとアバウトな話である。
顕正会は、上限6万円とありますが・・・
マニュアルの作成時期が気になるところである。登壇者もこの点には気がついているようで、本文中には次のごとく書かれている。
すでに広布御供養の上限が「六万円」に変更されたことを知っていることも驚きですが・・・
もちろん創価学会の情報収集力からすれば、それほど不審ではないのかもしれない。
顕正会は、上限6万円とありますが、一人何口でも出来るので無制限です(笑)。
この(笑)の意味は総幹部会での聴衆の反応をあらわしているのだろう。顕正会もずいぶんと自虐的である。
あまり、強引な場合は警察を呼んで下さい。
会館では対応出来ません(笑)
ここでの(笑)は創価学会の弱腰を嘲笑しているのだと思うが、問題はそこではない。いかにも会館云々がおかしいのだ。
基本、顕正会でも同じである。会館が対応するのではなく、組織が対応するのだ。例えば男子部の平会員がいるとしよう。彼にはいわゆる先輩がいる。紹介者かもしれないし、その紹介者の所属する組織の人たち全般がいわゆる先輩に相当するわけである。ゆえに何かあれば、組長だとか班長に相談する。組長班長で対応し切れない場合は、副長だとか支隊長に相談する。さらにその上に相談する。という具合である。
ゆえに先ほどの男性云々もおかしいわけであり、繰り返しになるがそこには創価学会内部の組織名ないし役職名が記されるはずなのである。
最後にもう一つだけ指摘しておく。
顕正会の嘘に迷うことなく信心に励んでください。
あまり、強引な場合は警察を呼んで下さい。
文章の内容ではなく表記に注目されたい。上掲は改行されているとは言え、続きの文章なのである。前半は「ください」と表記し、後半は「下さい」と表記している。
以上、もしこれが本物のマニュアルだとしたら創価学会もアホだなあということになる。そしてもしこれが顕正会のでっち上げだとしたら顕正会もオシマイである。
各方面からの情報を期待したいところだ。