2019/3/31

ネンドマツ  
まず、訂正から始めないといけない。前回の拙稿では日達上人の御指南について、今まで拝読したことがなかった、と書いた。ところがである。それは単なる記憶違いというか、忘失していただけの話だった。

https://white.ap.teacup.com/ganko/251.html

最後の数字の部分を見れば、拙ブログにおける初期の記事であることがわかる。ようするにこの頃からまったく進歩せず、むしろ後退しているようなアンバイなのである。いくら勉強しても忘れてしまっては意味がない。

これに関してはまた別の機会に書くことにしよう。

投稿者:Mr.X(元顕)
音声実録
https://youtu.be/blPe4jJv6VE


そしてこれがまた厄介な話題である。リンク先の動画を見ればわかるように、ようは法華講で法論の名手として名高い樋田昌志氏と顕正会男子部幹部がやり合った。しかし、実際にはほとんど会話が成立せず、わずか十分ほどで終了となった。Mr.X(元顕)氏はこれについて、わたくしの感想を求めているのかもしれない。

法華講諸氏のほうにもすでに情報が行っていると思うが、これについては二月度男子部班長会において当事者の一人が報告しており、その記事が顕正新聞に掲載されている。拙ブログでも後日取り上げることになるだろう。

話は簡単だ。顕正新聞しか読まない顕正会員はコロッと騙される。しかし、リンク先の動画を視聴すればかなり違った印象を受ける。極論すると、顕正会は話を盛るのが上手い、自分たちに都合のいいように話を捻じ曲げている、ということがわかる。そうなると最終的には、もしかしたら浅井先生の御遺命守護の戦いにもかなりの虚飾が施されているのではあるまいか、という疑念が生じてくる。それで現に法華講への移籍に踏み切る人が後を絶たないのである。今回もその拍車が掛かったかもしれない。

以前、樋田氏と顕正会の支隊長が法論した。この時の様子は今もどこかの動画サイトで視聴できるはずであるが、誰が見ても樋田氏の圧勝と思うはずである。

あるいは樋田氏から文書で顕正会会長に宛てて法論を促がすようなことも何度か行なわれた。

当然、今回の男子部幹部もそうした過去の経緯を知っているはずで、そこから推測し得ることは、樋田にしゃべらせたらマズイ、樋田のペースにハマったら負ける、という思いが強かったのかもしれない。ゆえに今回の場合は最初から最後まで相手にしゃべらせないようにと、顕正会側がまくし立てているだけの、実に中身のないものになっているのだ。

わたくしの予想では、今後もしばらくはこうした泥仕合が続くはずで、もしかしたら顕正会は宗門との全面戦争的な方向性でこの一年を戦うつもりなのかもしれない。

さて、ここまでの文章を読んで、巌虎は宗門・法華講寄りとの印象を受けるかもしれない。

しかし、そうではないことは拙ブログの愛読者ならば承知していることだろう。わたくしはどちらにも与しない。どっちもどっちだと思っているからだ。宗門だってけっこうデタラメなのである。これもまた別の機会に書いてみたい。

ところでミカン氏から難解なコメントを頂戴した。

単なるウォッチャーですが、新聞を読んで気付いた事ですが、池田氏を口を極めて罵っていますが、その意味合いは救いのツールに効果が無いと言っている事と、浅井さんも、そのツールで、心が浄化出来ない事を、自ら証明しているように見える事です。二元対立に持ち込む事自体、悟りの世界なの?と思う次第です。信者さんが八正道も中道も知らずに居る事には驚きでした。正しく見るは、自他を公平に見れる俯瞰する事と思いますし、攻撃心を持っている事がどうなの?と思います。信者さんは、考える力を失い過ぎのようです。

前半部分はもう少し具体的な説明がほしいところで、文面を単純化すると池田批判がそのまま浅井批判になるとおっしゃっているようにも思えるが、具体的にはどこがそうなのかが読み取れない。
二元対立に持ち込む云々はまさにそれが浅井先生の得意技であって、ひじょうにわかりやすい点が先生のウリでもあるのだ。
八正道と中道を知らないとのこと。これは仏教の基本概念として踏まえるべきとのご意見と思われるが、顕正会では教えていないので仕方がないところである。かく言うわたくしもよくわかっていないのが実情で、それは大聖人の御書にあまり出てこないからである。
ゆえにそれをもって考える力を失い過ぎとおっしゃるのであれば、わたくしもその範疇に属することになるだろう。

いずれにしてもミカン氏は顕正会員と接触する機会があって、そうした仏教のことについて話をされたわけなのだろう。

最後に沖浦氏のコメントも拾っておきたい

未だに創価学会員で共産党を敵視する方がおられます。

少し成長して頂きたいですね。
敵視からは何一つ生まれません。


そうは言うけれども、現実的には無理だろう。もっとも単純な話をすれば、創価学会員は公明党の支援活動をしなければいけないわけであり、一方の共産党は与党の公明党を攻撃する立場にあるわけだから、相容れないのも当然なのである。さらには過去のさまざまの事情がある。この辺はわたくしなんかよりももっと詳しい人がいるはずなので、ここでは言及しないことにしたい。

2019/3/28

オエツ  
どうやら最近は顕正会員と法華講員との間で法論のようなことが頻繁に行なわれているようである。ただその舞台がツイッター上とのことなので、わたくし自身はまったく見ておらず、よくわからない。ゆえに基本的には今まで通りのスタイルで独白ブログを更新していくつもりである。その上で何か興味深い議論があれば口を挿むことがあるかもしれない。

沖浦氏が共産党の集会に参加したいと書いている。だから創価学会員から嫌われるのだろう。もっともそこが沖浦氏らしさであって、氏は氏なりの筋を通しているのだと思う。

さて、顕正新聞の続きを見ていこう。まずは理事長の記事からである。

嗚咽をこらえながら筆を走らせる人・・・

教学試験のことである。受験者が嗚咽をこらえながら解答を書いている。まったく世間一般の感覚から外れてしまっている。

試験問題を作って下さった先生のご慈愛・・・

本当に先生が作ったのかが気になる。

御書四百余篇の奥底を極められた先生の、

それが本当ならばモッタイナイ話だ。ようするに基礎教学書で終わるのではなく上級者向けの教学書を書くべきだし、研究のすべてを何らかの形で遺すべきだろう。

「特集号7」抜粋コピー

これは昨年出来した創価学会員を救う特集号7の要約版である。頒価十円とのことだ。

 二〇年代の広布の決戦場を眼前にした年の・・・

 二〇年代の決戦場に臨む今だからこそ・・・

いよいよ三百万を見つめ・・・

いよいよ二〇年代の決戦場を眼前にした国難六年の・・・

三百万を急がれる先生に・・・


すべて理事長の記事からの引用である。一般の人が見たらどう思うのか、ひじょうに気になるところである。

細井日達阿部日顕の謀りのすべてを一刀両断!

副総男子部長の記事に付けられた見出しである。どうやら平成二年の諫暁書においてすべての謀りを粉砕した言っているごとくである。しかし、そこにはじゃっかんの欺瞞がある。

天生原・天生山・六万坊の名称と本宗の関係についての一考察

これは日達上人が昭和四十五年に御指南下さったものであり、不勉強のわたくしは今までこれを拝読したことがなかった。ようは浅井先生が都合よく引用している部分のみを読んでいて、全文を通読したことがなかったのである。

幸いにもトチロ〜氏の運営するサイトにこれが掲載されており、昨夜、それを読ませていただいた。

結論を言うと、顕正会側はこれに反論し切れていない。当時の顕正新聞特集号では、いずれ詳しく破折する、と言っていたものの、結局は何もせずに三十年もの歳月が経ってしまった。今般、教学部が新設(?)されたので、ならばぜひとも反論を発表してほしいものである。

ちなみにわたくしの感想を申し上げると、日達上人の御考察には決定的なミスがある、ということになるだろう。いずれは拙ブログで書いてみたいと思う。

女子部第百七十二区総班副長の記事に移る。

決戦場突入を明年に控えた今・・・

拙ブログの愛読者ならば思うだろう。巌虎は決戦場にずいぶんこだわっていると。その通りである。また、もう一つのキーワードである三百万にも注目している。ようは三百万と決戦場の関係性がよくわからないのだ。

そしていつの会長講演なのか失念してしまったが、幸いにも総班副長殿が先生の発言を引用してくれているのだ。次がそれである。

 「二〇年代こそ広宣流布の決戦場である。早く六千万の地涌の菩薩の陣列を整え、全員で大聖人様の御馬前に馳せ参じたい」

ここでは六千万を謳っている。わけがわからん。

ちなみに副長殿の真上には女子部第二百五十区総班長の記事があって、次のごとく言っている。

御遺命成就の最後の戦い・・・

すでに顕正会の拡大路線は破綻している。これが結論である。しかし、浅井先生はそれを認めるのがイヤなのだろう。それでダラダラと同じような発言を繰り返している。言っていることが微妙に異なるのは、ワザと韜晦させる目的でそのようにしているのかもしれないし、ただ単に行き当たりばったりで発言しているからなのかもしれない。

2019/3/25

ヤマイコウコウ  
顕正新聞第1465号を見ていこう。

 定刻を一時間、繰り上げた午後六時・・・

一月度総幹部会を伝える記事の書き出しがこれである。ようするに七時が定刻なのであるが、参加者が早くから来場するので開始時間を早めた、ということである。だったら最初から定刻を六時にすればいいだろう。もしくは七時を謳ってるわけだから、あくまで七時開始にするのも一つの見識である。いわゆる時間厳守は来場者のみに課せられた義務ではなく、主催者側の義務でもあるだろう。

顕正会始まって以来の大規模人事・・・

確かにそうかもしれないとは思う。ただし、過去の新聞を調べれば、近似の表現がたくさん見つかるはずである。

・・・従来の「総務」が廃止され、新たに「総部長」制が布かれることになった。

男子部の場合、第1総部長から第13総部長までいる。女子部は十五人、婦人部は九人。ところがである。これとは別に地方部長も存在するのだ。まったくわけがわからない。

ちなみに女子部の第2総部長は総合女子部長が兼任するようである。人材豊富な女子部において、なぜに天下の総合女子部長が兼任せねばならないのか、と言いたい。

総合婦人部長は兼任していない。総男子部長もそうだ。

今さらながら言えば、総合男子部長とせず総男子部長とするのもおかしな話で、女子部と婦人部が総合なのだから男子部もそうするのが筋だろう。これもわけがわからない。

いわゆるポストの乱立である。だったらついでに副会長ポストも作ったらどうかと思う。

さて、それでは会長講演を見ていこう。

辞令授与を省略したのは、きょうが始めてです。

始めての用法も気になるがそれはさておき、辞令授与を省略したのは今回が最初のことだろうか?

今はおぼろげな記憶で書いているので、そこはご容赦願いたい。わたくしの記憶では過去にも同様のことがあったはずである。もしそうだとすると、浅井先生はウソを言っていることになる。もしくはボケが進行していることになるだろう。

そのうち登用試験は過去最高の一万八千二四四名であったと。

前々回の拙稿で伝えたように、一つ前の顕正新聞には過去最高と書かれていない。ここがじゃっかん不審である。

 しかし顕正会は潰れもせず、広宣流布の基盤たる二百万は成った。一方、偽戒壇・正本堂は音を立て崩壊してしまった。

おかしな話である。正本堂崩壊は平成十年のことだ。その頃、顕正会は百万を目指していた。その百万が成ったのは平成十五年である。そして今は平成三十一年なのである。つまり、時期的な意味では百万との相関関係を云々するべきなのだ。それをせずして二百万がどうのこうの言っているのは、歴史の俯瞰の仕方としてはかなりデタラメというか恣意的というか、早い話が自分たちの都合で物を言っているだけのことである。

 また安倍首相のウソは、もう病膏肓ですね。

相変わらずの安倍批判であるが、わたくしはルビが気になった。ヤマイコウコウと書くべきところ、顕正新聞ではヤマイコウモウと書いているのだ。

それはさておき、今回の安倍批判ないし政権批判で注目しておきたいのは、次の事案だろう。

毎月勤労統計

これは地味な内容のためか、あまり大きくは報じられなかったような印象がある。例えばモリカケ問題の時であれば、籠池夫妻の強烈なキャラクターが注目を集めた。ヘンな話、報道機関も商売なので、そういう視聴率が取れそうなものを優先的に報道しているようなフシがあるのだ。その意味で上掲の事案は地味なので報道側も取り扱いが消極的だったように感じられるのだ。

しかし、これはひじょうに重要な問題であって、ようするにデータを好き勝手に改竄できるのであれば、それこそ何でもアリになってしまう。しかもである。庶民の立場からすれば生活が苦しくて困っているのに、未曽有の好景気であるかのごとくウソをつかれたら、堪ったものではないだろう。

イヤミながらも、これは顕正会の組織にも当てはまるかもしれない。

すでに顕正会の会員数そのものがデタラメの数字であることだ。これを本部が率先して行なっているとしたら、とんでもないことであるが、例えば活動会員が成果を誤魔化して報告するようなことがあるのは、顕正会のノルマが厳し過ぎるからだろう。ゆえに本部が率先してウソの数字を発表していることはないにしても、活動会員たちがそうした水増し報告をせざるを得ない状況を作り出しているという意味においては、本部にも責任があるはずなのだ。

異次元金融緩和こそ最大のウソ

経済問題は簡単ではない。何しろ経済学者たちの意見にしても、バラバラだからである。ゆえに浅井先生の言っていることに対しても反論を構える人がいて当然であり、それがまた著名な経済学者の主張に基づいての反論だったりすると、ひじょうに厄介なことになる。

いつも言っているように、わたくし自身は経済オンチなのでまともな議論をするだけの用意がない。けれども、前後を端折って恐縮ながらも、次の会長発言はけっこう説得力があるのではないかと思う。

 しかし、もしこんなことが許されるなら、そもそも税金など徴収する必要がない。すべて日銀に納めさせればいいのだから――。

ようするに今のまま行くと国家破産は必至であると、これが浅井先生の主張である。もちろん経済学者の中でそのように主張している人がいて、先生もそれを参考にしているわけなのだろう。
ところが国家破産など起きるわけがないと言っている人も少なからずいるのである。わたくし自身はテレビもラジオもほとんど視聴しないのだが、それでもたまに視聴すると、そういう意味のことを言っている学者や評論家が意外に多いことに驚くのだ。
そこで問われるのは、ではオマエはどちらの主張を支持するのか、ということになるだろう。すでに書いたことだが、この件に関しては浅井先生の言っていることのほうがマトモに思える。

ただし、浅井先生の場合はそれを用いて予言めいたことを言うからいけないのだ。地震の話もしかりである。

 この二つの地震については、信頼するに足る学者・専門家が口をそろえてその切迫を訴えている。あるいは「1年ないし2年」、あるいは「1年以内」等と。

首都圏直下地震と南海トラフ巨大地震のことである。

まあ、しかし、先生も少し用心深くなったというか、過去の失敗で懲りたのだろう。上掲が示すごとく、学者や専門家の名前を伏せている。先生が予言すると外れるので、結局は名指しされた学者が迷惑することになるのだ。

この件に関して言えることは、大地震はいつ起こってもおかしくない、ということである。言葉を換えれば、いつ起こるかわからない、ということでもある。それにもかかわらず一年以内とか言ってしまう浅井先生の予言僻がわたくしは問題だと思う。

一国が畜生界の命に覆われれば、それが日月等の諸天に感応して、強力な新種のウィルスが次々と発生して、多くの人々の命を奪うのです。

これがわからない。現代人の知識としてウイルスの存在は疑い得ない。それを仏法の上から解釈するとこのようになるのだろうか?

他宗他門ではどのように解釈するのか、宗門はどうか、創価学会はどうか、さっぱりわからない。

 早く顕正会は三百万を成し遂げ、大聖人様の御馬前に馳せ参じなければいけない。

国家破産だとか巨大地震について年限を云々するのならば、当然のことながら三百万の年限も明言すべきだろう。

2019/3/24

ムニノシショウ  
顕正新聞の続きである。まずは四面の男子部総務の発言から取り上げたい。

広宣流布の決戦場たる二〇年代までの最後の一年、

次は婦人部湘南支区総班長だ。

 三百万の初陣・・・

決戦場へ急がれる無二の師匠・浅井先生に・・・


それから男子部第四十四隊支隊長である。

三百万を急がれる無二の師匠・浅井先生に・・・

最後は女子部第二百二十三区総班長だ。

 先の三百万への初陣・・・

六千万を急がれる浅井先生に・・・


わたくしは言いたい、わけがわからんと。

もちろん、別々の人間が発言しているわけだから、その一人ひとりの考えに基づいて斟酌しないといけない。とは言え、すべての源は浅井先生なのだから、浅井先生に責任がある。当面はこのことを指摘し続けることになるだろう。

五面には「正義にめざめて」の記事が三本ある。いずれも創価学会からの入会者であることからして、当該号すなわち一月二十五日号の時点では、まだ宗門攻撃よりも創価学会攻撃のほうに注力している印象がある。

ここでも前述のテーマに注目してみると、次のような文言を拾うことができる。

「御遺命成就の段階」に連なり得る宿縁を胸に、三百万をめざし・・・

左隣の記事には次のごとくある。

身を捨てて一国諫暁に立たれる無二の師匠・浅井先生に、広宣流布のその日まで・・・

六面の右上の記事には次のごとくある。

三百万の一点を見据え戦われる無二の師匠・浅井先生に・・・

前掲の創価学会から移籍してきた人たちはわけもわからず発表しているのだろうけれども、上掲は男子部第六十五隊支隊副長の登壇であり、平成十三年から信心している意味でもそれ相応の責任があるだろう。

あるいは七面に載る男子部第七十三隊支隊副長の発言も同様である。

近き広宣流布のそのときまで・・・

三百万を明日のごとく急がれる無二の師匠・浅井先生に・・・


結論を書こう。

いわゆる二十年代の決戦場において、いったい何をどうするつもりなのか、である。今まで二千二十年代こそが広宣流布の決戦場であると言い続けてきたことは疑い得ないことであり、今回紹介した記事の中にもその片鱗が垣間見える。けれども、いざその時を迎えてみると、だから何をどうするのか、ということがまるで見えてこないのである。実際、浅井先生にしても秘策があるわけではないのだろう。過去にやった諫暁書の配布みたいなことでは誰も納得しないし、現実に目覚ましい効果があるとも思えない。先生もそれがわかっているのだろう。

そこで今また下方修正が行なわれつつあるのだ。

直近の総幹部会では三百万に並べて五百万のことに言及しており、わたくしの理解力ではそれこそ下方修正としか思えないのである。
ようするに今現在が二百万、そこに百万を上乗せすれば三百万、しかし、百万を上乗せしたくらいでは大した影響力はない、ということなのだ。何しろその数字そのものが名目会員数に過ぎないわけだからなおさらだろう。
そこで今度は五百万を打ち出してきた。ようするに今の二百万に三百万を上乗せしないといけないのだ。もはやこんなテイタラクでは、二十年代など、あっという間に過ぎていくだろう。

すでにこのことは十年前からわかっていた。あるいはもっと前からわかっていたことである。ところが浅井先生はそれをうまく誤魔化してきた。

今回もその兆候が見え隠れしているところで、いわゆる宗門攻撃キャンペーンがそれではないかと、わたくしは睨んでいるのである。

何しろここ十年くらいは創価学会員への折伏は積極的に行なうものの、宗門法華講に対してはかなり及び腰のような印象があった。それがここに来て急激に変化してきたのだ。

もっとも、こういうことを書くと、本部首脳も拙ブログをチェックしているはずなので、いろいろと変化球を投げてくるかもしれない。

それはそれで結構である。

なぜならば、すでに顕正会の野望は破綻しているのであって、それをどのように修正しようが必ずどこかに綻びが生じるのだ。ゆえに小手先の小細工を弄すれば弄するほど、返って墓穴を掘ることになる。

その唯一の活路は失敗を認めることである。はたして浅井先生にそれができるかどうか、そこが最大のポイントだろう。

2019/3/18

ケッセンジョウ  
今朝の沖浦氏のコメントについて申せば、それだけで一回分の記事になってしまうので、ここでは簡単に片付けてしまおう。

・・・くはしくこれをろむずれば己が心をよむなり。己が心は本よりつたなき心なれば、はかばかしき事なし。

引用の仕方がじゃっかん切り文的ではあるものの、そのつもりはない。前後の文も踏まえてよく拝するべきだろう。衆生心身御書のわりと前のほうに出てくる一節である。

それからマイケル氏の無限ループ云々について申せば、まったくもってご指摘の通りである。ただし、中途半端に続けるよりはいっそのことやめてしまったほうがいいという意見も相当であって、時にはそちらに傾くこともある。かつまた、そう言いつつもダラダラと続けているわけで、それで本当にいいのか、というような自問自答を続けているのが現状である。氏の意見を踏まえつつ、今後の身の振り方を考えたいと思う。

さて、顕正新聞第1464号に目を移すと、一面には教学試験のことが報道されている。ここでわたくしが気になったのは、登用試験の受験者数は過去最高ではなかったものか、その旨の記述が見当たらないことである。ところが翌号には一月度総幹部会の会長講演が掲載されていて、会長いわく過去最高云々と。この点が気になるところである。もちろん過去の受験者数を調べればわかることなのだが、そこまでのモチベーションはない。

感動のあまり涙をにじませる人・・・

三級昇格試験を報ずる段に書かれている。

解答が進むごとに感激がたぎり・・・

終了と同時に拍手が起こる・・・


四級昇格試験の段にはご覧のような記述がある。

日本語能力が乏しい外国人・・・

暖房を切って冷房をつけた会場も続出・・・

問題に感激して嗚咽する人・・・

 試験終了後は多くの会場で拍手が起こり・・・


これらは登用試験の段である。

そして一面には写真も豊富に掲載されており、ぜんぶで十二のスナップがある。これらを眺めていると、確かに凄いことだとは思う。ようするに世間一般の試験は、学業にしても仕事にしても己の利得のために行なうものだからである。顕正会のそれは社会的なステータスの意味においては何の価値もない。また究極的には一念信解でもよいとするのが大聖人の仏法であるからして、逆にいくら教学ができても信心が不純であればダメなのである。

熱烈な求道心、教学の大旋風起こる

そうしたさまざまのことを勘案した上で改めて大見出しに目を転ずれば、確かに凄いことをやっているのだと思えてくる。

ただし、正直な感想として、マイナス面にも言及しないといけないだろう。前掲のごとく、編集部の文章がいかにもクサイのである。それと一つ疑わしい点がある。

暖房を切って冷房をつけた・・・

単に表現の問題なのかもしれないが、これはいかにもウソ臭いところだと思う。ようするに一般家庭であれば暖房と冷房が別々の場合が多いものの、公共の施設であれば冷暖房が一体化した空調システムになっているのが普通である。ゆえに室内温度が上がり過ぎて暑いと感じれば、そこで暖房を切るのではなく設定温度を下げればいいだけの話なのである。たぶん顕正会の会館だって同じだろう。

ゆえにこの一点が疑わしいわけなのだが、あるいはこれを含めてすべての記述が誇張的であり、それがために臭さが感じられるのかもしれない。安国論に示されるように、こうした臭さはそれに慣れ切っている内部の人たちには感じられないものなのだろう。

二面から三面にかけて、成人式の記事が載っている。

男子はほぼ全員がスーツ姿なので普段と何も変わらないが、女子の場合は晴れ着姿の人たちがいていかにも華やかである。ただし、女子の全員が晴れ着を着ているわけではない。とりわけ本年は例年に比べて晴れ着率が低いような印象である。もちろん、これはあくまでわたくしの見た感じを言っているだけなので、正確ではないのだが・・・

晴れ着率の多寡が何を意味するかを考察するのも一興である。しかし、それ以前に成人式の参加者数が不明であることが問題である。先の教学試験などでは受験者数を公表しているのにもかかわらず、成人式の参加者数は公表していないのである。

支隊副長二人、総班長二人

毎年、成人代表が男女二人ずつ登壇する。今回はご覧のような役職である。漠然とした印象ながら、若い人材が育っていないような感じを受ける。

高校一年生のときには、五級試験に合格・・・

支隊副長の一人がご覧のように言っている。これはおかしな話で、ようはすでに前年の段階で登用試験に合格していた、つまり、中学三年生の時に登用試験を受けていたことになるだろう。

次に成人式における総合女子部長の発言を紹介したい。

先生のもと、最後の御奉公に連なれる・・・

 本年は決戦場到達のその前年であり・・・


理事長の発言も見ておきたい。

いよいよ突入する広宣流布の決戦場を見据え・・・

なぜに総男子部長とせず理事長なのか、その理由はよくわからない。いずれにしてもである。新成人の代表たちも同様の発言をしているので、紹介しておかねばならないだろう。

最後の広宣流布の決戦場を見つめられる先生・・・

支隊副長のもう一人のほうがご覧のように発言している。さらに続きの文章には次のごとくある。

三百万を急がれる先生・・・

新成人女子の発言も紹介したい。まずは女子部第一区総班長である。

 されば、二〇年代の決戦場まであと一年。

次は女子部第七十五区総班長だ。

明年からの広布の決戦場を見つめ・・・

今日はこんなところで終わりにしたい。

2019/3/13

ワルアガキ  
二月度総幹部会を報ずる新聞が届いている。これがまたひじょうに興味深い内容で、今後の展開に目が離せないと思った。しかし、同時に思ったことは、これが顕正会の最後の悪あがきなのかもしれない、ということだった。

さて、続きを見ていこう。

 本年六月に学会の入門試験を受け、一応合格したのですが・・・

十二月度班長会の登壇なので、昨年の六月の意味である。登壇者は婦人部伊予支区の平会員であるが、ようはわりと最近まで創価学会に在籍していたわけである。さらに入門試験云々からも察せられるように、彼女は一昨年に創価学会に入信したという、七十一歳の人物である。

・・・わからない所を先輩に聞いても教えてもらえず、「もっと深く学びたい」との思いが込み上げ、御書全集を借りて一日じゅう、時間が経つのも忘れて読みふけりました。

前掲の続きの文章である。さらに次のように続いている。

 しかしいくら読んでも難解すぎて理解できず、どうしたものかと悩んでいたとき、広告文と・・・

広告文と特集号がセットで自宅に投函されていた、そこに記されていた連絡先に電話を掛けた、云々と。

そりゃあ、いきなり御書を拝読しても理解できないだろう。創価学会にはそれを教えてくれる先輩がいないのだろうか?
そもそも御書を借りるというのが不審な点で、入信した時点で真っ先に購入すべき書籍の一つが御書のはずである。この点、今の創価学会は御書を軽視しているのかもしれないと思った。
もっとも御書全集の発刊すら頓挫してしまう顕正会も、今となっては御書軽視は否めないところである。しょせんは浅井先生というフィルターを通してしか御書を学べないからだ。彼女はそこに疑問を感じないのだろうか?

ちなみにわたくし自身は今現在、平成新編を使わせていただいており、それは今からおよそ十五年ほど前に密かに入手したものである。それ以前から所持していたものはいわゆる創価学会版御書全集であり、今はどうだか知らないが以前は町の古本屋を探し回ればいくらでも手に入れることができた。しかも新古本とでも言うべきなのか、ほとんど傷んでいない良品があって、それでも五百円くらいで購入できた。

それから少し自慢話をすると、今現在は創価学会版の御書全集を複数所持していて、その一つは池田大作氏の名前がどこにも記されていないものである。このように書くと、昔からの法華講員ならばアレだと思うかもしれない。ようするに平成新編が発刊されるまでは創価学会版の御書から奥付などを取り外したものが法華講で流用されていたのである。しかし、わたくしの所持しているものはそれではない。つまり、池田氏が会長に就任する遙か以前の、初版ではないもののかなりそれに近い稀覯本を所持しているのである。

こういうことを書くから長くなる。

大聖人様がお待ちあそばす決戦場へと急がれる浅井先生に・・・

これは第四十二女子部長の記事である。その隣には婦人部町田支区組長の記事があって、次のような記述がある。

三百万をめざす広宣流布の戦いに・・・

急ぎ三百万達成に向けて戦い・・・


バカバカしいのであまり取り上げたくないのだが、おそらくはこれらのキーワードが顕正会の欺瞞を暴く意味で重要になってくるので、今後も引き続き注視していきたいと思う。

 されば、次の目標たる三百万を見つめ、御生骨が光り輝くその日まで、残りの人生のすべてをかけて・・・

同じ紙面の下段に載る女子部第二百区班長の記事である。年齢は八十一歳とのことだ。

この人の記事で注目すべき点は、まず昭和三十一年に創価学会に入ったことである。六十二年には脱会し、正信会に移籍したという。そして一昨年の二月に顕正会へと移り、今は班長の肩書きを持っているくらいなので、年齢を考慮すれば大変な頑張りようである。

自宅にあった細井日達書写の本尊への執着が自然と消え、無事に返納することができました。

いったいどこへ返納したのだろうか?

塔婆供養をしていた宗門末寺・専行寺に対し、顕正会で信心していくことを堂々と言い切る・・・

ご覧のような記述があるものの、当該寺院が返納先とは考え難い。おそらくは顕正会の本部に納めたのだろう。しかも上掲はやや不審である。ようするに正信会の寺院なのか宗門の末寺なのか、その区別がアイマイなのである。今の顕正会では十把一絡げに捉えているフシがあるけれども、ここはしっかりと区別すべきだろう。

いずれにしても昨年あたりから顕正会の方針に大きな変化が見られるようになった。宗門に対する方針である。その明確な宣言とも受け取れるのが二月度総幹部会の報道である。本当ならばすぐにでも取り上げるべきところだが、いちおう順番通りに読んでいくことにしよう。もっとも今の更新ペースだといつまで経ってもたどり着かないかもしれないが・・・

2019/3/6

センケン  
ROM氏のことはすっかり失念していたが、幸いにも過去の拙稿にその痕跡が残っており、それが救いではある。

https://white.ap.teacup.com/ganko/1669.html

たぶん何かしらの有能なアプリを導入すれば、過去のすべてのコメントを検索することも可能だとは思うが、現状では本文中の文字検索しかできない。ゆえに完全に埋もれてしまっている投稿者もいるし、その点は申し訳なく思うものである。

ちなみに菊水護国氏のことはよく憶えている。その理由は単純明快で、ようはわたくしがインターネットを利用するようになった、そのもっとも初期の頃にお世話になった人物だからである。いわば幼児体験みたいなものなのだろう。氏をはじめとして何人かの人物については、強烈に記憶に焼き付いているのだ。

もっとも、なぜに今頃になってコメントを寄せられたのか、そこは不明だが・・・

さて、断筆について申し上げると、ようはモチベーションの問題であって、それを表現するのに適当な言葉を探しあぐねた結果、そのように書いたまでのことである。ゆえにここで明確に断筆を宣言するつもりはなく、おそらくは今後もダラダラと書き続けていくことになるだろう。ただし、今書いたようにモチベーションの問題は深刻である。よってしばらくは大幅に更新頻度が下がるかもしれない。

当然ながら、それでフェードアウトになることもあり得るだろう。

そもそもこうした個人ブログが十年以上も続いていることが驚くべきことであって、たいてい多くの人がさまざまの事情から更新停止に至っている。拙ブログに関連するところでは瑠璃堂氏がそうであるし、あるいは山門入り口氏も同様である。
この二人の更新停止の理由はまったく異なるものであるが、驚くべき事実を書いておくと、二人はもともと拙ブログのコメント投稿者だったのである。ある意味ではわたくしに触発されてブログを始めたとも言えるだろう。そしてそれぞれがそれなりの成功を収めた。
ところがである。二人はすでに更新をやめてしまっている。逆に言うと、拙ブログはいつまでもダラダラと続けているわけであり、最初に書いたようにこれは個人ブログとしては異例中の異例なのである。

以上のような理由から、いつ終わってもおかしくない。かつまた、そう言いながらもダラダラと続いていく。それが今現在の正直な気持ちである。

さて、顕正新聞の続きである。

第1463号の七面に載る、まずは男子部第百二十九隊長の記事を見るわけだが、そこには五十年来の古参創価学会員のことが書かれている。

〇〇さんはボロボロになるまで読みきった学会版の御書全集を取り出し・・・

マレな例かもしれない。ようは御書を持っていてもほとんど読んだことがない人も少なくないのだ。しかし、この人には向学心があって、自ら進んで御書を拝読したわけなのだろう。この登壇をしている隊長殿がどのようなつもりで紹介したのか知らないが、わたくしはむしろ御書全集の発刊すら実現できていない顕正会のショボさをここに感じたものである。

次は男子部第十三隊総支隊長の登壇を見てみよう。

悪貫首

この言葉が二回も出てくる。あるいは詐称法主との記述もある。ずいぶん強気の発言である。

顕正会員が今後、全国で僧侶を次々と破折し改悔させていけば、宗門全体に改悔の心が満ちていくこと必定であり・・・

これは違うような気がする。実際、過去の浅井発言とは整合しない。ようするに僧侶なんてものはもともと無道心の連中なのだと、先生はそう言っていたのである。ゆえに創価学会の金力に蕩かされてしまったと。これが事実ならば僧侶を破折しても無意味だろう。当然、方法論としては顕正会がたくさんのお金を御供養する以外にないのだ。

少しヘソマガリなことを書いているとは自覚するものの、これが一つの結論であるのは間違いない。

昭和四十年代、妙信講の言っていたことは正しかった。しかし、無道心の坊さんはそれを迷惑に感じたわけである。妙信講は文句を言っているだけで金を持ってこない、だったら創価学会のほうがいいや、ということなのである。

これを正宗の御僧侶や法華講員が読んだらどう思うか、そんなことはわたくしの知ったことではない。今は総支隊長殿の浅見を指摘するのみである。

二百万法城屹立を以て時代が大きく動いた・・・

三百万を以て一国を動かさんとされる浅井先生に・・・


同じく総支隊長の発言である。彼は明年から始まるはずの決戦場での戦いにはまったく言及していない。ここは浅見ではなく、深謀遠慮かもしれない。総支隊長殿、オマエも悪よのう。

婦人部船橋支区班長は二十五年越しで父親を入信させることができたと報告している。

この人はかつてはもっと上の役職だったはずであるが、今現在なぜに班長なのか、そこが気になるところである。というのは記事の中でも自ら触れているように、彼女は顕正会に入信したことがキッカケで離婚を余儀なくされ、二人の子供の親権も相手に取られてしまったごとくである。かくも熱心な活動会員だったゆえに婦人部の中でもそれ相応の幹部として活躍していたし、わたくし自身もそれをハッキリと憶えているわけである。

ともかく父親としては娘が宗教に狂って、それで孫までも失うハメになったことを、いつまでも忘れずにいたのだろう。ゆえに顕正会に入信することを固く拒んできたわけである。

父は九十一歳の誕生日を迎えた九月ごろから・・・

老いては子に従えである。水を差すようだが、年齢的なことを考えると、娘の厄介になるしか選択肢がなかったのだろう。二十五年越しの入信は感動的ではあるものの、現実的には今述べたごとくである。


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