2019/5/4

オシエタガリ  
新しい人がお見えになっているようだが、それについては別の機会に譲るとして、今日もまた顕正新聞の続きを見ていこう。

 班長は足を骨折しても、痛みをこらえて街頭配布に立ち・・・

婦人部十日町支区部長は、六十歳で亡くなった一班長のことを報告している。上掲はその記事の一節であるが、わたくしの思うに、これはよくないだろう。骨折の程度が不明ではあるものの、痛みを堪えてやるべきことではないし、先輩たちもそのように指導すべきである。結局、現代の感覚からすればかなりの早死にであり、無理が祟ったと言われても仕方がないと思う。いや、もちろん、骨折が原因で亡くなったわけではないのだが、とかく頑張り屋さんはあらゆる意味で無理をして、結果的に死期を早めることにもなりかねないのである。

膨大な御書全集を何度読んでも拝し得なかった大聖人様の御意を・・・

これは創価学会歴五十六年の男性が顕正会に入会し、先般、登用試験を受験したことを報告する記事である。五十六年間に何度も御書全集を読んだ、しかし理解できなかった、それが基礎教学書を読むことで理解できるようになった、というような意味である。これはまだマシなのだ。

なぜならば隣の婦人部伊予支区組長の記事がヘンなのである。

 学会では誰からも教学を教えてもらえず、「深く学びたい」との思いから御書全集を借りて読んでみましたが、私には難しくて何も分かりませんでした。

この人の会員歴が不明である。もし前掲の人物のごとく、半世紀レベルの会員歴があるとすれば、御書全集を借りることなどあり得ないだろう。自分で購入していなければおかしいのだ。
また誰も教えてくれないはウソだろう。創価学会には腐るほど人材がいる。本気で教わるつもりならばいくらでも教えてくれるはずだし、教学関連の書籍も膨大にある。
あえて言うならば、この人はわりと最近の入信なのだろう。そして近年の創価学会は摂受路線よろしく、大聖人の御法門についてはあまり突っ込んで教えないという方針なのかもしれない。
しかし、直前にも書いたように、古くからの会員はそれなりに教学を学んでいるはずだし、すでに定年を迎えてヒマを持て余しているような人も少なくない。さらに言えば世の中には教えたがりの人もいるので、そういう人物を見つければいくらでも教えてくれるはずなのだ。

次の男子部第百四十五隊長は創価学会三世だったそうである。

 その当時、学会の本部長が車のカギをすべてロックしたまま車中で急死し、地域の会員から集めた現金を抱えたまま、口を開けて叫んでいるようなドス黒い臨終の相は悲惨そのもので・・・

まさか登壇者本人がそれを目撃したわけではあるまい。ゆえにこの話はかなり盛っていると考えたほうがよさそうである。

わたくしが思ったのは、カギがロックされているかどうかはどうでもいい話であり、この点はまるでサスペンスドラマのような印象を拭えないところである。
なぜならば、もし仮にカギが掛かっていなければ他殺の可能性もあるわけで、それが完全なる密室状態になっていたということは、ドラマであれば巧妙なる密室殺人という話にも通ずるわけである。
まあ、しかし、常識的にはあり得ない話であろうから、車内で自殺を図ったか、もしくは病死というのが妥当な線であり、この場合は病死と考えるのが自然である。

問題はこの正確な時期である。なぜならば創価学会では集金全般を銀行振り込みで行なっているからである。創価学会三世ならばこの事実を知らないわけがあるまい。ゆえにこの辺の事実関係もアヤシイところだと思う。

たぶん昔は悪辣な幹部がいたのだろう。銀行振り込みの制度が取り入れられたのがいつ頃のことか知らないが、当然ながら昔は直接的に現金を集めていたのだと思う。すると急成長期の創価学会では会員数の把握も覚束なく、極端な話、地域の幹部がデタラメの数を報告すれば本部はそれを鵜呑みにするしかない。つまり、集金についてもいくらでもチョロマカスことが可能だったのだ。ゆえに創価学会ではいつの頃からか集金システムを銀行振り込みに切り替えた。

ちなみに顕正会は今も現金を徴収している。その意味ではむしろ危ないのは顕正会のほうだろう。

 仕事は大へんな重労働で、タイヤ交換時にお預かりしたタイヤを、一日に三百本近くも倉庫に運ぶなど・・・


婦人部新発田支区班長は女手一つで四人の子育てをしているという。そういう根性のある人間だから上掲のような重労働もこなせるわけなのだろう。

わたくしは当初、この話にイチャモンをつけようと思っていた。ガソリンスタンドで一日に三百本もタイヤ交換するところはあるまいと。ただよく読むと、どうやら何店舗かをまとめた数字のようである。しかも雪国なのでシーズンごとにタイヤ交換をする人が多いのだろう。わたくしの居住地域はほとんど雪が降らないので一年中同じタイヤを履いている。ゆえに同日の談ではないのだ。他者を批判する時にはこういう些細な点にも注意が必要である。

男子部第九十二隊班長は昭和六十三年の入信である。顕正会への入信の意味だ。ところが平成十五年に宗門末寺・法厳寺に移籍してしまった。今回の記事はその時に見聞きしたよくない話を紹介しているわけだが、やがて宗門に嫌気が差して平成二十三年には顕正会へ戻り、今回の登壇に至った次第である。

あるいは、三百万円もの大金を供養した者の供養金が、本山に納められていなかったという信じられない話もありました。

この前後には他にもスキャンダラスなことがたくさん書かれているのだが、この一例に絞らせていただいた。

いくつか疑問がある。まず、末寺への供養は本山に上納するのがルールなのか、である。基本、独立採算制と考えるのが常識だろうと思うのだが、違うのだろうか?
次に、どうしてそれが発覚したのかという疑問と同時に、そもそも供養をした人は末寺に供養をしたのではなかったのか、という疑問である。
つまり、わたくしの感覚からすると、上掲は何の問題もない話であり、それをあたかも大問題のように取り上げていること自体がおかしな話なのである。

ここで他宗他門を云々するのはどうかと思うが、例えば身延山久遠寺は日蓮宗系の総本山である。日蓮宗にもそれなりに熱心な信者がいるだろうし、観光で訪れる人も相当数いるはずである。つまり、末寺からの上納ではなく、身延は身延で独立採算が成り立っているはずなのだ。
では日蓮正宗はどうかであるが、当然ながら熱心な信者は総本山への参詣を欠かさないだろう。戒壇の大御本尊への恋慕渇仰のあらわれである。つまり、ハタでは御登山のノルマ化だとか付け願いがどうのこうのというイチャモンをつけているけれども、よく考えればすでにこの時点で末寺の上納が否定されることになるはずなのだ。
ましてや今は困窮寺院が存在し、逆に本山から援助が行なわれているという話もあるのだ。どうだろう、これが事実だとすればくだんの話は逆にまったくの事実無根ということにもなりそうである。

創価学会もそうであるが、顕正会もヒドイものである。全体の整合性を考えず、何でもかんでもイチャモンをつけている。


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