2019/7/29

ダイロクテン  
顕正新聞第1477号の五面下段には、右に副総合女子部長の記事があり、左に第二十七婦人部長の記事がある。

旭日に照らされて金色に輝く大聖人様の尊い御尊容を、先生のお声を通し直に拝する思いになり・・・

副総合の発言である。直に拝するが凄まじい。

 御在世には、・・・第六天の魔王は、大聖人様の絶大威徳の前に敗退。
・・・広布前夜には、・・・先生の諫暁により間もなく敗退、


かなり端折った引用で恐縮だが、第二十七の発言である。

両者に共通するのは浅井先生に対する特別の思いだろう。純粋に大聖人だけを見つめているのであれば、そこに先生を介入させる必要はない。もはや先生は大聖人と同一の存在であり、これまで何度も引用してきた大師子吼の表現をもってすれば、大聖人以上の存在ということにもなりかねないのだ。

男子部第百四十四隊長の記事には、創価学会歴六十年の夫婦が顕正会に入会したと書かれている。

昭和二十年代に学会に入信してまじめに信心に励み、今でも三時間以上の唱題を毎日欠かさず実践・・・

熱心な創価学会員のように思える。

 また、正本堂が崩壊したことについて語ると、かなり衝撃を受けておりました。

ところがこの部分を読むと、疑問が生じてくる。熱心な創価学会員ならば宗門の動向についても知っているはずである。少なくとも正本堂の解体撤去のことは知らないはずがないのだ。あるいは今現在、すでに九十歳というかなりの高齢なので、失礼ながら認知症などの傾向にあるのかもしれない。

これまた、いつも言っているように、創価学会からの入会者はその多くが高齢である。この点は顕正会にとっても一つの課題なのだろう。極端な話、若い創価学会員を次々に入会させることができれば、それこそ創価学会の崩壊を早めることができるはずだし、少なくとも弱体化は確実だろう。失礼ながら高齢者の入会はあまり響かない。

七面右側の記事は男子部第百六隊支隊副長の記事である。

教育者では知り得なかった「仏法史観」!

隊長を務める息子さんから折伏されて入信したものの、現役教師の時には活動していなかった。後に教頭・校長を経て定年退職し、それから活動するようになった。これはわりとマトモかもしれない。

というのは下段の女子部第三百十九区総班副長の場合は、母親の縁で高校入学と同時に入信し、後に教師となっている。ゆえに前掲、教育者では知り得なかった仏法史観、とは真逆で、最初から仏法史観を前提とした教育を実践することになるのだ。

教育界も末法濁悪「妙法の教育」以外なし

ゆえに彼女の記事にはご覧のような見出しが付いている。

わたくしは前者に対し、マトモと書いた。当然、後者に対してはマトモじゃないという意味になるわけだが、それは教育委員会から呼び出しを食らっているからである。

 しかし肚を決め、仏法の大事を言い切ると、かえって卒業生への折伏が認められ・・・

ここを読み間違えてはいけない。ようするに現役高校生への折伏はダメだという話なのだ。

この点について、拙ブログでは過去に提言を書いている。ようするに顕正会本部のほうでしっかりとしたガイドラインを示すべきであると。具体的には教師が生徒を折伏することを禁止すべきで、折伏は卒業を待ってからというのが望ましい形だと思う。

高校一年生であっても三年後には卒業するのである。なぜ待てないのかと思う。日本に残された時間は少ないなどと言ってはいけない。それは都合のいい理屈である。

始めて知った「竜の口」の大現証の重大意義

これは九面右側に載る男子部第百四十六隊組長の記事に付いている見出しの一部であるが、ケシカランと思う。

初めて×3

本文中には初めてと書かれている。始めての表記は見当たらない。ところが見出しはご覧のごとくなのである。

「恵妙寺」住職は逃げ、法華講員は反論不能

女子部第百二十三区組長はもともと法華講員だったが、もうかれこれ二十年ほど前に顕正会に移籍した模様である。数年ぶりに法華講時代の教化親を折伏したところ、次のようなセリフが返ってきたという。

 「自分ではわからないこともあるから、寺に来て住職に説明してもらうといいよ、何でも教えてくれるから」

どうやら最近の顕正会の動きを知らないようだ。

 「いつでもいいし、何人来てもいいよ。百人束でもいいよ」

ところがすでに紹介したように、住職は逃げちゃった。

住職の女房
 講員を「客」と


それにしてもこの部分が気になるので、本文を見てみたい。ようするに玄関先で法華講員と押し問答をしている時に住職の女房が出てきたわけである。

 「玄関で騒いでいるとお客さんが入れない、外でやって」

登壇者はここでの客を講員のことだと決めつけて、職業化した実態がどうのこうのと言っている。この点、わたくしは先方の反論を聞いてみたいと思っている。くだんの女房殿がどのようなつもりで言ったのか、確認する必要があるだろう。

35歳の次女が睡眠中に心不全で臨終!

婦人部下北支区組長の記事である。悲しい出来事と言う以外にない。

2019/7/25

ケンミツダイイチ  
沖浦氏は進歩のない人である。拙ブログを遡れば同様の話題が繰り返し出てくる。わたくし的には決着が付いている。ところが沖浦氏としてはそれが不満なのか、繰り返し同じことを書いている。一貫不変と言えばよく聞こえるが、現実的には堂々巡りを繰り返しているだけなのだ。いったい何周すればゴールなのか、もはやわからない状態である。

虚空不動戒、虚空不動定、虚空不動慧

これは御書全集未収録の上行所伝三大秘法口決と呼ばれる古文書に出てくる文言である。今、古文書と書いた。その意味は、文中には「御書に云はく」という表記がたくさん出てくるからであって、まさか大聖人御自らがそのようにおっしゃるわけがないので、後年、どなたかが書かれたものなのだろう、よって古文書と書くのが妥当と判断したわけである。

ゆえに沖浦氏がこれらの文言を使用する場合には、まずは出典を明かさなければいけない。

ここまで書いていて、思わぬ発見をしてしまった。上掲は御義口伝にも出てくる言葉なのだが、その御義口伝の内容を確認していくと、全集と平成新編とではかなりの相違が存在するのだ。有名なのは次の一節だろう。

所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。

所謂南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり。


話を戻そう。虚空不動云々は宝塔品二十箇の大事の中に出てくる。ところが全集と平成新編では順番と表題が異なっているのである。

第二十此経難事の事

第十六 是名持戒の事


このように書けば、それぞれ別の項目と思うはずである。ところが本文はまったく同じ内容なのである。さて、これをどのように考えればいいのだろうか?

単純に言えば、後から出版された御書のほうが正確なのだろう。

ただし、ここからは沖浦氏に対するのではなく、むしろ日蓮正宗の僧俗に問わなければいけないことになるだろう。御義口伝においては表題ないし番号にズレがあるものの、いずれにしても宝塔品をベースにした御指南であることは動かない。では、三大秘法口決はどうか、である。

 口決に云はく、三大秘法の依文は神力品なり。

一目、矛盾しているように思える。

御義口伝は大聖人の御指南である。三大秘法口決は大石寺の古文書であるが、こうして平成新編に収録した以上、上代のかなり重要な文書と見なしているわけである。それが矛盾しているとすれば大問題だろう。この点、明快な答えをお持ちの人がいれば、ぜひともご教示願いたいものである。

さらに同書には裏書きがある。その冒頭が次である。

受持即受戒なり。経に云はく、是を持戒と名づく。釈に云はく、持経即理戒に順ず。

続いて法身報身応身を戒定慧の三学に配当する図があって、そこには次のような一節がある。

持経の処即戒壇なり、法界道場云云。

これは本尊所住即戒壇の文証と言えるかもしれない。ただし、前掲を踏まえるならば、持経とは持経者のことに他ならないわけで、いわゆる己心戒壇論を補強する文証とも言えるだろう。いずれにしても、この古文書には戒壇建立を示唆するような文言がまったく見られない。この点も気になるところである。

事の一念三千は迷中の事なり。

ここは凄まじい御指南である。詳細は省略させていただく。

今日は教学の話になってしまったので、最後にもう一つ教学関連の話題を書いておこう。今朝たまたま拝読した御書について、少し不審に思ったことがある。新田殿御書の次の一節だ。

経は法華経、顕密第一の大法なり。仏は釈迦仏、諸仏第一の上仏なり。行者は法華経の行者に相似たり。

この御書は大石寺曾存なのだそうである。どのような理由で現存しないのか、ご存知の人がいればぜひとも教えてほしい。内容的にはいわゆる仏法僧の三宝を釈迦・法華経・日蓮に配当したものである。まさか日蓮本仏論に不利だから処分してしまったとか、そんなバカなことはあるまい。

今日は結果的に、日蓮正宗の僧俗に議論を吹っ掛けることになってしまったようである。

2019/7/19

ドゲザ  
部外者氏の観察は正しい。ようするに退転者が多い、その穴埋めのために新規の折伏が必要、しかし一般人は難しい、ゆえに創価学会員や正宗信徒をターゲットにしている、というような感じである。ともかく数にこだわるのが顕正会であり、結局、それが活動会員を疲弊させ離脱者を増やすという悪循環を招いている。

さて、今日も顕正新聞の続きを見ていこう。

各部の代表幹部の記事はどれも似たり寄ったりである。あえて言うと、そこに共通するのは総幹部会での会長講演のマズイ部分をうまく修正している点であり、具体的には空文化のくだりである。クウブンカと題する拙稿を確認されたい。

面倒なので省略するが、ともかくおかしな文章だった。大幹部たちもそれがわかっていたのだろう。ゆえにその部分を修正した上で取り上げているわけである。

大師子吼

最近はこれが目立つ。前回の拙稿で取り上げたように総男子部長がこれを言っている。そして総合婦人部長も副総合婦人部長も言っているし、総合女子部長も言っているのだ。ようするに各部のトップが率先垂範で言っている。するといずれは幹部の全員が言うようになるかもしれない。

謀略新聞「慧妙」の捏造記事に見る
 妙観講々頭・大草一男のペテン性


さて、これは法務部長・副教学部長の肩書きを持つ藤村雄大氏の記事に付けられた見出しだが、さらにその前にはタイトルがあって、宗門の寄生虫「妙観講」の実態、と書かれている。

当然、先方にも言い分があるはずで、それは最新の慧妙などに掲載されているようである。しかし、わたくしはそれを読んでいないものだから、公平にどちらの言い分が正しいのか判断することはできない。

そのことをお断わりした上で書かせてもらうと、さすがは弁護士の先生である。ひじょうに緻密な文章であり、平均的な顕正会員であればこの記事をそのまま信用することになると思う。ようするに妙観講はとんでもない連中であると。

そこで私が、「じゃあ、ぜひお話させて下さいということで、まずここで土下座して下さい」、「お願いしたいのであれば、それ相応の対応をして下さいということです」等と丁寧な口調で提案したところ・・・

ちなみにこの部分に関しては法華講のセロリ氏が取り上げておられる。

http://blog.livedoor.jp/no_sleep502/archives/37708359.html

とりわけ重要と思われる部分を抜き出せば次のごとくである。

いくら「丁寧な口調で」としながらも、

顕正会顧問弁護士、教学部員(、たしか本部職員)である立場で、

「土下座を求める」

というのは、私個人としては「どうかな?」と思います。


同感である。

なお、言葉遣いの乱暴さという意味では、わたくしは過去に二例ほど音声データを聴いている。
一つは横浜会館付近での妙観講員と男子部幹部のやり取りである。ここでの顕正会の男子部幹部は今も総部長か地方部長クラスの幹部であり、名前も特定されている。彼はまさに高圧的だった。
もう一つは本部会館の敷地内に妙観講員が一人だけ閉じ込められるような感じで、男子部幹部たちに囲まれてしまったという一件である。これは小峰氏がわりと冷静に対処している印象だった。逆に言うと、それ以外の男子部幹部複数名はかなりいきり立っていて、その口調がまるでヤクザのようだった。残念ながら小峰氏以外の具体的な人物名はわからない。

これらは記憶だけで書いているものの、もし一般人がくだんの音声データを聴けば、おそらくは大多数の人が同様の感想を懐くだろうと思う。

ともかく弁護士ならば、最終的には世間の常識を弁えなければいけない。

顕正会用語に、ひれ伏す、平伏する、というものがある。ここでの顕正会用語の意味は、世間一般にはあまり使われない言い回しであるとか表現のことである。しかし、顕正会にどっぷり浸かっていれば、それもわからなくなるのだろう。土下座もそれに近いものがある。

まさにセロリ氏が指摘されているように、丁寧な口調であろうと言っている内容そのものが常軌を逸している点に気がつかないといけないのだ。

 では、なぜ大草は、妙観講員らに指示してこのような行動を取らせたのであろうか。その狙いは、次の3つと思われる。

ここはひじょうに興味深いところなので、煩を厭わずに引用したい。

 1には、顕正会の破折に怯える全国末寺の僧侶や法華講員らを鼓舞するため。
 2には、宗門内における点数稼ぎのため。
 3には、平成17年の対決から逃避した汚点を隠すため。


一番目は当然のことかもしれない。妙観講に対する評価がどうであれ、宗門内における大集団であり、率先垂範すべき立場なのだと思う。

しかし、二番目はどうかと思う。この点数稼ぎは浅井先生の好きな表現であり、主には悪者が首領の歓心を買うために行なう悪事について言っているようである。藤村氏もそれを踏襲したわけなのだろう。また、ケチな人間が小金をセコセコと貯め込むようなニュアンスにも聞こえるところである。

わたくしの思うに、点数稼ぎはずいぶんと偏見に満ちた観察である。

例えばタイムカードで労務管理されている労働者がいたとしよう。出社する。真っ先にタイムカードを押す。退社する。ギリギリまでタイムカードを押さない。そうして一分一秒でも稼ごうとするわけだ。先ほどのケチな人間云々の話そのものである。しかし、パートだとかアルバイトの人にしてみれば、それしか稼ぐ方法がないのである。その意味では同情を禁じ得ない。

さて、ずいぶんと下世話な話をしてしまったものだが、大草氏にはまるで当てはまらない話である。もし当てはまると思う人がいるならば、いったい大草氏はそれで何を稼ごうとしているのか、そこが問題である。

以上、点数稼ぎは浅井先生の好む表現ではあるが、まさにそれは表現であって具体的にはさしたる実体がない。この点をよく考えるべきだろう。

三番目は重要である。

宗門側では、邪義破折班によって徹底的に破折した、回答不能に陥っているのは顕正会のほうである、というふうに主張しているのだと思う。それはもちろんその通りなのだが、いわゆる対面法論そのものを回避したという事実を、顕正会では言い続けているわけである。これをどうするかである。

わたくしの思うに、今のように映像の発達した時代においては、対面法論がもっとも効果的である。一発で決着がつく。もちろん大変なことである。しかし、ヤジウマ根性で言わせてもらえば、それをやらなきゃウソになる。

結局、いわゆる浅井武勇伝にしても、今は文書が残っているだけであって、映像は存在しないのである。その意味でわたくしは浅井先生の言っていることも、ぜんぶを信用することはできないと思っている。ゆえに今からでもやってほしいのである。

現状、大将戦は実現不能にしても、顕正会側には教学部員が何人も控えている。さて、宗門側はどうかである。お互いの機関紙で言い合っていても仕方がないだろう。本気を見せてほしいものである。

2019/7/18

アセリ  
部外者氏は名前が示すように、まさに外野からの見え方をウリにしているわけなのだろう。確かにそれは重要な視点である。

浅井さんの焦りが見えます。

ここはひじょうに難しいところで、浅井先生の発言はずっと変わっておらず、ようは切迫感を植え付けるような発言を繰り返してきたわけである。それを踏まえた上で、近年はトミに焦りが見える、というような観察なのであれば、それはなかなか鋭い視点かもしれないと思う。

わたくし自身はあまり変化を感じておらず、強いて言えば場当たり的な印象が強い。

ある時は一国広布がどうのこうと言い、ある時は創価学会の大謗法を云々し、そして今はもっぱら宗門の御遺命違背をあげつらっている。そこには法則性などはなく、行き当たりばったりにやっているだけなのだ。これを一言で表現すれば、まさしく迷走ということになるのだろう。

さて、今日は顕正新聞第1477号である。

第一面は総男子部長の登壇記事であり、普段の班長会に比べると相当に長い。あるいは新聞掲載時に加筆したのかもしれないし、逆にいつも長いのだが掲載時には圧縮しているのかもしれない。

三百万への逆算のうえから・・・

これが最初のツッコミどころである。三百万をいつまでに達成するかが問題で、わたくしの知る限りではその具体的な年数が示されていないのだ。それでいて逆算がどうのこうのと言っている。甚だしい矛盾である。

 思うに、もし阿部日顕が相承を受け、その絶対的権威を利用してさらなる誑惑が構えられたらどうなっていたことか――。

まったく何をトチ狂っておるものかと思う。

この後、総男子部長はさらにデタラメなことを言っている。日達上人の時代よりも遥かに激しい抗争に発展したのは、池田氏が日顕上人の無相承を知っていたからだ、と。ならば後年、創価学会が極限の大謗法を犯すに至った理由はどうなるのか、総男子部長は説明できるのだろうか?

浅井先生が言っているように、池田氏にはもともと信心がなかった、というのが顕正会員一般の認識のはずである。この線で考えるとすべてが通ずるのだ。ようするに日達上人の時代に池田氏は会長辞任に追い込まれている。信心のない池田氏がこれを恨みに思わないわけがない。当然のこと、巻き返しの機会を窺がっていた。しかし、日達上人はほどなく御遷化あそばす。そこで復讐の相手が変わったわけである。日達上人から相承を受けられた日顕上人が自動的に復讐の相手となるのだ。とは言え、いきなりぶん殴るわけには行かない。それがオトナの世界である。ゆえにそれなりの年月を経てから大抗争へと発展した。さらに年月を経て、戒壇の大御本尊への信すら放棄するに至った。それが現在の状況である。

無相承云々は後付け理論に他ならない。

実に単純な話で、復讐に手加減はない、徹底的にやっつける、それが復讐であるからして、あらゆる手段を講ずるのが理の当然なのである。ゆえに日顕上人の醜聞についても徹底的に書き立てた。平たく言えば女性問題である。それと対極にあるのが御相承の問題で、本来は在家信徒が濫りにあげつらうような話ではないのである。ゆえに浅井先生すらかなりの長期にわたって言及を控えてきた。それが今は態度を翻したわけだが、それはさておき、復讐の念に駆られる池田氏にしてみればなりふりを構ってはいられない。使えるネタは使うのである。そこで正信会が問題にしていた御相承についても使えると踏んだわけである。

もし仮にである。日顕上人が無相承であり、それを池田氏が知っているのであれば、上人にしてみればそれが最大の弱みであり、弱みを握られている以上、池田氏の意には逆らえないはずなのだ。

この点、良識ある顕正会員はよく考えてみるべきだろう。

もし阿部日顕が相承を受け、その絶対的権威を利用してさらなる誑惑が構えられたら・・・

再掲であるが、これがいかにデタラメな言説であるかを説明しよう。

平成二年末に勃発したいわゆる修羅と悪竜の合戦について、浅井先生は当初、その解説めいたことを繰り返し述べていた。その中で、御遺命守護に一歩ずつ近づいている旨、述べていた。そして平成十年には御遺命守護が完結した。単純化すれば、創価学会が宗門から追い出され、顕正会が復帰するという、実に理想的なシナリオが実現しつつあったのだ。ところがどっこい、そうは問屋が卸さなかった。

そこで翌平成十一年にはとうとう御相承の断絶を言ってしまった。先ほども書いたように、浅井先生は御相承については長いこと言及を控えてきた、その禁を破ってしまったのだ。

つまり、総男子部長の言っていることは、ここに淵源を発するわけである。

もともとは日興上人の御遺誡に示されるごとく、時の貫首たりと雖も云々が顕正会の主張だった。実に立派な主張である。ゆえにその線で主張し続ければよかったものを、とうとう言うべきでないことを言ってしまった。気がつけば二十年の歳月が流れて、今となってはそれをベースに話を組み立てるのが当たり前になってしまった。それが総男子部長の発言なのである。

話を進めよう。

 この五月のゴールデンウィークには、宗門の幹部僧侶と阿部日顕直属の謀略組織「妙観講」が手を組んで、「顕正会破折講習会」なるものを開催しました。

これは興味深い。そもそも総男子部長がなぜに知っているのか、そこが気になるところである。ちなみに顕正会でも教学部会議なるものが行なわれた模様である。

学会崩れ

後半は大草一男氏について、けっこう詳しく書いている。しかし、総男子部長が知っているわけがない。ゆえに浅井先生から聞いたか、ネット上の情報、あるいは昔の史資料などを参考にしているのだろう。

それにしても上掲の表現はどうかと思う。なぜならば顕正会にもたくさんの学会崩れがいるからだ。その人たちを侮蔑する表現だと気がつかないといけない。

 宗門の下劣きわまる謀略新聞「慧妙」を、己れの名を隠して編集し、ウソで塗り固めた記事を書いているのもこの大草と思われる。

わたくしは慧妙をほとんど読んだことがないので、それがどんなアンバイなのかわからない。ただヘソマガリな言い方をすれば、もし大草氏が自ら編集に携わっているとしたら立派なことであり、浅井先生も見習うべきだろう。ともかく今のやる気のない顕正新聞編集部に活を入れる意味でも、先生が乗り出すべきである。

 されば
 「三百万になれば一国動執生疑、五百万になれば日本が動く」
 との大師子吼を体し、


出た。大師子吼。総男子部長もかなり重症のようである。

ともかく最初のほうで記したように、三百万などと立派なことを言うのはけっこうだが、かつまた逆算がどうのこうのと言うのも勝手だが、だったら三百万をいつまでに達成するのか明示しなければおかしいだろう。

こうした数字上の欺瞞もさることながら、わたくし的には大師子吼が大問題だと思う。これを何とかしないといけないのだが、もはや無理のようである。

2019/7/17

ジガゲ  
部外者氏の文章は誤変換が目立つ。専門用語は変換が煩わしい。しかし、そこを等閑にしてはいけない。

さて、今日も顕正新聞を見ていこう。

早瀬日如の御本尊を本部会館に納め・・・

男子部第百五十七隊組長の記事である。これはもう絶望的な状況と言わざるを得ないだろう。今までは日達上人と日顕上人の御本尊を返納する話が多かった。けれども今後は必然的に日如上人の御本尊が増えていくわけで、その人たちが顕正会へ入会するとなると上人の御本尊を返納するのが通例となってしまいそうである。しかもである。早瀬日如と呼び捨てにしている。

浅井先生に勝算があるのかどうか、甚だ疑問である。ようは考え無しに行き当たりばったりで進んでいるだけの、いわゆる迷走状態なのだろう。

このままでは永遠に宗門復帰は叶わない。すると顕正会で独自に本尊を用意しないといけない。例の日寛上人の御本尊を印刷し続けるつもりだろうか?

こう書くと、顕正会の御本尊は妙縁寺所蔵の流用であって印刷などはしていない、と反論するかもしれない。もちろん現時点ではそれが公式見解なのだろう。ただし、もうすでに顕正会で印刷していることは公然の事実となりつつあるし、物理的にもそれ以外に考えられない。何しろ今で二百万人、それを三百万だの五百万だのと増やしていくつもりなのだろう。常識的に考えて妙縁寺にそれだけのストックがあったとは誰も考えない。そもそも当時の全体数から考えても一つの寺院にそんなに存在する道理がないのである。

さて、この登壇者であるが、有名シンガーソングライターのバックバンドのドラマーをやっていたそうである。また、西城秀樹の付き人などを経験したとも書かれている。

疑って恐縮だが、上述のことは甚だ疑問である。正直、疑われても文句を言えない書き方をしていると思う。

有名シンガーソングライターの名前を明示すべきだろう。なぜに伏せる必要があるのかである。一方の西城秀樹についてはなぜに明示しているのか、逆にそこが問題である。

 宗門では、芸能人が御開扉を受けるときには僧侶のすぐ後ろに座席が用意されて・・・

いったい誰のことを言っているのか、そこが問題である。

ようするに当該記事に出てくる芸能人は西城秀樹だけであり、彼はすでに亡くなっているのである。ゆえに穿った見方をすれば、付き人だったかどうか調べてもわからないだろうという計算が働いているようにも思えるのである。先ほどの有名シンガーソングライターだとか芸能人の誰々というところで具体的な名前を明かせば、もしかしたら裏を取ろうとする人が出てくるかもしれない。そこでウソがバレてしまうといけないので名前を伏せている。

かなりイジワルな見方をしているとは思うものの、実際、これまでにもデタラメな記事がたくさんあったことからして、疑われても文句は言えないだろうということなのだ。

次の男性女子部員の記事も問題である。

 昭和三十五年、・・・社長をはじめ従業員の六分の一が学会員という環境

六分の一がリアルである。おそらくはもっと高比率の会社も存在することだろうが、ともかく彼はそうした環境下で創価学会に入信したという。ここまではいい。

 当時は第二代・戸田会長の時代であり・・・

これは事実誤認である。戸田城聖氏は昭和三十三年に亡くなっているのだ。

いつも言っているように、編集部がダメなのである。もはやロクに読みもせず、機械的に掲載してしまっている。

 学会時代には御書全集で教学を学び教授補として教える立場でしたが・・・

ここはイヤミである。彼は顕正会に御書がないことを暗にディスっているのかもしれない。

それはともかく気がついたことがある。

創価学会からの入会者を眺めていると、高齢者が多いのは前々からのことだが、もう一つ特徴的なのが教授補である。わたくしの記憶が確かならば教授補は多いが教授は少ない。いや、教授は一人もいなかったかもしれない。この辺が興味深いところではある。それほどに教授の壁は高いのか、もしくは中途半端な人間ばかりが顕正会に流れてくるということなのか、失礼ながらもそんなことを考えてしまうのだった。

さて、最終面には三つの体験発表があり、いずれも家族の臨終について語っている。その詳細は省いて、女子部第百四十七区総班長の記事から創価学会員のセリフを拾ってみたい。

「学会は自我偈なんだ。長行なんかやっていたら、焼香に時間がかかって葬儀が長くなっちまう」

これはおかしな発言である。今は近親者だけのこじんまりした葬儀が主流なので発言者は誤解しているのかもしれないが、葬儀の長さは参列者の人数に左右されるのだ。
極論すれば、参列者がいなくなるまで葬儀は続くのである。まさか焼香が終わっていないにもかかわらず葬儀を打ち切るわけには行かないだろう。もちろん遅れてきた人は別の話である。
ゆえに事前に葬儀社との打ち合わせの段階で、どのくらいの人数になるかを予測して、大人数になるとわかっていれば焼香台を増やして調整するわけである。

2019/7/16

インペイ  
そもそも部外者氏がどのような経緯で拙ブログにたどり着いたのか、そこが気になるところではある。おそらくは顕正会もそこそこ世間に認知されるようになって、それでネット上を調べれば話の通じない連中ばかり、それが顕正会の現状なのだろう。そうした中でわりと話が通じそうな人間がわたくしなのだと思う。しかし、皮肉にも拙ブログは独白を表看板にしており、しかも守備範囲が狭いものだから、仏教の一般的な議論にはとうてい対応できない、それが正直なところである。

そんなわけで今日もまた顕正新聞の続きを見ていきたい。

 「顕正会員が来たら、話にならないから玄関先で対応して、『帰れ』と言って帰らなかったら警察を呼ぶように」

この本山通達なるものは男子部第百五十五隊長の証言による。彼は愛知県を中心に活動しているらしく、県内の宗門末寺を一軒一軒訪問しているという。そうした中で妙道寺の住職がくだんの通達について漏らしたそうである。通達と呼んでいるくらいだから一斉送信なのだろう。ようは正宗寺院の全住職へ発せられたのだ。

顕正会員はこれを読んで喜ぶのかもしれないが、すでに樋田昌志氏が動画で暴露しているごとく、話にならないのは紛れもない事実である。相手の発言を遮って、ひたすら自分たちだけしゃべり続けている。これはもう議論としては最低であり、まさしく話にならない状態である。ゆえに宗門側がくだんの通達をどの段階で発したものか定かではないものの、当然の措置ではあるのだろう。

ちなみに妙観講はほぼ唯一の例外と考えられる。しかし、彼らは別に顕正会だけをターゲットにしているわけではなく、創価学会に対してもけっこう攻撃的なアプローチをしているし、それは昔からのことなのである。顕正会にとっては目障りな存在であるが、それはお互いさまであろう。

 「最近、宗内ではその真逆のことを言い出している」

前後を省いて恐縮だが、ようするに顕正会に与する発言をする僧侶が出始めたという話なのである。はたして本当だろうか?

 小牧市の末寺ではバーベキューをしている最中で・・・

当該記事では他に玉泉寺や本覚寺の寺院名が見られる。ところが上掲だけ具体的な寺院名が記されていない。何か意味があるのだろうか?

さて、次の記事に参ろう。

男子部第五十一隊支隊副長は茨城・栃木の宗門末寺に片っ端から電話を掛けて、十名の住職と電話で法論したという。その中でも法高寺の住職とはかなり長いやり取りがあったらしく、紙面の半分はそれに費やされている。細かい話は抜きにして最後のほうを引用しよう。

「もし、大聖人様の御裁断が下り、阿部日顕が悪臨終を迎えても、国立戒壇を捨てたままなのか」

副長の発言である。ずいぶん強引な物言いである。恐れながら申せば御隠尊も御高齢なのでいつどうなってもおかしくはない。ただそれが悪臨終かどうかは俄かには判じ難い。もっとも今の顕正会ならば根拠もなく悪臨終だと言い募りそうであるが、すでにそうした態度そのものが狂っていることに気がつかないといけない。

「今後、国立戒壇にめざめる僧侶が続々と出て、宗門に国立戒壇の正義が蘇っても、あなたは国立戒壇を否定し続けるのか」

これも副長の発言であるが、対する住職の返答があらゆる意味で重要である。

 「そのときは国立戒壇と言うと思う」

付和雷同、大勢順応主義、このような言葉を並べるのは簡単である。ただわたくしの思うに、この住職は正直であり、またこれが世間一般の実相でもあるのだろう。

実は顕正会員だって同じなのだ。

すでに顕正会の組織上の欺瞞は明らかである。かつまた仏法上においても問題がないわけではないだろう。しかし、それに気づいていながらも、結局は為す術もなくダラダラと今の活動を続けている。それが実相ではなかろうかと思うのだ。同調圧力という言葉もしばしば使われるところである。

宗門側の話に戻って、なかなか考え難いことではあるが、もしかしたら国立戒壇が復活するかもしれない。その声が大きくなって宗門全体の流れが変われば、くだんの住職のように流れに乗ろうとするのが普通である。何も悪いことではない。

次の七十九歳の男性婦人部員の話は以前にも取り上げたことがある。

正本堂の地下埋納室の工事中に、六十六メートルの高さから作業員が落ちて死亡した・・・

建設工事における災害事故の典型、それが高所からの墜落である。正本堂は大規模な工事だったので、そうした事故が起こっても不思議はない。そして今の時代だったら、もし事故を隠蔽しようものならば労災隠しで大問題になるところだ。逆に言うと、当時は隠蔽が当たり前のように行なわれていたのかもしれない。

それにしても上掲は疑問である。地下の深度が六十六メートルあるのだろうか?

わたくしが知っているのは地上高が六十六メートルで、それは日達上人の六十六世にちなんでのことだという話だけである。地下も六十六メートルの深さがあるのだろうか?

 大沢崩れが始まったときは、大きな岩がゴロゴロと落ちてきて、それは富士山が噴火したのかと思うほどの衝撃でした。

大沢崩れのことは浅井先生の著作にもある。逆に言うと、そうした先生の著作を裏付ける意味で、この記事は価値があるのかもしれない。そこでさらに穿った見方をすると、先生の著作を参考にして話をでっち上げたようにも感じられるところである。

根拠なくこのようなことを書くと痛い目に遭う。しかし、すでに六十六メートルの一件からして信憑性に疑問がある記事なので、あえて書いている。

以下、かなり当てずっぽうながらも、話を続けたい。

大沢崩れが始まった云々はやや疑問である。正確には、富士山のような切り立った山は常に崩落が起こっており、たまたま正本堂建設の頃に大規模な崩落があった、ということなのだと思う。わたくしの記憶が正しければ昭和五十年代には登山者が死亡している。通常の登山ルートは整備されていて安全に登れる。登山家の中にはそれでは飽き足らずあえて危険なルートを選ぶ人もいる。究極的にはロッククライミングがそれである。富士山にはそうした絶壁はないものの、西面のルートが険路として有名である。いわゆる大沢崩れがそれである。わたくしが記憶しているのは、そこで崩落してきた岩に直撃して死亡したというニュースである。

先ほどの引用文に戻って、富士山が噴火したのかと思うほどの衝撃、というのが疑問である。

大石寺にいて、それほどの衝撃が感じられるとはとうてい思えないのだが、いかがだろうか?

ここはまさに当てずっぽうであるが、わたくしのイメージでは天生原あたりまで行かないと聴こえないのではないかと思う。天生原あたりにいて大崩落が起こればその音が伝わってくる。ただし、音だけで衝撃はない。これがわたくしの見解である。

以上、登壇者が正本堂の工事に関わっていたのは事実なのだろう。しかし、その話の内容にはオヒレが付いていて、また、時間的経過からしても不正確であって、そのまま信用するわけには行かないのだ。

2019/7/14

イッコジン  
引き続き部外者氏からコメントが寄せられている。しかし、その内容たるや、わたくしの守備範囲を大きく超えるものであり、なかなか応じることが困難である。

月刊一個人2014年8月号

世間知らずのわたくしは上掲の月刊誌をまったく知らなかった。どうやら当該書籍は仏教専門ではなく、さまざまのジャンルをカバーするものらしい。

いつまでも、ワクワクとドキドキを。

中高年になると大笑いしたり、感動で泣いたり、好奇心で胸を躍らせることが少なくなってきます。そんな中高年にワクワクとドキドキを再び取り戻したい。『一個人』は、衣・食・住を柱に様々なジャンルから、中高年の心を揺さぶる情報誌です。


関連サイトを調べていたら、ご覧のような商品紹介の文言を見つけた。つまり、部外者氏が紹介してくれたのは、仏陀の謎と真実というタイトルの付いた特集号だったわけである。もし氏があらゆる仏教書を渉猟し、さらにこうした紙誌にまでアンテナを張り巡らせているのだとしたら、凄いことである。わたくしの手に負えるものではない。

さて、そこでいつものように顕正新聞の話題に入りたい。

承久の乱で真言宗に三度も大祈祷した後鳥羽上皇が負けてしまったこと・・・

三度云々は間違いである。これは少し前に指摘したはずである。それにもかかわらず掲載している理由は何だろうか?

それはともかくとして、上掲の文章はいかがなものかと思う。ヘンな言い回しだと思わないのだろうか?

つまり、顕正新聞の編集部はやる気がないのである。ただ単に機械的に文章を載せているだけであり、内容などまったく確認していない。これも繰り返し指摘していることなのだが、まったく改まらない。どうやら拙ブログの声が届いていないようである。

日顕直属「妙観講」の異常な謀略体質
 機関紙「慧妙」は嘘ばかり、大草が執筆か


第十五男子部長の記事に付された見出しである。ようするに妙観講員との法論について報告する記事なのだが、わたくしは次の記述が気になった。

なんと日淳上人の御指南を完全否定したのでした。

完全否定と書いている。ならばもっと詳細に説明する必要があるだろう。妙観講員がどのように否定したのかをである。

日淳上人の御指南に国教樹立を云々するものがある。これに対して現宗門が完全否定しているとしたら大問題だが、おそらくは違うのだろう。ようは日達上人が国立戒壇の名称を使用しないとの方針を打ち出されたので、宗門はその方向性を貫いているだけの話なのだと思う。いつも言っているように、むしろ国立戒壇の名称に固執している顕正会のほうがどうかしているのだ。

 「日寛上人の六巻抄の内容も、それまでの猊下が言われていないもの。それと同じ。歴代上人が明かされていない内容を日達上人が明かした」

これに関しては逆に宗門関係者に聞いてみたいことがある。

もしも将来、時の猊下が今まで聞いたことのないような法門を御説きになったとする。そしてそれを御相伝に基づくものだとおっしゃるのだ。さて、この場合はどのように受け取るべきなのか、そこを聞いてみたいのである。

https://white.ap.teacup.com/ganko/238.html

リンク先は拙ブログの過去の記事である。今となってはずいぶん大昔のように感じられるが、わたくしが書いたものであることは間違いない。自画自賛ながらも、けっこう筋が通っているなあ、と思う。一貫不変と言ってもいいだろう。つまり、正論はどれほど時を経ようが色褪せないのである。

ちなみにリンク先に貼られている慧妙のリンクはアクセス不能となっている。これなど都合が悪いから削除したと思われても文句は言えないだろう。

今現在のわたくしは日蓮正宗系無所属信徒という立場である。顕正会にも妙観講にも与しない。あくまで個別の問題を是々非々で論じている。ゆえに国立戒壇に固執する点においては顕正会に苦言を呈するわけだが、後半の事案についてはむしろ妙観講ないし宗門関係者に対して苦言を呈せねばなるまいと思う。

常識的に考えて、もし今もなお未公開の法門が存在するとしても、それが従来の法門と真逆だなんてことはあり得ない。つまり、従来の法門との整合性から判断して、是非を決するしかないのだ。これがわたくしの結論である。

2019/7/12

テンスウ  
まず、前回の拙稿を修正したので、そのことを報告しておく。具体的には引用文を太字にするのを忘れていた。それを太字にした。ただそれだけのことである。逆に言うと、そのために修正前の痕跡がまったく確認できない。拙ブログでは己のミスをすべて可視化しているので、こうしてわざわざ説明を加えさせていただいた次第である。

さて、同一人物から再びコメントを頂戴した。

2019/7/11 18:36
投稿者:めぐちゃん
先日、北東北大会ビデオ放映に北坂戸に行った時の事です。
真後ろの席の男性が『俺よ入信勤行4回した』等と話してるのです。述べ人数5人の入信に成ります!そんな実態直に聞いてしまいました。


https://white.ap.teacup.com/ganko/322.html#comment46618

貴重なコメントではあるものの、相変わらず判然としない部分がある。ようするに四回がなぜに五人云々になるのか、そこが不明なのである。わたくしの推測は前回記したごとくであるが、可能ならば証言者からの補足説明がほしいところだ。

次に沖浦氏について書くと、いずれは教学委員が来訪するだろう。ただ当面は来ないと考えられる。なぜならば今は宗門僧侶を駆除する活動がメインとなっているからだ。そちらのほうが片付いてからの話である。永遠に片付かないかもしれないが・・・

謗法に付いての考えを付記したいと思います。お釈迦様の時代に謗法の概念自体無かったと考えています。後世の教団都合で出来た任意法と考えます。自然法とは、お釈迦様が三宝印で、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静と説かれ、2番目の意味は諸々の法は我が無い。えこひいきしないと言うものです。エゴの影が有る所に謗法の概念は成り立つでしょう。似た例は幾つも有りますが。自然災害は、当てはまらないと思います。罰では無いからです。

部外者氏は法華経を非仏説とする立場なのかもしれない。だとするとこれ以上の議論は不毛かもしれないが、大聖人の仏法では苦空無常無我ではなく常楽我浄を説く。ここでの我とは仏の御心であって、仏の御心はよき心なるゆえに云々と大聖人は仰せられていることからわかるように、我=エゴではない。つまり、我=エゴだとすると、部外者氏のご指摘通り、まさしく我=謗法ということになる。今の末法濁悪の世相を見れば、まったくおっしゃる通りであり、そうした我を捨てることが優れた境地への直道なのだろう。しかし、それは次善手であって最善手ではない。すでに明らかなごとく、一人ひとりが仏の境地を体現することによって、我=エゴからの脱却が可能となるのだ。それこそが最高の理想であることは疑い得ないだろう。

部外者氏からは引き続き多岐にわたるコメントを頂戴しているのだが、ここでは略させていただくことにしよう。

 当時の学会は、今の政権の犬となり果てた体たらくとは全く違う、戦時中の軍部のごとく驕り高ぶり飛ぶ鳥を落とす勢い・・・

教学部長の発言である。どのような文脈で言っているかは度外視しよう。すると上掲はじゃっかん不正確なところがなきにしもあらずと思う。

ようするに宗門内で驕り高ぶっていたのであって、外部においては少し弱腰だったフシもあるわけである。

御遺命守護の歴史を学んだ顕正会員ならばよく知っているだろう。国立戒壇についての政府照会に対する創価学会の回答をである。
もう一つの事例は言論出版妨害事件での対応である。この時、事態の収拾を図るために、自民党の田中幹事長に泣きついた。これなど、何たるテイタラクかと思う。
つまり、当時から権力にすり寄ろうとする動きを見せていたわけであり、今に始まった話ではないのである。

もちろん本心では自分たちが天下を取りたいという野望がある。しかし、現実的にはかなりハードルの高い話なので、今のポジションに甘んじているのだろう。いずれにしても当時から与党の有力者と裏でつながっていたのだから、上掲の認識はやや不正確と言わざるを得ないだろう。

宗門のあがきに鉄槌

このタイトルで登壇しているのは副教学部長の藤村雄大氏である。もちろん鉄槌は譬喩表現であって、まさかカナヅチで叩いたりはしないと思うが、それにしても顕正会では好んで多用される表現のようである。

阿部日顕直属の謀略部隊「妙観講」が点数稼ぎのために蠢き出し・・・

それにしてもこの部分が解せない。御隠尊の直属とは何を根拠に言っているのか、それが問題である。点数稼ぎにしても同様で、具体的にはどのようなメリットがあるのか、それが不明である。そもそも点数稼ぎになっているのかどうか、それすらアヤシイところだ。

ようするに点数を稼ぐためであれば御当代の指示を仰ぐべきであり、その線で活動すべきが道理なのである。それとも御当代は傀儡であって、実質的な権力はすべて御隠尊が掌握しているとでも思っているのだろうか?

・・・妙観講員たちはこの文証を知らなかったようで、急に慌て出しました。

煩瑣になるので省略したが、ようするに昭和四十年代前半の宗門高僧の発言の数々には御遺命違背に相当するであろうものがたくさん含まれている。それを突き付けられて慌て出したという話である。

ここがひじょうに解せないところで、わざわざ顕正会の会館まで来て法論を吹っ掛けている人たちが、なぜにそうした史資料に不案内なのかがまるで理解できない。顕正会同様、妙観講員もその多くが不勉強なのだろうか?

思うに、これは宗門中枢の責任でもあるだろう。

自分たちの過失について、オブラートに包んで説明しているからいけないのだ。もっとハッキリと言ってしまえばいいのだ。ここで雑駁ながら提案させていただくと、昭和四十年代前半のこれとこれは間違い、これとこれは不適切、みたいな感じである。四十年代後半においても創価学会を慮っての発言がなきにしもあらずであり、それも具体的に挙げておくべきかもしれない。さらにそれ以降、今日までの発言の中にも問題があるとすれば、挙げておくべきだろう。

何を言っているかわからないといけないので重ねて言おう。

後年、創価学会を破門にした。正本堂も取り壊した。この点、細かい経緯は省いて、結果的には妙信講が言っていたことが正しかったという話にはならないのだろうか、ということなのである。

この点をハッキリと認めてしまえばいいのである。

その上で、その妙信講も今ではおかしくなってしまったという厳然たる事実があるわけだから、今度はそこを逆にハッキリさせればいいのである。ここで顕正会員が逆上し、浅井無謬論を振りかざすような挙に出れば、それが一つの答えとなるのだ。ああ、やっぱりね、顕正会も昔はマトモだったけど、今ではこのテイタラクなんだ、もはや浅井教だよね、というふうに片付けることができる。

ともかく顕正会員にしても妙観講員にしても、現場で戦っている人たちの多くはヘタをすれば生まれてもいなかった時代の話をしているのである。今は当時の関係者がまだ少数ながらも存在する。しかし、そのうちに誰もいなくなる。かく言うわたくし自身、当時をリアルタイムで経験しているわけではない。ただ、そのわたくしから見ても、ほぼほぼ結論は出ているのである。それを立場の違いから自分たちの主張を押し付け合っている。これではいつまでも解決しないだろう。解決の道筋はすでに書いた通りである。差し当たっては宗門側の対応が注目されるところで、単に顕正会側の過去の発言をあげつらって、ようは自語相違を責めるような手法を繰り返しても埒が明かない。このことは宗門側の論客もすでにわかっているはずなのだ。

話が長くなった。副教学部長の記事には他にも興味深い部分があるけれども、これで終わりにしよう。

それにしてもまた顕正新聞が溜まり始めた。ヘンな話、拙ブログは永遠にネタが尽きない。顕正新聞が続く限り、拙ブログも続く。もちろんわたくしが生きている限りのことだ。

2019/7/9

ユウヘイ  
興味深いコメントが寄せられている。しかもそれがずいぶん前のコメント欄であり、当時の拙稿とそれに対応する種々のコメントを読み返して、ひじょうに懐かしく思ったものである。と同時に、顕正会の問題は本質的には何も変わっていないのだと、改めて認識した次第である。

2019/7/8 7:12
投稿者:めぐちゃん
昨夜は北東北大会のビデオ放映に行きました。真後ろの席の男性が「俺よ入信勤行4回してるよ」と話してるのです!述べ人数5人が入信した事に成ります!
嘘だ!と判りました!


https://white.ap.teacup.com/ganko/1493.html#comment46608

少し判然としないところがあるけれども、おそらくはビデオ放映終了後に入信勤行を行なったわけなのだろう。そのように理解すれば、延べ五人分の意味が通る。

また、前回の拙稿に対しても種々の興味深いコメントが寄せられている。特に部外者氏は部外者ながらもずいぶんとお詳しい。もしかしたら部外者ではないのかもしれないが、それはどうでもいいことである。なぜならば沖浦氏を除外すればほぼ全員が匿名なのだから、そうした同じ土俵に立っている以上、部外者氏ばかりをとやかく言うわけには行かないのだ。差し当たってはその書いている内容が正しいかどうかが問われるわけである。

S@法華講氏いわく、克衛は屋敷に幽閉されている、と。

部外者氏いわく、それはあり得ない、と。

幽閉はいわば誇張表現であって、もちろん今の時代に幽閉が行なわれているとしたら大問題であるし、場合によれば犯罪にも相当するだろう。

しかし、幽閉は言い得て妙だと思う。

実は克衛の動向に興味関心を懐いて目撃証言を集めようとしていた人がいる。その人によればどこかの喫茶店で働いているという情報が寄せられたことがあったらしい。わたくしが聞いたのはそこまでで、その人が実際に確かめに行ったのかどうか、今となってはその記憶もアヤフヤである。ようするに克衛を見たという目撃証言は断片的な話がいくつかあるだけで、実際にはほとんど存在しないようなのだ。

ちなみに今となっては個人情報保護に抵触する恐れがあるけれども、小峰氏の場合はその後の足取りがわりとハッキリしているらしい。

戻って克衛の場合は完全なる消息不明であり、極論すれば行方不明で捜索願いを出してもいいくらいである。しかし、浅井家ではそのようなことはしないだろう。なぜならば自宅にいるからだ。

S@法華講氏は分別あるオトナなので無難な書き方をしているのだと思う。

ぶっちゃけ言えば、熟年ニートの変形だろう。しかも奥さんもいる既婚ニートである。かなりヤバイことを書いているのかもしれないが、もし今も屋敷の中にいるとすればそれが一般的な見方のはずである。何しろ十年以上も沈黙したままなのだ。

謗法に付いては、観念の世界には有っても、自然法には無いと考えます。良い悪いはエゴの眼差しにしか見えないと思います。自然法には、エゴが無いでしょう。

ところでこの記述はひじょうに難解である。言葉は平易であるものの、内容が難しいのだ。

ようするに謗法は迷信であると、手っ取り早く言えばそのようなニュアンスなのだろうと思う。エゴ云々も主観という言葉に置き換えるとわかりやすいかもしれない。例えば大聖人の仏法を宇宙の真理みたいに表現する人がいる。しかし、それはその人の主観であって真理ではない。そこから敷衍すれば、大聖人のおっしゃることも大聖人の主観であって真理ではない、というようなことになるのかもしれない。では自然法とは何かという話になるが、せんずるところ、自然科学から得た知見のみが真理であるというような結論になるのだとすれば、もちろんそれを支持する人も相当であるけれども、支持しない人も相当であろうと思う。

今、自分で書いていて、わけのわからないことを書いているなあ、と思っている。つまり、最初に書いたように、これは難解な話なのである。

そこで自らを卑下することを承知しつつも、わたくしの守備範囲は日蓮正宗系の教義体系であり、そこから外へは出られない。つまり、わたくしは日蓮正宗系ニートなのである。ゆえに部外者氏のおっしゃることには対応し切れない。そこを斟酌願いたいと思う次第である。

さて、今朝の沖浦氏であるが、少し目を惹くところがあったので紹介しておこう。

日本での殺人事件の60%が身内の争い・・・

世界平均はどうなのか、ワースト記録の国はどこか、その逆はどこか、気になるところである。

 所が顕正会では浅井さんとの関係が御書より優先・・・

否定し切れないところである。何しろ御書を発刊する予定がまったくないのだから、ようは会員に御書を読ませたくないのだろう。また、会員たちも浅井先生を通してしか御書は理解できないと思い込んでいるフシがあって、そこで満足してしまっているのだからどうしようもないのである。

大聖人と衆生の間に、法主や能化、住職などが挟まって邪魔をし・・・

凄いことを言うものである。

いわゆる直結信仰を主張しているのだと思うが、それはそれで一理あるものの、問題がないわけではない。ようするに上述の顕正会員ではないけれども、御書を独力で読んでもわからない場合、その手助けをしてくれる人が必要になる。それが法主であり能化であり住職だと理解すれば、決して邪魔な存在とはならないはずなのだ。

 その更に上に、国立戒壇などの日蓮仏法に無いものがでしゃばっていて、御書は置き去りになっています。

ここは顕正会員がムキになって反論してくるところである。そのうち教学委員が沖浦氏を破折しに行くかもしれないので、覚悟をしておいたほうがいいだろう。


七月十二日追記:一部修正した。修正の痕跡は確認できないので悪しからず。

2019/7/7

ジクアシ  
今朝の沖浦氏は短いコメントの中で、嵐の予感を匂わしている。もちろんそれは拙ブログとは無関係の、早い話が沖浦氏の問題なのだろう。その意味では毎度のことであって、わたくしはただ傍観するのみである。

しかし、次の話題はただの傍観者ではいられないというか、しょせんは傍観者に過ぎないにしてもそれなりに親近感を覚える事案である。

えらてん

大川宏洋

まず前者であるが、顕正会に関心のある人ならばご存知のはずである。今現在、顕正会と裁判を争っている人物で、わりと頻繁に裁判の経過などを動画で報告している意味で、わたくしも目が離せないと思っている。何しろ顕正会の場合は顕正新聞で報告されるわけだが、都合の悪い話は触れないか、もしくは捻じ曲げて報告されることが少なくないので、今回の一件は顕正会と対峙する側が包み隠さず報告してくれることからして、顕正会側もデタラメは通用しないことを覚悟しないといけないのだ。ともかく今後の推移を見守りたいと思う。

後者はなんと大川隆法の長男なのだそうである。

わたくしはつい最近まで知らなかった。えらてん氏に注目するようになって、そのツテで各種の動画を視聴していて知ったのである。彼の凄いところは息子の立場から大川隆法の欺瞞を暴露している点である。そして先般、とうとう父親から損害賠償を請求されてしまったという。彼もえらてん氏同様、そうした出来事を動画で逐一報告しているものだから、教団側としては堪ったものではないだろう。黙らせるためには法的手段を講ずるしかないということらしい。

これらの事案を思うにつけ、昨夜の部外者某のコメントはタイムリーである。

早い話が克衛はどうしているのかである。克衛こそ父親の欺瞞をすべて暴露すべきであると言っているわけである。

ひじょうに興味深いというか、ヤジウマ根性的にはぜひともそうしてほしいと思わずにはいられないところだが、しかし、それにはさまざまの障壁がある。細かいことを追求するとキリがないので、わたくしがいちばん大事だと思うポイントを書いておきたい。

ズバリ、どこに軸足を置くかである。

宏洋氏の場合はいわば幸福の科学そのものを全否定する立場なのだろう。ようはインチキ宗教であると。では克衛はどうするのか、そこが大問題である。顕正会を全否定するのか、それとも部分否定か、である。例えばわたくしの立場で言えば、かつての御遺命守護はほぼ肯定、しかしながら御遺命守護完結以降はブレブレであり肯定できるものではない、というような感じになるだろう。単に会長の長男という立場で会長の裏側を暴露する。もちろんそれだけでもインパクトは大きいのだが、しかし、そこで終わってしまうのであればひじょうに残念である。

ここで念のためにもう一つだけ書き加えておくと、例えば克衛が日蓮正宗に帰伏して法華講員の立場から顕正会を弾劾するという選択肢を取ったとする。これを歓迎する正宗関係者はたくさんいることだろうし、わたくしも悪くはないと思う。

ただ、その場合は宏洋氏ほどのインパクトはないし、極端な話、世間からは冷笑されるかもしれないのである。

それほど説明の要もないことだが、世間からはしょせん日蓮正宗も同じ穴の狢と見られているのである。別の言い方をすればコップの中の嵐みたいな感じである。日蓮正宗が正しいのか顕正会が正しいのかという議論は、世間全体から見れば小さなパイでしかないのだ。

宏洋氏の場合は大川隆法のインチキを暴く意味では小さなパイに過ぎないのだが、幸福の科学という一つの新興宗教を題材にしつつも、本質的には新興宗教全般をインチキか否かという選択肢に晒している意味があるので、大袈裟に言えば日本人全員ないし世界中の人々にとっての関心事ということにもなり得るのである。

唐突ながら言わせてもらえば、甚だ失礼とは承知しつつも樋田昌志氏の動画が上述の事情を物語っていると思う。

彼の動画はそれなりに楽しめる。それはわたくし個人の話であって、すべての人に通ずる話ではない。特に法論が好例で、対顕正会とか対創価学会の議論はわたくしにとっては興味深い内容ではあるけれども、万人にとってはどうでもいい話である。というかチンプンカンプンの話なのだ。ゆえに現実問題としてそれほど再生数が伸びているわけではない。極端な話、法華講員にしたって顕正会員にしたって創価学会員にしたって、全員が見るわけではないだろう。見飽きてしまったという人も少なくないかもしれない。

話が長くなってしまった。

克衛に戻って、彼がもし動画投稿をするとしたら、どこに軸足を置くかが問題である。仮に何の考えもなしに動画を投稿したとしても、ほとんど誰も見ない。強いて言えば、総合男子部長として大活躍していた時代を懐かしむ数百人ないし数千人の固定ファンが付くことは考えられるけれども、そこから飛躍的に伸ばしていくのが大変である。

いずれにしてもである。今現在、彼が何をして生計を立てているのか、そうした情報すらもまったく入ってこない状況であるからして、その近況報告的なことを動画でやるのも悪くはないと思う。


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