2019/10/7

コチャク  
顕正新聞第1484号の一面には御書講義もどきが掲載されている。すでに何年も前から指摘しているように、浅井先生が出席するのは総幹部会だけであり、近年は日曜勤行にもまったく出ていないらしいのである。ゆえに月三回発行の顕正新聞もネタに困っている。そこで考え出されたのが御書講義もどきである。

いや、もちろん、モドキというのはわたくしが勝手に言っていることである。ただ現実に、御書講義そのものが完全に消滅してしまった今の顕正会においては、今回の記事が御書講義に準ずるものであるのは事実だろう。

「観心本尊抄」の大意を拝し奉る

アゲアシを取るようだが、今回の記事は本尊抄の大意を拝するものであって、本尊抄そのものを拝するものではない。

わたくしは思う。バカにしていると。ようするに浅井先生が顕正会員をバカにしているのだ。

御書を読んでも理解できない。ゆえに浅井先生を通して学ぶのだ。顕正会員はそれでいい。
こんなことが顕正会では言われているけれども、それ自体がバカにした話である。理解できるかどうかは読んでみなければわからない。それをハナッからわからないと決め付けるのはどうかと思う。
まずは読むべきなのだ。何もわからなくてもいい。それでも何かを感じ取ることができるかもしれない。そこが大事なのである。

 阿部日顕は、河辺慈篤に大御本尊誹謗の悪言を吐いたのみならず、さらに今「戒壇の大御本尊の敵」たる山崎正友と結託した。

さらに今? 何を今さらである。浅井先生は頭が固着しているのだ。

結局、日顕上人が御遷化され、山崎氏もすでに亡くなっている今現在の状況からすると、いったい何年前の話をしているのか、ということになるだろう。浅井先生的には落とし前がついていないと思っており、だからこそずっと言い続けているわけなのだろう。その気持ちはわからなくもないが、何しろ相手が不在なのであるからどうしようもない話である。

現宗門にしても迷惑な話である。

ゆえにいつもわたくしが言っているように、宗門の戒壇論はデタラメである、という一点に集約して責めるべきであり、その他の細かいことは省くべきなのだ。

 汚濁の宗門の中に、二百十万の清浄なる仏弟子の大集団が出現したことは・・・

ここがまた悲しいところであって、宗門の中にではなく、宗門の外にというのが客観的な事実である。

 さあ、20年代こそ広布の決戦場である。早く三百万を成し遂げて大聖人様の御馬前に馳せ参じ、次なる御命令を、謹んで全員で聞き奉ろうではないか。

これが締め括りの文章である。本尊抄の話はどうなったのか?

まあ、それはアゲアシ取りが過ぎるにしても、ともかく問題の多い発言である。すでにこれまで何度も指摘してきたように、二十年代と三百万の関係性がよくわからない。御命令の実態もわからない。結局は先生が命令を下すのだろう。それが客観的な事実である。

活動会員たちの発言を見ていると、来年からいよいよ最終決戦が始まるかのごとく思えてしまう。ところが浅井先生の発言はそのようには読めない。
ようするに三百万の達成が条件なのだ。その条件が整わないうちは決戦に臨めない。イヤミな言い方をすると、大聖人からの御命令が下らない。
しかし、もしそうだとすると、ギリギリで間に合うかどうかである。今の顕正会の伸び方からすると、二十年代の後半でようやく三百万を達成することになる。そこまではいわば助走期間ということになるのだ。

いかがだろうか?

活動会員たちと浅井先生とではその認識に乖離がある。これがいずれは不信感に転換されることになるのは必定である。現に大幹部クラスであっても組織を離れていく人が後を絶たないという現実がある。

拙ブログには現役顕正会員からコメントが寄せられることはない。なぜならば反論の余地がないからである。


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ