2019/12/10

カイム  
気がつけば今月も中旬を迎える。柄にもなく多忙でブログの更新が滞ってしまい、顕正新聞も溜まりに溜まっている。このペースだと、消化し切れずに年越しすることになるだろう。

成功の三大秘訣‼️

大声、ハッタリ、空元気‼️


沖浦氏らしい秘訣ではある。ただ注意すべきことは、ウツ病の人は無理に元気を出そうとしてはいけないらしいのだ。時には励ましが逆効果になる場合もあるそうで、その意味では沖浦氏の秘訣は万人に当てはまるものではないことになるだろう。難しいものである。

克衛の消息はまったくの不明であり、ミカン氏のおっしゃる謗法ないし洗脳云々が的を射ているのかどうかもわからない。顕正会は会員たちが思っているほどにはメジャーではなく、マスコミなどからもまったく注目されていない。また、顕正会を研究しているようなジャーナリストもいないくらいである。そんな状況であるからして、なおさら克衛のことなど誰も気にしていないだろう。ある意味、それが顕正会の未来を象徴しているのかもしれない。

「御戒壇様と血脈」を蔑ろにして、正体不明の本尊を是とする人々は、本門寺の戒壇を論じる資格すら失っていると言えましょう。

そういう人々が、正本堂論または戒壇(建物)論を語ったところで、何の意味があるのでしょうか?


まあ、しかし、先ほどとは矛盾するようなことを言うわけだが、現時点では顕正会にも存在意義があって、宗門に対するイチャモンにしても資格のあるなしにかかわらず言う権利を奪うことは誰にもできないという現実がある。

今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に介爾計りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり。(三大秘法抄)

三大秘法は宗祖日蓮大聖人の御一身に具わりますので独一本門戒壇の大御本尊の在すところ、事の戒壇であることは、言うまでもありません。(無論、広布の暁の、本門寺の戒壇の御遺命は存する)


これはある意味、間接的ながらもわたくしに対する反論なのだと思われる。何しろ拙ブログでは、宗門の戒壇論はデタラメである、と繰り返し言い続けているからである。

大沢氏もよくご存知のように、一年ほど前にトチロ〜氏とわたくしとで、少し法論っぽいことがやり取りされた。もちろん拙ブログにはすべて記録が残っているし、先方のブログにもそれがある。ただ、あの時は長期戦にはならず、すぐに休戦状態になった。先方が休戦を申し出たのである。その真の理由は不明であるが、わたくし自身は勝手に以下のようなことを思っていた。

本尊所住の処、義の戒壇

これはトチロ〜氏が自らの文章に付けたタイトルである。いかがだろう、一年後の今日、大沢氏はさらに一歩踏み込んで、いわば次のように言っているわけである。

本尊所住の処、事の戒壇

もし一年前の議論が長期戦に突入していたとしたら、当然の成り行きとして上掲の論証が求められることになっただろう。しかし、トチロ〜氏としては義の戒壇の論証が精一杯であって事の戒壇までは無理だと考えた。だからこその休戦だったのではあるまいかと、わたくしはそのように想像したわけである。

いや、もちろん、別の可能性もあって、巌虎などというオチブレの元会員を相手にぜんぶをさらけ出すのは得策ではない、将来、顕正会のしかるべき大幹部と法論する時まで秘策は温存しておくべきだ、という考え方もあり得ると思う。

確かにそれはその通りだろう。

浅井先生にしても大草氏に対し、資格のないものが何を言うか、みたいなことを言っていた。その意味ではわたくしなどは無資格者の最たるものである。

ただし、ややこしいことを言うようだが、先ほども書いたように、顕正会が宗門に対してイチャモンをつけるのと同様、わたくしがここで好き勝手なことを言う権利は誰にも奪えないのである。

事の三大事=事の本尊・事の題目・事の戒壇

これは大沢氏が言わんとしているであろうことを勝手に解釈させてもらったものである。氏としては、いや、違う、そうではない、と思うかもしれないが、単純化すればこんな感じになるはずである。まあ、しかし、こんな簡単な論証で話が済んでしまうのであれば、そもそも妙信講問題などは存在し得なかっただろう。

顕正会員は、正本堂を「偽戒壇」と称していますが、これは誤りです。
大御本尊様の在すところ、正本堂は紛れもなく戒壇でした。


これはおっしゃる通りであり、かつての浅井先生ならば正論であると言ったかもしれない。ようするに今の浅井先生はかつての浅井先生ではないのだ。

ただ、正確を期すと、正本堂は紛れもなく義の戒壇でした、となるだろう。イヤラシイことを言うようだが、大沢氏もその辺の事情を考慮して、正本堂は紛れもなく事の戒壇でした、とは書かなかったのだと思う。そこが今の宗門の戒壇論の問題点を象徴しているような気がしてならない。

かつて大沢氏は、巌虎は巌虎派を立ち上げるまで教義を温存している、みたいなことを言っていた。しかし、それはまったくの誤解で、そんなに難しい話をしているわけではないのだ。将来、本門寺の戒壇が建つ、これこそが事の戒壇であって、その本門寺の戒壇に安置すべき御本尊がまします処はまだ戒壇が建たなくてもすでに戒壇の義が存する、というのが古来から言われてきたことなのである。こんな当たり前のことがわからなくなってしまっているとしたら、もはやオシマイだろう。現宗門としては行き掛かり上、自分たちの言ってきたことを正当化したいのだろうけれども、そこはどこまで行っても間違いは間違いなのだから、改めるべきである。

現状、拙ブログもオワコン化しつつあって注目度が低下しているけれども、当然、顕正会員だけでなく法華講員や創価学会員もチェックしていることだろう。いつも言っているように言論の世界は言っていることが正しいか間違っているか、差し当たってはそこが問われるわけである。わたくしの言っていることが間違っていると思うならば反論すればいい。しかし、反論のコメントが寄せられることは皆無に等しい。それが一つの結論である。

顕正新聞の話題を書くつもりだったが、今日はここで打ち止めにしたい。


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