2019/12/15

ブツグ  
まず、今朝の沖浦氏のコメントは少し前の拙稿に付けられたものであることを書いておこう。黙っているとそのまま埋もれてしまうからだ。

 極めて基本中の基本ですが、曼荼羅本尊本懐思想は大聖人仏法には存在致しません。

それにしても興味深いのは、いつもならば戒壇本尊本懐思想と書きそうなところをご覧のように書いている。

通常、曼荼羅本懐か仏像本懐かで議論がなされることが多いわけだが、沖浦氏は仏像本懐にも与しないはずなので、いわば得意の沖浦流法門を展開しているのだろうと思われる。この件に関しては過去に繰り返し取り上げてきたごとく、沖浦氏のそれは換言すれば曼荼羅道具論であり、摧尊入卑の最たるものと言わざるを得ないところである。仏壇仏具という表現がある。一般的にも多用されている表現だ。ようするに沖浦氏の考えでは曼荼羅は仏具の一つに過ぎないことになるわけで、これでは一般の信仰心のない人たちの認識とさほど変わらないことになってしまう。そこをよく考えるべきだろう。

さて、大沢氏である。

氏はここ一年ばかり鳴りを潜めていた。理由は不明だが、ともかく拙ブログへの投稿を自粛したいたのは事実である。しかし、ここに来てかなりの高頻度でコメントを寄せるようになった。特に前回のコメント欄は氏の独壇場と化しており、わたくしとしても対応に苦慮せざるを得ない状況である。

此の本門の戒壇に事の戒壇と道理の戒壇と云う事あり。
事の戒壇とは、直ちに本門の御本尊の住処の事なり。
(総本山第三十二世日教上人)

此の一大秘法を開て三大秘法とし、此を開して六代(
大)秘法とす。

人の本尊
法の本尊
信の題目
行の題目
事の戒旦 一幅の板御本尊を掛け奉る所を云う
道理の戒旦 御代々御書写の御本尊を掛け奉る所を云う
(総本山第三十六世日堅上人)

未だ広布の時至らず事相の戒壇御建立なしといへども
此の道場即是れ事の戒壇真の霊山事の寂光にして、一
度も此の砌に望まん輩は無始の罪障忽ちに消滅して三
業の悪転じて三徳を成ぜんこと毛頭疑あるべからず
(総本山第五十二世日霑上人)


不勉強のわたくしはこれらの御指南を存じ上げなかった。いや、もしかしたら一度くらいはどこかで目にしているのかもしれないが、書籍としてそれらの史資料を持ち合わせていないこともあって、馬耳東風のテイタラクだった。よって、ここに記録として残しておきたいと思う。

日相上人と日開上人の御指南は顕正会の書籍に出てくることもあって、よく承知している。

逆に言うと、それ以外の御指南はなぜに秘匿されてきたのか、むしろそれが気になるところである。あるいは浅井先生は承知していたものの都合が悪いので会員に知らせなかっただけの話なのだろうか?

しかし、わたくしの印象としては、日達上人の時代に提示されたのは日開上人の御指南であり、後年、日相上人の文書が加わったという感じであって、それ以外の御指南は提示されなかったように思う。なぜならばもしあの段階で立て続けに五人の上人方の御指南を突き付けられれば、さすがの浅井先生も反論に苦慮したはずなのだ。

それはさておき、である。

当然ながらわたくしの立場は、顕正会に与するものでもなければ、宗門に与するものでもない。いつも言っているように宗門の戒壇論はデタラメである。さりとて顕正会も相当にデタラメなのだ。

今回、大沢氏は日達上人の訓諭を引用されているわけだが、改めて訓諭を拝して感じたことがある。

但し、現時にあっは、

まず、どうでもいいことを書くと、上掲は明らかな誤入力である。これが何を意味するのか興味深いところで、大沢氏が誤入力をしたのか、あるいはコピペ元が間違っているのか、どちらであろうか?

それはともかく話を進めよう。

正本堂の意義

一期弘法付属書並びに三大秘法抄の意義を含む

此の意義を体し


文脈上、それぞれの意義がどのような意味なのかを論ずるのは、いわゆる解釈論の範疇であって議論百出となることだろう。ヒマな人はそれに挑戦するのもアリだと思う。

わたくしの結論は単純明快だ。

日達上人の仰せは正本堂を義の戒壇と定義せられているのである。

これに文句のあるヤツは大馬鹿野郎である。

 正本堂は、一期弘法付属書並びに三大秘法抄の意義を含む、現時における事の戒壇なり。

ここに事の戒壇とあるから事の戒壇なのだと言い張る人間は頭の悪い人である。ようするに「現時における事の戒壇」なのである。これを日寛上人は「義理、事の戒壇に当たる」と仰せになっている。

つまり、日寛上人と日達上人の仰せを矛盾なく拝するためには、上述の二つのカギカッコを結合させる必要がある。現在の宗門はそれがわかっておらないから、根源の法体がどうのこうのと屁理屈をこね回すことになるのだ。

繰り返しになるが、日達上人が訓諭において三度にわたって「意義」を用いられているごとく、正本堂は義の戒壇である。

ちなみに顕正会では正本堂を偽戒壇と言ってしまっている。もはや取り返しのつかない失言である。顕正会の戒壇論はそこそこ筋が通ってはいるものの、もしかしたら偽戒壇云々がすべてをご破算にしてしまうことにもなりかねないのだ。いや、すでにそうなっているかもしれないというのが客観的な見方かもしれない。

単純に言うと、妙信講は正本堂の意義について異議を述べた。ゆえにその一点において自分たちの正義が証明されればそれでよかった。ところがいつまで経っても成果が上がらなかった。結果としてヤケを起こしてしまった。つまりは自爆である。

一期弘法付属書並びに三大秘法抄の意義を含む・・・

意義を含むか否かについても書いておこう。

わたくしの結論は単純明快である。もちろん含むのである。だから義の戒壇なのだ。こんなこともわからない人がいるとすれば、それが法華講員であっても顕正会員であっても大馬鹿野郎である。

これで先ほどの取り返しのつかない云々も、その意味がよくわかっただろう。顕正会では正本堂を偽戒壇と言っちゃっている。ゆえに含むわけには行かないのである。ようするに全否定するしか道がないのだ。自爆である。

さて、そうすると残るところはくだんの三上人の御指南についてどのように拝するかであるが、不勉強のわたくしは保留とさせていただきたい。少なくとも前後の文脈からしっかりと拝させていただかないことには、申し上げられないところである。

いつも言っているように、この問題は最終的には御書に帰結するべきなのである。

戒壇の大御本尊まします処は事の戒壇であることを、大聖人の御指南から導き出さなければいけないのだ。この件に関してわたくしが自信を持っている理由もまた単純明快である。何しろ三大秘法抄や一期弘法抄には戒壇建立の御遺命がある。それこそが事の戒壇なのだから、それを否定するような御指南が存在したらおかしいだろう。

今回はこんなところで終わりにしたい。


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