2020/1/30
アクイ
まず、沖浦氏の最新のコメントについて言いたい。登場人物が複雑でわけがわからんと。誰のために何の目的で書いているのか、そこが明確でないものだから余計にわかりづらいのだろう。
その一つ前のコメントはわかりやすい。
ネールが言いました。
仏教が衰退したのは、釈迦を聖人としたからだ。
ネールが誰だか知らないが、言いたいことはわかる。
私共は大聖人を聖人化する愚は避けねばなりません。
ご理解できますか?
これも言いたいことはわかる。しかし、すでに大聖人と書いている時点で自己矛盾である。もし聖人化を避けたいのであれば、大聖人との呼称を徹底的に排除すべきだろう。ただし、前回も指摘したように創価学会の公式サイトでは大聖人の呼称を用いているので、この時点で沖浦氏は異端者となる。
二〇年代こそまさしく広宣流布の決戦場である。
早く三百万を成し遂げ、全員で、大聖人様の御馬前に馳せ参じ、大事な御奉公を貫かせて頂こう。
さあ、いよいよ決戦場を見つめ、歓喜の大行進を起こそうではないか。
さて、顕正新聞の新春号を見て行こう。上掲は前回も紹介した浅井先生の年頭の辞である。大事なところなので改めて掲げさせていただいた。
ようするに本年からの十年間を二十年代と呼ぶわけで、この間に三百万を達成して大聖人の御馬前に馳せ参じ、そこで広宣流布の最終決戦に挑むと言っているのだ。これをわたくしは、何たる欺瞞・何たるインチキ、と書いた。
その理由は二面に載る各部代表の年頭決意を読んでもわかることである。もっともわかりやすいのは総合婦人部長である。
広布の決戦場たる二〇年代をここに迎え・・・
まず、この冒頭の部分は間違ってはいない。大きな括りとしては、まさにその通りだからである。問題は次である。
昨年、顕正会総会員数は二百十三万七千名に達し、この仏弟子の大集団を率いて大聖人様の御馬前に馳せ参ずる先生のお喜びに胸が熱くなり、
いかがだろうか、浅井先生の言っていることと違っているのだ。総合婦人部長も焼きが回ったのか、それとも正直な人なのか、そこはわからないものの違いは明瞭である。先生は三百万で御馬前と言っているのだ。ところが彼女は現在の総会員数で御馬前と言っている。
しかも続きの文章が決定的である。
一時も休まぬ激闘の中に到達された決戦場に・・・
すでに今現在が決戦場だと言っているのである。前回も指摘したように、先生は三百万で決戦場と言っており、いちおう二十年代中に三百万を達成すればツジツマが合う話ではあるのだ。しかし、総合婦人部長の発言が示すように、活動会員たちの多くは本年から最終決戦が始まると思ってしまっているのだ。つまり、先生と活動会員の意識に齟齬がある。こんな状態がいつまでも続くわけがない。活動会員たちの中から、話が違うじゃないか、という不満が生じてきてもおかしくはない。
実はもうすでにかなり以前から、それを繰り返しているのである。目まぐるしい人事を見ればわかるように、幹部クラスの人たちが次々に離脱していく現実がある。結局はその繰り返しなのだ。
もしかしたら二十年代は離脱者激増に拍車が掛かり、顕正会が一気に崩壊することになるのかもしれない。
ところがである。話はかなりややこしくなる。
全顕正会員の真心の折伏弘通により、総会員数はついに二百十三万七千に達した。この仏弟子の大集団が一結して、いよいよ広布の決戦場に臨み、大聖人様の御馬前に馳せ参ずるのだと思えば、ただ有難さが込み上げてまいります。
三面から五面にかけて十二月度総幹部会の会長講演が掲載されている。上掲はその一節である。つまり、総合婦人部長はこれを踏襲しただけの話なのである。その意味では彼女に罪はないことになる。では、どこに問題が存するのだろうか?
さあ、早く三百万を成し遂げ、全員で大聖人様の御馬前に馳せ参じ、何としても大事な御奉公を貫かせて頂こうではありませんか。
会長講演の結論部分である。つまり、浅井先生が極力矛盾が生じないようにと、巧妙に言葉を選んで発言している。まさにそこが問題なのである。
いよいよ決戦場に臨み・・・
再掲であるが、これも年明け早々に決戦が始まるとは言っていないわけなのだろう。ズルい文章である。すると続く、大聖人様の御馬前に馳せ参ずるのだと思えば云々もしかりである。つまり、年明け早々に御馬前に到着するとは言っていないわけなのだろう。実にインチキな話である。
ともかく繰り返し言わせてもらうと、こんなインチキがいつまでも通用するはずがないのである。ゆえに今後は離脱者の激増が必至となり、組織の衰退が誰の目にもハッキリと見えることになる。それが二十年代である。
さて、あとは会長講演からいくつか気になったところを拾ってみたい。
ただし、下種仏法の血脈は絶対に断絶しない。その所以は、これまで私が幾たびも述べて来たとおりであります。
以前、血脈は絶対に断絶しない、その理由は時が来たら話します、と言っていた。わたくしの記憶が正しければ、それ以降、その理由とやらを話したことは一度もないはずである。おそらくはうまい説明が思い浮かばないのだろう。
池田大作は阿部日顕を猊座から引きずり下そうとして、「阿部日顕は相承を受けてない」との暴露を開始した。
わたくしの知る限り、池田氏本人がそのような発言をしたことはない。ゆえに浅井先生の言わんとしていることは、池田氏が謀略情報紙などを使って暴露を始めた、ということなのだろう。
しかし、素朴な疑問がある。なぜに池田氏は自ら暴露を行なわなかったのか、である。
つまり、ここに浅井先生の不見識があらわれているのだ。いくら池田氏であっても御相承のことを知るわけがない。日達上人の御遷化が急であったためにさまざまの憶測を呼んだのは事実である。しかし、会長辞任にまで追い込まれた当時の池田氏がなぜに御相承のことに介入できるのか、浅井先生はそれを説明できていない。しょせんは憶測で物を言っているだけなのである。
また細井日達は大事の御相承をもなし得ずに急死を遂げ、その臨終の悪相は箝口令も虚しく、今や全宗門周知となった。
文章前半の御相承についてはすでに書いた。後半の悪相云々は顕正会の悪宣伝に過ぎない。全宗門周知について言えば、何やら顕正会では今頃になって日達上人の御遷化にイチャモンをつけている、その内容たるや悪意丸出しであり狂気の沙汰と言わざるを得ない、ということを顕正会の動向を知る宗門関係者が認識しているだけの話である。
その臨終の相は、細井日達と同じく後日、必ずその真相が明らかになるに違いない。
浅井先生にはその自覚がないのかもしれないが、これこそが悪意丸出しなのである。
「国賓」招待の危うさ
話が飛んで恐縮だが、当該講演ではめずらしく国際情勢について紙数を費やしている。その中で、本年、習近平中国国家主席を国賓として招くことにも言及している。
これが日本の殃となることは目に見えている。
浅井先生は原発問題以降、いわゆる左翼系の影響を受けているフシがあったけれども、この件に関しては逆である。わたくし個人の意見はここでは控えよう。ともかく殃が気になった。やたらと難しい漢字を使っているが、何か意味があるのだろうか?
おそらくは御書の表記に合わせたのだと推測されるが、ここでは詳細を控えよう。
その一つ前のコメントはわかりやすい。
ネールが言いました。
仏教が衰退したのは、釈迦を聖人としたからだ。
ネールが誰だか知らないが、言いたいことはわかる。
私共は大聖人を聖人化する愚は避けねばなりません。
ご理解できますか?
これも言いたいことはわかる。しかし、すでに大聖人と書いている時点で自己矛盾である。もし聖人化を避けたいのであれば、大聖人との呼称を徹底的に排除すべきだろう。ただし、前回も指摘したように創価学会の公式サイトでは大聖人の呼称を用いているので、この時点で沖浦氏は異端者となる。
二〇年代こそまさしく広宣流布の決戦場である。
早く三百万を成し遂げ、全員で、大聖人様の御馬前に馳せ参じ、大事な御奉公を貫かせて頂こう。
さあ、いよいよ決戦場を見つめ、歓喜の大行進を起こそうではないか。
さて、顕正新聞の新春号を見て行こう。上掲は前回も紹介した浅井先生の年頭の辞である。大事なところなので改めて掲げさせていただいた。
ようするに本年からの十年間を二十年代と呼ぶわけで、この間に三百万を達成して大聖人の御馬前に馳せ参じ、そこで広宣流布の最終決戦に挑むと言っているのだ。これをわたくしは、何たる欺瞞・何たるインチキ、と書いた。
その理由は二面に載る各部代表の年頭決意を読んでもわかることである。もっともわかりやすいのは総合婦人部長である。
広布の決戦場たる二〇年代をここに迎え・・・
まず、この冒頭の部分は間違ってはいない。大きな括りとしては、まさにその通りだからである。問題は次である。
昨年、顕正会総会員数は二百十三万七千名に達し、この仏弟子の大集団を率いて大聖人様の御馬前に馳せ参ずる先生のお喜びに胸が熱くなり、
いかがだろうか、浅井先生の言っていることと違っているのだ。総合婦人部長も焼きが回ったのか、それとも正直な人なのか、そこはわからないものの違いは明瞭である。先生は三百万で御馬前と言っているのだ。ところが彼女は現在の総会員数で御馬前と言っている。
しかも続きの文章が決定的である。
一時も休まぬ激闘の中に到達された決戦場に・・・
すでに今現在が決戦場だと言っているのである。前回も指摘したように、先生は三百万で決戦場と言っており、いちおう二十年代中に三百万を達成すればツジツマが合う話ではあるのだ。しかし、総合婦人部長の発言が示すように、活動会員たちの多くは本年から最終決戦が始まると思ってしまっているのだ。つまり、先生と活動会員の意識に齟齬がある。こんな状態がいつまでも続くわけがない。活動会員たちの中から、話が違うじゃないか、という不満が生じてきてもおかしくはない。
実はもうすでにかなり以前から、それを繰り返しているのである。目まぐるしい人事を見ればわかるように、幹部クラスの人たちが次々に離脱していく現実がある。結局はその繰り返しなのだ。
もしかしたら二十年代は離脱者激増に拍車が掛かり、顕正会が一気に崩壊することになるのかもしれない。
ところがである。話はかなりややこしくなる。
全顕正会員の真心の折伏弘通により、総会員数はついに二百十三万七千に達した。この仏弟子の大集団が一結して、いよいよ広布の決戦場に臨み、大聖人様の御馬前に馳せ参ずるのだと思えば、ただ有難さが込み上げてまいります。
三面から五面にかけて十二月度総幹部会の会長講演が掲載されている。上掲はその一節である。つまり、総合婦人部長はこれを踏襲しただけの話なのである。その意味では彼女に罪はないことになる。では、どこに問題が存するのだろうか?
さあ、早く三百万を成し遂げ、全員で大聖人様の御馬前に馳せ参じ、何としても大事な御奉公を貫かせて頂こうではありませんか。
会長講演の結論部分である。つまり、浅井先生が極力矛盾が生じないようにと、巧妙に言葉を選んで発言している。まさにそこが問題なのである。
いよいよ決戦場に臨み・・・
再掲であるが、これも年明け早々に決戦が始まるとは言っていないわけなのだろう。ズルい文章である。すると続く、大聖人様の御馬前に馳せ参ずるのだと思えば云々もしかりである。つまり、年明け早々に御馬前に到着するとは言っていないわけなのだろう。実にインチキな話である。
ともかく繰り返し言わせてもらうと、こんなインチキがいつまでも通用するはずがないのである。ゆえに今後は離脱者の激増が必至となり、組織の衰退が誰の目にもハッキリと見えることになる。それが二十年代である。
さて、あとは会長講演からいくつか気になったところを拾ってみたい。
ただし、下種仏法の血脈は絶対に断絶しない。その所以は、これまで私が幾たびも述べて来たとおりであります。
以前、血脈は絶対に断絶しない、その理由は時が来たら話します、と言っていた。わたくしの記憶が正しければ、それ以降、その理由とやらを話したことは一度もないはずである。おそらくはうまい説明が思い浮かばないのだろう。
池田大作は阿部日顕を猊座から引きずり下そうとして、「阿部日顕は相承を受けてない」との暴露を開始した。
わたくしの知る限り、池田氏本人がそのような発言をしたことはない。ゆえに浅井先生の言わんとしていることは、池田氏が謀略情報紙などを使って暴露を始めた、ということなのだろう。
しかし、素朴な疑問がある。なぜに池田氏は自ら暴露を行なわなかったのか、である。
つまり、ここに浅井先生の不見識があらわれているのだ。いくら池田氏であっても御相承のことを知るわけがない。日達上人の御遷化が急であったためにさまざまの憶測を呼んだのは事実である。しかし、会長辞任にまで追い込まれた当時の池田氏がなぜに御相承のことに介入できるのか、浅井先生はそれを説明できていない。しょせんは憶測で物を言っているだけなのである。
また細井日達は大事の御相承をもなし得ずに急死を遂げ、その臨終の悪相は箝口令も虚しく、今や全宗門周知となった。
文章前半の御相承についてはすでに書いた。後半の悪相云々は顕正会の悪宣伝に過ぎない。全宗門周知について言えば、何やら顕正会では今頃になって日達上人の御遷化にイチャモンをつけている、その内容たるや悪意丸出しであり狂気の沙汰と言わざるを得ない、ということを顕正会の動向を知る宗門関係者が認識しているだけの話である。
その臨終の相は、細井日達と同じく後日、必ずその真相が明らかになるに違いない。
浅井先生にはその自覚がないのかもしれないが、これこそが悪意丸出しなのである。
「国賓」招待の危うさ
話が飛んで恐縮だが、当該講演ではめずらしく国際情勢について紙数を費やしている。その中で、本年、習近平中国国家主席を国賓として招くことにも言及している。
これが日本の殃となることは目に見えている。
浅井先生は原発問題以降、いわゆる左翼系の影響を受けているフシがあったけれども、この件に関しては逆である。わたくし個人の意見はここでは控えよう。ともかく殃が気になった。やたらと難しい漢字を使っているが、何か意味があるのだろうか?
おそらくは御書の表記に合わせたのだと推測されるが、ここでは詳細を控えよう。
2020/1/26
フモト
いつの間にか降参させられてしまった。降参したつもりはないのだが、あるいは議論を降りたことが降参に当たるのかもしれない。
それはともかくである。今朝のコメントはどうかと思った。
日蓮上人の生きざまを現代に移した、創価の思想に、強く共鳴して生きておりますので。
おそらく沖浦氏は一般人に対して書いているのだろう。どこかで発信したものを拙ブログのコメント欄に転載したのだと思われる。
しかし、日蓮上人は相当に問題である。せめて日蓮聖人と書くべきで、これならばまだマシだった。何しろ現状、創価学会の公式サイトを見ても、日蓮大聖人と表記されているからだ。この点、沖浦氏のほうこそ降参すべきである。
さて、顕正新聞第1496号である。
令和二年の新春号であるが、例年のごとく一面の上段には富士山の立派な写真が掲載されている。下段は浅井先生の年頭の辞である。
年頭の辞に入る前に写真のキャプションを取り上げたい。
日蓮大聖人御遺命の「国立戒壇」建立の地「富士山」。中央正面の小高い丘が天母山で、そのふもとに広がる平野が天生原である
国立戒壇の名称はともかくとして、戒壇建立の地が富士山であることは動かない。問題になっているのは天母山ないし天生原である。
以前、宗門が言っていたのは、妙信講は天母山と言っていたが途中から天生原と言うようになった、実は天生原とは大石原のことなのだ、みたいな感じだった。これについて浅井先生は、名前が違うのは場所が違うからだろう、と一蹴した。また、点に約せば山、面に約せば原、天母山と天生原が同じ地域であることに変わりはない、という常識的な反論もした。
ずいぶん昔の議論のはずであるが、あるいは今でもそのようなことを言ってくる法華講員がいるのかもしれない。それを念頭に置いて、上掲の説明文を入れたのかもしれない。
しかし、そうした過去の経緯を知らない人にとっては、かなり不親切な説明文である。
中央正面?
これがわからない。写真のど真ん中あたりは五合目くらいで、ちょうど白雪の下限がそのあたりである。そこに小高い丘はない。ゆえに知らない人ならば、あるいは剣が峰のことを意味するのだと誤解するかもしれない。この写真では富士山頂の剣が峰がちょうど中央に位置しているのだ。もしそれならば富士山のふもと全体が天生原に相当するというスケールになり、まさに戒壇建立に相応しい広大さとなる。
ところが実際は富士山の手前にある森林に覆われた丘陵が天母山であり、面に約して表現すれば天生原となるわけである。
丘が山、平野が原
正確には前掲のごとく、小高い丘が天母山、平野が天生原、ということになる。丘が山というのはそれほど違和感がない。ところが平野を原と呼ぶのはどうかと思う。いや、そうではない。この場合、あの地域を平野と呼ぶのはどうか、それは違うだろう、ということなのだ。
これもあるいは法華講員あたりが言っている、天母山みたいな急峻なところに戒壇が建つわけがない、とのイチャモンを気にして書いたことなのかもしれない。
さて、年頭の辞である。
いざ広宣流布の決戦場へ
これが表題である。ところがである。文末になるとアヤシイことになるのだ。
二〇年代こそまさしく広宣流布の決戦場である。
早く三百万を成し遂げ、全員で、大聖人様の御馬前に馳せ参じ、大事な御奉公を貫かせて頂こう。
さあ、いよいよ決戦場を見つめ、歓喜の大行進を起こそうではないか。
昨年、何度も指摘してきたことである。ここに欺瞞があると。改めて説明しよう。
いよいよ決戦場を見つめ・・・
真面目な活動会員は気がつくべきである。
今は記憶だけで書くことをお許しいただきたい。昨年、大幹部たちがどのように言っていたか、ここに書き起こしたい。
二〇年代の決戦場を見つめ、大男子部構築に捨身で戦う決意であります。
これは当てずっぽうに書いたものであることをお断わりしておくが、ともかく同趣旨の発言が山のように存在するのだ。そして今、二十年代に突入したわけである。しかるに浅井先生は前掲のごとく、いよいよ決戦場を見つめ、と言っているのだ。
早い話が先延ばしである。
よく読めばわかるように、浅井先生は三百万まで動かないつもりなのである。いちおう二十年代の間に三百万を達成すればツジツマが合う。そこで大聖人の御馬前に到着し、いよいよ御遺命成就のための最後の戦いに打って出るわけである。
何たる欺瞞だろうか、何たるインチキだろうか、と思わざるを得ない。
しかし、現実的には三百万を待ってはいられない。今のペースだと何だかんだ十年近く掛かる。その間、上述のような欺瞞ないしインチキが通用し続けるわけがないのである。ゆえに途中でまた何かしらのアクションを起こす。それで誤魔化すつもりなのだ。
とは言え、そんなデタラメがいつまでも通用するわけがない。そろそろ降参するべきではないかと提案しておきたい。
それはともかくである。今朝のコメントはどうかと思った。
日蓮上人の生きざまを現代に移した、創価の思想に、強く共鳴して生きておりますので。
おそらく沖浦氏は一般人に対して書いているのだろう。どこかで発信したものを拙ブログのコメント欄に転載したのだと思われる。
しかし、日蓮上人は相当に問題である。せめて日蓮聖人と書くべきで、これならばまだマシだった。何しろ現状、創価学会の公式サイトを見ても、日蓮大聖人と表記されているからだ。この点、沖浦氏のほうこそ降参すべきである。
さて、顕正新聞第1496号である。
令和二年の新春号であるが、例年のごとく一面の上段には富士山の立派な写真が掲載されている。下段は浅井先生の年頭の辞である。
年頭の辞に入る前に写真のキャプションを取り上げたい。
日蓮大聖人御遺命の「国立戒壇」建立の地「富士山」。中央正面の小高い丘が天母山で、そのふもとに広がる平野が天生原である
国立戒壇の名称はともかくとして、戒壇建立の地が富士山であることは動かない。問題になっているのは天母山ないし天生原である。
以前、宗門が言っていたのは、妙信講は天母山と言っていたが途中から天生原と言うようになった、実は天生原とは大石原のことなのだ、みたいな感じだった。これについて浅井先生は、名前が違うのは場所が違うからだろう、と一蹴した。また、点に約せば山、面に約せば原、天母山と天生原が同じ地域であることに変わりはない、という常識的な反論もした。
ずいぶん昔の議論のはずであるが、あるいは今でもそのようなことを言ってくる法華講員がいるのかもしれない。それを念頭に置いて、上掲の説明文を入れたのかもしれない。
しかし、そうした過去の経緯を知らない人にとっては、かなり不親切な説明文である。
中央正面?
これがわからない。写真のど真ん中あたりは五合目くらいで、ちょうど白雪の下限がそのあたりである。そこに小高い丘はない。ゆえに知らない人ならば、あるいは剣が峰のことを意味するのだと誤解するかもしれない。この写真では富士山頂の剣が峰がちょうど中央に位置しているのだ。もしそれならば富士山のふもと全体が天生原に相当するというスケールになり、まさに戒壇建立に相応しい広大さとなる。
ところが実際は富士山の手前にある森林に覆われた丘陵が天母山であり、面に約して表現すれば天生原となるわけである。
丘が山、平野が原
正確には前掲のごとく、小高い丘が天母山、平野が天生原、ということになる。丘が山というのはそれほど違和感がない。ところが平野を原と呼ぶのはどうかと思う。いや、そうではない。この場合、あの地域を平野と呼ぶのはどうか、それは違うだろう、ということなのだ。
これもあるいは法華講員あたりが言っている、天母山みたいな急峻なところに戒壇が建つわけがない、とのイチャモンを気にして書いたことなのかもしれない。
さて、年頭の辞である。
いざ広宣流布の決戦場へ
これが表題である。ところがである。文末になるとアヤシイことになるのだ。
二〇年代こそまさしく広宣流布の決戦場である。
早く三百万を成し遂げ、全員で、大聖人様の御馬前に馳せ参じ、大事な御奉公を貫かせて頂こう。
さあ、いよいよ決戦場を見つめ、歓喜の大行進を起こそうではないか。
昨年、何度も指摘してきたことである。ここに欺瞞があると。改めて説明しよう。
いよいよ決戦場を見つめ・・・
真面目な活動会員は気がつくべきである。
今は記憶だけで書くことをお許しいただきたい。昨年、大幹部たちがどのように言っていたか、ここに書き起こしたい。
二〇年代の決戦場を見つめ、大男子部構築に捨身で戦う決意であります。
これは当てずっぽうに書いたものであることをお断わりしておくが、ともかく同趣旨の発言が山のように存在するのだ。そして今、二十年代に突入したわけである。しかるに浅井先生は前掲のごとく、いよいよ決戦場を見つめ、と言っているのだ。
早い話が先延ばしである。
よく読めばわかるように、浅井先生は三百万まで動かないつもりなのである。いちおう二十年代の間に三百万を達成すればツジツマが合う。そこで大聖人の御馬前に到着し、いよいよ御遺命成就のための最後の戦いに打って出るわけである。
何たる欺瞞だろうか、何たるインチキだろうか、と思わざるを得ない。
しかし、現実的には三百万を待ってはいられない。今のペースだと何だかんだ十年近く掛かる。その間、上述のような欺瞞ないしインチキが通用し続けるわけがないのである。ゆえに途中でまた何かしらのアクションを起こす。それで誤魔化すつもりなのだ。
とは言え、そんなデタラメがいつまでも通用するわけがない。そろそろ降参するべきではないかと提案しておきたい。
2020/1/24
コウミョウ
開眼の要不要については専門外ということで言及を控えたい。わたくしの知るところでは法華講の樋田氏が得意としている分野のようなので、そちらに問い合わせるといいかもしれない。
さて、今日も顕正新聞をざっと眺めてみたい。
また今後、正信会・宗門からも続々と有羞の僧が出現し、僧俗一体になって国立戒壇建立に戦う正系門家になる日が間もなく事実になることを思えば・・・
副総合婦人部長である。前回の拙稿で述べたように、浅井先生は偉くなり過ぎちゃった。ゆえに僧俗一体はひじょうに実現しづらい状況なのである。この点が彼女はわかっていないようである。
「広宣流布の時、光明を放つべし」
との仰せは、大聖人様が日興上人に仰せあそばされた御金言であることに・・・
引用範囲が狭くて恐縮だが、副総合女子部長の発言である。上掲を素直に読むと、カギカッコは日興上人に宛てた御書のようである。しかし、わたくしの知る限り、御書のどこにもそのような文言は見当たらない。
明年から始まる御遺命成就完結の戦い・・・
凄い表現力だ。成就と完結はかなり重複的に思える。それよりも何よりも御遺命守護の完結はどうなったのか、そこが問題だろう。いちおう最終章を迎えたことになっているものの、大団円を迎えたわけではない。この点が彼女はわかっていないようである。
「偽戒壇・正本堂こそ御遺命の戒壇」との悪言が・・・
女子部第二総部長である。カギカッコということは、誰かの発言なのだろう。しかし、この発言者は頭のおかしな人である。ようするに当時の創価学会や宗門の人間が偽戒壇などと言うはずがないのである。つまり、これは顕正会員の発言なのである。ところがカギカッコの外には悪言とある。偽戒壇を悪言が打ち消している。早い話、構文が支離滅裂である。この点が彼女はわかっていないようである。
啓正寺住職藤本値道「法主絶対論」振りかざす
「猊下は大聖人と同じだよ」と放言
副総男子部長の活動報告である。興味深い見出しであるが、その前に同席した六名の法華講員のことを書いておこう。本文には次のようなくだりがある。
あとでわかったことですが、「法華講員」と称した者たちの大半は実は妙観講員であり、ここでも「寄生虫」の謀略体質を眼前にしました。
顕正会がどれほど妙観講に怯えているかを示す文章である。妙観講は法華講の一組織であるから広くは法華講員と称して何の問題もない。それを謀略と感じるところが過剰なのである。
私が「大聖人様と猊下、どちらが上なんだ」と諫めると、なんと藤本は「同じだよ」ととんでもないことを言い出したのです。
わたくしは逆に顕正会員に問いたい。大聖人と浅井先生、どちらが上なんだ、と。浅井先生に決まっているだろ! と顕正会員なら言い出しかねない。何しろ大聖人は師子吼で浅井先生は大師子吼なのだから、その可能性は否定できない。この点が彼はわかっていないようである。
「いい話ですね。自分も三十数年前に、『妙信講』という団体から宗教の話をされたが、断わってしまった。忘れたことはありません」
婦人部武蔵野支区部長(首都圏)の活動報告に出てくる話である。妙信講から顕正会に名前を変えて四十年弱だろうか? ならばギリギリでツジツマが合っていることにはなるだろう。しかし、忘れたことはない? 本当だろうか?
疑って恐縮だが、もしそれが本当ならば平成九年ないし平成十六年の一国諫暁で入信してもおかしくはなかった。逆に言うと、その二回の一国諫暁はショボかった。ゆえにくだんの人物には届かなかった。この点が彼女はわかっていないようである。
恵妙寺法華講員「御遺命より塔婆供養が大事」
御遺命破壊・音声捏造を糾弾、回答不能に
男子部第二十六隊支隊長(栃木)の登壇にも興味深い見出しが付いている。その前に本文中から別の部分を引用しよう。
「諸天が阿部日顕との別れを悲しんでいる現象」
いつも言っているようにカギカッコはセリフである。彼はこれを法華講員のメールだと言っているわけだが、まさか法華講員が阿部日顕とは書かないだろう。その意味では捏造に等しい行為をしていることになるのだ。この点が彼はわかっていないようである。
さて、くだんの見出しについてである。本文中にも法華講員のセリフとして、御遺命より塔婆供養が大事、とある。それに対する彼の反論が以下である。
そこで
「熱原の法華講衆は塔婆供養をしなくとも、大聖人様に一度もお目通り叶わずとも、恋慕渇仰・不惜身命の信心に住し、戒壇の大御本尊様の願主となられた。これでも塔婆供養が最大事と言い切れるのか」と追及・・・
わたくしは素朴に思った。あれ? 熱原の方々が塔婆供養をしなかった云々は何を根拠に言っているのだろう?
もちろん、した、とも断定できないし、しない、とも断定できない。しかるに彼はしなかったと言い切っている。顕正会員は御書を読まないので知らないのかもしれないが、少なくとも大聖人の時代にはすでに塔婆供養が行なわれていたのである。ゆえに熱原の方々も塔婆供養をしていた可能性は否定できない。この点が彼はわかっていないようである。
男子部第百六十三隊支隊副長(栃木)は父親の臨終について発表している。
斎場から帰宅する車中、空にはくっきりと大きく綺麗な虹が輝き、七歳の息子が「じぃは、あの虹をわたって大聖人様の処に行ったんだ!」と言ったことに・・・
先ほどの記事では、諸天が日顕上人との別れを悲しんでいる現象、というくだりがあった。これに対して登壇者は、失笑を禁じ得ない、などとバカにしていた。では上掲はどうなのだろうか?
たぶん一般人の感覚では、七歳のお孫さんがそのように言うのは可愛らしい、大のオトナが言うのはちょっとどうかと思う、という感じのはずである。しかし、顕正会員の感覚はそれとは異なるのだ。ぶっちゃけ言えば、顕正会では成仏できるが宗門では無理、という理屈なのである。ハタから見ればテマエミソも甚だしい。この点が顕正会員たちはわかっていないようである。
しかし顕正会には上限があり、浅井先生自ら参加されている・・・
これは婦人部籠原支区(首都圏)の記事である。登壇者は現在八十四歳になるそうだが、統一教会に騙されて億単位の献金をしたという。ようはお金持ちなのだろう。それはさておき、上掲が悩ましい。上限があることは画期的なのかもしれないが、浅井先生自ら参加がイヤらしくも感じられるのである。この点、登壇者本人ではなく、この話を吹聴している幹部たちに言いたい。ある時期までは美談として通用していたとしても、今はまったく通用しないどころか逆にウサン臭く感じられる。この点が幹部たちはわかっていないようである。
令和二年度の元旦勤行・・・
まったくわけのわからない表記である。通常、四月を新年度とし、三月を年度末とする。その意味からすると、二年度はまだ始まっていないことになるのだ。わたくしならば、令和初の元旦勤行、と表記するだろう。昨年の元旦はまだ令和ではなく平成だったからである。この点が編集部はわかっていないようである。
さて、今日も顕正新聞をざっと眺めてみたい。
また今後、正信会・宗門からも続々と有羞の僧が出現し、僧俗一体になって国立戒壇建立に戦う正系門家になる日が間もなく事実になることを思えば・・・
副総合婦人部長である。前回の拙稿で述べたように、浅井先生は偉くなり過ぎちゃった。ゆえに僧俗一体はひじょうに実現しづらい状況なのである。この点が彼女はわかっていないようである。
「広宣流布の時、光明を放つべし」
との仰せは、大聖人様が日興上人に仰せあそばされた御金言であることに・・・
引用範囲が狭くて恐縮だが、副総合女子部長の発言である。上掲を素直に読むと、カギカッコは日興上人に宛てた御書のようである。しかし、わたくしの知る限り、御書のどこにもそのような文言は見当たらない。
明年から始まる御遺命成就完結の戦い・・・
凄い表現力だ。成就と完結はかなり重複的に思える。それよりも何よりも御遺命守護の完結はどうなったのか、そこが問題だろう。いちおう最終章を迎えたことになっているものの、大団円を迎えたわけではない。この点が彼女はわかっていないようである。
「偽戒壇・正本堂こそ御遺命の戒壇」との悪言が・・・
女子部第二総部長である。カギカッコということは、誰かの発言なのだろう。しかし、この発言者は頭のおかしな人である。ようするに当時の創価学会や宗門の人間が偽戒壇などと言うはずがないのである。つまり、これは顕正会員の発言なのである。ところがカギカッコの外には悪言とある。偽戒壇を悪言が打ち消している。早い話、構文が支離滅裂である。この点が彼女はわかっていないようである。
啓正寺住職藤本値道「法主絶対論」振りかざす
「猊下は大聖人と同じだよ」と放言
副総男子部長の活動報告である。興味深い見出しであるが、その前に同席した六名の法華講員のことを書いておこう。本文には次のようなくだりがある。
あとでわかったことですが、「法華講員」と称した者たちの大半は実は妙観講員であり、ここでも「寄生虫」の謀略体質を眼前にしました。
顕正会がどれほど妙観講に怯えているかを示す文章である。妙観講は法華講の一組織であるから広くは法華講員と称して何の問題もない。それを謀略と感じるところが過剰なのである。
私が「大聖人様と猊下、どちらが上なんだ」と諫めると、なんと藤本は「同じだよ」ととんでもないことを言い出したのです。
わたくしは逆に顕正会員に問いたい。大聖人と浅井先生、どちらが上なんだ、と。浅井先生に決まっているだろ! と顕正会員なら言い出しかねない。何しろ大聖人は師子吼で浅井先生は大師子吼なのだから、その可能性は否定できない。この点が彼はわかっていないようである。
「いい話ですね。自分も三十数年前に、『妙信講』という団体から宗教の話をされたが、断わってしまった。忘れたことはありません」
婦人部武蔵野支区部長(首都圏)の活動報告に出てくる話である。妙信講から顕正会に名前を変えて四十年弱だろうか? ならばギリギリでツジツマが合っていることにはなるだろう。しかし、忘れたことはない? 本当だろうか?
疑って恐縮だが、もしそれが本当ならば平成九年ないし平成十六年の一国諫暁で入信してもおかしくはなかった。逆に言うと、その二回の一国諫暁はショボかった。ゆえにくだんの人物には届かなかった。この点が彼女はわかっていないようである。
恵妙寺法華講員「御遺命より塔婆供養が大事」
御遺命破壊・音声捏造を糾弾、回答不能に
男子部第二十六隊支隊長(栃木)の登壇にも興味深い見出しが付いている。その前に本文中から別の部分を引用しよう。
「諸天が阿部日顕との別れを悲しんでいる現象」
いつも言っているようにカギカッコはセリフである。彼はこれを法華講員のメールだと言っているわけだが、まさか法華講員が阿部日顕とは書かないだろう。その意味では捏造に等しい行為をしていることになるのだ。この点が彼はわかっていないようである。
さて、くだんの見出しについてである。本文中にも法華講員のセリフとして、御遺命より塔婆供養が大事、とある。それに対する彼の反論が以下である。
そこで
「熱原の法華講衆は塔婆供養をしなくとも、大聖人様に一度もお目通り叶わずとも、恋慕渇仰・不惜身命の信心に住し、戒壇の大御本尊様の願主となられた。これでも塔婆供養が最大事と言い切れるのか」と追及・・・
わたくしは素朴に思った。あれ? 熱原の方々が塔婆供養をしなかった云々は何を根拠に言っているのだろう?
もちろん、した、とも断定できないし、しない、とも断定できない。しかるに彼はしなかったと言い切っている。顕正会員は御書を読まないので知らないのかもしれないが、少なくとも大聖人の時代にはすでに塔婆供養が行なわれていたのである。ゆえに熱原の方々も塔婆供養をしていた可能性は否定できない。この点が彼はわかっていないようである。
男子部第百六十三隊支隊副長(栃木)は父親の臨終について発表している。
斎場から帰宅する車中、空にはくっきりと大きく綺麗な虹が輝き、七歳の息子が「じぃは、あの虹をわたって大聖人様の処に行ったんだ!」と言ったことに・・・
先ほどの記事では、諸天が日顕上人との別れを悲しんでいる現象、というくだりがあった。これに対して登壇者は、失笑を禁じ得ない、などとバカにしていた。では上掲はどうなのだろうか?
たぶん一般人の感覚では、七歳のお孫さんがそのように言うのは可愛らしい、大のオトナが言うのはちょっとどうかと思う、という感じのはずである。しかし、顕正会員の感覚はそれとは異なるのだ。ぶっちゃけ言えば、顕正会では成仏できるが宗門では無理、という理屈なのである。ハタから見ればテマエミソも甚だしい。この点が顕正会員たちはわかっていないようである。
しかし顕正会には上限があり、浅井先生自ら参加されている・・・
これは婦人部籠原支区(首都圏)の記事である。登壇者は現在八十四歳になるそうだが、統一教会に騙されて億単位の献金をしたという。ようはお金持ちなのだろう。それはさておき、上掲が悩ましい。上限があることは画期的なのかもしれないが、浅井先生自ら参加がイヤらしくも感じられるのである。この点、登壇者本人ではなく、この話を吹聴している幹部たちに言いたい。ある時期までは美談として通用していたとしても、今はまったく通用しないどころか逆にウサン臭く感じられる。この点が幹部たちはわかっていないようである。
令和二年度の元旦勤行・・・
まったくわけのわからない表記である。通常、四月を新年度とし、三月を年度末とする。その意味からすると、二年度はまだ始まっていないことになるのだ。わたくしならば、令和初の元旦勤行、と表記するだろう。昨年の元旦はまだ令和ではなく平成だったからである。この点が編集部はわかっていないようである。
2020/1/23
ライデン
文証を示すべきは沖浦氏のほうだろう。
大聖人は抜け殻になる・・・
ようは開眼を行なうとその一回きりで抜け殻になってしまうという文証である。だとすると直近の半世紀ないし一世紀の間に下付された日蓮正宗の御本尊はおよそ一千万を数えるが、猊下一人に付き一幅しか開眼されていないことになる。日達上人以降であれば開眼済みの御本尊は三幅しか存在しないことになるだろう。もっとも沖浦氏は開眼そのものを否定しているので、そこで議論はネジ曲がってしまっているわけだが・・・
raiden氏は久々の来臨である。長々と書いておられるが、文末だけ紹介しておこう。
浅井会長の僧侶軽視の姿勢が判明しているので、賛同して駆けつける僧侶はいないでしょう。
この点、顕正会の活動会員はあまり自覚がないのだと思う。ようするに浅井先生は偉くなり過ぎてしまったのだ。その様子はあたかも新興宗教の教祖のごとくである。しかも御相承についてイチャモンをつけてしまった。もはやこうなると、猊下を取るか浅井先生を取るかの選択になる。すでにしてこのこと自体がおかしな話であって、まさに別の宗教・別の教団になってしまったのと同じことなのだ。ゆえに正宗の僧侶で顕正会を支持することは、いわば宗旨替えをするようなことになるので、そこまでして顕正会を支持する積極的な理由は、普通には見い出せない。
前回と重複するが、正信会系の僧侶は話が違う。彼らはジリ貧状態であり、そこから脱出するためには思い切った行動を取る必要がある。その一つの動きが顕正会への接近なのだろう。
故光安日康御尊能化(妙縁寺住職)は松本日仁御尊能化の只一人のお弟子さん。
これは光安ではなく、光久であろう。
そこで拙ブログを検索してみたところ、出てきた。長くブログをやっていると書いているわたくし自身もすっかり忘れてしまっているわけだが、ありがたいことに検索を掛けるとそれが出てくるのである。ブログは備忘録として優れたツールなのだ。
https://white.ap.teacup.com/ganko/896.html
当時、光久の乱と呼ばれることがあった。ただそれは大袈裟な表現であって、敵対勢力が針小棒大に騒いでいただけの話である。浅井先生もそれに乗っかって発言していたわけである。
さて、顕正新聞の続きである。
本年九月に国立戒壇否定の執念が最も深かった阿部日顕が命終するや、ただちにこの十一月、有羞の僧が出現・・・
副総男子部長の筆頭格がご覧のように言っている。しかし、これはかなりトンチンカンな論理である。
説明するまでもないが、ようするに日顕上人という重しが取れて正宗僧侶の中から次々に顕正会支持を表明する僧侶が出れば彼の言っている通りである。ところが現実はそうではなく、正信会系の僧侶が顕正会支持を表明したに過ぎないのである。なぜに正信会系の人たちが日顕上人の御遷化を待つ必要があるのだろうか?
決戦場×5
顕正新聞には同じフレーズが頻出する。ゆえに読者がウンザリする。おそらく紙面ぜんぶを数えたら卒倒するだろう。ここでは男子部第五総部長(首都圏)の記事を数えてみた。彼は一回の登壇で五回も決戦場と言っている。大事なフレーズだから繰り返し言うのだろう。それにしてもどうかと思う。
わずか一年余りで一変してしまった日本を取り巻く客観情勢・・・
これは男子部第十総部長(首都圏)である。わたくしの感覚が鈍いのか、ここ一年で何がどのように変化したのか、あまり実感が持てずにいる。おそらくは多くの人が同様だろう。ようは顕正会員たちが特殊なのである。
いま、御付嘱状の全責務を一身に担われ立たれる先生のお立場の重大さに・・・
第十八男子部長(首都圏)も凄いことを言うものである。まさにこれなのだ。先ほど、猊下を取るか浅井先生を取るか、というような話を書いたわけだが、こんなテイタラクでは顕正会の宗門復帰は絶対にあり得ないだろう。
よく考えるべきである。御当代日如上人がいらっしゃるにもかかわらず、こんなことを言っているわけである。つまりは血脈相承を否定しているのだ。
以下は単なる机上の空論である。
近く日目上人が御出現になる。顕正会ではそのように言っている。このこと自体はさほど問題ではない。問題はその先にある。日目上人が御出現になられたとしよう。現状では浅井先生よりも年少である可能性が高い。すると顕正会員たちは思うのだ。日目上人よりも浅井先生のほうが偉いと。
浅井先生は偉くなり過ぎちゃった。年齢的にも逆戻りはできない。もうどうにもならないのだ。
大聖人は抜け殻になる・・・
ようは開眼を行なうとその一回きりで抜け殻になってしまうという文証である。だとすると直近の半世紀ないし一世紀の間に下付された日蓮正宗の御本尊はおよそ一千万を数えるが、猊下一人に付き一幅しか開眼されていないことになる。日達上人以降であれば開眼済みの御本尊は三幅しか存在しないことになるだろう。もっとも沖浦氏は開眼そのものを否定しているので、そこで議論はネジ曲がってしまっているわけだが・・・
raiden氏は久々の来臨である。長々と書いておられるが、文末だけ紹介しておこう。
浅井会長の僧侶軽視の姿勢が判明しているので、賛同して駆けつける僧侶はいないでしょう。
この点、顕正会の活動会員はあまり自覚がないのだと思う。ようするに浅井先生は偉くなり過ぎてしまったのだ。その様子はあたかも新興宗教の教祖のごとくである。しかも御相承についてイチャモンをつけてしまった。もはやこうなると、猊下を取るか浅井先生を取るかの選択になる。すでにしてこのこと自体がおかしな話であって、まさに別の宗教・別の教団になってしまったのと同じことなのだ。ゆえに正宗の僧侶で顕正会を支持することは、いわば宗旨替えをするようなことになるので、そこまでして顕正会を支持する積極的な理由は、普通には見い出せない。
前回と重複するが、正信会系の僧侶は話が違う。彼らはジリ貧状態であり、そこから脱出するためには思い切った行動を取る必要がある。その一つの動きが顕正会への接近なのだろう。
故光安日康御尊能化(妙縁寺住職)は松本日仁御尊能化の只一人のお弟子さん。
これは光安ではなく、光久であろう。
そこで拙ブログを検索してみたところ、出てきた。長くブログをやっていると書いているわたくし自身もすっかり忘れてしまっているわけだが、ありがたいことに検索を掛けるとそれが出てくるのである。ブログは備忘録として優れたツールなのだ。
https://white.ap.teacup.com/ganko/896.html
当時、光久の乱と呼ばれることがあった。ただそれは大袈裟な表現であって、敵対勢力が針小棒大に騒いでいただけの話である。浅井先生もそれに乗っかって発言していたわけである。
さて、顕正新聞の続きである。
本年九月に国立戒壇否定の執念が最も深かった阿部日顕が命終するや、ただちにこの十一月、有羞の僧が出現・・・
副総男子部長の筆頭格がご覧のように言っている。しかし、これはかなりトンチンカンな論理である。
説明するまでもないが、ようするに日顕上人という重しが取れて正宗僧侶の中から次々に顕正会支持を表明する僧侶が出れば彼の言っている通りである。ところが現実はそうではなく、正信会系の僧侶が顕正会支持を表明したに過ぎないのである。なぜに正信会系の人たちが日顕上人の御遷化を待つ必要があるのだろうか?
決戦場×5
顕正新聞には同じフレーズが頻出する。ゆえに読者がウンザリする。おそらく紙面ぜんぶを数えたら卒倒するだろう。ここでは男子部第五総部長(首都圏)の記事を数えてみた。彼は一回の登壇で五回も決戦場と言っている。大事なフレーズだから繰り返し言うのだろう。それにしてもどうかと思う。
わずか一年余りで一変してしまった日本を取り巻く客観情勢・・・
これは男子部第十総部長(首都圏)である。わたくしの感覚が鈍いのか、ここ一年で何がどのように変化したのか、あまり実感が持てずにいる。おそらくは多くの人が同様だろう。ようは顕正会員たちが特殊なのである。
いま、御付嘱状の全責務を一身に担われ立たれる先生のお立場の重大さに・・・
第十八男子部長(首都圏)も凄いことを言うものである。まさにこれなのだ。先ほど、猊下を取るか浅井先生を取るか、というような話を書いたわけだが、こんなテイタラクでは顕正会の宗門復帰は絶対にあり得ないだろう。
よく考えるべきである。御当代日如上人がいらっしゃるにもかかわらず、こんなことを言っているわけである。つまりは血脈相承を否定しているのだ。
以下は単なる机上の空論である。
近く日目上人が御出現になる。顕正会ではそのように言っている。このこと自体はさほど問題ではない。問題はその先にある。日目上人が御出現になられたとしよう。現状では浅井先生よりも年少である可能性が高い。すると顕正会員たちは思うのだ。日目上人よりも浅井先生のほうが偉いと。
浅井先生は偉くなり過ぎちゃった。年齢的にも逆戻りはできない。もうどうにもならないのだ。
2020/1/20
ギャクゾク
沖浦氏の短絡思考ぶりを如実にあらわしている。
大聖人の魂が本当に曼荼羅に移ってしまったら、大聖人は抜け殻になるでしょうね。
俗な表現を使えば、大聖人の御魂は無限大なのである。ゆえに抜け殻にはならない。
刀匠が魂込めて刀打っても、刀は刀匠そのものではございません。
刀匠を仏師に読み替えるとわかる話だ。仏作って魂入れずも俗語の範疇だろう。通常、仏師は彫刻するのみであって最終的には別の人間が開眼を行なう。大聖人いわく、法華を心得たる人、と。
さて、顕正新聞である。
今後、正信会を始め宗門から受けるであろう、さまざまな仕打ちをも覚悟のうえ・・・
唐突な引用で恐縮だが、これは十一月末の班長会における総男子部長発言である。正信会の若い僧侶が顕正会を支持する旨の手紙を本部に送ってきた。このことについて云々しているわけであるが、わたくしの見方は少し異なる。確かに各方面からのリアクションが予想されるのは事実であり、それを覚悟の上で支持を表明したことは立派な振る舞いではあるのだろう。しかし、現実的には各方面からのリアクションよりも自滅のほうが恐ろしい。ようするに今の正信会系寺院は疲弊の極にあり、あとは時間の問題に過ぎないのだ。いわゆるジリ貧状態であり、何もしなければますます状況が悪化する。こうした現状を打破するためのキッカケがほしい。それを顕正会に求めたのだ。
ひじょうにイヤラシイことを言うと、顕正会のほうで国立戒壇に賛同すれば資金援助しましょう、というような裏取り引きを持ち掛けることだってあり得ることである。
もちろん憶測に過ぎない。ただ現状では正宗僧侶が顕正会支持を表明するケースは見られず、ほぼすべてが正信会系僧侶であることを深読みすれば、単なる憶測とは言うもののそれなりの蓋然性が感じられるところではないかと思う。
本年三月、先生より「有羞の僧出現」の指導を頂いたときは、そのような兆しすらなかっただけに、まさかこんなにも早く「有羞の僧」が出てくるなど思いもよらず・・・
これがすべて自作自演的なヤラセであったら、まさしくインチキ宗教ということになるだろう。もちろん上述のごとく、わたくしは憶測を述べているだけであって、確たる証拠を握っているわけではないのだが・・・
ただし、ここからは事実をどのように解釈するかの話である。
わたくしが顕正会に縁したのは解散処分の遥か後のことであり、御遺命守護をリアルタイムで経験しているわけではない。たぶん今の顕正会員もほとんどが同じ立場だろう。
そこで聞かされている話は、妙縁寺の住職すなわち妙信講の指導教師だった松本日仁師のことだけである。正宗僧侶の中で唯一、妙信講の味方をして下さった方であると。
ところがである。わたくしがハッキリと認識しているのは、もう一人いたことである。いた。つまり、過去形である。その人物がなぜに妙信講を離れたのか詳細は知らない。もしかしたら正宗側からさまざまな工作があったのかもしれない。
この辺の真相はわからないが、くだんの人物が離脱したという事実だけがクローズアップされ、妙信講に付いてもロクなことにならないから行かないほうがいい、というようなクチコミ的な話が僧侶たちの間で囁かれていたフシがあるのは承知している。
つまり、これらをすべて正宗側の謀略だと考えることもできるが、同時に顕正会側にも僧侶を蔑ろにするような雰囲気があって結果としてくだんの人物が離脱したとも考えられるのだ。何しろ後年の話、顕正寺の住職が放逐されてしまったことからも、顕正会側に問題がないとは言えないだろう。
話が大幅に脱線したようだが、実際にはそうではない。
ようするに今頃になって有羞の僧を云々していること自体がインチキ臭いのである。少なくとも平成二年ないし三年に宗門と創価学会が全面戦争に突入した、ここがターニングポイントであり、顕正会に宗門復帰のチャンスがめぐってきたと考えられるのだ。もちろん平成十年も大きなターニングポイントである。
まさしく正系門家の僧侶において、師敵対の逆賊は宗門追放し、あるいは当時与同した僧侶は国立戒壇こそ御遺命であることを表明して、始めて御遺命破壊のたばかりが終結するものと、深く心得させて頂きました。
昨年、最終章という言葉が流行った。もちろん顕正会の中においてである。最終章に突入したものの、まだ終結はしていない、というのが上掲の意味だろう。
しかし、わたくしはここにも疑問がある。
当時与同した僧侶は次々に亡くなっている。今さらである。しかも国立戒壇の名称に固執するようではいけない。単に、あの時は妙信講が正しかった、と言えばいいのである。それ以上でもそれ以下でもない。
ひるがえって、今の顕正会はどうか、なのである。
師敵対の逆賊は宗門追放・・・
再掲である。結果的に顕正会は師敵対の逆賊となってしまった。何しろ日達上人から日顕上人への御相承を否定しているからだ。
もし城衛に使命感ないし責任感があるのならば、自分のオヤジがやってきたことの尻拭いをしなければいけない。少なくとも百点満点ではなかったわけだから、そこは息子として正直に認めなければいけないだろう。
大聖人の魂が本当に曼荼羅に移ってしまったら、大聖人は抜け殻になるでしょうね。
俗な表現を使えば、大聖人の御魂は無限大なのである。ゆえに抜け殻にはならない。
刀匠が魂込めて刀打っても、刀は刀匠そのものではございません。
刀匠を仏師に読み替えるとわかる話だ。仏作って魂入れずも俗語の範疇だろう。通常、仏師は彫刻するのみであって最終的には別の人間が開眼を行なう。大聖人いわく、法華を心得たる人、と。
さて、顕正新聞である。
今後、正信会を始め宗門から受けるであろう、さまざまな仕打ちをも覚悟のうえ・・・
唐突な引用で恐縮だが、これは十一月末の班長会における総男子部長発言である。正信会の若い僧侶が顕正会を支持する旨の手紙を本部に送ってきた。このことについて云々しているわけであるが、わたくしの見方は少し異なる。確かに各方面からのリアクションが予想されるのは事実であり、それを覚悟の上で支持を表明したことは立派な振る舞いではあるのだろう。しかし、現実的には各方面からのリアクションよりも自滅のほうが恐ろしい。ようするに今の正信会系寺院は疲弊の極にあり、あとは時間の問題に過ぎないのだ。いわゆるジリ貧状態であり、何もしなければますます状況が悪化する。こうした現状を打破するためのキッカケがほしい。それを顕正会に求めたのだ。
ひじょうにイヤラシイことを言うと、顕正会のほうで国立戒壇に賛同すれば資金援助しましょう、というような裏取り引きを持ち掛けることだってあり得ることである。
もちろん憶測に過ぎない。ただ現状では正宗僧侶が顕正会支持を表明するケースは見られず、ほぼすべてが正信会系僧侶であることを深読みすれば、単なる憶測とは言うもののそれなりの蓋然性が感じられるところではないかと思う。
本年三月、先生より「有羞の僧出現」の指導を頂いたときは、そのような兆しすらなかっただけに、まさかこんなにも早く「有羞の僧」が出てくるなど思いもよらず・・・
これがすべて自作自演的なヤラセであったら、まさしくインチキ宗教ということになるだろう。もちろん上述のごとく、わたくしは憶測を述べているだけであって、確たる証拠を握っているわけではないのだが・・・
ただし、ここからは事実をどのように解釈するかの話である。
わたくしが顕正会に縁したのは解散処分の遥か後のことであり、御遺命守護をリアルタイムで経験しているわけではない。たぶん今の顕正会員もほとんどが同じ立場だろう。
そこで聞かされている話は、妙縁寺の住職すなわち妙信講の指導教師だった松本日仁師のことだけである。正宗僧侶の中で唯一、妙信講の味方をして下さった方であると。
ところがである。わたくしがハッキリと認識しているのは、もう一人いたことである。いた。つまり、過去形である。その人物がなぜに妙信講を離れたのか詳細は知らない。もしかしたら正宗側からさまざまな工作があったのかもしれない。
この辺の真相はわからないが、くだんの人物が離脱したという事実だけがクローズアップされ、妙信講に付いてもロクなことにならないから行かないほうがいい、というようなクチコミ的な話が僧侶たちの間で囁かれていたフシがあるのは承知している。
つまり、これらをすべて正宗側の謀略だと考えることもできるが、同時に顕正会側にも僧侶を蔑ろにするような雰囲気があって結果としてくだんの人物が離脱したとも考えられるのだ。何しろ後年の話、顕正寺の住職が放逐されてしまったことからも、顕正会側に問題がないとは言えないだろう。
話が大幅に脱線したようだが、実際にはそうではない。
ようするに今頃になって有羞の僧を云々していること自体がインチキ臭いのである。少なくとも平成二年ないし三年に宗門と創価学会が全面戦争に突入した、ここがターニングポイントであり、顕正会に宗門復帰のチャンスがめぐってきたと考えられるのだ。もちろん平成十年も大きなターニングポイントである。
まさしく正系門家の僧侶において、師敵対の逆賊は宗門追放し、あるいは当時与同した僧侶は国立戒壇こそ御遺命であることを表明して、始めて御遺命破壊のたばかりが終結するものと、深く心得させて頂きました。
昨年、最終章という言葉が流行った。もちろん顕正会の中においてである。最終章に突入したものの、まだ終結はしていない、というのが上掲の意味だろう。
しかし、わたくしはここにも疑問がある。
当時与同した僧侶は次々に亡くなっている。今さらである。しかも国立戒壇の名称に固執するようではいけない。単に、あの時は妙信講が正しかった、と言えばいいのである。それ以上でもそれ以下でもない。
ひるがえって、今の顕正会はどうか、なのである。
師敵対の逆賊は宗門追放・・・
再掲である。結果的に顕正会は師敵対の逆賊となってしまった。何しろ日達上人から日顕上人への御相承を否定しているからだ。
もし城衛に使命感ないし責任感があるのならば、自分のオヤジがやってきたことの尻拭いをしなければいけない。少なくとも百点満点ではなかったわけだから、そこは息子として正直に認めなければいけないだろう。
2020/1/19
フクメツ
前回のコメント欄にも沖浦氏からの精力的な投稿があった。その一部を紹介しよう。
御本尊を信じるとは、我が己心の仏を信じる事なんです。
お曼荼羅の中に仏様はおられません。
自身の己心の仏が写っているのです。
ほとんどのお方はこの点に迷いがある。
素朴な疑問は、だったら鏡に自分の姿を浮かべてそれを拝めばいいではないか、ということである。
わたくしの意見は何度も書いている。曼荼羅は日蓮が魂なのである。すなわち仏の当体そのものなのだ。
さて、顕正新聞第1495号である。
これは年末の合併号であるからして、溜まりに溜まった顕正新聞もようやく片付き始めたことになる。もっとも油断しているとすぐに溜まってしまうわけだが・・・
この「大坊棟札」を細井日達は偽書扱いしている。
目師会での浅井発言である。
わたくしには真偽問題を云々するだけの見識がない。ただ感想としては、浅井先生の言っていることも一理ある、ということだろう。棟札には「当国天母原」とある。それが邪魔になったから偽書扱いにしている。なるほど、そう言われればそうかもしれないと思う。何しろ妙信講問題が起きるまでは偽書と言っていなかったからだ。
しかし、矛盾するようだが、浅井先生の言っていることにも問題がある。
平成元年の御遺命守護特集号では、いずれ詳しく破折する、と言っていた。それから現在に至るまで、結局は何もしていないのである。その意味ではどっちもどっちだろう。宗門もロクでもないが、顕正会もロクでもない。
また日興上人からも御書の極理を教えて頂いたに違いない。
何を根拠に言っているのかが気になる。何となく情緒的に言っているだけのような気がするのだ。
日本覆滅
蒙古襲来についてである。この覆滅は初めてお目に掛かる表現のように思う。
御御足
これは以前にも取り上げたと思うが、辞書によればもともとは女性語だった。それを浅井先生が使っている点が気になるところである。
日目上人はこの宿場で休まれ、昏々と二・三日、眠り給うた。
この二・三日は何か根拠があるのだろうか?
当時、最大の難所といわれた雪深き伊吹山の麓
話は変わるが、今年は暖冬らしく、各所のスキー場では雪不足で営業もままならないそうである。
御本尊を信じるとは、我が己心の仏を信じる事なんです。
お曼荼羅の中に仏様はおられません。
自身の己心の仏が写っているのです。
ほとんどのお方はこの点に迷いがある。
素朴な疑問は、だったら鏡に自分の姿を浮かべてそれを拝めばいいではないか、ということである。
わたくしの意見は何度も書いている。曼荼羅は日蓮が魂なのである。すなわち仏の当体そのものなのだ。
さて、顕正新聞第1495号である。
これは年末の合併号であるからして、溜まりに溜まった顕正新聞もようやく片付き始めたことになる。もっとも油断しているとすぐに溜まってしまうわけだが・・・
この「大坊棟札」を細井日達は偽書扱いしている。
目師会での浅井発言である。
わたくしには真偽問題を云々するだけの見識がない。ただ感想としては、浅井先生の言っていることも一理ある、ということだろう。棟札には「当国天母原」とある。それが邪魔になったから偽書扱いにしている。なるほど、そう言われればそうかもしれないと思う。何しろ妙信講問題が起きるまでは偽書と言っていなかったからだ。
しかし、矛盾するようだが、浅井先生の言っていることにも問題がある。
平成元年の御遺命守護特集号では、いずれ詳しく破折する、と言っていた。それから現在に至るまで、結局は何もしていないのである。その意味ではどっちもどっちだろう。宗門もロクでもないが、顕正会もロクでもない。
また日興上人からも御書の極理を教えて頂いたに違いない。
何を根拠に言っているのかが気になる。何となく情緒的に言っているだけのような気がするのだ。
日本覆滅
蒙古襲来についてである。この覆滅は初めてお目に掛かる表現のように思う。
御御足
これは以前にも取り上げたと思うが、辞書によればもともとは女性語だった。それを浅井先生が使っている点が気になるところである。
日目上人はこの宿場で休まれ、昏々と二・三日、眠り給うた。
この二・三日は何か根拠があるのだろうか?
当時、最大の難所といわれた雪深き伊吹山の麓
話は変わるが、今年は暖冬らしく、各所のスキー場では雪不足で営業もままならないそうである。
2020/1/12
オンマエ
今日も十一月度総幹部会の各種登壇を見て行く。
大師子吼
婦人部第八総部長(中部・首都圏)が言っている。第二十五婦人部長(首都圏)も言っている。ようするに浅井先生のオンマエで登壇しているのだ。先生はそれを受け入れていることになる。教祖たるゆえんである。
輪奐の美
これには恐れ入った。男子部第十二総部長(南東北)は、ずいぶん教養のある人のようだ。
大学病院の脳外科医が広告文で入信
医学会で「メス入れられぬ献体が話題」と
女子部二百九十六区総班長(神奈川)の記事である。献体の話題は拙ブログでも取り上げているはずだが、今は詳しく記憶していない。ともかく医者の会合で話題になるほどの衝撃的な出来事で、失礼ながらどこまでが本当なのかと疑う気持ちがあったのも事実である。今回の記事はそれが本当の話だったことを証明していることになる。欲を言えば入信した脳外科医本人が登壇するべきだろう。いつものことながら顕正会の話題は又聞きレベルで終わっている場合がほとんどである。今回も現段階では同じことだ。
また、私は生命保険会社に勤務しておりますが、昨年の営業成績「全国一位」に続き、本年も優秀な成績・・・
このくだりは総班長自身のことなので、ウソではないのだろう。ひじょうに立派なことである。また、営業関係の仕事で好成績を上げている人は、顕正会の折伏においても成果を上げている場合が多いような気がする。
そこで思い出したのだが、生命保険のセールスレディ―は長続きしない仕事の代表格みたいな話をどこかで聞いたことがある。やはり成果が上がらないと収入にならないし、居心地も悪くなるのだろう。顕正会とひじょうによく似ている。
次の婦人部信州支区部長(長野)はわりと登場頻度の高い人だと思う。今回はちょっとした部分を取り上げておく。
去る十一月三日、東北随一の新仙台会館御入仏式が厳粛に挙行され、私も当日のビデオ放映において浅井先生の重大指導を視聴させて頂きました。
当日のビデオ放映?
浅井先生の出席する集会は後日ビデオ放映が行なわれる。全国各地の顕正会員がそれぞれの地元の会場で視聴する。しかし、上掲はそれとは異なるようである。
おそらくは元旦勤行のような感じなのだろう。浅井先生は第一回目に出てそこで新年の挨拶をする。二回目以降はビデオを通して先生の挨拶を視聴するわけである。
すると彼女はわざわざ長野から仙台まで遠征したことになる。それでいて一回目には入れず、二回目以降にビデオを視聴したことになるのだ。
熱心なのはわかるが、ほどほどにしないといけない。
大師子吼
婦人部第八総部長(中部・首都圏)が言っている。第二十五婦人部長(首都圏)も言っている。ようするに浅井先生のオンマエで登壇しているのだ。先生はそれを受け入れていることになる。教祖たるゆえんである。
輪奐の美
これには恐れ入った。男子部第十二総部長(南東北)は、ずいぶん教養のある人のようだ。
大学病院の脳外科医が広告文で入信
医学会で「メス入れられぬ献体が話題」と
女子部二百九十六区総班長(神奈川)の記事である。献体の話題は拙ブログでも取り上げているはずだが、今は詳しく記憶していない。ともかく医者の会合で話題になるほどの衝撃的な出来事で、失礼ながらどこまでが本当なのかと疑う気持ちがあったのも事実である。今回の記事はそれが本当の話だったことを証明していることになる。欲を言えば入信した脳外科医本人が登壇するべきだろう。いつものことながら顕正会の話題は又聞きレベルで終わっている場合がほとんどである。今回も現段階では同じことだ。
また、私は生命保険会社に勤務しておりますが、昨年の営業成績「全国一位」に続き、本年も優秀な成績・・・
このくだりは総班長自身のことなので、ウソではないのだろう。ひじょうに立派なことである。また、営業関係の仕事で好成績を上げている人は、顕正会の折伏においても成果を上げている場合が多いような気がする。
そこで思い出したのだが、生命保険のセールスレディ―は長続きしない仕事の代表格みたいな話をどこかで聞いたことがある。やはり成果が上がらないと収入にならないし、居心地も悪くなるのだろう。顕正会とひじょうによく似ている。
次の婦人部信州支区部長(長野)はわりと登場頻度の高い人だと思う。今回はちょっとした部分を取り上げておく。
去る十一月三日、東北随一の新仙台会館御入仏式が厳粛に挙行され、私も当日のビデオ放映において浅井先生の重大指導を視聴させて頂きました。
当日のビデオ放映?
浅井先生の出席する集会は後日ビデオ放映が行なわれる。全国各地の顕正会員がそれぞれの地元の会場で視聴する。しかし、上掲はそれとは異なるようである。
おそらくは元旦勤行のような感じなのだろう。浅井先生は第一回目に出てそこで新年の挨拶をする。二回目以降はビデオを通して先生の挨拶を視聴するわけである。
すると彼女はわざわざ長野から仙台まで遠征したことになる。それでいて一回目には入れず、二回目以降にビデオを視聴したことになるのだ。
熱心なのはわかるが、ほどほどにしないといけない。
2020/1/11
マミエル
昨日は十一月度総幹部会の会長講演を斬りまくった。今日はオマケである。
この御生骨については、まことに大事なことであるから、私は過去三回、言及いたしました。
聞いているほうはそんなに細かくは憶えていない。ただバクゼンと、過去に何度か聞いたことがある、という程度だろう。
ただし、これを最後といたします。もう広宣流布が近いからです。
わたくしもバクゼンと記憶しているだけなので、ウッカリ素通りするところだった。ところがである。たまたま過去の拙稿を調べていて発見してしまったのだ。
先生より
「御生骨について話すのはこれが最後。あとは拝観するのみ」
と伺いました。
https://white.ap.teacup.com/ganko/2243.html
先生もモウロクした。
それとは別の角度から言うと、ようは長年やっているものだからネタ切れになっているのだ。それで過去のネタを使い回すことになる。それで最後最後と言いながら、最後ではなくなっているのだ。おそらくは最後までこの調子なのだろう。
三大綱目を力強く推進しよう!
さて、今度は副理事長である。年末の二大綱目は決まっている。広布御供養と教学試験の推進である。それに加えて本年は御大会式のビデオ放映がある。
そうそう、ウッカリした。会長講演では鳥取会館の建設にも言及していた。年々、建て替えとか増設みたいなものばかりで、新規会館の建設構想が少なくなっていた。ゆえに忘れずに書いておかねばならない。ようは副理事長の記事にも鳥取会館のことが書いてあって、思い出したのだ。当然、広布御供養を推進するための説明として、会館の建設費ないし維持費にどれだけ掛かるのか、というような文脈で出てくる話である。
登用・五級・三級
これは言わずと知れた教学試験である。いつものごとく、変則的である。誰もが思うだろう、なぜ四級がないのかと。それと今回の三級は立正安国論謹講がテキストとなっている。近年ではめずらしいことかもしれない。
正信会の足立淳正住職からの書状
単純に言うと、顕正会の主張を支持・賛同する内容の手紙である。当然、会長講演の中にも手紙について云々するくだりがある。
私はこの文書を読んだとき、感動した。足立淳正住職には欲も名利も保身もない。ゆえに「国立戒壇こそが日蓮大聖人の御遺命である」と強く言い切ったのです。
今後、顕正会を支持する僧侶が爆発的に増えれば凄いことになる。ただ、現実的には微妙なところだろう。
わたくしの感触では、くだんの人物は相当に若いのだと思う。当時をリアルタイムで経験してはおらず、御遺命守護の歴史を書籍を通して知ったわけなのだろう。いわば正信会系の僧侶も代替わりしており、昔のことを知る人が少なくなっているのだ。そして失礼ながら正信会そのものはオワコンであり、あとは自然消滅を待つのみなのだと思う。
今は異なる団体に所属しておりますが、祖道の快復を願い、誤った宗門を糺す同じ目的のもと手を携える日が来ることを、私は切望しております。
イヤラシイことを言うようだが、早い話が正信会単独ではどうにもならないので顕正会と連携を取りたいとの魂胆が見え見えなのである。また、顕正会にしても対宗門の意味では手詰まり状態であり、現状打破のキッカケがほしいというのが正直なところなのだろう。
そんなわけで文面そのものは体裁を保っているものの、本音の部分ではかなり打算的なものがあるのではないかと、そのように勘繰りたくなるところである。
次の第十男子部長(新潟)も正信会のことを話題にしている。
「私たちは高合住職に『顕正会に入ってほしい』とは思っていない。正信会の僧侶として、日蓮大聖人の弟子として、御本仏の御遺命たる『国立戒壇』を高く掲げていくべきではないか」
これも体裁のいいセリフであるが、実は欺瞞が見え隠れしている。
顕正会に入るとは還俗を意味するのかどうか、である。何しろ今の顕正会は僧侶を否定する方向性にあるのだ。ご存知のごとく、儀礼室がそれである。
つまり、本来は僧侶にやってもらうべきだが現状では無理なので儀礼室で執り行なっている、という考え方ならば還俗するのではなく僧侶の立場で顕正会の葬儀を引き受けるようになればいいのだ。
ただそれを実行すると、おそらくは宗門のほうから猛烈な反発があるだろうし、またすでに儀礼室での葬儀が既成事実化していて、会員たちにしても正信会僧侶が執り行なう葬儀に違和感を覚える可能性があるのだ。
葬儀に関連して塔婆不要論しかりである。国立戒壇だけに話を限定するのではなく、こうした細かい点において、では正信会の僧侶たちは顕正会の主張を全面的に支持できるのかと問われれば、おそらくは彼らも立ち止まらざるを得ないだろう。
さて、もう一人、男子部第六十四隊支隊副長(山形)が正信会の話題を書いている。
住職は、正信会が分裂して「法人派」といわれる一派が戒壇の大御本尊を否定していることを憤っており・・・
不勉強のわたくしは法人派のことをまったく知らない。ただ宗門を離れると自ずと戒壇の大御本尊への信が薄くなることは、過去の事例が物語っているように思う。顕正会がそうならないことを祈るばかりだ。
「大栄寺」住職と法論、住職は戦意喪失!
男子部第三十七隊長(中国地方)の記事は、内容的にはわりと正確なのかもしれない。以下は住職のセリフの一部である。
顕正会をなめていた。もっと勉強して、話し合いができるレベルにならないと・・・
ようするに中国地方では、顕正会は存在感が薄いのだ。実際、会館の建っていない県がいくつも残っている。ゆえに正宗の僧侶たちも顕正会員とまみえる機会がほとんどないのだろう。それでナメて掛かっていたのだ。
この御生骨については、まことに大事なことであるから、私は過去三回、言及いたしました。
聞いているほうはそんなに細かくは憶えていない。ただバクゼンと、過去に何度か聞いたことがある、という程度だろう。
ただし、これを最後といたします。もう広宣流布が近いからです。
わたくしもバクゼンと記憶しているだけなので、ウッカリ素通りするところだった。ところがである。たまたま過去の拙稿を調べていて発見してしまったのだ。
先生より
「御生骨について話すのはこれが最後。あとは拝観するのみ」
と伺いました。
https://white.ap.teacup.com/ganko/2243.html
先生もモウロクした。
それとは別の角度から言うと、ようは長年やっているものだからネタ切れになっているのだ。それで過去のネタを使い回すことになる。それで最後最後と言いながら、最後ではなくなっているのだ。おそらくは最後までこの調子なのだろう。
三大綱目を力強く推進しよう!
さて、今度は副理事長である。年末の二大綱目は決まっている。広布御供養と教学試験の推進である。それに加えて本年は御大会式のビデオ放映がある。
そうそう、ウッカリした。会長講演では鳥取会館の建設にも言及していた。年々、建て替えとか増設みたいなものばかりで、新規会館の建設構想が少なくなっていた。ゆえに忘れずに書いておかねばならない。ようは副理事長の記事にも鳥取会館のことが書いてあって、思い出したのだ。当然、広布御供養を推進するための説明として、会館の建設費ないし維持費にどれだけ掛かるのか、というような文脈で出てくる話である。
登用・五級・三級
これは言わずと知れた教学試験である。いつものごとく、変則的である。誰もが思うだろう、なぜ四級がないのかと。それと今回の三級は立正安国論謹講がテキストとなっている。近年ではめずらしいことかもしれない。
正信会の足立淳正住職からの書状
単純に言うと、顕正会の主張を支持・賛同する内容の手紙である。当然、会長講演の中にも手紙について云々するくだりがある。
私はこの文書を読んだとき、感動した。足立淳正住職には欲も名利も保身もない。ゆえに「国立戒壇こそが日蓮大聖人の御遺命である」と強く言い切ったのです。
今後、顕正会を支持する僧侶が爆発的に増えれば凄いことになる。ただ、現実的には微妙なところだろう。
わたくしの感触では、くだんの人物は相当に若いのだと思う。当時をリアルタイムで経験してはおらず、御遺命守護の歴史を書籍を通して知ったわけなのだろう。いわば正信会系の僧侶も代替わりしており、昔のことを知る人が少なくなっているのだ。そして失礼ながら正信会そのものはオワコンであり、あとは自然消滅を待つのみなのだと思う。
今は異なる団体に所属しておりますが、祖道の快復を願い、誤った宗門を糺す同じ目的のもと手を携える日が来ることを、私は切望しております。
イヤラシイことを言うようだが、早い話が正信会単独ではどうにもならないので顕正会と連携を取りたいとの魂胆が見え見えなのである。また、顕正会にしても対宗門の意味では手詰まり状態であり、現状打破のキッカケがほしいというのが正直なところなのだろう。
そんなわけで文面そのものは体裁を保っているものの、本音の部分ではかなり打算的なものがあるのではないかと、そのように勘繰りたくなるところである。
次の第十男子部長(新潟)も正信会のことを話題にしている。
「私たちは高合住職に『顕正会に入ってほしい』とは思っていない。正信会の僧侶として、日蓮大聖人の弟子として、御本仏の御遺命たる『国立戒壇』を高く掲げていくべきではないか」
これも体裁のいいセリフであるが、実は欺瞞が見え隠れしている。
顕正会に入るとは還俗を意味するのかどうか、である。何しろ今の顕正会は僧侶を否定する方向性にあるのだ。ご存知のごとく、儀礼室がそれである。
つまり、本来は僧侶にやってもらうべきだが現状では無理なので儀礼室で執り行なっている、という考え方ならば還俗するのではなく僧侶の立場で顕正会の葬儀を引き受けるようになればいいのだ。
ただそれを実行すると、おそらくは宗門のほうから猛烈な反発があるだろうし、またすでに儀礼室での葬儀が既成事実化していて、会員たちにしても正信会僧侶が執り行なう葬儀に違和感を覚える可能性があるのだ。
葬儀に関連して塔婆不要論しかりである。国立戒壇だけに話を限定するのではなく、こうした細かい点において、では正信会の僧侶たちは顕正会の主張を全面的に支持できるのかと問われれば、おそらくは彼らも立ち止まらざるを得ないだろう。
さて、もう一人、男子部第六十四隊支隊副長(山形)が正信会の話題を書いている。
住職は、正信会が分裂して「法人派」といわれる一派が戒壇の大御本尊を否定していることを憤っており・・・
不勉強のわたくしは法人派のことをまったく知らない。ただ宗門を離れると自ずと戒壇の大御本尊への信が薄くなることは、過去の事例が物語っているように思う。顕正会がそうならないことを祈るばかりだ。
「大栄寺」住職と法論、住職は戦意喪失!
男子部第三十七隊長(中国地方)の記事は、内容的にはわりと正確なのかもしれない。以下は住職のセリフの一部である。
顕正会をなめていた。もっと勉強して、話し合いができるレベルにならないと・・・
ようするに中国地方では、顕正会は存在感が薄いのだ。実際、会館の建っていない県がいくつも残っている。ゆえに正宗の僧侶たちも顕正会員とまみえる機会がほとんどないのだろう。それでナメて掛かっていたのだ。
2020/1/10
ヤクゲン
沖浦氏との議論はどうやら膠着を始めたようなので、今回のところは一区切りとしておこう。軽くまとめておけば、大聖人の御真筆御本尊は開眼不要である。正確に言うと、大聖人御自身が御認めと同時に開眼されるので、改めて開眼する必要はない。日蓮が魂を墨に染め流すとは、まさしくこのことなのである。大聖人を御本仏と仰ぐ日蓮正宗においては、大聖人が魂を込められた御本尊を仏の当体とするに何の不審もない。きわめて整合性の高い話である。
さて、顕正新聞第1494号を見て行こう。
「御遺命守護」特集号8
昨年一年間は御遺命守護に始まり御遺命守護に終わるという感じだった。本年はそれを継続するのか、それとも一国諫暁に打って出るのか、目が離せないところである。
ちなみに折伏成果は三万五千有余となっており、過去最高なのだそうである。正直、実感が薄い。以前から名ばかりの入信が少なくなかった。おそらくは今も変わらないだろう。つまり、数字上は立派な成果であっても、実態が伴なわない。ゆえにバロメーターとしては結集がどのくらい伸びているかであり、内外にアピールする意味では大会場を埋め尽くすような集会をやらないといけないだろう。現状、地方大会は一巡した。問題は今後である。
いよいよ広宣流布の決戦場に臨むのだ、大聖人様の御照覧を賜われるのだ・・・
ではさっそく十一月度総幹部会の会長講演を見て行こう。上掲は本講演の最初のほうに出てくる。そして次が最後のほうに出てくるセリフである。
早く大聖人様の御馬前に馳せ参じて御意のままの戦いを貫き・・・
御照覧と御馬前がイコールではない。ここに欺瞞がある。本講演でも二十年代の決戦場を云々するくだりが各所にある。そして今現在、すでに二十年代に突入している。ならば今が大聖人御照覧ないし御馬前の戦いのはずなのだ。
ところがである。浅井先生のつもりとしては、いちおう今現在、大聖人御照覧の戦いに突入したと言いたいのだろう。ただし、御馬前の戦いはまだなのである。三百万からが御馬前の戦いなのだ。
何かおかしい、誤魔化しているのではないか、と感じる人がいれば、それが正解である。
その時期は、遅くとも二〇年代半ばと思われる。
世界恐慌についてである。こうした発言も過去を遡れば枚挙に暇がない。
「国立戒壇は御書にない」は幼稚なたばかり
さて、今回の会長講演は上掲の問題に相当の紙数を費やしている。しかも従来の主張のいわば補強版のような感じで、かなり詳しく論じている。確かにそれ相応の説得力が感じられるところである。
大事なところなので一字一句疎かにせず読むべきだが、ここでは部分的に紹介しよう。
以上のごとく、たとえ法華経に「一念三千」という言葉はなくとも、その所詮の義に約して天台はこれを「一念三千」と述べ
大聖人様はさらに一重深く、所詮の義を
「寿量品の事の一念三千の三大秘法」(義浄房御書)
と仰せあそばされているのであります。
この道理に立脚すれば、国立戒壇についても同じことが言える。
たとえ三大秘法抄に「国立戒壇」という文言はなくとも、所詮の義は「国立戒壇」である。
なるほど、確かにそうかもしれない。そして次のくだりが、いわば新境地である。
そして「三大秘法抄」と「一期弘法付嘱書」と「国立戒壇」の関係を言えば、まさしく
三大秘法抄の御文を要言すれば一期弘法付嘱書の「国主此の法を立てらるれば」の御文となり、その御文をさらに約言すれば「国立戒壇」となるのであります。
要言とか約言という表現を用いて国立戒壇の正当性を主張しているわけだが、わたくしはあえて批判を加えておきたい。
至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。
これが答えである。誰が名付けたかが問題なのである。国立戒壇を大聖人が名付けられたのであれば、それを捨てるわけには行かないだろう。あくまで後世の誰かが名付けたものなのである。ゆえに日達上人は現代に相応しくないとして国立戒壇の名称を用いない旨、宣言されたのである。大聖人がそのものズバリ、国立戒壇と認められていれば、さすがに不使用宣言はできなかっただろう。
浅井よ、オマエは日達上人より偉いのか、という話である。
なお、顕正会では日亨上人・日昇上人・日淳上人などの文証をことさら強調するが、答えは上述のごとくである。
この際、さらに新しいことを言っておこう。
政仏冥合
日亨上人の御発言は、王仏ではなく政仏となっている。これが物凄くイミシンであり、いわば現代的アレンジ発言なのである。日昇上人や日淳上人、あるいは日達上人の国立戒壇発言についても、ちょうど創価学会が大躍進を始めた頃であり、まさに政界進出の時期に符合するのである。
顕正会では日達上人と日顕上人が創価学会に阿って国立戒壇を放棄したと言っているが、実はその直前の上人方も創価学会に阿って国立戒壇を言っていたフシがあるのだ。
甚だ失礼なことを言っているようだが、もし違うと言うのならば、くだんの上人方の国立戒壇発言を網羅すべきである。わたくしはまったく調べていないが、ほぼ答えは出ていると思う。案外に以前は言っていなかった。創価学会が盛んに言うようになってから、それに同調する形で言っていた。これは顕正会への宿題である。
やや脱線すると、本尊所住を義の戒壇とする御書はあるのかないのか、というような議論があった。大聖人の御書には至るところに本尊の語があるし、戒壇も相当の数が存在する。ゆえに大聖人が本尊所住を義の戒壇と御考えであれば、その旨の記述があるはずなのだ。
国立戒壇に戻って、御書には戒壇の語はもちろんのこと、国もある、立もある、けれども熟語としての国立戒壇は存在しない。
あえて今後のこと書いておくと、日達上人が不使用を宣言されたものの、将来の猊下が再使用を宣言されることはあり得る。その時は用いればいいのである。
第三青年会館
本年の建設計画である。本部周辺もずいぶん変わったようだ。わたくしは旧青年会館の頃しか知らないので、その頃から比べれば隔世の感があるかもしれない。
新・新潟会館
来年の計画である。すると来年、先生は新潟に行くのだろうか? 確か最後とか何とか言っていたような気がするのだが、わたくしの記憶違いだろうか?
さて、顕正新聞第1494号を見て行こう。
「御遺命守護」特集号8
昨年一年間は御遺命守護に始まり御遺命守護に終わるという感じだった。本年はそれを継続するのか、それとも一国諫暁に打って出るのか、目が離せないところである。
ちなみに折伏成果は三万五千有余となっており、過去最高なのだそうである。正直、実感が薄い。以前から名ばかりの入信が少なくなかった。おそらくは今も変わらないだろう。つまり、数字上は立派な成果であっても、実態が伴なわない。ゆえにバロメーターとしては結集がどのくらい伸びているかであり、内外にアピールする意味では大会場を埋め尽くすような集会をやらないといけないだろう。現状、地方大会は一巡した。問題は今後である。
いよいよ広宣流布の決戦場に臨むのだ、大聖人様の御照覧を賜われるのだ・・・
ではさっそく十一月度総幹部会の会長講演を見て行こう。上掲は本講演の最初のほうに出てくる。そして次が最後のほうに出てくるセリフである。
早く大聖人様の御馬前に馳せ参じて御意のままの戦いを貫き・・・
御照覧と御馬前がイコールではない。ここに欺瞞がある。本講演でも二十年代の決戦場を云々するくだりが各所にある。そして今現在、すでに二十年代に突入している。ならば今が大聖人御照覧ないし御馬前の戦いのはずなのだ。
ところがである。浅井先生のつもりとしては、いちおう今現在、大聖人御照覧の戦いに突入したと言いたいのだろう。ただし、御馬前の戦いはまだなのである。三百万からが御馬前の戦いなのだ。
何かおかしい、誤魔化しているのではないか、と感じる人がいれば、それが正解である。
その時期は、遅くとも二〇年代半ばと思われる。
世界恐慌についてである。こうした発言も過去を遡れば枚挙に暇がない。
「国立戒壇は御書にない」は幼稚なたばかり
さて、今回の会長講演は上掲の問題に相当の紙数を費やしている。しかも従来の主張のいわば補強版のような感じで、かなり詳しく論じている。確かにそれ相応の説得力が感じられるところである。
大事なところなので一字一句疎かにせず読むべきだが、ここでは部分的に紹介しよう。
以上のごとく、たとえ法華経に「一念三千」という言葉はなくとも、その所詮の義に約して天台はこれを「一念三千」と述べ
大聖人様はさらに一重深く、所詮の義を
「寿量品の事の一念三千の三大秘法」(義浄房御書)
と仰せあそばされているのであります。
この道理に立脚すれば、国立戒壇についても同じことが言える。
たとえ三大秘法抄に「国立戒壇」という文言はなくとも、所詮の義は「国立戒壇」である。
なるほど、確かにそうかもしれない。そして次のくだりが、いわば新境地である。
そして「三大秘法抄」と「一期弘法付嘱書」と「国立戒壇」の関係を言えば、まさしく
三大秘法抄の御文を要言すれば一期弘法付嘱書の「国主此の法を立てらるれば」の御文となり、その御文をさらに約言すれば「国立戒壇」となるのであります。
要言とか約言という表現を用いて国立戒壇の正当性を主張しているわけだが、わたくしはあえて批判を加えておきたい。
至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。
これが答えである。誰が名付けたかが問題なのである。国立戒壇を大聖人が名付けられたのであれば、それを捨てるわけには行かないだろう。あくまで後世の誰かが名付けたものなのである。ゆえに日達上人は現代に相応しくないとして国立戒壇の名称を用いない旨、宣言されたのである。大聖人がそのものズバリ、国立戒壇と認められていれば、さすがに不使用宣言はできなかっただろう。
浅井よ、オマエは日達上人より偉いのか、という話である。
なお、顕正会では日亨上人・日昇上人・日淳上人などの文証をことさら強調するが、答えは上述のごとくである。
この際、さらに新しいことを言っておこう。
政仏冥合
日亨上人の御発言は、王仏ではなく政仏となっている。これが物凄くイミシンであり、いわば現代的アレンジ発言なのである。日昇上人や日淳上人、あるいは日達上人の国立戒壇発言についても、ちょうど創価学会が大躍進を始めた頃であり、まさに政界進出の時期に符合するのである。
顕正会では日達上人と日顕上人が創価学会に阿って国立戒壇を放棄したと言っているが、実はその直前の上人方も創価学会に阿って国立戒壇を言っていたフシがあるのだ。
甚だ失礼なことを言っているようだが、もし違うと言うのならば、くだんの上人方の国立戒壇発言を網羅すべきである。わたくしはまったく調べていないが、ほぼ答えは出ていると思う。案外に以前は言っていなかった。創価学会が盛んに言うようになってから、それに同調する形で言っていた。これは顕正会への宿題である。
やや脱線すると、本尊所住を義の戒壇とする御書はあるのかないのか、というような議論があった。大聖人の御書には至るところに本尊の語があるし、戒壇も相当の数が存在する。ゆえに大聖人が本尊所住を義の戒壇と御考えであれば、その旨の記述があるはずなのだ。
国立戒壇に戻って、御書には戒壇の語はもちろんのこと、国もある、立もある、けれども熟語としての国立戒壇は存在しない。
あえて今後のこと書いておくと、日達上人が不使用を宣言されたものの、将来の猊下が再使用を宣言されることはあり得る。その時は用いればいいのである。
第三青年会館
本年の建設計画である。本部周辺もずいぶん変わったようだ。わたくしは旧青年会館の頃しか知らないので、その頃から比べれば隔世の感があるかもしれない。
新・新潟会館
来年の計画である。すると来年、先生は新潟に行くのだろうか? 確か最後とか何とか言っていたような気がするのだが、わたくしの記憶違いだろうか?
2020/1/9
アシザマ
沖浦氏から反論が寄せられた。仏像について、辞典にはこれこれこのように書かれており、大聖人もそのように認識されていた、違うと言うなら反証しろ、というような感じである。
おそらく沖浦氏は開眼のことを度外視しているのだろう。単純に言えば、開眼された仏像は本物の仏と異ならない、ということなのだ。これを現代人がどのように考えるかは別問題で、大聖人の時代においてはそれが常識だったのだ。
また、少し余談になるものの、御書には中国という表記がわりとたくさん出てくる。現代人にとって中国はチャイナのことであり、他の用法はほとんど存在しないはずである。ところが大聖人の仰せられる中国は意味が違うのである。つまり、現代人が現代感覚だけで御書を読んでいると間違うことになる。この点、沖浦氏は認識を改めるべきである。
さて、今日も顕正新聞の続きを見て行こう。
大師子吼
副総男子部長である。いつまで言い続けるつもりだろうか?
平成二十六年の元旦勤行において先生が「国難元年」と銘打たれてより間もなく六年。
第二十七女子部長(九州)はなかなか鋭い。わたくし自身、この顕正会式年号については注目し続けていたものの、ウッカリ失念していた。さて、本年は国難六年? いや、七年? いよいよわけがわからなくなってきた。
先生が東北の地に赴かれるのは本当にこれが最後では・・・
婦人部片瀬支区部長(神奈川)の発言である。これが最後というフレーズは先生の年齢的限界を意味するのだろう。不謹慎なようだが、それが事実である。
経済的な理由で火葬のみとなりましたが、臨終より一週間も経っているにもかかわらず綺麗な遺体・・・
婦人部多摩支区総班長(首都圏)の記事には、組長の娘さんが透析中に亡くなったことが書かれている。火葬のみ云々は経済的理由とわかるが、一週間云々の理由がわからない。あるいは透析中に亡くなったことが、いわゆる医療事故に相当するのかもしれない。その場合、司法解剖のようなことが行なわれるので、火葬までに時間を要したのかもしれない。
この記事ではもう一人、八十四歳の人の臨終について書かれている。しかし、どうやら家族は誰も入信しておらず、総班長は後になってから亡くなったことを知ったらしい。当然、顕正会で葬儀を挙げたわけではないのだろう。にもかかわらず良き臨終と書いている。そこが釈然としないところである。
ともかく臨終の話題が多い。上掲は六面の記事だが、七面には三本の体験発表が掲載されており、いずれも母親の臨終について書いている。
一方では幹部たちが、日達上人や日顕上人の臨終について悪し様に書いている。まったく困った人たちだ。
おそらく沖浦氏は開眼のことを度外視しているのだろう。単純に言えば、開眼された仏像は本物の仏と異ならない、ということなのだ。これを現代人がどのように考えるかは別問題で、大聖人の時代においてはそれが常識だったのだ。
また、少し余談になるものの、御書には中国という表記がわりとたくさん出てくる。現代人にとって中国はチャイナのことであり、他の用法はほとんど存在しないはずである。ところが大聖人の仰せられる中国は意味が違うのである。つまり、現代人が現代感覚だけで御書を読んでいると間違うことになる。この点、沖浦氏は認識を改めるべきである。
さて、今日も顕正新聞の続きを見て行こう。
大師子吼
副総男子部長である。いつまで言い続けるつもりだろうか?
平成二十六年の元旦勤行において先生が「国難元年」と銘打たれてより間もなく六年。
第二十七女子部長(九州)はなかなか鋭い。わたくし自身、この顕正会式年号については注目し続けていたものの、ウッカリ失念していた。さて、本年は国難六年? いや、七年? いよいよわけがわからなくなってきた。
先生が東北の地に赴かれるのは本当にこれが最後では・・・
婦人部片瀬支区部長(神奈川)の発言である。これが最後というフレーズは先生の年齢的限界を意味するのだろう。不謹慎なようだが、それが事実である。
経済的な理由で火葬のみとなりましたが、臨終より一週間も経っているにもかかわらず綺麗な遺体・・・
婦人部多摩支区総班長(首都圏)の記事には、組長の娘さんが透析中に亡くなったことが書かれている。火葬のみ云々は経済的理由とわかるが、一週間云々の理由がわからない。あるいは透析中に亡くなったことが、いわゆる医療事故に相当するのかもしれない。その場合、司法解剖のようなことが行なわれるので、火葬までに時間を要したのかもしれない。
この記事ではもう一人、八十四歳の人の臨終について書かれている。しかし、どうやら家族は誰も入信しておらず、総班長は後になってから亡くなったことを知ったらしい。当然、顕正会で葬儀を挙げたわけではないのだろう。にもかかわらず良き臨終と書いている。そこが釈然としないところである。
ともかく臨終の話題が多い。上掲は六面の記事だが、七面には三本の体験発表が掲載されており、いずれも母親の臨終について書いている。
一方では幹部たちが、日達上人や日顕上人の臨終について悪し様に書いている。まったく困った人たちだ。