2020/2/25

オサムイ  
まず、沖浦氏の脳内コピーに驚いた。しかし、それ以上に驚いたのは頚椎後縦靭帯骨化症のことである。それでいてスポーツ選手として数々の記録を持っているのだから、驚異的である。

それに比べると、今朝の話は大したことがないように思う。加齢によって起きる変化の一つに過ぎないと考えられるからだ。もっとも逆に怒りっぽくなる人もいるらしいので、それよりはいいのだが・・・

ミカン氏は徐々に独自の宗教観のようなものを開陳し出した感じである。

天界に行ける人は心の浄化が進んでいるか否かが決すると考えています。

仏法においては仏界が最高位であり、天界はいわゆる六道の頂点ではあるものの、仏界から見ればまだ相当に低い境地である。もっとも氏の言わんとしていることは、顕正会員はそれよりもさらに低いところで呻吟している、という感じなのだと思われる。これについては弁護の余地はないのかもしれない。何しろ現実に苦しんでいる会員が少なくないからである。

さて、顕正新聞の話題である。

「国立戒壇建立 即 立正安国」特集号

第1499号の名称は上掲のごとくである。当該号は一月度総幹部会を中心に組まれているが、近年は特集号と銘打つのが慣例のごとくなっている。その基準は浅井先生が出席するか否かである。逆に言うと、特集号以外はツマラナイと、自ら公言しているようなものである。先生に頼るのも結構だが、編集部が独自で特集記事を書くようにならないとダメだろう。

広布の決戦場みつめ画期の大人事

ここで注目されるのは新理事だろう。一人は総合女子部長である。ウッカリ失念してしまったが、前総合女子部長は理事だったのかどうか、もし理事だったとしたら今はどうなっているのか、おそらくは解任されたのだろうと思うが、そうした報告はなされないのだろう。

思いつきで言うが、公式サイトがあるわけだから、そこに詳細な組織図でも載せればいいのである。班長レベルになると膨大過ぎるのでわけがわからなくなるが、例えば隊長区長以上の全人事を載せるのであれば壮観であり見栄えがいいと思う。もっとも年がら年中、離脱者が出る組織だから、やりたくてもできないのだろう。

もう一人の理事が意外だった。婦人部の大幹部ではあるものの、少し地味な存在のような気がする。まあ、しかし、わたくしは顕正新聞を眺めているだけであり、実際の組織内での人望だとかその他もろもろの事情をまったく知らないので、かなり的外れなことを言っているのかもしれない。

第六総部長が第二男子部長を兼任・・・

男子部の人事で注目したのが上掲である。これは新聞の引用ではなく、わたくしが便宜的に書き直したものであるが、ともかく画期の大人事と謳っているわりには内情はお寒い限りである。

いつも言っているように、真っ先に問題になるのが前任者である。まさか離脱してしまったのか、あるいは病気事故などで活動できなくなったのか、その辺の事情がまったくわからない。

それと筋的には、第二男子部所属の隊長たちから有能な人材を抜擢すべきだろう。それができないのは、組織の実態がスカスカだからである。まさにお寒い状況である。

本来ならば続いて会長講演を取り上げるべきところだが、今日は三級試験の合格者について書きたい。

受験者数:5481名
合格者数: 940名


合格率については言及を控えよう。合格者一覧は、それぞれが地方別に整理されている。ここでの地方とは、第一男子部・第二男子部というような具合である。ここで驚くのは、合格者がたった一名という地方組織がたくさんあるのだ。ぜんぶで九組織だろうか?

もう一つ、驚くべき事実がある。

有里、資子、真弥、幸子

これは合格者の下の名前である。ほぼ女性名だと思われる。しかし、いずれも男子部の欄に名を連ねているのだ。

もちろん逆のパターンもある。女子部ないし婦人部のところに男性名がある。極端な例を紹介しておこう。

勇二、哲雄、邦広

基本的に合格者は成績順に書かれている。第十八婦人部はぜんぶで十八名の合格者を出しているので、わりと優秀な組織と言えるだろう。ところがである。その上位三名がどうやら男性らしいのである。

恐るべき組織の実態である。

浅井先生が言っていた。異性部員はなるべく早く組織替えすべきであると。ところが現実はご覧の通りであり、三級試験ともなれば少なくとも登用・五級・四級を経なければ受験できないのだから、ようは四年以上も囲い込まれていることになる。浅井先生の弟子と言っているわりには先生の言うことを守らない。とんでもない連中である。

2020/2/23

ヒトシオ  
ミカン氏いわく、顕正会関連のユーチューバーを六人確認した、と。ずいぶん熱心にお調べになっているようだ。わたくしはコメントにも名前が挙がっている、えらてん氏以外、ほとんど知らない。いや、厳密には顕正会を話題にしている人物が他にもいることは承知している。けれども、人数までは確認していない。

現段階で言えることは、えらてん氏を除くとほとんどが注目されていない。実際、視聴回数がぜんぜん伸びていない。えらてん氏だけが別格なのである。

氏は本を何冊も出版しているし、政治家の立花孝志氏に噛みついたりして、注目度が高い。もともとポテンシャルの高い人物ゆえに、いわば多くのファンを獲得できたのだろうと思われる。おそらく氏にとっては多くの宗教の中の一つに過ぎない、それが顕正会なのだろう。

逆に言うと、顕正会そのものは大して注目されていない。えらてん氏に注目が集まっているのだ。その何よりの証拠が他のユーチューバーたちが上げている顕正会関連の動画がほとんど注目されていないことである。

さて、今日は成人式の話題である。

広布最終段階

常には総男子部長の肩書きで登壇している城衛だが、顕正会の成人式では理事長として祝辞を述べている。いちおう浅井先生の名代という位置付けなのだろう。

それはさておき登壇の内容を見ると、ご覧のフレーズが頻出するのである。四回ほど出てくると思う。それ以外には広宣流布の決戦場がある。こちらは最近の流行であるが、最終段階のほうはざっと二十年ほど言い続けられているフレーズなのである。

つまり、今の新成人が生まれる頃から使われているわけで、彼らがこの事実を知った時、どのような感想を懐くのかが気になるところである。

 昨年末、私も謹んで御供させて頂きましたが、寒空の下、凍てつく大地に座して・・・

このフレーズも繰り返し目にしてきた。あたかも地面に直接座しているような印象であるが、そこにウソはないのだろうか?

総合女子部長の祝辞も見ておこう。

御在世と未来の広宣流布、そして日本の広宣流布と世界の広宣流布、この四つを一つの御文を以てお示し下された・・・

これが現在の顕正会における公式見解なのだろうか?

わたくしが素朴に思うことは、まず御在世のことは過去のこと、すなわち終わった話なのでそれでいいだろう。問題はこれからのことである。いわゆる前代未聞の大闘諍が一閻浮提に起きる、その後に日本の広宣流布が実現する、まあ、ここまではいいだろう。では、さらにその後に、再び前代未聞の大闘諍が起きて世界広布が実現するのだろうか?

凡夫には未来のことはわからないので、顕正会の人たちも本当の意味ではわかっていないのだろう。ただ言えることは、なんかヘンだなあ、ということである。一回で終わってほしいものである。

さて、今度は新成人たちの登壇である。

少し前にも指摘したように、どうも最近の顕正会は若い人が育っていないような印象を受ける。今回の登壇者四人も以前に比べると役職が低い印象なのだ。あるいは一年ごとに変動があって、たまたま本年は人材が少ないだけなのかもしれない。であれば明年以降、人材のたくさん集まるような年もあるのかもしれない。

 経済苦で食事もままならず、御奉公で外出する時には母子三人で大きなおにぎりを二つずつ持ち、東京会館へ往復二時間、本部会館へは往復六時間かけて、私たち姉妹を自転車に乗せて参詣し・・・

女子部第三百十五区総班長(首都圏)の記事は感動的である。
見出しにも、母の信心に支えられて今の自分が、とあるように、これは並大抵のことではない。ごく単純に、一人で自転車に乗ったとしても、往復二時間はカッタルイ、ましてや往復六時間ともなればなおさらである。それを二人の子供を乗せて自転車を漕ぐのである。
また逆にヘンなことを言うようだが、子供の立場で考えてもけっこうシンドイことである。片道一時間ないし三時間をずっと座りっぱなしでいるのだから、堪ったものではないだろう。だが、長じて信心のことがわかってきて、母の苦労がわかってくると、自ずと感謝の気持ちが湧いてくるものなのだろう。

母にしても感慨ひとしおだろう。成人を迎えた娘がこんな立派な登壇しているのだから、嬉しさ申ばかりなしである。


同日追記:誤字を訂正した。

2020/2/22

ノタマウ  
沖浦氏のコメントに三国志の話が出てくる。

 乱れた世では本当の人物は出てこないのです。
 いないのではなく、隠されている。
 それを見つけるのです。
 人材は常にいますが、世に阻まれて出てこない。
 それを見つけ出すのが王の資質です。


これは何かのコピペなのか、それとも沖浦氏の脳内にストックされているものなのか、そこが気になった。不勉強のわたくしは脳内ストックがほぼゼロなので、上掲のようなセリフがスラスラと出てくる人を羨ましく思うのだ。

話が通じない。道理が通じない。何を言っても、ビクともしない人達のようです。

今度はミカン氏である。顕正会に対する鋭い観察眼を持っている。上掲はその一節であるが、いわばこれがカルト宗教の典型的な姿なのかもしれないと思った。

氏も指摘しているように、平伏する、咽び泣く、みたいな言葉は一般的には多用されることのない言葉である。それが顕正会の中ではたくさん使われている。このことが特殊な環境を物語っているのだ。

わたくしが常日頃、顕正新聞の中からピックアップしている言葉の数々も、そうした特殊性を感じさせるものが多い。

さて、引き続き顕正新聞を見て行くが、まずは上掲に関連するところから始めよう。

先生の「漢王三尺の剣」を重くする大成長を・・・

これは男子部第五十九隊長(宮城)の記事に出てくるわけだが、無教養のわたくしにはさっぱりわからない。おそらくはかつての冨士に解説みたいなものが載っていたと思う。あるいは顕正新聞のコラムのようなところにも書かれていたかもしれない。しかし、わたくしはそれでもわからなかった。顕正会の人たちは皆がわかっているのだろうか?

 「諫臣・争子」として、国のため宗門のため全責任を担われる先生・・・

第十三婦人部長(東北)の言っている意味はわかる。ただ一般人にはわけがわからないだろう。ましてや全責任などとノタマウのは特殊きわまることだ。

顕正会の特殊なボキャブラリーについては今後も取り上げていきたい。

顕正会初の地方会館として仙台会館が建立され・・・

ところでこの女子部第十一総部長(南東北)の発言は正しいのだろうか?

わたくしの認識が正しければ、顕正会初の地方会館は高知会館ではなかったかと思う。かなり早い時期から存在した。それは有力なリーダーがいたからなのだろう。ところがその人物は途中でおかしくなってしまった。有名な事件であり、わりと最近も話題に上がっていたと思う。もっとも委細に見れば、幹部の離反は日常茶飯事なのだが・・・

次のページに目を転ずると、正義にめざめて、の登壇が二本ある。いずれも高齢の男性であり、婦人部ないし女子部の紹介で創価学会から入会したらしい。ここでは具体的な内容を省いて、感想だけを書いておこう。若い入会者はいないのだろうかと。今は平均すると入信も入会も高齢者が目立つようだ。

下段の女子部第二百九区班長(宮城)は八十一で亡くなった母親のことを書いている。

 令和元年六月に開催された北東北大会では、長距離の移動を伴うことから母の体調を心配し、「車椅子で行こうか?」と提案しましたが
 「浅井先生にお会いするのだから、車椅子では行かない」
 と、キッパリ断られ・・・


亡くなったのは九月であるからして、すでに六月の時点でかなり衰弱していたと考えられる。その意味で車椅子を拒否する気丈さは美談と言えるかもしれない。ただし、あえてイチャモンをつけるが、上掲は少し問題があると思う。ようするに現状、顕正会には後期高齢の会員がたくさんいて、車イスを常用している人も相当数いるはずなのである。ゆえに上掲のような記事は、その人たちから車イスを奪うことにもなりかねない意味で問題なのである。

しかし、さらに矛盾したことを言うと、高齢者の中には甘ったれている人もマレには存在する。頑張れば自力歩行が可能なのに、甘ったれて車イスにすがっている。結局、そういう人は筋力が衰える一方なので、二度と自力歩行ができなくなる。それじゃあダメなのだ。

最近の顕正会は高齢者が目立つ。結果として臨終を云々する記事が多い。

それはそれで結構だが、わたくしの思うに高齢者の生き様のようなものをもっとアピールすることができれば、顕正会も存在価値が示せるのではないかと思う。現状は生き様ではなく死に様を見せている。仏法上、それが重要だと言いたいのはわかる。ただ、それだけではダメだろう。やはり生き様を見せるべきなのだ。

あるいは浅井先生がそのお手本のつもりなのかもしれないが・・・

2020/2/18

アッカ  
一時的滞留者の意味がわからない。あるいは顕正会に一時的に在籍していたことがあり、その時の経験を踏まえてコメントされているのかもしれない。

信者さんへの配慮は感じられないと思える。一人で複数の新聞代を払わせられているらしい。教団が負担すれば良いのにね。

いろいろと書いておられるが、上掲に関してだけ私見を述べておきたい。

顕正新聞の多重購読問題については拙ブログでも過去に繰り返し扱ってきた。これを広布御供養の問題と絡めて考えると、いちおう本部首脳の理念としては会員一人ひとりの負担を軽減したいとの考えがあると思われる。つい先年、八万円の上限が六万円に引き下げられたことがその根拠である。世の中、消費税の増税に代表されるように、何でもかんでも値上がり傾向にある。人々の生活は苦しくなる一方なのだ。顕正会員も例外ではない。本部首脳はそうした経済状況を踏まえて、あえて引き下げに踏み切ったわけなのだろう。それは悪いことではない。

この方向性からすると、多重購読も禁止しなければいけない。

では実態はどうなのかであるが、わたくし自身は内部の事情にまったく精通していないので、何とも言えないところである。以下はその上での勝手な憶測であることをあらかじめご承知願いたい。

ようは活動会員たちが勝手にやっていることなのである。極端な話、幹部たちも知らない。末端の班長クラスが勝手にやっている。
もちろん隊長区長クラスが承知している場合もある。地方部長クラスが承知している場合もあるかもしれない。それ以上の大幹部はどうかが微妙である。
おそらくは総合部長クラスは知らないのだと思う。だとすると浅井先生も知らないことになるだろう。

女子部の総合部長は知っているかもしれないが、婦人部ないし男子部は知らない。何しろ彼らは総合部長に長く君臨しており、現場の苦労を知らないのである。

ただし、薄々は感づいている。もしくは知っていて知らないフリをしている。早い話が黙認している。

そりゃそうだろう。

いちばん顕著なのは結集である。あるいは教学試験もバロメーターとなる。

極端な話、折伏成果もインチキができる。いわゆる水増し報告である。同様のことが顕正新聞の購読推進にも言えるし、広布御供養もしかりである。

ところが結集は誤魔化せない。教学試験も同じである。実際の集会で人が集まらず会場がスカスカであれば、顕正新聞の購読者がたくさんいて広布御供養もたくさん集まるのに、なぜに集会に人が集まらないのかを説明できない。折伏成果があれほど上がっているのに、登用試験を受ける人がぜんぜんいないのはなぜなのか、それも説明できない。

ゆえに当面は誤魔化せても、いずれは発覚する。

しかし、そもそもなぜにそのような問題が起きるのかを考えると、結局は成果至上主義の弊害に他ならないのである。平たく言うと、無理なノルマを課すからインチキが横行するのである。その意味では成果至上主義をやめなければいけない。

ここで反論があるかもしれない。広宣流布はどうするのかと。

いわばこれが顕正会の大義名分であり、悪く言えば成果至上主義を正当化するための言い訳になっているのだ。

先ほどの話に少しだけ戻ると、顕正新聞の購読者もたくさんいて広布御供養もたくさん集まるのに集会はスカスカだとすると、それは誰かがインチキをしているからに他ならない。

その張本人は浅井先生なのだ。

そりゃそうだろう。今現在、二百万を標榜しているのである。では二百万人の大結集ができるのかと言えば、無理だろう。つまり、この数字そのものがインチキなのである。

浅井先生がインチキをしているのだから、弟子たちも右に倣えでインチキをするようになる。至極当然の道理である。

悪貨は良貨を駆逐する

わたくしはこれを経済学の用語としてではなく、人生訓の意味で噛みしめている。自惚れを承知で書けば、わたくしは自分を良貨だと思っている。ようは駆逐される側なのである。
どこの集団・組織に属していても、そこで見るものは良貨と思われていた人たちが悪貨へと堕していく姿である。彼らは無教養ゆえかあるいは承知の上なのか、良貨であることを捨てて悪貨へと突き進むのだ。
かく言うわたくし自身はさして教養があるわけではないものの、良貨であり続けたいと思っている。早い話が良貨は損なのだ。ゆえに多くの人たちはそれを嫌うのである。しかし、わたくしは損得勘定よりも大事なものがあると思っている。

ほとんど意味不明の言説だったかもしれない。

ただ、おそらくは浅井先生の原点もほぼ同じはずであり、いわゆる崇高な理念を懐いて出発したはずなのである。ところが組織が大きくなるにつれて、悪貨が蔓延するようになる。その対策が甘かった。あたかも直近のコロナウイルス問題のごとくである。

今日はまとまりのない話になってしまったようだ。

最後に沖浦氏のコメントについて触れると、樋田さんに電話をした云々は少し前にも関連するコメントがあったものの第三者には理解しづらい内容だった。今回も同様であり、そもそもそのようなコメントを拙ブログに残す必要性があるのかどうか、そこが問題だろうと思う。

2020/2/12

フショウ  
沖浦氏の今朝のコメントは過去にも繰り返し目にしてきた内容である。ゆえに今さら取り上げるべきところはないのだが、あるいは次のくだりが注目かもしれない。

勤行もお題目だけになる・・・

ヨソサマのことなので記憶がアイマイであることをお断わりしておく。おそらくはここ十年から二十年くらいのことだろう、勤行が大幅に短縮されたのだった。法華講員の誰かが、そんなのは勤行ではない怠行だ、と繰り返し揶揄していた。それが今後さらに短縮されるとなると、もはや勤行とは言えなくなるだろう。それとも時間は短縮せず、題目だけを長時間唱えるのだろうか?

さて、顕正新聞である。

二面には新仙台会館の報道があって、写真も豊富に使われていて逆に文章が少ない点、今の時代に合っているのかもしれない。

後世永遠に残る重大指導を留め置かれた先生・・・

それにしてもこの大仰さには恐れ入る。

会長講演は三面から五面にかけて掲載されており、これが後世永遠に残る内容なのかと聞かれれば、答えに窮する。イヤミを言うと、浅井先生の大言壮語録として数十年くらいは語り継がれるかもしれない。それ以後は忘れ去られてしまうだろう。

 「一時に」とは瞬間的にということです。

これは御書の解説であるが、先生の言い訳でもあるのだろう。続きの文章をご覧に入れたい。

遅々として進まないようであっても、時が来れば日本一同「一時に」信ずるのです。

かつての一千万だとか一億の目標が破綻したことの言い訳である。

 羅什三蔵は、法華経が説かれた霊山一会の説法の座に連なった、多くの菩薩の中の一人です。

不勉強のわたくしはこれがわからない。具体的には何菩薩なのだろうか?

金言に云く、広宣流布の時、光明を放つべしとなり。

日琫上人のいわゆる御生骨についての御指南である。顕正新聞には上人の直筆と思しきものが掲載されている。原文は漢字とカタカナで書かれている。それを引用の段階で上掲のように直したわけなのだろう。それはいいのだ。

 「御金言に云く、広宣流布の時、光明を放つべしとなり」

前掲は長文の引用だった。そして上掲は部分的な引用である。そして以下、浅井先生の結論である。

これは大聖人の御金言なのです。

何となく詐術的である。

原文は金言となっている。引用もそれに忠実だった。ところが部分引用の段階で御金言となって、最後は大聖人の御金言であると結論づけている。

これまた不勉強で恐縮だが、これは御書のどこに出てくる御指南なのだろうか?

もし浅井先生が日琫上人の御指南をそのまま信受するのであれば、日達上人の御指南も素直に受け止めるべきだったのではないかと思う。自分の都合で取捨選択しているとしたら問題である。

 「時の不祥」を天魔狙う

カギカッコが意味深である。本文を読んでも出典がわからない。そこでググってみたら如説修行抄の有名な御文が出てきた。完全一致の検索だと上位のすべてが如説修行抄だった。少し古い小説には出てくるようだが、現代人はほぼ使わない表現のようである。

わたくしにとっては浅井先生と同じ時代に生まれてしまったことが時の不祥なのかもしれない。

最後に自虐ながらも書いておくと、拙ブログが後世永遠に残るかどうかは浅井先生に委ねられている。何しろ最初のほうに書いたごとく、いずれは忘れ去られていく存在が浅井先生なのだ。それに寄生ないし依存している以上、拙ブログもいずれは消えていくことになる。当然の帰結である。

2020/2/11

キラビヤカ  
婦人部坂戸支区総班長に関して、貴重な情報をたまわった。わたくしは顕正新聞に書かれていること以外は知らないので、ありがたいコメントだった。あるいはかつての冨士にくだんのご夫婦の記事が載っていたかもしれず、それを読めばいろいろとわかるのかもしれないが、今は保留としたい。

さて、顕正新聞第1498号である。

「新仙台会館御入仏式」特集号

本特集号の斬新なところは第一面には別の記事が掲載されていることである。すなわち教学試験と成人式である。

すでに書いたと思うが、なぜに四級試験がないのか、そこが問題である。顕正会のイビツな実態をあらわしているのだろう。また、教学試験の記事には毎年のように同じネタが出てくる。

あまりの熱気に暖房を消して窓を開け、冷房をつけた会場もあった。

毎年のように同じ話が出てくる。もし同じ会場が毎年のように同じ愚を犯しているとしたら、幹部にも責任があるだろう。事前に会場側に対策を講ずるように言うべきである。

 いよいよ広布の決戦場へ臨む年の教学試験とあって・・・

これは何を意味するのだろうか? 本年中に何らかのアクションを起こすつもりなのだろうか?

さて、今度は成人式である。

 令和二年度の成人式・・・

この年度の概念は正しいのだろうか?

もっとも顕正会が独自に行なう成人式なので、顕正会の勝手ではある。そこで思い出した。国難年号はどうなったのかである。とうとう言わなくなってしまった。これが顕正会のいい加減さである。

ところで成人式の写真であるが、一面下段に二つ並んでいる。八面と九面の真ん中にも、あることはある。

何が言いたいかであるが、四つの写真のうち一つが晴れ着にスポットを当てたキラビヤカな写真ではあるものの、残りの三つの写真はひじょうに地味な写真なのだ。

わたくしの印象としては、例年に比べて晴れ着を着て参加している人が少ないのだ。この意味するところは、若い人材が育っていないのかもしれない、ということである。

あるいは次が傍証となるかもしれない。

総班副長、支隊副長、総班長、支隊副長

これは成人式の登壇者の役職である。彼らは同年代における出世頭の意味がある。ゆえに過去の登壇者を調べれば、もっと役職の高い人たちがたくさん出てくるはずである。本年は総班長が一人いるものの、残りの三人は副長である。これはかなり深刻な事態かもしれない。

顕正会は成果至上主義である。

かつての高校生顕正会員は学校の名簿を使って片っ端から折伏していた。一つの決めゼリフとして、お金は掛からない、試しにやってみよう、というものがあった。実際、それで入信する人がたくさんいたのだ。当然、論功行賞として役職が上がっていく。かつては支隊長ないし総班長に昇格する高校生がザラにいたのである。

昔の顕正会は世間にまったく認知されていなかった。また一般人の立場では調べる術がなかった。金が掛からないなら試しにやってもいいと、そう思うのが自然ではあった。

ところが今は時代が劇的に変化してしまった。何でもかんでもググればいいのだ。いとも簡単に情報が得られる。

もはやこうなると、試しにやってみようは通用しない。

もちろん何事もやってみないとわからないのだが、その前の段階においてやるべきかやらざるべきかの判断ができる。判断材料がたくさんあるからだ。いやもちろん、厳密にはやってみないとわからない。ネット情報は玉石混交でもある。ただ、そうであってもおおよその判断はできる。かつての何の判断材料もない時代に比べれば、今は明らかに違うのだ。

甚だ失礼な話をすることになるが、近年の顕正会は高齢者の入信が目立つ。彼らはネット環境に不慣れである。その意味で顕正会のエジキになりやすい。しかし、今後はそうした人間が減っていく。

話が冗長になってしまったようだ。

ともかく浅井先生自体が古い時代の人間であり、こうした時代の変化に対応できていないのだと思う。では、城衛はどうかであるが、彼もまた今年新成人を迎えた人たちから見れば相当に古い世代である。その意味ではもっと若い世代の中から、まさに今の時代に即応したニューリーダーが出てこないとダメなのだろう。

2020/2/10

フミエ  
raiden氏のコメントを拝見して思ったことがある。顕正会員は使い捨ての乾電池みたいなものなのだと。電池が満タンの時には威勢がいい。けれども電池の残量が少なくなるといわゆる化石会員となる。マレに充電可能の電池があって、戦列に復帰する。しかし、多くは充電不可の使い捨て乾電池なのだ。今まで二百十三万七千個の乾電池を使用して、結果として二百万個ほどがすでに廃棄処分となっている。

それから、ウッカリしていたというかバクゼンと考えていたことがある。すなわち十年もあれば三百万を達成するだろうということだ。しかし、それもけっこう厳しい数字なのかもしれない。何しろ百万から二百万までが約十五年なのである。加速度が付けばいいのだが、むしろ失速する可能性すらあるのだ。

さて、顕正新聞の続きである。

大師子吼

総合婦人部長も懲りない人である。と思いきや、副総合婦人部長も相当である。

先生の裂帛の大師子吼

世間ではまず聞かれない表現である。

ところでもう一人の副総合婦人部長が興味深いことを書いている。

 しかも都合の悪いことは削除し、かなりの添削が加えられていたにもかかわらず・・・

昨年二月に宗門から出版された例の書物についてである。上掲は誰かの受け売りなのか、それとも彼女自身が確認したことなのか、そこが気になるところである。けっこう面倒臭い作業であるし、宗門の書籍を購入すること自体が顕正会員には抵抗のあることなので、それを彼女がやったとは俄かには信じ難いのである。

もっとも近年発足した教学委員たちは、宗門の矛盾をあげつらうために徹底的に調べていると思われる。とは言え、それ以外の人たちには読ませないようにするのが顕正会のやり方である。

大師子吼

あらまあ、婦人部第四総部長(首都圏)も言っちゃっている。彼女は翌月末、なんと理事になっているのだ。大師子吼が出世のための踏み絵なのだろうか?

諸天が感応する速さには驚きを禁じ得ず・・・

副総合女子部長である。だったら平成九年ないし平成十六年の一国諫暁で弘通が伸びてもおかしくなかっただろう。現実には遅すぎるのである。

妙観講理事・原麻木子母子の呆れた演技
「謀略集団」の醜い実態まざまざと見る


男子部第百二十四隊支隊副長(首都圏)の記事である。例のカエリタマエ問題について云々しているわけだが、失礼ながら副長レベルが関わっていることに意外性を感じた。何しろ法務部が記事を書くレベルなのである。対する先方も提訴に踏み切るほどなのである。そこに副長が首を突っ込んでいるのだから、意外や意外である。ともかくこの件についてはどのような結末を迎えるのか、推移を見守りたいと思う。

全盲の区員が恋慕渇仰の信心で大功徳

女子部第二百八十区長(首都圏)の記事にはご覧の見出しがある。しかし、本文は次のごとくだ。

本年八月に入信した全盲の壮年・・・

ならば区員とは書かず壮年と書くべきだろう。しかも編集部は先生の言うことにも逆らっているのだ。ようするに異性の入信者はなるべく早く所属替えをすべきなのである。ところが現実的にはいつまでも男女混成チームのまま活動しているのだ。編集部はそれを容認ないし助長していることになるだろう。

一日に七回、遥拝勤行を申し上げる日もあるほど大感激し・・・

女子部第九十五区班長(宮城)は配布をキッカケに入信した人物のことを事細かに書いている。一日に七回も勤行するとは凄い。よほど大感激しているのだろう。しかし、この記事にはくだんの人物の性別が書かれていない。雰囲気的には男性のようである。前掲の記事もそうだが、女子部は異性の入信者が多い。婦人部もしかりである。しかも編集部がその人たちを区員と書いてしまうほどなのである。顕正会は成果至上主義に支配されており、そのためには現状もやむを得ないと考えているのだろう。

夫が脳出血で倒れ、20年の介護生活
 ついに臨終、真っ白な成仏の相にただ涙


婦人部坂戸支区総班長(首都圏)の記事は、まず名前に見覚えがあった。あれ? まさかあの人では? 記事を読んで思い出した。

現在は総班長の彼女であるが、一時期、婦人部の大幹部だった。そのご主人は壮年部の大幹部として活躍していたし、確か本部幹事でもあったと記憶している。それがいつの間にか姿を消してしまった。退転したのかもしれない。顕正会では日常茶飯事の出来事なので、そのようにバクゼンと思っていた。

しかし、ご覧の見出しのごとくである。

 通夜の前日、汗と涙がしみ込んだ「御遺命守護」のハチマキが見つかりました。

この一段が感慨深い。わたくし自身は当事者ではないものの、一般的にも創価学会本部襲撃事件として知られる出来事であり、あの『迷走する顕正会を斬る』にも出てくる話なのである。こうしてまた一人、御遺命守護の生き証人が鬼籍に入り、当時を語れる人物が少なくなってきている。今の顕正会はそれを逆用して、都合の悪い事実を隠蔽し、ひたすら浅井先生を美化することだけに終始している。その意味でも『迷走する―』は貴重な本と言えるだろう。

 私はこの御奉公が大好きです!

さて、今度は婦人部郡山支区(福島)である。ノーテンキな人だなあ、というのが正直な感想である。

浅井先生は絶対であることを夢中で伝えました。

実にノーテンキだ。

次の婦人部霧島支区総班長(鹿児島)は母親の臨終について書いている。細かい話は省くが少し意味不明のくだりがある。

仏壇の中の釈迦像をはじめとする、家中の謗法をすべて処分することができました。

いわゆる謗法払いであるが、この直前には先祖代々の宗教を浄土真宗だと書いている。ならば釈迦ではなく阿弥陀のはずである。

男子部第百六十七隊組長(首都圏)は出戻りである。平成五年旧小田原事務所で入信したものの、平成十三年には未活動となってしまったそうだ。平成十九年には大石寺塔中・石之坊に所属したという。しかし、住職の講義に嫌気と疑問を感じ、すぐに離れてしまったらしい。そして昨年六月、顕正会に復帰した。

当然、逆のパターンもあるだろう。宗門から顕正会に行き、再び宗門に戻る。あるいは創価学会からという場合もあるし、創価学会から正信会、そこから顕正会に行き、最後は宗門へ、というケースもあるはずだ。もちろん違うバージョンもある。

ともかく全体の傾向がどうなのかが気になる。わたくしの感触ではやはり圧倒的に顕正会から宗門へ流れていくパターンが多いのではないかと思う次第である。

2020/2/4

ドシガタイ  
沖浦氏より返信があった。

 御書に取意がこれだけあるんですよ。

相変わらずのアホウぶりである。

言わんとしていることは、大聖人もやっていることだから自分もやっていいのだ、ということだろう。しかし、それがダメなのである。前回の拙稿をよく読めばわかることだ。

大聖人が経典等を取意の形で引用あそばすことは大聖人だから許される。大聖人を本仏と仰ぐ人にとっては当然のことである。
また、角度を変えて、経典は当時の仏教界における共通ベースだった。ゆえに大聖人が恣意的な引用をすれば反撃を食らうことになる。つまり、大聖人の引用はきわめて適切だったと考えられるのだ。
ひるがえって、今現在、わたくしや沖浦氏が御書を引用するにあたって取意の形で引用することも可能である。ただし、それがデタラメな引用であれば返り討ちに遭う。
一方、池田大作氏の発言はわたくしと沖浦氏の間の共通ベースではないので、もしそれを引用したいのであれば正確を期すべきである。

余談ながら、沖浦氏と他の創価学会員が議論しているのをマレに拝見すると、まさに共通ベースであるべき師匠の発言をめぐって、沖浦氏がやり込められている状況を目撃することになる。もっとも近年はサジを投げられてしまったものか、他の創価学会員が沖浦氏に意見することはほとんどないようである。

かく言うわたくしも顕正会員から見れば度し難い存在なのだろう。意見を言ってくる人は皆無である。

さて、顕正新聞の続きである。

宗門を遥かに凌駕する二百十三万七千の仏弟子の大集団・・・

総男子部長の発言である。当然、公称会員数ではなく実数が問われる。残念ながら、顕正新聞にはそうした客観的な比較がどこにも見当たらない。

・・・二月の戦闘開始の大号令に備えてまいろうではありませんか。

すでに一月末の総幹部会で大号令が発せられたと思われるが、わたくしのところには情報が届いていない。昨年はウンザリするほど同じフレーズが繰り返された。決戦場云々である。その文脈からすると、まさに上掲の戦闘開始は決戦開始の意味に他ならないだろう。それとも通常の折伏法戦が始まっただけの話なのだろうか?

一国相手の大諫暁・・・

副総男子部長の発言である。ここでは具体的にいつから大諫暁を開始するのかについて、明言していない。なるほど、立場を弁えているようだ。

米中の軍事対立が秒読み段階であることを確信・・・

これはもう一人の副総男子部長であるが、この秒読み段階が悩ましい。なぜならばいわゆる譬喩に他ならないからで、さすがにこれを字句通りに解釈する人はどこにもいないだろう。アゲアシ取りを得意とするわたくしにしても、ここは躊躇するところである。

つまり、広布最終段階もしかりなのだ。

おそらく前にも書いたことがあるはずだが、ようするに大聖人の時代から起算すれば七百年から八百年近くの年月が流れているわけである。その意味では十年ないし二十年前から最終段階と言っていたとしてもウソではないことになる。

上述はいちおう顕正会を弁護する意味で書いた。

とは言え、過去の浅井発言を詳しく調べて行けば、弁護の甲斐がないことに気がつくだろう。目標設定の下方修正を何度も繰り返している。しかも過去の都合の悪い発言を隠している。反省の弁がない。これではダメだろう。

明年一月からの決戦場を戦う大陣列構築を見据え・・・

男子部第十一総部長(中部)である。先ほどの総男子部長の発言を思い出していただきたい。

二月の戦闘開始の大号令・・・

一月と二月の違いは目をつぶろう。問題は例年と同じ折伏法戦なのか、それとは明確に異なる戦いなのか、である。一月末の総幹部会での会長講演が注目されるゆえんである。

わたくし自身はすでに答えを察している。

結局、浅井先生がどのような策を練ろうとも活動会員たちは落胆するのである。戦いが今以上にハードになれば耐えられないし、さりとて決戦場とか御馬前とか言っているわりにやっていることがショボいとすればシラケるのである。

会長講演が楽しみだ。

2020/2/3

イヨイヨ  
沖浦氏がまたしてもやらかした。趣意はやめろと言ったはずである。師匠の言葉なのであれば正確に引用すべきだろう。御書の引用と同じである。
ちなみに御書の場合、趣意でも構わない。ただし御書は日蓮系とりわけ日蓮正宗系の共通ベースであるから、趣意と言いつつそれがきわめて恣意的なものであれば反撃を食らうことになる。
ところが池田氏の発言は必ずしも共通ベースではないので、氏が何をどのように言っていようがわたくしの知ったことではない。しかし、そうであってもそれが沖浦氏の恣意的な引用であれば問題だろう。ゆえに正確に引用しなければいけない。

さて、顕正新聞第1497号である。

第一面には浅井先生の年頭ご挨拶の要旨が載っていて、続いて隊長・区長・支区部長以上の幹部に対する挨拶が載っている。

いよいよ最終段階に至った・・・

いよいよ広布最終段階に突入した今・・・

いよいよ最終段階を迎えた・・・


いよいよ、なのだそうである。以前から指摘しているように、最終段階を云々するようになって久しい。その意味で、「いよいよ」はウソないしインチキである。

二面から三面にかけて挨拶の全文が載っている。最大の問題点はすでに示した通りである。さらに他の問題についても、いくつか書いておこう。

著名な地震学者4人が、それぞれ「2020年に発生する可能性あり」などと言い出している。

相変わらず予言が好きな人だ。しかし、浅井先生の予言は当たらないことで有名である。ゆえに著名な地震学者を引き合いに出すわけなのだろう。ただし、学者は予言者ではない。彼らはあくまで可能性を云々しているだけなのである。ところが顕正会の中では話だけが増幅され、あたかも本当に地震が起こるかのごとく錯覚してしまう。この繰り返しである。

世界の借金総額
  二京七千兆円


わたくしは経済問題に疎い。ゆえに実感が持てない。ただし、世界はさておき日本の景気はかなりアヤシクなりつつあると思う。オリンピック景気もいよいよ終わりを迎えるし、その後の展望が見えないのだ。

この点、方向性としては浅井先生の言っていることに異論はない。その上で一つだけツッコミを入れるならば、安倍政権批判はどうなったのか、である。経済の話をするのであれば、政治についても云々すべきだろう。ここ一年くらい、安倍批判が聞かれない。安倍批判の代わりに阿部批判を展開したのが去年一年間だった。

 どれほど世の中が乱れ、危険が身に迫るとも、大聖人様は門下の一人ひとりを、御本尊・諸天善神助け給えと・・・

ここは御書の通解である。しかし、それにしてもどうかと思う。具体的には御本尊・諸天善神のくだりだ。説明は省略しよう。

元旦勤行における浅井先生の挨拶については、おおむねこんなところである。

いや、そうではなかった。

 この大悪には二つある。
 一つは、仏法上の大悪たる「御遺命破壊」。
 もう一つは世間の大悪たる「前代未聞の大闘諍」であります。


これも説明は省くが、ちょっとヘンな感じだ。過去の一国諫暁で言っていたことと、少しズレているような気がする。

いずれにしてもである。広宣流布の最終段階を云々する前に、御遺命守護の戦いを完結させなければ話にならないだろう。昨年あたり、最終章という言葉を盛んに使っていたが、いわば今現在は最終章に突入したばかりと考えるべきである。ゆえに最終章の完結がいつなのか、それが問題である。昨年、正信会系の僧侶が顕正会の支持を表明した。では本年、それに続く動きがあるのか、とりわけ正宗の僧侶の中から出てくるのか、そこが最大のポイントだろう。一方で、活動会員の離脱・流出という深刻な問題がある。これは正確な実態がつかめない話ではあるものの、顕正会の恒常的な問題であることは間違いないだろう。不謹慎ながら浅井先生の年齢的限界も見えてきた。

こうしてみると、顕正新聞にいちいちツッコミを入れる作業も、あまり有意義ではないのかもしれない。今後は更新頻度を下げて、重要な問題だけに取り組むべきなのかもしれない。

2020/2/1

ケンサツ  
ご賢察云々については、突っ込んでも仕方がない。もう一つのコメントは何を今さらとは思うものの、なかなか重要な話かもしれない。

 何故他人を妬んだり憎むとダメなのか?

これ以降の説明は沖浦氏らしい切り口と言えるだろう。ただ逆もまた真なりで、他人に対する嫉妬心が原動力となってプラスの結果を招くこともなきにしもあらずである。他人は他人、自分は自分。もちろんそれもあるわけだが、他人との比較があってこそ自分自身の向上が可能になるのだ。ゆえに妬みだとか憎みの心をただ単に打ち消すのではなく、それを向上心に転換することが理想である。

さて、顕正新聞の続きである。

いま御付嘱状の全責務を一身に担い立たれる先生のお立場の重大さに・・・

第十八男子部長(首都圏)もゴマスリが上手である。

 星霜六十有余年・・・

そして最近は正確な年数を書く人が少なくなった。あまりにも長すぎるので数えるのが面倒になったのだろう。

次は第二十五婦人部長である。

 宗門に正義が蘇り、日目上人が一閻浮提の座主として、皇室には日興上人が本化国主として御出現になる日はもう眼前・・・

宗門がこれをどのように考えているのか、わたくしはまったく知らない。ただ言えることは、広宣流布が遠い先のことだと思われていた時代においては話として受容できた。ところが今となっては難しい話である。

何しろ眼前と言ってしまっているのだ。

つまり、現時点で宗門僧侶の中に日目上人の再誕がいらっしゃらないといけないし、皇室においてもしかりである。ことに皇室は男系男子が希少の存在となっており、その中の誰かが日興上人の再誕という話になってくる。このように現実の問題として考えると、顕正会で言っていることをそのまま鵜呑みにすることはできない。少なくとも一般人の感覚では無理な話だろう。

・・・先生の諫暁に相呼応する諸天の力用に驚愕するばかりであります。

これは男子部第五総部長(首都圏)の発言である。具体的な内容は省略するが、ともかくこれも一般人にはわけのわからない話だろう。

話は変わる。

 浅井甚兵衞講頭先生に直接お会いしたことはないが、当時、宗門内で御書を誰よりも拝読していて、右に出る者はいないと言われていた。

男子部第十二総部長(東北)の記事には、正信会系寺院・能修寺の矢内総道住職の証言が出てくる。近年は浅井先生を持ち上げる記事ばかりであり、妙信講の初代講頭の存在すらもほとんど語られなくなった。その意味で上掲は貴重な記事である。

しかし、その信憑性はいかがだろうか?

右に出る者はいないと言われていたと。誰が言っていたのか、何か明確な記録があればいいのだが、おそらくは存在しないだろう。しかもである。宗門内云々と。この言い方だと、宗門の全僧俗という括りになってしまう。せめて在家信徒の中で右に出る者はいないという話に止めておかないと、やっぱり妙信講は最初からおかしかったんだ、というふうに切り返されてしまうだろう。

言っているそばから話を混ぜっ返すことになるが、現実的には僧侶の中にも不勉強の人が少なからずいて、逆に在家の勉強熱心な人のほうが遥かに法門を熟知しているというケースもある。口には出さないにしても、法華講員の中にもそのように思っている人がいるに違いない。

 浅井先生を再び新潟の地へお迎えできるとは夢にも思わず・・・

さらに話が変わって恐縮だが、男子部第九総部長(新潟)の記事である。浅井先生も物忘れが激しくなった証拠である。何しろ先生自らが、新潟へ来るのはこれが最後、というようなことを言っていたのである。ゆえに新潟の顕正会員たちは今生の別れ(?)のような感慨を懐いていた。ただこれは教義上の変節とかの問題ではないので、逆にいつまでも元気で喜ばしいことだと受け止めるべきなのだろう。

法華講幹部大聖人忘れた宗門に不信募らす
 顕正会で恋慕渇仰の熱烈な信心に


女子部第十一区総班長(首都圏)の記事によれば、約五年前に創価学会から宗門に移り、池袋の常在寺でブロック長をしている人物が、今度は顕正会に移籍してきたそうである。

しかし、疑問だらけの記事である。

「『国立戒壇』も『恋慕渇仰』も始めて聞いた」

このような記述があると思いきや、次の段には以下のように書かれているのだ。

 さらに話を進めると、何と大高さんは顕正会の未活動者だったことがわかり・・・

おかしいだろう? それともわたくしがおかしいのだろうか?

顕正会に入信したのがいつ頃のことか不明だが、五年前まで創価学会にいて、そこから法華講へ移籍してきてブロック長をやっていたのだ。つまり、それなりに問題意識をお持ちのはずなのである。ゆえに創価学会時代にだって顕正会のことを耳にする機会があったはずだし、宗門に移籍してからはなおさらのことだろう。ましてやそれ以前に顕正会に縁していたのであれば、国立戒壇も恋慕渇仰も知らないほうがおかしい。

ハッキリしていることは顕正会の折伏がいかにデタラメであるかだろう。それで数だけ増えていって、いったいどうなるのだろうか?

体験発表が二つあって、その役職が興味深い。一人は第十一男子部長(九州)、もう一人は入信したばかりの平会員である。内容は割愛させていただく。

問題は正義にめざめてだ。

大慈大悲を
 始めて実感


発表者は婦人部薩摩支区(鹿児島)の平会員。上掲は途中の小見出しである。では、本文がどうなっているか、お示ししよう。

初めて大聖人様の大慈大悲を命で感じ・・・

編集部はなぜに現代国語を歪める表記を使うのだろうか?

それ以前の問題として、なぜに原文を損ねるような見出しを付けるのだろうか?

海外(115ヶ国)

新春号の巻末には恒例の記事が載る。そこで初めて気がついたのは、海外会員数の記述でご覧のように国数を記していることである。凄いじゃないか、世界にはぜんぶで何ヶ国あるのか知らないが、気がつけば顕正会は百ヶ国以上に流布しているらしい。


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