2020/2/4

ドシガタイ  
沖浦氏より返信があった。

 御書に取意がこれだけあるんですよ。

相変わらずのアホウぶりである。

言わんとしていることは、大聖人もやっていることだから自分もやっていいのだ、ということだろう。しかし、それがダメなのである。前回の拙稿をよく読めばわかることだ。

大聖人が経典等を取意の形で引用あそばすことは大聖人だから許される。大聖人を本仏と仰ぐ人にとっては当然のことである。
また、角度を変えて、経典は当時の仏教界における共通ベースだった。ゆえに大聖人が恣意的な引用をすれば反撃を食らうことになる。つまり、大聖人の引用はきわめて適切だったと考えられるのだ。
ひるがえって、今現在、わたくしや沖浦氏が御書を引用するにあたって取意の形で引用することも可能である。ただし、それがデタラメな引用であれば返り討ちに遭う。
一方、池田大作氏の発言はわたくしと沖浦氏の間の共通ベースではないので、もしそれを引用したいのであれば正確を期すべきである。

余談ながら、沖浦氏と他の創価学会員が議論しているのをマレに拝見すると、まさに共通ベースであるべき師匠の発言をめぐって、沖浦氏がやり込められている状況を目撃することになる。もっとも近年はサジを投げられてしまったものか、他の創価学会員が沖浦氏に意見することはほとんどないようである。

かく言うわたくしも顕正会員から見れば度し難い存在なのだろう。意見を言ってくる人は皆無である。

さて、顕正新聞の続きである。

宗門を遥かに凌駕する二百十三万七千の仏弟子の大集団・・・

総男子部長の発言である。当然、公称会員数ではなく実数が問われる。残念ながら、顕正新聞にはそうした客観的な比較がどこにも見当たらない。

・・・二月の戦闘開始の大号令に備えてまいろうではありませんか。

すでに一月末の総幹部会で大号令が発せられたと思われるが、わたくしのところには情報が届いていない。昨年はウンザリするほど同じフレーズが繰り返された。決戦場云々である。その文脈からすると、まさに上掲の戦闘開始は決戦開始の意味に他ならないだろう。それとも通常の折伏法戦が始まっただけの話なのだろうか?

一国相手の大諫暁・・・

副総男子部長の発言である。ここでは具体的にいつから大諫暁を開始するのかについて、明言していない。なるほど、立場を弁えているようだ。

米中の軍事対立が秒読み段階であることを確信・・・

これはもう一人の副総男子部長であるが、この秒読み段階が悩ましい。なぜならばいわゆる譬喩に他ならないからで、さすがにこれを字句通りに解釈する人はどこにもいないだろう。アゲアシ取りを得意とするわたくしにしても、ここは躊躇するところである。

つまり、広布最終段階もしかりなのだ。

おそらく前にも書いたことがあるはずだが、ようするに大聖人の時代から起算すれば七百年から八百年近くの年月が流れているわけである。その意味では十年ないし二十年前から最終段階と言っていたとしてもウソではないことになる。

上述はいちおう顕正会を弁護する意味で書いた。

とは言え、過去の浅井発言を詳しく調べて行けば、弁護の甲斐がないことに気がつくだろう。目標設定の下方修正を何度も繰り返している。しかも過去の都合の悪い発言を隠している。反省の弁がない。これではダメだろう。

明年一月からの決戦場を戦う大陣列構築を見据え・・・

男子部第十一総部長(中部)である。先ほどの総男子部長の発言を思い出していただきたい。

二月の戦闘開始の大号令・・・

一月と二月の違いは目をつぶろう。問題は例年と同じ折伏法戦なのか、それとは明確に異なる戦いなのか、である。一月末の総幹部会での会長講演が注目されるゆえんである。

わたくし自身はすでに答えを察している。

結局、浅井先生がどのような策を練ろうとも活動会員たちは落胆するのである。戦いが今以上にハードになれば耐えられないし、さりとて決戦場とか御馬前とか言っているわりにやっていることがショボいとすればシラケるのである。

会長講演が楽しみだ。


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