2020/2/12

フショウ  
沖浦氏の今朝のコメントは過去にも繰り返し目にしてきた内容である。ゆえに今さら取り上げるべきところはないのだが、あるいは次のくだりが注目かもしれない。

勤行もお題目だけになる・・・

ヨソサマのことなので記憶がアイマイであることをお断わりしておく。おそらくはここ十年から二十年くらいのことだろう、勤行が大幅に短縮されたのだった。法華講員の誰かが、そんなのは勤行ではない怠行だ、と繰り返し揶揄していた。それが今後さらに短縮されるとなると、もはや勤行とは言えなくなるだろう。それとも時間は短縮せず、題目だけを長時間唱えるのだろうか?

さて、顕正新聞である。

二面には新仙台会館の報道があって、写真も豊富に使われていて逆に文章が少ない点、今の時代に合っているのかもしれない。

後世永遠に残る重大指導を留め置かれた先生・・・

それにしてもこの大仰さには恐れ入る。

会長講演は三面から五面にかけて掲載されており、これが後世永遠に残る内容なのかと聞かれれば、答えに窮する。イヤミを言うと、浅井先生の大言壮語録として数十年くらいは語り継がれるかもしれない。それ以後は忘れ去られてしまうだろう。

 「一時に」とは瞬間的にということです。

これは御書の解説であるが、先生の言い訳でもあるのだろう。続きの文章をご覧に入れたい。

遅々として進まないようであっても、時が来れば日本一同「一時に」信ずるのです。

かつての一千万だとか一億の目標が破綻したことの言い訳である。

 羅什三蔵は、法華経が説かれた霊山一会の説法の座に連なった、多くの菩薩の中の一人です。

不勉強のわたくしはこれがわからない。具体的には何菩薩なのだろうか?

金言に云く、広宣流布の時、光明を放つべしとなり。

日琫上人のいわゆる御生骨についての御指南である。顕正新聞には上人の直筆と思しきものが掲載されている。原文は漢字とカタカナで書かれている。それを引用の段階で上掲のように直したわけなのだろう。それはいいのだ。

 「御金言に云く、広宣流布の時、光明を放つべしとなり」

前掲は長文の引用だった。そして上掲は部分的な引用である。そして以下、浅井先生の結論である。

これは大聖人の御金言なのです。

何となく詐術的である。

原文は金言となっている。引用もそれに忠実だった。ところが部分引用の段階で御金言となって、最後は大聖人の御金言であると結論づけている。

これまた不勉強で恐縮だが、これは御書のどこに出てくる御指南なのだろうか?

もし浅井先生が日琫上人の御指南をそのまま信受するのであれば、日達上人の御指南も素直に受け止めるべきだったのではないかと思う。自分の都合で取捨選択しているとしたら問題である。

 「時の不祥」を天魔狙う

カギカッコが意味深である。本文を読んでも出典がわからない。そこでググってみたら如説修行抄の有名な御文が出てきた。完全一致の検索だと上位のすべてが如説修行抄だった。少し古い小説には出てくるようだが、現代人はほぼ使わない表現のようである。

わたくしにとっては浅井先生と同じ時代に生まれてしまったことが時の不祥なのかもしれない。

最後に自虐ながらも書いておくと、拙ブログが後世永遠に残るかどうかは浅井先生に委ねられている。何しろ最初のほうに書いたごとく、いずれは忘れ去られていく存在が浅井先生なのだ。それに寄生ないし依存している以上、拙ブログもいずれは消えていくことになる。当然の帰結である。


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