2020/3/8

キレアジ  
顕正新聞第1500号を読んでいく。まずは総男子部長の記事である。

二度にわたって早瀬管長の不作為の罪に言及されましたが・・・

ひじょうに悩ましいところだ。顕正会側の言い分としてはまさにその通りなのだろう。けれども宗門側にも言い分があるはずだ。

単純に言うと、国立戒壇を是とするか非とするか、である。

顕正会の主張は国立戒壇を絶対的に正しいと前提しているがゆえに、日如上人がそれについて何も言わないのは不作為の罪に当たると言いたいわけなのだろう。けれども宗門は国立戒壇を正しいとは考えていない、もしくは国立戒壇の名称を使用するのはよろしくないという考え方なので、日如上人の態度は至極当然なのである。

もっとも上述は極めて大雑把な理屈であって、例えば日如上人が日ごろどのような御指南をあそばしているかとか、細かく言えば教学的な傾向がどのような感じなのか、わたくしにはまったくわからないので、もしかしたら的を外しているのかもしれない。

極論すれば、猊下がある日突然国立戒壇を言い出すかもしれないのだ。

もちろん顕正会側の希望的観測に過ぎず、現実的にはなかなか起こり得ないことだろう。ただいつも言っているように凡夫には未来のことはわからないわけだから、どちらに転ぶかはまったくわからないのである。

いかに早瀬管長が動かずとも、大聖人様の大慈大悲のお力と先生の大忠誠心によって・・・

男子部第六総部長(首都圏・沖縄)の発言である。管長が動かなくても宗門に正義が蘇るのだそうである。おかしな話である。最終的には管長が動かなくてはいけない。管長が動かざるを得ない状況を作り出すべきなのだ。もちろんわたくしの言っていることはアゲアシ取りであって、彼の言いたいこともまったく同じなのだろう。

具体的なシナリオとしては、やはり宗門僧侶の中から国立戒壇を言う人が出てこないといけない。今は正信会系の僧侶が言っているだけであり、さすがにそれでは管長を動かすことはできない。

「私が法論を申し込んで早瀬管長が受けなかった場合、『日蓮正宗は正義ではないと認めた』ということでいいか?」

第二十二男子部幹事(首都圏)が妙観講員とのやり取りを紹介している。ご存知の人も多いはずだが、逃げているのは浅井会長のほうだ、と妙観講では言っている。大草講頭が何度も法論を申し込んでいるにもかかわらず、浅井先生は一度も応じたことがないのだそうである。顕正会側の言い分としては、逃げているわけではない、大草ごときが先生と法論するなど百年早い、ということなのだろう。上掲はそうしたニュアンスを含んだ切り返しである。

まあ、しかし、こんなテイタラクではいつまでも法論は実現しない。ヤジウマ根性丸出しで言うが、ぜひとも浅井先生の雄姿を見てみたい。過去の虚飾の混じった武勇伝ではなく、今ならば映像で記録が残せるのだから、それを誰もが見てみたいはずなのだ。

おそらく今の浅井先生はかつてのようなキレアジがなくなっていて、それは本人がいちばん自覚していることなのではないかと思う。ゆえに実現は難しい。

とりあえずトップ対決ではなくとも、中堅戦くらいは実現してほしいものである。もちろん映像付きの法論をである。

 この裂帛の大師子吼に魂は強く揺さぶられ・・・

副総合婦人部長も懲りない人であるが、だったら中堅戦ではなく大将戦をやるべきだろう。いや、相手が大将である必要はない。誰でもいいのだ。例のカエリタマエ事件では女性妙観講員が相手だった。彼女たちは先生との法論を望んでいたのである。望みを叶えてあげればいい。上掲のごとくの裂帛の大師子吼で瞬殺してしまえばいいのだ。

なんと、婦人部第十総部長(首都圏)も大師子吼派である。ゆえに他のくだりにおいても凄いことを言っている。

この宇宙の中で唯一正しい仏様と、唯一正しき師匠に同時に巡り値うことが叶い・・・

会長本仏論である。ちょっと見には控えめに思えるかもしれないが、実はそうではないのだ。まず控えめの意味を説明すると、仏は主師親の三徳を備えているが、先生はその中の師徳のみを持っている。ゆえに大聖人よりは下位となる。ところがである。大聖人は常住此説法であるから未来永劫の存在と考えられる。では浅井先生はどうかであるが、彼女は今この時代に生きていて浅井先生と巡り値うことができたと言っているわけである。つまり、浅井先生との関係のほうが希少、すなわち貴重であると言っていることになるのだ。大師子吼派オソルベシである。


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