2020/3/27

コナレテイナイ  
沖浦氏は大事なところでちょっとずつ間違えている。

 『されば昔の大聖は時によりて法を行ず』

 とありますね、これは昔の大聖人の呼称です。

 大聖〜大聖人。

 その後に、雪仙童子を筆頭にして、伝教大師まで色々と名前と行が出てきます。

 ですから、大聖人はご本仏との意ではなく、如説修行の人と捉える事が妥当に思えます。


曾谷入道殿許御書にも次のような御指南が存する。

 迦葉・阿難等、竜樹・天親等、天台・伝教等の諸大聖人、知って而も未だ弘宣せざる所の肝要の秘法は法華経の文に赫々たり。

沖浦氏の指摘するごとく、天台伝教などを指して大聖人と仰せになられていることは事実である。しかし、上掲の文意は撰時抄と同じである。

・・・天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深秘の正法、経文の面に現前なり。

沖浦氏引用の佐渡御書に戻って、昔の大聖云々はその通りであるけれども、その直後には次のような御文が存在する。

 日蓮は聖人にあらざれども・・・

いわゆる御謙遜である。御書の多くは御謙遜の言葉で満ち溢れている。しかるに前掲御書では、天台伝教の未だ弘宣せざる秘法とか、天台伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大深秘の正法と仰せられている。

ここを素直に拝するべきだろう。

前回を踏まえて簡単に説明してしまうと、常には御謙遜の言葉を多用される大聖人が御自らを大聖人を仰せられている点に刮目すべきなのである。前回も書いたように、異例中の異例のことなのだ。また、小乗大乗分別抄では冒頭に、物の尺度は一定ではない、との御指南が存する。その意味からしても、日蓮大聖人と諸大聖人を同列に考えるのは、まさに言葉の上っ面しか理解できていないことになるだろう。

 次に、眼前の証拠あらんずる人ですが、これは大聖人だけを示しておりません。
 要するに功徳の実証を世間に示す人です。

 『強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ、』
 (四条金吾殿御返事)


ここは創価学会らしさが滲み出ているような気がする。無難なまとめ方をするならば、総別の二義ということになるのかもしれない。ともかく大聖人は別格としなければいけない。ただし、大聖人だけではなく一人ひとりが功徳の実証を示していくべきであることは、創価学会だけではなく宗門も顕正会も言っているはずである。

とは言え、沖浦氏は大聖人別格説を採らないのだろう。しかし、そこが間違いなのである。

 今此の亀鏡を以て日本国を浮かべ見るに、必ず法華経の大行者有らんか。既に之を謗る者に大罰有り。之を信ずる者何ぞ大福無からん。

曾谷入道殿許御書である。同抄は曾谷殿と大田殿に宛てられた御書である。当然ながら両名は信ずる者に当てはまる。もちろん広義においては彼らも法華経の行者に含まれるのだろうけれども、ここでは信ずる側に位置する。四条殿だって例外ではあるまい。

思えば、上掲の大行者にしても、法蓮抄の大聖人にしても、御謙遜を常とする日蓮大聖人にしては異例中の異例の御表現である。

しかるに沖浦氏は他の御書に大聖とあることを引き合いに出して、大聖人の立場を軽しめている。これほどの催尊入卑もあるまい。

続いて、沖浦氏は再び摂折論のようなことを書いているが、いかにもこなれていない文章である。失礼ながら途中で矛盾に気がついてお茶を濁しているような印象を拭えない。このような場合は投稿そのものを断念するか、最初から書き直すくらいのことをしないとダメである。


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