2020/6/1

ドクセイ  
沖浦氏の正直さがよくわかるコメントだった。

 樒を造花にしたのは二つ理由があります。
 一つは手間がかからないからです。
 今一つは樒の毒性が嫌だからです。


理由の二番目はわりとマトモな考え方である。ようするに現代科学の知見からして問題があるとすれば、それが宗教上の重要な部分であっても何らかの是正が必要となる。有名な話では輸血拒否の問題があった。同様の意味で、もしシキミが危険な植物であれば避けるべきだろう。ただそれは食用には適さないというレベルの話であって、普通にお供えするだけで人体に甚大な影響を及ぼすことはないようである。

それはともかく、一番目の理由があまりにも幼稚である。

何しろ二番目の理由がかなり専門的な内容なので、その対比からするといかにもレベルが低すぎるのだ。手間が掛からない。そんな理由が通用するのならば、そもそも仏道修行などやらなきゃいいのだ。

いずれにしてもである。

わたくし自身は造花がダメだとは思っていない。ただホンモノのほうがいいわけで、手に入るのであれば、なるべくホンモノを供えるべきである。これなら誰も異論はないだろう。

大沢氏は久々の登場である。

たぶん世法上の事案もさることながら、シキミのことで反応したものと思われる。具体的には沖浦氏の次の発言がポイントとなるだろう。

 方便品には、『栴檀及び沈水、木樒並びに余の材』
 とありますが御書には直接の記載はないと思います。
 あれば私の勉強不足ですので提示下さいましたら幸いでございます。


これに対して、おそらくはわたくしに宛てた意味もあるのだろう、御書をいくつか紹介されている。実際には引用がなく、ページ数だけが示されている。しかも平成新編なので、これは沖浦氏に対してではなくわたくしに対して、もっと勉強しろ、と叱咤されているものと思われる。

そもそも、私たち自身に、有情非情ともに備わっているものですし(御書523頁)、お樒を供えるのはその香りを供養するものです。

ページを開くと草木成仏口決だった。

我等一身の上には有情非情具足せり。

この辺りの御文が相当すると思われる。

ヘリクツを言う人ならば、造花もぜんぜんオッケーじゃん、だって非情だもん、というようなことになるのかもしれない。わたくしはそこまで先読みして書いたわけではないのだが、ともかくホンモノがあればそれに越したことはない。これが一貫した結論である。

御宝前を掃除して、水、樒を供え、灯明を照らし御香を焚いて御本尊様に御供養申し上げるのは、すなわち私たち自身の三因仏性(御書1207頁)を育むことになる、と言われています。

これはベラボウに難しい話である。紹介のページを開いてもほとんど理解できない。

釈に云はく「凡そ心有らん者は是正因の種なり。随聞一句は是了因の種なり。低頭挙手は是縁因の種なり」等云々。

この辺りが関係してくると思われるが、独力では絶対にわからないレベルだ。

小さいことに見えるかもしれませんが、大聖人様の仏法故に、御本尊様に毎日御給仕していく、華・香を供えていくことも、我が身の大きな功徳善根になる(御書1836頁)と思います。

なるほど、前掲御書とセットで拝すると何となく見えてくる話なのかもしれない。

法華経の意は一華一香の小善も法華経に帰すれば大善と成る。

いかがだろうか?

わたくしはこれを現役の活動会員たちに読んでもらいたいと思う。上掲のようなことは顕正会に居てはなかなか学べないはずである。大沢氏は人一倍の勉強家であるから特別なのかもしれないが、しかし、それにしてもである。顕正会ではすでに方向性に狂いが生じているために、信心の基本となるべきこれらのことがまったく学べない。いくら決戦場だとか御馬前などと叫んだところで、基本中の基本ができていなければ話にならないだろう。

さて、顕正新聞第1505号から一つだけ紹介して今日は終わりたい。

小学生の時、全盲の叔母を「実母」と知る

第十七女子部長(東北)の体験発表である。このような大幹部が体験発表をするのは珍しいことだが、なるほど、なかなか中身の濃い話である。実はわたくしも上掲の雰囲気に近いことを経験しており、それゆえに彼女の気持ちが物凄くよくわかるのだ。ただこれは説明が困難なのでこれ以上の言及は控えたい。ともかく実母は本年一月に亡くなった。以下は葬儀に関する記述である。

邪宗はその時々で変わるのに比べ、顕正会の葬儀はこの葬儀社が十数年間で携わった葬儀のすべてが同じであることに・・・

ようするに葬儀社の人が顕正会は凄いと言っていたのだそうである。

ただこれについて、わたくしは現役の活動会員たちに言いたいと思う。何しろ彼らは邪宗の葬儀には行かない、少なくとも邪宗の坊主とは同席しない、ということで具体的にはどんな葬儀が行なわれているか知らない場合が多いのである。

批判覚悟で白状すると、わたくしは以前からわりと他宗の葬儀にも参列していたし、今はなおさらその頻度が高くなっている。ゆえに知っているのだ。

邪宗はその時々で変わるというのは不正確で、例えば日蓮宗でも浄土真宗でも寺ごとにやり方が違っていたりするのだ。葬儀社はいちおう日蓮宗だとか真宗など有名な宗派であれば大まかなやり方は承知しているものの、寺院ごとのやり方だとか地域の風習みたいなものまではさすがに事細かには把握していない。その意味で顕正会式は全国統一だろうから、一度経験してしまえば苦労はない。それだけの話ではないかと思う。当然、葬儀社の人がお客さんを悪く言うはずがないので、顕正会さんは一貫してますね云々と、いわば無難な言い方をしただけの話なのだと思う。

ちなみに上述の中で地域の風習に触れたが、これについてはむしろ顕正会側がもっと研究しないといけないかもしれない。以前の記事で、火葬を先に済ませてしまうという話があった。これに儀礼室委員が異議を唱えた。確かそんな話だった。

結論的には、この場合は地元の葬儀社の人がいちばんよくわかっていて、逆に僧侶に対してアドバイスするようなケースがなきにしもあらずなのだと思う。

俗に因習が深いという話があるけれども、こうしたケースでは宗派横断的に同じような葬送儀礼が行なわれる。つまり、その地域におけるそれが標準なのであって、宗派のやり方よりも地域のそれが優先されるわけなのだ。

この辺はよく調べずに当てずっぽうで書いているわけだが、自分のこれまでの経験を踏まえて当たらずとも遠からずと思う。

言わずもがなのことだが、こうした点でも当然ながら正宗僧侶のほうが遥かに経験豊富だろう。


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