2020/7/6

リリク  
このところ教義の話題ばかりを書いてきたので、そろそろ顕正新聞の話題に戻りたいと思う。沖浦氏には不満かもしれないが、いずれまた書く機会もあるだろうから、それまでお待ちいただきたい。

ところで地区部長さんの話であるが、これはダイアリー氏の指摘がきわめて常識的であり、むしろ沖浦氏は己の軽卒を反省すべきである。

沖浦氏は実名で正々堂々と論陣を張って来た。この点は立派である。何しろ他の多くの創価学会員は匿名でしか書き込みをしない。そうした匿名の創価学会員たちが沖浦氏を攻撃してきたのも事実であり、たとえその原因が沖浦氏側にあったとしても、匿名と実名の戦いであれば実名の沖浦氏に幾分かは肩入れしたいという気持ちがわたくしにはあった。しかし、また同時に、言論の世界は言っていることが正しいか間違っているかが重要なのであって、沖浦氏がデタラメなことを言ってきたのも事実であり、この点はわたくしも厳しく追及してきたつもりである。

話が脱線してしまったようである。

ようするに地区部長さんは拙ブログにおいては匿名側の人間であって、いわば他の多くの創価学会員と同じ立場なのである。ここに沖浦氏の失策がある。沖浦氏はもともと実名であり何の差し障りもなく言いたいことが言える。しかし、地区部長さんは違うだろう。その立場を慮るならば、書いてはいけなかったのである。

おそらくはああ言えばこう言うで、何かしらの反論を言ってくるかもしれない。それはそれで結構である。なぜならば拙ブログは投稿制限を設けていないからである。しかし、その意味を拡大すれば、地区部長さん自らが拙ブログに投稿することも可能なのである。

いずれにしても、沖浦氏が自分自身のことを書くのは勝手であり、誰も文句は言えない。しかし、他人のことを書く場合にはそれがどのような作用を生むか、よく考えてから書くべきだろう。

さて、顕正新聞第1509号の続きである。

「新型コロナ」で医療崩壊、病院内は殺伐
  看護師が防護服の代わりに割烹着


第三十八女子部長(首都圏)の記事にはご覧の見出しがある。彼女自身は損保代理店に勤務しているそうであるが、どうやら組織の中に看護師がいるらしい。本文を確認すると、第二百八区長が都内の総合病院に勤めていると書かれている。そして見出しが示すごとく、防護服が足りずに割烹着を着ている。女子部長はそれを医療崩壊と書いている。

少し大袈裟な印象がある。

医療崩壊の定義を知っているわけではないが、わたくしのイメージでは感染者が加速度的に増えてしまって病床が足りなくなる状態を意味するのだと思う。離島であるとか過疎地においては急病人への対応が大変である。それこそヘリコプターを使って搬送することもある。ところが都内であれば救急車でわりとすぐに病院に運んでもらえる。実際にはコロナの問題が大きくなってからは受け入れ拒否=たらい回しのようなことが頻発していたらしいのだが、全体の病床数自体は余裕があったという。ようは院内感染の恐怖から、受け入れを渋る病院が少なくなかったのだろう。実際、院内感染が深刻な病院もあった。

先週あたりは都内で百人単位の新規感染者が続いた。いよいよ第二波が襲ってきたとの見方もあるわけだが、病床数には余裕がある感じである。現状、重症化する人が少ないことが幸いしているのだろう。

 先生は曽て
 「時が来れば、入信を願い出る人が会館に列をなしてやって来る」
 と仰せになりましたが・・・


婦人部千葉支区班長(千葉)はかつての浅井発言を紹介している。しかし、これが何年何月のどのような集会での発言なのか、そこは不明である。ゆえにわたくしの記憶をそのまま書いておこう。

浅井先生が言っていたのかどうか定かではないが、かつては幹部たちが口を揃えて上掲のようなことを言っていたのだ。時期的には百万以前だったろう。当時、よく使われていた譬えは、飛行機の離陸である。離陸の時にいちばんエネルギーを使うのだと。ゆえに百万までが大変なのであって、百万以後はラクチンであると。勝手にどんどん入信してくると。そして巨大地震だとか経済崩壊が起きれば、顕正会の言っていた通りになって来たことに皆が気づいて、会館には入信勤行の行列ができるようになるのだと、幹部たちは言っていたのだ。

しかし、現時点ではまったくその通りにはなっていない。

ちなみに今の顕正会では三百万が一つの合言葉になっている。わたくしから見れば騙されているに等しいだろう。なぜならば百万達成に向かう当時の顕正会と同じだからである。そして実際に起こったことは、百万達成を経験した当時の顕正会員の一定数が離脱してしまったという事実である。

あれ? おかしいぞ? 今まで言っていたことと違うのではないか?

ようはいつまで経っても楽にならなかった、活動会員たちはノルマに追われる日々から解放されず、その後もずっと使役し続けられているのである。

 その日は雪が降っていましたが、臨終からしばらく時間が経っていたにもかかわらず、救急隊員が「体温が三八度ある。電気毛布をかけていましたか?」と驚いて聞いてくるほど温かく、さらに検死の時には四〇度まで上がっており、検死医も驚いておりました。

あれ? わりと最近の記事で似たようなのがあったぞ?

男子部第百六十六隊班長(首都圏)の記事ではご覧のように父親の臨終を伝えている。気になって調べてみたら、なんと前号にもまったく同じ内容の記事が載っていたのである。それは女子部の総班長が発表しているもので、ようは夫婦なのだろう。班長の実父、総班長にとっては義父ということで、いちおうツジツマが合っているようだ。

ただ細かいことを言うと、前号の記事を読んだ時には、なかなか起きてこないので見に行ったら亡くなっていた、ということでてっきり朝の話だと思い込んでいた。しかし、今回の記事は違うのだ。朝は元気だった。ようは登壇者の実母がそれを確認しているわけである。その後、実母はどこかへ出掛けたわけなのだろう。そして帰宅したら夫が亡くなっていたという話なのだ。まあ、大した違いではないのかもしれないが、気になったのであえて書いた次第である。

女子部第百三十八区総班副長(神奈川)の記事には次のくだりがある。

 儀礼室委員が葬儀社が用意した煌びやかな椅子を丁重に断わり、「参列者と同じ椅子で」と言われた謙虚な姿勢と・・・

わたくしが思ったのは、いわゆる導師用のイスはいかにも謗法チックなので避けたのではないか、ということだ。実際、あらゆる宗派の僧侶がそのイスに座って葬儀を行なっているはずなので、顕正会的にはケガラワシイということになるのだと思う。だとすれば、いずれは顕正会専門の葬儀社みたいなものが作られるのかもしれない。いや、どうだろう、いわゆる創価学会専門の葬儀社が存在するのはそれだけ需要がある。つまり、創価学会が大きいから商売が成り立つわけである。しかし、顕正会の規模ではたぶん無理なのだろう。

2020/7/4

ダイショウソン  
前回、わたくしは沖浦氏に対して三つの問い掛けをした。本人は完璧に答えたつもりなのかもしれないが、おそらくは誰が見ても落第点だろう。

それはさておき、今度は大沢氏から間接的な宿題のようなものを出されてしまった。

沖浦さんから巌虎さん宛のコメントで、おそらく巌虎さんも言及されると思いますが、強いて一言申しあげます。

面倒臭いので言及は控えるつもりだった。

「2020/7/2 17:48
投稿者:沖浦克治

>この御書は文永8年11月です。
観心本尊抄は文永10年4月25日。
ご本尊ご図顕以前に。一大事の秘法(一大秘法)を
始めて日本で弘めたと仰せです。
ですから、曼荼羅本尊が一大秘法の当体にはなり得
ません。」

事実誤認ということだけ、申しあげておきます。
思い込みで色々言われても困りますが、御本人に自覚はないと思います。

基礎中の基礎を学んでいないことにより、数多あるネット情報の価値(正誤)も判断できず、肝心要の部分を間違えるのでは?


不勉強のわたくしには大沢氏の想定する正解がどのようなものか、さっぱりわからない。ともかく沖浦氏の書いている内容は事実誤認であり、基礎中の基礎が学べていないから正しい判断ができず、肝心要のところで間違えてしまうということらしい。

もしかしたら楊枝御本尊のことを言っているのかもしれない。

沖浦氏は得意になって時系列を云々している。しかし、それは楊枝御本尊の存在を忘失していることで破綻をきたしていることになるのだ。何しろ当該御本尊は文永八年十月九日にあらわされたものだからである。

天台・伝教は粗釈し給へども、之を弘め残せる一大事の秘法を、此の国に初めて之を弘む。日蓮豈其の人に非ずや。前相已に顕はれぬ。去ぬる正嘉の大地震は前代未聞の大瑞なり。

単純に言って、沖浦氏は「弘めた」と読んでいるが、これがすでにして間違いなのではないかと思う。むしろ、これから弘めるのだ、と読むか、今まさに弘めようとしている、と読むのが自然である。いつも言っているように、わたくしは文法がどうこうではなく、文脈的にそのように読めるのである。

さらに言っておくと、正嘉の大地震を前相であるとされている点に注目すべきだろう。

はたして沖浦氏に理解できるかどうかそこが問題だが、いちおう質問を投げ掛けておこうと思う。いわゆる時系列からすると、立宗宣言の後に正嘉の大地震が起きている。大聖人はこれを前相であると仰せられるのだ。ならば、本門の題目は一大秘法とはなり得ない。時系列的にはそのように理解する以外にないと思うのだが、いかがだろうか?

せっかくなので質問を続けよう。

 大覚世尊、仏眼を以て末法を鑑知し、此の逆・謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたまふ。

曾谷入道殿許御書に一大秘法の語が出てくる。沖浦氏の引用はこの段の後半ないし次の一段に相当するが、まずは前回の摂受折伏の議論に関連して質問しよう。上掲には逆・謗の二罪との仰せを拝することができる。しかもそれは釈尊が仏眼で鑑知したものだとされているのだ。現在は大聖人の時代から相当に下っているものの、今もなお時代区分は末法のはずである。それにもかかわらず、なぜに折伏ではなく摂受を主張するのだろうか?

但此の一大秘法を持して本処に隠居するの後・・・

沖浦氏引用の一節であるが、この直前には次のようなくだりがある。

其の所属の法は何物ぞや・・・
所謂妙法蓮華経の五字・・・


おそらく沖浦氏はこれをもって一大秘法は本門の題目であると言いたいわけなのだろう。

実は以前にも同様の議論があった。お忘れかもしれないが、その時の沖浦氏はかなり譲歩的な発言をしているのである。すなわち、一大秘法は本門の題目であると同時に本門の本尊でもある、と。

ともかく難しい議論であるから、わたくしも安易なことは書けない。

そこで次はわたくし自身も明快な答えを持ち合わせているわけではないことをお断わりした上で、沖浦氏にお聞きしたいと思う。

慧日大聖尊、仏眼を以て兼ねて之を鑑みたまふ。故に諸の大聖を捨棄し、此の四聖を召し出だして要法を伝へ、末法の弘通と定めたまふなり。

ここは既掲の一大秘法云々をやや切り口を変えて御指南あそばしているくだりである。ようは一大秘法を誰に譲るのかという問題において、四大菩薩への付嘱を格調高く表現あそばしているのだ。問題は次である。

 問うて曰く、要法の経文如何。答へて曰く、口伝を以て之を伝へん。

わたくしはこれがわからないのである。もし妙法蓮華経の五字であれば、そのように書けば済む話である。なぜそのように書かれなかったのか、そこが問題である。この点、沖浦氏の見解を伺いたいと思う。

なお、念のために言っておくが、わたくしはこれを直ちに法主直伝の口伝相承だと言いたいわけではない。むしろ雰囲気的には煩瑣になるので省略しているだけのように思える。いずれにしても簡単には書けないのだろう。つまり、単に妙法蓮華経の五字で片付く話ではないのだ。

2020/7/1

アマノジャク  
前回、大沢氏から質問が寄せられたわけだが、わたくしからの回答を期待しているとも思えないし、かつまた何を書いたところで納得してもらえるとも思えないので、この件は割愛させていただく。無難なことを言えば、これまでの拙稿、そしてこれからの拙稿をよくお読みいただくことで、何かしらの答えが見えてくるかもしれない、ということになるだろう。

さて、沖浦氏に引き続き申し上げたいことがある。

沖浦氏が各所の掲示板を出入り禁止になったことについて、あまりにもトンチンカンなことばかり言っているからだ、とわたくしは書いた。けれども本人はそう思っておらず、今意訳的にまとめれば、創価学会の公式見解よりも先行していた、それに他の創価学会員は付いてこれなかった、それで排除された、というようなことだった。しかし、それは創価学会系の掲示板についての話である。法華講員の運営する掲示板には当てはまらない。その辺の答えがまだ出ていないように思うのだが、どうだろうか?

ここでわたくしなりの推論を書いておこう。

沖浦氏は相手の言っていることを理解できない。だからトンチンカンな応答しかできない。もしくは相手の言っていることにストレートに応じると都合が悪くなるとわかっているので、わざとアマノジャクな応答をしている。常にそういう態度であるから、どこに行っても排除されてしまう。

いかがだろうか?

次は前述とほぼ同じことの繰り返しになるが、あえて書いておきたい。

沖浦氏は間違いを犯す。沖浦氏に限らず、人間誰しも間違いはある。問題はここからである。誰が見てもそれは間違いだろうという場面において、沖浦氏は自分の間違いにまったく気がつかない。だからトンチンカンな応答しかできない。もしくは間違いに気がついているけれども、それを認めてしまうと負けになるので気がつかないフリをしている。あるいはわざとアマノジャクな応答をして相手を煙に巻こうとしている。常にそういう態度なので、どこに行ってもアク禁を食らう。

いかがだろうか?

ここからは具体的な事案である。

 末代幼稚って、日興さんだけだ〜〜〜〜〜〜!!!

これについてわたくしは文証を求めた。その回答は実にトンチンカンなものだった。

しかし、もしかしたらわたくしの質問の仕方が悪かったのかもしれないので、ここで再質問したいと思う。

上掲は日蓮正宗の誰かの発言と思われる。ならばその出典を教えてほしい。ネット上であればリンクをご紹介願いたい。書籍であればその本の名前とページ数。

もし示せないとすれば、それは口頭での発言なのだろう。何かの折に法華講員が沖浦氏に向かって発言したのかもしれない。しかし、その場合はほぼ証拠能力ゼロである。よって拙ブログのコメント欄に書き込むこと自体が間違いである。なぜならばその人の個人的な見解に過ぎない可能性が高いからである。

この点について、沖浦氏の真摯な回答を期待したい。

 偽書説[編集]
身延相承は日付が9月13日になっているが、元祖化導記には9月8日に身延沢を出発したとあり13日にはすでに身延山に日蓮は居ないことになる。この日付のずれから二箇相承は偽書であるとの指摘がされている。


さて、次の事案であるが、上掲は沖浦氏がどこかから拾ってきた文章である。これについては大沢氏が一刀両断に処している。

>身延相承は日付が9月13日になっているが

なっていません。


この後、わずか数日の間にもかかわらず膨大なコメントの応酬が続くわけだが、この件に関する沖浦氏の返信はきわめてトンチンカンである。相手の言っていることを理解していないか、もしくは自分の間違いを認めたくないのでわざとアマノジャクな返答をしていることになるだろう。それ以外の可能性はまったく考えられない。

この点、沖浦氏に真摯な回答を求めたい。

 今摂受の時代と話しましたが、摂受は社会で尊敬される自分の姿を以て布教します。

これは新たな事案である。摂受か折伏かの議論は以前から繰り返されてきたわけだが、今回は上掲に続いて次の御書が引用されている点に注目したい。

 『一代の肝心は法華経法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ。』
 (崇峻天皇御書)


つまり、沖浦氏はこれを摂受の文証として引用していることになる。ならば、わたくしからは反証として次の御書を引用しておく。

邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす、常不軽品のごとし。

開目抄の御指南を単純化すれば、安楽行品=摂受、常不軽品=折伏、となることは異論のないところである。ならば崇峻天皇御書における人の振舞を摂受の文証とするのは、大聖人の御認識とは違うことになるだろう。

以上、具体的には三項目の質問となるが、沖浦氏からの真摯な回答を待ちたい。

なお、拙ブログは誰も排除しないことを伝統としてきた。ゆえに沖浦氏がこの先もトンチンカンないしアマノジャクなコメントばかりを書くとしても排除されることはないわけだが、しかし、このことは逆に考えないといけない。ようするにデタラメを書けば、それが永遠に残ってしまうのである。拙ブログには並の顕正会員は誰もコメントを寄こさない。法華講員もしかりであり、創価学会員も同じである。ぜんぶ残ってしまうからだ。

ゆえにここ数日のコメント欄での応酬についても思うのである。

なぜにもっと熟考してから投稿しないのかと。

拙稿は言うほどに熟考しているわけではないが、それでも一定以上のクオリティを維持できるように努力しているのは事実である。この点、すべてのコメント投稿者に期待するのは無理にしても、せめて投稿頻度の高い人は少し頻度を落として逆に内容を濃いものにするよう努力すべきである。


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