2020/7/1

アマノジャク  
前回、大沢氏から質問が寄せられたわけだが、わたくしからの回答を期待しているとも思えないし、かつまた何を書いたところで納得してもらえるとも思えないので、この件は割愛させていただく。無難なことを言えば、これまでの拙稿、そしてこれからの拙稿をよくお読みいただくことで、何かしらの答えが見えてくるかもしれない、ということになるだろう。

さて、沖浦氏に引き続き申し上げたいことがある。

沖浦氏が各所の掲示板を出入り禁止になったことについて、あまりにもトンチンカンなことばかり言っているからだ、とわたくしは書いた。けれども本人はそう思っておらず、今意訳的にまとめれば、創価学会の公式見解よりも先行していた、それに他の創価学会員は付いてこれなかった、それで排除された、というようなことだった。しかし、それは創価学会系の掲示板についての話である。法華講員の運営する掲示板には当てはまらない。その辺の答えがまだ出ていないように思うのだが、どうだろうか?

ここでわたくしなりの推論を書いておこう。

沖浦氏は相手の言っていることを理解できない。だからトンチンカンな応答しかできない。もしくは相手の言っていることにストレートに応じると都合が悪くなるとわかっているので、わざとアマノジャクな応答をしている。常にそういう態度であるから、どこに行っても排除されてしまう。

いかがだろうか?

次は前述とほぼ同じことの繰り返しになるが、あえて書いておきたい。

沖浦氏は間違いを犯す。沖浦氏に限らず、人間誰しも間違いはある。問題はここからである。誰が見てもそれは間違いだろうという場面において、沖浦氏は自分の間違いにまったく気がつかない。だからトンチンカンな応答しかできない。もしくは間違いに気がついているけれども、それを認めてしまうと負けになるので気がつかないフリをしている。あるいはわざとアマノジャクな応答をして相手を煙に巻こうとしている。常にそういう態度なので、どこに行ってもアク禁を食らう。

いかがだろうか?

ここからは具体的な事案である。

 末代幼稚って、日興さんだけだ〜〜〜〜〜〜!!!

これについてわたくしは文証を求めた。その回答は実にトンチンカンなものだった。

しかし、もしかしたらわたくしの質問の仕方が悪かったのかもしれないので、ここで再質問したいと思う。

上掲は日蓮正宗の誰かの発言と思われる。ならばその出典を教えてほしい。ネット上であればリンクをご紹介願いたい。書籍であればその本の名前とページ数。

もし示せないとすれば、それは口頭での発言なのだろう。何かの折に法華講員が沖浦氏に向かって発言したのかもしれない。しかし、その場合はほぼ証拠能力ゼロである。よって拙ブログのコメント欄に書き込むこと自体が間違いである。なぜならばその人の個人的な見解に過ぎない可能性が高いからである。

この点について、沖浦氏の真摯な回答を期待したい。

 偽書説[編集]
身延相承は日付が9月13日になっているが、元祖化導記には9月8日に身延沢を出発したとあり13日にはすでに身延山に日蓮は居ないことになる。この日付のずれから二箇相承は偽書であるとの指摘がされている。


さて、次の事案であるが、上掲は沖浦氏がどこかから拾ってきた文章である。これについては大沢氏が一刀両断に処している。

>身延相承は日付が9月13日になっているが

なっていません。


この後、わずか数日の間にもかかわらず膨大なコメントの応酬が続くわけだが、この件に関する沖浦氏の返信はきわめてトンチンカンである。相手の言っていることを理解していないか、もしくは自分の間違いを認めたくないのでわざとアマノジャクな返答をしていることになるだろう。それ以外の可能性はまったく考えられない。

この点、沖浦氏に真摯な回答を求めたい。

 今摂受の時代と話しましたが、摂受は社会で尊敬される自分の姿を以て布教します。

これは新たな事案である。摂受か折伏かの議論は以前から繰り返されてきたわけだが、今回は上掲に続いて次の御書が引用されている点に注目したい。

 『一代の肝心は法華経法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ。』
 (崇峻天皇御書)


つまり、沖浦氏はこれを摂受の文証として引用していることになる。ならば、わたくしからは反証として次の御書を引用しておく。

邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす、常不軽品のごとし。

開目抄の御指南を単純化すれば、安楽行品=摂受、常不軽品=折伏、となることは異論のないところである。ならば崇峻天皇御書における人の振舞を摂受の文証とするのは、大聖人の御認識とは違うことになるだろう。

以上、具体的には三項目の質問となるが、沖浦氏からの真摯な回答を待ちたい。

なお、拙ブログは誰も排除しないことを伝統としてきた。ゆえに沖浦氏がこの先もトンチンカンないしアマノジャクなコメントばかりを書くとしても排除されることはないわけだが、しかし、このことは逆に考えないといけない。ようするにデタラメを書けば、それが永遠に残ってしまうのである。拙ブログには並の顕正会員は誰もコメントを寄こさない。法華講員もしかりであり、創価学会員も同じである。ぜんぶ残ってしまうからだ。

ゆえにここ数日のコメント欄での応酬についても思うのである。

なぜにもっと熟考してから投稿しないのかと。

拙稿は言うほどに熟考しているわけではないが、それでも一定以上のクオリティを維持できるように努力しているのは事実である。この点、すべてのコメント投稿者に期待するのは無理にしても、せめて投稿頻度の高い人は少し頻度を落として逆に内容を濃いものにするよう努力すべきである。


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