2020/9/24

ヨナヨナ  
顕正新聞の続きを見て行こう。

三百万・五百万を急がれる浅井先生・・・

前回、会長講演を取り上げた。そこでは少し前まで盛んに言っていた五百万云々を反古にするかのごとく三百万のみを強調している点を指摘した。証拠は副総男子部長が述べている通りである。

もちろん前向きな変更ではある。五百万などと悠長なことは言っていられない。三百万で事を決するべきである。いわゆる前倒しというヤツだが、しかし、わたくしの印象はよくない。記憶力の低下でつい先日まで言っていたことをすっかり忘却してしまっている印象が拭えないのである。

さらにダメ押しをしておくと、前回も書いたようにその三百万すらも達成の時期が見通せずにいて、おそらくはそのためなのだろう、しかるべき時などとアイマイな言い方で誤魔化しているのである。

「令和二年七月豪雨」では、死者・行方不明七十七名・床上床下浸水等の住宅被害一万五千棟・・・

女子部第十総部長(九州)の記事である。備忘録の意味で取り上げた。ちなみに上掲は日本全国の被災状況ではなく、九州だけのカウントのようである。

大悪党・大謗法者・山崎正友を利用した・・・

第十五男子部長(四国)の発言である。基本、創価学会でも正友氏は悪者扱いになっているので、まさに踏んだり蹴ったりの状態である。少しは手加減したらと思うのだが、顕正会も余裕がないのだろう。

いよいよ巨大地震連発も眼前であれば・・・

わたくしの拙い人生経験からしても、これは完全に間違っていると言える。顕正会で活動していた人が離脱してしまう理由の一つが、誇張表現の多用によって過度の期待を懐いたものの現実的にはショボい結果しか得られずに落胆する、ということなのだと考えられる。前回も指摘したように、今が巨大地震連発の真っ只中なのである。先ほどの七月豪雨にしても別しては九州のとりわけ熊本が狙い撃ちされた格好である。その熊本において、震度七が連続で襲うという大地震が起きているのだ。つまり、実感を得られるかどうかは当事者か否かで違ってくるのであり、わたくしの居住地域は七月豪雨の被害がほとんどなかったし、今のところは大地震もない。ゆえに連発云々を実感しづらいだけなのであって、すでに連発しているのが現実である。

ゴチャゴチャと書いたが、過度の期待を懐いてもショボい結果しか得られなければガッカリするという、実に当たり前のことが顕正会の中では繰り返されているのだ。

第十六女子部幹事・第九十八区長(青森・アメリカ)

内容については書かない。カッコの中が気になったので取り上げさせていただいた。ようするに米軍の三沢基地を中心に組織が発展して、その中にはアメリカ人と結婚する人もいて、夫の帰国に伴なってアメリカに移住するケースもあるわけだ。だったら(沖縄・アメリカ)とか(横須賀・アメリカ)もありそうなものだが、現実にはどうなのだろうか?

 また我が物顔で高級車で乗り付け信徒を見下す傲慢な僧侶、また夜な夜な酒を買い求める僧侶や、集団で脱走する若い僧侶なども見たそうです。

男子部第十六隊支隊副長(長野)の記事である。この人は前にも取り上げたことがあるはずで、かつて顕正会員だったが宗門に移り、一昨年だかに再び顕正会に戻って来たという人物である。肩書きが副長となっているので、頑張っているのだろう。

ようは同じような境遇の人たちを顕正会に連れ戻すことをしているらしく、上掲はまさに顕正会から宗門に移って今また顕正会に戻ろうとしている人物の証言だそうである。

まず、高級車を乗り付け云々がわからない。あるいは葬儀などを意味するのだろうか?

通常、信徒は寺院に参詣する。するとそこでは僧侶が高級車を乗り付けるシーンは見られない。まさか住職が別のところに住んでいて寺院に通っているとは考えられないからだ。

次に、夜な夜な酒を買い求める僧侶だが、ここは悪意の感じられる記述である。僧侶は酒を買っちゃいけないのだろうか?

わたくしの想像するに、僧侶だってまさか四六時中、袈裟衣を纏っているわけではないだろう。夜な夜なと書いてあることからするとコンビニでの買い物と思われるが、おそらくは袈裟衣を脱いでのことと思われる。それならば、さして問題はあるまい。

最後が問題である。集団脱走を目撃した?

おそらくは総本山のことなのだろう。末寺に集団脱走するほどの人数がいるとは思えない。とは言え、本山であってもその情景を思い浮かべるのは難しい。例えば刑務所みたいなところで、高い塀を乗り越えているシーンを見れば、それは脱走だとわかる。では本山での脱走とはどのような光景なのだろうか?

わたくしの見聞では、フェイクだったかどうか知らないが、いわゆる創価学会系の謀略情報紙にそのような記事が出ていたような記憶がある。つまり、集団脱走が事実だとしても、それを目撃するのはきわめて確率の低いことであって、その意味で今回の記事はかなりアヤシイと感じられるのである。

いずれにしても副長ではなく、本人の登壇が待たれるところである。当然、宗門に居た人物であれば法華講の諸氏も見ればすぐにわかるだろう。すると、ウソもすぐにバレる。

最後に余計なことを書いて終わりたい。

僧侶が運転する高級車とはどんなものか知らないが、いわゆる世間でお金持ちの人たちが乗るような車だとすると、わたくしのような大衆車しか縁のない人間には羨ましい限りである。これは法華講員にしても同じ心理のはずなので、僧侶としても少し配慮すべきかもしれない。例えばセカンドカーを用意しておくのだ。それは誰からも顰蹙を買わないようなグレードの車にすればいい。仮に葬儀だとか法事の時に自分で運転する場合には、そちらの車で行けばいいのである。ただこれはわたくしの勝手な想像で書いていることであって、普通は呼ぶ側がお迎えの車を用意するはずなので、最初に書いたごとく、乗り付けるシーンがなかなか想像できないのである。

2020/9/21

イッケツ  
ダイアリー氏は経済問題に造詣が深い。ゆえに前回は株価の話題についてコメントを残されているわけだが、じゃっかん議論が噛み合っていないようなので、改めて書いておきたい。

本年三月十九日、日経平均は一万六千円台の最安値を示した。一月から二月あたりは二万三千円台をキープしていたわけだから、まさに大暴落である。当然、コロナがマイナス要因と考えられる。ところがである。その後、V字回復と言ってもウソにならないくらいの復調を見せ、今は以前とほぼ同水準まで回復しているのである。コロナが原因であれば、第二波とされる七月から八月の時期にも株価が下がっていなければツジツマが合わないのだが、実際にはそれほど下がっていない。そこがよくわからないところである。ちなみに安倍首相の退陣表明だとか菅政権の誕生も、マクロ的には株価に影響を与えていない。経済オンチのわたくしには、まるで理解できない。それが株の世界である。実際、株で失敗している人がたくさんいるらしいので、簡単ではないのだろう。

さて、顕正新聞第1517号である。

「顕正会こそ諫臣・争子」特集号

近年はこれが恒例になっている。誰が書いているのか知らないが、いずれはネタ切れになるだろう。

第三青年会館の鉄骨 組み上がる!

写真を見ると、確かに立派な建物である。

「本部会館」の各館位置図

地図が載っていて、本部棟を中心とした建物の位置関係がよくわかる。以前、似たような地図が掲載されたことがあって、その時には配置図と書かれていた。まるで伽藍の配置を云々しているみたいではないかとツッコミを入れた記憶がある。

それはさておき、会長講演である。

七月度総幹部会の会長講演であるから、当然ながら折伏成果のことにも言及している。しかし、今のわたくしは数字にはあまり関心がない。むしろ数字にコダワルのであれば三百万をいつまでに実現するのか、それを明示すべきだろうと思う。もっとも活動会員たちが苦しむだけなので、今のような感じでダラダラとやるのがベストではあるのだが・・・

また地を走る獣は、絶え間なく餌をほしがる子に責められて、少しも休むことなく餌を探し求めている。

御書の口語訳、正確には直訳ではなく意訳なのだろう。しかし、どうかと思うところである。基本、地を走る獣とは哺乳類だと思われるが、浅井先生がどのような動物を想定しているのか、わたくしにはまったくわからない。人間は乳離れしてから成人するまでが長い。ところが動物は乳離れイコール独り立ちなのである。ニートみたいな野生動物はあり得ない。

 この急死を見て、池田大作は阿部日顕を擁立して第六七世貫首として登座せしめた。

何度も言っているが、そんなことはできない。もし可能ならば平成二年末からの大抗争においても、日顕上人を追い落として自分の傀儡を擁立すればよかったのである。

 池田大作は平成二十六年十一月七日に、第六代会長・原田稔をして「弘安二年の御本尊は受持の対象にはしない」と言わしめ・・・

ここも疑問である。現執行部が勝手にやっているという説も有力であって、先年のいわゆる戦争法案と呼ばれるものに公明党が賛成した時にも、異を唱える創価学会員がたくさんいたのと同じ理屈である。池田先生はご病気であって重要な判断ができない。それをいいことに、現執行部は傍若無人を働いているのだと。

まさに巨大地震の連発はもう間もなく始まらんとしている。

これもおかしな主張である。すでに始まっていると言うのならば、まだしもだ。

浅井先生の描いている世界は、どのような恐怖映画よりも恐ろしい。極端な話、毎日のように巨大地震が連発する時代を想定しているかのごとくなのである。マクロ的には十年に一回でも震度七クラスの地震があれば連発と言えるわけで、現実にはここ十年間、もっと高頻度で襲ってきているのである。

 私は、二〇年代のしかるべき時に、第三回目の一国諫暁の書を著わし、大聖人様に応え奉らんと決意しております。このとき顕正会の大総会を開催し、全顕正会の熱誠を以て大規模なる諫暁の戦いを起こしたい。

久々の重大発表である。続きもご覧に入れたい。

 大聖人様に忠誠を貫く仏弟子三百万が一結すれば、日本国は必ず動き、大聖人様の大恩徳は一国に輝く。

やる前から水を差すようで恐縮だが、どうかと思うところである。

まず、少し前まで言っていたこととの整合性が問題である。すなわち三百万・五百万云々である。上掲は五百万を反古にする発言である。イヤミながら顕正会は下方修正が多い。ところがここでは上方修正を行なっている。つまり、五百万では間に合わない、三百万で事を決するべきである、という前倒しを宣言しているわけなのだ。もちろん実現すれば大したものである。

また、細かいことを言うと、いかにもアイマイな発言である。浅井論法と命名すべきかもしれない。

しかるべき時に・・・

再掲であるが、ここが問題である。なぜならば次も再掲であるが、わざわざ改行している点がいかにもアヤシイところなのである。

三百万が一結すれば・・・

さらには末文も紹介しておこう。

 さあ、いよいよ三百万をめざして・・・

ようするに、しかるべき時とは三百万達成の時と読めるわけだが、だったら最初から三百万の時と書けばいいのである。

では、なぜにそのように書かなかったのか、そこが問題である。

わたくしの感触では、今の段階では三百万がいつ頃までに達成できるかも見通せずにいるわけで、ヘタすると二十年代のうちに達成できないかもしれないので、さすがに断言できなかったのだろうと思うのだ。

客観的には達成できたとしてもギリギリだろう。ゆえに三百万を待たずに実行するかもしれないという、その余地を残したのが今回の発言だと考えられる。いわゆる客観情勢がその必要を迫るならば・・・というヤツである。

まあ、しかし、いつまでも同じことの繰り返しである。諫暁書の発想もそうだし、大総会もそうである。

実は古くからの幹部会員たちがそれをいちばんよくわかっているのだろう。

2020/9/17

ケイモウ  
今日は顕正新聞第1516号を取り上げていく。

コロナ急拡大の中、大洪水列島を襲う

一面の大見出しである。続いて写真が七枚掲載されている。すべて新聞社ないし通信社から提供を受けた写真である。甚だ不謹慎なことを言うが、当該号の目玉はこれらの写真であり、二面以降は退屈な登壇記事の羅列に過ぎない。

大師子吼

まず、二面をざっと眺めると、副総男子部長が二人登壇していて、いずれも大師子吼と書いている。続いて三面では、婦人部第四総部長(首都圏)が大師子吼と言っている。

ところが四面では、女子部幹部四人が登壇しているものの、そのうちの一人も大師子吼とは書いていない。このところ繰り返し言っているように、女子部がいちばんマトモである。

さて、五面である。

宮城の草分けの祖母が美事な臨終

男子部第百六十七隊長(首都圏)の名前を見て、この人は顕正会の会館を設計している人の子息なのだろうと思った。彼の祖母は昭和三十八年からの妙信講員らしく、このたび八十六歳で亡くなったという。この後、母親が別の号で同趣旨の登壇をしているので、またその時にでも取り上げたいと思う。

「国家破産はあり得ない」と慢心の壮年

男子部第七十八隊支隊長(首都圏)は法務部次長でもある。こうして支隊長の立場で活動報告をしている点が悩ましい。

経済オンチのわたくしには何とも言えない話であるが、素朴な疑問は株価である。コロナの問題が始まってから株価が大きく下がった。ところがしばらくして元に戻ってしまったのだ。今現在はコロナ前とほぼ同じ水準を保っている。この点の説明がほしいところである。

 私の祖母は戸田会長時代からの創価学会員で、・・・座談会、選挙活動、新聞啓蒙に人生をかけ切っておりました。

婦人部吹田支区班長(大阪)の登壇である。面倒臭くなったので、六面七面をすっ飛ばして、これが八面の最後の記事である。

座談会は一般的にも通用する言葉である。選挙活動も同様だ。ところが新聞啓蒙はどうだろうか?

顕正会ではこれを購読推進と言っている。極めてストレートだ。世間一般の言い方だと、新聞勧誘が普通と思われる。それを創価学会では新聞啓蒙と呼ぶ。完全なる創価学会用語である。

今は個人経営の飲食店が少なくなった。つまりはチェーン店ばかりである。ゆえに目にする機会も少ないわけだが、かつては個人の飲食店によく聖教新聞が置かれていたものである。店主に創価学会員なのかと問うと、いや、違うと言う。付き合いで取っているだけだと。そうした飲食店はサービスの一環として、主な新聞雑誌を一通り揃えていたりする。今とは違って携帯端末のない時代には、それが集客の必要アイテムだったのだ。聖教新聞にどれだけのゴリヤクが期待できるのか定かではないが、少なくとも創価学会員は聖教新聞を置いていない店より置いている店を選ぶだろう。

本来、新聞啓蒙の意味は、新聞を通して創価学会への理解を広げよう、というような感じだったはずである。ところが今はどうなのだろうか、啓蒙の意味を忘失してしまって、単なる新聞勧誘のノルマと化しているのではあるまいか?

これは失礼。余計なお世話だった。

2020/9/16

カイチュウ  
晃氏の問題意識は貴重である。しかしながら前回分のコメント欄はすでに投稿数が膨大を極め、議論も流動的になってしまって最初の頃の重要な視点論点が埋没してしまっている。そこでわたくしなりの見解を書いておこうと思う。

いわゆる種脱相対は秘奥の法門であり、生半可な教学では立ち入れない領域である。

たぶん日蓮正宗でも顕正会でも過程をすっ飛ばして結論だけを学んでいる人が多くいると思う。そういう人が日蓮宗系の論客と法論すれば苦戦を強いられることになる。

そこでズルいようだがわたくしの結論は、ことさらに大聖人と釈尊の勝劣を云々しない、あくまで大曼荼羅信仰に収斂させる、ということになる。

一尊四士の人たちはこれで退けることができる。一塔両尊四士の人たちには、そんなものを造立するよりも大聖人のあらわされた御曼荼羅を拝んじゃったほうが早いでしょうに、と申し上げる。すると数多の御真筆御本尊の中でどれを選ぶべきかの問題になるが、わたくしの個人的な意見としてはどれでもいいと思う。

ここで顕正会からは除名が確実であるし、日蓮正宗からも敬遠されることになるのかもしれない。

しかし、よく考えてみれば釈尊像だとかその他のわけのわからない仏像を拝むのではなく、大聖人の御真筆御本尊を拝んでいる時点で、その人の信仰心は相当のものなのだ。

唯一、問題となるのが戒壇の大御本尊に対抗するために他の御真筆御本尊を持ち出すヤカラだちであり、それこそまさしく邪智謗法のヤカラと言わざるを得ないだろう。

話を戻そう。

大聖人と釈尊の勝劣には触れないと書いたのは、すでに大聖人の御真筆御本尊を拝んでいる時点で一定の結論が出ているからでもある。法華の深意として、古今能所不二という法門がある。つまり、釈尊と上行は師弟関係にあるわけだが、それが真逆になっても少しもおかしくないのだ。御本尊の相貌を相撲の番付になぞらえると、釈迦多宝が二横綱であり、四菩薩はさながら四大関となる。横綱と大関の序列は言わずもがなである。ところが一方で、主題の直下に日蓮在御判とあって、これが人法体一を意味するものとされている。

つまり、見る角度によって見え方が異なる。ゆえに、さまざまの意見が出てくる。そこでゴチャゴチャと難しい話をするのではなく、ズバッと大曼荼羅信仰に収斂させる。これで話は決着がつく。

晃氏の久遠実成と久遠元初についての視点は、なかなかの鋭さである。また無始無終もしかりである。

ただし、これは運用上の問題ではなく、概念上の議論に過ぎない。ゆえに大曼荼羅信仰という結論が確定している人にとってはどうでもいい話である。

つまり、マニアックな議論である。もちろん、この手の議論が好きな人にとっては、知的好奇心をくすぐる絶好のテーマと言えるだろう。

わたくしの知るところでは、釈尊と大聖人との関係性ではなく、法華経と大日経の関係性すなわち勝劣が、重要な論点なのだと思う。

随他の本門、随自の本門

今此三界合文に引用されている懐中という謎の文献には、上掲のような分類がある。通常、権実相対の上から言えば、法華経を随自意とし、爾前経を随他意とする。本迹相対でそのような言い方をするかどうか知らないが、あえて当てはめれば本門が随自意で迹門は随他意となる。ここまではいちおう異論のないところである。

ところが懐中では、まるで種脱相対のような立て分けが行なわれているのだ。

とは言え、当該御書には大聖人と釈尊の関係性を云々するところはどこにも存在しないし、それを匂わすような記述も存在しない。むしろ雰囲気的には釈尊と大日如来の勝劣を云々していると読めるのだ。

ご存知のごとく、大聖人の真言批判は御化導の初期にはあまり見られず、後期になるほど顕著となる。ところが後期における真言批判には懐中の引用が見られない。この点をどのように考えるべきかが悩ましい。

現時点でのわたくしの結論は、概念上の批判ではなく具体的な事例を示しての真言批判、これが大聖人の採られた戦略なのだろうと思う。

慣れないことを書いて疲れた。

2020/9/14

オジ  
相変わらず熱心な投稿が続いているが、ここでは晃氏の広宣流布観について軽く触れておこう。氏は法華経を根拠にして、すでに広宣流布は達成されているかのごとく言っている。

婦人部第六総部長(首都圏)の記事を紹介しよう。

近き広宣流布を見つめ・・・

つまり、晃氏の主張は宗門とも相容れないし、顕正会とも違っている。いったいそこに何の意味があるのか、もしくは何の目的があるのか、それが問題である。単に逆張りが好きなだけならば、それで話は終わる。変わった人なのだと、そういうレッテルを貼られて片付けられてしまうからだ。

さて、ここからはいつもの顕正新聞紹介である。

わたくしの認識は現実世界を踏まえてのことなので、法華経にどのようなことが書かれていても現実に当てはめてどうかを考えるし、同様の意味で上掲のような発言に対しても現実的にどうかを考える。個人の主観として近いと思うのは勝手だが、客観的にはぜんぜん近くないと言わざるを得ないだろう。まして顕正会の場合、過去の大言壮語を反古にして、上掲のようなことを言っているから問題なのである。

次は女子部第七十一区総班長(首都圏)である。

私の叔父である静岡県富士市の龍泉寺・本間道亨住職・・・

名古屋市の末寺住職の叔父・・・

埼玉県上尾市の法華講員の叔父・・・

末寺住職だった祖父の弟・・・


凄い環境である。記述の範囲で言えることは、登壇者の父親は四人兄弟の長男となるのかもしれない。また、祖父が末寺住職だったのか、祖父の弟が末寺住職だったのか、少し判然としないところがあるものの、一族が悉く日蓮正宗の僧侶ないし信徒であることが読み取れる記事である。その中で顕正会員として活動している点が凄まじい。

男子部第百七十六隊長(山梨)は、宗門の塔婆供養を批判している。

塔婆の本数については、盂蘭盆御書の「上七代、下七代」との御金言を切り文し・・・

これは山梨県の宗門末寺・正光寺の法華講員が言っていた話らしい。しかし、切り文云々は隊長殿の発言であるからして、具体的にはどこがどのように問題なのか、しっかりとした見解を示すべきだろう。

 そこに、浅井先生の「塔婆・戒名は不要」との曽ての指導が思い起こされ・・・

このくだりも短絡的である。ようするに宗門は塔婆や戒名で金儲けをしているが、顕正会ではそんなことはしないと言っているわけなのだろう。問題はそこではないのだ。かつて浅井先生がそれらを不要と言ったことの是非である。わたくしの記憶では教学的な説明がほとんどなされなかった。むしろ上述のような金儲けの話を持ち出して誤魔化している印象が拭えなかった。よって今後も独立教団路線を続けるつもりならば、それなりの教学的な説明が必要だろうと思う。

昭恵夫人は下関市の公明党のトップに現金を渡して・・・

女子部第百三十一区総班長(山口)の爆弾発言である。

どこかの週刊誌から拾ってきたネタであれば大して興味も湧かないが、どうやら地元の市会議員からの直接的な証言のようである。さて、どうなることか、もし出るところに出たら大変なことになるはずである。くだんの市会議員にしても政治生命が危うくなるかもしれないのだ。顕正新聞の編集部はそこまでの事態を承知した上で掲載しているのだろうか?

私が導師を勤め、葬儀を執り行うことになったのでした。

男子部第四十四隊支隊長(岩手)は、母の葬儀をご覧のように執り行なったそうである。近年はこうしたケースが目立つ。しかも役職がどんどん下がっている。

当該号の後半、六本の記事のうち五本が臨終についてだった。残りの一本はかつて婦人部の重鎮だった人の登壇記事であり、顕正会始まって以来だろうか、マスクをしたままの写真が掲載されている。ようはマスクのまま登壇したのだろう。特に個人的な面識はないものの、ああ、今も頑張っているのかと、しばし感慨に耽った。

2020/9/12

ハカダンカ  
沖浦氏が講義らしきものを掲載している。あれは自分で考えて書いているのだろうか? もしそうだとしたら大したものである。もちろん教学的には異論のあるところだが、ともかく独力で講義ができれば相当の水準に達していると言えるだろう。何しろわたくし自身はまだそのレベルに達していないからである。

さて、顕正新聞の続きである。

女子部の組織系統がよくわからなくなっている。このところの顕正新聞には副総合女子部長の肩書きが出てこない。その代わりに女子部副部長が出てくる。副総合は廃止されたのだろうか?

必ずや御在世のごとく第二波・第三波が起こり・・・

女子部第十五総部長(中部)の発言である。六月二十七日時点でこれが言えたのは凄い。ご存知のごとく、七月に入ってから感染が拡大したからである。いちおう国内ではそれが第二波に相当するわけだが、問題はこれからである。今はまた少し落ち着きを取り戻しつつあるものの、この先はわからない。秋から冬に向かって今までとは比較にならない大波がやってくるかもしれないのだ。

次は婦人部である。

正系門家から大事の御遺命は完全に消滅したとき・・・

総合婦人部長もいよいよ衰えてきたようだ。上掲、「御遺命は」ではなく、「御遺命が」ではないかと思うのだが、いかがだろうか?

大師子吼ばっかり言っているから、こうなるのだ。

次は副総合婦人部長である。

決戦場到達と同時に「禁をとかれた」大聖人様のお申し付けに諸天が忽ちに動くさまを直接体感しつつ・・・

一般人が読んでもわけのわからない文章だが、顕正会でそれなりに教学を学んだ人ならばよくわかる話ではある。ただし、問題がある。前にも書いたはずだが、ではなぜに日本は比較的に感染者数ないし死亡者数が少ないのか、である。厳密にはアジア圏でいちばん悪い数字を出しているのが日本なのだが、それでも世界全体で見ればもっとヒドイところがたくさんある。現状、アメリカが最悪の状況であり、インドやブラジルも相当に深刻である。この点、どのように説明するのか、ぜひとも聞いてみたいものである。

婦人部第八総部長(首都圏・中部・近畿)の記事も拾っておこう。

いよいよ浅井先生が最終段階の諫暁を開始される序章・・・

毎回、同じツッコミを繰り返しているが、ご容赦願いたい。最終段階の初出は未確認であるものの、少なくとも平成十六年の頃には言っていただろう。いや、平成九年の頃にも言っていたかもしれない。つまり、平成九年ないし十六年の一国諫暁は最終段階ではなかった、けれども盛んに最終段階を云々していた、早い話がウソを言っていたのだ。

先生のご存在こそ「大善来たる」の瑞相・・・

同じ人物の発言である。まったく何を言っておるものかと思う。

総幹部会のネット配信に歓喜爆発

第五婦人部長(青森)の記事に付された見出しである。本文もご覧に入れたい。

今は動画配信によって時間や場所の制限なく足を運び・・・

気づけば五月度総幹部会の動画配信において、過去最高の五五二名の同志と拝聴が叶っており・・・

上段の意味は、おそらくタブレットのようなものを携行して、訪問先で視聴するわけなのだろう。下段はその成果として過去最高の視聴数を記録したと言っているわけである。

難しいところである。

いわゆるビデオ放映で同数が参加するのと動画配信によるそれとでは意味合いが異なる。わざわざ会館に足を運ぶという行為が尊いわけで、その意味からすると数字の価値がぜんぜん異なるのだ。ただ時代に即応している意味ではこれもアリなのだろう。よって、くだんの組織においては五百五十二名を起点にして、今後どれだけ数字を伸ばせるかが問われることになる。

ところでこの動画配信は一般人も視聴できるのだろうか?

例えばYouTubeであれば視聴回数だとか高評価・低評価の数、あるいはコメントなども自由に投稿できるはずなので、今現在の顕正会の概況がわかるようになる。ある意味、実態がバレバレということにもなるだろう。二百万を標榜していても視聴数が十万にも満たなければ、それが実数を物語ることになるのだ。しかもそれが一般人をも含めた数字だとすれば、ますます実働会員の少なさを露呈することになる。

 また、上行寺・本源寺および妙教寺周辺の住民は、ただの墓檀家であり・・・

婦人部登米支区部長(東北)の記事である。話が脱線して恐縮であるが、しばしばダイアリー氏が紹介しているリンク記事には、創価学会の主力だった世代が高齢化して次々に亡くなり、活動力が低下している意味のことが書かれている。唐突ながらも墓檀家の話と通ずるところがあるように思った次第である。

創価学会の三世四世みたいな人たちは、まさに墓檀家化しつつあるわけなのだろう。まさに顕正会もしかりである。ここ数年、繰り返し書いていることだが、以前に比べると顕正新聞に登場する人たちの年齢層が上がっている。若い人たちが育っていないのだ。今後、顕正会も墓檀家化が急速に進むかもしれない。

ただし、厳密には違う。

ようするに伝統宗教と新興宗教ではまるで事情が異なるのだ。伝統宗教の場合は何のコダワリもなくご先祖様の宗教として受け継いでいく。信仰心はなくてもである。ところが新興宗教の場合は受け継がれないのだ。つまりは自然消滅である。今の段階ではなかなか想像がつかないものの、創価学会と顕正会は似たような末路を辿るのかもしれない。

それにしてもなかなか片付かない。顕正新聞一号一投稿にしないとダメかもしれない。

2020/9/11

グコウ  
各氏の旺盛なる執筆力には恐れ入るばかりである。もはやこうなると面倒臭くなって話を端折ってしまうのがわたくしのやり方であるが、今回もそうさせていただく。

晃氏のクローンを例にしての説明はけっこう説得力を感じる。ただし、それが顕正会を擁護することにはならないし、問題はそれよりもずっと手前に存在するのだ。

ようするに未だ顕正会は本尊複製を認めていない。

つまり、晃氏の主張は時期尚早であり、今の段階では意味がないのである。顕正会が公式に本尊複製を認めた段階で、ようやく議論の俎上に載ってくる話なのである。

これを逆に言うと、すでに顕正会の本尊複製は周知の事実であり、公式には認めていないものの、すでに既成事実化していることになるのかもしれない。だからこそ、当然のように議論が進められているのかもしれない。

とは言え、この段階でわたくしが言えることは、もし顕正会の本尊複製が事実ならば浅井先生はずっとウソをつき続けていることになる、こんなウソつきの言うことが信じられるのか、広布最終段階だの決戦場だの御馬前だの、そんなものはぜんぶウソなのではあるまいか、ということである。クローン云々は重要な議論だけれども、問題はその遥か手前にあるのだ。

さて、その他のコメントについては割愛させていただいて、顕正新聞の話題を取り上げて行こう。

広布の基盤たる二百万を一年も前倒しで成し遂げられ・・・

精密を極める先生の逆算の戦い・・・


総男子部長のこの発言もウソつきの典型である。過去の浅井発言を知らぬはずがない。もし精密が事実ならばすでに広宣流布は達成されているはずだし、逆に達成されない時には人類が滅亡していなければおかしいのだ。ゆえに精密ではない。かなりアバウトである。

新型コロナを前に学会・宗門がすべての活動を中止している愚行を見るにつけ・・・

副総男子部長の発言である。それにしても愚行は言い過ぎだろう。例えば風邪をひいた時、休むのは愚行だろうか? いわば今は日本ないし世界全体が風邪をひいている状態であり、無理をして重症化させるのではなく完全に治すという方針を多くの国が示しているわけである。もちろんコロナは大した病気ではないという意見もあって、無用な自粛が経済を疲弊させることのほうが恐ろしいと主張する人たちがいるのも事実である。人類の歴史の中でこうした感染症との戦いは何度も経験してきたことではあるものの、今回のような地球規模のそれは滅多にあることではない。ゆえに何が正解であるか、よくわかっていないのも事実なのである。よって創価学会や宗門の方針を愚行などと決め付けるのは相変わらず顕正会らしいとは思うものの、もし逆に顕正会の中で集団感染でも起きてしまったらどうするのかと心配になるくらいである。

大事な御相承がなされず阿部日顕が偽貫首になったこと・・・

顕正会の本尊はニセ本尊だ。法華講員の中でも武闘派と思しき人たちが言っていることである。顕正会側としてはヤブヘビを恐れてこの問題にはあまり触れたくないのだろう。とは言え、言われっ放しはツラいので、意趣返しをしたい。それが上掲にあらわれているのだと思う。

男子部第十総部長(首都圏)が面白いことを言っている。

いよいよ本当の最終段階の時が近づいている・・・

拙ブログでは何度も指摘してきたことである。最終段階をいつから使い始めたのか、その初出を明確には知らないが、もう二十年も前から言い続けているのは間違いあるまい。つまり、彼は今までの最終段階は本当の最終段階ではなかったと言っているわけであり、これから本当の最終段階が到来すると言っているのである。イジワルなようだが、重要なツッコミどころである。極論すれば、今まで顕正会で言ってきた最終段階はウソの最終段階だった、浅井先生はウソを言い続けてきた、となるだろう。

男子部第百五十四隊長(近畿)の発言も拾っておく。

 同時に、平成十六年、百万法城を背景とした一国諫暁の際の先生の大師子吼が胸に蘇ってまいりました。

もはや話の内容はどうでもいいのである。大師子吼が問題なのである。

ちなみに次のページには女子部の大幹部四人が記事を載せているが、そこには大師子吼の表記が一つもない。その次のページは婦人部の大幹部四人である。ここは驚くべきことに四人中三人が大師子吼と書いている。

彼らは浅井教を目指しているのだろうか?

たぶん元凶は浅井先生本人なのだろう。ようするに先生が黙認してしまっているからいけないのである。ハッキリと大師子吼は使うなと言えばいいのである。まさか先生の言い付けを守らずに使い続ける人はおるまい。実に簡単な話である。これを逆に言えば、先生がそれを好んでいる、言われて気持ちよくなっている、ということなのかもしれない。教祖たるゆえんである。

相変わらず顕正新聞が溜まって困る。ツッコミどころ満載だからである。

2020/9/7

キョウジュン  
沖浦氏の学無学を例にしての説明はなるほどそうなのかもしれないが、大聖人の仏法を信仰するという大前提からすれば説得力に欠けると思う。なぜならば常に原点は大聖人に存するからである。つまり、もし仮に折伏の意味内容が時代によって変遷することがあったとしても、必ず原点回帰が行なわれるのである。創価学会だって御書根本を掲げているわけである。だったら大聖人の仰せを捻じ曲げることはできない。

大沢氏から一度に大量のコメントを頂戴した。わたくしとしてはすべてに応じたいところだが、現実的には難しい。そこで一つだけに絞って申し上げたい。

浅井会長没後の顕正会は、二つの方向性しかないと思います。
脱大石寺か、逆に御宗門との和解に振れるか。


通常、他人様の亡くなった後のことを云々するのは不謹慎とされるわけだが、浅井先生は当てはまらないだろう。ようは一般人の範疇を超越しているからである。そこでわたくしも先生亡き後について書いてみたい。

わたくしの思うに、二つの方向性以前の問題として総男子部長に顕正会を統率するだけの力量があるのか、実はそこが大問題なのである。これはたぶん本人も自覚しているだろうし、周囲の幹部たちも心配していることではないかと思う。

顕正会に限らずあらゆる組織に言えることだが、通常、幹部たちは実力があるから幹部なのである。多くは自分の実力でその地位を獲得してきたわけである。ところが総男子部長の場合はかなり事情が異なる。いわゆる親の七光りで幹部になったと思われている。周りからそのように思われているフシがあるのだ。

ゆえにこれが先生亡き後、どのように作用するかが問題なのである。

もちろん総男子部長が会長を継いでもいいと思っている人たちもいるだろう。そういう人たちが心配しているわけである。彼で大丈夫だろうかと。

逆に実力でのし上がってきた人たちの中には、オレがオレが、と思っている人も少なくないはずなのだ。今は恭順を装っていても、先生亡き後はわからない。豹変する可能性は否定できないだろう。

このように考えると、二つの方向性を選択する以前に、大混乱に陥って崩壊することも考えられる。

また、それとは少し違う角度から書くと、先生が亡くなったと同時に大量脱会が起きる。

なぜならば、顕正会員は浅井先生と共に四キロの道のりを歩くことを夢見ているのであって、それはかなり無理な話であるとは承知しつつもその夢にしがみ付いている、という現実があるからである。つまり、広宣流布が達成されることなく先生が亡くなれば、その時点でゲームセットとなる。

以上、わたくしの視点がどこまで的を射ているかはわからないが、ある意味では大沢氏の指摘する、教祖のカリスマ性に依存、という部分に通ずる話であろうと思う。

拙ブログでは宗門と顕正会の和解を繰り返し提唱してきた。今のうちにやっておくべき最重要課題であり、おそらく今やらないと永遠にできないだろう。これが浅井先生に残された最大の責務である。

さて、いつものごとく顕正新聞の話題を・・・と思ったが、やめておこう。

上述の話を続けたくなった。

脱大石寺

前々回、独立教団路線と書いた。意味的にはほぼイコールと考えられるが、委細には異なる。もし仮に和解が実現すると、顕正会は日蓮正宗の傘下に入ることになる。かつての妙信講とまったく同じではないにしても、日蓮正宗の信徒団体という位置付けになるわけで、まさか対等合併のようなことにはならないはずである。今は教義上の対立があるので話は簡単ではないが、もしそれが解消されたとしても傘下には入りたくない。何しろ浅井先生はややもすれば大聖人よりも偉い存在だからである。いわんや猊下よりも下のわけがないのだ。ゆえに和解はしたくない。

ところがご存知のごとく、顕正会は冨士大石寺を冠している。全国のすべての会館に冨士大石寺を冠した看板を掲げている。富士と冨士の違いが法的にどのように解釈されるのか知らないが、ともかく看板に大石寺を掲げている以上、脱大石寺は困難を極める。ましてや顕正会の歴史は大石寺との関係性の上に成り立っている。

つまり、脱大石寺は自分たちの歴史をも否定する行為なのである。

ゆえに原理的には和解の選択肢しかないのだが、そこで顕正会側として譲れないのが戒壇論なのだろう。ぶっちゃけ言えば、宗門側に頭を下げさせたい、間違っていましたと言わせたい、その上での和解じゃないと呑めない、ということなのだ。

しかし、純粋に戒壇論だけ唱えていればよかったものを、この間にはいろいろなことをやらかしてしまった。本尊複製の問題もしかり、塔婆戒名の不要論もしかり、当然、日蓮正宗としても今の顕正会をそのまま受け入れるわけには行かないのだ。

疲れた。堂々巡りの議論である。

2020/9/5

モトツマ  
種々のコメントを頂戴しているが、恐縮ながら半分ほどに絞らせていただく。

まず、久々に登場した沖浦氏からリンクの紹介を受けた。創価学会の本部幹部会である。そこで婦人部長が折伏と言っていたのが印象的だった。今も折伏という言葉が生きているのが意外だった。会長の発言ではわりと御書の引用が多かったし、御本仏・日蓮大聖人という表現も見られた。動画用に圧縮したのか、わりと短時間だったことも印象的である。顕正会の総幹部会はやたらと長いのだ。

全ての人が踏むわけではなくて大半の人は
懺悔滅罪のために戒法を持つまでは読めても
戒壇に立ち入ることは出来ないと思います


晃氏のこれが問題である。

三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず
大梵天王・帝釈等も来下して蹋給うべき戒壇なり


これも晃氏のコメントからの引用である。

あまりにも説明が短いものだから、その真意のほどはわからないのだが、言わんとしていることは戒壇と戒法は別である、ということになりそうである。しかし、なぜにそのような読み方をするのかが不明である。確かに現実的な問題としては、全人類が本門寺の戒壇に詣でることは物理的に不可能である。その意味では、戒法を受持するという考え方はかなり合理的ではある。ただし、そこで問題となるのが、では、いったいどこでどのようにして戒を受けるのか、ようするに御授戒はどうするのか、である。現状、正宗寺院で行なうわけだろう。実はそれが義の戒壇に相当するわけであって、物理的に本門寺の戒壇に詣でることが不可能であっても、実質的には何の問題も生じないのだ。

そもそもである。

大梵天王や帝釈等が来下するとはどういう意味なのかが問題である。これはきわめて難解な概念であり、一閻浮提の人々が本門寺の戒壇に詣でること以上に難しい話なのである。その意味では差し迫って心配するようなことではなく、未来の大理想として信受すればいいだけの話なのである。

さて、顕正新聞である。

元妻の幼馴染から山崎の悪臨終を聞く

女子部第七十一区長の活動報告が問題である。上掲だけではわけがわからないだろうから少し説明すると、元妻とは山崎正友氏の奥さんだった人であり、その幼馴染だった人物が正友氏の悪臨終を証言しているわけである。

なんだ、また又聞きかよ、と言いたいところだ。

いや、違う。又聞きではない。目撃した本人が証言しているのだから、又聞きとは違う。それはそうなのだが、関係性がいかにも又聞きっぽい印象であり、それゆえに証言の信憑性が疑われるのである。元妻の幼馴染? 何それ?

あえてイチャモンをつけると、編集部の見出しがダメなのだろう。元妻の幼馴染を強調するところがよくないのだ。ただ単に、正友氏の葬儀に参列した人物、と説明したほうがよかった。

いずれにしても十年以上前の話である。それゆえに記憶がアイマイになっている意味もあって、説得力に欠けるのである。

 葬儀の会場に向かうと、そこには大草一男を含め五人ほどしかおらず、祭壇もなく、柩だけが置かれていたとのことでした。

これについては妙観講のほうから反論が出されている。慧妙に葬儀の写真が掲載されているのだ。もちろんその信憑性についても検証する必要があるだろうし、もし本気で事実関係を究明しようと思えば、それは大変な作業となる。ただ言えることは、なぜに顕正会は世間一般では考えられないような非常識な報道をするのか、である。その時点でダメなのではないかと思うのだが、彼らにはまったくその自覚がないようである。恐るべき異常心理だ。

又聞き云々についてもう少しだけ書くと、ようは元妻が証言していれば話が違ったのである。繰り返しになるが、元妻の幼馴染という関係性がきわめて間接的であり、それゆえに又聞きのような錯覚を起こしたわけである。

 現在、新型コロナの感染が一時的に落ち着いたように見えたことで・・・

男子部第百四十五隊長(福島)の記事である。六月二十四日時点での発言であり、結果論ながらも正鵠を射ていると言えるだろう。

次は婦人部坂戸支区班長(首都圏)の記事である。

 私はレンタカーを借りて出向きましたが、あくまでも私との接触は避けたいとのことで・・・

大幅に端折って恐縮だが、ようは沖縄での折伏についてである。本人は首都圏の人間であり、折伏の対象者が感染の危険があるから会いたくないと言っているわけなのだ。

これも結果論ながら、この後の感染状況を見れば、思い半ばに過ぎるものがある。沖縄も感染者が激増したのだ。この点、顕正会員は何も感じないのだろうか?

ちなみに、これは政府の打ち出したGoToトラベルキャンペーンが原因との説がもっぱらであり、コロナ対応に関して失敗の連続だった安倍政権もついに幕を閉じることとなった。

個人の宗教団体に入会・・・

婦人部富士支区(静岡)の人が上掲のようなことを言っている。語義的にはどうかと思うところだが、いかがだろうか?

 ある日の晩、同い年くらいの女性二人組に話しかけられ、田舎者の二十歳で右も左もわからなかった私は・・・

この発表者は所属が書いておらず、名前の下には次のような表記がある。

(婦人部富岡支区の紹介で入信・群馬)

いわゆる男性婦人部員である。それはともかく、女性二人組に話し掛けられ真光に入会した、というのが前掲である。ハタから見れば、顕正会もまったく同じだろう。

もう一人、(女子部第三十一区の紹介で入会・首都圏)という男性女子部員がいて、その名前が大海原を意味する立派な名前であり、西城秀樹とも共演したことがあると書かれていて興味深いのだが、細かい話は省略しよう。

泰山木

これも端折って恐縮だが、タイサンボクなのかタイザンボクなのか、どちらでもいいのか、よくわからないのだが、いずれにしてもわたくしは名前と実物がほとんど一致しないタイプの人間である。この花も名前はおおよそ知っていたものの、クイズで出されたら当たらなかっただろう。

2020/9/4

キョウリョウ  
大沢氏から引き続きコメントを頂戴しているが、今日のところは簡単に片付けさせていただく。

圧力団体云々は批判が出るだろうことを承知で書いた。大沢氏からではなく、むしろ創価学会系の人物が何かしら苦情を言ってくるのではないかと予想していたわけだが、現状、拙ブログにコメントする物好きはそう多くないようである。

ともかくである。第一回目の宗門諫暁書には創価学会批判が書かれていて、結果を見ればそれらは的を射ていたことになる。また、表立って発言はしなかったものの、旧来の法華講員たちから見ても創価学会の傍若無人ぶりは明らかだった。これらの事情をすべてひっくるめて圧力団体と書いたわけだが、それと同時に、実は浅井先生にしても創価学会の功績を認める発言を残しているのである。

つまり、話は簡単ではないのだ。教義上の問題にしても、いわば論者ごとの視点でいくらでも結論が違ってくるわけである。

さて、晃氏からは総括的なコメントを頂戴した。

戒壇とは、戒法を保つ僧侶社会のことですね
これは以前、巌虎さんと話した通りです

俳壇は俳句を読む人の社会
文壇は文豪の社会…

そしてこう読むときに、本尊 題目 戒壇で
仏 法 僧 が対応してることに気がつくと思います


これは音声入力なのだろうか? だとすれば、便利な世の中になったものである。

社会は世界と言い換えてもよさそうである。上掲は特定の場所だとか建物を意味するのではなく、構成人員が作り出す空間を示唆しているのだと思う。そこには物理的な境界線があるわけではないが、関係者以外には入っては行けない雰囲気がある。敷居が高いという表現もわりと近いかもしれない。

言わずもがなのことだが、晃氏が例示したものはすべて理壇を意味している。冒頭の僧侶社会もしかりである。

ところが大聖人は三国並びに一閻浮提の人ないし天上界の衆生が踏むべき戒壇と仰せあそばしている。これが事壇であることは論を俟たない。

なお、三大秘法と三宝との関係性については、わたくし自身も上掲のような思索をたびたび繰り返してきたものの、結論には至っていないのが現状である。

では通常運転に戻って、顕正新聞第1514号の続きを見て行こう。

池上本門寺に立ち寄り僧侶を破折・・・

第八婦人部長(首都圏)の活動報告である。婦人部独自で僧侶を破折するとは勇ましい。と言うのは、近年の傾向として正宗の僧侶が婦人部員や女子部員に絡んでくるのを振り払うために、しばしば教学委員が派遣されているからである。教学委員はほぼ全員が男子部所属のツワモノであり、カヨワイ女性会員を守るために全国各地で活躍している様子が、顕正新聞にもかなりの頻度で掲載されている。してみると、既成仏教が形骸化しているのは事実なのだろう。池上本門寺に僧侶が何人いるのか知らないが、その大半は教学をあまり学んでいない。ゆえに顕正会の活動会員が来ると対応し切れないのだろう。

 八丈島の広告文折込みの際、毎回、新聞を取っていない二百軒までも配達してくれる配達所の社長・・・

第八婦人部には八丈島在住の班長がいて、すでに十一回も新聞に折り込み広告を入れているそうである。現状、この費用は組織の有志で都合しているらしい。もちろん自分たちで勝手にやっていることだから、文句を言う筋合いではないのかもしれない。ただこれも本部のほうで何かしらのガイドラインを設けるべきだろう。何しろ顕正会はお金が掛からないのをウリにしている団体だからである。

さらに余計なことを書くと、今の顕正会の若者たちは新聞を取っているのだろうか?

例えば男子部女子部の四十歳未満を対象に聞きたい。一般紙を定期購読しているのかどうかである。わたくしの狭い見聞では今の若い人たちは新聞を取らない人のほうが多いらしいのである。この意味からすると、もはや新聞の折り込み広告は古い手法であって、あまり効果を期待できないと思われるのである。この点も含めて、本部として何らかの方針を示す必要があるはずなのだ。

 このたび婦人部からの要請を受け・・・

ちょうど真下の記事がこれだった。男子部第十五総部長(九州)は教学委員にも任命されている。そこで婦人部の要請を受けて鹿児島県霧島市の宗門末寺住職と法論をしたそうである。

 私が「正本堂訓諭より後に御遺命破壊の言辞があったらどうするか」と釘を刺したうえで・・・

以前も書いたように、これはあまりよろしくないと思う。このようなヤクザっぽい手法を使っているうちは、ダメなのだ。

ただ同時に、宗門側にも問題がある。

ようは自分たちの過ちを小さく小さく見せようとしている点がいけないのである。極論すれば、妙信講が正しかった、と言ってしまえば話はすぐに終わるのである。ただし、今の顕正会はおかしい、と付け加えることも必要である。

ここからが重要である。

これに対して顕正会側がどのように反応するかが問題である。おそらくは激昂するだろうし、自分たちの間違いを認めないはずなのだ。つまり、ここまで議論すれば顕正会の負けになる。宗門は正直に自分たちの間違いを認めた。対する顕正会は絶対に認めない。いや、もちろん、顕正会が完璧であって、何一つ間違っていないとすれば話は違ってくるわけだが、そうではないだろう。今や間違いだらけである。

 ついにはこの追及から逃れようと、顕正会の御本尊を誹謗してきたので・・・

顕正会の本尊複製疑惑である。

ここが間違いの最たる部分だろう。現状、この件でもヤクザっぽい対応をしている。ようは証拠があるなら持ってこい的な啖呵の切り方で誤魔化しているのである。

本筋的には時の御法主上人からたまわるべき、それが在家教団のあるべき姿だろう。ゆえに今からでも宗門に対して本尊下付願いを提出すればいいのである。そこで信徒以外には下付しないと言われたら、顕正会員全員で末寺に押し掛けて入信を願い出ればいいのである。そこで拒否されたら、日蓮正宗はなんと狭量な宗派なのか、ということになる。

かなり荒唐無稽なことを書いているとは思うものの、半分くらいは本気である。

つまり、ここから見えてくるものは顕正会の独立教団路線である。何しろ浅井先生の大師子吼というフレーズがまかり通るくらいなのである。大聖人より偉くなっちゃっているのだから、もはや御法主上人など眼中にないのだろう。

今日はここまでにしたい。


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