2020/9/16

カイチュウ  
晃氏の問題意識は貴重である。しかしながら前回分のコメント欄はすでに投稿数が膨大を極め、議論も流動的になってしまって最初の頃の重要な視点論点が埋没してしまっている。そこでわたくしなりの見解を書いておこうと思う。

いわゆる種脱相対は秘奥の法門であり、生半可な教学では立ち入れない領域である。

たぶん日蓮正宗でも顕正会でも過程をすっ飛ばして結論だけを学んでいる人が多くいると思う。そういう人が日蓮宗系の論客と法論すれば苦戦を強いられることになる。

そこでズルいようだがわたくしの結論は、ことさらに大聖人と釈尊の勝劣を云々しない、あくまで大曼荼羅信仰に収斂させる、ということになる。

一尊四士の人たちはこれで退けることができる。一塔両尊四士の人たちには、そんなものを造立するよりも大聖人のあらわされた御曼荼羅を拝んじゃったほうが早いでしょうに、と申し上げる。すると数多の御真筆御本尊の中でどれを選ぶべきかの問題になるが、わたくしの個人的な意見としてはどれでもいいと思う。

ここで顕正会からは除名が確実であるし、日蓮正宗からも敬遠されることになるのかもしれない。

しかし、よく考えてみれば釈尊像だとかその他のわけのわからない仏像を拝むのではなく、大聖人の御真筆御本尊を拝んでいる時点で、その人の信仰心は相当のものなのだ。

唯一、問題となるのが戒壇の大御本尊に対抗するために他の御真筆御本尊を持ち出すヤカラだちであり、それこそまさしく邪智謗法のヤカラと言わざるを得ないだろう。

話を戻そう。

大聖人と釈尊の勝劣には触れないと書いたのは、すでに大聖人の御真筆御本尊を拝んでいる時点で一定の結論が出ているからでもある。法華の深意として、古今能所不二という法門がある。つまり、釈尊と上行は師弟関係にあるわけだが、それが真逆になっても少しもおかしくないのだ。御本尊の相貌を相撲の番付になぞらえると、釈迦多宝が二横綱であり、四菩薩はさながら四大関となる。横綱と大関の序列は言わずもがなである。ところが一方で、主題の直下に日蓮在御判とあって、これが人法体一を意味するものとされている。

つまり、見る角度によって見え方が異なる。ゆえに、さまざまの意見が出てくる。そこでゴチャゴチャと難しい話をするのではなく、ズバッと大曼荼羅信仰に収斂させる。これで話は決着がつく。

晃氏の久遠実成と久遠元初についての視点は、なかなかの鋭さである。また無始無終もしかりである。

ただし、これは運用上の問題ではなく、概念上の議論に過ぎない。ゆえに大曼荼羅信仰という結論が確定している人にとってはどうでもいい話である。

つまり、マニアックな議論である。もちろん、この手の議論が好きな人にとっては、知的好奇心をくすぐる絶好のテーマと言えるだろう。

わたくしの知るところでは、釈尊と大聖人との関係性ではなく、法華経と大日経の関係性すなわち勝劣が、重要な論点なのだと思う。

随他の本門、随自の本門

今此三界合文に引用されている懐中という謎の文献には、上掲のような分類がある。通常、権実相対の上から言えば、法華経を随自意とし、爾前経を随他意とする。本迹相対でそのような言い方をするかどうか知らないが、あえて当てはめれば本門が随自意で迹門は随他意となる。ここまではいちおう異論のないところである。

ところが懐中では、まるで種脱相対のような立て分けが行なわれているのだ。

とは言え、当該御書には大聖人と釈尊の関係性を云々するところはどこにも存在しないし、それを匂わすような記述も存在しない。むしろ雰囲気的には釈尊と大日如来の勝劣を云々していると読めるのだ。

ご存知のごとく、大聖人の真言批判は御化導の初期にはあまり見られず、後期になるほど顕著となる。ところが後期における真言批判には懐中の引用が見られない。この点をどのように考えるべきかが悩ましい。

現時点でのわたくしの結論は、概念上の批判ではなく具体的な事例を示しての真言批判、これが大聖人の採られた戦略なのだろうと思う。

慣れないことを書いて疲れた。


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